東海大学湘南キャンパス近辺今昔(3)
私の当時の身の上話は別の機会にゆずるとして。
進学の夢絶たれても夢なお捨てきれず、郷里におりました高校3年の時、『就職してからせめて夜間にでも』と、私立大学の「学校案内」を読んでいた時期があります。その中で、強く印象に残るある人の言葉に出会いました。
それが東海大学創立者(当時は確か学長?)である松前重義氏の、東海大学の「建学の精神」の言葉でした。(今となってはうろ覚えでしたので、今回同大学のホームページでしっかり確認致しました。)
若き日に 汝(なんじ)の思想を培え
若き日に 汝の体躯を養え
若き日に 汝の智能を磨け
若き日に 汝の希望を星につなげ
今改めて味わってみても、心に強く響いてくる大変良い言葉です。
でもその私学案内には、ほかにも早大、慶大など有名、無名の学校が記載されており、一通り目をとおしながらも全部忘れたのに、なぜ松前氏のこの言葉だけが長く記憶に残ったのだろうか。
今回それを考えた時思い当たるのは、高校2年の時、倉田百三の『愛と認識との出発』という本を読んで、強い感銘を受けていたことです。近代日本文学の中で、「青春の理想とは何か」「人生はどう生きるべきか」というようなテーマについて、これほど真摯に真正面から追求した書を私は他に知りません。当時の著名人で若き日にこの書を読んで、「魂が打ち震えるほどの感動を覚えた」というような感想を記していた人がいたほどですが、私もそれに近い感動を覚えたのでした。
同大学の案内によりますと、松前氏は若き日に内村鑑三を訪ねその理想に共鳴し、強い感化を受けたようです。ですから上掲の言葉は、内村鑑三の影響なのかもしれません。内村鑑三の『後世への最大遺物』などを、私も二十歳前後に読み大変感銘を受けました。が、あの『愛と認識との出発』の時ほどではありませんでした。
今でももし『愛と認識との出発』をごく短く要約するとすれば、松前氏の言葉になるのではないだろうかと考えます。
もし当時も今も、東海大学生が松前重義氏のこの言葉を日々心に刻み込み、その4年間のみならず社会に巣立ってからも忘れず…ということだったら、社会にとってすごく有用な人材に育つんだろうな、と推測されます。
事実そうして多くのOBが、社会の中核を担ったのかも知れませんが。
(以下次回につづく)
(大場光太郎・記)
「赤い靴はいてた女の子の像」実見記
4月1日(火)。「赤い靴はいてた女の子の像」を見てまいりました。その時のようすを(一部創作を交えて)以下に記させていただきます。
*
像のある山下公園には、その日の夕方5時少し過ぎ着きました。当日は大快晴。春の彼岸も過ぎ、だいぶ日がのびて、その時間でもまだ十分な明るさです。
公園の中に入るなり、海が見えてきます。山下公園通りから海まで、公園の奥行きは百数十メートル。(全体がほぼ芝生で覆われ、その中に中央公園や大噴水や花壇そして野外彫刻などがあり、樹木が程よく植え込まれています。)さらに歩を進めて岸壁の方に近づくと、そこから数メートル幅の遊歩道が、岸壁に沿って七、八百メートルほど、氷川丸の先までまっすぐ続いております。
横浜でも有数の観光スポットで、夕方は特に賑わうのか、大勢の人々が三々五々散策していたり、ベンチに座って海を見ていたりしています。
岸壁沿いのフェンスまで寄ってみると、海は凪いでいて、青々と少しうねっているのみ。やや強い海風が頬に吹きつけてきます。夕の陽光のもとすべてが明らかに輝き、パノラマのように横浜港が一望に見渡せます。
左側数百メートルほど先には、赤レンガ倉庫、その更に後方にランドマークタワーのノッポな姿。倉庫の手前右手は、大桟橋埠頭でその建物や港湾施設、小さな船が二、三隻停泊しています。残念ながら本日、カモメが群れ飛ぶ姿は見当たりません。その右手から中央部には、遠く対岸の神奈川区の建物群も認められます。そして更に右手も建物群は続き、図抜けて高い二本の煙突も見えています。その辺は川崎市鶴見区です。その川崎の大黒埠頭とこちら側の本牧埠頭をつないで横浜ベイブリッチが架かっております。(皆様ご存知のとおり、ライトアップされた夜景が見事なようです。)そして右端は、その橋の手前に山下埠頭、さらにその手前に岸壁と直交して氷川丸が置かれております。
…そうでした。像のことでした。像を探すまで少し手間取りました。公園の端から氷川丸まで歩き、『ん?』。途中二人の人に尋ねて、結局もと来た道を引き返し、やっと像の所にたどり着きました。
私がすぐに見つけられなかったのも、無理はありません。せめて道の端に案内板くらいあっていいものを、何もなくて。道に接した芝生の一画、直径十メートル弱くらいの石畳のコーナーの中央に、「赤い靴はいてた女の子の像」はありました。
少女の像は、うす褐色の半円錐形の台座の上に載っております。ブロンズ像で、所々緑青色をしていたり地の銅色が見えていたり。見たところ、5、6歳くらいの、小柄なやさしい顔立ちの女の子といった感じです。長い髪を後ろでポニーテールに束ねています。膝を両手で抱えて、海を見つめながら、ちょこんと座っています。靴は、建立当時(昭和54年)は確かに赤かったのでしょう。残念ながら、今では変色して赤くはなく銅色です。(像の写真は、 こころの居間・Ⅱ:「赤い靴はいてた女の子」の話 にあります。)
像というものは、たいがい高くそびえ立っていて、観覧者が仰ぎ見るものです。そして高ければ高いほど、偉い人の像でも、仏像、観音像でも、ありがたがって人々が群がります。
しかし少女の像は、大人の私では少し見下ろすくらいの低さです。思うに、訪れた子供たちの身長、あるいは目線に合うような配慮のもとに設置されたのでしょう。そのため「ありがたい感じ」はだいぶ薄れ、私がそこにいた10分ほどの間、コーナーに接した道を、若いカップルや親子連れなどがけっこう行きかっておりましたが、(私がさっき素通りしてしまったように)皆あらぬ方を向いて通り過ぎるばかりで、誰一人像に関心を示す人はおりません。
少女よ。汝(な)れは、つぶらな瞳で、ただ通り過ぎる人々を如何に見たるや?
少女の眼(め)は、肉の眼には非(あら)ずして、実は心眼(しんがん)なのでは? 私たち大人が視えない真実(もの)を、その澄んだ眼でしっかり視ている…。
自分自身(岩崎きみ)の薄幸だった人生のこと。遠い異国のこと。『赤い靴』が作られた当時のこと。現在のこと。そしてずっと先の横浜港や横浜市の未来の姿を…。すべて幻視している。
ではでは。今正対しているこの私の、過去、現在、未来をも?そして今の私の心の奥底までも?
『おにいちゃん。ずいぶん、たましいよごしちゃったね。まわりのくろいくもで、おにいちゃんのかお、よくみえないよ。』
『すまない。菊子。でも、この世で生きていくっていうのは、こういうことんなんだ。ある程度自分を汚さなきゃあ、生きちゃあいけないんだよ。』
『そうよね。わかるわ。わかってあげる。でも、おにいちゃん。こんどは、もっときれいになってからあいにきてね。そうでないと、おにいちゃんとは、ほんとうのおはなしできないもの。』
そうしていると、60代くらいの、本式なカメラを肩から提げた恰幅のいい人が、像のコーナーに近づいてきました。『また来るよ』。私は静かに像から離れました。
無意識のうちに、『赤い靴』のメロディを口ずさんでおりました。公園を抜けて、横浜スタジアムに通じる大通りに入りました。ケヤキ並木が通り中、目路の限りに続いております。公園に行く前は眼中になかった、ケヤキ若葉が色鮮やかに眼に飛び込んできました。人々が行き交う横浜市街に、爽やかな夕の浜風が吹き渡り、私は関内駅を目指して黙々と歩き続けました。
*
上記一文を、謹んでれいこ様に捧げます。
(「赤い靴はいてた女の子の像」を見にいった理由については、『二木紘三うた物語』にあります拙文をお読みください。)