私のマイケル・ジャクソン観

 世界的なスーパースターといえども、その名前や表面的なことを知っているだけ。だから自分の中では世間が大騒ぎするほどのスーパースターとは思っていない、ということがよくあります。これまで私がマイケル・ジャクソンに対して抱いていたものは、おおむねそんなところでした。

 マイケル・ジャクソン情報として、私が知っていたことといえば―。
 代表作の『Thriller(スリラー)』くらいなもの。黒人のくせして、何だか薄気味悪い白蝋(はくろう)のような畸形的な顔に変わっていったヤツ。幼児への性的虐待によってその親から訴えられた変態性欲の持ち主。何だかよく分からない歌を歌いまくって、変なクネクネ踊りを踊っただけで超億万長者になったヤツ。そうして稼いだ金をつぎ込んでネバーランドなどという広大な遊園地のような所に住んでいたヤツ…。

 このように私の場合、世界はおろかこの日本にも無数にいるであろう「マイケル命」の熱烈なファンとは、かなりの温度差がありました。それゆえ6月25日(日本時間26日)の彼の急死の報に接しても、特段驚くでもなく『あっ、そう』くらいなものでした。
 生前のミステリアスなマイケル像を死後なお引き継ぐかのように、その死因をめぐって乱れ飛ぶさまざまな憶測。違法な麻酔剤使用の問題。死の直後主治医が行方をくらました。ロス市警が主治医の車を押収した。彼の死は他殺か?どうなる、数百億円のマイケルの遺産の行方。マイケル自筆の遺言書があり、それによると遺産は彼の子供そして母親、母親死後はダイアナ・ロスに遺産の管理を頼む。父親や元妻には相続の権利がないそうな…。
 むしろ三面記事的なそんな情報を面白がって観ていました。

 当ブログ最近の記事『梅雨だより(4)』の中で、マイケル・ジャクソンについて少しふれました。「(正式なマイケルについての感想が)今にまとまりましたら公開します」と述べたものの、実はその時点では何が何でも、ということでもなかったのです。いや実のところ、ここ何日かはそう述べたことすら忘れかけていました。
 それが11日未明NHK総合テレビで、『マイケル・ジャクソン“King of Pop”の軌跡』という追悼特別番組の再放送の冒頭部分をたまたま(本当にたまたま)目にしたのです。そうしたら観るにつれて魅き込まれて、とうとう最後まで観てしまいました。

 観終わった後、私のマイケル・ジャクソン像あるいはマイケル・ジャクソン観はがらりと変わりました。どう変わったのか?やっぱりマイケル・ジャクソンはスーパースターだった。マイケルの前にマイケルなく、マイケルの後にマイケルなしだ、というように。
 マイケルの生涯の主な事跡が、映像という極めて訴求力のある媒体によって端的に紹介されていたことが大きいと思います。そして頑(かたく)なな私のこれまでのマイケル観を決定的に打ち破ったのが、1982年の『Thriller』や1987年の『BAD』などの十数分にも及ぶプロモーション映像がノーカットで流されたことです。今までは『Thriller』のほんの一部しか観たことはなかったのですから。全部を観せられていやあ驚いたの何の !

 あのような映像、ミュージックそして踊り。21世紀の今日でも色褪せない斬新かつ革新的なものでした。それはまさに衝撃的でした。歌もさることながら、特に踊り。ムーンウォークに代表される、彼の天性の身体能力のなせる神業的ダンス。
 私は改めて思ったのです。マイケル・ジャクソンは紛れもない天才だったではないか ! 革命児だったではないか ! どのくらいの天才?どのくらいの革命児?ビートルズの4人のメンバー全員で成し遂げたことを、たった一人で成し遂げてしまったほどの。
 うかつにも私はほとんど知らなかったものの、マイケルはどれほどのインパクトを当時の世界に与えたことだろうか !?

 そういえば数日前、上記当ブログ記事に「マイケル・ジャクソン プレアデス」という印象的な検索フレーズでアクセスしてきた人がおられました。確かに上記番組の中の何かの歌のプロモーション映像で、「白か黒か」という人種差別を乗り越えようというメッセージのもと、世界各地でそれぞれの民族衣装に囲まれながら歌い踊るマイケルの姿がありました。こういう人類愛こそまさにプレアデス的です。
 マイケル・ジャクソンは、バッハやゴッホのように、この世界を大きくチェンジするためにプレアデスから特別に派遣された使者だったのではないだろうか?…。

 この世界は、本当に惜しい天才を失いました。
 
 (大場光太郎・記)

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娘ことごとく売られし村

                            結城 哀草果

  貧しさはきはまりつひに歳(とし)ごろの娘ことごとく売られし村あり

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 結城哀草果(ゆうき・あいそうか) 明治26年山形市生まれ。本名光三郎。黒田家より結城家の養子となる。大正3年「アララギ」に入り、斎藤茂吉に師事。以後、農民生活を歌い、特に昭和10年刊行の『すだま』で東北の凶作を歌い、注目を集める。昭和24年に「山塊」、同30年に「赤光」を創刊、主宰した。歌集『山麓』『群峰』など。随筆集『村里生活記』他数冊。昭和49年没。  (講談社学術文庫『現代の短歌』より)

 山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、近代短歌の代表的歌人として広く知られています。しかし茂吉の弟子だった結城哀草果は、活動の中心が地元山形というローカル歌人だったこともあって、よほどの短歌通でなければその名を知らないと思います。
 ちなみに私の出身中学である(山形県)宮内中学校の校歌は、結城哀草果の作詞によるものです。

 略歴にあるとおり今回の短歌は、昭和初期の東北の凶作を歌った歌集『すだま』収録中の一歌です。日本史の教科書に載った「娘売ります」の張り紙を立てた写真の部落が、私の母校があった長井市の一部落だった。このことは、昨年末記事『今は昭和初期と酷似 !?』の中で既に述べました。
 この歌は、解釈の必要がないほど平易な歌ですが、当時の深刻極まりない東北の農村の実情を直視した社会的短歌です。

 歌冒頭の「貧しさきはまり」とは、一体どのような状況だったのでしょう?
 直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、上記記事でもふれました1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。
 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。
 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。(このような契約は、「公序良俗」を厳しく求める戦後の現民法では無効となる契約です。)
 なぜ「娘売り」で「息子売り」ではなかったのか?これには当時の厳格な家父長制も関係しますが、農家の長男は家の跡継ぎ、二男、三男でも当時は軍隊の下級兵になる道がありました。現に旧日本軍の下級兵で、東北出身の二男、三男の占める割合は多かったのです。社会的地位の低かった女子はそうはいきません。そこで一家の人柱となって、何百円(当時)かで売られていくケースがずいぶん多かったのです。

 こうして東北の娘たちは、主に東京の吉原、州崎などの遊郭に売られていきました。東京に行儀見習いに行くといって上京したはずの妹が、実は吉原に売られていた。兄が上京してたまたま吉原で遊女を買ったところ、出てきたのが実の妹だった。二人は抱き合ってワンワン泣いた、というような話が伝わっています。
 東京だけでなく、遠く京都の遊郭にも東北出身の遊女が多くいたようです。さらには国内のみならず、海を越えて旧満州の遊郭や、果ては南は東南アジア、北はシベリアのウラジオストックの娼館に連れていかれた娘たちもいたようです。

 そうして連れていかれた東北農村の娘たちは、甚だ劣悪な環境の下で途中で病に冒された者も多く、よほどの僥倖でもない限り悲惨な生涯を送ったであろうことは想像に難くありません。
 同じ条件にあった東北の農家の全部が全部ではなかったにしても…。近代日本の赫々(かくかく)たる歩みの中で、光に影が寄り添うように、このような哀しい裏面史があったのだ―哀草果のこの歌は、そのことを歌の行間から告発しているようです。

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(5)

 句作を始めた年が明けた2月頃、毎日俳壇(毎日新聞日曜版俳句コーナー)に投句しました。同俳壇の選者は3名ほどいたと思いますが、好きな選者を指定して投句してよい決まりになっていました。そこで私が選んだのが鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)でした。既に『現代の俳句』収録の鷹羽の代表的な何十かの句を読んでその句風に共鳴出来たこと、そして同じ山形県出身であることに共感を覚えたことなどが主な理由だったと思います。

 投句したのは、
   煮凝り(にこごり)の凝るをかしさ食ひにけり  
という句です。寒さ厳しい雪国では、冬の夜に母が煮魚をこしらえておきますと、次の日の朝になると煮汁が固まってこげ茶色の寒天状になってしまいます。そうして食べた煮魚そのものももちろんですが、煮凝りのトロンとした舌ざわりがまた何とも言えず乙な味だったのです。寝たきりで臥せっている母を介護しながら、そんな郷里でのことをふと思い出して詠んだ句です。 
 それが何と、初投句でいきなり毎日俳壇に掲載されたのです(もちろん私の句ばかりではなく、10数句くらいと共に)。『うわぁ、オレの句と名前が全国紙に載ったんだ ! 』。今となっては別にどうということもありませんが、当時の私はまるで天にも昇る嬉しさでした。嬉しさあまって、その日曜版を5部ほどまとめて買ったことを覚えています。

 味をしめて次も鷹羽選で投句しました。しかしその時は採用されませんでした。初投句でいきなりというのは良し悪しというもので、その後は毎日俳壇への投句をやめてしまいました。
 代わって、私が当時購読していた朝日新聞の朝日俳壇にチャレンジしてみることにしました。しかしこれがなかなかの難関なのです。選者も、稲畑汀子(いなはた・ていこ)、金子兜太(かねこ・とうた)ら4名、いずれも当時超一流の俳人です。後で分かったことながら、同俳壇に掲載されるのはわずか数10句ですが、それに向けて1回あたり約1万句くらいの投句があるというのです。
 投句者の中にはプロを目指している人も大勢いたことと思います。そんな中で駆け出しの私など、とても太刀打ち出来るものではありません。不採用が何回続いてもこりずに10数回投句し続けました。しかし結局ただの一度も採用されることなく、終いには断念しました。

 なお毎日俳壇の選者だった鷹羽狩行は、毎年中秋の名月に行われる伊勢神宮観月会・俳句部門の選者でもありました。テーマは「月」でしたが、私は3、4回毎年こちらにも投句しましたが、その度に採用していただきました。次の句はその中の一句です。
   あをあをと月に読まるる川原かな

 このようにして数年間、1日10句以上をノルマに俳句を作り続けました。そうして句がびっしり書き込まれた手製の俳句手帳も6冊に及びました。
 しかし身心のコンデションが何とか復調し、頭の働きも自分で『まあまあ元に戻ったかな』と思われる段階になると、毎日句を作り続けることが面倒くさくなってきました。そうして気がついた時には、ほとんど句を作らなくなっていました。

 当ブログでしばしば過去の拙句を冒頭に掲載するのは、現在ほとんど句作していないからです。そして今現在にわかに句を作ってみても、「継続は力なり」というもので、集中して句作していたあの頃より句のレベルは明らかに落ちてるなと、自分でもそう思います。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(4)

 そのようにして手製俳句手帳に書き連ねていった1000以上の句の中から、50句、100句くらい何とかものになりそうな句を選んで、今度は別の用紙に書き出してみました。その頃になると単なる能力開発という目的とは別に、『もっと俳句がうまくなりたい』という欲が出てきました。
 そのため歳時記を揃え読み出したり、有名俳人の俳句入門書を読んだり、『名句観賞』の俳人略歴で度々引用しております講談社学術文庫中の『現代の俳句』(平井照敏編)を少しずつ読み込んだりしました。また『角川俳句』『俳句朝日』『俳句研究』という月刊の俳句雑誌を毎号欠かさず講読するようになりました。

 何事もそうでしょうが、俳句の場合も上達の最も良い方法はとにかく先人の優れた作品に数多く接し味わうことに尽きるようです。その意味で『現代の俳句』を繰り返し読みこんだことは、私の句作のレベルを上げる上で大いに効果的だったと思います。
 実はもう一つ優れた方法があります。それは自分と波長の合った先輩俳人を見出し、その同人結社に加わることです。そしてそこで催される句会などに積極的に参加して、そこから大いに刺激を受けること。句会は俳聖・松尾芭蕉以来の伝統でもあるわけで、本当はこれこそが俳句上達の王道であるのかもしれません。

 しかしすっかり出不精になり、元々あまり社交的でない私は、これには当初から抵抗がありました。句会の席で自分の作った句を周りの人から批評、指摘される。逆に私がそういう立場になることもある。『ウーン、どうもなあ』という感じがしたのです。
 それにもう一つ、特定の俳句結社に所属してしまうことは、その結社のカラーに染められ縛られてしまい、それを越えるような発想が出来にくくなる可能性もあるのではないだろうか?とも思われたのです。

 それに、この年になって何も「プロの俳人」を目指すわけでもないのだし。結局早い段階で、同人結社に所属しないことにしようと決めました。
 ただ同人結社の利点はもう一つ。自分の作った句が大勢の批評眼にさらされることによって、独りよがり、自己満足になりがちな傾向から逃れられるということがあると思います。自分の作った句はどうしても評価が甘くなりますから。そこで極力そうならないよう、自作を厳しくチェックする「もう一人の自分」を常に置いておかなければならないなとも思いました。

 「プロ俳人を目指すわけではない」と言いながら、次の段階として『自分の作った句を出来るだけ多くの人に読んでもらいたい』という欲求が芽生えました。ともかくもそういう欲求が芽生えたということは、その頃には当初の軽いウツ傾向は脱しつつあったといっていいのかもしれません。

 各俳句雑誌では、定期的に「俳句賞」「俳句新人賞」などへの応募を呼びかけていました。例えば「角川俳句賞」「俳句朝日賞」「俳句研究新人賞」といったものです。30句または50句をまとめて、それに自分で決めたタイトルをつけて応募するというような形式です。その中でも角川俳句賞は俳句界では権威ある賞ですから、もし受賞でもすれば一気にプロ俳人への道が開かれるわけです。また俳句研究新人賞も、プロ俳人としての登竜門になるような賞です。

 無謀にも私は、句作を始めて何ヶ月かした段階でこれらに次々に応募するようになったのでした。応募して何ヶ月かすると、各誌に受賞した作品、次点何作品かが発表され、それに選考委員の講評が出されます。
 結果は言わずと知れたもので、毎回まるでかすりもしませんでした。しかしせっせと応募した効用は確かにありました。私自身が応募した賞ですから、まず受賞作、次点作を丹念に読むわけです。そして『なるほど違うなあ』と彼我の力量の差が、そこで測れるわけなのです。そして選考委員の講評をじっくり読んだことで、自分の句作の力を高める上でずいぶんヒントが得られたように思います。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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七夕だより

   雲切れて七夕富士の全容(すがた)かな   (拙句)

 7月7日七夕のきょうは、久しぶりの梅雨晴れ間の一日となりました。それでも午前9時過ぎいったん曇りだし、どっちに転ぶか分からないような空模様となったものの、昼が近づくにつれて日差しが優勢となり、後は気温もぐんぐん上昇し、夏そのものの一日となりました。そういえば本日は、七夕であるとともに、二十四節気の「小暑」でもあります。
 ただ空全体を、梅雨雲ではないものの薄白色の雲が覆っており、『これじゃあ、彦星も織姫星も見られないな』と、日中から何となく予想されました。

 昼過ぎお隣の平塚市に向かい、同市内の不動産会社を訪問しました。
 その話のついでに、「いい天気で(平塚の)七夕、きょうはさぞ賑わっているでしょうね?」と私。すると同社社長は「何言ってんですか。七夕は日曜日で終わっちゃいましたよ」。「えっ。そうだったんですか。ずいぶん早かったんですねぇ」
 新暦7月7日の七夕の日を待たずに、その2日前に七夕まつりが終わってしまうとは。いくら何でもちと早過ぎませんか?平塚市さん。しかし実際そのとおりらしく、同社長いわく、平塚市紅屋町(べにやちょう)の大通りを華々しく飾った七夕飾りは、旧暦(新暦8月)で催される仙台の七夕まつりにずいぶん流用されるのだとのこと。
 「こっちが本場なのに、いつの間にかあっち(仙台)の方が有名になっちまって」と社長。『んっ、ホントに?』。その言葉は出さずに飲み込みました。

 気になって後で調べてみました。平塚七夕、去年までは7月7日と土日をはさんだ数日間行われていたものの、今年からは7月第一木曜日からの4日間(つまり次週日曜日-今年は7月5日まで)に変更されたもようです。なお平塚市が7月開催にしている由来は、平塚七夕が始まった戦後間もなくの頃は新暦による開催地がなく注目度が集まることや、飾り物が旧暦の開催地に対して譲渡出来る(やっばり ! )利点があるなどの理由によるもののようです。
 平塚市は第二次世界大戦中、海軍火薬廠があったため米軍の攻撃目標とされ、1945年(昭和20年)7月の「平塚空襲」で焼け野原となりました。終戦後の1950年(昭和25年)7月に復興まつりが開催され、翌年平塚商工会議所、平塚商店街連合会が中心となり、仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が行われた。云々。
 社長の話の中の、仙台七夕への譲渡は正解。しかし「平塚の方が本場」というのは誤りだったわけです。

 ついでに「仙台七夕まつり」の由来も少々―。
 始まりは、江戸時代初期の仙台藩祖・伊達政宗公の肝入りでとも言われますが、詳細は不明のようです。ただ1783年(天明3年)の有名な「天明の大飢饉」による荒廃した世俗の世直しを目的として藩内で盛大に七夕祭りが行われ、以来江戸末期まで続いたようです。その後明治新政府による新暦採用により、七夕の風習は廃れる一方でした。
 1927年(昭和2年)この事態を憂えた地元商店街の有志らによって大規模な七夕飾りが飾られました。すると大勢の見物客で大賑わいだったそうです。これが仙台七夕まつりの原点と言えるもののようです。
 ただ第二次世界大戦の戦局悪化により縮小の方向に行かざるを得ず、それに仙台も平塚と同じように空襲で焼け野原となりました。戦後の1946年(昭和21年)52本の竹飾りをし、復活の兆しが見えました。翌47年(昭和22年)昭和天皇の巡幸の際には、沿道に5000本もの竹飾りで天皇をお出迎えし、これが完全復活になったようです。その後高度経済成長期には、東北三大祭りの一つに数えられ、日本全国から団体客が大勢押しかけ、日本有数の七夕まつりとなって今日に至っています。

 …午後3時前帰路につきました。ルートは金目川(かなめがわ)という秦野市方面を上流として、相模湾に注ぐ中河川沿いの道を秦野市方向に向いました。そのまま川沿いにずっと進めば、以前ご紹介した東海大学湘南キャンパスの校門が道の右手に見えます。その何キロか手前を右折して、小田原厚木道路の側道に入るのです。
 この道を走っていますと、ちょうど真正面に大山が見えています。厚木市から望む大山は、その右手に一連なりのように少し低く丹沢連峰が並んで見えます。しかしこちらから望む大山は、丹沢連峰がその陰に隠れている按配で、大山の秀峰だけが強調されている感じです。この道は以前からずいぶん通ったはずなのに、今まで気がつきませんでした。
 新しい発見ですが、この方向からの大山も実に秀麗です。本日上空に少しグレーの雲で覆われているものの、深緑(ふかみどり)色した大山はその全容を余すところなく現しています。ただし、厚木市で見られるよりは幾分遠い感じなのが難点です。

 と、そのずいぶん左手の方向に、大山以上に美麗な富士山の姿が見えているではありませんか。麓から中腹にかけて幾分白い雲に包まれているものの、その濃紺の気高い全貌がくっきりと望まれます。山頂から縦に幾筋かの残雪の富士が、また素晴らしいのです。
 確か7月1日に「富士のお山開き」があったはず。こんなに隔たっていては確かめようがないものの、この時分にも山頂目指して登っている人もずいぶん多いことでしょう。

 小田原厚木道路沿いは何度も述べましたとおり、まだまだ豊かな田園が広く残っています。水田の青苗も、畑の里芋の大ぶりな葉群も、玉蜀黍(とうもろこし)葉群も。輝く陽光のもと、一帯がすっかり夏野になっておりました。

 夜何度か外に出て夜空を見上げました。夜が更けるとともに、雲は切れ出しました。ですから幾つか強い光を放つ星は認められるものの、彦星、織女星の今夜の主役星は探し出せませんでした。ましてや天の川の所在などからきしダメで…。やはり夜光都市での星探しは無理のようです。
 加えて今夜は旧暦6月15夜の満月です。雲を払って、夏満月が煌々と光を放っていることも多分に影響しているのかもしれません。
 空地の方々から、(既に6月下旬頃からですが)早や虫の声が聞こえています。ただ秋虫よりは、まだか細い鳴き音(なきね)です。やや強い風が吹き渡っています。日中の暑さにさらされた身を元から冷ましてくれそうな心地よい夜風です。
 そういえば、金目川沿い道で信号待ちしている時気がついたのですが、川の葦原の上を何と気が早いことに赤とんぼがけっこうな数、すいすい飛んでおりました。 
 
 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(3)

 俳句を作ろうと思い立った当初、私の俳句心得は、俳句とは五・七・五の十七音で季語を一つ入れて作るものという、初心者の域を出ないものでした(でも後々分かったことには、この基本こそがいつの場合も句作で最も大切なのです)。当初は、入門書や歳時記や有名俳人の名句集など何一つ用意せず、ぶっつけ本番で『とにかく俳句を作ってみよう』という甚だ無謀なものでした。

 しかしいざ句作に取り組んでみると。子供の頃からどちらかというと、知的関心があっちこっちと分散、拡散しやすい散文タイプの私にとって、予め「十七音」に制約されている俳句という詩形を作るということは予想外に難しいことでした。例えば「すすき」という秋の風物を目の当たりにすると、その周辺の事物の連想が広がり『あれも、これも句の中に盛り込みたい』となってしまって収拾がつかなくなり、一句として凝縮、収斂させていくのが困難だったのです。
 それに(当時)50歳という年齢も意識され、いくら初心者でも子供じみた稚拙な句は作れない、というような変な気負いのようなものもあったと思います。

 こうして、一句目がなかなか作れずに何日も過ぎてしまいました。しかしある時、俳句を作るのは人様に読んでもらうためではない、あくまで自分の能力開発の一環なんだと思い直し、目先の事物をとにかく一句にまとめてみようと思い立ちました。そしてまた「すすき」を一句だけでまとめようとするからかえってまとまらないのであって、関連した句を幾つ作ってもいいじゃないかと考えることにしました。
 これ自体は、アィデア創出法の一つである「ブレーンストーミング法」にならったやり方だったかもしれません。通常は会議などで、良し悪しを一切判断せず参加者に自由気ままにアィディアを出させる手法ですが、私は句作に当たって「一人ブレーンストーミング法」を試みたことになります。

 そのためには、字余りでも季語がない句(無季句)でもなんでも構わない。散文、雑文でも構わないから、思いつくままどんどん作ってみよう、ということになったのです。そうして思いついた「俳句もどき」を、用意した一冊の小さなノートに次々に筆記していきました。後で気がついたことですが、自前のにわか俳句手帳だったわけです。
 すると大いに気が楽になって、「十七文字」がポツリ、ポツリと出てくるようになりました。大変お恥ずかしい話しながら、時には変なエロの句も飛び出してきました。それらを委細構わず、小ノートにどんどん書きとめていったのです。業務上車で少し遠い所に移動している時など、移り行く風景を眺めているうち途中から調子が乗ってきて、その日1日で100以上の句が出来た時もありました。

 こうして気がついた時には、小ノートは4、5ヶ月で「俳句もどき」でほぼびっしり埋め尽くされていました。数えてみますと、ゆうに1000句以上。当初のそのプロセスは、長年私の心の奥深くで重く澱んでいたものが、これをキッカケに表面に浮上させられた具合でした。そのため作ったものの大半は、自分自身で後で読み返しても恥ずかしいようなもので、とても公に出来るようなシロモノではありませんでした。
 しかしそれが呼び水となったのか、途中から10数句に1句くらい(あくまで初心者の判断ながら)『んっ。これはいけそうだぞ ! 』という上澄みのような句が、ポツリポツリと混じり出したのです。例えば上に例に出しましたすすきの句として当時出来たのは、以下のようなものです。
   薄穂(すすきほ)のそこだけさはなる夕の風   (拙句)
 なお「さは(さわ)なる」は、「多なる」の古語、雅語として用いたものです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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裕次郎二十三回忌

 テレビなどで既にご存知かと思いますが。石原裕次郎の二十三回忌法要イベントが5日、東京・国立競技場で盛大に行われました。
 会場となった競技場内には、聖火台の下に立つ総持寺をモチーフにした壮麗な“裕次郎寺”が築かれ、その前には11万人以上のファンが列をなし、昭和の大スターを偲んだそうです。雨男の裕次郎の法要イベントとしては初めて雨が降らず、時折り日差しも差し込む空模様の中、石原軍団を率いる渡哲也(67)の音頭で「裕ちゃん」コールが唱和され、会場に大きくこだましたそうです。 (ネット版『中日スポーツ』より)

 なぜ総持寺なのか?さして裕次郎通でない私は初めて知りましたが、総持寺に裕次郎が眠っているからなのだそうです。そして会場内の度肝を抜くような“裕次郎寺”は、総持寺の太祖堂を模したものなのだとか。同寺からはこの法要イベントに、総勢120人もの僧侶が参加したとのことで、これまたびっくりです。
 
 ご存知の方も多いかと思いますが、横浜市・総持寺は福井県・永平寺と並ぶ曹洞宗の二大本山の一つです。個人的な話で恐縮ながら、当家も曹洞宗の最末席檀家の一家です。ですから母逝去の折りは、郷里に帰って当家が所属する曹洞宗寺院にて、親族だけでひっそりとした葬儀を執り行ないました。
 私は数年前のそのことが想い起こされ、彼我の違いをまざまざと感じながら、テレビで繰り広げられている盛大な裕次郎忌のニュースを眺めていました。
 
 曹洞宗の宗祖・道元の生涯を描いた映画『禅-Zen』が、今春公開されました。一末席檀家として是非観てみたいと思いつつ、つい観そびれてしまいましたが…。途方もなく高い仏法の境地を求め俗塵に対して峻厳だった孤高な道元禅師と、遙か後代の度肝を抜くような裕次郎法要イベントと。
 この落差は一体何なのだろうと、正直思いますね。泉下の裕次郎さんも、これで本当にお喜びなのかな?もしお喜びなら、裕次郎大居士院のあちらでのご境地まだまだなのでは?とも。

 私のような団塊の世代の者にとって、石原裕次郎は私らより一世代前のスーパーヒーローという感じなのです。今ひとつ私自身のヒーローという実感が湧きません。その分同法要に直接感情移入出来ずに、少し離れて冷ややかに見てしまうのかもしれません。
 第一私らが青年だった昭和40年代以降、時代は「英雄」つまり「ヒーロー」を必要としない社会に変貌していきました。その意味で昭和45年の三島由紀夫の死は、極めて象徴的だったと思われます。

 「英雄が必要とされない社会」。これに対する是非論はさまざまにあることでしょう。しかし私個人としては、結果的にこれで良かったんだと思います。
 もう外なる英雄、ヒーローを追い求め、担ぎ上げる時代ではないのですよね。裏を返せば日常の一つ一つの身近な場面で、「私が」「オレが」ヒーローであり、ヒロインだということなのだろうと思います。すべては自己責任。もう外なるヒーローに頼り、すがれる時代ではないということです。そして事実、外なるいかなる権威にも頼れません。答えはすべて、自分自身の内側にあるそうですから。

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(2)

 何日かクルミ回しを続けた結果は効果てきめんでした。それまでクモの巣が張られているようで何となくもやもやしていた頭の中が、少しずつ晴れていく感じがしました。それと共に失いつつあったやる気も、徐々に取り戻しつつあることが実感されました。

 手はよく「第二の脳」「脳の出先機関」などと表現されることがあります。実際最新の脳科学によりますと、手のひら全体また手の各指は脳の特定の部位と密接に関連し合っていると言われています。よってクルミ回しという一見何の変哲もない運動は、実は脳全体に直接的、間接的に大きな刺激を与えていることになるのです。ちなみに、左手は右脳へ、右手は左脳への刺激となります。
 とにかくこのシンプルな手の運動を、気がついた時特に夜寝る前や車で遠出した運転時など、1日15~30分ほど毎日続けるのを習慣にしました。我が錆びついた頭の機能が、少しずつ回復していくのが実感されました。特にやり始めの頃、普段なら夢はほとんど覚えていないのに、明け方しばしば鮮明な夢を見るようになりました。

 こうして頭と心が少しずつ元気回復して半年ほど経ったその年の秋頃、次に始めたのが「俳句」でした。クルミ回しが我が脳トレの基礎編なら、俳句はその応用編、実践編というべきものだったでしょうか。
 当時も今も、高度な脳トレあるいはボディワークは数多く存在します。しかしいかに高い成果が見込まれるとしても、長続き出来なければあまり意味はありません。その点何事も飽きっぽく三日坊主的傾向のある私には、この2つのワークはまさにうってつけだったようです。毎日欠かさずとはいかないまでも、今日に到るまで継続出来ているからです。

 何で俳句をと思いついたのか、今となっては仔細に覚えていません。しかし思い当たるのは、30代半ば頃(昭和60年頃)脳科学者・品川嘉也の著した『俳句は右脳から飛び出す』といういっぷう変わった俳句入門書を読んで、いたく感じ入ったことです。多分その時その本を思い出し、『イメージ脳である右脳を鍛えなければ。それには俳句が一番いいのでは?』と思ったのだろうと思います。

 俳句は中学2年の国語の授業で、(当ブログ『名句観賞』でも取り上げた)高浜虚子の「桐一葉日当たりながら落ちにけり」「流れ行く大根の葉の早さかな」などの句を教わり、社会人になってから河出書房版・日本文学全集中の『現代詩歌集』の、子規、虚子、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男といった有名俳人の句をぱらぱらと拾い読みしたくらいでした。
 いや中学時代詩作を始めた頃、実は句作を試みたことがありました。しかし頭をひねりにひねってようやく出来たのは、
    世の波に忘れられゆくすすきかな  (拙句-中学3年)
という一句だけという、大変お寒い状況でした。以来俳句を作るのは大変難しいというのが、私の固定観念となっていたのでした。

 その後30数年も経ってから、改めて俳句に取り組もうというのです。しかしその後人間社会の大波にもまれて、さまざまな人生経験を積んできた大人なのだから、今度は俳句を作るのは簡単だろうと思ったらさにあらず。いざ句作を試みても、やはり難しくてなかなか一句として形になってくれないのです。
 10年前俳句について知っていたことと言えば、原則として一句は五・七・五の十七音であること、そして一句の中に「季語」を一つ入れるということだけでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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俳句を始めた頃(1)

 『梅雨の名句(3)』で鷹羽狩行について述べながら、私が俳句を始めた頃のことを思い出していました。今回はその頃のことを述べてみたいと思います。

 私が拙い俳句を始めたのは、今から10年ほど前のことです。
 その頃は現業務を開業して2、3年ほど、また自宅で母を介護して1、2年ほどでした。その頃は思うように業務が確保出来ず、その上連日の母の介護による疲れ、両方から知らず知らずのうちに身心にストレスがかかっていた時期でした。
 今考えれば、当時は軽いうつ病にかかっていたのではないかと思われます。何となく諸事やる気が湧かなかったのです。また例えば深夜母のその日の介護を終えて、座イスを適当に倒しながら身を横たえ見るともなしにテレビを見ていますと、『死にたい』という想いが意識の表面に上ってくるのです。次の瞬間『そんなことを考えてはダメだ』と打ち消せるほど軽症なものながら、その想いは毎晩のように続きました。

 また同時期、若年ボケのような症状も自覚されました。とにかく我ながら呆れるほど、物忘れやとんでもないポカが多かったのです。お客や横浜の県庁窓口に行ったのに、肝心な書類などを忘れてお話にならず、出直しというようなことがけっこうありました。
 『これは放置していたらとんでもないことになるぞ』。早めに何とかしなければと焦りました。何かリハビリの必要性を痛感したのです。しかし当初は何をどうすればよいのか、皆目見当がつきません。しかし先ず思ったのは、『頭の働きを元どおりにしなければ…』ということでした。
 人間の「力」というものを「知力」「体力」に大別した場合、私は若い頃から体力の方はからきし自信がありませんでした。そのため(元々有るか無きか分からないながら)ともかく知力だけが私のすがるべき力なのでした。なのに『肝心の頭がダメになってしまったら…』、それこそ私という人間の一巻の終わりだと思いました。

 そこでボケ症状を直し、知力を取り戻すにはどうすれば良いのか?その方法は意外なところで見つかりました。多分ビデオだったと思いますが、以前評判になった映画『梟の城』(司馬遼太郎原作)を観ていた時でした。その中で戦国武将の前田利家が、居城にいて家臣の者に何事か指示する、というようなシーンがありました。見ればその時利家の手のひらには3個のクルミの実があり、それをくるくる回していたのです。
 途端に『これだ ! 』と思いました。そこでクルミの実をどこからか探し出すことが、当面の懸案事項ということになりました。

 とは言っても、それはそう簡単には見つけられないだろうと思っていました。しかし必要を強く感じているものはどこからか手に入るもののようです。
 時は3月上旬早春の頃のことでした。中津川堤防道のことは、当ブログでしばしば述べてきました。ある午後、いつもの地点より下流(大堰より数百メートル下流)の堤防道端に車を停めて、そこから川に降りて行ったのです。その辺では川の本流は向こう岸側にあり、こちら側はわずか1m弱のちよろちょろとした流れがあるばかり。早春の午後の日を浴びて輝いている細い流れをまたいで、広い中州に入って行きました。
 というのも、そこの州に胡桃の木が3本ほど植えられているのを知っていたからです。その季節葉はすっかり落ちた裸木になっていました。ひょっとしてその木の下に実が落ちていないだろうか?と淡い期待を抱いて木の根元に向ったのです。

 すると、そこら一面に実がどっさり落ちていたのです。思わぬ展開に小躍りしながら、『どうせ今もって誰も拾っていないんだから…』とばかりに、私は一心にクルミの実を拾いました。既に皮は無く黒くて固い殻むき出しの実を、コートとズボンのポケットいっぱいに、詰めるだけ詰め込みました。(なお3本ほどの川中の胡桃の木は、現在では伐採されてもうありません。)
 そして家に持ち帰って、早速その日から掌でのクルミ回しトレーニングを開始しました。当初は回しているうちに、殻表面の黒っぽいのが手に付着したりしましたが、構わず回しているうちに徐々にピカピカ光るほどツヤが出てきました。と共に天辺の角もとれて、より滑らかに回せるようになりました。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『天地人』について(13)

 本シリーズ(12)以来だいぶ間があいてしまいました。前回は第23回「愛の兜」についてでしたが、それから「戸惑いの上洛」「天下人の誘惑」「関白を叱る」と第26回まで、3回分も進んでしまいました。
 この3回は、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)主従の「初上洛シリーズ」といったところでした。この上洛シリーズ、私は素直にまあまあ面白かったと思います。

 なぜだろう?と考えてみました。理由は意外にも簡単で、ドラマの舞台が一気に戦国時代末期の中心地である京都、大坂に一時的に移ったこと。そしてまた織田信長亡き後の戦国大スターである豊臣秀吉(笹野高史)を中心とした、名だたる戦国スターたちが勢揃いしたためです。
 秀吉以外に、徳川家康(松方弘樹)、前田利家(宇津井健)、福島正則(石原良純)、石田三成(小栗旬)、千利休(神山繁)、北条氏政(井吹吾郎)、真田幸村(城田優)…。それら戦国豪華スターたちの中に立ち混じって、景勝、兼続の名門・上杉主従がお家の面子にかけていかに立ち回ったのか?
 おそらく今回の上洛シーンの多くはフィクションであるとしても、当時の歴史的中心地で上杉主従を巻き込んで繰り広げられた人間模様がけっこう楽しんで観られたのです。

 これは何度も述べることですが、やはり戦国ドラマは戦国スターたちによる戦国絵巻が展開されないと面白くありません。例えば越後の直江家の兼続とお船(常盤貴子)の家庭の事情を情緒的に描かれても…。それは現代的メロドラマのテーマを戦国時代にただ移し替えたに過ぎず、これでは面白くない、つまらないとなりがちだと思いますがいかがでしょうか?

 ここで上洛シリーズにおける主要キャスト評を―。
 まず秀吉役の笹野高史についてです。どちらかのブログで、笹野高史は『釣りバカ日誌』での運転者役のイメージが強すぎて、天下人秀吉の風格などありゃせんよ、というような批評がありました。私は幸いにも(?)同映画はあまり観ていませんので、運転手笹野がどういうものなのかイメージが湧きません。
 笹野高史には申し訳ありませんが、「猿のようだった」と評される秀吉の風采には、まさに打ってつけなのではないでしょうか?信長(吉川晃司)存命の頃は、秀吉の特異なキャラクターを誇張し過ぎな演技がいささかハナにつきました。しかし天下人になった現在の秀吉役としては、なかなかさまになっていると思います。

 誇張し過ぎといえば、松方弘樹の徳川家康にもその傾向が見られます。秀吉、家康(ついでに言えば石原良純の福島正則も)を戯画的に演じさせる、これは今回のドラマの演出家、脚本家の方針によるものなのでしょう。
 いずれ秀吉は死に、家康が戦国の世にピリオドを打つことになります。そのプロセスでもなお戯画的に演じさせるのだろうか?あるいは、松方弘樹はどのような家康像を作り上げていくのだろうか?今後注視していきたいと思います。

 何日か前、「小栗旬 目で演技する凄み」というような検索フレーズで本シリーズにアクセスしてこられた人がいました。なるほど言われてみれば。今回の「関白を叱る」の中で、北条家から逃げてきた初音(長澤まさみ)の扱いをめぐって、三成の屋敷で三成と兼続が差しでやりとりするシーンがありました。襖一枚へだてた次の間で、初音は耳そば立てて二人のやり取りを聞いている。その時、小栗旬の「目の演技の凄み」を感じました。
 私の中で「小栗旬映画監督効果」が生じたのか、小栗三成を少し(だいぶ)見直しつつあります。小栗は26歳、主役の妻夫木は27歳。妻夫木の方が一歳年上ながら、役者の力量としては小栗旬の方が上なのかな?と感じられます。

 その他今回私が特に触れたいのは、(おそらく架空の人物に違いない)千利休の娘で上杉主従の上洛中の世話係のお涼役の木村佳乃です。
 個人的な好みで大変恐縮ながら、私は実は現在の日本の女優の中で木村佳乃が一番のお気に入りなのです。彼女は、日本航空の幹部だった父親の赴任先のロンドン生まれだそうです。小学時日本に帰国したものの、中学時今度は父親の転勤でニューヨークで。高校からようやく日本に住み続けることになった、ばりばりのバイリンガルなのです。
 にも関わらず、私は以前から木村佳乃に、日本女優の伝統的気品のようなものを感じるのです。そのような女優さんは、吉永小百合以来本当に数少なくなりましたから。今回のお涼役もぴったりはまっているようです。

 またその父親の千利休役の神山繁。神山利休もなかなか良い味を出しています。今後悲劇的最期をどのように演じるのか、今から楽しみです。

 今回もキャストなどをめぐって、「天地人評」を気楽に述べてみました。上杉主従が越後に戻った途端、また「戦国越後版メロドラマ」に先祖帰りしませんように(既に今回のラストでその徴候が見えていました)。ドラマチックな、上杉版戦国絵巻を期待したいものです。

 (大場光太郎・記)

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