六月の綺麗な風
六月を綺麗な風の吹くことよ (正岡子規)
月が替わると同時に、きのうまでのぐずついた天気がまるでウソのように切り替わり。本日は何ともすっきりした大晴天になりました。空にほとんど雲はなく、久しぶりに仰ぎ見る太陽は中空にギラギラまぶしく。まさに夏そのものを感じさせる一日でした。
お日さまが隠れがちなる五月尽(ごがつじん) (拙句)
それにしても、今年の五月は例年になく雨の多い月になりました。何しろ今年の関東地方は、気象観測上も三月から五月にかけての春の降水量の多さで、何と観測史上最高を記録したのだそうです。『言われてみれば、確かにそうだったよなあ』。
こうなると「五月雨(さみだれ)や」などと、風流にかまえてばかりはいられなくなります。イヤなことながら、例の地球温暖化の影響が、年々エスカレートして顕在化しつつあるのかななどと…。
それはそれとして。久しぶりの良いお天気だからこそ、そのありがたさもひとしおというものです。日はギラギラ輝いていても、これまで三日ほど続いた雨が十分大地を冷やしてくれたからなのか、そよ吹く風は心地よく、さして暑からず、また寒からず。実に良い六月のスタートです。
冒頭の正岡子規の句は、きょうのような美しい日にこそまさにピッタリの句です。
皆様正岡子規のことはよくご存知かと思いますが。晩年の七年くらいは、結核そして後には結核菌が脊髄を侵し脊髄カリエスと、病魔、病苦との苦闘の日々でした。しかしこの期間にまさに、「写生主義」による俳句、短歌の革新運動を起こすという、近代日本文学史上の大偉業を成し遂げたのです。
享年三十四歳。夭逝(ようせつ)といってもいいほどの若さでした。「神々の愛(め)でにし者は夭逝する」という、西洋の誰かの言葉がありましたが…。
この句は、結核による大喀血の後に作られた句だそうです。しかしこの句からは、そんな病苦への恨み言や悲嘆などは微塵も感じられません。「体病むとも心は病まず」。おそらく三十歳前であったろう子規の、澄み切った心境、諦観、見事な死生観がうかがわれる、すがすがしい名句です。
「六月を綺麗な風の吹くことよ」。この季節は間もなく梅雨を迎える時期でもありますが、願わくばこの句のような良き日が一日でも多くありますように。
(大場光太郎・記)
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コメント
本日は都合により新記事の更新が出来ません。そこで去年の今頃作成した本記事をトップ面に掲載します。冒頭の天候の具合などはだいぶ違うかもしれませんが、ご了承ください。
なお本記事は、年間通してアクセスのある記事です。すべて検索アクセスでのご訪問ですが、ほとんどが「六月の綺麗な風」です。やはり冒頭の子規の、スッキリした名句の愛好家が多いということだろうと思われます。
投稿: 大場光太郎 | 2009年6月 1日 (月) 01時23分