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バラの思い出(2)

 さて「バラの思い出」と題して私が述べたかったのは、以下のことです。と申しましても、たった一輪のバラのことを。

 私が郷里の母子寮にお世話になっていた、小学4年生の梅雨時の頃。雨が降る日でした。夕方母が外から帰ってきました。それも手に一輪の真っ赤なバラを持って。その時の母は、何となく嬉しそうでした。普段は、たかが花ごときで嬉しがる母でもありませんのに。

 母子家庭であるために、町役場から生活費として、生活保護費を月々支給されているものの、親子3人食べていくのにはとても足りるはずもなく。『唐傘の思い出』のあの日に入寮して以来、母は町の「失対(しったい)事業」の一環である道路工事などの人足として日々働いて、私とすぐ下の妹を養ってくれていました。「失対」については、ご年配の方ならご存知かもしれません。正式には「失業対策事業」といって、戦後間もなく頃から始まった事業で、戦後溢れていた失業者を救済する目的で、国が始めやがて全国の地方公共団体が実施していった事業のことです。(郷里の町では、確か昭和30年代半ば過ぎまで行われていました。)

 母は身長150cmにも満たない、小柄で痩せ型な女でした。そんな母が、日々男たちに混じっての土方仕事です。(もっとも母以外にも女性はいたようです)。日々積み重なる疲労は、いかばかりだったでしょう。そのためなのか、夕方帰ってきてからも不機嫌そうでした。私は怒られてばかりでした。
 母にしてみれば、「二木紘三のうた物語」の『赤い靴』で述べさせていただいたとおり、既に末娘を亡くしております。母の思いとして、極貧のために最愛の娘を手放さざるを得なかった、そして遂には死なせてしまった。これが母にとっての一大痛恨事として、常に心の中にあったようです。『貧乏していたから菊子(死んだ妹の名前)をあんなことにしてしまった。貧乏は決してするものではない』。今思うと、貧から脱け出すためには自分の身も何もかも犠牲にして…そんな思いだったのではないかと思われます。(当地でまた一緒に住むようになってから、それを一段と強く感じました。時にそれは、鬼気迫るほどのものでした。それに対して私の親不孝ぶりは、『母さんの歌』で述べたとおりです。)

 そんな母が一輪のバラを持って嬉しそうにしている。どこで誰にもらったものなのか。子供だった私には、知る由もありません。(ただその後、母にとって最後となったロマンスがありました。ドラマ性があり記事にしたいけれど、痛ましい結末でとても私には…。)

 私も手にとって、初めて間近でバラの花を見ました。長さ30cmほどで切られた、つやつやした緑の葉が3、4枚ほど、それにたった一個の真っ赤なバラの花。その後のバラのことについては、全く覚えていません。母が多分花瓶に活けたのでしょうけど。
 今ならどこの花屋さんにも、バラは溢れかえっています。けれど当時母子寮の我が家で、バラというゴージャスな花を見たのは後にも先にもこの時限りです。いえ、バラに限らず何花も、滅多に。
 我が家は「金の王」に見放されていると共に、「花の精(フローラ)」も寄りつかない状態だったのでした。

 今でもたまに、あの時のバラの一輪が、薄暗いバックに鮮やかな真紅でパッと甦ってくることがあります。                ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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