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水路道(3)―八重桜の切り株

 この水路道で悲しいことが起こりました。
 数軒並んでいる家並みの、私の住居側からこの道に入るとすぐの家の八重桜のことです。その家の狭い裏庭の、この道と境界ぎりぎりの所から八重桜が道に大きく張り出しておりました。幹もけっこう太くて、枝をあちこちに広げて水路道に覆いかぶさっており、他の木を圧倒する存在感でした。
 染井吉野(いわゆる普通の桜)が散って一、二週間ほどするとこの八重桜の出番で、ぽったりした大ぶりなピンクの花を絢爛(けんらん)と咲かせては、この道を通る人の目を楽しませてくれておりました。そして咲き終わると、道の中央のコンクリート上や土の所一面に落花したものでした。それはまるで、最期を心得た美しい貴婦人のように、たいがいはきちんと花びらが上向きで。私は通りながらそれらを踏みつけないように、花が落ちていない所を探しながら通ったものでした。
 真夏のかんかん照りの日などには、その存分に繁った葉群(はむら)が木下闇(こしたやみ)をつくり、格好の日除けになってくれておりました。

 それが昨年のちょうど今頃、その八重桜が十分に咲ききって、すっかり散ってしまった頃合。私は所用を済ませて帰宅するため、午後二時過ぎ水路道を通りました。
 するとその家のご主人が脚立にのぼって、剪定ばさみでくだんの八重桜の枝をバッサバッサと切り落としているではありませんか。道のコンクリート上には、切られて落ちた枝々が無残にも散らばっておりました。
 「どうもすみませんねえ」とご主人。
 「いいえ」と私は言いながら、落ちた枝をよけながら通り抜けました。
 そのご主人はもうそうとうなお年です。とうに七十歳は越えているでしょう。
 『お年寄りが、桜の木の手入れか。まあ大変なこと。それにしてもよくもまあ、派手に剪定しているものだこと。もう少し手加減できないの?』

 翌日の昼過ぎ出かけるのに、またこの道を通りました。
 何と剪定どころか、八重桜そのものが消えてなくなっているではありませんか !
 『エーッ。何でや !』
 私は単なる驚きを通り越して、動悸が一気に激しくなるほどの強いショックを覚えました。見ると枝々は1、5mくらいの長さに切りそろえられ、人が抱えられるほどのいくつかの束になって、その家の土の領分の所に置かれています。幹も根元から1mくらいの所で伐られて、同じようにごろんごろんと…。
 『こんなことがあっていいのか !』
 たかが一本の八重桜の木のことながら。私は何かの悪夢あるいはおよそ起こりえない不条理劇を見たようなやるせなさと怒りがこみ上げてきて。思わず、かの「ムンクの叫び」のような叫びを発したい衝動にかられました。

 …しかしそれは、その家のご主人が熟慮の結果下した結論だったのでしょう。
 『オレが元気で動けるうちに、あの木を何とか始末しなければなあ。後々あの木の世話をしてくれそうな者もいないし…』。
 おそらくご主人は、その八重桜の木に、私などよりはるかに愛着があったはずです。何しろ長年月その木と接してきたのでしょうから。花が咲き誇る一時期だけではなく、春夏秋冬毎日…。ご主人はどんな思いで幹にのこぎりを入れ、かつ引いていたのだろうか?それを思うと、そのご主人を責める気にはとてもなれません。

 しかし私はその後しばらくそこを通るたびに、ついつい八重桜の切り株に目がいきました。根元から1mくらい、直径30cm弱ほどの生々しい切り口。私の分身の一部が切られたような心の痛みと、それを失ってしまった悲しみの感情に襲われました。

 今年はもうその切り株は、ずっと昔からそうであったような古株になってしまいました。それでも、かつてはかなり広く枝々を伸ばして道に覆いかぶさるように繁っていたのに…。その空間がすっぽり空いてしまっている不在感、空虚感を感じながら、今でも水路道を通っております。                              ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

 

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