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バラの思い出(番外編)・コルベ神父

 もし誰かから「ヨーロッパを代表する花は?」と聞かれれば、私は「バラ !」と即答します。
 バラは、何よりもヨーロッパにおいて品種改良を重ね、現在のようなさまざまな美しい品種を生み出してきたのですから。バラはまさに、ヨーロッパの歴史とともに歩んできた花といえそうです。おそらく西欧の歴史の中で、バラにまつわる物語はそれこそ無数にあるのでしょう。

 そもそも「真紅の薔薇」は時に、イエスが十字架上で流した「聖なる血」にも見立てられることがあるようです。「ローゼンクロイツ(薔薇十字)」。中世にはズバリこれを冠した、キリスト教とそれ以前の古代叡知を融合させた、秘密結社「薔薇十字会」が組織されました。そしてその流れは、十七世紀そのオカルト(隠知学)的養分を受け継ぐかたちで、イギリスで「近代フリーメーソン」が成立しました。(なお、アメリカ合衆国は、同メーソンが建国した国といっても過言ではないほどです。そしてその影響は、我が国の「占領政策」にも…。)
 
 その他でも、その名もズバリの「薔薇戦争」。これは十五世紀(1455年-1485年)、イングランドの王権をめぐる戦争です。元々は同じ血族である、ランカスター家(赤薔薇の紋章)とヨーク家(白薔薇の紋章)の両家の戦いであり、その紋章から後世そう名づけられたものです。
 しかしこれらを詳述することは、私の任を遥かに越えてしまいます。今回は、キリスト教(カトリック)で「二十世紀の聖人」として有名な、コルベ神父のバラにまつわるエピソードをご紹介致します。
                        *
 コルベ神父(1894年-1941年)は、ポーランドの貧しい家庭の出身です。幼少から才気煥発な子供だったようです。時にその腕白ぶりも目にあまるものがあったようです。ほとほと手を焼いた母親は、ある出来事の罰として、学校が終わってから所属教区の教会でお祈りをするよう厳命しました。両親特に母親は、敬虔なカトリック信徒だったのです。
 さすがのコルベ少年もその命令には逆らえず、こうして教会通いが始まりました。一日、二日は祭壇に向かっても、きょろきょろもぞもぞだったようです。しかし元々人に勝る非凡さを持っていたコルベ少年は、三日目あたりから自然に祈りに集中できるようになっていきました。

 こうして深い祈り(観想)を続けること、一週間ほどが過ぎた頃。突然、聖母マリアが現れたのだそうです。聖母は、驚きを隠せないでいるコルベ少年に向かって、柔和に微笑(ほほえ)まれました。見ると聖母は、両方の手に一本ずつのバラを持っています。一方の手には白いバラ、もう一方の手には赤いバラ。
 聖母は、コルベ少年の前で花をかざしながら、
 「白いバラは純潔のしるしです。赤いバラは殉教のしるしです。あなたはどちらがほしいですか?」
と、やさしくお尋ねになりました。コルベ少年はためらわずに、
 「両方ともください。」
 聖母マリアはにっこり微笑み、望みどおりコルベ少年に赤白二本のバラを手渡し、忽然と消えてしまいました。

 こうして、マキシミリアノ・マリア・コルベは、それ以来信仰者の道そして殉教者の道を歩むことになるのです。
                       *
 ここまでを草稿してから念のため、私所蔵の「アウシュビッツの聖者コルベ神父」(聖母の騎士社刊)の当該部分を読んでみました。すると、肝心な「バラ」は「王冠」となっておりました。聖母示現の場所も違っていました。あれっ。おかしいなあ。オレの記憶違いだったのかなあ。確か別の本では、「バラ」だったんだがなあ。それにこの場合、バラの方がふさわしいと思うんだがなあ。
 しかし考えてみますと、「聖母示現」そのものが極めて個人的、内面的な体験です。ある意味伝説といってもよいでしょう。さまざまな異説が生じるのは致し方のないことなのかも知れません。
 よって上記の文は、当初のまま公開致します。これも一つの異説または私の創作としてお読みください。
 なお、コルベ神父は、(戦前の)我が国にも大きな足跡を残しております。いつかその事跡を(創作なしで)ご紹介できればと思います。
 (大場光太郎・記)

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