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「黒髪」はどこへいった

 島村抱月主催の芸術座で主演の松井須磨子が歌った『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞、中山晋平作曲)の4番に次のような歌詞があります。

  いのち短し 恋せよ少女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

 また、与謝野晶子の『みだれ髪』のなかに次のような名歌があります。

  その子二十歳(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな

 これらの歌の内容と「当世少女(ギャル)気質」とは、そうとう食い違うところがあるようです。
 
 その第一は、当世の若い女性で「黒髪」というのは、ほとんどおいでになりません。「茶髪」というのでしょうか、たいがいの女性は髪を染めておいでです。古来より我が国では、「黒髪は女の命」「緑なす黒髪」などと讃えられたとうかがっております。それなのに当世では、「日本女性」であることのアイディンテティが保てなくなった故なのか、何の抵抗もなく、猫も杓子も髪を染めたがります。私などは、たまに黒髪のうら若き女性をお見受けすると、かえってゾクッとするような色香を覚えますのに。(男性も、「日本男性」としてのアイディンテティが保てなくなっているのと、相関関係です。)
 
 ともかくそのような次第で、この歌の中の「黒髪の色 褪せぬ間に」を「茶髪の色 褪せぬ間に」、あるいは前掲の与謝野晶子の歌の「櫛に流るる黒髪の」を「櫛に流るる茶髪の」に変えたらどうなりますでしょう?その味わいは?およそシャレになりません。それに語呂が悪いし、第一歌の「叙情性」が根底から崩れます。(但し現代詩では、「茶髪OK」なのでしょう。案外その中から、以外な抒情詩が生まれないとも限りませんが。)

 次に。例えば私のような者が、街中(まちなか)でたむろしている今時のギャルたちに、したり顔で「君たち。恋をしなさいよ。出来るのは、若いうちだけだから。」などと話しかけでもしようものなら。「ヤダー。なにこのオジサン。チョーウザイ。いわれなくたって、コイならいっぱいしてますーぅ。!」てなこと言われそうで、おヽ「チョーコワイ!」。

 もう40年も前、三島由紀夫が「今東京では、矮小で安っぽい恋が氾濫している。そんな恋では、互いを高め合い尊敬し合う気持ちは薄れ、また性エネルギーは、その場限りでたやすく費消され、別の変革エネルギーに転化、昇華される余地が無い」と書いているのを読んだ記憶があります。
 当時ですらそうなのですから。あの頃から比べると信じられないくらい、性の解放が進んだ今日では、さらに安手で刹那的な恋が東京どころか、全国津々浦々で繰り広げられ、今や「聖域の堤防」は、決壊寸前なのかもしれません。

 この『ゴンドラの唄』で高らかに謳い上げているのは、そんな「卑小で刹那的な恋」ではないはずです。この歌は、師・島村抱月とやがてその死に殉ずることになる松井須磨子の、それこそ身も世も捨てた、「身の丈の大きな恋」の絶唱だったのではないでしょうか。
 そして抱月、須磨子のみならず、作詞した吉井勇、作曲した中山晋平の…たぎるような熱い想い。この歌は、彼らの「生命の燃焼」から生まれた、当世ではもう古典化してしまった、大正の青春のモニュメント的名曲なのでありましょう。
(大場光太郎・記)

(『ゴンドラの唄』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)。

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