「赤い靴はいてた女の子の像」実見記
「赤い靴はいてた女の子の像」実見記
4月1日(火)。「赤い靴はいてた女の子の像」を見てまいりました。その時のようすを(一部創作を交えて)以下に記させていただきます。
*
像のある山下公園には、その日の夕方5時少し過ぎ着きました。当日は大快晴。春の彼岸も過ぎ、だいぶ日がのびて、その時間でもまだ十分な明るさです。
公園の中に入るなり、海が見えてきます。山下公園通りから海まで、公園の奥行きは百数十メートル。(全体がほぼ芝生で覆われ、その中に中央公園や大噴水や花壇そして野外彫刻などがあり、樹木が程よく植え込まれています。)さらに歩を進めて岸壁の方に近づくと、そこから数メートル幅の遊歩道が、岸壁に沿って七、八百メートルほど、氷川丸の先までまっすぐ続いております。
横浜でも有数の観光スポットで、夕方は特に賑わうのか、大勢の人々が三々五々散策していたり、ベンチに座って海を見ていたりしています。
岸壁沿いのフェンスまで寄ってみると、海は凪いでいて、青々と少しうねっているのみ。やや強い海風が頬に吹きつけてきます。夕の陽光のもとすべてが明らかに輝き、パノラマのように横浜港が一望に見渡せます。
左側数百メートルほど先には、赤レンガ倉庫、その更に後方にランドマークタワーのノッポな姿。倉庫の手前右手は、大桟橋埠頭でその建物や港湾施設、小さな船が二、三隻停泊しています。残念ながら本日、カモメが群れ飛ぶ姿は見当たりません。その右手から中央部には、遠く対岸の神奈川区の建物群も認められます。そして更に右手も建物群は続き、図抜けて高い二本の煙突も見えています。その辺は川崎市鶴見区です。その川崎の大黒埠頭とこちら側の本牧埠頭をつないで横浜ベイブリッチが架かっております。(皆様ご存知のとおり、ライトアップされた夜景が見事なようです。)そして右端は、その橋の手前に山下埠頭、さらにその手前に岸壁と直交して氷川丸が置かれております。
…そうでした。像のことでした。像を探すまで少し手間取りました。公園の端から氷川丸まで歩き、『ん?』。途中二人の人に尋ねて、結局もと来た道を引き返し、やっと像の所にたどり着きました。
私がすぐに見つけられなかったのも、無理はありません。せめて道の端に案内板くらいあっていいものを、何もなくて。道に接した芝生の一画、直径十メートル弱くらいの石畳のコーナーの中央に、「赤い靴はいてた女の子の像」はありました。
少女の像は、うす褐色の半円錐形の台座の上に載っております。ブロンズ像で、所々緑青色をしていたり地の銅色が見えていたり。見たところ、5、6歳くらいの、小柄なやさしい顔立ちの女の子といった感じです。長い髪を後ろでポニーテールに束ねています。膝を両手で抱えて、海を見つめながら、ちょこんと座っています。靴は、建立当時(昭和54年)は確かに赤かったのでしょう。残念ながら、今では変色して赤くはなく銅色です。(像の写真は、 こころの居間・Ⅱ:「赤い靴はいてた女の子」の話 にあります。)
像というものは、たいがい高くそびえ立っていて、観覧者が仰ぎ見るものです。そして高ければ高いほど、偉い人の像でも、仏像、観音像でも、ありがたがって人々が群がります。
しかし少女の像は、大人の私では少し見下ろすくらいの低さです。思うに、訪れた子供たちの身長、あるいは目線に合うような配慮のもとに設置されたのでしょう。そのため「ありがたい感じ」はだいぶ薄れ、私がそこにいた10分ほどの間、コーナーに接した道を、若いカップルや親子連れなどがけっこう行きかっておりましたが、(私がさっき素通りしてしまったように)皆あらぬ方を向いて通り過ぎるばかりで、誰一人像に関心を示す人はおりません。
少女よ。汝(な)れは、つぶらな瞳で、ただ通り過ぎる人々を如何に見たるや?
少女の眼(め)は、肉の眼には非(あら)ずして、実は心眼(しんがん)なのでは? 私たち大人が視えない真実(もの)を、その澄んだ眼でしっかり視ている…。
自分自身(岩崎きみ)の薄幸だった人生のこと。遠い異国のこと。『赤い靴』が作られた当時のこと。現在のこと。そしてずっと先の横浜港や横浜市の未来の姿を…。すべて幻視している。
ではでは。今正対しているこの私の、過去、現在、未来をも?そして今の私の心の奥底までも?
『おにいちゃん。ずいぶん、たましいよごしちゃったね。まわりのくろいくもで、おにいちゃんのかお、よくみえないよ。』
『すまない。菊子。でも、この世で生きていくっていうのは、こういうことんなんだ。ある程度自分を汚さなきゃあ、生きちゃあいけないんだよ。』
『そうよね。わかるわ。わかってあげる。でも、おにいちゃん。こんどは、もっときれいになってからあいにきてね。そうでないと、おにいちゃんとは、ほんとうのおはなしできないもの。』
そうしていると、60代くらいの、本式なカメラを肩から提げた恰幅のいい人が、像のコーナーに近づいてきました。『また来るよ』。私は静かに像から離れました。
無意識のうちに、『赤い靴』のメロディを口ずさんでおりました。公園を抜けて、横浜スタジアムに通じる大通りに入りました。ケヤキ並木が通り中、目路の限りに続いております。公園に行く前は眼中になかった、ケヤキ若葉が色鮮やかに眼に飛び込んできました。人々が行き交う横浜市街に、爽やかな夕の浜風が吹き渡り、私は関内駅を目指して黙々と歩き続けました。
*
上記一文を、謹んでれいこ様に捧げます。
(「赤い靴はいてた女の子の像」を見にいった理由については、『二木紘三うた物語』にあります拙文をお読みください。)
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コメント
素敵なブログ開設、おめでとうございます。早速拝見させて
頂きました。大場様とは、赤い靴の歌からの巡りあいでしたが
本当に文章もすばらしく、感受性豊かな詩人でいらっしゃること
に感動しております。
今日は母の日、大場様もお母様のことを偲んでいらっしゃる
ことでしょうね。思い出は辛いこと悲しいことは忘れ去って
楽しかったことに変えて生きていきましょう。亡き人は
思い出の中に生き返りますから。喜寿を迎えた私の、残された
日々の過ごし方です。横浜散策のエッセイは、私には本当に
懐かしい風景が目に浮かぶ文章でした。またこれからもブログ
でお目にかかれること、嬉しく思っています。 れいこ
投稿: れいこ | 2008年5月11日 (日) 12時20分
れいこ 様
れいこ様には、『二木紘三の歌物語』では、ひとかたならぬお世話にあいなりました。改めまして、深く感謝申し上げます。そしてこの度は、当ブログに最初のコメントをたまわり、重ねて感謝申し上げます。大変ありがとうございました。
私今でも、『赤い靴』『故郷を離るる歌』『母さんの歌』などを時折り聴かせていただき、同時に私の拙文やれいこ様のお便りを読み返しては、その都度感慨を新たに致しております。ただ今この文も、二木先生の『谷間のともしび』の演奏を聴かせていただきながら、したためております。胸に、グッとこみ上げてくるものがございます。
良い歌は、過ぎた日々の楽しかったこと、嬉しかったことのみならず、逆に辛かったこと,悲しかったこと,苦しかったこと…なども。すべて洗い流して、しばし心の中を浄化してくれますね。名曲は本当にありがたいです。
この度はまた、過分なお褒めにあずかりまして、まことに恐縮に存じます。
既にご存知のとおり、私は18歳で上京致しました。以来「しがない生活者」として、郷里での「詩人」「物書き」としての密かな望みなどどこへやら。ただその日を生きるだけで精一杯の日々を送って、今日に至ってしまいました。それが二木先生の『うた物語』へのコメント投稿を続けまして、今になって昔の夢が甦ってきた感じです。
当ブログをとおしまして、れいこ様のご期待を裏切りませんよう、今後とも精進していきたいと存じます。
れいこ様。今は平均余命が大幅に伸びております。既にご存知のとおり、我が国だけで、百歳以上の方が何万人もおいでです。皆様元気でぴんぴんしておられるようです。
そんなお姿を拝見するたび思うのです。『本当は、人間には「寿命」などないのではないか。本人の「元気で生きよう」という意志さえしっかりしていれば、いつまでも元気で生きられるのでは?』と。
文章を書くことも、長寿の秘訣の一つのようです。私も常々感じておりますが、人様にご納得いただける文章を書くためには、どうしても自分の頭をフル回転させなければなりません。それが自ずと「頭の活性化」を促しているようなのです。
れいこ様も、どうぞ今後とも当ブログをごひいきくださいまして、たまにはコメントお寄せください。「人気ブログ」になっててんてこ舞い(?)というようなことになれば話は別ですが、私もその都度お返事させていただきます。
れいこ様。このうるわしい季節、どうぞご健勝でおすごしくださいませ。 敬具
投稿: 大場光太郎 | 2008年5月11日 (日) 19時02分
大場様、「二木紘三さん」のブログから、貴兄の文を楽しみに読ませていただいています。貴兄の文を随分長く読んでいなかったと思います。二木紘三さんのブログは何回も開きますが、今日はかねて見ないところも開きましたら、貴兄のブログに行きついたのです。「赤い靴」のブログを読みました。昭和31年のころは中学1、2年生だったと思います。今は後期高齢者の少し前です。随分の経験をされていますね。いつも長文のブログで敬服しています。
投稿: 今でも青春 | 2017年11月26日 (日) 19時42分
今でも青春 様
このたびは本記事にコメントたまわり、大変ありがとうございます。
この記事は元々『二木紘三のうた物語』中の『赤い靴』にコメントしたものでしたが、当ブログ開設(2008年4月)時、二木先生ご了承の下、当ブログに移し替えさせていただいたものです。懐かしい記事にご訪問いただき、その上コメントまで頂戴いたし、重ねて御礼申し上げます。
『うた物語』最近はすっかりご無沙汰致しておりますが、ますますご隆盛のようで陰ながら嬉しく存じます。私がコメントしていたのは、『うた物語』がブログ形式になって少ししてからのことでしたが、いわば「草分け」のような時期だったかと思います。貴兄のように、今でもその頃のコメントをお読みになる方がおられ、嬉しい限りです。
ハンドルネームの「今でも青春」、いいですね!私もまったく共感するネーミングです。サミュエル・ウルマンの有名な詩『青春』の一節に、「齢七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。」とあります。夢と希望と愛と憧れ。このような想いがふつふつと胸中に漲っているなら、後期高齢者であろうとその人は「青春そのもの」ですよね。
「今が人生の最盛期」「成長に終わりはない」。私もあと1年余で齢七十になりますが、その心意気で今後の人生をさらに開拓していきたいとの決意を新たにさせていただきます。
今でも青春様のますますのご発展、心よりお祈り申し上げます。
投稿: 時遊人 | 2017年11月27日 (月) 00時35分