「奇想天外の巨人」南方熊楠(1)

 「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」  (柳田國男)

 5月18日のグーグルトップ、「南方熊楠生誕145周年」ロゴでした。
 明治以降の近代日本において、各分野で「知の巨人」と讃えられた人物が多く現われました。一般的な知名度はないものの、南方熊楠(みなかた・くまぐす)はその中でもずば抜けた知の巨人、タイトルのように桁違いな「奇想天外の巨人」と形容してもいい人物です。

 私は20代後半の頃、ある人から「南方熊楠は凄いぞ」と初めて聞かされました。以来その名前はしっかり刻まれたものの、(一時交流のあった)民俗学の柳田國男(やなぎた・くにお)ほどポピュラーな人物ではないだけに、これまで南方の人物像や業績に深く迫ったことはありませんでした。
 グーグル“変わりロゴ”の良さは、これによって日ごろさぼど関心のない優れた先人、偉人たちについて見直すきっかけを与えてくれることです。

 というわけで、今回は南方熊楠を取り上げてみたいと思います。ただ限られた記事内で、この型破り、破天荒かつ業績が多方面に及ぶ天才の全貌を明らかにすることはとてできません。ほんの“さわり”にすぎませんが、これを契機として私自身の「南方熊楠探求」のとっかかりになれば、と考えます。

 南方熊楠は今回のロゴ図案にあったように、キノコなどの粘菌の世界的研究者として知られていますが、南方の業績は単なる菌類学者にとどまるものではありません。ざっと列挙してみれば、博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者…。
 とにかく熊楠の場合、学問上の敷居などやすやすと飛び越えた驚くべき「学際者」だったのです。そんな熊楠についた呼称は「歩く百科辞典」です。

 南方熊楠は明治維新前夜の1867年5月18日(慶応3年4月15日)、和歌山城下の金物・雑貨商の次男として生まれました。子どもの頃から驚異的な記憶力を持つ神童だったようです。またその頃から常軌を逸した読書家で、興味のあることには神がかり的な集中力を発揮したといいます。
 その一例として、小学生の時近所の蔵書家を訪ね、当時の百科辞典『和漢三才図絵』(全105冊)を見せてもらい、内容を記憶して、家に帰ってから書写し、5年がかりで全冊を図入りで写本してしまったというのです。
 その他12歳までに、『本草綱目』『諸国名所図絵』『大和本草』などを書写し終えています。

 和歌山中学(現和歌山県立桐蔭高校)時代、教師の鳥山啓(後に行進曲『軍艦』-『軍艦マーチ』を作詞)から博物学を勧められ、薫陶を受けています。
 1883年(明治16年)同中学校を卒業し上京、神田の共立学校(現開成高校)に入学しました。同時の同学校のようすは、NHKドラマスペシャル『坂の上の雲』で活写されていました。だから熊楠は、当時ここで英語の教師をしていた後の「ダルマ宰相」高橋是清の名物授業も受けたのです。
 この頃、世界的な植物学者バークレーが菌類6000点を集めたことを知り、それ以上の標本を採集し、図譜を作ることを思い立ちます。

 翌1884年(明治17年)大学予備門(現東京大学)に入学。何と夏目漱石、正岡子規、秋山真之らとは同期だったというのです。
 (おそらく漱石や子規以上の)天才児だった熊楠は、級友たちが血反吐を吐いて猛勉強しているのを尻目に「こんな事で、一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」とうそぶき、学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れます。また上野の国立博物館、動物園、植物園に大感激し、大学そっちのけで通っています。
 結局それらがたたって成績は急降下、1886年(明治19年)中間試験に落第し「ちょうどいい機会だ」と予備門を中退し、和歌山へ帰郷し両親をびっくりさせました。

 実家に戻った熊楠は、「学問はアメリカの方が先を行っています」と父に渡米の意義を力説しました。しかし当時は海外渡航は永遠の別れも同然と思われていた時代です。「無茶を言うな」と大反対されます。
 それでも熊楠はあきらめず、8ヶ月にわたって熱弁を奮い説得し続け、遂に父親も根負けして「ならば行って来い !」と言うしかなくなりました。

 後に予備門の学友だった秋山真之は海軍士官として米国や英国などに、また夏目漱石は英国に官費留学していきました。しかし当時19歳だった南方熊楠は、国家の援助も、何の成算もなしの無手勝流で、1887年(明治20年)1月神戸港から単身出航していったのです。
 何とも恐れ入った行動力、旺盛な知的探究心、米国人顔負けの「明治の群像の一人」のフロンティア・スピリットではないでしょうか。  (以下次回につづく)

 (注記)本記事は1回だけでまとめようと思っていましたが、とてもまとめ切れません。そこで今後何回かのシリーズとします。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

関連記事
『「坂の上の雲・第2回」を観て』
 http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-d002.html

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フォレスタの「かなりや」

 -「歌を忘れたかなりや」とは何か?ある事に思い至って涙がどっと溢れてきた-

 この歌は大正7年10月童話雑誌『赤い鳥』に発表された作品です。作詞したのは詩人の西條八十(さいじょう・やそ)。この年の7月『赤い鳥』は鈴木三重吉によって創刊されたばかりでした。
 『かなりや』を作詞した時、西條八十は26歳の気鋭の詩人でした。西條がなぜ創刊間もない『赤い鳥』に童謡を発表することになったのか。その辺のいきさつを後に西條自身が述べています。

 「私は今更のようにあの(大正7年の)夏の日の午后、鈴木三重吉氏が突然未見の私を神田の裏街の仮寓に訪れられて、熱心な言葉を以って、『赤い鳥』のために童謡を書くことを慫慂(しょうよう)された時の印象をまざまざしく懐かしく想い起こす。」(大正10年1月刊童謡集『鸚鵡と時計』序より)

 「子どものために、子どもの言葉で、文学的な童謡を書く」という発想が、『赤い鳥』創刊者の鈴木三重吉自身にまずあったのです。その目的のために三重吉は、「新しい童謡の創作者」として、当時最も才能豊かな詩人だった北原白秋、西條八十の二人に白羽の矢を立て慫慂(協力要請)したのです。

 以上は『赤い鳥傑作集』(新潮文庫)巻末の、與田準一による『「赤い鳥」の童謡について』という一文に拠(よ)るものです。自身も童謡作家だった與田準一は続けて、
 「もっとも素質的な詩人、北原白秋と西條八十に、その制作を慫慂したことを、わたくしは、貴重な史的事件として、特記したい。」と述べています。

 鈴木三重吉の慫慂に同意して、『赤い鳥』三号に早速北原白秋の『雨』と西條八十の『忘れた薔薇』が載ることになりました。そして同誌五号に、記念碑的童謡『かなりや』が発表されたのです。
 以前の『「赤い鳥」運動について』でも触れましたが、当初は三重吉にも北原、西條にも、これらの童謡に旋律をつけるという考えはありませんでした。しかし翌年の五月号に成田為三が作曲した楽譜付きの『かなりや』を再掲載したところ大反響を呼び、同誌は音楽運動としての様相さえみせるようになっていったのです。

 ほどなく『雨』にも旋律が付けられ(大正8年10月、作曲:成田為三)、こちらも大変な反響を呼びました。思えば『かなりや』と『雨』の二つの童謡が、その後の童謡作家たちに与えた影響は測り知れないものがあります。
 極論すれば、仮にこの二大童謡無かりせば、今日私たちが親しんでいる数々の名童謡もまた生まれていなかったかもしれないのです。

 ここからは、あるサイトで見つけた、『かなりや』が生まれるきっかけとなったエピソードをほぼそのままご紹介します。

 東京牛込生まれ(明治25年)の西條八十は幼い日、教会のクリスマスに連れて行かれた夜のことを思い出して『かなりや』の着想を得たというのです。
 会堂内に華やかに灯されていた電灯の中で、彼の頭上の電灯が一つだけポツンと消えていたのだそうです。その時、幼き心に「百禽(ももどり)がそろって楽しげに囀っている中に、ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥であるような感じがしみじみとしてきた」と言います。(引用終わり)

 西條八十は、幼時から常人離れした連想力の持ち主だったことをうかがわせるエピソードです。幼時の思い出の「ポツンと消えた一個の電灯」が、「金糸雀(かなりや)」というメルヘンチックな小鳥に見事に姿を変えたのです。
 西條八十という才能豊かな詩人の「発想の秘密」を垣間見る思いです。

 『忘れた薔薇』『かなりや』という二つの童謡を創刊間もない『赤い鳥』に発表したことについて、西條は前掲書序でまた次のように述べています。

 「(二つの童謡は)偶然にも自分が真の詩の精神へ復帰する機縁を作ることになった。この意味に於(おい)て鈴木三重吉氏は私の恩人である。尠(すくな)くとも『歌を忘れた』この哀れなかなりやを優しい繊手に労(いたわ)って、象牙の舟と銀の櫂(かい)を添え、月夜の海に浮かべてくれた忘(ぼう)じ難き恩人である。」

 『赤い鳥傑作集』収録の『かなりや』は、一聯から四聯まではっきり分かれています。だから童謡『かなりや』も、短いながら一番から四番までの歌とみていいのでしょう。
 歌を歌うことが“本職”であるはずのかなりやが歌を忘れてしまったからには、もう役立たずな無用の長物にすぎません。だから一番から三番までは、世間一般が為すであろう仕打ちを詩的に表現しています。
 しかし優しい心の持ち主である詩人は、それぞれの後に「いえいえ、それはなりませぬ」「それはかわいそう」と付け加えることを忘れません。

 「それじゃあ、役立たずのかなりや、どうすればいいの?」
 「銀の櫂がついた象牙の舟に乗せて、月夜の海に浮かべよ」。そうすればきっと「忘れた歌を思い出す」と言うのです。
 この童謡の生命線は実にこの四番にあると思われます。これあるがゆえ、不朽の名童謡たり得てたのではないでしょうか。

 「歌を忘れたかなりや」とは一体何の象徴でしょうか。まずもって「真の詩精神」を忘れていた西條八十自身です。
 しかしそれは同時に、近年のヒット曲を借りて言えば「♪翼の折れたエンジェル みんな飛べないエンジェル」ではないけれど、これをお読みのお一人お一人そしてこれを書いている私、つまり人間全体を指すとみていいのではないでしょうか。

 「歌を忘れた」ように至らぬことの多いのが私たち人間です。なのにもったいなくも、象牙の舟に銀の櫂で月夜の海に浮かべて荘厳(しょうごん)してくださる、というのです。何と言う「救いの童謡」なのでしょうか。

【追記】
 肝心の「女声フォレスタ」について述べるスペースがなくなりました。小笠原優子さん、矢野聡子さん、中安千晶さん、白石佐和子さん。一言で言って素晴らしいハーモニーの『かなりや』です。特に美貌の小笠原さんの2番独唱がいいですね。
 彼女たちが今こうして歌ってくれたことによって、この歌、さらにこの先もずっと歌い継がれていくことを切に望みたいものです。

 (大場光太郎・記)

『フォレスタ-かなりや』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=aPOX4zBUqPI
参考・引用
『赤い鳥傑作集』(新潮文庫-現在は絶版)
サイト『心に響く聖書の言葉』-「歌を忘れたカナリア」
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/kokoro312.htm
関連記事
『「赤い鳥」運動について
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4908.html
『「雨」-哀愁ただよう童謡』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_d860.html
『「浜千鳥」-この歌の悲しさの源泉とは?』(『かなりや』の強い影響が感じられます。)
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_e448.html

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アリアドネの糸(4)

 アテネ王子テセウスとクレタ王女アリアドネは、クレタ島を離れ船上の人となり、アテネに向かって北上していきました。何しろ怪物ミノタウロスを退治した上、ラビリントスという大迷宮を無事脱出できたのです。
 並みのハリウッド映画ならこれで「ハッピー、ハッピー」、市民の歓呼の声に迎えられて二人そろってアテネに凱旋してジ・エンドのはずです。

 しかし神話では、北上途中航路を少し東に寄せてナクソス島に立ち寄ったことが、アリアドネの運命を決定的に狂わせてしまうことになりました。そのまま真直ぐ北上し続けた方が近道だったはずですが、テセウスは「ナクソス島に立ち寄った方がいい」と考えたのでしょうか。

 ナクソス島は「ディオニュソス神」の住む島なのでした。ディオニュソスは別名を「バッカス」と言い、酒と収穫の神様として知られています。大神ゼウスの息子ですが、初めはオリンポス十二神の中に加えられず、その性格はさながら酒に酔った時のように凶暴で、衝動的で、理性よりも感情の赴くままに行動する神として描かれています。
 19世紀を代表する哲学者のニーチェは、人間に芸術的意欲を起こさせる原動力として、陶酔的、激情的、衝動的なディオニュソスタイプと、調和を重んじて理性的、知的なアポロンタイプに分類しました。これは神話的伝説を根拠としたものです。
 このようなディオニュソスの性格が遺憾なく発揮されたのが、以下の物語です。

 ディオニュソス自身が冒険的であり、多分に反逆児としての側面を有していましたから、逃走中のテセウス一行を快く宮殿に迎えました。何せ「酒の神」なのですから、早速豪勢な大酒宴が催されました。
 客人に勧めるとともに、ディオニュソス自身もグイグイ酒をあおります。宴が進むにつれて、酒癖と女癖の悪いディオニュソスの眼が隠靡に輝き始めます。その対象はもちろん美貌の王女アリアドネ。彼女の唇に、胸に、太ももに、なめるようにまとわりつくように好色な視線を注いだのです。
 「おかしいわ、この人」
 正確には「この神様」と言うべきか。いずれにせよ、アリアドネもいやらしいセクハラ目線に気がつきました。

 酒宴がお開きとなり、テセウスとアリアドネはようやく寝所で臥すことができました。旅の疲れと深酒で、さしもの勇者も早々と深い眠りに落ちました。アリアドネもうつらうつらまどろみかけました。
 酒の席でのディオニュソスの視線が何となく気にはなりましたが、このままぐっすり熟睡して目が覚めれば、あしたの朝早くにはこの島を離れアテネにぐっと近づけるのです。

 とその時、誰かがアリアドネの体をまさぐったのです。「えっ?」と思って傍らのテセウスを見ると熟睡中で身動き一つしていません。
 「じゃあ誰、誰なの?」
 アリアドネはハッとなって、途端に眼が覚めてしまいました。
 酒くさい息、脂ぎった体臭、そして荒々しい愛撫。あろうことか大事な客人カップルの寝所に入り込み、エロ大神のDNAをストレートに受け継いだディオニュソス神の陵辱が始まったのです。

 抵抗してもがいても衣装はみるみるうに剥ぎ取られ、アリアドネのもぎたてのようなみずみずしい体が露わになっていくばかりです。つまりは全裸にされ、野性的な神の体が覆いかぶさってきます。
 頼みのテセウスはどんな物音でも起きないほどの爆睡です。逃げようにもディオニュソスがしっかり手首を押さえているため、か弱い女の力ではどうすることもできません。
 アリアドネとは「とりわけ潔らかに聖い娘」を意味しますが、こうしてアリアドネは、夜が白むまで何度も犯され続けたのでした。

 さらに問題なのは出航時です。つれないことにテセウスは、アリアドネを乗船させることなく出航していったのです。
 これは夜が明けてから、ディオニュソスとテセウスとの間で「取り決め」があったことを意味しています。
 「実はなあ、お前が寝ている間に、お姫様をちょいと抱かせてもらっぞ」
 ディオニュソスは悪びれもせずこう言ってから、
 「まあまあ、そう怒るなって。ものは相談だが、あの女をここに置いていけ。そうすればこれからはお前の守護神になってやろうじゃないか」

 何せ相手は名にしおう凶暴神です。それに力強い神の加護を受けるのと、恨みを買うのとでは、その後の人生大違いです。つまりはテセウスはその話を承諾したのです。
 アリアドネがテセウスを愛していたほど、テセウスはアリアドネを愛していなかったのか。それとも色恋よりも功利面を取る現実家だったのか。ミノタウロスを打ち負かした勇者も、なぜかディオニュソスの前では弱気だったのです。

 ラビリントス脱出には絶大な効力のあった糸玉でしたが、予期せぬ運命に翻弄され、アリアドネとテセウスを繋ぐ見えざる「運命の糸」は突如プツリと断ち切られてしまいました。遠ざかっていく船の影を、アリアドネはどんな想いで見ていたのでしょうか。
 アリアドネの記録はここで途絶えています。その後ディオニュソスの寵愛を受け続けたのならまだ救いもあります。が、むしろこの島で、自分を置いて去っていった恋人のことを想いながら薄幸な命を閉じた可能性の方が高そうです。

 悲運の王女の物語は後世の芸術家に霊感を与えたらしく、「悲しみのアリアドネ」を題材とした近代西洋絵画、彫刻、オペラ音楽などが創作されています。  (クレタ島物語のうち「アリアドネの糸」完)

【注記】クレタ島脱出後のアリアドネについては諸説ありますが、ここでは阿刀田高著『ギリシャ神話を知っていますか』(新潮文庫)を下敷きにまとめました。

 (大場光太郎・記)

参考
Do As Infinity『アリアドネの糸』(YouTube動画)
http://www.youtube.com/watch?v=GKkC3OhnakY
関連記事
ギリシャ神話選
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/cat41440534/index.html

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「自動操縦装置」で生きるなかれ

 久しぶりの「スピリチュアル情報」です。この一文はまずもって、私自身への自戒を込めて記しています。

 「自動操縦装置で生きるな」。このメッセージは、アセンデットマスターのエル・モリヤ大師によって「シャスタ山の住まい」からもたらされたものです。正確な時期は不明ですが、今から10年前後前とみていいのではないでしょうか。
 エル・モリヤ大師とは「スピリチュアル・ハイラーキー(霊的聖師団)」の主要マスターの一人で、「聖なる意志と力」の第一光線のマスターです。

 産業革命によって唯物主義への拍車がかかりかけた19世紀後半、それに待ったをかけるように欧米でさまざまな心霊運動が興りました。その中心となったのが、ブラバッキー夫人(1831年~1891年)による「神智学」でした。これは今日のニューエイジムーブメントの源流といっていいものです。
 当時「ヒマラヤの住まい」にあって、(第二光線のマスター)クートフーミ大師とともにテレパシーによって、ロシア貴族出身のブラバッキー夫人に啓示を与えたのがエル・モリヤ大師だと言われているのです。

 両大師は東洋的な容貌ですが、20世紀末の1998年、従前の東洋の精神性と西洋の物質性の役割の逆転が起こったと言われています。そういうこともあってか、エル・モリヤ大師は現在では(米国西部の聖山)シャスタ山に居を構えているようなのです。(ただし日本の「霊的中府」としての役割は変わりません。)
 もっともエル・モリヤ大師をはじめとした光のマスターには、3次元的な物質的制約は何の意味も持ちません。既に本住は「光の領域」にあるわけですから、地球上のどこへも瞬時に物質的な体を現すことが可能なのです。

 今回のメッセージは(シャスタ山下の地中都市)テロスの神官アダマのメッセージを引き継ぐ形で、『レムリアの真実』の著者オルレア・ルイーズ・ジョーンズ女史に与えられたものです。この本のほかにも『超シャンバラ』にもほぼ同じ内容が掲載されています。
 本当はメッセージ全文を掲げたいところですが、著作権法の関係でそれはできません。それに、ある一定レベル以上のスピリチュアル知識がないと理解できない内容です。
 そこで今回は、このメッセージの大テーマである「自動操縦装置」に絞って以下で考えてみます。

 「自動操縦装置」状態。これはスピリチュアル(霊的)にまったく無知な状態で生きることを意味しています。言わば「霊的眠り」に陥った、我が国の言葉で言えば「酔生夢死」、さらに言えば禅家の言う「顚動夢想」の状態です。
 自分が「本当は」何者なのか、何の目的でこの世に生きているのか、どこに向かっているのか、皆目分かっていない状態です。また特にそれを「知りたい」とも思っていません。
 こういう状態では意識や思考はしっかりした方向性を持たず、マインドとハートは四方に撒き散らされ、定めなくただ何となくその日その日の日常を過ごしている「霊的その日暮らし」状態です。

 エル・モリヤ大師(それにテロスのアダマ)は、「時が迫っているからこういう生き方ではいけませんよ」と言うのです。そして厳しいことに、私たち人類の多くがいまだこういう自動操縦装置状態で生きているということです。
 そのためこのメッセージは、私たちへの「ウェークアップコール」の役割を込めたもののようです。

 「我々は日常生活に埋没することの恐ろしさを知らなければならない」

 スピリチュアルハイラーキーと関係のある人なのかどうか、これはかなり前の我が国のある霊的リーダーの言葉です。自動操縦装置の例えで言わんとしていることは、つまりはそういうことなのだろうと思われます。
 私たちは知らず知らずのうちに、日常生活にどっぷりはまり込んでいて、物質性にがんじがらめにされていながら「これが当たり前」とマンネリ状態で生きています。言わば「肉体の自分」から一歩も出ない、無意識的、惰性的なロボット状態の生と言えると思います。

 このメッセージでは「時が迫っている」と繰り返し強調されています。だから「あなた方にはもはや油を売っている時間はありません」。
 マヤ暦の終わりの日とされる「2012年12月22日」が大きな節目なのかは分かりません。がこれは、スピリチュアル・ハイラーキーが「ガイアアセンション」(地球全体の次元上昇)というタイムスケジュールを見据えているからに他ならないと思います。

 自動操縦装置の生き方から抜け出るための第一の関門は、「自分のエゴを喜んで神に投げ出すこと」だそうです。裏を返せば小っぽくさい「エゴ」を後生大事に抱えている限り自動操縦装置からは抜け出せない、したがって真の霊的進化の道には一歩も進めないということです。

 エル・モリヤ大師が示してくれた、エゴから脱却した「霊的眠りからの目覚め」とは次のような状態です。
 ○私たちという存在のあらゆる面において、「愛の概念」によって生活すること
 ○神に対する(既成宗教的な)先入観や恐れをすべて消し去ること
 ○生活のあらゆる面で霊的な法則を適用し始めること
 ○受け入れ拒否をしている「霊的真実」を快く受け入れること
 ○考え、発言、行動のすべてを「愛をもって」出来るようになること

 ここで言う「愛」とは、自己愛(先ずもって自己を真実愛せなければ他人を愛することは出来ない。エゴとはまったく違う)であり、神への愛であり、隣人愛であり、地球への愛であり、動植物など地球上のすべての王国への愛ということです。
 こういう完全な愛をもって行動できるようになると、今すぐにも「自分自身が神」になるそうです。そしてアセンションのプロセスにおいて、「愛」こそが唯一の近道で、最大のキーだといいます。

 非常に難しいですね。しかし時に愛にもとる行為があったとしても、反省しつつうまずたゆまず、この光の道に向かって歩んでいきたいものです。この地球こそが壮大な「クオレ(愛の学校)」なのですから。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『レムリアの真実』(オレリア・ルイーズ・ジョーンズ著、片岡佳子訳、太陽出版刊)
『超シャンバラ』(ダイアン・ロビンス著、ケイ・ミズモリ訳、徳間書店刊)
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『アセンション情報』カテゴリー
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みづいろの風

             大手 拓次

 かぜよ、 
 松林をぬけてくる 五月の風よ、 
 うすみどりの風よ、 
 そよかぜよ、そよかぜよ、ねむりの風よ、 
 わたしの髪を なよなよとする風よ、 
 わたしの手を わたしの足を 
 そして夢におぼれるわたしの心を 
 みづいろの ひかりのなかに 覚まさせる風よ、 
 かなしみとさびしさを 
 ひとつひとつに消してゆく風よ、 
 やはらかい うまれたばかりの銀色の風よ、 
 かぜよ、かぜよ、 
 かろくうづまく さやさやとした海辺の風よ、 
 風はおまへの手のやうに しろく つめたく 
 薔薇の花びらのかげのやうに ふくよかに 
 ゆれてゐる ゆれてゐる、 
 わたしの あはいまどろみのうへに。

…… * …… * …… * …… * …… * ……

 大手拓次(おおて・たくじ) 1887年(明治20年)群馬県碓氷郡上磯部村(現安中市)生まれの詩人。1907年早稲田大学文学部英文科に入学、この頃より詩作を始める。1912年同大学卒業。その後しばらくは詩作のほかこれといった仕事をせず、貧窮に甘んじる。1916年ライオン歯磨本舗に就職し、以後サラリーマンと詩人の二重生活を続けた。さまざまな病気で通院、入院を繰り返し、1933年(昭和8年)結核で亡くなった。享年46歳。
 詩集『藍色の蟇』、詩画集『蛇の花嫁』、訳詩集『異国の香』。1943年遺稿集『日記と手紙』が刊行され、戦後角川書店、岩波書店など多くの出版社から『大手拓次詩集』が刊行された。 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

《私の鑑賞ノート》
 風薫る五月、吹く風は一年中で一番爽やかで心地よい風です。私が知る限りでは、そんな「五月の風」の代表的な詩がこの詩だと思います。五月の風が、大手拓次という詩人によって見事に詩化され、この詩全体に吹きわたっているような印象です。

 この「みづいろの風」は海辺をわたる風です。さて詩人は海辺でどんな態勢でこの風を受け止めているのか。一箇所に佇んでいるのか、歩いているのか、座っているのか、仔細には分かりません。
 ただ「ねむりの風よ」「夢におぼれるわたしの心を…覚まさせる風よ」「わたしの あはいまどろみ」などの詩句から、海辺のどこかに座って心地よい風を受けているのではないかと思われます。

 この詩は処女詩集『藍色の蟇』に収録されています。同詩集は1912年刊ですから、大学卒業前後定職についていなかった時期に当たります。そういうモラトリアムな気分がこの詩にも反映されている、といっていいのかもしれません。

 この時の詩人は、まさに「まどろみ」の状態にあるようです。今風の用語では脳波が「ミッドアルファ波状態」ということになるのでしょうか。世間の煩わしさは一切シャットアウトされ、海辺の景観と一体化し、五月の「みづいろの風」と直(じか)に触れ合っている心的状態と形容してよさそうです。

 そよ吹く風の幽(かす)かな音、松林のざわめき、潮の音(しおのね)…。自然界のすべては「1/f ゆらぎ」となって、詩人をゆったりやわらかく包み込んでいます。このようなまったき受容状態にある時、優れた詩は生まれるのでしょう。
 全編に散りばめられている卓抜な修飾語や比喩が、そのことを物語っているようです。

 (大場光太郎・記)

参考
大手拓次『藍色の蟇』の各詩
http://2style.net/misa/fuguruma/ote/ote.html

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世紀の発見が「呪い」を呼んだ?

 
 先日5月9日、またグーグルトップが“変わりロゴ”になりました。小さな神殿に寄りかかるようにファラオの柩のような物があります。その近くにはトート神だかアヌピス神だかの神像も立っています。その手前でこちらに背を向けた外国人紳士がそれらを見ている、というような図柄です。
 一見して「エジプト探検」に関係があるらしいものの「誰の生誕記念」か全く分かりません。そこで同ロゴにカーソルを当ててみたところ、「ハワード・カーター生誕138年」と出ていました。

 『ウィキペディア』で、ハワード・カーター(1874年5月9日~1939年3月2日)はイギリス・ケンジントン出身のエジプト考古学者で、かの「ツタンカーメン王の墓」を発見した人物であることが分かりました。
 カーターは英国で高い教育を受けなかったものの、189年17歳で遺跡発掘現場のスケッチ担当としてエジプトに渡り、その詳細な模写や考古学への情熱が高い評価を受けたというのです。

 この辺の来歴は、トロイア遺跡発掘という歴史的偉業を成し遂げたかのシュリーマンと似たところがあるようです。カーターがシュリーマンの業績に迫るきっかけになったのは、1916年から、エジプト遺跡発掘の先人であるカーナヴォン卿(1866年6月26日~1923年4月6日)の援助でエジプトの「王家の谷」発掘を開始したことです。
 そして援助契約が切れる1922年、「世紀の発見」と言われるツタンカーメン王の墓を発見したのです。

ツタンカーメンの墓
ツタンカーメンの黄金のマスク

 

 ところでツタンカーメン王と言えば有名なのが「ツタンカーメンの呪い」です。これは、カーターのスポンサーであったカーナヴォン卿が同墓公開直後急死したことや、発見関係者数名が死亡したとされることによるものです。
 これを当時のマスメディアが「謎の不慮の死」として、「ファラオの墓の発見に関係した者には呪いがかかって死ぬ」とセンセーショナルに報道したため、「王家の呪い」「ツタンカーメンの呪い」伝説として世界中に広まったものです。
 格好のテレビネタとして我が国民放局でも過去に何度も取り上げていますから、これをお読みの多くの人もご存知のことでしょう。

 王家の呪いとの戦いを描いたハリウッド映画『ハムナプトラ』シリーズは、この伝説を下敷きに創られたものなのでしょう。歴史物好き、古代エジプト好きの私は、以前この映画のビデオを何度か観ましたが、「ツタンカーメンの呪い」はその前提として当然あり得ることと信じて疑いませんでした。
 しかし今回あるサイトを探訪して分かったことには、この伝説の大半はデッチ上げで単なる迷信に過ぎないということです。

 読み応えのある長文の論考ですが、ここでその詳細を検証する余裕はありません。興味をお持ちの方は末尾に記載した同サイトURLをご訪問いただくとして、ごく簡単にその概要だけご紹介してみます。

 ツタンカーメン王墓発見二大スターの一人のカーナヴォン卿は、確かに同墓の発見から半年後の1923年4月6日に死亡しました。同卿の死を愛犬が悼むように悲しげに吼え声を発し直後息絶えた、同卿の死の瞬間カイロ中の電気が消えたなどと、世界中の新聞がまことしかに喧伝し「呪いだ」と書きたてました。
 まず同卿の死そのものですが、以前からエジプト病にかかっておりカイロの病院で臥せっていて、満足な治療が受けられない劣悪な中でたまたまその時期に死亡したということのようです。またカイロ停電は、当時は電気が敷かれて間もない頃で、どの都市でも大規模停電は頻繁に起きていました。愛犬の死は本当なのか、またその因果関係などは確認すべくもありません。

 世界中の新聞によると「他に数名が不慮の死を遂げた」ことになっていますが、実はカーナヴォン卿以外で発見関係者が直後に死亡した事実はないようです。「死亡した」と報道された人たちはデッチ上げだったことが、既に当時の新聞で暴露されているというのです。
 デッチ上げの中にはハワード・カーター自身も含まれていました。同姓同名の別人の交通事故死をカーター自身の事故死のように書き立てられたのです。ちなみにカーターは「呪い」とは無縁に、1939年64歳まで恵まれた環境で健康な人生を送っています。

 今日にまで及ぶ「ツタンカーメンの呪い」について、なぜかくも広く流布してしまったのか。同サイトでは大まかに以下の3点を指摘しています。
 (1)情報が少なすぎたこと。(2)エジプトに対する興味と無知。(3)有名人の扇動
 その中でも、「大衆宣伝媒体」としてのマスメディアによる喧伝、扇動が最も大きなものでした。王墓発見関係は英国大手新聞『ロンドンタイムズ』が独占契約しており、真実情報が入手出来ない他の世界中の新聞は、また聞き、憶測、空想で王墓発見記事を書くしかなかったのです。今も昔も三度の飯より「デマ好き」のメディアは、格好の話の種として「ツタンカーメンの呪い」に飛びつき、あっと言う間に世界中に広まった、この辺が真相のようです。

 ちなみに古代エジプトでは、「死者が生きている者を呪う」という思想は無かったそうです。それに異端のファラオ・イクナトーン王系統のツタンカーメンは、後世の記録や王名表から名前を消され、王墓発見までは無名に近い存在でした。
 したがって、発見によって一躍歴史の表舞台に躍り出た感のある同王は、「喜びこそすれ呪いなどかけるはずがない」と、同サイトでは結んでいます。

 (大場光太郎・記)

参考・引用
『ウィキペディア』「ハワード・カーター」の項(画像も)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
『「ツタンカーメンの呪い」とは?』(サイト『無限∞空間』)
http://www.moonover.jp/bekkan/mania/thutan.htm

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「理解に苦しむ」指定弁護士控訴

-繰り返すが「悪盛んにして天に勝つ」。この事態を深刻に受け止めねばならない-

 何ともあきれた話ではないか。小沢一郎民主党元代表への東京地裁無罪判決を不服として9日、3人の指定弁護士が東京高裁に控訴したのである。「一審判決には見過ごせない事実誤認がある」とし、上告して争えば「無罪判決を覆すことが可能」と判断したというのだ。
 何を今さらではないか。だったら何で一審公判で「事実誤認」なきよう手を打たなかったのか。そんなこと出来なかっただけだろう。

 いい加減にせよ指定弁護士。東京地裁の公判過程で、小沢元代表の犯罪を裏付ける証拠は悉く失われたのである。そもそも検察審査会の「強制起訴」の最大の根拠となった、検察の捜査報告書も特捜部検事の捏造だったことが判明しているではないか。
 この捏造報告書に基づいて小沢裁判が始まったわけだから、控訴して裁判を続ける道理も法理も存在していないのだ。
 やる前からまた「無罪」なのは明らかではないか。素人でもあるまいし「控訴しても公判維持すら難しい」というのが司法のプロの見立てであることを知らないのか。

 3人の指定弁護士は、9日の控訴会見を検察庁舎内で行っている。彼らは引き続き「検察官役」を務めるそうだから当然と言えば言えるが、ここに指定弁護士のバックが透けて見えてくるのだ。
 実際今回の不可解な控訴には、「検察の働きかけがあったのではないか?」という憶測を呼んでいるのである。何せ控訴断念→小沢無罪確定となれば、検察の汚名が永久に残ることになるのだ。
 だから事実はどうあれ、検察としては控訴してくれたことでわずかでも汚名返上のチャンスが残ることになったのだ。

 さらに未確認情報ながら「指定弁護士には、官邸から5億円の官房機密費が渡っている」というような怪情報も飛び交っている。それを裏で仕掛けたのは謀略政治屋の仙谷由人だというのだ。
 指定弁護士の報酬は低くとても割りに合う仕事ではない。だからこの説がにわかに現実味を帯びて感じられてくるのだ。

 検察審査会の段階から仙谷の暗躍は噂されていた。何せ仙谷と日弁連会長の宇都宮健児とは東大法学部からの旧友である。それに3人の指定弁護士は、仙谷と同じ東京第二弁護士会所属であることも臭いし。
 野田首相以下は無罪→控訴の流れを事前に掴んでいた可能性がある。だとしたら「小沢復権を何としても阻止したい」という、現民主党幹部の蛇のような執念が感じられる話ではないか。

 遡れば3年余前の2009年3月の大久保隆則元秘書逮捕から、今日に至る小沢事件は始まっている。そもそも大久保元秘書逮捕は、「かんぽの宿隠し」「政権交代阻止」を目的とした当時の自民党麻生政権下で起こった。これは、当時の森英介法相の指揮権発動によるものだった疑いが濃厚である。
 当時大騒ぎした新聞・テレビは報道しないが、大久保元秘書逮捕事件は早々と訴因消滅し、今では影も形もなくなってしまっている。つまりこれが検察の不当逮捕の始まりだったのだ。しかもそれによって小沢代表(当時)は代表辞任に追い込まれている。それがなければ、同年9月の政権交代時「小沢一郎首相」が誕生していたのだ。

 以後の大迷走政局を正すには、改めて「小沢首相」の登場が必要である。しかし指定弁護士の控訴によってまたしても阻まれようとしている。これは、今この国の病状がいかに深刻かを如実に示す指標に他ならない。
 小沢元代表の民主党内の党員資格停止処分は解除された。だがオール霞ヶ関を中心とする旧勢力によって、広義の「座敷牢」にまたも閉じ込められることになったのだ。

 ここに、植草一秀氏がかつて命名した「米官業政電」(米国、霞ヶ関官僚、財界、民主党B政権、マスコミ)という「悪徳ペンタゴン」勢力の力がどれほど凄まじいものであるかを見て取らないわけにいかなのである。

 東京高裁での公判開始は今年秋以降、同判決は早くて来春とみられている。ここで無罪判決が出たとしても、旧勢力代弁者の指定弁護士はさらに最高裁に上告するつもりだろう。暗黒司法一派+オール霞ヶ関+他の悪徳旧勢力によって、小沢元代表は、今後2年も3年も政治的に手足を縛られた状態が続くのである。
 その間「国民の生活が第一」の政治理念はどんどん打ち捨てられ、国民切捨ての「米官業の利益が第一」の亡国政治が容赦なく進行していくことになるのだ。

 (大場光太郎・記)

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小沢元代表の党員資格停止を解除

 -それはそうだろう。世紀の謀略冤罪で処分したこと自体、後の世の物笑いだ-

 民主党は8日の常任幹事会で、小沢一郎元代表の党員資格停止処分の解除を決定しました。小沢元代表の党員資格の復活は、約1年3カ月ぶりのこととなります。

 広く世間にも検察調書の捏造が知れ渡り、4月26日東京地裁で無罪判決が下りたのですから当然といえば当然の決定です。むしろ遅きに失したと言うべきです。
 「反小沢」である前原誠司政調会長などは「一審判決だけで判断すべきではない」「指定弁護士の控訴の有無を見てからにすべきだ」などとゴネたようですが、「言うだけ番長」、結局は小沢元代表に近い輿石東幹事長の強い意志には逆らえなかったようです。

 それに10日までの控訴期限を前にして、ここにきて検察官役の指定弁護士の「控訴断念」が強まったとも言われています。もしそうなら小沢元代表の党員身分をこれ以上拘束する理由は何もなくなるわけです。

 当時幹事長だった岡田克也(現副総理)の最終判断で、処分が決定したのが昨年の2月でした。その1ヶ月後東日本大震災、福島第一原発事故という未曾有の大災厄がこの国を襲いました。

 小沢元代表を「座敷牢」に閉じ込めた、時の菅直人政権の二大災厄への対応の不手際は目を覆うばかりでした。素人集団による民主党政権が担い、解決するにはあまりにも荷が重く、震災復興は遅れに遅れ、福島原発事故は菅前首相自身の初動の誤りによって、周辺住民被爆を拡大させてしまったと言われているのです。
 未曾有の大危機に際して、政界第一の実力者で、官僚組織の動かし方などを熟知している小沢元代表の処分をその時なぜ解かなかったのか。現民主党幹部らは党利党略・個利個略に走り、国家的損失を拡大させたのです。

 その後政権は現野田佳彦政権に移りましたが、一昨年6月以来の「小沢封じ」体制は一貫して続けられてきました。霞ヶ関官僚たちにとって、小沢抜きの民主党政権ほど扱いやすいものはありません。性悪な古狸集団である彼らの手にかかっては、現民主党幹部らは子供のようなものです。

 それが極まったのが現野田政権です。ТPP推進、消費税増税、原発再稼動…。官僚主導から政治主導へが、09年9月の新政権発足時の国民との約束でした。しかし財務省や経産省が主導するこれらの政策はそれとは真逆であり、決して国民のためにならない、やってはいけない政策なのです。

 「消費税増税に命をかける」という、そもそも命を根本的にかけ間違っている野田首相にとって、正念場となる国会審議が今週からスタートしています。そんな中「増税反対」を鮮明にしている小沢元代表が処分を解かれて復権してくるのです。
 輿石幹事長としては、小沢氏を選挙担当の「党代表代行」に据えたい意向のようです。今年中と見られている解散・総選挙を見据え、このままでは民主党の大惨敗は必至ですから、「選挙の神様」頼みは当然のことと言えます。

 と言っても小沢元代表は、国民のためにならない消費税反対を断固貫き通す決意です。党要職に戻ったからといって、財務省のパペットである野田首相にすり寄ることはないとみられています。
 稀有な政治家である小沢一郎の凄さは、3年余にも渡って検察から謀略冤罪を仕掛けられ起訴・裁判となっても、マスコミから徹底的な「人格破壊キャンペーン」を繰り返されても、現民主党幹部のほとんどが「反小沢」であっても、ひとたび約束した「国民の生活が第一の政治」というポリシーを決して曲げないことです。

 裁判にかけられるという最悪の事態だったにも関わらず、小沢元代表のもとには衆参議員合わせて100人以上が「反増税グループ」を形成しています。「消費税命」の野田首相はこの小沢グループとのスタンスを今後どう取っていくのか。悶絶する場面が出てくるのではないでしょうか。
 野田の指南役の仙谷由人、藤井裕久などが陰でこそこそ自民党との連立などを画策し、何とか今後とも「小沢抜き」政局に持っていくつもりのようです。陰険策士仙谷よ、一度くらい小沢元代表と正々堂々真っ向勝負してみたらどうなんだ。

 (大場光太郎・記)

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春の椿事で一時ネット接続不可に

  春雷(しゅんらい)と突風豪雨街襲う   (拙句)

 個人的な事で何ですが。連休最後となった6日夜から7日昼過ぎまで、インターネットに接続できない事態に直面しました。それによってインターネットが私の日常の中でいかに大きな比重を占めているかを再認識させられました。
 そこで今回は、無事復旧できるまでの顛末について述べてみたいと思います。

 6日深夜いつものとおりネットを開こうとしました。真っ先にマイブログのアクセス状況を確認し、それから記事の更新に取りかかるつもりでした。しかしこの時に限って、休止状態から呼び起こしたブログ管理画面からアクセス解析画面に移ろうとしても、うんともすんともいわないのです。

 『ははあ、また固まっちまったな』。マイパソコン、当ブログの膨大な記事量や何やかやで相当重くなっています。そういうことはまゝあるのです。しかし今回ばかりはかなりの重症です。やむなく一旦終了しようと思い、スタート→終了オプションを押そうとしても、それすらうまく開いてくれません。仕方なく非常手段として、上部左のメーンボタンを手でグリグリ押しつけて強制終了させました。
 「キュ~ン」と悲し気な音を立ててパソコンが切れました。すかさずメーンボタンを押して起動させました。デスクトップ画面から、いつものとおりインターネット最初のグーグル画面を呼び出すつもりです。

 ところが、あれれれっ !? インターネットエクスプローラーのマークとともに、「インターネットではこの接続はできません」という例のイヤな表示が出てきたではありませんか。
 『何かの間違いだろ』と思って、それを一旦閉じて再度ネット立ち上げを試みました。しかし何度やってみても、「接続できません」なのです。つまり何らかの原因によって、私のパソコン、インターネット接続が出来なくなったらしいのです。

 これは困った事態です。どなたもそうかもしれませんが、私にとってインターネットはパソコンとほぼ等しいほどのものです。それに私の場合マイブログを持っているのですから。
 それが『今この時&あの日あの時』の「いの字」すら出てこないのです。ましてやフォレスタ動画の聴きたい歌、阿修羅掲示板など他のサイト、ネットニュース…に行くことなど遠い話です。
 私の落胆は一通りのものではありませんでした。パソコンはネットが使えての物種。ネットが使えないパソコンなんて「お金の入っていない空っぽの財布」と同じ。こんなつまらないことはありません。

 とにかくこうなったのには何か大きな原因があるはずです。それは一体何なのか?一つ思い当たりました。それはマイパソコン、以前のソフトを止めてから、ここ2年ほどウィルス対策ソフトを入れてなかったのです。
 それで今まで大過なくやってこられたのです。しかし今度ばかりは『きっとウィルスソフトを入れてなかったせいだ。何で早く入れておかなかったのか』と悔やまれました。

 考えるほどそれ以外ないように思われました。だとすると復旧はかなり大変です。今までのデータなどはすべてパー、「初期化」から始めなればならないはずです。
 数年前スパイウィルスにやられて初期化したことがありました。東芝PCサポートセンターからの電話による指示で、購入時についてきたDVDを何枚も入れたり出したり、面倒くさい操作を繰り返したり…。とにかく大変な思いをした記憶があります。

 それに今回はパソコン内臓のDVD機能が故障で使えない状態です。パソコン自体を同PC修理センターに送って直してもらうしかありません。それにマイパソコン、もう10年くらい使い込んだ年季物です。それ以外にも幾つかのメンテナンスが必要です。とすると費用は軽く数万円以上、期間も一週間ほどかかりそうです。
 その間申し訳ないながら、肝心のブログ記事更新は出来なくなるし…。

 7日朝もやはり「とほほ」状態は変わりません。東芝PCセンターに善後策を聞くため、パソコン隣の電話機から電話しようとしました。ところがどうしたことか、電話がつながらないのです。
 さては憎っくきウィルスめ。パソコンだけでは飽き足らず、勢いあまって電話にまで侵入して悪さを仕出かしたのか?しかしいくら何でもそんなことがあるのだろうか。
 ともかく、ネット接続不可だけでも大ダメージなのに、その上電話まで不通とは。業務にモロに影響が出ます。弱り目に祟り目とはこのことです。

 電話機まで使えないとなると、これはもうNТТの出番です。私は1年ほど前から携帯電話を使用していません。仕方なく、家から数十メートル先の公衆電話でNТТ修理センターに電話しました。
 応対してくれたオペレーターの話で「ウィルス侵入説」は否定され、どうも“光フレッツ”の接続不具合に原因がありそうなことが分かりました。
 厄介なウィルスでなさそうなのは何よりです。家に戻り、この人の指示通り、パソコンと電話機がある机側床面に置いてある2台のルーターの電源を抜き、5分くらいたってから入れ直しました。しかし両方ともまったく復旧しません。

 そこで再度公衆電話に行き、「もしそれでダメだったら」と予め聞いていた光サポートセンターにその旨電話しました。ここで応対してくれたオペレーターが当家の電話機状況を調べてくれました。その結果「2台のうちメーンとなるルーターに電流が来ていないようです」というのです。

 『えっ、そりゃウィルスより大変だ』。何ヶ月か前やはり電話機の不具合で修理センターに電話し、修理担当者に来てもらったことがあります。その時配線状態を確認した担当者は、大本のコンセントを指さして言ったのです。
 「今回は問題ありません。今後何か異常が出た場合は、これより前の内部配線の問題かもしれません。壁に隠れているだけに修理は大ごとですよ」
 いやはや、どの道大変だ~ !

 今回も「夕方5時前頃、修理担当者がお伺いします」ということでした。私はその後所用で出かけ、戻ったのが3時過ぎでした。念のためダメもとで、先ほどの修理センターの人の指示をもう一度繰り返してみました。
 するとどうでしょう。さっきはうんともすんとも言わなかった電話機が「ピー、ピー」と鳴るではありませんか ! どうやら修復したようです。『もしや?』と思って、パソコンのネット接続も試みました。すると何事もなかったように、こちらもグーグル画面が現れたではありませんか !

 夕方修理担当者が来てくれることになっているので、光サポートセンターに「おかげ様で電話もインターネットも直りましたから…」と電話を入れました。前と違う人でしたが事情は分かっているらしく、「その件でしたら、3時前既にお伺いしています」と言うのです。
 その結果「原因は昨日のカミナリによって建物全体の電話関係のブレーカーが落ちてしまっていたようなのです。ブレーカーは元に戻しておきました」とのことでした。

 何だよ、原因はウィルスでも配線でもなく「カミナリ」かよ。
 そういえば、6日午後私がバスで外出したちょうどその時、にわかに雲行きが怪しくなり、突風が吹き出しました。景色はどんどん暗くなり、街路樹の枝も千切れるほどの大風、その上「ピカッ、ビカッ」と稲光りと雷鳴までし出したのです。
 『これは大雨になるぞ』と思う間もなく、風で煽られバスを叩きつけるような激しい雨が降り出しました。乗客の誰一人傘を持っていないようです。そのうち駅に着きました。皆駆け足で降りて、すぐ近くの某銀行AТMスペースに駆け込んだのでした。

 原因が自然現象とあっては文句の持って行き場もありません。何はともあれ、単なる「春の椿事」が原因で半日くらいで済んだのが何よりでした。漏れ聞くところ、突然の大竜巻に襲われて大被害に遭われた地域もあったよし。
 今回のようなトラブルは我が居住ビルだけだったのでしょうか?皆さんのところは何も異常なかったでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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雲雀の短歌三首

                      寺山 修司

  空は本それをめくらんためにのみ雲雀もにがき心を通る
                      (昭和33年『空には本』所収)

                      藤井 常世

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀
                      (昭和51年『紫苑幻野』所収)

                      高野 公彦

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青(たんじょう)の空は暗きまで光の器
                      (昭和57年『淡青』所収)

… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……* …
《私の鑑賞ノート》

 春の鳥としての「雲雀(ひばり)」の近代短歌を三首並べてみました。
 このうち寺山修司(てらやま・しゅうじ)の短歌については、昨年4月の『空は本』で既に取り上げました。なのに再びこれを掲げたのには訳があります。これに続く二人の短歌は、寺山の短歌を意識したものだと思われるからです。

 そもそも和歌の世界で「本歌取り」は、古今集の昔から当たり前の手法として用いられてきました。敬愛する先人によって詠まれた新しいモチーフの優れた歌を、後の歌人たちがそれにならって類似の歌を詠もうとするのは至極当然のことです。
 ただその場合、元の歌人の単なる二番煎じ、三番煎じではつまりません。元の歌を超えないまでも、何かしら新鮮味を加えることが要求されるわけです。
 寺山の後の二人はどうでしょうか。その辺を見ていきたいと思います。

  よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消えし一羽の雲雀

 藤井常世(ふじい・とこよ)のこの歌にも「心」が出てきますから、寺山短歌の影響は明らかです。
 しかし藤井短歌の新しい発見は、雲雀の「心のかたち」を捉えたことです。捕まえどころのない心に果たして「かたち」があるのかどうか、仔細には知らねども。藤井はこの短歌で「心にかたちがある」と表現しているのです。

 さてそれでは、それはどんなかたちか。空の高みを目指して「よぢれつつのぼる」雲雀の姿こそ、まさにその象徴なのだと言うのです。
 藤井の短歌では、寺山短歌の「にがき心」は露わにはなっていません。けれども、確かに空の高みを目指す雲雀はにがき心を抱いているに違いない、それは「よぢれつつ」のぼっていくことに暗示されていると思われるのです。
 そしてその心のかたちは、寺山の場合と同じく、実は作者自身の心のかたちに他ならないのです。

  ふかぶかとあげひばり容れ淡青の空は暗きまで光の器

 寺山修司の短歌が「起」であるとするなら、前の藤井常世の短歌はそれを受けた「承」ということになるのでしょう。
 対して高野公彦(たかの・きみひこ)のこの短歌は、寺山、藤井という先人どおりに「雲雀がのぼる姿」を踏襲していません。どう詠んだか。雲雀が既に空の高みにのぼりきったさまを詠んだのです。三首の中でこれは「転」にあたると思われます。
 この短歌にある「淡青」を歌集のタイトルにしているところを見ると、高野にとってこれは会心の作品だったことでしょう。

 この短歌の秀逸さは、後半の「淡青の空は暗きまで光の器」にあると思われます。
  淡青の空 = 暗きまで光の器
という図式です。しかし通常の数式では、こんな等式が成立することはありません。ただ単純に、
  淡青の空 = 光の器
なら、あるいは成立するかもしれませんが。そこに「暗きまで」というファクターが入り込んでいることによって、不等式とみなさざるを得ないのです。

 そもそも「淡青(ライトブルー)の空」が「暗きまで」ということがあるのだろうか。とてもあり得なさそうですが、高野公彦にとってはあり得るのです。
 作者の深い意図は分かりかねますが、「声はすれども姿は見えず」で、雲雀の姿を深々と隠し去った空を「暗きまで」と形容したのではないだろうか、と推察されます。さらには、淡青の奥に広がる宇宙の闇にまで想いが至っていたのかもしれません。

 だとすると、この短歌のこの部分は、物理世界の数式では不成立でも、詩的世界の数式としては見事に成立していることが了解されてくるのです。

 (大場光太郎・記)

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『空は本』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-95df.html

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