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唐傘(からかさ)の思い出

 『「雨」-哀感ただよう童謡』の中で唐傘のことに触れました。
 それについて述べている間に、私は遠い昔の私自身の唐傘の思い出を<懐かしく思い返しました。それを以下に述べさせていただきます。
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 昭和三十一年は我が家にとって零落の極みであったこと、私が小学校に入ったばかりのその年の父の死のこと、下の妹の死のこと…などにつきましては、「二木紘三のうた物語」の中の『赤い靴』の拙文で述べさせていただきました。そしてその年の秋十月のある日、母と私は太郎村の家を出て、町の母子寮(山形県東置賜郡宮内町立母子寮)に入寮させていただくことになった次第も。

 …当日は、朝からどんよりした曇り空だったことを覚えています。そんな中、母と私は村のさる有力者に伴われて、朝早くにバスに乗り町へと向かいました。この人は、当時はまだ盛んだった林業で財をなした人で、町の小、中学校の卒業式などに来賓として招かれるほどの名士でした。この人が私たちの入寮手続の一切を、取り計らってくれたのです。(当座の生活道具などは、当日親戚の若い叔父がそれをリヤカー一杯に積んで、別働で運んでくれました。)

 最初に向かったのは、私がその後通うことになる宮内町立小学校でした。近くでバスを降り、少し歩いて私たちはその校門をくぐりました。まず校庭のだだっ広さと、その先に建ち並ぶ校舎の大きさに度肝を抜かれました。何せそれまでは、太郎村にある分校でそれもほんの遊び場程度の狭い校庭と、一年から三年までの二、三十人一緒の教室、高学年用の教室、それに小さな体育室があるくらいなものだったので…。

 校舎の中に入って先ず職員室で、校長や担任となる先生にご挨拶したのでしょう。(そこのところは覚えていません)。それから最後に広い体育館に連れていかれました。既に全校生徒が集まっている何かの集会の最中でした。その前列の方のとある席に座らされました。

 その頃には生来内気な私は、何から何まで初めての体験にすっかり緊張し、どぎまぎし、萎縮してしまっていました。

 学校での手続を終えて出て来た時は、既に雨が降っていました。私の心はますます重くふさぎがちになっていたことと思います。とその有力者が、近くの店に入っていきました。そして店を出てきた時には、手に真新しい傘を持っていました。その有力者と母は、雨を見越して傘を持ってきていましたが、私のはありませんでした。極貧の子せがれに、専用の傘などあろうはずがありません。見かねてその人は、私に傘を買ってくれたのです。その人は、目の前で傘をパーッと広げてくれて、「コタロ君、これ差してげ !」と言って私に差し出しました。
 
それは確か、赤褐色の美しい子供用の唐傘でした。すっかりしょげかえっていた私は、生まれて初めて私専用の傘をもらって。たった傘一つで嬉しくなり、少し気を取り直して、町の外れの北西にある学校付近から、東南の町外れにある母子寮への少し長い道のりを、秋雨がそぼ降る中三人で歩いて行ったのでした。

 (大場光太郎・記)

(注記)文中の「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』コメントは、その後主要部分を当ブログ記事『父と妹の死の頃』として公開しています。
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-665c.html
『雨-哀感ただよう童謡』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_d860.html

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思い出」カテゴリの記事

コメント

この歌は私も大好きです。二木先生の解説がなかったら、本当に
「紅緒のかっこ」の意味が分からない人ばかりの時代になって
しまいましたね。いつもの事ながら、大場様の繊細な目で眺め
られて記憶されている唐傘の思い出、辛かった時代でも人の
暖かさを知ることが出来た素晴らしい思い出となっていますね。
大場様の人生の色々な出来事、思い出、そして情緒豊かな数々
の詩を拝見して、人間は決して豊かな環境の中でだけ豊かな感情
が育っていくのではないことを知りました。どんな時でも、自分
を向上させるのは自分自身であること、それを大場様が証明され
ていらっしゃいますよ。
今日は亡き主人のお墓参りに出かけました。澄み渡った青空の
中に吸い込まれるように、青い海の上を走るアクアラインの
バスに乗って、ひとときの旅の気分を味わいました。千の風の
歌に共感する私ですが、それでも亡き人の眠っている場所も、
私にとっては忘れることが出来ない場所です。コスモスは順調に
大きくなっているでしょうか?小さな芽がどんどん育つ姿を見る
のは命を感じますね。我が家の老犬を見送るまでは、と頑張る
毎日です。

投稿: れいこ | 2008年6月16日 (月) 19時29分

れいこ 様
 またコメントたまわりありがとうございました。
 人間実物を目にしないと本当には解らないもので、私も「紅緒のかっこ」はよく知りません。そこで「かっこ」には触れずに、もっぱら傘のみにこだわりました。 
 私がこちらに来る時、地元の役所のある方にご挨拶に伺ったところ、「人間嫌なこと、辛いことも過ぎ去ってしまえば、皆懐かしい良い思い出として振り返られるものだ。関東に行ってもくじけず、しっかりがんばんなさい」というような味わい深い励ましの言葉をいただきました。今にして、確かにその通りだなあと思います。
 きょうはまた梅雨晴れ間の良いお天気でした。そんな中ご主人のお墓参りに行かれたとか。泉下のご主人もさぞお喜びのことと思います。爽やかに吹き渡る海風…目に浮かぶようです。
 コスモス。注意していたつもりなのですが、猫に荒されてしまいました。残る三分の一のスペースに、七つほどの芽がか細く育っています。今後は十分注意していきたいと思います。
 ワンちゃん、今後とも元気でありますように。この時期は急に暑くなったり、雨になって一気に気温が下がったりと、変動が激しい季節です。れいこ様には、お体大切にお過ごしくださいませ。

投稿: 大場光太郎 | 2008年6月16日 (月) 20時18分

大場さんの文章を読んでいて、ふと自分の思い出を書きたくなりました。「唐傘」とあまり関係ないので失礼しますが、ご了解ください。
昭和31年の頃(小生が中学校上級生の頃)ですが、ある日、朝から相当強い雨が降っていたので、僕はもちろん自分の洋傘を持って中学校へ向かいました。その途中で、雨にびしょ濡れになりながら早足で歩いてくる男の生徒を見つけました。
その生徒は転校してきて間もない、たしか城石君(?)というクラスメートだったので、「濡れるから一緒に行こうよ」と声をかけました。ところが、城石君は首をふって僕の横を通り過ぎて行ったのです。
僕は少し唖然としましたが、なぜ彼が僕の傘に入ってこないのか不思議でした。彼が僕を嫌っているのか、あるいは人に頼りたくないのか、転校してきて間もないので人見知りしているのかなどと、いろいろ考えたものです。
はっきりした答えは未だに分かりませんが、城石君は他のクラスメートとよく喧嘩をしていたので、自立心が旺盛だったのか、あるいは周りに反発していたのか、とにかく彼はクラスにとけ込まないまま卒業していきました。
大場さんの文章を読んでいて、昭和31年頃というのは、自分の傘を持っていない生徒がかなりいたなと思い出したのです。その頃、小生は埼玉県の浦和市(現さいたま市)に住んでいましたが、世の中はまだまだ貧しかったと思います。
クラスメートの4割近くは、卒業しても進学せず、そのまま就職したか家業の手伝いに就いたと記憶しています。城石君もたしか就職しました。中学卒業生のおそらく99%は進学する現在と比べると、当時の社会はずいぶん貧しかった(余裕がなかった)のかと考えます。
その後も『金の卵』とか言われて、中卒の子供たちが大勢、地方から“集団就職”で上京していましたからね。
大場さんの文章を読んでいて、つい「傘の思い出」を書きたくなりました。
駄文につき、たいへん失礼しました。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年6月17日 (火) 09時59分

矢嶋 様
 この度はご自身の貴重な「傘の思い出」をご披露いただき、大変ありがとうございました。あの当時既に専用の、しかも時代の最先端をいく洋傘をお持ちだったよし。その頃から、矢嶋様の明るい前途が約束されていたことが覗われます。
 傘に入ることを拒否して、ずぶ濡れで過ぎ去った友人、多分に日頃から鬱屈した複雑な感情があったんでしょうね。それと、あの年代特有の「ツッパリ(ヒロイズムの一変形)」も…。
 昭和三十年代は、私の郷里に限ってみても高校進学、特に「大学進学」は大変少なかったと思います。ですからかえって、三十年代半ば頃、わが町から「東大合格者」が出た時は、町中大騒ぎでした。(私の記憶では、わが町から東大に入ったのは後にも先にも、私より六歳ほど年上のその人だけです。)また私が中1の時アルバイトしていました、町の老舗の呉服店の二男が早稲田に行っており、たまに帰省してきました。多分矢嶋様と、同世代でしょう。私などは、まぶしくその姿を見ておりました。
 本当に世の中全体が、貧しい時代でした。しかしその分人と人との「思いやり」「助け合い」が、今よりはふんだんにあり、そのことがお互いの貧しさを補ってあまりあるものでした。
 矢嶋先輩。また気楽にコメントお寄せください。

投稿: 大場光太郎 | 2008年6月17日 (火) 16時35分

 今回の本記事再掲載に先立ち久しぶりで読み返してみました。幾重にも懐かしさがこみあげてきました。
 懐かしさの一つは、本記事が4年前の当ブログ開設間もない頃の記事であることです。当時は日々の訪問者が10人にも達しないような状態でしたが、とにかく「良い記事を書こう」と必死に記事更新に取り組んでいました。
 またこの記事にコメントをお寄せいただいたれいこ様、矢嶋様も懐かしい人たちです。れいこ様は「二木うた物語」の『赤い靴』コメントにご感想をお寄せになってから、私を一貫してご支援いただいた方でした。その後私が「二木うた物語」を離れる事態となり、れいこ様とも疎遠になってしまいました。ご健勝であられますよう陰ながらお祈り申し上げます。矢嶋様は同サイトのコメント仲間で、この人のことは各記事で紹介してきました。
 そして最も懐かしいのは、やはり本記事の出来事があった昭和三十一年という年の事です。今思い返してみても、我が家にとって激動のこの年が私の人生の原点だったような気がします。

投稿: 時遊人 | 2012年7月 4日 (水) 18時37分

 つい先日、開設当初のこの記事にアクセスしてこられた奇特な方がおられ、私もつい懐かしくなって読み返しました。昭和31年は、我が家と私の運命が急変した激動の年でしたから、ここに書かれている十月のある一日の事は未だにしっかり覚えています。それにしてもあれから60年近く経とうとは。あらためて「光陰矢の如し」と感じさせられます。

投稿: 時遊人 | 2015年10月26日 (月) 05時02分

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