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2008年5月

東海大学湘南キャンパス近辺今昔(3)

 私の当時の身の上話は別の機会にゆずるとして。
 進学の夢絶たれても夢なお捨てきれず、郷里におりました高校3年の時、『就職してからせめて夜間にでも』と、私立大学の「学校案内」を読んでいた時期があります。その中で、強く印象に残るある人の言葉に出会いました。
 それが東海大学創立者(当時は確か学長?)である松前重義氏の、東海大学の「建学の精神」の言葉でした。(今となってはうろ覚えでしたので、今回同大学のホームページでしっかり確認致しました。)

      若き日に 汝(なんじ)の思想を培え
      若き日に 汝の体躯を養え
      若き日に 汝の智能を磨け
      若き日に 汝の希望を星につなげ

 今改めて味わってみても、心に強く響いてくる大変良い言葉です。
 でもその私学案内には、ほかにも早大、慶大など有名、無名の学校が記載されており、一通り目をとおしながらも全部忘れたのに、なぜ松前氏のこの言葉だけが長く記憶に残ったのだろうか。

 今回それを考えた時思い当たるのは、高校2年の時、倉田百三の『愛と認識との出発』という本を読んで、強い感銘を受けていたことです。近代日本文学の中で、「青春の理想とは何か」「人生はどう生きるべきか」というようなテーマについて、これほど真摯に真正面から追求した書を私は他に知りません。当時の著名人で若き日にこの書を読んで、「魂が打ち震えるほどの感動を覚えた」というような感想を記していた人がいたほどですが、私もそれに近い感動を覚えたのでした。
 同大学の案内によりますと、松前氏は若き日に内村鑑三を訪ねその理想に共鳴し、強い感化を受けたようです。ですから上掲の言葉は、内村鑑三の影響なのかもしれません。内村鑑三の『後世への最大遺物』などを、私も二十歳前後に読み大変感銘を受けました。が、あの『愛と認識との出発』の時ほどではありませんでした。
 今でももし『愛と認識との出発』をごく短く要約するとすれば、松前氏の言葉になるのではないだろうかと考えます。

 もし当時も今も、東海大学生が松前重義氏のこの言葉を日々心に刻み込み、その4年間のみならず社会に巣立ってからも忘れず…ということだったら、社会にとってすごく有用な人材に育つんだろうな、と推測されます。
 事実そうして多くのOBが、社会の中核を担ったのかも知れませんが。
                                   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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コスモスの種蒔きました

 先日ある役所の受付カウンターに置いてあった「コスモスの種」、もらってきた次第を記事に致しました。
 きょうの夕方、少し暇が出来ましたので、その種を蒔いてみようかなと思いたちました。家のベランダのプランターに。南向きで日当たりがいいため、何年か前まではいくつかのプランターをそろえて、その時々の花を植えて楽しんでいたのです。が、そのうち手が回らなくなって…。
 ですから土はありますが、移植コテで突付いてみますと、けっこう固くなっており種まき用土としては不適当なようです。それに種袋の裏面に、「芽が出やすいよう、やわらかい土にタネがかくれる程度(1~2mm)にまきます」とありました。そこで夕方他の用事のついでに、園芸用品や花物を扱っている近くのドイト店に寄ってみました。

 ところが、びっくりです。ドイト店がなくなっているのです。そういえば何ヶ月ぶりかで来ましたから。
 いや実際は、建物などはそのまま残っています。要は看板の付け替えだったのです。246号線沿いにあるドン・キホーテ店が、その裏のドイト店を買収したのだそうです。『どうりで全体がけばけばしくなったわけだ』。例のドン・キホーテカラーである、黄色と赤を基調とした色に、店全体が模様替えされています。私のように色彩感覚にデリケートな者(?)には、できれば避けて通りたい雰囲気の店になっていました。

 ドイトの時もそうだったように、店内の建物に入るまでの敷地が、そのまま園芸コーナーであるようです。だいぶ花物などは少なくなったようですが。えらく背の高い若い男子店員をつかまえて、「コスモスの種を蒔くのに、いい土は?」と聞いてみました。自分では即答できずに、携帯で卸業者に電話で聞こうとしてつながらずに、今度は装着しているマイクを通して店内の誰かに聞いているし…。結局十分ほどかかって、やっと求める土を手に入れることができました。

 こうして、プランター内の既にある土を移植コテでよくほぐしてから、買ってきた土をその上10㎝ほど入れて、コスモスの種を慎重に掌に移し、コスモスの花言葉である「真心」込めて、一つずつタネをもう片方の指でしっかりはさんで、説明どおり浅めに蒔きました。全部蒔き終わって、ジョウロで水をたっぷりかけて…。はい。できあがりです。

 後は芽が出て、ちゃんと育ってくれるかどうか。およそ花物をタネから育てた記憶がない者にとっては、気がかりです。今後もし発芽したり、何だったり…「うまい具合」にいっている場合は、ワクワクしながらその都度ご報告致します。もし私がコスモスに関する記事を出さない場合は、『やっぱりダメだったか』とお思いください。
 (大場光太郎・記)
 

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遥かなるレムリア

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  遥かなるレムリア


  我が心のうちなるヴィジョンに
  うるわしのレムリアがゆらめく
  有史のヴェールの彼方なる栄光の姿が

  レムリアの時 我はその栄華の中にいて
  幾千歳なる長生(ちょうせい)の輝きの賛歌を
  日々謳っていたのではなかったか
  
  なのにかの最大悲劇たる一万ニ千年前
  美(は)しき大陸は
  一夜にして海中に沈みゆけり

  そも長きに亘りし 肉の優位性をば叫ぶ
  アトランティスを霊に導かんがための戦いなるも
  いつしか共に天地の法則に大きく離反せしがゆえ

  我も数多(あまた)の人も皆ことごとく
  海の底深く沈みしかの時
  ああ痛苦痛恨の極みなるかの時

  そのただ中で深き絶望と不信とに浸され
  神の肖像(にすがた)なる我らは
  三次元の低き波動に身を落としてしまった

  かくてレムリアのうるわしの記憶の
  すべてを失い 絶望感と
  無力感のみ魂深く刻み込んだ

  以来汚濁渦巻くこの人閒(じんかん)に
  幾そたび身をば埋めて
  六道の輪廻のうちなる生死を繰返してきた

  かくてアトランティスの猛(たけ)き魂主導の
  血塗られた数千年の現歴史は
  なす術(すべ)なき土壇場に追い込まれている

  されど今 時は今 !
  一プラトン年の半分にほど近きサイクルを
  我が太陽系は巡り来たれり
  
  今レムリア・ルネッサンスなる時
  かの失われし時の反対の軌道に
  我が地球は位置して

  レムリアのかの大神殿の
  厳かにして聖なるセブン・レイズ(七光線)は
  時を超えて我らにふたたび放たれている

              (大場光太郎)

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 (注記)この詩はあくまで、私の多少の知識と拙いイマジネーションに
 よる、フィクション(創作)です。
  なお「プラトン年」は哲学者・プラトンが唱えたもので、太陽系が黄道
 十二宮を一巡する約二万六千年を「一プラトン年」といいます。
   
  

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黒揚羽(アゲハ)

 先日ご紹介致しました「水路道」を、本日昼過ぎまた通りました。
 その道の何の木とも知れない小ぶりな潅木の辺りで、黒アゲハがゆらりゆらりと上下して飛んでおりました。
 『オオーッ。黒アゲハだーッ !』
 私がすぐ近くを通りかかっても、全然逃げるそぶりがありません。黒蝶は、せっかくいい天気なんだからいちいち人なんか気にかけていられるか、といわんばかりです。
 「蝶が私か。私が蝶か。」という問いかけで有名な、かの老荘思想の偉人・荘子の「胡蝶の夢」の中の、荘子の化身なる蝶のように、実に悠然としたようすです。

 紋白蝶(モンシロチョウ)ならごく普通に見かけるものの、黒アゲハともなれば滅多にお目にかかれるものではありません。本日は見渡す限りのすっきりした青空、その上黒アゲハとくれば…。私の心は途端にうきうきし出しました。
 少し通り過ぎてから振り返って見てみますと、黒蝶はまだ同じ所でゆらゆら飛んでおりました。思うにかの蝶は、この暖かい陽気とそよ吹く風に誘われて、私などがうかがい知れないどこかから、ふっとたち現れたものなのでしょう。

 こうして私は、その時間たまたまそこを通ったがために、今年初どころかここ何年も見ていなかった、美しい黒蝶に出会えたのでした。思わぬ「シンクロニシティ」です。
 もし私に、森羅万象(しんらばんしょう)への豊かにして鋭いリーディング能力が備わっていたなら、そんなほんの些細な事象にさえ、普段は隠されているシンボリックな意味を読み解くことが出来たのに…。

 ちなみに帰りにまたこの道を通りましたが、黒アゲハは影も形もありませんでした。
 (大場光太郎・記)

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東海大学湘南キャンパス近辺今昔(2)

 たいがいの学生は駅の方に向かうようです。大学前のその信号は、T字路ですが、私が今停車している道の向う側に細い道があり、そこからくねくねと山坂を下って行くと近道なので、多くの学生はぞろぞろそちらに向かって歩いていきます。
 あるいは私が右折しようとしている県道の歩道を歩いて駅に向かう者も、2、3割くらいはいるようです。その他多分下宿が近いのでしょう、オートバイや自転車でめいめいの方向に去っていく者もいます。服装がバラバラなら、その行動パターンも千差万別です。
 そんな彼らの行き交いを眺めながら、遠い昔のことが思い出されました。
                      
                        *
 私は昭和43年3月郷里の高校を卒業して、厚木市内の小さな測量事務所に就職致しました。
 それから何ヶ月かしたある日、私がこれから向かおうとしている東海大学前駅(当時は確か「大根(おおね)駅」という呼称でしたが)の一本の通りに接した広大な田んぼの測量に、一スタッフとしてかり出されました。今でこそ駅の大通りは両側に各商店や会社などが建ち並び、その裏にも住宅がびっしりですが、その頃は大根駅の周辺にわずか何軒かの店舗があるのみ、後は見渡す限りの田んぼが広がっていたのです。
 いわばこの駅周辺の今日の発展のささやかな一翼を、当時勤めていた測量会社も担っていたわけです。
 
 とにかく私は仕方なく上京し、この仕事に就いているという想いが心のどこかにあり、何事にも身が入らず、よって会社としては使いづらい、いやおよそ使い物にならない若者だったと思います。
 当日は先輩の運転で会社を朝早く出て、9時前には現地での作業にかかりました。私は『アーァ。またきょうもツマンナイ仕事が始まるのか』という乗り気でない態度で、先輩の指示に従って、使いっ走りの補助者として現場を走り回っていました。
 すると、一電車が着いたのでしょう。そのうち駅の方向から、学生たちがぞろぞろぞろぞろこの道を通ってやってきました。今の東海大生と同じで、当時も思い思いの服装でした。その学生たちの数たるや、あきれかえるほどおびただしいのです。実際道から少し入った田んぼの中で見ていると、本当にいつ果てるとも知れない学生たちの大行列です。

 私は彼らを見るともなしに見ながら、あらぬもの想いにふけっておりました。
 彼らは、私と同じ年か2つか3つ年上のはずです。そんな彼らがああやって、身も軽やかそうに大学に向かって歩いている。勿論彼らとて人知れぬ悩みの一つや二つはあったことでしょう。しかしその時の私にはそんなことを考えるゆとりなどなく、彼らはただただ青春を謳歌している、そんなふうにしか見えなかったのです。
 『なのにこのオレは』。こうして田んぼだとか山だとか、普段ならおよそ人気(ひとけ)の
ない所を走り回っている。時には社長や先輩たちに怒鳴られ、夜人知れず悔し涙を流すこともある…。
 
 余りにも歴然たる彼我の差。私はその時改めて、今自分が置かれている身の境遇にいくばくかの悲哀を感じたのでした。                  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)
 

 

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コスモスの種

 きょうは少し変わりやすい天気でした。と申しましても、雨こそ降りませんでしたが。
 日中雲が多く、お日さまが雲間から出てきてカーッと暑くなってみたり、いつの間にか雲間に隠れて薄日がさすのみだったり。周りの景色は?と見渡せば、あたかも未だ春の名残りのような霞みがち。遠くの大山や丹沢連峰は完全に霞みに隠れて、影も形もありません。
 「夏は来ぬ」と高らかに言いたいけれど、これでは「暮春」とも言いたいような。季節の端境期を象徴するような、微妙な一日でした。

 午後厚木市内の神奈川県の出先機関に赴きました。その一階で某証明書交付を受けるための手続を済ませ、「それではこれから準備致しますから、おかけになって少しお待ち下さい。」という窓口の女性のガイダンスで、長いすの片隅に腰掛けて待ちました。
 所内をぐるっと見回しますと、職員が司々(つかさつかさ)で職務にいそしんでいるようです。今日の逼迫した国家財政のもと、中央官庁、各地方公共団体とも「ムリ、ムダ、ムラ」を極力排除すべく腐心しているようです。それに加えて各役所の不祥事が次々に暴かれ、ために国民、県民、市民の各行政へのチェックの眼は一段と厳しくなり、どちらの役所の職員も自ら襟を正して職務に当たらざるを得ないようです。
 私のような、各官庁が相手の業務に携わる者(行政書士)から見ても、ここ数年担当窓口の人たちの応対は、以前とは比較にならないくらい親切になりました。「民」はもはや「変なお上意識」を許さず。現状の厳しい国の状況から生まれた、歓迎すべき「官の変化」です。

 フォーカスする視点を、近めに変えてみました。受付け用の長いカウンターが目に入ります。そのすぐ目の先に、「ご自由にお持ち下さい」という文句が書いてあるケースが目に入りました。『ん?何だろう』。なおしっかり見てみますと、テッシュペーパーが入っているようです。『あれば便利だな』と思って一つ頂戴することにしました。立ち上がってそれを手に取りますと、ケースの中にはもう一つ、花物の種袋が置いてあります。一つ取ってみますと、絵柄から『コスモスの種だな』とすぐ分かりました。裏返しますと、「まきどき…4月~9月」とあります。今は5月、『ちょうどいい時期じゃないの』。
 種袋を手にとっただけで、気の早いことに、私のとりわけ好きな花の一つであるコスモスが、晩秋の風に揺らぎながら可憐に咲いている姿が、パーッと思い浮かびました。
 『よし。これももらっちゃえ』。欲張って2袋も。裏の蒔き方の説明をよく読んで、家のベランダのプランターに、近いうち蒔いてみるつもりです。
 なおその裏面に、コスモスの花言葉も記してありました。「真心」 。行政に携わる方々には今後とも、「真心のこもった行政サービス」を望みたいものです。

 5時すぎ、何と。あれほど全天を覆っていた雲がきれいに払われ、快晴になりました。丹沢連峰の一角の上に、西日がぎらぎらまぶしく、明日の晴天と暑さがもう今から確定されていそうです。                         
 (大場光太郎・記)

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真夜更けに鳥鳴くは

  丑三つ時に鋭(と)き声上げて
  鳴くは何鳥ならんや
  そも鳥はこの時分には
  ねぐらにてうまし眠りの頃合ならんや

  我これまで真夜更けに
  鳴く鳥の声を聞かず
  いかに短夜(みじかよ)とて
  暁にはなおしばしの余裕あらずや

  さあれしばし甲高き声止むことなし
  そもこれ何の前触れならんや
  前触れならずば何ゆえ
  汝(なんじ)かくまで鳴く声高きや
  
  この時分寝もやらず
  目覚めいし我に
  鋭き鳥声よ何を告ぐるや
  何を告ぐるや鳥声よ

            (大場光太郎)

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東海大学湘南キャンパス近辺今昔(1)

 先日、秦野市は小田急線東海大学前駅付近の、顧客の会社に所用で行ってまいりました。同社は不動産関係の会社ですが、年に1、2度伺うくらいの関係です。
 同社に行くのに去年までは、東海大学湘南キャンパスが占める丘陵地帯の底地沿いの道路を、グルッと一回りして行かなければなりませんでした。それが2年ほど前から、同丘陵地の一山を道路一本分切り土する工事が行われておりました。その道路が最近完成したことにより、一直線で同大学校舎の元々の正門前の道路とつながり、東海大学前駅方面にずっと近くいけるようになったのです。

 新たに開通した道路は延長約1キロmほど。広々とした二車線道で今のところ交通量も少なく、同大正門前まではすいすいです。新道建設に伴い、周りの丘陵地一帯も区画整理が進んでおり、この道路から校舎に接する所まで、あと何年かするとこの付近一帯は立派な住宅地に変貌していることでしょう。
 
 湘南キャンパスは、同大学の総本山的な場所ですから、丘陵地の天辺にそびえるその堂々とした威容たるや、ずっと遠くの小田原厚木道路からでも認められるほどです。平塚市と秦野市のちょうど境くらいの土地にあり、同大の案内では校舎の住所は平塚市となっております。
 さながら一大学園都市といった趣きの広大な同キャンパスには、理工系から情報系、社会・人文科学そしてスポーツ系まで、文理融合型総合大学として8学部、それに大学院も併設されているようです。

 ここまではすいすいだったのに、これから元の県道とTの字で交差して、右折して同駅方面に向かうための信号待ちにつかまりました。夕方5時頃で車が混み合う時間帯だったのか、4回ほどの信号待ちとなりました。その間見るともなしに見ていると。キャンパス全体も立派なら、道路に接した同校正門も広々として立派な構えです。
 ちょうど時間的に学生たちの下校時にあたったらしく、その正門から学生たちが出てくるわ、出てくるわ。男子学生も女子学生も、思い思いのカラフルないでたちで。一人だけだったり、3、4人の仲間と連れだっていたり、カップル同士だったり…。                                                       (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)
 

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雨にうたれて

 本日午後から、所用で本厚木駅周辺に出かけました。この方面に行く時は、いつもバスで行くことに決めています。車で出かけて、駐車料金がもったいないからと、駅周辺の路上に少しでも駐車しようものなら。いつ何どき駐車違反で、反則切符を切られるか分かったものではありません。実際過去に幾度か、苦い思いをしておりますから。

 さて所用を済ませて、さるビルの中から一歩外に出てみますと。何と雨がしとしと降っているではありませんか。
 『困ったなあ。傘持ってこなかったのに。』
 すぐ近くにコンビニがありウン百円のビニール傘を置いていますけれど、家に何本もあることだし。雨模様を見るとまあ当分やみそうもないが、たいして大降りでもなさそうだし…。少し迷いましたが、結局多少濡れても仕方ないやと思って、駅北口にある自宅方面バス停に向かいました。

 一番街を歩く人々も、バス停で既に同方面バスを待って並んでいる人々も、そのほとんどがちっきり傘をさしています。『まあ、何と手際のいいこと』。私が出かけてきた二時間ほど前は、うす曇り程度で、とても雨など降るような空模様には思えなかったんだけどなあ。それらの人たちは、手回しよく天気予報を確かめて外出してきたのでしょう。
 バス停のシャレたルーフの部分から、既に何人もはみ出して並んでおります。私はその後ろで、降りしきる雨に打たれながら待つこと五分くらい。「愛川町役場」行きのバスがやって来ました。私の所よりずっと先に行くバスですが、私の所は近い分同系統バスなら何行きでもOKなのです。そこで『とにかく早く乗っちゃえ』とばかりに、隣りで待っていた人たちの最後列につき直して乗り込みました。

 既に座席はいっぱいで、立ちっぱなしとなりました。そのおかげで、雨に濡れた街のようすをうかがうことができました。
 五月の雨の街。しっとりとしていて、なかなかいいものです。途中の厚木中学沿いの桜並木は既に深緑で、雨にそのみどり具合がグッと引き立って目に飛び込んできます。とある家の庭先では、早や「雨に咲く花」アジサイが咲いているのを発見しました。例の青色ではなく、白っぽい花の色でしたけれど。
こうして我がバス停で降りて。それから五百メートルほど、小降りながらしとしと降り続く雨に打たれて黙々と歩きました。
 
 「月様、雨が」と、恋人の梅松。
 「春雨じゃ、濡れて参ろう」と、大川橋蔵演じる月形半平太。
 うーむ。粋で風流じゃのう。
 それにもう一つ。
 ミュージカル映画『雨に唄えば(Singin`in the Rain)』で、ジーン・ケリーが土砂降りの雨の中で、この映画の主題歌を歌いながらタップを踊る名場面。
 そんなロマンチックな場面を思い出しながら…。それにしても、古いねえ私も。
 (大場光太郎・記)

 

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水田そして田植え

   夜蛙(よかわず)の鳴く音(ね)に帰路をせかさるる   (拙句)

 私の居住地から車で厚木市街に向かうには、二つのルートがあります。
 一つ目は表ルートで、津久井方面に通じている県道に出て、その道を1km弱走って246号線に入るルート。こちらは平塚方面に向かう246号沿いの両側に厚木警察や厚木税務署などがあり、一番確かですが平日でもいつも渋滞気味でイライラさせられます。
 二つ目は裏ルートで、対向車とやっとすれ違いできるくらいの狭い道を1km弱走って、中津川沿いの道路に抜けてそこから国道129号線に上り、少し走って厚木市街に入っていくルート。こちらは途中やや道幅が狭いのが難点ですが、ほとんど渋滞はなく急ぎの場合などよくこのルートを通ります。

 このルートの中津川沿いの道までは狭い道ながら、昔からの農家やお寺さんや畑があり、所々に建売住宅やアパートなどが点在するくらいの道です。昔の農道をいつの頃からか、幅狭い車道そして通学児童らのための片側歩道として拡張したもののようです。
 建売住宅の間に、ちょうど一反歩(いったんぶ)ほどの一枚の田んぼが残っております。先週の土曜日(17日)の夕方帰りにこの道を通りました。そうしましたらその田全体に水が張ってありました。
 『早いなあ。もう水を張ったのか。この分じゃあ田植えも間もなくだなあ』。
 週明けの月曜日にまたこの道を通りましたところ、何と素早いことにもう小さな苗が田一面に植えられているではありませんか !

 私の郷里(山形)では、田植えは確か6月も中旬過ぎ頃と記憶しております。そして稲刈りは、秋も深まった10月の中旬以降。当地ではおよそ一ヶ月ほどは早いようです。その分実るのも早く、例年9月中にはさっさと稲刈りを済ませてしまうようです。
 「お味の方は?」。「分かりません」。何せ当地米を食べた記憶がないもので。
 当地のお米屋さんでも、地元米はほとんど置いていないようです。それにポツンポツンと点在するだけの田んぼの現状では、収穫量もたかが知れていますから。農家が自分の家で食するのが目的で、作っているのではないでしょうか。

 今はまだ聞かれませんが。もう少し経つと、その田んぼを通るたびに蛙の鳴き声が、車の窓を閉め切っていても聞こえてきます。年々身近な自然が狭められていく中で、その声はなぜか私をほっとさせます。
 冒頭の句は、今から数年前母がまだ存命の頃、と申しましても寝たきりになり私が母を自宅介護していた頃。業務上の都合で少し遠出して、夜8時頃にこの道を通った際、この田んぼから夜蛙の鳴き声がかまびすしく、「母さんのために早く帰ってやりなよ」というように感じた、そのことを詠んだものです。

 もうそんな時間になりますと、裏道ゆえ街灯も乏しく周りは暗く、田んぼをグルッと取り囲む家々の灯影が、田の水面(みなも)に映って揺らめくばかり。
 知らず知らず自然を狭めている人間界の悪事(?)は、夜の帳(とばり)にうまいこと隠されて、それはそれでなかなか情趣のある光景です。
 (大場光太郎・記)

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水路道(3)―八重桜の切り株

 この水路道で悲しいことが起こりました。
 数軒並んでいる家並みの、私の住居側からこの道に入るとすぐの家の八重桜のことです。その家の狭い裏庭の、この道と境界ぎりぎりの所から八重桜が道に大きく張り出しておりました。幹もけっこう太くて、枝をあちこちに広げて水路道に覆いかぶさっており、他の木を圧倒する存在感でした。
 染井吉野(いわゆる普通の桜)が散って一、二週間ほどするとこの八重桜の出番で、ぽったりした大ぶりなピンクの花を絢爛(けんらん)と咲かせては、この道を通る人の目を楽しませてくれておりました。そして咲き終わると、道の中央のコンクリート上や土の所一面に落花したものでした。それはまるで、最期を心得た美しい貴婦人のように、たいがいはきちんと花びらが上向きで。私は通りながらそれらを踏みつけないように、花が落ちていない所を探しながら通ったものでした。
 真夏のかんかん照りの日などには、その存分に繁った葉群(はむら)が木下闇(こしたやみ)をつくり、格好の日除けになってくれておりました。

 それが昨年のちょうど今頃、その八重桜が十分に咲ききって、すっかり散ってしまった頃合。私は所用を済ませて帰宅するため、午後二時過ぎ水路道を通りました。
 するとその家のご主人が脚立にのぼって、剪定ばさみでくだんの八重桜の枝をバッサバッサと切り落としているではありませんか。道のコンクリート上には、切られて落ちた枝々が無残にも散らばっておりました。
 「どうもすみませんねえ」とご主人。
 「いいえ」と私は言いながら、落ちた枝をよけながら通り抜けました。
 そのご主人はもうそうとうなお年です。とうに七十歳は越えているでしょう。
 『お年寄りが、桜の木の手入れか。まあ大変なこと。それにしてもよくもまあ、派手に剪定しているものだこと。もう少し手加減できないの?』

 翌日の昼過ぎ出かけるのに、またこの道を通りました。
 何と剪定どころか、八重桜そのものが消えてなくなっているではありませんか !
 『エーッ。何でや !』
 私は単なる驚きを通り越して、動悸が一気に激しくなるほどの強いショックを覚えました。見ると枝々は1、5mくらいの長さに切りそろえられ、人が抱えられるほどのいくつかの束になって、その家の土の領分の所に置かれています。幹も根元から1mくらいの所で伐られて、同じようにごろんごろんと…。
 『こんなことがあっていいのか !』
 たかが一本の八重桜の木のことながら。私は何かの悪夢あるいはおよそ起こりえない不条理劇を見たようなやるせなさと怒りがこみ上げてきて。思わず、かの「ムンクの叫び」のような叫びを発したい衝動にかられました。

 …しかしそれは、その家のご主人が熟慮の結果下した結論だったのでしょう。
 『オレが元気で動けるうちに、あの木を何とか始末しなければなあ。後々あの木の世話をしてくれそうな者もいないし…』。
 おそらくご主人は、その八重桜の木に、私などよりはるかに愛着があったはずです。何しろ長年月その木と接してきたのでしょうから。花が咲き誇る一時期だけではなく、春夏秋冬毎日…。ご主人はどんな思いで幹にのこぎりを入れ、かつ引いていたのだろうか?それを思うと、そのご主人を責める気にはとてもなれません。

 しかし私はその後しばらくそこを通るたびに、ついつい八重桜の切り株に目がいきました。根元から1mくらい、直径30cm弱ほどの生々しい切り口。私の分身の一部が切られたような心の痛みと、それを失ってしまった悲しみの感情に襲われました。

 今年はもうその切り株は、ずっと昔からそうであったような古株になってしまいました。それでも、かつてはかなり広く枝々を伸ばして道に覆いかぶさるように繁っていたのに…。その空間がすっぽり空いてしまっている不在感、空虚感を感じながら、今でも水路道を通っております。                              ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

 

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風薫る

 久しぶりで良いお天気になりました。
 空を見渡しても全天に雲一つありません。大快晴です。これぞまさに「五月(さつき)晴れ」。気持ちよい一日となりました。
 外に出てみると時折りやや強い風が吹きつけて、木々のみどり葉はそのたびに小刻みに身をふるわせながら、日をいっぱいに浴びて諸葉(もろば)がツヤツヤと照り輝いています。 まさに「風薫る」にふさわしい一日の光景です。それにしては少し強風のようですけれど、まあそれによって暑さがだいぶやわらげられていますから。
 
 外で見かける人々の姿もすっかり夏めいて感じられます。きのうまでとはうって変わって、おおむね薄着です。白い服装が目立ちます。日傘をさして歩いているご婦人がいます。半そでシャツで颯爽と自転車で飛ばしている、若者の姿も見受けられます。若いお母さんが押している乳母車の中の赤ちゃんが、身も頭も思い切り右に傾けた姿勢で、気持ちよさそうにすやすや眠っている光景にも出会いました。

 陽光がすべての上に照り輝き、その分日陰の暗さもひとしおです。それが更にもっとくっきりと濃い影をつくり、日向との陰翳(いんえい)の際立ったコントラストを見せるようになると、いよいよ夏本番ということの指標の一つになることでしょう。 さすがに、五月の今はまだそれほどくっきりした、光と影のコントラストは感じられません。

 ところで今は、季節感が微妙な時期です。暦の上では『けふ立夏』で述べましたように、今年はこどもの日でもある五月五日が立夏でした。そしてこの文のタイトルであります「風薫る」あるいは「薫風」も、まさに夏の季語です。
 それからいえば今は「初夏」ということなのでしょうが、人はいざ知らず。個人的な感じでは、「晩春」「惜春」の感覚です。『まだもう少し春の余韻に浸っていたい…』。

 いつも行く家の近くの中津川に、本夕も行ってきました。きのうはもろに台風一過そのままの、黄濁しだいぶ増水した流れでした。本日はまだいつもより水かさは多いものの、流れの色はやわらいでおりました。夕方の川辺は特に風が強く、両岸の葦や野草が激しく揺れています。心地よい涼しさです。
 数十メートルの川幅のちょうど中ほどに、二年ほど前に上流から流れ着いた一本の木がそこで止まり、それに芥などが絡み合って直径一メートルほどのミニチュアな島のようになっております。ちなみにその木は、川の水だけで今もしっかり生きており、今年もいくばくかのみどり葉をつけています。
 そこに一羽の白鷺(しらさぎ)が、私がいる間中、下流を見つめる姿でじっとしておりました。その真っ白い優美な姿は、私の目をしばらく惹きつけるに十分なものでした。
 (大場光太郎・記)

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五月の街の詩(うた)

 
  日盛りの街に 風がかすれた声で
  遠い国の歌を歌いながら吹き過ぎる
  家々の垣から木々のみどりが
  顔をのぞかせ 互いに目配せして笑いあう

  カラフルなよそおいの子供が
  おとぎ話の森の小人のように
  とある路地からふいに飛び出してくる

  素敵な女性が自転車で軽快に
  通り過ぎようとして 
  風に帽子を飛ばされる
  
  マクドナルドの「m」のマークが
  高く 日に輝いて 
  今にも空に飛び出さんばかり

  ああ春よ 移ろいゆく時のアラベスクよ
  お前は年々にやさしくたち現れ
  街をみどりに染めあげて
  そ知らぬ顔で去ってゆく

               (大場光太郎)

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水路道(2)―狭まりゆく自然

    夜の蛙(よのかわず)遠き故郷を曳きて鳴く   (拙句)

 当地の厚木市は、小田急で新宿までほぼ一時間くらいと、首都圏ぎりぎりに位置する一地方都市です。それゆえご多分に漏れず、都心のベットタウンとして、私の居住地付近も昭和40年代後半頃からにわかに、「都市開発」の波に容赦なくのみ込まれることになりました。

 厚木市の郊外部である当地は、市街化区域としてそれ以降は住宅建設ラッシュ。それまでの見渡す限りの田畑は、どんどん宅地に転用されていきました。まず縦横に広い道路が敷設され、その中に戸建住宅、工場や会社施設、スーパー、コンビニ…。
 わずかに残された周りの空き地も、次々にアパート、マンション、駐車場などに姿を変えつつあります。つい何ヶ月か前も、すぐ目の前の空き地に、Rパレス21の2階建アパートや何軒かの豪壮な戸建住宅が建ちました。この空き地はそれまで広々とした草地になっていて、よく子供たちがキャッチボールなどをして遊んでいた所です。

 そういえば、数年前まではその時期になると、私の居宅の回り中で、うるさいほど「夜蛙(よかわず)」の鳴く声がしたものです。そのたびに、私は『郷里の山形でもこんなぐあいだったなあ』と、懐旧の感を深くしたものでした。しかしその声も年々細っていき、今では雨の夜などにたまに聞かれるくらいになってしまいました。

 そのようなわけで。周りから目に見えて身近な自然がどんどん狭められていく現状では、この水路道はなるべく通りたい道なのです。
 それは釣り上げられた魚が、口をパクパクさせて必死で水を求めるように。私はわずかな長さのこの小径を通りながら、そのつどつかの間、「自然の気」をいただくわけなのです。私の心はかくも、「自然なるもの」を切実に求めているのです。
                                      (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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また台風が…

     春風にはたはたなびくゆえに旗   (拙句)

 本日は晴れたり曇ったり、移ろいやすい一日でした。
 またもや台風(4号)が日本列島に接近中とのこと。今は遥か南の海上にあり、列島に急接近しながら北上し、関東の当地でも今夜半から明日いっぱいくらいは、荒れた天候を覚悟しなければならないようです。

 午後4時過ぎ、所用で厚木市内にある県税事務所に出かけました。昼過ぎからは晴れて明るかった空が、その頃には全天が雲に覆われてしまっておりました。
 東の空はまだ幾分の明るさを残しながらも。「天気は西からくずれる」 のが気象上の鉄則らしいですが、当市の真西に位置しております大山(おおやま)は?と見ますと、まさに山頂付近は横なびきの大きな白雲にすっぽりと覆われその姿を完全に隠して、何やら怪しげな雲行きです。
 あの分だと、山頂付近はかなり濃いガス状の雲霧に包まれており、それこそ一寸先も分からないほどの視界でしょう。

 大山は古来阿夫利峯(あふりね)とも呼ばれておりますが、この元々の意味は「雨降り峯」ということだったようです。その秀峰は市内の多くの場所から望まれますので、昔の地元の人たちは本夕のような峯のようすを見て、「あヽあれじゃあ、あしたは雨だな」という具合に判断し、それで翌日の農作業などの段取りを考えたもののようです。

 夕方、時に強い風が吹きつけてきました。県税事務所や、裏道をはさんでお隣りの保健所の敷地の桜の木々の、もう深緑といってもよいほどの豊かな深い緑葉が、「嵐の予兆」のような強い風に身もだえのように揺れ動いておりました。
 いつもは木立の周りでかまびすしい、夕鳥たちの姿もあまり見かけず、「寂(せき)として声無し」といったところです。

 それにしても。『5月って、いつもこんなに天気が変わりやすかったかしら?』
 今晩から明日の未明にかけては、当ブログで以前紹介致しました、孟浩然(もうこうねん)の漢詩「春眠」の一節のように
       夜来風雨の声
       花落ちること知りぬ多少ぞ
などというようなことになるのでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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水路道(1)―よく通る小径

 私の住居のすぐ近くに、私が勝手に「水路道」と名づけている通路があります。私は出歩く時よくこの通路を通ります。
 この通路は、昔は付近一帯が田んぼで、それぞれの田に水を引き込むための堀川だったようです。それがこの地域全体が住宅化すると共に、昭和50年代その堀川を埋めて、コンクリート暗渠(あんきょ)とし周りを盛り土して、人が通り抜けできる通路としたもののようです。

 この水路道(通路)は総幅員4m強くらい。中央部の1.2mほどはコンクリートで被覆されています。このコンクリート上を歩いて人が行き来できる通路としたわけです。その両側は共に2m幅ほどで、土や小砂利で覆われています。
 広い通りから通りまで、水路道の総延長はおよそ300mくらいでしょうか。
 私はいつも住宅が建ち並ぶ中の道から、直交してこの水路道に入り、30m弱ほど通って、また反対側の住宅地の中の道を通って…広い道路に出ていきます。私にとって水路道は、便利な近道なのです。

 しかしいつもこの道を通るのには、もう一つ別の理由があります。
 私が通り抜ける水路道の当該箇所の両側には、数軒の人家が建ち並んでおります。その家々の住人たちが各々道に接した土(または小砂利)の所に、梅の木やら柿の木やら何かの木やらの手頃な高さの木々を育てています。
 そのため、そのわずか30m弱の空間が、そこだけこんもりした葉が覆いかぶさり、さながらちょっとした自然の小径(こみち)のような趣きになっております。それが何ともたまらずに、つい通ってしまうのです。

 今の時期、バラの潅木が、幾つもの紅いバラの大輪を咲かせています。地面には、繁殖力の強い花大根の紫の花が少し広い範囲に広がって咲いています。またムラサキツユクサが一塊りで、可憐な青紫の花を咲かせています。背丈の低い連翹の黄なる花の色が、目に飛びこんできます。時折り小鳥たちも訪れ、チチッというような可愛らしいさえずりが聴かれます。
 先の連休の前後には、藤の花が垂れ下がりうす紫の花が見事でした。2.3株こんもりしたアジサイもありますから、今から梅雨時が楽しみです。
 今年の冬は厳冬といわれた中、2月10日にここで、大きく芽吹いた2、3個のふきのとうを見つけた時の嬉しさときたら !  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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オリオン落下譚

  左手に背の高い木立
  右手に豪壮な天守閣をもつ古城
  僕はその真ん中の地面に立って
  そこに開けた星空を眺めていた。

  とりわけ凝視しているのはオリオン星座
  開けた空の中ほどに位置するオリオンの
  その煌(こう)たるきらめきに魅入られている。

  とその時 オリオンの聖なる配置に乱れが生じる
  オリオンを形づくる星という星が
  三ツ星のもとに集まりだしたのだ。

  ああ勇者オリオンが プレアデスのような
  なよなよとした星団になっていく…。

  僕はなすすべもなく呆然と
  そのさまを見つめている。

  と突如 せっかく集まった星が狂ったように
  古城めがけて落ちてくるではないか !

  星々は火の玉のような流星となって
  いや古城などではない
  この僕めがけてだ !

  僕は驚いて退く
  すると今まで立っていたまさにそこに
  ほとぼりが冷めた隕石のような
  オリオンの黒い星のカケがぽとりと落ちた。

  一つ また一つ 退く先々の
  僕めがけて次々と…
  僕は慌てふためいて
  古城の中をひたすら逃げまわる。

               (大場光太郎)

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みどりのそよ風(2)

 以下少々理屈っぽい話しながら―。
 ここで「風」の気象学上の意味を確認しておきましょう。そのごく簡単な定義とは、地球上の大気の水平方向の流れを意味しております。その要素である「風向」と「風速」によって、「南南東の風、風速10m/s(秒速)」などと表記されます。また私たちは実際の風を受けた感じから、「突風」「強風」「微風」…などと体感するわけです。
 『みどりのそよ風』の歌の中の「そよ風」とは、そよそよと吹く微風、体に心地良く感じる風のことであり、この季節の風としては「薫風」と共に最もふさわしい風の表現といえましょう。

 それに致しましても。そよ風でも何風でも、風に色などついてはおりません。上記気象学上の定義は定義として、そもそも「風」は無色透明、実態が掴みづらい代物(しろもの)です。
 古代インド哲学では、この世界を構成する根本要素として、「五大(ごだい)」という五つの要素を唱えました。「地水火風空(ち、すい、か、ふう、くう)」の五つです。この五つの各要素は互いが密接に関連しあって、複雑極まりないこの世界を構成しているのだと捉えたわけです。
 それぞれの各要素に深遠な意味があるようです。例えば問題の「風」は、ごく簡単に申せば「成長、拡大、自由」を表すようです。実際風というものをイメージしてみると、なるほどそうだなあと思えてきますよね?

 以下はその「五大」についての、私の勝手な解釈です。
 どうも「地→水→火→風→空」と順序が進むにつれて、しっかりと固まり実体のあるものから、順々により実体の希薄なより精妙なものに進んでいくようです。それは例えば、「水」が氷という固体になっていて、それが溶けて水という液体になり、遂には蒸発して目に見えない気体に還元してしまう、というような…。
 どうやら五大は、この世界の根本要素であると共に、この順序は私たち人間の心(精神)の「進化のプロセス」を暗示しているもののようです。物、カネなどという目に見える手触りの確かなものばかりを必死になって求めているうちは、『オヌシはまだまだじゃ!』と、暗に諭されているような。

 ともかく『みどりのそよ風』は、「みどり色をしたそよ風」というよりは、新緑のみどりの山や林や木々などを目の当たりにしている作詞者の心に反映されたそよ風の色。あるいはまた「みどりの新緑世界に吹き渡るそよ風」というように捉えた方がよさそうです。

 風に色などないけれど。それでもやっぱり「みどりのそよ風」。うるわしの季節よ !
 (大場光太郎・記)

 (『みどりのそよ風』の歌詞と曲は 「二木紘三のうた物語」にあります。)

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みどりのそよ風(1)

    マガジンをパラパラと読む春の風   (拙句)

 昼過ぎまでは、きのうまでのぐずついていた天気をひきずっておりました。
 まだ雲が空全体を覆い、そのあわいから薄日がさす程度。それが午後2時を過ぎた頃から、雲が少しずつ切れ始め、正真正銘のお日さまがぴかぴか明るい顔を出しました。
 それと共に、きのうまでのうすら寒さはどこへやら。一気にカーッと暑くなりました。わずか一両日の間に早春から盛春に舞い戻ったような陽気の急変ぶりです。外に出ますと、少し汗ばむほどの中にも心地良いそよ風が、私自身にも町なかにも木立にも吹き渡っております。
                       *

        みどりのそよ風 いい日だな
        ちょうちょもひらひら 豆の花
        なないろ畑に いもうとの
        つまみ菜つむ手が かわいいな
 
 当ブログでここのところ、この季節の風物などを折りにふれて書いてまいりました。そんな中である時、いつも私が愛聴致しております、「二木紘三のうた物語」中に、この歌がなかったかな?とふと思いました。同「うた物語」の「マ行の歌」の項目をたどってみますと、ありました ! 『みどりのそよ風』。早速聴いてみました。
 本当にこの季節にぴったりの歌ですね。聴いていて、歌の中の光景がパーッと広がってきます。何とも、心がうきうき弾んでくるような、良い歌ではありませんか !

 私がこの歌を聴くのはいつ以来のことでしょう?ちょっと思い出せないくらい、ずいぶん久しぶりのことです。
 教わったのは小学4年の春の頃だったと思います。簡単なメロディですから、すぐに覚えて当時はよく口ずさんでおりました。しかしいつの頃からか…ついぞ歌わなくなりました。
 こういう歌は童心を失ってしまうと、『あヽいい歌だなあ』と、心の底から実感できなくなるもののようです。おそらくそうして、「心」はどんどんあらぬ方向を向いていってしまうのでしょう。
 しかしこの度久しぶりで聴いてみて、『あヽいい歌だなあ』と、本心から思えたということは?この年になって私にも、「童心」が戻ってきたということなのでしょうか?

 余談ながら、本夕すっかり晴れ渡った中空に、半月にほど近き上弦の月が白くかかっておりました。                              (以下次回につづく)                                             
 (大場光太郎・記)
 
 

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星の荒野にて

  真夜更けの荒野の道を
  僕はただ一人で歩いていた
  荒野を二つに分けて
  道はまっすぐ先まで続いている
  
  右手にこんもりした森が見える
  見るともなしにぼんやり
  森の方を見ながら歩いていた
  
  するとそのうす黒い木立の中から
  一頭の馬が飛び出してきた
  馬は透きとおって青白く輝いており
  僕の方にどんどん近づいてくる

  道の端まできて
  一瞬立ち止まったかとみるや
  僕のすぐ前を颯っと飛び越えた

  そのきらきらした飛越のみごとさ
  その姿の息をのむほどの美しさ
  僕はただ呆然と見守るばかり

  と見ると青白く輝く馬は
  左手の荒野の中で
  忽然と姿を消してしまった

  惜しみながら僕は
  真正面の空を仰ぎ見る
  星々が何とも知れない星座の
  形をつくっている

  なおも仰ぎながら歩いていると
  星座のただ中に
  麗しの乙女の姿が現れ 輝きの顔で
  僕にやさしく微笑みかける

              (大場光太郎)

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みどりの季節

    水面を慕いて飛べリ川つばめ   (拙句)

 台風2号は、列島をかすめたくらいで大過なく…。午後3時頃には、はるか北の洋上で低気圧に変わったらしいけれども。
 その余波で、当然ながら終日曇り。それはまあいいとして、外に出ようものなら冷気をはらんだ強い風が吹きつけ、とにかく寒い。5月だというのに、体感では冬の終わりから、早春の頃の感じだろうか?

 なおも朝鮮半島に大きな雲の塊りがあり、これを低気圧に変わった台風2号のなれの果てが刺激して、西からまた天気が崩れ、それが東に少しずつ移動してきて…。結論として、神奈川県県央地区の当地は、明日もぐずついた天気なのらしい。
 「みどりのそよ風」というタイトルの身辺雑記を考えているのだけれど、それじゃあ明日もダメだ。とほほほほ…。

 それでも外の景色の木々の緑は、曇り日の方がなぜかいきいきと引き立って、目に飛び込んできます。私は山形のど田舎の産なので、とにかく「緑」という自然環境がない土地では、とても生活できないと思います。
 本日、『「自然観」をめぐって』という小論を、当ブログに載せました。また二木先生の『二木紘三のうた物語』に収録されている『枯葉』の私のコメントの中で、「枯葉」などというシャンソンの名曲がある一方で、ヨーロッパの歴史的な都市には余りにも木々の緑が少ない…なぜなのか?ということについて触れさせていただきました。
 

 若き日の、我が憧れのヨーロッパの都市。いえ、今でも十分憧れではあるのです。何分かの地に行ったことが、ついぞないもので。しかし短期的な旅行ならいいとしても、そのいずれかの都市の一角に長く住み続けるなんぞということは、とてもとても。ご遠慮申し上げます。
 かの夏目漱石も、明治時代倫敦(ロンドン)に留学して、すっかりノイローゼになったらしいけれども。漱石の場合は、「明治日本と英国との文明度の落差」または「近代的自我の苦悩」などの、高尚な理由からだったのでしょうが。
 私の場合は、ただ単純に「ヨーロッパの町々にはあまりにも緑が少ないから」という理由だけになりそうです。
 この季節。自然豊かな日本に生まれた身の幸せを、つくづく感じます。
 (大場光太郎・記)
  

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「自然観」をめぐって

  二木先生の『千の風になって』の解説、興味深く読ませていただきました。特に、結論部分のキリスト教とアニミズムの対比論、また今日のキリスト教にも、アニミズムは基層として脈々と受け継がれているというお説。
 先生の造詣の深さと慧眼に改めて感服致しました。

 私も、たかだか二千年前以降に布教、入植してきたキリスト教に「数十万年の基層」を持つ「汎神論的アニミズムの精神風土」が、そう簡単に駆逐されることはないのだろうと思います。
 (パリなどの大都市はいざ知らず)現に、ヨーロッパの各地方では、未だにキリスト教とアニミズム的なものが分かちがたく習合しているような伝統行事や習俗があることを、承知しております。
 近年のヨーロッパ発の「エコロジー運動」は、キリスト教によって封殺されたかに見えた、太古の神々による「アニミズム・ルネッサンス」ではあるまいかと、私は考えます。

 先のコメントの中で、キリスト教を一方的に断罪するようなことを述べ、それにご不快を抱かれた方々もおられたかも知れません。その点深くお詫び申し上げます。
 私が同コメントを通して、暗にお伝えしたかったのは、かかるキリスト教の在り方が、今日アメリカがアフガン戦争、イラク戦争を引き起こした要因の一つになっているのではないだろうか、ということでした。

 私自身は、キリスト教の素晴らしさも、ある程度は認識しているつもりです。カトリック、プロテスタントとを問わず、人類の「霊性の進歩」また「文明の発達」にいかに寄与してきたことか(「中世の暗黒時代」はありましたが)。そして、例えば聖フランチェスコから殉教者・聖コルベそしてマザー・テレサまで、優れた霊的巨人をいかに輩出してきたことか。

 但しキリスト教の場合、私がいつもひっかかるのはその「自然観」なのです。
 浅学を弁えずに申せば、キリスト教は「神」「自然」「人間」の三者を、別個対立的に見るきらいがあるのではないでしょうか。極論を申せば、一神なる神の御前(おんまえ)では、時と場合によっては、人間はおろか自然さえも征服(殺戮、破壊)することも許されるのだというような…。

 他の面ではいざ知らず、こと「自然観」に関して申せば、私は仏教の方が優れていると考えます。仏教は「山川草木悉皆成仏」ー御仏の慈悲によって、我々衆生(人間)のみならず、山も野も川も禽獣虫魚も一木一草さえも皆成仏させようというのですから。自然破壊など起こしようがない、汎神論的アニミズムとも通底した思想です。(その分、文明の停滞は否めませんが。)
                        *
 私は先の『枯葉』のコメントを、その冒頭部分だけで止めておこうかなとも考えました。多分その方が、ずっと綺麗ですっきりしたでしょう。しかし私の中の「天邪鬼」が、それを許さないのです。『もっと書け』と。

 多分この『うた物語』の各コメント、今後とも不特定多数の方々のお目にとまると思います。長くも残るでしょう。よって誤解を与えるようなコメントはいけませんから、申し訳ございませんが、「説明責任」の必要を感じましたので特に述べさせていただきました。

 でも皆様。そんなことより、名曲『枯葉』を二木先生の名演奏で、どうぞ心ゆくまでお楽しみください。
 (大場光太郎・記)

 (この小論のそもそものいきさつにつきましては、 「二木絋三のうた物語」の『枯葉』にある私のコメントをお読みください。)
 

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ひばりそしてつばめ…

 台風2号が近づいているそうですね。
 どうりで。ここ2~3日、当地もぐづついたお天気が続いたわけだ。おとといは終日雨、きのうは曇り。そしてきょうも朝から曇り。少し肌寒いくらいです。せっかくの五月のこの良き季節なのに、あーあッ。
 台風は八丈島の南の海上にあり、現在日本列島に接近中。夜のニュースで確認したところ、気圧は965hPa(ヘクトパスカル)。大型なのでしょうか?でも進路予想図によれば、明日午前中から午後そして夜にかけて、太平洋上を北上するも列島をかすめるくらい…。大過なく通り過ぎてもらいたいものです。
 なにせこのところ、ミャンマーの巨大サイクロン被害そしてつい最近はアメリカ各地で多発したハリケーン…と、続きましたから。

 午後3時すぎ所用で、居住地である厚木市の隣町の伊勢原市に、車で行ってまいりました。同市内の、顧客である不動産会社に用事がございまして。
 厚木市のはずれ、あと少しで「小田厚道(小田原厚木バイパス道路)」に入るという道路の両側に、ケヤキ並木が200mほど続いております。もうケヤキ若葉どころか、うっそうとした並木道といってよいほど、豊かな葉を繁らせています。それがやや強い風にあおられてさながら生きているもののように、時に葉裏をひるがえしながら身をくねらせておりました。

 小田厚道の側道をしばし走り右折すると、伊勢原市街方面です。道のまっすぐの先には、大山(おおやま)がでんと聳え立っております。本日も霞んでおれど、その峰の手前の幾重もの低い山々のさまも、うすぼんやりと確認できます。
 その辺りは、つかの間田園風景が広がっています。窓を閉め切っていてさえ、左側の田んぼの方から、ひばりのさえずりが聞こえてきます。分厚い雲のどの辺りだろうか?その辺の空を仰ぎ見ても、姿は見当たりません。
 ヒッピッピ チッチッチ というような、何か切羽つまったような鳴声です。

 時折り、つばめが地上低く横切って飛んでいる姿もみられます。どだい「つばめ」は、晴れの日はあまりその姿が見られず、むしろきょうのような曇り日などの方が、俄然活気を取り戻したかのように、生き生きと飛び交う姿が見受けられるもののようです。
 だいぶ前にもきょうのような曇り日に、郊外のさる畑で何羽ものつばめたちが、気持ちよさげにすいすい飛び交っている姿を目の当たりにして、驚いたことがあります。

 その道を直進すると、有名な東海大学病院の大病棟群にぶつかります。しかし私はそんな所にはまったく用はなく、そのだいぶ手前を左折して、市街地の方へと向かいます。左折して300mくらいの右側に、太田道灌(おおたどうかん)の石碑が建っております。

 太田道灌は、江戸に初めて城を築いた武将として有名です。しかし後に道灌は、主家・扇谷上杉家の勢力争いに巻き込まれ、同地(現伊勢原市)の主君のさる館(やかた)を訪れた際、家臣の一人によってこの地で暗殺されました(1486年8月25日)。享年55歳。
 近くに首塚、胴塚が残っており、伊勢原市では毎年秋に「道灌祭」が催されます。

 そこを過ぎて少しするといよいよ市街地。こうして、目的の不動産会社を訪問致しました。
 (大場光太郎・記)

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子供の情景(2)

                          2

 次もバスの車中でのことです。ある晴れた日の午後。私は所用で横浜に向かうべく、本厚木駅下車のバスに乗りました。あと一つのバス停で駅という地点の、厚木市役所付近の交差点の信号待ちで停まった時のこと。

 隣の右折車線に、ある幼稚園の園児送迎用のマイクロバスが、私の乗っているバスに並ぶように停まりました。何気なく見てみると、数人の園児たちが乗っています。
 『子供たちを家まで送っていくんだな。きょうはもう幼稚園終わりか。早いなあ』。そんな取りとめもないことを考えました。すると、私が座っている後部最前列右座席にちょうど並行する位置に、男の子が座っているのが見えました。この子だけぽつんと、マイクロバスの最後部近くの座席です。
 その男の子と目が合いました。私はおどけた顔をしてみせました。すると男の子は喜んで、にこっと笑いました。私は味をしめて、次々に百面相をしてやりました。その子はそのつど大喜びです。

 信号が青に変わり、互いのバスが動き始めました。男の子は私に『バイバイ』と、手を振ってくれています。私は後ろにかなりの乗客がいる手前、少しだけ手を上げて『バイバイ』と返してやりました。
 送迎バスの方が先に進みました。それでも男の子は私の方を振り返り、なおも手を振っています。私も再度手を上げて『バイバイ』。
 そのうち向うのバスは右折し、私を乗せたバスは駅を目指して直進し…。

                          3

 連休が明けた日の、夕方5時少し過ぎ。所用を済ませて車で帰宅途中でのこと。
 私の居住地近くの、信号のない裏道の横断歩道の所で、小学4、5年生くらいと思われる女児たちが、5人ほど自転車に乗って横一列に停まって何やら話こんでいるようすです。この季節にふさわしく、女の子たちの服装も自転車の色も何とカラフルなこと。

 『何話してるんだろ?』。少し興味をもって彼女らのようすを見ながら、その横断歩道を左折すべく徐行して近づいていきました。すると彼女らは、やおら互いに右の手を出し合い、
  グー チョキ パー  ジャンケンポン  あいこでしょ  ジャンケンポン ……
と言って、ジャンケンを始めたのでした。私は左折してどんどん遠ざかったので、結果がどうなったのかは知りません。
 しかし思うに。彼女らの家は多分、そこから別々の方角なのでしょう。そこが一緒でいられる最後の地点。それでジャンケンをして…。
 『へえ。あんな遊びがあったんだ』。
 私は今まで知りませんでしたけれど、それが子供たちの間の「別れの儀式」なのでしょう。

 それが面白くて、その後道々その意味を考えました。そうやってジャンケンで勝った者から先に帰っていく。ビリだった者が一番最後まで残り、みんなを見送る…ということか。
 それにしても。子供って、本当に「遊びの天才!」。
 (大場光太郎・記)

 

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詩人の魂―バイロンに寄す

  詩人―おお稀有なる魂よ !
  この人間界の深き泉より
  エッセンスを汲みとり
  万人の心を激しく揺さぶる者よ !

  詩人よ 汝(な)れは世の遊離者ではない
  汚濁渦巻く世の只中で
  その精華を抽象し 研ぎ澄まされた 
  言霊(ことだま)として世に投げ返す
  類(たぐい)稀なる魂よ !

  詩人よ 汝れは単なる言葉の錬金術師ではない
  汝(なんじ)の真の詩人たる所以(ゆえん)は
  汝のなべての言動によって示される
  
  ただ独り 世界の深奥を探りえた確信と
  探りえぬ数多(あまた)の人々との 何たる乖離(かいり)よ
  その孤独 その懊悩 おお高貴なる魂よ !

  母国英国を追わるるは
  世の反逆児たる汝の運命(さだめ)
  神々の原郷たる希臘(ギリシャ)で命果つるは
  神々の愛(め)でにし汝の運命(さだめ)

  詩人よ !  
  時に手弱女(たおやめ)の如く繊細で
  時に武人のように勇敢なる魂よ !

         (原作・昭和46年―大場光太郎)

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子供の情景(1)

 いわゆる良識ある「世の大人」の方々からは、笑われるかも知れませんが。
 私は「インナーチャイルド」―私の中の子供性―を大事に守り育てようと、常々心がけております。それが、私という人間が健全に生きるために、必要不可欠なことだと思うからです。

 それには私自身の子供時代がどうであったかを、折りにふれて振り返ってみることと共に。現に子供である方々(と尊称致しますのは、彼らも「生命の次元」では、私のように十分年をくった者と同等と思うからです。)から学ぶことが一番です。
 「インナーチャイルド」、あるいは「子供そのもの」につきましては、「自然」と共に重要なテーマの一つとして、当ブログでは、今後も折りにふれて取り上げていこうかなと考えております。
 『自分の中の子供を殺すな!』。

 以下の情景は、そんな私がつい最近目に致しました、子供たちのスナップ的寸景です。

                         1

 とある夕方、所用を済ませて本厚木駅から帰宅するために、バスに乗り込みました。
 当日は雨の一日でした。バスの後部右側のイスに座りました。すぐ前の座席は、若いお母さんと5、6歳くらいの女の子です。女の子が窓側です。
 幾つ目かのバス停で、ある親子連れが降りました。その親子が、降りる親子に挨拶しています。くだんの女の子は「バイバーイ!」と言いながら前のめりになって、降りる女の子に向かって、手を大きく振っています。
 『あヽこの親子たちは、この雨の中どっかに遊びに行ってきたんだな』。
 そのバス停を少し過ぎた頃、女の子がやおら窓の方に向きなおりました。右手を差し出します。一面曇った窓ガラスに何か書くようです。『何書くんだろう?』
        あしたも
        あそぼ

 『そうか。「明日また一緒に遊ぼうね」という、さっき降りた女の子への心の中の呼びかけなんだな』。 うっとうしい雨の中。私の心はしばし、ほのぼのとしたものに包まれておりました。                               (以下、次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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感傷的風景

  なにがなしに 心うれしい
  はつなつの たそがれよ
 
  かえり日よ
  ふりそそげ
  緑の野辺に やわらかく

  野は繁り 畑(はた)青し
  はるかな峰の上なる
  淡いあかねの空よ

  それゆえに夢見るは
  ひたすらな愛
  少女より 限りなく―

    (原作・高校3年時―大場光太郎)

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春霞み

   大山(おおやま)も丹沢もみな霞みをり   (拙句)

 きょうもいいお天気でした。ただきのうのような快晴ではなく、空のほぼ全体をうすい雲が覆っています。しかし太陽はそのうすい雲をとおしてギラギラまぶしく、よってきょうもけっこう暑いのです。

 気象上では、雲が空全体の2、3割以下くらいなら「晴れ」、それ以上ならば「曇り」ということなのでしょう。では、本日のような空模様の場合はどうなのでしょう?晴れなの?曇りなの?
 まあそんな固いことは抜きにして。現にお日様はうすい雲をとおして輝き、我が下界のもの皆は明るいのですから。よって私の本日の日誌には、「晴れ」と記すことに致します。

 そんな具合の空模様の下(もと)で、当地の景色は?と申しますと。
 これが、遠くの景色ほど、うっすらと半透明な膜がかかったようにボーっと霞んでおります。昨日は山襞がくっきりと見えておりました大山の峰も、その右のそれよりやや低く連なる丹沢連峰も、その手前の幾重にも重なる山々も、みんな一つながりに霞んで見えました。

 まさに「春霞み」です。いえ、俳句の方では、既に「霞み」そのものが春の季語なのです。ですから、「霞み」という一つの季語だけで、うららかで少しアンニュイさが漂う春の景色が、パーッとイメージできるような仕掛けの言葉なのです。

 「霞み」だけではなく、その一つの季語の中に、その言葉の持つ季節感がぎゅっと凝縮されて、読む者誰しもが普遍的な季節感を共有できる。そんな季語が各季節ごとに、数多くあります。

 私たち日本人の、先人たちの智慧の豊かさ、繊細さ、奥深さが、「季語」一つ取ってもよく分かります。そんな我が国固有の「民族的叡知」「無形の文化遺産」を、今の若い人たちにはしっかり受け継いでいただきたいな、そう心から願います。
 「ギャル語」はギャル語で、痛快で面白くて、それはそれでいいけれども…。
 (大場光太郎・記)

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連休は終わったけれど

   春の岬旅の終わりのかもめ鳥浮きつつ遠くなりにけるかも  (三好達治)

 ゴールデンウィークも終わりました。
 皆様。今年のゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたでしょう? 何か良い思い出がつくれましたでしょうか?
 私は連休入りたてに「柿若葉」で申しましたとおり、開設間もない当ブログと、未処理の業務のことで頭がいっぱいで、のんびりどこか小旅行でも…などとはとてもとても。
 
 連休明けの本日。当地ではきのうにひき続き良い天気でした。しかし『あヽ連休も終わったなあ』と思うと、同じいい天気なのに、きのうとは気分がどこか違います。
 そう。例えば、「ハレ」のお祭りが終わった後のような。また楽しい宴の後のような。心のどこかに何かしらぽっかりと穴が開いたような、少し空虚な感じ…。
 でもそんなことはいっていられません。ハレの非日常の世界から、ごく当たり前の日常の感覚に急ぎ戻して。再び心のネジを巻き直して、業務に戻りませんと。

 ともかく。本日当地は大変暑うございました。
 家の中(事務室)にいては背広では暑いので、ワイシャツで執務致し、午後4時前所用で外出致しました時は、乗ってすぐ車の冷房を入れて…。
 ついおととい(こどもの日)には、「けふ立夏」にて「本日立夏とはいっても、夏の気配はどこにも感じられない」というようなことを述べたばかりなのに。本日は、気配どころか「夏そのもの」を感じまくりの一日で。
 まさに唱歌、『夏は来ぬ』の一節が思わず口をついて出る、そんな一日でした。
       卯(う)の花の匂う  垣根に
       時鳥(ほととぎす)  早も来鳴きて
       忍び音(しのびね)もらす  夏は来ぬ

 時鳥はともかく。私が郷里の山形で少年時代お世話になっておりました、母子寮(昭和50年代廃寮)の玄関横の小花壇の垣根として、「卯の花」がこの季節白い花を咲かせておりました。ふとそんなことも連想されて、しばし懐かしい感じに浸りました。
 「卯の花垣根」は既に時代遅れなのか、当地の気候に適していないのか。この辺りではあまり見かけないようです。

 ゴールデンウィークは終わりましたけれども。
 皆様。うるわしの五月はまだ始まったばかりです。
 (大場光太郎・記)

 (文中引用しました『夏は来ぬ』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります。)

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雨の水仙

  ひとしきり春雨は降る
  きぬのように やわらかく
  
  とある庭のかたすみに
  水仙一群(ひとむら) 雨に濡れて咲く
  まだつぼみの淡い黄なる花を
  うつむきかげんに垂れて
  冷たい風に 身をこきざみにふるわせて

  おまえたちは語り合う 密やかに
  何を語り合っているのか知りたくなって
  そっと近づいてみると
  急に口をつぐんでしまう かそけさで

     (原詩・高校3年時ー大場光太郎)

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クレマチス

   この年も陰で咲きをりクレマチス   (拙句)

 きょうは、朝からすっきりした晴天の一日でした。
 ゴールデンウィーク最終日の、私たちへの天からのプレゼントのようなひと日…。

 昼過ぎ所用で外出致しました。近所のいつも通る大路に面した目立たないとある食堂の、北側の隣地との境界沿いに。鉄製のフェンス伝いにクレマチスが見事に咲き誇っております。一つの株から青紫色の大ぶりな花をいくつもいくつもつけて。その数ざっと20あまりも。ほれぼれするくらい、見事な咲きっぷりです。

 毎年この花は、いつもこの時期そうして、通る人々の目を楽しませてくれるのです。
 北側ですから、当然一日中日陰です。食堂の北側の隣地は、広々とした無舗装の駐車場です。そして花といえばこの花だけですから、余計人目をひくのです。遠くからでも、目に飛びこんでまいります。

 ここで、クレマチスについて、少しご説明させていただきます。
 クレマチスは、キンポウゲ科クレマチス属で、つる性宿根草の花です。我が国では昔から、クレマチスよりは「鉄線(てっせん)」という名で広く知られています。元々の鉄線は、江戸時代中国から渡ってきて茶花として愛された、クレマチスの一品種のことのようです。現在のクレマチスの多くは、日本の自生種「カザグルマ」が、ヨーロッパに渡りあちらの他種との交配により品種改良され、我が国に戻ってきたもののようです。

 …今クレマチスの最盛期。私はちょっぴりいい気分になって、この花にジッとフォーカスしながら歩きました。通り過ぎてからも、しばしその花の姿を残像にとどめて。
 明るい5月の日差しと、日陰のクレマチス。この際立ったコントラスト。たまりません。

 (大場光太郎・記)

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時には小鳥のさえずりを…

時にはぶらっと 外に飛び出してみましょう
するとまるで何かに吸いよせられるように
 街の方へ にぎやかな方へ 人が群がる方へと
足が向かいがちです
そんな時は心の舵を おだやかに
それとはまったく別な方向へ 切ってみましょう
 人の行かない方へ 建物が切れた方へ 自然の方へと

自然がより豊かな方へ 歩いてみましょう
(ほんの少し木立のある小公園でもいいのです)
大きな川が近くにあれば
思いきって そこまで足を伸ばしてみましょう
(近くに手頃な小山などあればなお良いでしょう)

うるわしのこの季節
木々の葉群の鮮やかな色つや
家の垣や畑に溢れている花々の
黄や赤やのとりどりの色と形を
目に 心にしみこませましょう

時には立ち止まって 道端の名もない草花に
見入ってみましょう しゃがみこんで
心の中で そっと語りかけてみましょう
そこまで 草花と心を通わせれば
草花たちは こっそり教えてくれるかもしれませんよ
『自然は あなたが考えているよりずっと
ずっと豊かで 神秘的なものなんですよ』

川に着いたら たもとの土手に腰をおろしましょう
ゆったり流れる川面を じっと見つめてみましょう
今年の葦が 去年の枯葦を追い越して
勢いよく背丈を伸ばしていますね こちら岸でも あちら岸でも
時に川の中ほどで みごとな鯉が大きな渦を起こし
もんどり打って 川面から飛び出してくるかもしれませんよ

対岸の木立に目をやりましょう
人が犬を連れて散歩していますね
空のようすはどうでしょう
ぽっかり浮かんで 静かに流れていく雲のさまは…

頬をかすめ去る そよ吹く風を感じてみましょう

『あっ!』 小鳥がどこからか飛んできましたね
近くの石に止まりました
セキレイですね 何ときれいな小鳥なんでしょう
少しすると またどこかへ飛んでいきましたね

チチッ チチッ チュルルルルル ……
そういえば どこかで鳥がさえずっていますね
その声に 両耳をそばだててみましょう
どうでしょう 何か感じませんか
『たかが小鳥のさえずりじゃないか』 いえいえ
彼らの音色は 3次元世界をはるかに超えた
高い次元の旋律らしいですよ

(大場光太郎)

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けふ立夏

    雲生みて阿夫利峯立夏し給へり    (拙句)

 『そういえば今年の立夏って、いつなのかなあ?』。
 本日夕方ふとそう思いました。するとにわかに気になって、急ぎカレンダーを見てみると。何と本日5月5日こそ、まさしく「立夏」だったではありませんか!

 私は趣味で、多少俳句をかじっております。それで「季節の変わり目」には、少しは敏感なのです。だって「俳句の世界」では、周りの現実世界がいまだ春真っ盛りであっても、暦で立夏なら、その日からもう夏スタート!なのですから。
 したがいまして厳密に申せば、本日からは周りの景色に何としても夏の気配を感じとって、しっかり夏の季語を使った句を作らなければなりません。

 そうは申しましても。本日当地では朝からどんよりした曇り空で,吹く風もやや肌寒いくらいでした。句作の達人ならぬ私には、そんな中で夏をかぎ分ける鋭敏な感性など、とんともち合わせてはおりません。
 よって冒頭の句は、本日作ったものではなく、だいぶ前の立夏の大山・阿夫利峯(あふりね)のさまを詠んだものです。

 …ともかく。きょう5月5日は、「端午の節句」にして「立夏」。ダブルで佳き日。こういうめでたい日にはなおのこと、「菖蒲湯(しょうぶゆ)」でも立ててとっぷり体ごと浸かりたいもの。こどもの日に飾る武者人形のように,菖蒲にあやかって「勝負」「尚武」の心をあらためて養い、その上欲張って「厄除け」「無病息災」も願うとしよう…と思いつつも。
 無粋な私はいまだ、菖蒲とあやめとかきつばたの区別もつかず。さらに夜7時も過ぎて、どこで菖蒲の葉を求めたらよいのやら、それさえ分からず…。
 単なる思いつきで、すぐあきらめました。
(大場光太郎・記)

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鯉のぼり

    鯉のぼり風で己(おの)が身肥やしけり   (拙句)

 本日は5月5日。こどもの日。端午の節句です。
 この季節車で近所を回ってみますと、方々の家の庭で鯉のぼりが泳いでいます。そんな光景を見かけると、『おっ。この家にはやんちゃ盛りの男の子がいるのかな』と、ほほえましくなります。

 真鯉、緋鯉、子鯉の鯉のぼりが色とりどりで、上から下に何匹も連なっていて。それに薫風が吹き込んで、胴体を大きくふくらませて真横に泳いでいたり。時に風がほとんどなかったりすると、支柱に沿ってだらんと垂れ下がっていたり。

 (地域差があったかもしれませんが)私が少年時代を過ごした(遠い昭和三十年代のこと)山形の田舎町では、この季節でも鯉のぼりはあまり見かけなかったように記憶しています。それは(白黒)テレビがまだほとんど普及しておらず、あるのはその地域でも有数の資産家の家だけ。それと同じようなものだったのかなと思います。
 極貧クラスの家のこどもだった私は、夕方友だちと示しあわせて、テレビのある「だんなすの家(旦那衆つまり金持ちの家)」に押しかけ座敷に上がらせてもらって、しばしテレビを見せてもらったものでした。

 それはともかく。今このように多くの家で、鯉のぼりが風に泳いでいる姿を見られるのは、豊かな社会であることの一つのシンボリックな表れとして、大変喜ばしいことです。

 ところでそもそも「鯉のぼり」は、どのようにして始まった習慣だったのでしょう。知っているようで、あまりよくは分からないところがあります。
 こどもの日にあたって、昔ーそれが遠い昔であったとしてもー間違いなくかつて「こどもだった者」として、大いに興味をそそられます。
 それで少し調べてみました。その結果、おおむね以下のようなことが分かりました。

 「鯉のぼり」は、江戸時代中期以降に発明されたもののようです。
 当初は「武者のぼり」というのぼり旗の中の「鯉の滝昇り」という、立身出世祈願の図柄から開発された、「鯉の吹流し」(幟旗の付属品)でした。それ以前、端午の節句に庭に立てられていたのは武者のぼりの方でした。
 こうして大空で鯉が泳いでいる趣向の鯉のぼりは、武者のぼりの変形として考案されたもののようです。当初は武家から始まり、それが徐々に庶民の間にも広まって今日の隆盛な慣習に至っているもののようです。

 私が居住している(神奈川県県央部の)厚木市では、晴れた日は、屋根より高い空で身をくねらせながら泳ぐ鯉のぼりの、西の方のずっと遥か先に、大山・阿夫利峯(あふりね)のひときわ高い峰が望まれます。
 端午の節句の空のもと、郊外の田んぼにはレンゲ草、いたる所に新緑の木立、大山の雄々しい姿そして鯉のぼりと、実にのどかで平和な光景です。

(大場光太郎・記)

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「赤い靴はいてた女の子の像」実見記

「赤い靴はいてた女の子の像」実見記

 4月1日(火)。「赤い靴はいてた女の子の像」を見てまいりました。その時のようすを(一部創作を交えて)以下に記させていただきます。
                        *
 像のある山下公園には、その日の夕方5時少し過ぎ着きました。当日は大快晴。春の彼岸も過ぎ、だいぶ日がのびて、その時間でもまだ十分な明るさです。
 公園の中に入るなり、海が見えてきます。山下公園通りから海まで、公園の奥行きは百数十メートル。(全体がほぼ芝生で覆われ、その中に中央公園や大噴水や花壇そして野外彫刻などがあり、樹木が程よく植え込まれています。)さらに歩を進めて岸壁の方に近づくと、そこから数メートル幅の遊歩道が、岸壁に沿って七、八百メートルほど、氷川丸の先までまっすぐ続いております。
 横浜でも有数の観光スポットで、夕方は特に賑わうのか、大勢の人々が三々五々散策していたり、ベンチに座って海を見ていたりしています。
 岸壁沿いのフェンスまで寄ってみると、海は凪いでいて、青々と少しうねっているのみ。やや強い海風が頬に吹きつけてきます。夕の陽光のもとすべてが明らかに輝き、パノラマのように横浜港が一望に見渡せます。
 左側数百メートルほど先には、赤レンガ倉庫、その更に後方にランドマークタワーのノッポな姿。倉庫の手前右手は、大桟橋埠頭でその建物や港湾施設、小さな船が二、三隻停泊しています。残念ながら本日、カモメが群れ飛ぶ姿は見当たりません。その右手から中央部には、遠く対岸の神奈川区の建物群も認められます。そして更に右手も建物群は続き、図抜けて高い二本の煙突も見えています。その辺は川崎市鶴見区です。その川崎の大黒埠頭とこちら側の本牧埠頭をつないで横浜ベイブリッチが架かっております。(皆様ご存知のとおり、ライトアップされた夜景が見事なようです。)そして右端は、その橋の手前に山下埠頭、さらにその手前に岸壁と直交して氷川丸が置かれております。

 …そうでした。像のことでした。像を探すまで少し手間取りました。公園の端から氷川丸まで歩き、『ん?』。途中二人の人に尋ねて、結局もと来た道を引き返し、やっと像の所にたどり着きました。
 私がすぐに見つけられなかったのも、無理はありません。せめて道の端に案内板くらいあっていいものを、何もなくて。道に接した芝生の一画、直径十メートル弱くらいの石畳のコーナーの中央に、「赤い靴はいてた女の子の像」はありました。

 少女の像は、うす褐色の半円錐形の台座の上に載っております。ブロンズ像で、所々緑青色をしていたり地の銅色が見えていたり。見たところ、5、6歳くらいの、小柄なやさしい顔立ちの女の子といった感じです。長い髪を後ろでポニーテールに束ねています。膝を両手で抱えて、海を見つめながら、ちょこんと座っています。靴は、建立当時(昭和54年)は確かに赤かったのでしょう。残念ながら、今では変色して赤くはなく銅色です。(像の写真は、 こころの居間・Ⅱ:「赤い靴はいてた女の子」の話 にあります。)
 像というものは、たいがい高くそびえ立っていて、観覧者が仰ぎ見るものです。そして高ければ高いほど、偉い人の像でも、仏像、観音像でも、ありがたがって人々が群がります。
 しかし少女の像は、大人の私では少し見下ろすくらいの低さです。思うに、訪れた子供たちの身長、あるいは目線に合うような配慮のもとに設置されたのでしょう。そのため「ありがたい感じ」はだいぶ薄れ、私がそこにいた10分ほどの間、コーナーに接した道を、若いカップルや親子連れなどがけっこう行きかっておりましたが、(私がさっき素通りしてしまったように)皆あらぬ方を向いて通り過ぎるばかりで、誰一人像に関心を示す人はおりません。

 少女よ。汝(な)れは、つぶらな瞳で、ただ通り過ぎる人々を如何に見たるや?
 少女の眼(め)は、肉の眼には非(あら)ずして、実は心眼(しんがん)なのでは?  私たち大人が視えない真実(もの)を、その澄んだ眼でしっかり視ている…。
 自分自身(岩崎きみ)の薄幸だった人生のこと。遠い異国のこと。『赤い靴』が作られた当時のこと。現在のこと。そしてずっと先の横浜港や横浜市の未来の姿を…。すべて幻視している。
 ではでは。今正対しているこの私の、過去、現在、未来をも?そして今の私の心の奥底までも?

 『おにいちゃん。ずいぶん、たましいよごしちゃったね。まわりのくろいくもで、おにいちゃんのかお、よくみえないよ。』 
 『すまない。菊子。でも、この世で生きていくっていうのは、こういうことんなんだ。ある程度自分を汚さなきゃあ、生きちゃあいけないんだよ。』
 『そうよね。わかるわ。わかってあげる。でも、おにいちゃん。こんどは、もっときれいになってからあいにきてね。そうでないと、おにいちゃんとは、ほんとうのおはなしできないもの。』

 そうしていると、60代くらいの、本式なカメラを肩から提げた恰幅のいい人が、像のコーナーに近づいてきました。『また来るよ』。私は静かに像から離れました。
 無意識のうちに、『赤い靴』のメロディを口ずさんでおりました。公園を抜けて、横浜スタジアムに通じる大通りに入りました。ケヤキ並木が通り中、目路の限りに続いております。公園に行く前は眼中になかった、ケヤキ若葉が色鮮やかに眼に飛び込んできました。人々が行き交う横浜市街に、爽やかな夕の浜風が吹き渡り、私は関内駅を目指して黙々と歩き続けました。
     
                          *

   上記一文を、謹んでれいこ様に捧げます。

 (「赤い靴はいてた女の子の像」を見にいった理由については、『二木紘三うた物語』にあります拙文をお読みください。)

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柿若葉

    お日さまが天辺にあり柿若葉   (拙句)

 時あたかもゴールデンウィークの真っ只中です。
 新緑まぶしい、麗しの季節。皆様、いかがお過ごしでしょうか?

 私はといえば、4月29日(火)に当ブログを開設したばかりで、何せお載せできる記事がまだあまり無くて。何とか、当ブログを訪れて下さった皆様にご満足いただくべく、少しでも記事をふやすのに余念のない日々を送っております。
 それに。実は、本業であります「行政書士業」の未処理の案件が少し(いやだいぶ)たまっておりまして。華のゴールデンウィークなのに、その期間に出来るだけ処理すべく、そのやりくりにも大わらわです。

 新緑の季節。私にとりましては、この季節は一年中で一番好きな季節かも知れません。
 少年時代(18歳)までを、私は郷里の山形で過ごしました。その頃は、東北の遅い春の訪れとともに、豊かな緑が山河にいっせいに溢れるこの季節と。そして仲秋から晩秋にかけての、紅葉の季節がどちらとも甲乙つけがたく好きでした。
 と申しますのも、山形の紅葉は、関東以南にお住まいの方々にはちよっと想像が出来ないくらい、それはそれはみごとな色彩の紅葉なのです。東北のある一定以上の秋冷の気候が、巧まずして色鮮やかな紅葉に染め上げるのでしょうか。
 郷里の小高い山々が全山美しい紅葉に覆われる…。

 唱歌の『紅葉(もみじ)』に、  
     赤や黄色の色さまざまに 水の上にも織る錦(にしき)
とありますが、まさにこの歌さながらの情景でした。
 とにかく我が郷里山形は、春は新緑、夏は深緑、秋は紅葉、冬は根雪。四季のメリハリが実にはっきりしておりました。

 それがこちら(神奈川県厚木市)に居住致しましてより、秋の紅葉の季節にはあまり感興がそそられなくなりました。というよりも、当地ではいつ秋になり、いつ冬になったのか、いまひとつ定かではないところがあるのです。紅葉とはいいましても、何やらうすぼんやりとボケた色合いで。

 …というわけで、今の私にとりまして「新緑の季節」は、一年中で一番好きな季節となりました。
 今当ブログも、「若葉」をバックに使用致してります。どうでしょうか、皆様。ご感想は?気に入っていただけておりますでしょうか?私は自ら選んだだけあって、大いに気に入ってます。この季節には、毎年この若葉のバックを使おうかなと、考えております。

 樹木、草木の若葉の中でも。とりわけ、「柿若葉」のまぶしさ、美しさといったらないですよね。
 桜が散り始めると共に、『待ってました。さあ今度は、おいらの出番だよ!』とばかりに。家々の庭や垣根越しや畑などに、始めは淡い萌黄色の小さな葉っぱが、わずか半月ほどの間に見る見る色も緑をまし、葉っぱがぐんぐん大きくなっていきますよね。
 日にまぶしく輝いている柿若葉を、ほんの一瞥しただけで、心うきうきしますね。
(大場光太郎・記)

  (文中引用しました『紅葉』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります。)

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「朧月夜」-私たちが失ってしまった原風景

 
 

 菜の花畠に入日薄れ 見わたす山の端霞ふかし…。
 昔の田園風景が鮮やかに甦ってまいります。懐かしい、懐かしい風景です。さながら、この歌だけで完結している、一つの小天地の趣きです。
 一番は夕景、二番は夜景。主役は春満月です。その月がおぼろがかっています。
 月がおぼろであることによって、なおのこと。暗くなりまさるほどに、霞みつつやわらかな光りに照らし出された下界の皆悉くが、絵画的なものに、詩的なものに異化され、昇華されてゆきます。
 たとえば、田中の小路をたどる、常日頃は平凡な一村人さえも。

 かてて加えて。七五調の文語体とはかくも格調高く、美しいものだったのだろうか。かかる文体に滅多に接する機会のない私たちにとっては、この歌詞のような流麗な文体を目の当りにすると、とうの昔に失ってしまったものへの懐旧の念、愛惜の念をあらためて呼び起こさせてくれます。
 かつては、全国どこにでもあった田園風景。都市部では特にその多くが消失し、残っている所を「原風景」と呼ばなければならない。田園風景に囲まれて育った者にとっては、悲しいことです。

 さらにこの歌には、見逃してはならない大切なポイントがあると思います。
 文語体の歌詞と一体になって溶け込んでいるかのような、見事なメロディの、そのゆったりとしたテンポです。私たちはすっかり忘れておりましたが、これが自然本来のリズムなのではないでしょうか。
 聴いていて、実に心地良いリズムでありテンポです。これこそが、やすらぎの、おおげさにいえば、星と星、星系と星系、銀河と銀河を、音もなく静かに真釣り合わせている「宇宙的律動(リズム)」なのではないでしょうか。

 私たち人間は、疑いようもなく「自然の児」です。したがって、この歌のこのリズムこそが、本来の「人間のリズム」でもあるはずです。私たちのついこの前までの先祖が、当たり前のものとして暮らしていたはずのリズム…。
 私たちは一体いつから、このリズムから大きくはみ出してしまったのだろうか。はみ出して、自然とは別のものを血まなこで求めて、本当に幸せになれたのだろうか。
 「人間のテクノロジーがどんなに進歩しても、自然は決してそれに出し抜かれたりはしない」。ある賢者の言葉です。

 皆様。しばし、一切の世事、雑事を忘れて、二木先生の『朧月夜』の素晴らしい演奏に聴き入りましょう。
 そして、現代人の誰もがそうである「騒ぎすぎる血」を鎮めましょう。 
(大場光太郎・記)

 (『朧月夜』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。)

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古賀政男の失恋&名曲誕生秘話

 昭和3年夏。宮城県青根温泉。古賀政男がその地で、自殺まで思いつめた理由は,謎とされているようです。生活苦?失恋?あるいはその前年「ただぼんやりした不安」 という言葉を遺して自殺した、芥川龍之介の影響?
 私は、一番大きな原因は、やはり「失恋」だったのではないかと思います。

 古賀政男の失恋の相手は、中島梅子という、年上でバツイチの、芸術的センスに溢れた八頭身美人だったようです。彼女は古賀の音楽上の教え子で、いつしか恋仲になったようです。

 結婚も考えたようですが、生活苦も重くのしかかっているし…。
 悩んだ末彼女との別れを決意した時の古賀青年の心中、察するに余りあります。
 真剣な恋だったがゆえに、苦悩は相当なものだったでしょう。
 それは古賀青年にとって、大きなイニシエーション(通過儀礼)でした。
 それを乗り越えて人間として大きく飛躍するか、自殺してしまうかの、ぎりぎりの。
  
 結局古賀は、自殺を思いとどまりました。
 大イニシエーションのクリアーです。新たに生まれ変わったわけです。
 その成果が、『影を慕いて』という一曲に結実しました。

 ひるがえって中島梅子は、古賀が再生を果たした翌年の、昭和4年の早くに亡くなりました。病死でした。ですから、何度かの手直しを経て今日私たちが聴くことができる、完成形としての『影を慕いて』は、「まぼろしの影」になってしまった彼女への哀切な挽歌だったわけです。(古賀政男は、当時のことをあまり語ろうとしなかったようです。人知れず、十字架を背負っていたのではないでしょうか?)

 そんないきさつを知るとなおのこと。聴くほどに、心の琴線に触れてくる、情感溢れる昭和の名曲だと思います。

                          *

 (注記)「イニシエーション」は、O真理教の教義上の用語だったことにより、すっかり 負のイメージが定着してしまいました。しかし、本来の意味は、人生の節目で迎える「通過儀礼」です。例えば、入学式、入社式、結婚式など。
 またイニシエーションは、人が精神的な危機や試練を乗り越えて、成長する必要がある場合にも用いられます。
(大場光太郎・記)

 (『影を慕いて』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。なお、この記事をまとめるにあたりましては、「おもいでチューズデー」を参考にさせていただきました。ここに感謝申し上げます。)

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「浜千鳥」-この歌の悲しさの源泉とは?

10074


                      「浜千鳥」

作詞者 鹿島鳴秋   作曲者 弘田龍太郎

 

青い月夜の 浜辺には

親を探して 鳴く鳥が

波の国から 生まれでる

濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

 

夜鳴く鳥の 悲しさは

親を尋ねて 海こえて

月夜の国へ 消えてゆく

銀のつばさの 浜千鳥


 日常的なるもののうっとうしさ、わずらわしさから逃れたい時など、ふいにこの歌が口をついて出ることがあります。この歌を口ずさんだくらいで、「現実」というこの重苦しい強固なシステムは、いかんともしがたいもの。そのくらい分かっておりつつも。

 『浜千鳥』。歌のすべてが「メルヘン」です。リリカルなやわらかい月の光りに照らし出された、海そして浜辺の詩的幻想世界。大正浪漫の精髄の一端を見る思いが致します。

 思えば私たちは幼少の頃、このようなメルヘンチックな非現実的世界に、当たり前に身を浸しながら生まれ育ったのでした。しかし長ずるに及んで、この社会の声なき声の、『もういい加減、そんな子供じみたことをしているんじゃありません。』との叱咤と促しに、否応なしにその世界から離別することをもって、「大人の世界」への参入の証しとしたのでした。

 この歌の浜千鳥はまるで、「波の国から生まれ出る」と共に、「親を探して鳴く」ことを宿命づけられているかのようなのです。「濡れた翼の銀の色」の、いたいけないひな鳥が…です。
 二木先生のおっしゃっている「寂しさ」「悲しさ」の源泉は、実にここにあると思います。本当に悲しいです。悲し過ぎます。

 時には、「神話」「伝説」「民話」「童話」「童謡」のような一見荒唐無稽と思われるものの方が、薄っぺらなこの現実よりも、物事の「本質」を突いていることがあるものです。

 この現実の世界での浜千鳥の親鳥は、卵から孵ったばかりのひな鳥をすぐに見捨てるようなことは多分ないでしょう。しかし作詞家・鹿島鳴秋は、この歌の詩的世界で、生まれたてのひな鳥に親を探させている。なぜなのでしょう?鳴秋自身の、幼児体験が投影されているのでしょうか?(それは寡聞にして知りません。)
 鳴秋は、「現実的な親子関係」を超えた、もっと「根源的な親子関係」に想いを致していたのではないでしょうか。

 (以下はあくまでも、私流の解釈です。)

 浜千鳥のひな鳥とは、すなわち私たち「人間自身」。そして探させ、求めさせている親鳥は、私たちをこの世で生み育ててくれた肉親よりずっと悠古の初源の、生命そのものの「根源的な生みの親」。つまりこの存在(それを神と呼ぼうが何と呼ぼうが)こそが、私たち人間にとっての「真の親」。

 であるにも関わらず、「夜鳴く鳥」である私たち人間の「悲しさ」は、この真の親を、今の今まで完全に見失ってしまっていたことにあった。
 あまつさえ私たち凡人は、「肉親」の他に「真の親」がいることさえ知らずに、「夜の歴史」の間中ずっと酔生夢死を繰返してきた。「海こえて」「月夜の国へ」、真の親をたずねて行った目覚めた者は、むしろごく少数だった。

 大正のあの時代、鹿島鳴秋自身が「目覚めた者」の一人だったのでしょう。当時の大衆の多くがまだ眠りこけている中にあって、既に目覚めてしまった者の「孤独」。それを多分に感じつつ送った生涯だったのではないでしょうか。

 しかし鳴秋は、彼の心の内なるメッセージをメタファー(暗喩)的に潜ませながら、この『浜千鳥』の詞を、あの時代世に出してくれました。以来この歌が、時代を越えて、私たち日本人の心をどれだけ揺さぶり続けて来たことか。
 「人々よ。汝(なんじ)の真の親に目覚めよ」。鳴秋のこの切実な心の叫びを、無意識の内に受け取りながら。

 作詞した鹿島鳴秋と、作曲した広田竜太郎と、素晴らしい演奏の二木先生に深い敬意を表しつつ、今後とも『浜千鳥』を愛聴していきたいと存じます。 (大場光太郎・記)

 (『浜千鳥』の歌詞と曲は「二木紘三うた物語」にあります。)


関連動画
浜千鳥・常森寿子
https://www.youtube.com/watch?v=JzAGh3Srdag
二代目コロムビアローズ 「浜千鳥」 Columbia Rose II   
https://www.youtube.com/watch?v=3m5GHISHnEY
フォレスタ 浜千鳥
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浜千鳥 懐かしい日本のうた   
https://www.youtube.com/watch?v=H7FbWl34Vlo
山崎ハコさん「浜千鳥」   
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【初音ミク】浜千鳥
https://www.youtube.com/watch?v=J9MX-PM0wQE

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「テネシーワルツ」ー主人公は男性?女性?

 文句なしに良い歌です。お勧めの名曲です。

 子供の頃、江利チエミの歌で知りました。その頃から子供心に、何となくいい歌だなあと思っていました。今では、江利チエミの方の日本語の名訳詞もなかなか…としても、やはりパテイ・ペイジの本場の『テネシーワルツ』の方がいいですね。それにパティ・ペイジは、今でこそご高齢ですが,若い頃はかなりの美人だったようですし。(これは冗談でした。)

 この歌、アメリカでも日本でも女性が歌っているので、女性が「男性の恋人を失った歌」かというと、さにあらず。

 江利チエミの歌では、「別れたあの娘よ」とありますから、こちらの方は明らかに、主人公は「男性」です。 

 問題は、パティ・ペイジが歌った元歌の方です。
 およそ英語の読解力に乏しい人種である私が、冷や汗をかきながら原詞を解読致しますに。歌の一聯目に「I intoduced her loved one」とあって、「私にとって、かけがえのなかった恋人を、彼女に、紹介した」。つまり前行の「old friend」が「her(she)」ですから、「I」は当然「女性」ということになります。この「my friend」が「stole my sweetheart from me」、紹介した「愛しの恋人を奪う」という、痛ましいことをした。 
 私が引っかかったのは、歌の二聯目の「I lost my little darlin`」です。男性の恋人に対して「my little darlin`」という呼称がふさわしいのかどうか。これはむしろ、男性から、女性の恋人への呼称なのではないだろうか。

 数年前NHKが、この歌がどうして作られ、世界的大ヒットになるに至ったかのドキュメント番組を放送していました。
 もう詳細は忘れましたが、この曲が作られた当初は、男性グループが歌う予定だったかと思います。今回少し調べましたところ、その時の歌詞では「her」ではなく「him(彼に)」(彼女を奪われた)。それであれば、「my little darlin`」はまったくおかしくありません。
 それが、パティ・ペイジという才能豊かな女性ボーカリストを見出し、彼女にこの歌を歌わせることにした時に、「him」は「her」に変えたけれども、「my little darlin`」は、他にふさわしい言葉が見つからずにそのまま残した…。

 しかし、もしそうだとしても。この歌は、主人公である女性が、「あの晩」からだいぶ歳月が経ってから、その時の出来事を回顧している内容です。だから今では、恋人だった「当時の彼」を「my little darlin`」と呼称してもおかしくない年齢に達している。そう考えれば、つじつまは合ってきます。(いささか回りくどい話になりましたが)つまり、パティ・ペイジの元歌の主人公は「女性」。
                             *
 彼女は、ある夜窓辺に寄りながら外を見やりつつ,あの晩のことを思い出している。今この時点で振り返っても、あの時失ったものはあまりにも大きい。  
 失ってしまった恋人ー闇の中に浮かびくる遠い回想の中の彼は、当時の「my little darlin`」のまま。…いつしか彼女もあの時のうら若き自分に戻って、痛ましい出来事に出会う前の彼と、麗しのテネシーワルツに合わせて至福のダンスを踊っている。
もし仮に「もう一つ別の現実」というのがあるのならば、誰にも邪魔されず、あのままずっと彼と…。
(以上はあくまでも、私の勝手な推察と想像です。)                   (大場光太郎・記)

 (『テネシーワルツ』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)。

 

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