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夜もみどりなる(2)

 実は私も、ある時「夜もみどりなる」を鮮烈に感じたことがあります。

 前に『都会の片隅のあざみ花(2)』で触れましたが、私は昭和五十年代半ばの何年間かを、都内は明治通り沿いにあった某社に勤めておりました。(話せば長くなりますが、今で言う「契約社員」のような立場でした。)
 連日仕事に追われ、山手線から小田急線に乗り継いで地元の本厚木駅に着くのは、決まって深夜十二時前後。日によってはそれから深夜バスに間に合ったり、間に合わずにタクシーで帰ったり…。

 とある夏の日。その夜はバスに間に合わず、タクシーで帰ることにしました。私は本厚木駅北口のタクシー乗り場で、同じくタクシー待ちの人たちと共に並んで待っておりました。連日追いまくられる仕事の疲れ、更に通勤疲れが重なって、およそ思考力なくただほんやりしながら。
 
 その時間でも待ち客は多く、なかなか順番はきません。私は仕方なく、焦点も定まらないまま見るともなしに周りを見渡しました。タクシー乗り場のすぐ近くに、幹の黒いそこそこの太さの欅(ケヤキ)の木が目に入りました。見れば高さ十メートルをゆうに越えていそうな、堂々たるケヤキです。
 そしてその木に接して高さ四メートルほどの街灯があります。もちろん乗り場付近を煌々と照らすために設置されたものです。本厚木駅はその頃既に、小田急沿線駅でも有数の駅ビルに生まれ変わっておりました。同駅北口はけっこう広い駅前広場ですから、それに伴ってなかなかシャレた立派な街灯です。

 同時に街灯は、別のものもくっきりと浮かびあがらせておりました。高さ四メートルほどの灯り本体間近の、豊かなケヤキの葉群(はむら)です。
 私はぼんやり目を上げながら、思わず息をのみました。そうして闇の中にくっきりと浮かび上がった葉群のなんと鮮やかなこと。日中ごく当たり前に見られる木々のみどり葉とは、およそ異質なみどりがそこにありました。ひどい疲れで、その時の私は一種の「変性意識」状態だったのだろうか。何かこの世ならぬ神秘的なみどりにさえ思われ、私はしばし呆然とその美しさに見入っておりました。

 …その頃の私は、郷里での中学、高校の頃の「文学への夢」などどこへやら。そんな淡い掴みどころのない夢は、首都圏の苦(にが)く厳しい強固な現実の前に、木っ端微塵に打ち砕かれ。そんな夢など、とうの昔に忘れ果てていたのでした。
 ですから、石田波郷とほぼ近似した貴重な詩的場面に出会っても、その時の私はおよそ思い浮かぶ詩的言語とてなく、その神秘的な「夜のみどり」を、言葉を失ってただ呆然と見続けるのみだったのです。            ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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