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しあわせ少女(3)

 (話は変わりますが) 欧米人から見て、日本人は「確固たる信仰心」を持たない民族に映ることがあるらしいです。
 欧米では、キリスト教という一神教原理に基づく厳格な宗教があるため、信仰心が徹底している。(しかしこれも最近ではだいぶ怪しくなってきている、と私は見ておりますが)。それにひきかえ、我が国にも「神道(しんとう)」や「仏教」があるけれど、ハッキリと「何教」と闡明(せんめい)にしている者は少なく、おおむねは肝心なそのことをウヤムヤにしている。このこと一つを取っても、日本人は信仰心の薄い民族だというわけです。

 私は決してそのようなことはないと思っています。我が国最古の信仰形態といえば、現日本民族の祖先といえる縄文人は何教もない、ただただ自然万物を尊ぶアニミズム的信仰であったのだろうと思います。それが時代が下って各地に豪族が興り、時々の「祭祀(さいし)」が重要視されるようになって初めて、それに何らかの形式や体系を与える必要に迫られてきた。そうして出てきたのが「神道」であると思われます。
 ですから神道は本来、「無教祖」「無経典」なわけです。それをあえて表明するとすれば、二宮尊徳の有名な道歌のように、
    音もなく香(か)もなく常に天地(あめつち)は
    書かざる経をくりかえしつつ
というようなことになるのでしょう。
 
 つまり天地万物を畏(おそ)れ敬う心は、私たち日本民族の血の中に、等しくDNA的に脈々と受け継がれている。だから今さら異国人(とつくにびと)のように、やれ「何教だ !」いや「何様だ !」などと特別に、「言挙(ことあ)げ」する必要もない。…というわけです。
 その一例として、初詣に見られる各地の神社、仏閣への民族的とも思われる大集団参拝、お葬式や広島、長崎での原爆慰霊祭などで見られる敬虔な祈りの姿…。いざという時に、民族の潜在的信仰心が発露されている姿と捉えることはできないでしょうか?

 加えて私は、いつぞやテレビで見た場面が思い出されます。ある地方のある夜川での精霊(しょうりょう)流しの場面でした。流される精霊舟を見送りながら、浴衣姿の小さな子供たちが皆きちんとしゃがみこんで、頭(こうべ)を垂れながら一心に両手を合わせている。その姿に、思わず胸がジーンと熱くなりました。

 しかし今は確かに、前の世代との断絶おびただしく。昔の日本人に比べて「合掌する心」「祈り心」「感謝の心」…をともすると忘れがちであることは否めません。そのことが、昨今の殺伐とした冷ややかな対人関係、もっと深刻化すれば通り魔殺人などの異常事件をひき起こしている、大きな要因の一つであると言えなくもありません。
 このような心が各人のうちに改めて根付いていけば、間違いなく日々報道されるような痛ましい出来事は少なくなっていくものと思われます。(言ってみれば簡単なことなのです。しかし実は、「簡単なことがなかなか(難しい)」なのです。)

 「しあわせ少女ゆうかちゃん」のポスターは、私自身とかく忘れがちなそれらの大切な心を、そのつど思い起こさせてくれるのです。      ― 完 ―

 (大場光太郎・記)
 

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