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2008年6月

バラの思い出(番外編)・コルベ神父

 もし誰かから「ヨーロッパを代表する花は?」と聞かれれば、私は「バラ !」と即答します。
 バラは、何よりもヨーロッパにおいて品種改良を重ね、現在のようなさまざまな美しい品種を生み出してきたのですから。バラはまさに、ヨーロッパの歴史とともに歩んできた花といえそうです。おそらく西欧の歴史の中で、バラにまつわる物語はそれこそ無数にあるのでしょう。

 そもそも「真紅の薔薇」は時に、イエスが十字架上で流した「聖なる血」にも見立てられることがあるようです。「ローゼンクロイツ(薔薇十字)」。中世にはズバリこれを冠した、キリスト教とそれ以前の古代叡知を融合させた、秘密結社「薔薇十字会」が組織されました。そしてその流れは、十七世紀そのオカルト(隠知学)的養分を受け継ぐかたちで、イギリスで「近代フリーメーソン」が成立しました。(なお、アメリカ合衆国は、同メーソンが建国した国といっても過言ではないほどです。そしてその影響は、我が国の「占領政策」にも…。)
 
 その他でも、その名もズバリの「薔薇戦争」。これは十五世紀(1455年-1485年)、イングランドの王権をめぐる戦争です。元々は同じ血族である、ランカスター家(赤薔薇の紋章)とヨーク家(白薔薇の紋章)の両家の戦いであり、その紋章から後世そう名づけられたものです。
 しかしこれらを詳述することは、私の任を遥かに越えてしまいます。今回は、キリスト教(カトリック)で「二十世紀の聖人」として有名な、コルベ神父のバラにまつわるエピソードをご紹介致します。
                        *
 コルベ神父(1894年-1941年)は、ポーランドの貧しい家庭の出身です。幼少から才気煥発な子供だったようです。時にその腕白ぶりも目にあまるものがあったようです。ほとほと手を焼いた母親は、ある出来事の罰として、学校が終わってから所属教区の教会でお祈りをするよう厳命しました。両親特に母親は、敬虔なカトリック信徒だったのです。
 さすがのコルベ少年もその命令には逆らえず、こうして教会通いが始まりました。一日、二日は祭壇に向かっても、きょろきょろもぞもぞだったようです。しかし元々人に勝る非凡さを持っていたコルベ少年は、三日目あたりから自然に祈りに集中できるようになっていきました。

 こうして深い祈り(観想)を続けること、一週間ほどが過ぎた頃。突然、聖母マリアが現れたのだそうです。聖母は、驚きを隠せないでいるコルベ少年に向かって、柔和に微笑(ほほえ)まれました。見ると聖母は、両方の手に一本ずつのバラを持っています。一方の手には白いバラ、もう一方の手には赤いバラ。
 聖母は、コルベ少年の前で花をかざしながら、
 「白いバラは純潔のしるしです。赤いバラは殉教のしるしです。あなたはどちらがほしいですか?」
と、やさしくお尋ねになりました。コルベ少年はためらわずに、
 「両方ともください。」
 聖母マリアはにっこり微笑み、望みどおりコルベ少年に赤白二本のバラを手渡し、忽然と消えてしまいました。

 こうして、マキシミリアノ・マリア・コルベは、それ以来信仰者の道そして殉教者の道を歩むことになるのです。
                       *
 ここまでを草稿してから念のため、私所蔵の「アウシュビッツの聖者コルベ神父」(聖母の騎士社刊)の当該部分を読んでみました。すると、肝心な「バラ」は「王冠」となっておりました。聖母示現の場所も違っていました。あれっ。おかしいなあ。オレの記憶違いだったのかなあ。確か別の本では、「バラ」だったんだがなあ。それにこの場合、バラの方がふさわしいと思うんだがなあ。
 しかし考えてみますと、「聖母示現」そのものが極めて個人的、内面的な体験です。ある意味伝説といってもよいでしょう。さまざまな異説が生じるのは致し方のないことなのかも知れません。
 よって上記の文は、当初のまま公開致します。これも一つの異説または私の創作としてお読みください。
 なお、コルベ神父は、(戦前の)我が国にも大きな足跡を残しております。いつかその事跡を(創作なしで)ご紹介できればと思います。
 (大場光太郎・記)

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バラの思い出(2)

 さて「バラの思い出」と題して私が述べたかったのは、以下のことです。と申しましても、たった一輪のバラのことを。

 私が郷里の母子寮にお世話になっていた、小学4年生の梅雨時の頃。雨が降る日でした。夕方母が外から帰ってきました。それも手に一輪の真っ赤なバラを持って。その時の母は、何となく嬉しそうでした。普段は、たかが花ごときで嬉しがる母でもありませんのに。

 母子家庭であるために、町役場から生活費として、生活保護費を月々支給されているものの、親子3人食べていくのにはとても足りるはずもなく。『唐傘の思い出』のあの日に入寮して以来、母は町の「失対(しったい)事業」の一環である道路工事などの人足として日々働いて、私とすぐ下の妹を養ってくれていました。「失対」については、ご年配の方ならご存知かもしれません。正式には「失業対策事業」といって、戦後間もなく頃から始まった事業で、戦後溢れていた失業者を救済する目的で、国が始めやがて全国の地方公共団体が実施していった事業のことです。(郷里の町では、確か昭和30年代半ば過ぎまで行われていました。)

 母は身長150cmにも満たない、小柄で痩せ型な女でした。そんな母が、日々男たちに混じっての土方仕事です。(もっとも母以外にも女性はいたようです)。日々積み重なる疲労は、いかばかりだったでしょう。そのためなのか、夕方帰ってきてからも不機嫌そうでした。私は怒られてばかりでした。
 母にしてみれば、「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』で述べさせていただいたとおり、既に末娘を亡くしております。母の思いとして、極貧のために最愛の娘を手放さざるを得なかった、そして遂には死なせてしまった。これが母にとっての一大痛恨事として、常に心の中にあったようです。『貧乏していたから菊子(死んだ妹の名前)をあんなことにしてしまった。貧乏は決してするものではない』。今思うと、貧から脱け出すためには自分の身も何もかも犠牲にして…そんな思いだったのではないかと思われます。(当地でまた一緒に住むようになってから、それを一段と強く感じました。時にそれは、鬼気迫るほどのものでした。それに対して私の親不孝ぶりは、『母さんの歌』で述べたとおりです。)

 そんな母が一輪のバラを持って嬉しそうにしている。どこで誰にもらったものなのか。子供だった私には、知る由もありません。(ただその後、母にとって最後となったロマンスがありました。ドラマ性があり記事にしたいけれど、痛ましい結末でとても私には…。)

 私も手にとって、初めて間近でバラの花を見ました。長さ30cmほどで切られた、つやつやした緑の葉が3、4枚ほど、それにたった一個の真っ赤なバラの花。その後のバラのことについては、全く覚えていません。母が多分花瓶に活けたのでしょうけど。
 今ならどこの花屋さんにも、バラは溢れかえっています。けれど当時母子寮の我が家で、バラというゴージャスな花を見たのは後にも先にもこの時限りです。いえ、バラに限らず何花も、滅多に。
 我が家は「金の王」に見放されていると共に、「花の精(フローラ)」も寄りつかない状態だったのでした。

 今でもたまに、あの時のバラの一輪が、薄暗いバックに鮮やかな真紅でパッと甦ってくることがあります。                ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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バラの思い出(1)

    遠き日や心に赤き薔薇一つ    (拙句)

 この季節近所を歩いていると、家々の垣根や庭にバラが咲いているのをよく見かけます。垣根からこぼれるように、紅いバラがいっぱい咲いていたり。とある庭では、茎が2m以上伸びて天辺にピンクの花が咲いていたり。今はアジサイの季節であると共に、バラの季節でもあります。ちなみに「薔薇(バラ)」は、夏の季語ですから。(もっともバラは、一年を通して咲くみたいで、「冬薔薇(ふゆばら、ふゆそうび)」という季語もあります。)
 私はそんなバラを眺めながら、ふと遠い昔のバラがパッと浮かんできました。バラの花言葉は、「愛、恋、美…」。さぞや華麗なラブ・ロマンスなんだろうね?ですって。いえいえ、残念ながらそのようなものでは。何せ小学校の頃のことなもので。
                         *
 といっても、うんと若い頃、ロマンスの一歩手前くらいのバラの思い出ならあります。先ずそれを先に―。
 21、2歳の頃。現居住地で、同じ年くらいのある女性と知り合いました。ある時とある喫茶店で会うことになりました。私が先に店に入って待っていると、少し遅れて彼女が入ってきました。「ごめんなさい。遅れちゃって」。見ると彼女は手に、豪華な花束を持っています。私はそれを見た途端、すっかりどぎまぎしてしまいました。彼女の意図は既に分っていました。その日だったか、前後だったかが、私の誕生日だったのです。
 
 イスに座るなり、「はい。どうぞ」と彼女。渡された花束を見ると、赤、ピンク、黄色などのバラの束です。だいぶお金もかかったでしょうに。女性から花をプレゼントされるなんて初めての私は、どぎまぎの上照れくさくなって、「何?こんなのどうしたの?」。今考えても、ダメですねえ。こういう場合、根っからのシティボーイならもっとスマートに、「おっ。ぼくの誕生日プレゼントかい?どうもありがとう」。それからしげしげと花を眺めてから、やおら彼女の方に向き直って、「こんな高級なバラどこで?」などから始まって、そのバラをめぐる話を一くさりし終えて、彼女を飽きさせないウィットに富んだ話を次々にする。となるものです。
 なのに田舎者の私は、予期せぬハプニングにただただ面食らって、その後の話がうまくつなげず長い沈黙。それを察知して彼女も…。しばらく二人の間に気まずい空気が流れて…。
 
 その後彼女とは一、二度逢いました。またそこでもヘマをやらかし、年頃の娘というものは何せその後の全人生を賭けているわけですから、『この男はダメねえ』とさっさと見切りをつけ、私から離れていきました。   (以下次回へつづく)
 (大場光太郎・記) 

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「二木紘三のうた物語」(2)

 「MIDI歌声喫茶」の管理人でもあり、曲のMIDI製作者でもある二木紘三(ふたつぎ・こうぞう)という人は、各曲をただ提供しているだけではありません。その歌に関する情報、例えばその歌がどういう背景で作られたかなどを《蛇足》という形で、私たちに与えてもくれているのです。
 これはどなたもおっしゃることですが、それが微に入り細を穿っていて、実に味わい深いのです。時にそれは二木先生(と、私とは七つくらいしか年が違いませんが、私は常にそうお呼びしております)独自の人生観だったり史観だったり…。何しろ、480余曲全部にです。二木先生の万般に亘る該博な知識と造詣の深さには、本当に脱帽です。
 それゆえ私は《蛇足》と言うのがはばかられ、コメントなどでは「二木先生の解説では…」と言い換えております。とにかく、それまで知らなかったその歌の作られた背景、時代状況、歌詞の解釈など…実に含蓄に富み、『あヽそうだったのか!』と「目からウロコ」の思いをしたことが何度もあります。

 その後、昨年始め頃から「MIDI歌声喫茶」は、『二木紘三のうた物語』へと装いを替えてゆきました。それとともに、愛好者から、その歌についての思い出や感想などのコメントを受けつける形式になりました。私はあくまでも曲を聴くことが目的であり、その後しばらくは「コメント欄」にはまったく関心がなく、投稿者のコメントなど読みもしませんでした。ましてや、その後自分が本格的にコメントし続け、その主役の一人になろうなどとは…。一度もネット投稿したことがない私は、およそ想像だにしておりませんでした。

 それを変えたきっかけとなったのが、昨年10月新しく提供された『君恋し』でした。皆様よくご存知の、昭和の名曲中の名曲です。この曲の、二木先生の新しいmp3の演奏が実に素晴らしい! と私は感じたのです。『「君恋し」の演奏はこうでなくっちゃ』と思われる演奏でした。
 私は、二木先生に何かお礼の一言でも言いたくなりました。そこでコメント欄に初めて目がいくようになりました。すると、この歌には直後から皆様のコメントが続々寄せられ、私はついついその機を逸してしまいました。(今年4月改めてコメントしました)。とにかくこうして、これをきっかけに、各人が各歌に寄せるコメントに関心を持ち始めたのです。

 そして遂にその時がきました。昨年12月『夜霧の第二国道』がまた新しく提供されました。この歌も、前から良い歌だと思っていまし、この歌の演奏も期待通りでした。それにこの歌には、いくら日にちが経っても誰もコメントしてきません。それで昨年末の12月28日、意を決して、ネット初投稿でもある初コメントを敢行致しました。
 キーボードの文字キーを打ちながら、時に手がふるえるくらい緊張しました。一字一句たどって何とかコメント一文をまとめ、何度も読み返して『まあ何とかOKだな』と思えた段階で、送信しました。
 そうして、初めて私の名前が「コメント欄」に載った時の、嬉しさと気恥ずかしさといったら!     (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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夜霧の街

  奥深い闇を退けて
  虚飾の光りに溢れた街を
  慈悲深い夜霧がやさしく包む。

  不夜の街には大勢の人が流れ
  絶えず行き交う
  皆一様に押し黙りながら。

  すれ違いざま
  互いの想いが交錯する。
  とても混じり合えない想いは
  シンパシーを感じる暇(いとま)とてなく
  むしろ敵意の冷たい風を
  互いに感じてそそくさと
  真反対に歩み去る。

  誰もが孤独で
  誰もが寂しくて
  誰もが分ってもらいたいのに…。
  
  硬質で冷ややかな街のどこかに
  あヽ共通の心の言語など
  とうの昔になくしてしまって。

  皆心に傷を負いながら
  人が流れていく街を
  夜霧が静かに包み込む。

           (大場光太郎)  

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「二木紘三のうた物語」(1)

 私と「二木絋三のうた物語」との出会いは、今から3年弱前のことでした。詳しいことは忘れましたが、ある時ネットに向かいながらふっと『そういえば昔、歌声喫茶っていうのがあったなあ。どれ、出てくるかちょっと検索してみるか』と思いたったのがきっかけだつたと思います。検索の結果、確かに「歌声喫茶」ありました。
 そうして出てきた検索トップ面の上からいくつかのところに、「MIDI歌声喫茶」というのがありました。『はぁっ?MIDIってなんだぁ?エムアイディアイって読むのか?』。何も知らない私は興味を持って、そこを訪れてみました。それがそもそものきっかけとなりました。(なお皆様ご存知かもしれませんが、ずっと後で分ったことには、MIDIは「ミディ」と読むのでした。)

 その「MIDI歌声喫茶」というのが、今の「二木絋三のうた物語」の前身である音楽サイトでした。どうやら、その歌の歌詞とともに、ある箇所をクリックすると曲まで聴けちゃうようだと分かりました。『こりゃあ、得なサイトに来たぞ!』。
 トップページのカテゴリーを見ますと、ア行からワ行までずらっと並んでいます。またその下に「戦前歌謡曲」「戦後第1期、第2期歌謡曲」「叙情歌・フォークソング」「外国民謡、歌曲」「外国ポピュラーソング」「童謡・唱歌」と並んでいるではないですか! 『すげえ! こんなにいろんなジャンルの曲をそろえてるんだ!』。(ちなみに、平成20年6月末現在の収録曲数は合計480余曲です。今後更に増えていきます。)

 早速、どれかの歌を聴きたくなりました。とっさに浮かんだのが、『カチューシャの唄』でした。私も古いですね。よりによって、最初に聴きたい歌が大正時代の歌だというのですから。(その辺の事情は、『カチューシャの唄』の私のコメントで述べてあります。)
 『ホントにあるんかなあ?』。「戦前歌謡曲」をクリックして。曲一覧を上からたどってみました。何と、ちゃんとあるではありませんか! 先ずそれが最初の感激。私はワクワクドキドキしながら同歌を開き、即聴いてみました。聴くなり、素晴らしい! の一言でした。およそパソコンから流れる音とは思えないほど、流麗な音質なのです。

 私は同歌を繰り返し聴いた後、続いて『別れのブルース』『サーカスの歌』『鈴懸の径』…。どれも期待を裏切らない素晴らしい演奏で、一時間ほど夢中で聴きました。もうすっかり、「MIDI歌声喫茶」のとりこになってしまいました。
 もともと歌好きな私は、こうしてその日以来、一日とて欠かすことなくといっても過言ではないほど、「MIDI歌声喫茶(現在の「うた物語」)」を聴いて今日に至っております。    (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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コスモスあれこれ

 久しぶりの晴天となりました。空にはハケで刷(は)いたような白い雲。太陽はそんな雲をたやすく透かして、燦たる光りを放っています。日に向けている方の頬が熱く感じるほどです。
 しかし風もやや強く吹き渡っております。木々が白っぽい葉裏を見せながら、ざわざわそよいでいます。とある家の二階ベランダに、それっ!絶好の洗濯日和だとばかりに、何竿もびっしりと洗濯物が干してあり、それが風にひらひらと。大通りの各店先の、さまざまなPR用布旗もはたはたと…。
 「六月の綺麗な風」こそは救いです。これが七月になって梅雨が明けると、途端に風もピタッと止まって例年の猛暑ですから。
                        *
 以前『花泥棒も罪なの?』で紹介しました、すぐ近所のレンタル農園の道路との境の辺りに植えられているコスモス。何と気の早いことに、先週あたりからチラホラ咲き始めているのです。そういえばきのうの記事では省きましたが、中津川沿いの車道と舗道の境に植えられているコスモスも、同じように…。
 秋桜(コスモス)は、秋も深まった晩秋の花のはずです。あんなやわらかい色の華奢(きゃしゃ)な花が、秋冷厳しい中でよく咲いているものだと、けな気さを誉めてやりたくなるはずのものなのですが。
 それなのに一体どうしたことなのでしょう?単なる早咲きなのか。とんでもない狂い咲きなのか。もちろん、当地のコスモス全部がそうということはないでしょうが。それにしてもこんなことは、今まであまり記憶にないことです。

 コスモスといえば。当家のベランダのプランターにコスモスの種を蒔き、それが無事芽を出したことまでを、一連の「コスモス記事」でお伝えしました。
 しかしその後私の不注意により、今から二週間ほど前、当家の飼い猫二匹のうちのどちらかに、同プランターの三分の二ほどを引っかき回されてしまいました。私は『さもありなん』と、それとなく警戒はしていたのですが。
 親と子の猫のうちどっちが「犯猫(?)」かは、これまでのいたずら行状からして目星はついています。しかし何せ犯行現場を目撃したわけではありませんので、現行犯逮捕というわけにもいきません。それに人間と猫とでは、そもそも「犯罪の定義」が根本的に異なりますから、人間の刑法を猫に当てはめるわけにも…。よって、きついお咎めは無しにしました。

 プランターをベランダから、安全な台所に移しました。ガラス戸を通して光りも十分届くと思って。残った三分の一の七つ芽ほど、今度こそ大切にと思っていたのですが、ダメでした。いつの間にか、一芽また一芽と萎れて消えて…。おととい結局全滅しました。
 また新しい種を買ってきても十分間に合うはず、とも考えました。が、『オレには花物の種を育てる才能がないのかもな』、と断念しました。今度はもっと実用的に、野菜の種物にチャレンジしてみるかとも考えております。以上ご報告致します。
 (大場光太郎・記) 

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見えない小鳥

  よく晴れた日にぼくは
  広い原っぱに出て
  ぼくの胸にしまいこんでいた
  見えない小鳥をそっと取り出して
  両手で大切に包み込み
  それからやさしく大空に放してやる。
  
  見えない小鳥は喜んで
  大きな羽ばたきをしながら
  一心に空に舞い上がる。
  
  幾分の高さまで飛んでから
  ぼくを振り返り
  チチッと一声さえずって
  また飛翔をつづける。
 
  見る見るうちに小鳥は
  空の高みに吸い込まれ
  今度は本当に
  見えない小鳥になる。

        (大場光太郎)
  

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中津川のこと

 きょうは霧雨が降っているようないないような。外に出てみても傘がいるのやら、いらないのやら。道行く人は?と見ると、やはり傘をさしていたりいなかったり。
 午後三時過ぎともかく霧雨もスッカリ上がり、雲間を通して薄日がほんのり射してきました。

 書く題材が何もない時の「身辺雑記」。分けても「中津川のようす」。そのさまを眺めていると、書く素材が一つ、二つたいがい見つかります。とにかく。私にとって中津川は、身近な所で本式な自然が残されている唯一といっていい場所です。
 いずれデジカメでもそろえて(まだ持っていないのです)、当ブログへの画像の取り込み法をしっかりマスターした暁には、「中津川の四季」という年間シリーズを予定しております。(気長くお待ちください。)

 自然は、本当に時々折々にさまざまな表情を見せてくれます。この中津川も何年も前からしょっちゅう行っていますが、それこそ四季によって、日によって、行く時間帯によって微妙に違っており、同じ表情は無いといってもいいほどです。それはそうですよね。日の高さ、雲の具合、風や雨のさま、登場する生き物…すべて違うわけですから。

 本日は夕方六時過ぎ立ち寄りました。堤防を下りて、いつもの突起の指定席に腰をおろします。先ほどまでの雨で少し湿っています。
 座っている所から二、三十メートル下流の所に、こちら岸から向う岸まで、幅七、八十メートルくらいの堰が設けられています。一キロ弱先の相模川への流量調節が目的だと思われます。きのうから降り続いた雨で、堰のこちら側は満々と水を湛えています。
 それにしては意外なほど流れは穏やかで、水面(みなも)がわずかに揺らいでいる程度。まるで水鏡(みずかがみ)のように、対岸や中洲の繁茂した青葦、対岸堤防上の木立が川面に鮮やかに映っています。

 時に何鳥なのか、小さな鳥が下流から上流へ「チチチチッ チチチチッ」と、鳴きながら飛び去っていきます。堰の方からは、勢いよく流れ下る川の水音が絶え間なく聞こえています。時折り、すぐ近くの川辺の葦群から「グァッ グァッ グァッ」という、野太い夕蛙の鳴き声…。
 「自然の音声(おんじょう)」に耳をそばだてるのは、本当に良いそうです。右脳と左脳のバランスが取れてくるそうです。とかく現代人は「左脳偏重」で、大変困った状況にあるわけですから…。

 立ち上がって帰り際、一羽の青鷺(あおさぎ)が悠然と羽ばたき、対岸のこんもりした木立の根元に隠れていきました。
 午後六時半。曇り。自然はいたってゆったりとそして穏やかです。
 (大場光太郎・記) 

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人間VSカラス

  夜が明け初めると
  カラスは一斉に目覚めて喚き出す
  カァー カァー カァー
  
  どこか廃墟めいたビルの一角や
  魔女の骨のような木の枝に止まって
  人間よ早く起きろよ カァー カァー カァー
  オレたちハラ減ってんだ カァー カァー カァー
  欲しいのはアンタらが食い残したものだ
  生ゴミを出せ 早く出せ
  ケチケチすんなよ  カァー カァー カァー

  時にカラスは人間が空と名づけた
  果てしない奥深い領域の
  ほんのとばくちをしきりに飛び交い
  カァー カァー カァー

  人間は自身ではそんな高ささえ
  どうやっても飛び上がれない
  「知恵ある人」と自ら誉めそやしながら
  引力の法則にがんじがらめに呪縛され
  憎さ気(にくさげ)にただカラスを見上げるばかり

  「知恵ある人」が営々と築き上げてきた
  最高傑作たる大都会は今
  人間とカラスの
  全面戦争の真っ只中

  カラスは人間がいくら駆除に躍起になろうと
  街路樹の梢の闇で次々に増殖し
  人間を脅(おびや)かし嘲笑(あざわ)う
  その姿は黒々と黙示録的不気味さだ

  人間から嫌われ者のカラスと
  人間以外のすべての生き物から
  嫌われている人間との
  まさに最終戦争
             
            (大場光太郎)

 (注記)今では東京などではカラス駆除はだいぶ成果を
  あげているのでしょうか?いずれにしても、これは詩
  ですから、現実世界とは違うことをご了承ください。

  

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『雨に咲く花』

 『日刊ゲンダイ』の芸能面下段に、「橋本テツヤ あのヒット曲を追っかけろ !」という週一コラムがあります。私はけっこう懐メロ好きなこともあって、いつも目を通し、さほど関心のない曲はそのままスルーします。6月15日付で『井上ひろし 雨に咲く花』が取り上げられていました。それでグイッと惹きつけられ、読んでこれを切り抜きました。
 一読した時この歌の私の一文を思い出し、それとプロDJの文章はどう違うのか、比較するつもりで読んでみました。
 と言うことで、今回は『雨に咲く花』を再掲載します。 

                       *

    およばぬことと諦めました
    だけど恋しいあの人よ
    儘(まま)になるなら今一度
    ひと目だけでも逢いたいの   (『雨に咲く花』 1番)

 私がこの歌を知ったのは、井上ひろしがリバイバルで(もちろん当時はそんなことは知りませんでしたが)歌って大流行していた、昭和三十五年(小学校五年生)頃のことです。ちょうどその頃、昭和三十四年四月十日の世紀の「皇太子(現明仁天皇)ご成婚」を経て、さすがに山形の田舎町とはいえ(白黒)テレビがぼちぼち普及し始めた頃でした。
 
 世の趨勢に町役場の担当者も、「いくら母子寮でも、各戸にもうラジオくらいは置かせてもいいだろう」ということになったらしいのです。こうしてラジオ設置の許可が出て、我が家でも母がどこかから中古ラジオを見つけてきてくれました。他に娯楽のない当時、(もともと学校の勉強が大嫌いな)私は夜ともなれば、ラジオから流れる音声に聴き入っていました。
 多分この歌も、他にはアイ・ジョージの『硝子のジョニー』、三橋美智也の『石狩川エレジー』、坂本九の『上を向いて歩こう』も…。みんないつの間にか、そうやって覚えたのだろうと思います。
                         
 この歌の初発表は昭和十年のことだそうです。そんな時代背景からしますと。この歌の「あの人」はもちろん、今とはおよそ比べものにならないくらい距離的にも、心理的にも遠い「あの人」であるわけです。それを何とかより近い存在にしようと、出来る限りのことはしたのだけれど…。
 それにしても。「およばぬことと諦め」ざるを得ない事情とは?そして他の歌詞でこの女性が自らを「雨に咲く花」となぞらえざるを得ない事情とは?裏に相当込み入った事情が秘められているんだろうなあと、あらぬ想像をめぐらしてしまいます。

 やはり考えられるのは「不倫の恋」でしょう。戦前の旧民法下での厳しい家制度のもとでは、江戸時代の「姦通罪(かんつうざい)」のように発覚すれば市中引き廻しの上磔・獄門(はりつけ・ごくもん)とまではいかないものの、当時不倫は家制度を根底から崩壊させるものとして、絶対的タブーだったわけです。
 この歌がリバイバルで昭和三十年代半ばに大ヒットしたということは、あの当時の社会でもまだ戦前のタブーの名残りが色濃く残っていたということだとも思われます。
 それが当今になりますと、以前某タレントがテレビで「不倫は文化だ !」と堂々と放言できるまでになりました。もっともこの発言は直後から物議をかもし、言った当人はだいぶ世論のバッシングを受けたようですが。

 ともあれ。この歌には1番の歌詞に入る前に、そんな苦しい恋のストーリーが隠されていそうです。
 ここに、携帯メールでいくらでも互いの想いを「軽いことば」で、いとも簡単に瞬時にやりとり出来てしまう当世恋愛事情との違いを感じます。そんな当今の状況を反映した、軽いノリの今時のラブソングにはみられない、味わい深い切々とした情感もあるのだと思います。
 梅雨しとしと降る中、しみじみ聴いてみたくなる雨の名曲です。

                       *

 続いて橋本テツヤ氏の一文を抜粋してご紹介します。
 
 物悲しいメロディーと昭和初期の美しい日本語の詞に感銘した多くの歌手が、歌い継いできた。
 石原裕次郎、身空ひばり、青江三奈、淡谷のり子、ちあきなおみ、氷川きよし…。
 それほどまでに魅了される理由は何だろう?現代女性にはない物静かで従順な女性像が見えるからだ。

 「♪雨に打たれて 咲いている 花があたしの 恋かしら…」
 梅雨の季節、雨に濡れて寂しそうに咲いているアジサイを、自身の姿と重ねている。
 「窓に涙の セレナーデ…」
 セレナーデはドイツ語の音楽用語で「小夜曲」のこと。夜、恋人が住む窓の下で奏でる愛の歌曲の意味だ。76年前に作られた歌とは思えないロマンチックで斬新な名曲である。

 『雨に咲く花』-歌:井上ひろし
    http://www.youtube.com/watch?v=DSGm7hFhN4g

 『雨に咲く花』-カラオケバージョン
    http://www.youtube.com/watch?v=OevGacF1aHE

 (大場光太郎・記) (初稿-08年6月22日、追加-11年6月16日)

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私の「雨に咲く花」

 やはり「雨」といえば、今の梅雨時の雨。そして「雨に咲く花」といえば何といっても、紫陽花(アジサイ)が真っ先に思い浮かびます。
 花は花でもヒマワリのように、日が燦々と輝く中でこその花もあります。しかしそんな快晴の日のアジサイは、何となくくすんで見えます。それが一旦雨の日にこの花を見ますと、俄然色鮮やかに引き立って見えてくるから不思議です。まさにアジサイこそは「雨に咲く花」にふさわしく、雨の中で咲いているそのさまは本当にしっとりとしていて情趣たっぷり。この季節の主役の花です。
 ところでアジサイの色といえば、私としては断固「水色」です。ところが街を車で回っていると、家々の庭や垣根や畑などにアジサイはけっこう見かけても、多くは赤や白など。澄んだ水色のアジサイには、あまり出会えません。なぜなのでしょう?小学校の頃理科の実験で学んだあのリトマス反応のように、赤系統の色が多いのは、当地の土壌が全体的に酸性が多いということなのでしょうか?私にはよく分かりません。(その後調べましたら。やはり土壌の違いによって色を変えるのだそうです。但し私の思い込みとは真逆で、酸性度が強いと「青い色」、酸性度が低いと「赤い色」になるそうです。ものごと、きちんと調べないととんだ思い違いをするものです。)
                         * 
 私にとって、遠い思い出の梅雨時の「雨に咲く花」は別にあります。それは「ムラサキツユクサ」です。私が子供の頃お世話になっていた母子寮の裏の畑に、毎年梅雨時になるとこの花が咲いていたからです。
 第一アジサイなどというゴージャスな花(?)なんて、私の郷里にあったのだろうか?あるいはどこかに咲いていたのかも知れませんが、残念ながら私の幼少時の記憶にはありません。

 母子寮は各部屋とも、八畳一間に、半畳の玄関と同じ半畳の押入れ付き。同寮の東寮の一室が我が家に与えられた部屋でした。その東側に各戸に二間(約3.6メートル)幅×奥行き2mくらいの畑が割り当てられていました。その先は母子寮の東側の境界で、高い板塀がめぐらされ、その向うには民家が建ち並んでおりました。したがってその畑は、日中でもあまり日が入りませんでした。
 私の母は、花などには興味を示すタイプではありませんでした。もっとも当家の余りにも過酷な状況が、母から花を楽しむ余裕を奪ってしまったといえなくもありません。当家の畑は、もっぱら野菜類のみ。よって私の記憶の中のムラサキツユクサは、隣の畑に植わっていたものです。その花は、梅雨時になると決まって一、二株ほどが、可憐で小さな青紫色の花々を咲かせていたのです。
 こうして私の「雨に咲く花」のイメージは、雨の中で咲く花であると共に、日陰でひっそり咲く花でもあります。
 (大場光太郎・記) 

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「歳時記・夏」買いました

    梅雨曇り野良の子猫が路地にゐて   (拙句)

 ここしばらくまあまあの天気が続いていましたが、本日は終日どんよりした曇り空でした。そして今の季節に特有の蒸し暑さで。
 そういえば、しばらく南の洋上に退いてくれていた「梅雨前線」は九州、中国地方にかかり、同地方は豪雨に見舞われたよし。そして再び梅雨前線は北から南まで列島にピタッとはりつくように戻ってきて、また当地も明日あたりから梅雨の長雨が続きそうな気配です。
 人間とは勝手なもので、長雨が続けば続いたでうっとうしく『いい加減何とかなんないかなあ』と思い、しばらくウソのように好い天気が続くと今度は、『梅雨なのになんで?』と、降らない雨のことが気になったりします。

 本夕本厚木駅方面に所用があり、ついでに駅前の一等地にあるY堂書店に立ち寄りました。この書店は、私が当地に来た昭和四十三年には、既に同じ場所にあって、横浜本店を始め他に神奈川県内に何店舗をも有する大きな書店です。本好きな私は、以来この書店の発展に大きく貢献してきました(笑)。
 この度は、角川文庫版の『俳句歳時記・夏』を買うためです。私が前から句作していることを知っている方からは、「歳時記もロクに持ってなかったの?」と言われそうです。いえ、実はある俳人の分厚いものと、その他に角川文庫版の季節毎分冊のを確か全冊そろえました。しかしこの前、ある夏の季語を調べようとしましたが、夏の部だけどうしても見つからないのです。どうせどこかに紛れ込んでしまったのでしょう。『それならもう一冊買った方が早いや』ということになった次第なのです。
 ちなみに、俳人版の方はあまり開きません。角川の分冊の方が、携帯に便利でもっぱらこちらの方を利用している状態です。

 「季語には、日本文化のエッセンスが詰まっている。俳句がたった十七音で大きな世界を詠むことができるのは、背後にある日本文化全般が季語という装置によって呼び起こされるからである。」  (角川文庫版「俳句歳時記・序」より)

 俳句にはあまり関心のない方でも、歳時記をお読みになられることをお勧め致します。現に多方面の多くの著名人が、歳時記を愛読しているようです。
 別に冒頭から終いまで順を追って読む必要などありません。パラパラとめくって、気になった季語の解説あるいは例句を拾い読みするだけでいいのです。それをある程度続けていけば必ずインスピレーションが増し、一段と「精神生活」が豊かになること請合います。
 (大場光太郎・記)

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しあわせ少女(3)

 (話は変わりますが) 欧米人から見て、日本人は「確固たる信仰心」を持たない民族に映ることがあるらしいです。
 欧米では、キリスト教という一神教原理に基づく厳格な宗教があるため、信仰心が徹底している。(しかしこれも最近ではだいぶ怪しくなってきている、と私は見ておりますが)。それにひきかえ、我が国にも「神道(しんとう)」や「仏教」があるけれど、ハッキリと「何教」と闡明(せんめい)にしている者は少なく、おおむねは肝心なそのことをウヤムヤにしている。このこと一つを取っても、日本人は信仰心の薄い民族だというわけです。

 私は決してそのようなことはないと思っています。我が国最古の信仰形態といえば、現日本民族の祖先といえる縄文人は何教もない、ただただ自然万物を尊ぶアニミズム的信仰であったのだろうと思います。それが時代が下って各地に豪族が興り、時々の「祭祀(さいし)」が重要視されるようになって初めて、それに何らかの形式や体系を与える必要に迫られてきた。そうして出てきたのが「神道」であると思われます。
 ですから神道は本来、「無教祖」「無経典」なわけです。それをあえて表明するとすれば、二宮尊徳の有名な道歌のように、
    音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は
    書かざる経をくりかえしつつ
というようなことになるのでしょう。
 
 つまり天地万物を畏(おそ)れ敬う心は、私たち日本民族の血の中に、等しくDNA的に脈々と受け継がれている。だから今さら異国人(とつくにびと)のように、やれ「何教だ !」いや「何様だ !」などと特別に、「言挙(ことあ)げ」する必要もない。…というわけです。
 その一例として、初詣に見られる各地の神社、仏閣への民族的とも思われる大集団参拝、お葬式や広島、長崎での原爆慰霊祭などで見られる敬虔な祈りの姿…。いざという時に、民族の潜在的信仰心が発露されている姿と捉えることはできないでしょうか?

 加えて私は、いつぞやテレビで見た場面が思い出されます。ある地方のある夜川での精霊(しょうりょう)流しの場面でした。流される精霊舟を見送りながら、浴衣姿の小さな子供たちが皆きちんとしゃがみこんで、頭(こうべ)を垂れながら一心に両手を合わせている。その姿に、思わず胸がジーンと熱くなりました。

 しかし今は確かに、前の世代との断絶おびただしく。昔の日本人に比べて「合掌する心」「祈り心」「感謝の心」…をともすると忘れがちであることは否めません。そのことが、昨今の殺伐とした冷ややかな対人関係、もっと深刻化すれば通り魔殺人などの異常事件をひき起こしている、大きな要因の一つであると言えなくもありません。
 このような心が各人のうちに改めて根付いていけば、間違いなく日々報道されるような痛ましい出来事は少なくなっていくものと思われます。(言ってみれば簡単なことなのです。しかし実は、「簡単なことがなかなか(難しい)」なのです。)

 「しあわせ少女ゆうかちゃん」のポスターは、私自身とかく忘れがちなそれらの大切な心を、そのつど思い起こさせてくれるのです。      ― 完 ―

 (大場光太郎・記)
 

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しあわせ少女(2)

 とにかく。そのカギ型の建物の、道路側に張り出した部分の壁面に、大きなポスターが掲げられています。それは4、5歳くらいの賢そうな少女が目をパッチリと見開いて真正面をみつめながら、胸のところで小さな両手を合わせている図柄です。
 背景には、うす黄金色の地に、輝く星々のようなものが散りばめられています。そして同ポスターの下の方に、
     しあわせ少女ゆうかちゃん
という文字が入っています。(なお、私は長谷川仏具店の回し者ではありません、念のため。) 

     

 実に良いポスターだと思います。当然このポスターとてこれを掲げているのは、PR目的なのは明らかです。しかしそんなことも忘れさせる、別の訴求効果がこの絵にはあり、私は通るたびついついしばしこのポスターの方に目がいってしまいます。

 少女の合掌の姿は、上半身のみながら、昔々の童子地蔵や童子観音の立ち姿を彷彿(ほうふつ)とさせてくれます。多事多難なこの時代。もしかして、本当に地蔵菩薩や観世音菩薩が、とかく殺伐とした人の心を和(なご)め癒さんと、あのような少女の姿に変化(へんげ)して示現(じげん)してくれているのかも知れないではないですか。
 それはもちろん冗談ですが。でも時には、そんな想像をしてみたくもなりますよ。とかく息苦しい世の中ですから。

 「しあわせ少女」という文句も良いではないですか。そういえばこの仏壇店系では、かつてすっかり有名になった
   おててのしわとしわをあわせて、しあわせ
というテレビCMも流していましたっけ。少し調べましたら、その時の少女は「しあわせ少女二代目」のたばさちゃんという子。今のゆうかちゃんは三代目で、二千名の応募の中から選ばれたのだそうです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)      

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しあわせ少女(1)

 今は何ごとも変化が激しい時代です。その変化は、街並みにもはっきり反映されています。つい先年まではコンビ二だった所が、ある時見切りをつけてさっさと閉店し、少しそのままのもぬけのカラ状態で放置されていたかと思うと、ある日にわかに店内のリフォームが急ピッチで進み、気がついてみたらメガネのチェーン店や弁当のチェーン店に早変わり。こんなことはしょっちゅうで、特段驚くにも値しないご時世です。

 さていつも車やバスで通る国道246号線沿いに、ある会社の建物や広い施設がありました。それがつい先年何かの事情でしょう、その会社がなくなり建物も空っぽになり、しばらくは廃墟のようなもの悲しい状態で放置されていました。
 それが去年のいつ頃だったか、突然建物と敷地のリニューアルが始まりました。いえどうやら、リニューアルどころではなさそうです。前の建物はすっかり解体し、まったく新しく立て直すべくパイプ足場まで架設されています。『いったい今度は何ができるんだ?』。246号のその辺から、南に1キロほどの厚木警察署付近の跨道橋(こどうきょう)辺りまでは、日中でもやや渋滞気味のところです。私は通るたびに、興味をもって工事の成り行きを見守っておりました。

 その後も工事は続きました。そしてある時全体を覆っていた防護用の白いビニールシートが外され、全貌が明らかになりました。
 真新しい建物は、どうも店舗のようです。でっかい外看板も出来上がっていました。見ると、「お仏壇の・はせがわ」。『あヽあれかぁ』。テレビCMでもおなじみの有名仏具店が、当厚木市にもお目見えするというわけなのです。


   お仏壇のはせがわ厚木妻田店   
 
 そのようにして店舗はすっかり完成し、今では既に営業中です。
 『しかしこんなだだっ広い敷地で。仏壇なんかホントに売れんのか?』。このような有名店なら、店内に陳列している仏壇、仏具類もさぞや高級品ばかりでしょうに。いえいえ。私などが心配するまでもなく、それはそれ。例のマーケティング・リサーチなる最新の手法でもって、事前にきちんと当地の消費者動向などを綿密に調査し、その結果この立地条件ならばと、「OK !」のゴーサインが出たのでしょうから。

 それに世の中いくら金詰りだとはいえ、あるところにはあるのです。それが証拠に、超高額な戸建住宅でもマンションでも高級車でも…その他何でも、高額商品にこそ飛びつく富裕層がけっこういるというではないですか。(以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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当世若者気質(1)

 本日夕方、例の中津川沿いの道を車で通りました。そしてまた新しい「発見」に出会いました。と申しましても、今回の発見は「自然」についてではありません。

 この中津川沿いの道は、対向車とゆったりすれ違い出来る車道と、これまたゆったりした舗道で構成されている道です。もう十年以上前に現在の形に整備されたようです。その舗道には、桜並木が二十メートルほど続いています。
 その桜並木の分けても色濃い夕の木下闇を味わうべく、その方向を見ながら車を走らせておりますと。何と、桜並木がちょうど切れた辺りで、若い男女が抱き合っている姿が目に飛び込んで来たではありませんか! すぐ側にはベンチが設置されています。日中通ってみると、時折りお年寄りたちが座って何やら歓談している姿を見かけることがあります。それがこの度は、いきなり若いカップルの抱擁シーンですから。いやあ、びっくりしたのなんのって!
 
 そのカップルは、男子は白いワイシャツ姿、女子はセーラー服姿です。明らかに厚木市内のどこかの高校生たちでしょう。さては彼らも、最初はベンチに座って何ごとか語らっているうちに、感極まって(あるいは突発的に発情して)そこから立ち上がって、あのように抱き合うことになったものなのか。
 仔細は分かりません。が、このような光景を目の当たりにするにつけ、時代は大きく変わったものだと実感させられます。いつぞやもある駅のホームで電車待ちをしていると、反対側のホームで座り込んで抱き合ったり、キスし合っている若いカップルを目にしました。とにかく彼らは、周りの目などとんとお構いなしなのです。むしろ彼らの行為を「どうだい!」とばかりに、周りの人たちに見せつけているフシすらうかがえます。

 …彼らの行為は、本当の「気高い愛の行為」なのだろうか?それとも底の浅い、単なる一時的な「ファッション的な行為」なのだろうか?私は間違いなく後者だろうなと思いつつ、彼らの「愛の現場」から遠ざかりました。
 
 (付記) 私は、現代を読み解くキーワードの一つとして、「若者」は重要なファクターだと思います。そこでまた折りにふれて、彼らの生態、それについての私の所感などを述べていければと思います。
 (大場光太郎・記)

(注記)この度思い切って、当ブログの模様替えをしてみました。「遊び」が上手でない私にしては、少し遊び心のある図柄で、梅雨時にふさわしいし…。と思って、これにしたのですが。いかがでしょうか?気に入っていただけましたでしょうか?少なくとも、「梅雨明け」頃までは、このカッパ君でいきたいと思います。どうぞ、可愛がってやってください。 

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山のあなた(2)

        カール・ブッセ

  山のあなたの空遠く
  「幸い」住むと人のいう。
  ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみ、かえりきぬ。
  山のあなたになお遠く
  「幸い」住むと人のいう。

          (上田敏訳)

…… * …… * …… * …… * ……

 カール・ブッセ(1872-1918)は、ドイツの新ロマン派(その代表的詩人はリルケ)の詩人です。ブッセは母国ではさほど有名ではなく、上田敏(1874-1916)のこの名訳詩により、遠い我が国で有名になりました。この詩は、明治三十七年刊の訳詩集『海潮音』の中の一篇として収められました。

 「詩の読み方」に「かくあらねばならない」というのは、何もないと思います。たまにある詩集をパラパラとめくって、その中の一詩を拾い読みするもよし。あの時の私のように、詩の情景をイメージしてうっとりするもよし。うんと深読みするもよし…。どうやらとうの昔に「頂上体験」という恩寵を失ってしまった私は、その分「詩」に余計な意味を探ろうとしてしまいます。
                         *
 この詩における「山」とは実際の山というよりは、ブッセの心象に描かれた山だと思われます。詩人の心の中で「理想」と仮託されている山。その「山のあなた(彼方)」の空遠くには、「幸せ住む理想郷」があると人々が言い伝えているという山。

 「山のあなた」は西欧キリスト教社会では、「天(ヘブン)」と言っていいのかもしれません。しかし人はかの天に直行するすべを持ちません。そこで人は、山のあなたの空遠くのちょうど真下辺りの未知の地を、「天に行われるとおり、地にも行われますように」という「主の祈り」にみられるような、「天の映しの地」に擬制するわけです。

 しかしかの地をいざ尋ねてみると。理想郷は行けども行けども見つからず。それはまるで虹か蜃気楼のように、先へ先へと逃げていくばかり。こうして尋ね歩く旅は虚しく終わり、「涙さしぐみ、かえりきぬ」ということになるわけです。
 (それはあるいは、時あたかもヨーロッパ中に吹き荒れていた「産業革命」などにより失ってしまった、「大切な何か」を取り戻す旅であったのかも知れない…。)

 それでも人間というものは。なおも懲りずに止むことなく、山のあなたの理想郷を求め続ける…。

 (大場光太郎・記)

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梅雨晴れ間(3)

    六月の風の便りをあの雲へ   (拙句)

 ここのところよいお天気が続いています。
 私は台風がどうとか大荒れになりそうだとかいう以外は、天気予報や天気図などはあまり気にとめません。「明日は明日の風が吹く」とばかりに、予報のいかんに関わらずその日その時になってみれば、晴れにしろ雨にしろハッキリと答えは出るわけですから。

 いずれにしても、こういい天気が続くのは大歓迎です。それに六月の今時は、いくら暑いとはいえ「六月の綺麗な風」がほどよく吹き渡り。この先嫌でも迎えることになる、七月、八月の最近の「殺人的猛暑」とは大違いです。
 それにしても、「梅雨前線」はどこへ行ってしまったのでしょう?そうしましたら、イラク戦争以来新聞購読をやめている当家の郵便受けに、本日たまたま某紙の本日朝刊が挨拶文とともに入っておりました。そこでちゃっかり一面の気圧配置図をのぞいてみると。どうやら関東地方にほど近き太平洋上に高気圧がでんと居座り、ために梅雨前線は遥か南の洋上まで押し下げられているもののようです。
 『これじゃあ、当分そこそこの天気が続くかもな』。

 このように、お天気についてそれこそ「能天気」に取りとめのないことを述べている間に…。世の中は、一週間ほど前の秋葉原殺傷事件そしてつい先日の岩手・宮城内陸地震と、世を震撼させる事件、自然災害が発生しているのに。「アンタは何をのん気なこと言ってんだよ!」と、お叱りを受けそうです。

 私とて、最近とみに頻発化しつつあるように思われる、異常事件あるいは激甚災害に決して関心がないわけではありません。それのみか、世の人様と同じように心を痛めております。しかし私としては、このような刻々生起する事件、災害等に対しては、新聞不購読者の私などより、鋭く本質を突いた考察なり感想なりを述べられる方々が多くおられるのでは、と考えます。
 
 私は当ブログに多少なりとも社会的役割というものがあるとするならば、それは「癒しブログ」としての役割なのかな?と考えます。折角お訪ねになられた方々が、『あヽ少し気が晴れたなあ』『ちょっぴり元気が出てきたぞ』『何となくインスピレーションをもらえたぞ』…。もしこのように思っていただける方がお一人でもおられましたら、私と致しましては幸甚に存じます。
 よって余程の出来事でもない限り、時々の時事問題を取り上げることは、今後もしないつもりです。しかし「そのようなことがどうして起きるのか?」「今はどういう時代か?」という私の基本的認識については、述べておいた方がいいかも知れません。いずれしっかり考えをまとめて、記事にしたいと思っております。
 (大場光太郎・記)

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山のあなた(1)

           カール・ブッセ

  山のあなたの空遠く
  「幸い」住むと人のいう。
  ああ、われひとと尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみ、かえりきぬ。
  山のあなたになお遠く
  「幸い」住むと人のいう。

          (上田敏訳)

     *     *     *     *     *     *     *

 《私の所感》
 はじめに、私がこの詩に初めて出会った時の思い出を述べたいと思います。
 
 今を去る四十数年前のある秋の午後。当時中学三年生だった私は、授業が終わって、学校の図書館におりました。大きな読書机に向かっている私の背後のガラス窓から、西日がやわらかく射し込んでいました。私は座って、中学生向けのある詩集を手にとって読んでいたのでした。
 その詩集を読み進めるうち、『山のあなた』の詩を初めて目にしたのです。他の詩にもましてこの短い詩になぜか心惹かれて、私はその一字一句を噛みしめながら読んでいました。するうちに、明澄な青々とした山のたたずまい、その向うに広がる青い空、そして空の彼方にひょっとして本当にあるのかも知れない「幸せな世界」などが、次々にイメージされて…。
 私はいつしか、えもいわれぬ幸福感に包まれていたのでした。

 同じような体験を、「二木紘三のうた物語」の『花の街』でも、既に記させていただきました。あの頃(思春期)の私は、W・マズローの「頂上体験(ピーク・エクスピアリアンス)」に近似した感覚に、いともたやすく入れたのです。
 「大人は子供のなれの果て」というけれど、今となっては還らざる遠い昔の貴重な体験です。                          (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)
  
  

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シュールな黄昏

  何者かが遥か上空で
  薄くて仄(ほの)暗いヴェールをさっとかけると
  街に黄昏(たそがれ)の気配が兆す。
  鳥たちは黒い影となって空高く
  西の明るい世界目指して飛び去る。

  夕暮れを告げる鐘の音(ね)も今は響かず
  残照色に染まったビルの壁々に
  遠い昔のこだまがただ虚しくはね返るだけ。

  涼風(すずかぜ)が過ぎた日の歌を歌いながら
  街行く人らの心にそっと触れ
  埋もれた記憶をごっそり掠(かす)め去る。

  広場の噴水は四方に迸(ほとばし)り
  そのほとりで飛沫(しぶき)を浴びた女が
  憂わしげに佇(たたず)み空を見上げて
  夕月にそっと目配せする。

  面(おも)を半分隠した傾いた月が
  地上の街に鈍い光を投げつける。
  光りに撃たれた街全体が一斉に傾いて
  黄昏の底に沈みこむ。

                (大場光太郎) 

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唐傘(からかさ)の思い出

 『「雨」-哀感ただよう童謡』の中で唐傘のことに触れました。
 それについて述べている間に、私は遠い昔の私自身の唐傘の思い出を<懐かしく思い返しました。それを以下に述べさせていただきます。
                                                          *
 昭和三十一年は我が家にとって零落の極みであったこと、私が小学校に入ったばかりのその年の父の死のこと、下の妹の死のこと…などにつきましては、「二木紘三のうた物語」の中の『赤い靴』の拙文で述べさせていただきました。そしてその年の秋十月のある日、母と私は太郎村の家を出て、町の母子寮(山形県東置賜郡宮内町立母子寮)に入寮させていただくことになった次第も。

 …当日は、朝からどんよりした曇り空だったことを覚えています。そんな中、母と私は村のさる有力者に伴われて、朝早くにバスに乗り町へと向かいました。この人は、当時はまだ盛んだった林業で財をなした人で、町の小、中学校の卒業式などに来賓として招かれるほどの名士でした。この人が私たちの入寮手続の一切を、取り計らってくれたのです。(当座の生活道具などは、当日親戚の若い叔父がそれをリヤカー一杯に積んで、別働で運んでくれました。)

 最初に向かったのは、私がその後通うことになる宮内町立小学校でした。近くでバスを降り、少し歩いて私たちはその校門をくぐりました。まず校庭のだだっ広さと、その先に建ち並ぶ校舎の大きさに度肝を抜かれました。何せそれまでは、太郎村にある分校でそれもほんの遊び場程度の狭い校庭と、一年から三年までの二、三十人一緒の教室、高学年用の教室、それに小さな体育室があるくらいなものだったので…。

 校舎の中に入って先ず職員室で、校長や担任となる先生にご挨拶したのでしょう。(そこのところは覚えていません)。それから最後に広い体育館に連れていかれました。既に全校生徒が集まっている何かの集会の最中でした。その前列の方のとある席に座らされました。

 その頃には生来内気な私は、何から何まで初めての体験にすっかり緊張し、どぎまぎし、萎縮してしまっていました。

 学校での手続を終えて出て来た時は、既に雨が降っていました。私の心はますます重くふさぎがちになっていたことと思います。とその有力者が、近くの店に入っていきました。そして店を出てきた時には、手に真新しい傘を持っていました。その有力者と母は、雨を見越して傘を持ってきていましたが、私のはありませんでした。極貧の子せがれに、専用の傘などあろうはずがありません。見かねてその人は、私に傘を買ってくれたのです。その人は、目の前で傘をパーッと広げてくれて、「コタロ君、これ差してげ !」と言って私に差し出しました。
 
それは確か、赤褐色の美しい子供用の唐傘でした。すっかりしょげかえっていた私は、生まれて初めて私専用の傘をもらって。たった傘一つで嬉しくなり、少し気を取り直して、町の外れの北西にある学校付近から、東南の町外れにある母子寮への少し長い道のりを、秋雨がそぼ降る中三人で歩いて行ったのでした。

 (大場光太郎・記)

(注記)文中の「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』コメントは、その後主要部分を当ブログ記事『父と妹の死の頃』として公開しています。
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-665c.html
『雨-哀感ただよう童謡』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_d860.html

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『雨』-哀感ただよう童謡

    雨がふります  雨がふる
    遊びに行きたし  傘はなし
    紅緒(べにお)の木履(かっこ)も  緒が切れた

 ご存知の童謡『雨』の一番の歌詞です。
 この歌は、北原白秋が詩を『赤い鳥』に発表したのが大正七年。そして広田龍太郎が作曲して発表したのが、大正十年のことです。 
 北原白秋の「雨の歌」といえば、他に有名な『城ヶ島の雨』があります。こちらはそぼ降る雨に煙る城ヶ島の叙情的な情景を描き、一方この『雨』の方では雨に閉ざされた、昔の日本的な家の中の情景を描いています。
 
 いずれにしても、懐かしい童謡です。「雨がふります 雨がふる」という巧みなリフレインによって、小止みなく降り続く雨の、その雨脚さらにはその一滴一滴さえもが見えてきそうな感じです。そんな雨の中、「遊びに行きたし 傘はなし」なのです。その上「紅緒の木履も 緒が切れた」というのですから。
 それなら仕方ありません。雨が止むまで家にこもっているしかないわけです。

 この歌は引用しました一番から、五番までの歌詞があります。その中に「千代紙折りましょう 畳みましょう」「お人形寝かせど まだ止まぬ」という歌詞がでてきます。ですから、歌の主人公はまだ幼い女の子でしょう。それもどうやらあまり富裕な家庭の子女ではなさそうです。どちらかというと、やや貧困な家庭の子女といえるかも知れません。そのためなのか広田龍太郎の曲調とあいまって、どことなく哀感が感じられます。
 その辺が貧困層が圧倒的に多かった当時の国民に受け入れられ、その後広く愛唱されるに至ったゆえんなのかも知れません。

 なおこの歌における「傘」とは、柄も骨の部分も竹で作られ、それに防水処理した油紙を張った、いわゆる「唐傘」別名「番傘」のことでしょう。昭和三十年代前半の私の小学校低学年までは、もっぱらこの和傘でした。しかも履物といえば、この歌の木履に類似した下駄。それがいつしか、傘は現在のような洋傘に、履物もズックなどのビニール製に変わり…。それゆえ『雨』の歌の雰囲気を何となく理解できる、私たちが最後の世代なのかも知れません。
 
 それはそれとして。このような昔の童謡を、最近では学校でもあまり教えなくなっているようです。理由はいろいろあるでしょう。曰く「今の時代に合わないから」「童謡にしては暗い歌だから」云々。それでは「明るい健全な歌」だけ大人がピックアップして子供に与えて、本当に豊かな情操が養われるのだろうか?
 私個人としては、大変残念です。願わくば、このような歌、今後とも長く歌いついでいって欲しいものだと思います。

 (大場光太郎・記)
 

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梅雨晴れ間(2)

    高峰を空に持ち上ぐ入道雲   (拙句) 

久しぶりにスッキリと晴れ上がった良い天気の一日でした。
 ほぼ快晴。日はギラギラまぶしく強い日差し。それに比して、日陰はくっきりと濃い陰をつくり。日向と日陰とのこの際立ったコントラストこそは、「夏の日」であることの動かぬ証拠です。
 そのうえかの大山の秀峰の上には、むくむくと入道雲も立ち上り、「我こそは夏の雲なり」と言わんばかり。

 前に『水田そして田植え』で述べました道を、本日また車で通りました。あの頃は植えたてでか細かった早苗も、今では遠くからくだんの田んぼを眺めると、さながら水田一面が青田のように見えるまでに立派に育っておりました。

 さらに。本日昼過ぎ、また例の水路道を通りました。そうしましたら、何と! きのうお伝えしました『小さき花』、きょうまた何くわぬ気に咲いておりました。『あれっ!?』。私はあっけにとられて、『さてはオヌシだましたな!』。
 いえいえ。あれは(まるでもう咲き終わったかのように、しおれたさまは)、か弱き花が生き延びていくための必要な手段だったのです。思いかえせば、きのう通った時は小降りながら雨が降り続いていました。そんな雨でも、あんなに小さな花では開き放しではとても耐えられない。それで一時雨から身を守るためのやむを得ぬ自衛手段だったというわけです。外敵から身を守るために一時的に「死んだふり」をするのは、昆虫の世界でもよく見られることです。それと同じような防衛メカニズムだったと思われます。
 ともあれ。通るたびにまた、この可憐な小さき花を見られるわけで、私にとっては「嬉しいだまされ」です。
 (大場光太郎・記)

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小(ち)さき花

   道の辺(べ)につましく咲ける小(ち)さき花
   花の白きに神顕(あらわ)れぬ           (拙歌)

 いつも通る水路道に、つい先日そこの土の部分に雑草に紛れて、淡赤色の小さな花が咲いていました。
 もちろん花の名前など知る由もありません。石川啄木流に表現すれば、「…赤き花咲き今も名知らず」。とにかく超がつくほど、小さい花なのです。通りすがりにチラッと見たところ、直径一センチにも満たないほどの儚(はかな)さです。四つほどの花弁をもち、多分同じ株からなのでしょう、数輪ほどが咲いています。

 そのさまは、実に可憐でもあり、そよ吹く風にさえゆらゆら揺れそうなさまは、何か痛々しさすら感じます。『守ってあげたい』。思わずそんな気持ちにさせられる花ではありました。
 そうやって何日かその小さき花は、その短い花の命を必死で生きていたのでしょう。きょうそこを通って『あの花は?』と見てみましたら、花はすっかり細く小さく萎れてしまっていました。

 しかしこのようなおよそ名もないごく小さい花を、か弱いもの儚いものと観るのは人間なのであって、花自身は決してそう感じてはいないのかも知れません。(ある測定方法によって、植物にも立派に感情があることが解っています)。そもそも「小さい」という「大小の尺度」あるいは「短い期間」という「時間の尺度」はあくまでも人間の尺度。花には花の全く別な尺度があるのかも知れませんし。
 その尺度では、ちょうどほどよい花の大きさなのであり、またたとえ何日間かであってもその間花は、私たち人間の一生に匹敵するほどの時間感覚を味わっているのかも知れない…。

 それはともかく。冒頭の拙歌―和歌というよりは道歌(どうか、みちうた)―は、十余年前近くのある市近郊の細道を車で走っていて、道端にこの花よりは大きいながらそれでも小さい白い草花が咲いていた。そのさまを詠んだものです。
 なおこの歌の「神」は、ある特定の宗教上の神を想定したものではありません。あえて申せば、このような道の辺の小さき花をも「かくあらしめている」、その奥のまた奥の…原型的実体、究極的実在への尊称的意味合いです。
 (大場光太郎・記)

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夜もみどりなる(2)

 実は私も、ある時「夜もみどりなる」を鮮烈に感じたことがあります。

 前に『都会の片隅のあざみ花(2)』で触れましたが、私は昭和五十年代半ばの何年間かを、都内は明治通り沿いにあった某社に勤めておりました。(話せば長くなりますが、今で言う「契約社員」のような立場でした。)
 連日仕事に追われ、山手線から小田急線に乗り継いで地元の本厚木駅に着くのは、決まって深夜十二時前後。日によってはそれから深夜バスに間に合ったり、間に合わずにタクシーで帰ったり…。

 とある夏の日。その夜はバスに間に合わず、タクシーで帰ることにしました。私は本厚木駅北口のタクシー乗り場で、同じくタクシー待ちの人たちと共に並んで待っておりました。連日追いまくられる仕事の疲れ、更に通勤疲れが重なって、およそ思考力なくただほんやりしながら。
 
 その時間でも待ち客は多く、なかなか順番はきません。私は仕方なく、焦点も定まらないまま見るともなしに周りを見渡しました。タクシー乗り場のすぐ近くに、幹の黒いそこそこの太さの欅(ケヤキ)の木が目に入りました。見れば高さ十メートルをゆうに越えていそうな、堂々たるケヤキです。
 そしてその木に接して高さ四メートルほどの街灯があります。もちろん乗り場付近を煌々と照らすために設置されたものです。本厚木駅はその頃既に、小田急沿線駅でも有数の駅ビルに生まれ変わっておりました。同駅北口はけっこう広い駅前広場ですから、それに伴ってなかなかシャレた立派な街灯です。

 同時に街灯は、別のものもくっきりと浮かびあがらせておりました。高さ四メートルほどの灯り本体間近の、豊かなケヤキの葉群(はむら)です。
 私はぼんやり目を上げながら、思わず息をのみました。そうして闇の中にくっきりと浮かび上がった葉群のなんと鮮やかなこと。日中ごく当たり前に見られる木々のみどり葉とは、およそ異質なみどりがそこにありました。ひどい疲れで、その時の私は一種の「変性意識」状態だったのだろうか。何かこの世ならぬ神秘的なみどりにさえ思われ、私はしばし呆然とその美しさに見入っておりました。

 …その頃の私は、郷里での中学、高校の頃の「文学への夢」などどこへやら。そんな淡い掴みどころのない夢は、首都圏の苦(にが)く厳しい強固な現実の前に、木っ端微塵に打ち砕かれ。そんな夢など、とうの昔に忘れ果てていたのでした。
 ですから、石田波郷とほぼ近似した貴重な詩的場面に出会っても、その時の私はおよそ思い浮かぶ詩的言語とてなく、その神秘的な「夜のみどり」を、言葉を失ってただ呆然と見続けるのみだったのです。            ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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救急車様

  ピィーポー ピィーポー ピィーポー
  街にけたたましい音が鳴り響く
  そこのけそこのけ
  救急車様のお通りじゃい。

  その時ばかりは
  この世で一番偉いのは
  オレ様じゃと言わんばかり。

  ピィーポー ピィーポー ピィーポー
  さすがの超高級車も
  普段は我が物顔のトラック野郎も
  そそくさと路肩に身をよせて
  ハハァーッとばかりに
  平身低頭うずくまって
  救急車様が通り過ぎるのを
  ただ見守るばかり。

  ピィーポー ピィーポー ピィーポー
  救急車様は肩そびやかし
  車々を睥睨(へいげい)しながら
  開かれた花道を悠然と通ってゆく。

  ピィーポー ピィーポー ピィーポー
  救急車様が運んでいるのは
  我々の不安と恐怖だ。

            (大場光太郎)

    (注記)私は救急車のサイレンは嫌いな音の一つです。
     決して受容してはいけない音だと思っています。なお
     乗っておられる急患の方々を冒涜するつもりは全く
           ありませんこと、ご了解賜りたいと存じます。      

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川蝙蝠(こうもり)

    夕川の空に群なす蝙蝠よ    (拙句)

 夕闇迫る七時頃、厚木市内での所用を済ませて、中津川沿いの道にやってきました。
 いつものとおりそこで車を停めて、きょうの川のようすを見に堤防を降りました。堤防は中ほどの人が歩ける数十センチの通路まで、三段ほどの格子状のコンクリート護岸になっています。だいぶ前に作られたもののようで、今ではすっかり黒ずんで多少風化もしている感じで、中津川の自然と融けこんでいる具合です。私はその護岸の下段付近のやや突起したいつも決まった場所に腰をおろします。そしてタバコを一服吸い終わるくらいの、数分間を川の様子を眺めて過ごすのです。

 そうやって川を眺めていると、不思議に心が落ち着いてきます。水は無意識の象徴でもあるようです。そのことが知らす知らずに自分自身の無意識との交流になっており、水が自然のままに流れていくようすを見ていることは、ついつい澱みがちな心を洗い流し浄化してくれるのでしょうか。
 年中折りにふれて来てみても、川の新しい顔を発見することができます。この川に限らず、それが自然というものの本質なのかも知れません。求める者には、常に新しい「何か」を啓示してくれる。

 さて本日の発見は「こうもり」です。堤防の上に立った途端、川空で何かが飛んでいることに気がつきました。初めはつばめかと思いました。以前『みどりの季節』で「水面を慕いて飛べリ川つばめ」と詠みましたとおり、この季節川つばめはよく見かけますから。
 しかしつばめにしては、一回り、二回り小さいようだし…。堤防を降りながらよく見ますと、こうもりでした。それも数メートルから十メートルくらいの川の上空を、数十匹群をなして飛んでおります。これが数百匹、数千匹だったら、空が真っ暗になるくらい…と形容できますが、さすがにそこまでではありません。それでも、夕闇迫る中ですから、人を驚かせるには十分です。

 その飛び方はといえば、つばめほど優美ではありません。まるで不規則な飛び方です。前に飛んでいたかと思うと、急に止まって、くるりと向きを変えて来た方向に戻ってみたり。一箇所でただ昇り降りしているだけだったり。ただただ大きな円を描いているだけだったり。私のすぐ近くをかすめ去っていったり。テンでバラバラです。
 それも、ほぼ川の上空だけに限定して飛んでいるようです。『何でだろう?』。その辺には虫でもいて、それを食べるのだろうか。それにしては、パクつくようなようすでもないし…。結局彼らの夕川の飛行の理由、私には分かりません。

 『そういえば、前にもこんなことがあったなあ』。そうなのです。こうもりは今の季節になると、夕暮れの川空に限っての乱舞ショーを繰り広げるもののようなのです。ちなみに「こうもり」は夏の季語ですから。
 私はいつもはタバコ一服の数分以内で切り上げるところを、ついつい面白くなって十五分もそのショーを見ておりました。

 帰り際、堤防の上で暮れなずむやや南の中空を振り仰ぎますと、半月にほど近き月が、夕方から全天を薄く覆い始めた雲間をとおしてやわらかく光っておりました。
 (大場光太郎・記)

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夜もみどりなる(1)

    プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ   (石田波郷)

 石田波郷(1913年~1969年)は、愛媛県出身の昭和の代表的俳人の一人です。愛媛県といえば、近代俳句の父と母的存在である正岡子規と高浜虚子(きょし)の出身県でもあります。波郷は1932年単身上京し、水原秋桜子(しゅうおうし)、久保田万太郎らに師事。1937年句誌『鶴』を創刊し、その主宰になりました。波郷二十四歳のことです。
 その後波郷は、韻文精神に立脚した人間諷詠の道をたどり、中村草田男(くさたお)、加藤秋邨(しゅうとん)らと共に「人間探求派」と呼ばれ、戦後俳壇を主導した俳人の一人でもあります。

 石田波郷の若い頃の句には、この句のような叙情的でみずみずしい感性の句が多くあります。波郷は、私の好きな俳人の一人です。

 この句が作られたのはいつの頃なのか、仔細には分かりません。しかし、戦前の東京のどこかの街並みを思い浮かべるのが妥当なところでしょう。皆様お分かりでしょうが、夜の真っ暗闇では木立は深い闇に包まれてただ黒々と不気味に迫ってくるばかり。とても「みどり」には見えません。
 木立が夜でも「みどり」であるには、それを照らし出す何かがが必要です。そこでこの句の舞台は、私たちにとっては、ノスタルジックな戦前の東京のさる大通りです。先ずそのことを念頭においておきましょう。
 
 その通りには、プラタナスが街路樹として、ずっと通り中先まで続いています。その通りを、郷里から出てきて日も浅い、若き日の波郷が歩いています。ふり仰ぐと、一本のプラタナスのすぐ間近に街灯があり、その昭和十年代の灯りに、プラタナスの豊かで大ぶりな繁り葉が鮮やかなみどりとなって浮かびあがっている。
 その光景は多分愛媛県でも他の何県でも、当時の田舎では先ずお目にかかれない、都会の夜ならではの、叙情的でかつ幻想的でもある光景です。
 
 それを見て、「夜もみどりなる」と捉えた。これこそが、波郷の新発見です。
 先ず詩的場面を的確に見出せることが、そもそもの大前提。そしてその上さらに、その詩的場面の「核心」を、このようにスパッと一言で捉えられるか否か。これこそが、優れた詩人、俳人であるか、あるいは単なる凡百の愛好家で終わるかを分ける生命線であると思います。                            (以下次回につづく) 
 (大場光太郎・記)

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夕暮れの街角で

  夏の涼しい夕間暮れ
  遊歩専用の街角で一人の若者が
  通りを飾るとて設けられた花壇の
  縁に腰掛け物思いに耽(ふけ)っている。

  若者は時折り顔をあげ
  天を振り仰いだかと思うと
  また顔を伏せて
  深い嘆息を漏らす。

  通りを行過ぎる人のことなど
  まるで眼中になさそうだ。
  見れば若者は手に
  黒表紙の分厚い書物を持っている。

  そのうち手にしていた書物を
  やおら広げて読み出した。
  何から何まで場違いな若者だ。
  (いや場違いなのは街そのものとも言える。)
  
  その書物はさる聖なる書らしかった。
  開くと同時に光りがパーッと
  四方八方に放射されたから
  それと分かるのだ。

  光りはどこまでも伸び広がりたいらしい。
  しかし街に連なった硬質で無機質な
  コンクリート壁面が頑として光りを拒むのだ。
  だから光りはそれ以上進めない。

  光りは壁面にぶつかりながら
  その黒い色素と交じり合う。
  交じり合いながら激しく戦い交わす。
  しかし程なく光りはかき消される。

  それと同時に若者は
  本をパタンと閉じた。
  そしてひときわ深い嘆息を漏らし
  夕暮れの空を見上げるのだった。

           (大場光太郎)

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えっ。ブログでギネス認定 !?

 きのうたまたま昼頃、あるテレビ番組を見ておりましたら。
 何と、あるブログが「ギネス世界記録」に認定されたということを知りました。私も、一応自身のブログを持っている身として、大いに興味をそそられて見てました。皆様既に先刻ご承知かも知れませんが、その内容をネットで検索した記事により、以下にご紹介します。

   おバカタレントとして人気の上地雄輔(29)のブログが「世界で最も1日の
  閲覧ユニークユーザー(重複しないブログ訪問者)数が多いブログ」として
  ギネス世界記録に認定され、東京・原宿のアメーバスタジオで4日、認定書
  が贈られた。上地のブログ「神児遊助」への4月12日の重複しない訪問者
  は23万755人で、これが世界一という。 (以下省略)
                    (スポーツニッポン・Yahoo!ニュース より)

 私のようについ4月末にブログを開設したばかりの、新参者にはまさに驚愕の訪問者数です。とにかくこの先私が当ブログをどんなに趣向を凝らそうと、歴史的名文で記事を綴ろうと、私が幾つもの人生を積み重ねようと―とても追いつけないほどの、桁違いの、およそ天文学的数値です。
 『いやー。驚いたねぇ。こっちは1日○件の訪問数を出そうと四苦八苦してんのに、いとも簡単にこんな数字を出すブログがあったなんて。』
 私はそれまで、上地雄輔(かみじゆうすけ)なる人物も、その「神児遊助」なるブログもまったく知りませんでした。しかし大いに興味をそそられた私は、『今後当ブログの参考になるかも知れない』と思って、早速そのブログを訪問してみました。

 ありました。「神児遊助」。先ず構成から受けた全体的な第一印象は、『なるほどこれは若者受けするかもな』というものでした。記事で取り上げられている、4月12日付けの記事は?少し手間取りましたが、何とかたどりつきました。どうやら、一日分が4回に分かれているようです。例えば、そのうちの一つ。「遺言書」。写真一枚付き。それに片ことの文章が、5行分から10行分飛び飛びで散らばっている程度。そして末尾は、私にはさっぱり分からない、絵文字締め。たったこれだけ? たったこれだけ!
 私はただ、バーをスクロールしてたどっただけです。中身など、まともに読む気にもなれません。ですから確定ではありませんが、何やら仕事で少し危険なことに挑戦した。だから遺言書でも…というようなことらしいです。それが何と。「コメント数」もまた凄いのです。この記事だけで、「1万2392件」。開いた口がふさがりません。
 
 『結局、我がブログにはまったく役に立たんな』。私は、早々にそのブログを立ち去りました。人は人。己(おの)れは己れ。たとえこの先も、彼から比べれば微々たる訪問者数であろうと、コメントがあろうとなかろうと、奇をてらうことなく。私は私で、マイペースでやってまいります。
 (大場光太郎・記) 

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「花泥棒」も罪なの?

    夏風や花泥棒に罪非(あら)じ    (拙句)

 私は現居住地に、今から十三年ほど前に越してきました。
 その頃は、居住地に接した道路はまだ未舗装の、車一台やっと通れるほどの農道で、反対側は田んぼでした。それがその後二、三年するうち、道路は対向車がすれ違い出来るくらいの幅に拡幅して舗装され、つられてその田んぼも盛り土され、近所の人たちへのレンタル農園に変わりました。

 今でもそうですが、その農園は何区画かに分けられ、めいめい野菜を育てたり季節の花物を植えて楽しんでいるようです。
 レンタル農園に変わって間もなくの、ちょうど今頃の季節。私は近くのバス停に向かうべく、舗装なった道を歩きました。季節がら、青々と繁った野菜や花々を眺めながら。すると一番端の区画の畑の道沿いに、何やら小さなカードが掲げられています。私は『何だろう?』と思って寄ってみました。カードには書き物がしてあります。読んでみました。

    花を取らないでください
          しかも三個も

縦書きで、確かそんな内容の文面でした。

 私はそれを読みながら、
 『何と了見の狭い。いいじゃないの。花の二本や三本、盗(と)っていかれたからって。昔から言うじゃないの。「花泥棒は罪にならない」って』。
 そう思いながら、見るとそのカードには余白があります。そこで私は少し皮肉を込めて、その日のようすからとっさに思いついた、冒頭の句をその余白にマジックで書いてやりたい衝動にかられました。かといって、マジックは手元にないし。家に戻るのも面倒だし…。結局そのままやり過ごして、歩き去りましたけれども。

 「花泥棒に罪はない」という、昔からの言い伝え(あるいはそう伝え聞いているのは私だけかな?)は、他人の苑(その)の花であるのに、美しい花に見惚(みと)れるあまりついつい何本か手折(たお)って持っていってしまった。しかしそれは花を愛(め)でる風流心の発露であって、決してその罪を咎めるべきではない、ということだったのでしょう。

 しかし勿論今日の「法治国家」たる我が国では、当然「花泥棒」とて立派な犯罪です。何の罪?刑法第235条の「窃盗罪」です。もしこの条文を犯せば、「10年以下の懲役または50万円以下の罰金」に処せられます。おお、恐(こわ)っ !
 昔ある人が言っていたことを思い出します。「六法全書には、「愛」という文字がどこにも無い」。当然のことながら、「風流心」もどこにも無いわけです。

 (大場光太郎・記)

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逃げろ !

  ちぇっ。頼りにならん奴等だ。
  俺は必死で走りながら舌打ちする。
  「奴等の一味が襲ってきたら、
  みんな団結して立ち向かおうぜ !」
  そう誓い合ったのに何たるザマだ。
  いざその段になったらチリヂリバラバラじゃないか。

  そうは言ってもこの俺も、
  一味の姿を見た途端、それ逃げろっとばかりに、
  真っ先に逃げ出したんだった。

  するうち一味の何人かが俺を見つけ出した。
  追っ手の奴等は大刀振りかざして、
  怖ろしい形相でひたすら俺に迫ってくる。

  それ逃げろ ! とにかく逃げろ !
  俺は足ももつれ心ももつれて、
  必死のあがきでひたすら逃げる。

  ……どれほど走ったんだろう。
  と何かに蹴つまずいた。
  どうやら土手の天辺(てっぺん)らしかった。
  途端にごろんごろんと転がり落ちた。

  えらく長い土手で、
  ずいぶん長く転がり続けた。
  おかげでその間、
  俺様の悪行三昧の生き様を、
  まざまざと思い出してしまった。

  転がる痛さの上に嫌な思い出が、
  次々に被さってくる。
  俺の苦悩は途方もなかった。

  このまま根底(ねそこ)の国まで、
  永劫(えいごう)の転落か?と思った途端、
  どすんと土手の下に着いた。
  我ながら無ざまな格好で引っくりかえって。

  ふと我れにかえって体を起こした。
  その先には広々とした草原が続いていた。
  緑の艶々した丈長い草が、
  一帯にどこまでも生い茂っている。

  草原の彼方に目をやった。
  もう夜明けらしかった。
  しののめの紫色の山並みが、
  ただ静かに連なっている。

  そのさまを見るともなしに見ていると、
  一つの峰から真っ赤な朝日が、
  厳(おごそ)かにぬっと現れた。

            (大場光太郎)
  

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梅雨の晴れ間のある夜さは

  梅雨の晴れ間のある夜(よ)さは
  西の方辺(かたえ)の蛾眉月(がびづき)も
  鈍い赤さでうるみがち

  梅雨の晴れ間のある夜さは
  風が涼しく吹き過ぎる
  風の行方は知りませぬ

  梅雨の晴れ間のある夜さは
  遠くで蛙が鳴いている
  ふるさと捨てて…と鳴きしきる

            (大場光太郎)

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梅雨晴れ間

    若鮎のくねり光りて釣られけり    (拙句)

 いやーぁ。この時期の天気というものはめまぐるしく変化して、その当日になってみなければ分かりませんね。昨夕から降り続いた雨のぐあいから、『あしたもこの分だと天気わるそうだぞ』と思っていたら。何と、それこそ目がパッチリ覚めるようなスッキリした大快晴。
 「梅雨晴れ間」という季語があるけれど、今月一日に晴れてからその後うっとうしい天気続きだっただけに、まさに天の恵みとでも言いたいような爽やかな一日となりました。

 輝くお天道様のもと、吸う一息一息はまるで真新しい空気を体の中に吸い込む心地。深緑のみどりのエキスにたっぷり浸った、芳(かぐわ)しい大気の一部を我が身体に取り込むつもりで深呼吸をしてみました。

 今のこの時期は「衣替え」の季節であるとともに、当地では、相模川その上流の中津川の「鮎解禁」の季節でもあります。相模川のお目当ての場所には、一日の解禁と同時に、未明から東京などからも釣り人がどっと押し寄せ、同川は大賑わいだそうです。
 例年であれば、前に「水田そして田植え」でご紹介しましたように、私がいつも通る中津川にも釣り人たちでいっぱいのはずなのですが。川沿いの道を通るたびに、帰りに車から降りて堤防の一角で、川の様子をしばし眺めるのを常としておりますが、今年はどういうわけか、釣り人の姿をほとんど見かけません。
 
 確かにこのところ降り続いた雨で、川の水量もだいぶ増えて、ために流れが急すぎて鮎はとどまれない。そのためここから一キロ弱下の相模川の、もっと流れの緩やかな場所に移動しているのだろうか。それとも、神奈川県土木事務所か、地元の漁協かとの話し合いで、中津川での鮎釣りは当面禁止になったものなのか。
 釣りの経験のない私には、とんと分かりませんが。例年のこの時期の風物詩が見られないのは、幾分淋しい気がします。

 従いまして冒頭の句は、何年か前きょうのような良い天気の日の昼下がり、たまたま通りかかっていつもの堤防の一角に腰を下ろし、川の両岸や川中にまで入りこんで鮎釣りをしている人たちを、私はタバコ一服ふかしながら眺めていた。するとある釣り人の手が動いて、釣竿をさっと上にあげたら見事に鮎がかかっている。鮎は嫌そうに身をくねらせながら釣り上げられる。その時日を浴びた鮎の背がキラリと光った。その情景を詠んだものです。
 それにしても。そうして釣り上げられる、鮎の気持ちはどんなだろう?ついそんな余計なことまで考えてしまう私は…とうてい釣り人にはなれませんね。
 (大場光太郎・記)
 

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六月の光の詩(うた)

  この世界に光り満ちわたり
  地上にあるものすべてキラキラ輝いて
  この良き日の賛歌を歌っている

  木々や草花のしたたるみどりを
  十分に溶かし込んだ空気は
  そよ吹く風に運ばれていく

  「さあ、大気を一杯吸い込みなさい」
  何ものかがぼくの心にささやく
  ぼくは体全体に沁みこむように
  みどり色の新鮮な空気を
  静かに一心に吸い込む

  空気の光りの成分が
  ぼくの体の中へ
  やさしく降りて広がっていく
 
  肺の底へ腹の奥深くへと
  そしてぼくの知らない
  ぼく自身でもある全細胞へと

  光りのエキスが全身にみなぎり
  ぼくは新しく生まれ変わる

                       (大場光太郎)

  

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つばめそしてコスモス

    曇り日の並木飛び交ふつばくらめ   (拙句)

 きょうは曇り空にて、時にパラパラ小雨が落ちてくるような、まさに梅雨本番を思わせる一日となりました。外に出てみますと、街のたたずまいしっとりと落ち着いて、木々もよけい緑が引き立って目に飛び込んでくるようで。こういう曇りがちな日も、なかなか趣きがあってよいものです。
 ところで前に「ひばりそしてつばめ…」でも述べましたが、このような曇り日にはなぜかつばめが元気よく飛び交う姿をあちこちで見かけます。特に我が家の近くの、某民営団地側道沿いの青葉豊かな桜並木を、何羽ものつばめが飛び交っている姿は絵になる光景でした。
 まるで空を気持ちよさ気に泳いでいるように、上から下へ降下したかと思えば、すぐまた曲線を描いて上昇する。その優美な曲線の飛跡は、いくら人間が真似しようにも真似できないものです。しかしなおも近づいて車のフロントガラス越しに見上げてみると、つばめたちは翼を上下、前後にけっこう気ぜわしく羽ばたかせながら飛んでいるようす。そのさまは少し不器用にも感じられます。『つばめもけっこう必死で飛んでるんだな』。 

 「飛ぶ」といえば。私は若い頃は、すいすい「飛ぶ夢」をけっこう見ました。だから夢の中の空を飛ぶ夢を見るのは当たり前なんだ、と思っていたら。四十歳を過ぎた頃から、ばったり見なくなりました。思えば(極力思わないようにしているのですが)そういうことが、私にとって「老化」の兆しだったのかも知れません。そうやって心身ともに、その自由度が少しずつ狭められていくことこそが…。「若返り」は可能か?今の私の重要なテーマの一つです。(いずれ記事にしたいと思います。)

 夕方五時過ぎ、時に雲間から薄日が射してきて、街の景色をほんのり明るく照らしました。しかしかの大山は?と見れば、見事に麓からすっぽりと雲霧に隠されその姿とて見えず。これをもって、「明日は晴れるぞ」とはならないようです。
 案の定、六時過ぎ雨が降ってきました。小降りながら、夜中まで降り続きました。

 ところで。きのう『あっ。そういえば土が乾く頃だな。水をやらなければな』。
 例の先週記事にしました「コスモス」のことです。ベランダに行って、くだんのプランターをのぞいて見ますと。何と、コスモス。芽を出しておりました!
 『えっ。こんなに早くぅ !?』
 種そのものもか細ければ、出た芽もなんとか細いこと。ひょろんと2、3cmくらいに、プランターのあちこちからめいめい十幾つくらい。中には二つ三つ、既に小さな小さな双葉になっているのもありました。
 『こりゃあ、大切に育ててやらんとな。それにしても、秋に立派な花を咲かせてやるには、この先大変そうだなあ』。
 あんな種から、こうやって芽になって土の上に出てくる。改めて自然界の不思議さを感じながら、しばしコスモスの芽に見入っておりました。
 (大場光太郎・記) 

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聖フランチェスコの祈り

  私をあなたの平和の道具としてお使いください
  憎しみのあるところには愛を
  諍(いさか)いのあるところには赦しを
  分裂のあるところには一致を
  疑いのあるところには信仰を
  誤りのあるところには真理を
  絶望のあるところには希望を
  闇のあるところには光を
  悲しみのあるところには喜びを
  もたらす者としてください

  慰められるよりは慰めることを
  理解されるよりは理解することを
  愛されるよりは愛することを
  私が求めますように

  私たちは与えることにより与えられ
  赦(ゆる)すことによって赦され
  自分を捨てて死ぬことによって
  永遠の命にあずかるのですから

   

            *     *     *     *     *     *

 (私の所感)
 聖フランチェスコ(1181年or1182年~1226年)は、西欧中世時代のイタリア・アッシジの人で、キリスト教最大の聖人の一人といわれ、生涯清貧に徹しイエス・キリストに最も近づいた人とも讃えられる人物です。

 ある日野外で説教をしていた時、木々の梢で小鳥たちがかまびすしくさえずっていて、フランチェスコの話し声がよく聞こえないほどでした。そこで同聖人は、「兄弟小鳥たちよ。あなたがたも一緒に神の福音を聞きなさい」と呼びかけたところ、小鳥たちはピタッとさえずりを止めてその説教に聞き入っていたという話。あるいは、アッシジの町に飢えて凶暴化した狼が日夜出没しては、人に危害を加えるので街の人々は恐れおののいていた。それを知った同聖人は、ある日彼の前に姿を現した狼にやさしく諭したところ、狼はスッカリおとなしくなり、その後は町の人たちが用意しておいた餌を食べては、静かに町を去っていくようになったという話。

 これらのエピソードが、事実だったかどうかは別として、聖フランチェスコはキリスト教徒らしからぬ、豊かなアニミズム的感性(自然との交感能力)の持ち主だったことがうかがわれ、私にはそれが同聖人を敬愛する一つの要因でもあります。

 この祈りは、フランチェスコ自身が作ったものではありません。この祈りの初出は、1912年パリに本部のあるキリスト教のさる会派の機関誌で、作ったのはその会派の指導者であった神父さんだったようです。
 にも関わらずこの祈りは、聖フランチェスコの精神を最もよく表している祈りとされ、第一次世界大戦後徐々にヨーロッパに広まり、特に第二次世界大戦後はキリスト教の垣根を越えて、全世界に「聖フランチェスコの平和の祈り」として広く知られることとなりました。
 これは「祈り」であり、厳密には「詩」にはあたらないか知れません。しかしよく味わってみますと、詩としての鑑賞にも十分堪えるものであると判断し、今回取り上げました。

 今の日本社会、日々の新聞、テレビなどのニュース報道に待つまでもなく、まさに「憎しみ」「諍い」「分裂」「疑い」「誤り」「絶望」「闇」「悲しみ」…の極みにあるのではないだろうかと思わせられる出来事が、社会の各分野で日々起きております。『このままいったら、世の中は、この日本は、人類は…』。心ある人なら誰でもそう思うでしょう。
 そこでこの祈りです。憎しみを「愛」に、諍いを「赦し」に、分裂を「一致」に、疑いを「信仰」に、誤りを「真理」に、絶望を「希望」に、闇を「光」に、悲しみを「喜び」に、変えていかなければなりません。誰が変えていくのでしょう?あの人ですか?どうせ誰かがですか?いいえ。「先ず隗(かい)より始めよ」。この祈りを知ってしまった私たちからです。

 「百匹目の猿」(話せば長くなりますので、これについてはまた改めて)の話、既にご存知の方もおいてでしょう。ある一定数に達しますと、「良いこと」は確実に時間や空間を超えて広く伝播していくのです。
 ネガティブな出来事も多い反面、世界中でいかなる組織にもよらない「心から心へのネットワーク」による「サイレント・ムーブメント(静かなる変革)」も、今確実に進行中なのです。
 (大場光太郎・記)
  
  

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猫びしょ濡れで…

    梅雨入りの夜びしょ濡れや戻り猫    (拙句)

 つい先頃「六月の綺麗な風」で、絶好の良い6月のスタートが切れたと述べたばかりなのに、翌2日はまたそれまでのぐずついた天気に逆戻り。終日小雨が降り続く一日となりました。
 それのみか、気象庁が関西から関東地方までの「梅雨入り」を発表する、おまけつき。『まさか、こんな早くに』。確かに今年は、関東地方の場合例年より6日ほど早い梅雨入りとなったようです。
 同じ雨続きでも、「気象庁」という気象予報のオーソリティ機関が「梅雨入り宣言」をしますと、私たちの感じが俄然違ってまいります。『また例のうっとうしい季節の到来か。やれやれ…』。ついついそういう心持にさせられます。同宣言に限らず、何事もオーソリティ(権威)からの「ご託宣(たくせん)」というものは、私たち庶民にとって、影響力が大きいものです。
 時には例の芸人ではないけれど、『そんなの関係ねえ』とばかり、無視してみましょう。実際年によっては、その後「カラ梅雨」で、見事予報が外れたケースもけっこう多いのですから。
 「個の確立」が必要不可欠なこの時代。政治家、財界トップ、ジャーナリスト、テレビのコメンテーター…、知らず知らず「彼らの言」を鵜呑みにしていることがありはしないか?時に厳しく、自分自身をチェックしてみる必要がありそうです。
 「外を見るな。(己れの)内を観よ。そこには全てがある。」とは、ある賢者の言葉です。
                         *
 それはともかく。2日から3日にかけての深夜は、梅雨入りに加えて、接近中だった台風5号が梅雨前線を刺激したとかで、当地でもけっこう激しい雨になりました。
 そんな中、台所の方からひと際甲高い猫の鳴き声が聞こえてきました。『何ごと?』。隣の事務室にいた私は、そちらにすっ飛んでいきました。と、この雨の中我が家の愛猫がお帰りのようです。

 我が家では、長年三毛系の雑種猫の親子を飼っております。帰ってきたのは、子猫(といっても、もう来月で10歳ですが)の方です。親猫の方は、だいぶ肥満ぎみの満11歳で、家の中でぐっすりお眠りです。
 その子猫(で通します)は、台所の一箇所に踏ん張って、なおも「ニャァー。ニャァー」鳴いて私にアピールしています。そのうち、飼い主様の迷惑おかまいなしに、身をブルブルンと振るわせてその辺の床に雨滴をまきちらしました。そしてつぶらな眼で、私を見上げながら「早く何とかしてくれニャァーッ!」とばかりに、なおも鳴き続けます。
 この猫め。たまに雨の夜外から帰ってくると、私に全身をきれいに拭いてもらうことを習慣としているのです。
 
 母が猫好きだったこともあり、当家ではこれまでずいぶんいろいろな猫を飼いました。しかしこの子猫ほど、ユニークで愛嬌のある猫は初めてです。そうやって面倒見てやっているようで、実は私もずいぶん癒されているのです。
 (大場光太郎・記)

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都会の片隅のあざみ花(2)

 あざみの花が咲いているそもそもの街路樹は、根回り10㎝にも満たないほどのいちょうの幼木です。大きくなることを見越して土の部分をやや大きく取り、その中にヒゲのようにピンと伸びた20㎝長くらいの何とか草がびっしり生えている、その一隅にこのあざみの花があるのです。
 あざみは見れば見るほど可憐な美しさです。『それにしても、何でこんなとこに咲いてんだ?』。
 思うに、あざみのタネが風に運ばれてたまたまここに落ちて、根付いて今こうして花を咲かせているのか。または当該街路樹の植栽を委託された業者が、いちょうの幼木をここに移植した際搬入した土に、たまたまあざみの宿根が残っていたものが育って今花咲かせているのか。おそらくそのいずれかでしょう。
 赤紫色の直径3㎝弱ほどの、こぶりな球形の花の盛りなのが4輪ほど、既に咲き終えて萎(しお)れてしまっているのが同じ数ほど、まだ蕾(つぼみ)ながら咲きたくてうずうずしていそうなのが同数かそれ以上。

 私はあざみの花を見ていて、つい1ケ月余前「二木紘三のうた物語」の『あざみの歌』に、コメントしたことを思い出しました。この歌は郷里の思い出と密接に結びついた、思い入れの深い歌ですから。そのコメントの冒頭に、
     都会にて野あざみの道たどりをり
という拙句を掲げました。私は昭和50年代の何年間か、都内は明治通り沿いにある某会社に在籍しておりました。その当時のことを思い出して、数年前に詠んだものです。当時世の中は上げ潮経済の真っ只中。土木設計関係のその会社に身を置く私も、連日仕事に追いまくられる日々でした。都内のほんの一角のビルの何階かの、担当部署の私にあてがわれた机に夜中までかじりついて。ウンウンうなりながら土木図面を作図したり、構造計算をこねくり回している。
 そんな時ふと、郷里(山形)で子供の頃よく遊びまわっていた、山道の道端に咲いていたあざみの花がふっと脳裏に甦ってきた…。これがその句の背景です。

 それにしても、まさか横浜の中心部である官庁街の片隅で、あざみの花に出会えるとは! 本当に、つい先ほど見たポスターの文句ではないけれど、
 こんなにたくさんの幸せが、
 毎日の中にかくれているなんて。 (劇団四季・ ミュージカル「赤毛のアン」ポスター

  私はつかの間ほんわかいい気分になり、日生ビルの玄関自動ドアから中へと入っていきました。
 ありがとう。あざみさん!
 (大場光太郎・記)

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「著作権法」をめぐって(2)

 実はこの度このタイトルで記事を出しましたのは、「著作権法」を詳細に論じることが目的ではありません。
 当ブログを開設致しましてより、お蔭様をもちまして早一ヶ月余が経過致しました。そして当初より、「名詩・名訳詩」というコーナーを設け、折りにふれて名詩・名訳詩を紹介してまいりました。
 ところが最近ある方より、「そのコーナーで詩を紹介するにあたっては、著作権法には十分ご留意ください」という旨の、ご忠告をたまわりました。私はその時はじめて、ぎくっと致しました。机上の空論とは、このことです。確かに著作権の問題も少しは念頭にありましたが、『いずれももうだいぶ前の詩なんだから、そんな問題にはならないだろう』くらいにしか、考えておりませんでした。しかしご指摘を受けて初めて、去年学習したことを思い出しつつ、確かに『これはまずいぞ』と思い当たることが何点かございました。

 早速既公開分の全詩を当ってみました。そうしましたところ、(「著作権法」上の根拠につきましては、煩雑になりますので省略させていただきますが)、何とその四分の三くらいが「アウト」ではありませんか。
 がっかりです。私の当初の考えと致しましては、「名詩・名訳詩」のコーナーを当ブログの名物コーナーの一つにしよう、将来的には「名詩・名訳詩大アンソロジー」として訪れてくださった方々にお喜びいただこう。それに私の記事が詰まった場合の当座のしのぎにもできるし…。というようなことでしたから。

 ともあれ。そのような次第ですので、このコーナーを楽しみにされていた方々には申し訳ございません。同コーナーに既に公開致しました「全詩」を、一旦「全削除」させていただきました。
 そして今後は、著作権法に抵触しない詩―ということは、詩の作者、訳詩者の保護期間を既に経過した詩―を厳選致し、更に(これもその方からのご助言ですが)私のその詩への「所見など」を加えさせていただきましたものを、順次公開してまいりたいと存じます。そのため、これまでのように頻繁にという訳にはまいりません。
 以上の諸点につきまして、当ブログをお訪ねくださる皆様方のご理解をたまわり、今後とも当ブログごひいきくださいますよう、お願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)

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東海大学湘南キャンパス近辺今昔(4)

 例えば我が国では『愛と認識との出発』あるいは西田幾多郎の『善の研究』など。西洋文学ではロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』など。人間の理想をとことん追求した書は、私の前の世代ならいざ知らず、私の世代(団塊の世代)で大真面目に読んだのは、むしろ少ないのではないかと思われます。
 これは私らの世代がその前の世代より精神的に劣化したというよりは、少なからず当時の時代状況にその要因があったのではないか、と思われるのです。同世代の若者たちの鋭い嗅覚は、自分たちを取り巻く社会状況にどうしようもない矛盾を感じ出し、『これはただ単に理想論だけを振りかざしていても、どうにもならんぞ』と気づいてしまった。もっと俗っぽい言い方をすれば、『今の世の中、どうもウサンくさいぞ』と既に見抜いてしまった。

 そんな時代状況がまるで読めていない、その頃の私の立ち位置は、道から少し外れた田んぼの中。そして彼ら東海大学生たちは、私にとっては「花道」に思えている、駅からの道をぞろぞろ行列をなして歩いている。彼らが向かう先は、オンステージである「大学」。
 そのように、私にとって彼らは羨望の対象でありながらも、他方ではテンでバラバラな服装で同一方向に歩いている彼らの姿からは、松前重義氏の「建学の精神」はあまり感受できないのでした。
                          *
 このタイトルからだいぶ脱線してしまいました。
 そんな次第で私は、その後も東海大学湘南校舎(確か当時はそういう呼び方でした)近辺の測量に従事しました。
 当時は、大根駅(現在の東海大学前駅)の周辺はもとより、東海大学校舎の周辺にもわずかに店舗があるのみ。元々の農家が点在しあとは畑が連なる、昔ながらの田園風景が広がっている高台でした。これから私が向かおうとしている県道沿いも、建物はほとんどなく、山林やその合い間に畑がぽつんぽつんとあるくらいなものでした。
 以来40年。首都圏のどこもそうであるように、東海大学キャンパスから駅までの半径1キロほどのエリアには、今ではもう立錐の余地もないほど、店舗や住宅がびっしりと建ち並び…。
 往時を知る私にとっては、まさに「隔世の感」を改めて深く致します。
                                  ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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六月の綺麗な風

    六月を綺麗な風の吹くことよ   (正岡子規)

 月が替わると同時に、きのうまでのぐずついた天気がまるでウソのように切り替わり。本日は何ともすっきりした大晴天になりました。空にほとんど雲はなく、久しぶりに仰ぎ見る太陽は中空にギラギラまぶしく。まさに夏そのものを感じさせる一日でした。

    お日さまが隠れがちなる五月尽(ごがつじん)   (拙句)
 それにしても、今年の五月は例年になく雨の多い月になりました。何しろ今年の関東地方は、気象観測上も三月から五月にかけての春の降水量の多さで、何と観測史上最高を記録したのだそうです。『言われてみれば、確かにそうだったよなあ』。
 こうなると「五月雨(さみだれ)や」などと、風流にかまえてばかりはいられなくなります。イヤなことながら、例の地球温暖化の影響が、年々エスカレートして顕在化しつつあるのかななどと…。
 それはそれとして。久しぶりの良いお天気だからこそ、そのありがたさもひとしおというものです。日はギラギラ輝いていても、これまで三日ほど続いた雨が十分大地を冷やしてくれたからなのか、そよ吹く風は心地よく、さして暑からず、また寒からず。実に良い六月のスタートです。

 冒頭の正岡子規の句は、きょうのような美しい日にこそまさにピッタリの句です。
 皆様正岡子規のことはよくご存知かと思いますが。晩年の七年くらいは、結核そして後には結核菌が脊髄を侵し脊髄カリエスと、病魔、病苦との苦闘の日々でした。しかしこの期間にまさに、「写生主義」による俳句、短歌の革新運動を起こすという、近代日本文学史上の大偉業を成し遂げたのです。
 享年三十四歳。夭逝(ようせつ)といってもいいほどの若さでした。「神々の愛(め)でにし者は夭逝する」という、西洋の誰かの言葉がありましたが…。

 この句は、結核による大喀血の後に作られた句だそうです。しかしこの句からは、そんな病苦への恨み言や悲嘆などは微塵も感じられません。「体病むとも心は病まず」。おそらく三十歳前であったろう子規の、澄み切った心境、諦観、見事な死生観がうかがわれる、すがすがしい名句です。

 「六月を綺麗な風の吹くことよ」。この季節は間もなく梅雨を迎える時期でもありますが、願わくばこの句のような良き日が一日でも多くありますように。
 
 (大場光太郎・記)

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「著作権法」をめぐって(1)

 皆様も「著作権」の重要性については、ある程度ご認識されていることと存じます。
 さてそれでは、「著作権とは?」「著作権法とは?」と改めて尋ねられた場合、きちんと答えられる人がどれだけいるでしょうか。それは私たちの日常生活や、ビジネスの場面でどれだけの影響を及ぼしているものなのか?そこまで深くは、多分お考えではないと思います。
 実のところ、法律家のはしくれ・行政書士である私もよく分かりませんでした。ただ私が所属しております日行連(日本行政書士会連合会)としては、企業や各個人の更なるコンプライアンス(法令順守)の厳格化、更に複雑化、高度化しつつある情報化社会の要請などからして、「著作権法」は極めて優先順位の高い開拓分野として、会全体をあげて鋭意取り組み態勢を整えているようです。
 私自身も、今の厳しい経済情勢の中、業務分野の拡大を検討せざるを得なくなり、「著作権分野」もその一つでした。そして昨年ネット検索によりたまたま知った、独立行政法人系の某企業が主催する「ビジネス著作権検定」というのを、良い勉強の機会と思ってチャレンジしてみました。日々テキストと問題集に取り組み、初級、上級試験と、それぞれ合格…したのはいいけれど。その後よく考えてみますと、どう知恵を絞ってみても当面業務に直接結びつくものではなさそうなのです。現金なもので、『なーんだ。それじゃあ、これ以上勉強しても意味ないや』。それ以来、著作権法に関する研鑽はばったり沙汰止みになっております。

 しかしごく簡単なご説明くらいはできます。著作権法のほんのさわり程度でも、お互い後学のために確認しておきましょう。

著作権法第1条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。
 (以下第124条にまで及ぶ、大法律です。)
 つまり簡単に申せば、著作権法は著作物を保護することで文化の発展を図ろうとする法律であるということです。ここで「著作物」とは何か?などが問題になってきますが、例えば幼児がパパの似顔絵をクレヨンなどで描いたとします。するとそれも立派な著作物であり、描いた幼児は著作者として、法の保護の対象になってくるのです。その作品の芸術性、巧拙などは問題とされず、完成した著作物として保護されということです。
                                    (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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都会の片隅のあざみ花(1)

     浜風の吹く街角やあざみ花   (拙句)

 私は午後3時頃、目指す神奈川県庁の分庁舎まで、後わずかという所までさしかかっておりました。桜木町駅からここまで2キロ弱。そこそこの道のりを歩いてきました。県庁に向かう時の、いつものパターンです。
 ここのところまたぐづついた天気が続いています。きょうも今にも雨が落ちてきそうな、怪しげな雲行きです。数百メートルほど、日本大通り沿いの舗道上を歩いてきました。横浜港がすぐ間近ですから、その方向(左側)からやや強い浜風が終始吹きつけてきます。5月末なのに、肌寒く感じられるほどです。

 神奈川県庁は、横浜名所の一つである昭和初期建造の、レトロな感じのシックな石造りの本庁舎、それと広い通りをはさんで反対側の近代的な高層ビルの新庁舎、そしてこれから私が入ろうとしている分庁舎などに分散しております。
 神奈川県とて逼迫した財政事情は他と同じで、この複雑化する社会への対応のため部署が拡大しても、改めて新々庁舎を建設する余裕などないのでしょう。そこで分庁舎は、民間ビル(日本生命横浜本社ビル)の一定スペースを賃貸しているのです。このビルの日本大通りの対面には、赤褐色の壁面の横浜弁護士会ビルがあります。
 私が「県庁に行く」という場合は、ほとんどこの日生ビル4階にある県土整備部建設業課の、「建設業審査班」か「宅建業指導班」かのいずれかです。本日はさる業者の建設業許可(変更)届出書提出のために、「建設業審査班」の受付窓口の方にです。

 さて、冒頭述べましたとおり、その日生ビルに接した日本大通りと直交する、少し細い車道の角のガソリンスタンドまでやって来ました。そこのとある街路樹の根元にふっと目が行きました。するとそこに、何と「あざみの花」が咲いているではありませんか!
 私は多少時間的ゆとりがありましたので、少しの間その花に近づいてじっくり眺めてみました。その間舗道上を、人々が気ぜわしげに行き交っています。もちろんあざみの花ごときを、一顧だにする人は誰もおらず、そんな酔狂人はこの私ただ一人のみ。
                                   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

 

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「赤毛のアン」ポスター

    こんなにたくさんの幸せが、
    毎日の中にかくれているなんて。


 相鉄線海老名駅構内壁面に掲示してあるポスターの、上掲のキャッチコピーにはっとしました。
 本日私は横浜に向かうため、小田急線本厚木駅からこの海老名駅で、相鉄線に乗り換えるべく自動改札を通りました。それから間もなくの構内左壁面で、たまたまそのポスターを目にしたのです。ホームにまだ目的の電車は入ってきていません。そこでこのキャッチコピーにすっかり魅了されてしまった私は、ポスターの前でしばし立ち止まって眺めることにしました。

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 よく見ると、同ポスターは「劇団四季」の公演PRのためのもののようです。そして公演作品は「ミュージカル・赤毛のアン」。全体の図柄としては、白い窓枠の片方を右手で開け左手を枠の下に置いているアン・シャーリー(演じているのは吉沢梨絵という女優さんだそうです)が、にこやかに外の景色を眺めている…。そのポスターの右上に上掲のキャッチコピーが。

 赤毛のアン」は(どなたもそうでしょうが)子供の頃から、この作品名だけは知っています。ただ残念ながら、今まで読んだことはありません。
 それに「赤毛のアン」といえば、つい2ヵ月ほど前「二木紘三のうた物語」の『三百六十五夜』という歌のコメントで、私がその歌の「君(きみ)」について愚問を発した際、二木先生より「名回答」をたまわりました。その中に「赤毛のアン」の一節を引用されていたことも、鮮やかに甦ってきました。

 これをきっかけに、同劇団の公演を見に行くかどうかは別としても、この年になってお恥ずかしいながら、原作を折りをみて読んでみようかなと思わせられました。(もしその際は、読後感などを改めて記事にしたいと思います。)

  「こんなにたくさんの幸せが、 毎日の中にかくれているなんて。」

 おそらく子供たちほど、ほんの何気ない日常のありふれたことから、「隠れている幸せ」をいっぱい見つけ出しているものなのでしょう。私には、子供たちこそ「幸せを見つける達人」に思えてきます。
 翻って、私たち大人は?『あれさえあれば(幸せになれるんだが)』『今はこれが欠けているから(幸せじゃないんだ)』…。それこそ、幸せであるための条件をいっぱい抱え込んでいるようです。

 しかしこのキャッチコピーは、「幸せ」であるための条件なんか一切必要ないんだ、ということを暗に示しているようです。要は今すぐにでも幸せになり得るし、事実人は今そのままで十分幸せな存在なんだと。

 ただしそれには、少しばかりコツが必要なんです。「たくさんの幸せ」は、ありふれた「毎日の中」に「隠れている」から、それをうまいことこちらから見つけなければ、いつまでたっても「たくさんの幸せ」にはありつけませんよ。

 それには、変な目先の欲、変な思い込み、変な固定観念、変な社会通念…そんな色眼鏡は全部外して、「子供のように」純真な曇りない眼でものごとをありのままに見てくださいね。そうすればあなたも、「たくさんの幸せ」を見つけることができますよ。きっと。…そう言っているような。

 (大場光太郎・記)

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