« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月

私の不思議体験(1)

 ずいぶん昔のことです。今まで誰にも話したことのない、幼少時の少し不思議な体験を述べようと思います。
 とは申しましても、予めお断り申し上げます。霊を見たとかUFOを目撃したとかいうことではありません。両方とも私は大いに興味があり、出来ればそういう体験に一度ならず何度でも遭遇してみたいとは思いますが。私には今のところ残念ながら、そのようなモノを視る能力は備わっておりません。
                         *
 昭和三十二年、私が小学校二年生の夏休みのことでした。その年は、今から思えば東北地方の梅雨が長引いたのか、夏休みに入ってもスカッとした夏の晴れた日がなく、来る日も来る日も曇りの日が続きました。
 そんな七月下旬のある日の夕方も近い頃(午後五時前後だったと思います)。もし晴れていれば、すぐ近くを流れている吉野川に友だちと行って、川で日が暮れるまで水泳(水遊び程度)が出来るのに…。我が母子寮の広い中庭に出て、恨めし気にその一角でぼんやり北の空を眺めていました。その時中庭に私以外人はいませんでした。

 私が立っている二メートルほど右側は畑で、そこから私ら親子が居住している東寮の建物が続いており、それは戦後間もなくの頃建てられたと思しき、横に板をつないで何枚も張り合わせた板壁で囲まれていました。板壁はだいぶ前に濃茶色のペンキを縫ったものらしく、その頃ではだいぶ変色し色褪せて見えていました。また私が立っている斜め前に建物に接して三、四メートル位の高さの(今となっては何の木かさえ覚えていない)一本の木がありました。北の先十メートルほどの所には、西寮の張り出した炊事場の建物があります。その手前数メートル左側には、しっかりしたブランコが設置してあります。

 その日も分厚い雲が空全体を覆い、それのみか雲が西から東へと気ぜわしげに流れているばかりでした。そんな雲が流れ行くさまや、曇って一段とくすんだ周りの様子をぼんやり眺めていると。
 突然何の前触れもなく。一瞬にして、周りの景色が急に切り換ったのです。いえ。景色は同じですが、通常の景色が全く別の色合いで見えてきた、と言った方が正解のようです。

 それら目に見えるもの全てが、この世のものとも思われない程の鮮やかさで、キラキラ輝いて見えてきたのです。そのさまを今形容するとすれば、まるで妖精がふわりふわりとすぐ前の木の枝を軽やかに飛び交っていそうな世界…とでも、表現すればいいでしょうか。(さすがに妖精は出てきませんでしたが。)
 わずか十歳前後の子供です。その時の私は、およそ理解を超えた事態に、一体何が起きたのかといよいよボーっとして立ち尽くすのみでした。
 …どれくらい続いたものでしょう。その時の時間感覚では、十五分から二十分位の長さにも感じられました。しかしいくらなんでも、そんなに長くはなかったでしょう。せいぜい数分間の不思議ショーといったところだったでしょうか。
 やがてその不思議な景色はスーッとかき消えて、くすんで色褪せた元の当たり前の日常世界に戻ったのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

身につまされる話

 先週のある日の昼過ぎ、ある人から電話がありました。
 建設業を営む50代前半の社長からです。住まいは、神奈川県S市内の瀟洒なマンションの一室。そこを会社の本店所在地にしておりますが、実際は支店登記している都内某所に賃貸しているビルの一室を拠点として活動しています。
 
 その社長とは、別の会社の取締役だった何年か前に知り合いました。その後諸事情があり、自分の新会社(株式会社)を設立しました。建設業が目的の会社ですから、かねてからのよしみで建設業許可申請を依頼され、以後1年1回連絡を取り合うくらいの関係です。
 普段は私の方から電話連絡することはあっても、先方から電話というのは先ずありません。ですからその社長からと分かって、『何ごと?』と少し身構えました。

 簡単な挨拶の後、すぐに肝心の用件です。
 「実は、親父から相続された田舎の不動産を女房の名義に変えたいんだが、簡単にできるものなの?」
 「そうすると所有権移転登記ですね。まあ簡単にとはいきませんが、そう難しくもありません」
 「出来ればすぐやりたいんだよ。実はねえ…」
と少し言いよどみながら、くだんの社長はそれに至るいきさつを語り始めました。

 その会社の業務内容は、主に「フライド○○○」などのフランチャイズ店舗の新設、改装などの店内造作を一手に引き受けてこなすというものです。「フライド○○○」などから一旦元請の会社が仕事を受注し、その下請けとして都内はもとより関東一円を広くカバーし、業績も年々増加の一途をたどっているようでした。
 ところがこの度、主要元請会社が倒産し、そのあおりを受けて同社も億以上の負債を抱え込んでしまったというのです。
 「いやあ。それは大変ですねえ」。私は同情を禁じ得ませんでした。
 「そうなんだよ。もう会社も続けられないから、近々閉めようかと思ってるんだ」
 今回の件も、債務から逃れるためのやむを得ぬ自衛手段の一環なのでしょう。
 「費用はどれぐらいかかるの?」
 「そうですねえ。登録免許税など諸費用すべて込みで、○万円くらいですかねえ」
 「そんなに高いの?今はとても払えないよ。自分じゃ出来ないの?」
 「素人がやろうとすれば難しい点がいろいろありますが、やって出来ないことではありません」
 「それじゃあ、一応やってみて、それでも分かんなかったら頼むことにしますよ」
 以前でしたら、そんなお金どうということのない金額だったでしょうに。

 それにしても。当然会社は倒産、一旦は社長個人も自己破産でしょう。そうして業務上の債務はすべて免れたとしても、今後どうするのでしょう?最低数年間は、建設業を営むことは許されません。肝心要の業務を主体的に行うことができないのです。
 順調そうにみえたのに、予期せぬ事態です。しかし今この時代、建設業で特に民間相手の仕事は相当慎重に事を運ばないと、そういうリスクは常につきまとっているとみるべきです。
 今回初めて知ったことにはくだんの社長は私と同じ東北出身らしいし、馬力のある人だし、まだ50代前半なのだから、ここしばらくは臥薪嘗胆(がしょうしんたん)、じっと辛抱して人生の再起を図ってもらいたいものです。

 (注記) 上記内容は、すべてフィクションとしてお取りください。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

初蝉の声

    暁やうまれて蝉のうすみどり   (篠田悌二郎)

 きのうもそしてきょうも終日曇り。おかげで蒸し暑さはあるものの、だいぶしのぎやすい一日となりました。暑さに弱い私としては、願わくば今夏は一週間に一回くらいのサイクルで曇りまたは夕立の日があらんことを。あの悪名高い1995年の記録的猛暑、そして去年も確かそうだったと思いますが。本式の猛暑型の年ですと梅雨明け以降は、昔の大干ばつ状態で、雨はおろか曇りの日も滅多にありませんから。
 とのん気に申している最中に、北陸地方は集中豪雨で大被害が出たもよう。現地の方々、被害に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。とにかく近年は、水害でも何害でもより被害が激甚化する傾向にあり、本当に憂慮すべき事態です。

 さて午後三時過ぎ、きのうの『暑気所感』でもお伝えしました、近所の住宅団地群の側を通りました。その団地側道沿いの桜並木の方から、ジジジジジィーッと、蝉の声が聞こえてきました。鳴声からして油蝉でしょうか。
 私はここ何日か外を歩くたびに、『そういえば、今年はまだ蝉の声を聞いていないなあ』と思っていたところでした。これをキッカケに、暑さに一層拍車をかけるような蝉声の夏到来となるのでしょうか。
                           *
 蝉といえば、私の故郷の山形では、夏ともなればあっちでもこっちでもうるさいほど蝉の声が盛んでした。他に自慢するものはあまりないのですが、何せ自然だけはたっぷりと豊かなもので。いささか残酷物語ながら、友だちと油蝉を捕まえては、火であぶって一匹丸ごとムシャムシャ食べたことがあります。(皆様はそのような経験はないと思いますので、申し上げます。パリパリして歯ごたえよく、けっこう香ばしい味です。)
 そんな中でも、ひときわ印象深い蝉の思い出は―。
 小学校4年の夏休みだったでしょうか。ある早朝、多分5時すぎ頃だったと思います。今でこそスッカリ「夜型人間」ですが、その頃はいっぱしの早起き少年だったらしく、そんな朝早くだというのに我が母子寮から外に出て、近くのリンゴ園に一人で冒険しに行ったのです。

 ある太いリンゴの木の根元まで寄ってみると。そこの草むらに一匹の蝉がうずくまっていました。私は思わぬ収穫物に『しめたっ!』とばかりに、手に取って見てみました。蝉は未明に脱皮するもののようです。ですからその蝉は脱皮したてのホヤホヤだったのです。何とも頼りなげで儚げで、まるでにわかづくりの宝石のような淡いあおみどり色です。おそらく羽もまだ十分ではなく、体にピタッとくっついているような状態だったと思います。

 生まれたての命を目の当たりにしているという感動と共に。子供心にも「もののあはれ」のようなもの悲しい感じにおそわれました。手にとってしばしその蝉の姿を見やりながら、私は『これはそっとしておいてやらなければ…』と、静かに元の草むらに戻してやったのでした。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

ビニール袋・パートⅡ

  とある夜更けの 車道ぎは
  きまぐれ風に さそはれて
  小さき白き ポリ袋
  ひとりさびしく 舞ひにけり

  中身はもとより いづかたの
  ひとの許にや 在りぬべし
  袋ばかりは 要らぬとて
  いとも安げに 捨つるらむ

  心に懸くる 人は無く
  近きたぐひの アスファルト
  己の性(さが)を 知りてかや
  彼の視線を 避けてけり

  かすかに動く 我がこころ
  袋ぞそれと 気付きしや
  舗道をさして 佇みし
  我が足もとに  慕ひ来つ

  さりとて猫を 愛(め)づるごと
  ひとつの愛撫も 出来かねて
  こころ冷たく 我れもまた
  あらぬ方をば 見やるなり

  やがて悟りし かの袋
  つと車道へと あとずさり
  寄る辺なき身と うずくまる
  うしろ姿ぞ あはれなる

           (くまさん・作)

 (注記) この度くまさん様より、拙詩「ビニール袋」に対してコメントをいただきました。くまさん様は、私の詩の意図を実に余すところなくお解りです。その上同詩を上のような格調高い文語詩としてリニューアルしてくださいました。これは一コメントとして隠しておくには、あまりにももったいありません。そこで独断で申し訳ありませんが、「パートⅡ」として発表させていただくことにしました。皆様、香気ある詩を、どうぞご堪能ください。 (大場光太郎・記)
  

| | コメント (8)
|

暑気所感

    夜の雷(らい)とどろとどろと渡りけり   (拙句)  

 暑中お見舞い申し上げます。
 この挨拶、いやもっとぶっちゃけた「暑いですねえ!」がごく普通に飛び交っている、連日の猛暑です。皆様はこの暑さの中、いかがお過ごしでしょうか。

 当地では昨日日中は例の如くの炎暑。それが夕方頃からにわかに黒い雲が全天を覆い始め、午後7時過ぎ、突然ピカッと閃光が閃いたかとみるや、直ぐドカーンと大きな雷鳴が轟き。続いて約10分ほどの停電のおまけつき。
 私が子供の昭和30年代は、停電はしょっちゅうありました。しかし今では「停電しないこと=現代社会」と思い込んでいるフシがあり、このように突発的に停電にでもなろうものなら、なすすべもなく慌ててしまいます。
 宵闇に停電してしまえば真っ暗闇。いうならば昔はこれが当たり前の暗さ。それを「どうだ!」とばかりに今改めて突きつけられると、停電中は「いつまでに再点灯する」ということはまるで分からないわけで、本当に暗さの中にぽつんと取り残されているような不安感、違和感がいや増して感じられてきます。これは言ってみれば、現代人のひ弱さの一面を物語るものなのでしょう。

 とにかく。閃光が走り雷鳴がドカーンときて、次はお決まりの滝のようなもの凄い豪雨です。我が住居の周りで、建物といわず地面といわず、地上なるものへの懲らしめのような雨のたたきつける音が、周り中からステレオで聞こえてきます。この分では、水はけの悪い低地は今頃行き場の無い水で溢れかえっているんだろうな、そんな想像もしてしまいます。
 また夕方帰りに通った、近くの五階建ての住宅団地群の公園から、賑やかな盆踊りの歌が聞こえてきておりました。真夏の土曜日とあって、団地自治会主催による毎年恒例の盆踊り大会が夜に催される手はずのようでした。『折角の盆踊りもこの大雨で、ホントにお流れだな』。
 そうして豪雨は、ゆうに一時間以上も続きました。

 そしてきょうは珍しく終日のうす曇り。しかしその分蒸し暑さがぎゅっと閉じ込められたようで、しょっちゅう汗がじとっと滲んでまいります。

 さて当ブログ。既にお気づきのことと存じますが、今までの「カッパ君と雨」はまた来年ということで、新背景に切り替えました。どうでしょう、気に入っていただけましたでしょうか?
 ココログで提供しているこの背景のテンプレート名は「winter」です。「えっ?真夏なのに何で冬なんだよ!」とお思いでしょう。元々天邪鬼でヘソ曲がりなのが私の真骨頂です。そこでズバリ、暑いさなかだからこそあえて、冬の涼感が感じられる背景に致しました。どうでしょう、これを真冬の背景に用いたとしたら?それこそ本来の寒さの上に、更に寒々としてくるのではないでしょうか?
 8月いっぱいくらいまで。自然界の巧まざる造形美である雪片。その六角形の奇跡の結晶が、上からふわりふわりと舞い降りてくる。当ブログを訪れてくださった方がそんなイメージをされて、少しでも爽涼感を感じていただけましたら幸いです。

 なお私自身そうでしたが、文章の背景もうすいブルーであるため当初はやや字が読みずらいかも知れません。しかしこれは徐々に慣れてくると思います。
 それではしばらく、この背景でお付き合いくださいますように。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

万物備乎我(3)

 犬養毅と我が母校とのご縁からだったのでしょう。
 私が母校に在学中だった昭和42年、高校2年の時。犬養元首相のお孫さん(長男犬養健の長女)で、当時評論家として第一線で活躍されていた犬養道子女史が母校を訪問され、講演してくださいました。
 季節がいつだったかも忘れてしまったある日の午後。全校生徒が体育館に集合し、犬養道子の講演に聴き入りました。

 その時の犬養道子(1921年~)の印象としては、当時40代くらい、小柄で華奢な感じでした。壇上で時に身振り手振りを交えられ、時に熱っぽく話され、何となくエネルギッシュな女性だなと感じたことを覚えています。それと、やや離れた所からながら、見た感じ少しきつそうなお顔立ちで、眼に強い光りのある方だなとも。

 山形県下の一高校まではるばるお越しいただきましたのに。何せもう40年以上前のことです。その時の演題が何であったか、またどのようなことをお話になられたのか、今となってはほとんど覚えておりません。
 その中でただ一つだけ覚えている一話があります。それは「カルチュアとは何か?」というお話でした。(もしかして、演題も「カルチュア」に関係したタイトルだったかも知れません。)
 それは大略以下のようなものだったかと思います。
 犬養道子は当時の女性には珍しく、世界の各地を旅行などでよく訪れたそうです。その中でエジプトのとある砂漠地帯を訪れた時のこと。
 砂漠の中に一ヶ所だけ、今で言う「緑化計画」に取り組んでいる所があったそうです。果てしなく砂漠が広がる中で、そこだけ青々と育った草木の群。犬養さんはそれを見て、大変強い感動を覚えたそうです。それを見ながら教訓として引き出したのが、「カルチュア」ということだったのです。
 「カルチュア(culture)」は通常「教養、修養」などという意味に使われます。しかしこの言葉には、「耕作、栽培」という意味もあるのです。この土地のように、普通は不毛といわれている砂漠でさえ、緑化しようという意志の下で「cultivate(耕作する、栽培する)」して現実に成果を挙げている。これを敷衍(ふえん)して、私たちの「教養」もかくあらねばならないのではないだろうか?という訳なのです。
 つまり教養というものは、何の努力もなしに自ずと身に備わるようなものでは決してない。自分の不断の努力で、そのままでは荒れ果てた心の荒地を一生懸命耕し、そこに(教養の)種を蒔き水を遣り肥料にあたるような経験則を加えてやらなければならない。
 また「カルチュア」には「文化、文明」という意味もあるが、古代エジプトの偉大な文明も、当時の人々の不断の努力の賜物で築かれたのではなかったのだろうか…。
                        *
 なお犬養道子は、我が母校を訪れた3年後の1970年以降、ヨーロッパに在住し(1990年代帰国)、1979年頃から世界の飢餓や難民問題と深く関わられたそうです。
 また犬養毅の血族としては。その他現在私たちが知るところでは、元国連高等弁務官だった緒方貞子(曾孫)や、エッセイストで奥田瑛二の奥さんでもある安藤和津(孫・ただし長男健の非嫡出子、後に認知)などがおります。 (文中敬称略)  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

ビニール袋

  とある夜更け
  車道の端を
  どこからか風に
  小さな白いビニール袋が
  ツツッツツッと運ばれてきた。

  ビニール袋は
  誰かに中身を取り出され
  もう用済みとばかりに
  ポイッと打っちゃられたのだろう。

  もちろんビニール袋ごときに
  関心を寄せる人はいない。
  自分でも一体何の自然成分の
  合成なのか解らないアスファルトも
  同類のはずのビニール袋に
  あっちへ行けとばかりな迷惑顔だ。

  ただ私が少しばかり同情したので
  小さなビニール袋は
  車道の縁(へり)をツツッと乗り越えて
  私の佇んでいる舗道の
  間近までやって来た。

  しかし私とてまさか
  愛猫にしてやるようにやさしく抱き上げて
  そっと頬ずりもしてあげられまいし…
  そ知らぬ気に知らんぷりする。
  
  それを察知してビニール袋は
  またツツッと車道へと遠ざかり
  肩身が狭そうに縁(へり)で
  身の置き所なくうずくまる。

            (大場光太郎)

   (注記) ビニール袋は私の気持ちの推移と共に、偶然とはいえ
    この詩と同じ動きをしたのです。そうでなければ、このような
    題材の詩を作ろうとは、思いもしなかったでしょう。          

| | コメント (2)
|

夢の話(1)

 「夢」―いわゆる眠っている最中に脳内世界で見ているストーリーは、私にとって大変興味深いテーマの一つです。
 ちなみに以前、当ブログに「詩」としてご紹介した『星の荒野にて』『オリオン落下譚』は、40代初めの頃見た鮮明な夢のほぼそのままの再現です。そして『逃げろ!』は『オリオン落下譚』と同じ夢の続きですが、この詩はだいぶ創作が入っております。
 更に申せば、土手から転げ落ちて下に草原が広がっていたのはその通りですが、実際の夢では彼方の山並みから昇ってきた太陽は一つではなく、何と「四つも」等間隔でぬっと現れたのです。それに驚いてハッと目が覚めたのでした。今回詩として公開するにあたって、いくら何でも「四つの太陽」では皆様に奇異な感じを抱かせると思い、変えたような次第です。

 古城→オリオン星座の変容→オリオン落下→逃げ惑う私→土手上からの転落→青々と広がる草原→四つの太陽の出現。『星の荒野にて』もそうでしたが、四十代前半の一時期、そんな「霊夢」といってもよいような夢をけっこう見たものです。
 しかし今ではそのような霊的な夢は先ず見ません。見るとしたらどちらかというと、日常の延長にありそうな俗っぽい夢で、何か困難な事態に遭遇して『困ったなあ。どうしようか?』と思い悩む、そしてハッとして目が覚めるというようなバターンがほとんどです。
                           *
 例えば今朝六時前、以下のような夢を見ました。
 四十代前後の男が、私の目の前に登場します。その男は面長で知的、幾分ニヒルな感じの男です。私は今の実年令のままのようですが、なぜかこの男には絶対服従で、どうも逆らってはまずいと思っているようです。
 …途中、ある男が運転する小型トラックの荷台に何人かで乗って、かつて私が住んでいた家に通じる道(のような道)を夜中に走っています。道が左にカーブする右手の空き地に、見ると私の愛猫二匹が突っ立ってこちらを見ています。『何でこんなとこにいるんだ?』と思って、トラックがその曲がり口に差しかかったのでよく見てみると、愛猫たちはいつの間にかチーターのような大きさになっています。驚きましたが、飛びかかって危害を加えるでもなく、ただその場でこちらを見ているだけです。

 …そのような行動が、いちいち件の男の気に障ったようです。(その他にも別の理由があったようですが、思い出せません。)私は男の家に呼び出されて、厳罰を申し渡されます。『一体どんな罰なんだろう?』と恐れていると、部屋の壁に大きなポスターが貼られています。そこには「○○阿じゃ梨の護摩供養」というような文句と共に、その阿じゃ梨と思しき姿が描かれています。私は『あヽこの修行かあ』と観念します。だいぶ前プロ野球選手の清原らが、シーズンオフに九州のある密教系の寺に籠もって、燃え盛る炎のすぐ間近で護摩を焚く修養をしていましたが、あのような修行なんだろうか?

 …しかし実際はその修行ではなく。男の家から道に出て、明らかにチンピラ風の若い男三、四人に取り囲まれました。『コイツらに、ボコボコにぶん殴られるのか』と思っていたら、そうでもなく。結局彼らと共に、古い街並みの道を歩きました。するととある古ぼけた木造の家の前まで連れてこられて、ボス格の男が身振りで「中に入れ」と促します。仕方なく、中に入ります。私だけで、男たちはついてきません。
 靴を脱いで赤いスリッパに履き替え、階段を登って二階に入っていきます。意外と明るく、広い集会室のようです。「これから何かお話していただきます」と誰かから言われました。『そうか。スピーチが苦手なオレにとって、これは一番の罰ゲームだな』。しかしこうなったからには、と腹を決めて中に入っていきます。

 部屋には長いテーブルがずらっと並べられており、既にかなりの人たちがイスに座っています。私は部屋の中央のテーブルの真ん中くらいのイスに座るよう促されます。斜め向いに七十前後の恰幅のいい人が座っています。その人に挨拶しながらイスに座ると、私の対面には何と久米宏が座っているではありませんか!
 『えっ。話術の天才の前で何をしゃべれっていうんだよ』。しかし仕方ありません。私は今一度腹を固め直します。
 久米宏は例の身を反った少しぞんざいな格好で座っています。顔をよく見ると、その鼻は、かのシラノ・ド・ベルジュラックの鼻のように異様に長いのです。しかし久米宏はそれを気にするでもなく、笑いながら機関銃のように何ごとか話し続けています。
 すると久米宏の鼻は、いつの間にかアゴのあたりまでいったん垂れ下がり、それからまた上を向いたUの字のような鼻に変形していました。
                         *
 かなり長い夢で、見ている最中は鮮明にその筋書きをたどれていたはずなのに…。夢から覚めた途端、いつものならいで潮がスーッと引くように、夢はたちまち断片になってしまいます。それを必死で思い出して書き留めてみると、それでもこんな長文になってしまいました。
 今後とも実際に見た夢のご披露、「夢全般」についてのとりとめのない所見、夢解釈などを、折りにふれてシリーズとしてご紹介していきたいと思います。
 「いやあ。夢って本当に面白いですね !」
 
(大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

中津川寸描

   白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ  (若山牧水)

 本日夕方厚木市内で所用を済ませた帰り道、例の中津川沿いの道を通りました。そしてこれもいつものことで、その堤防を下りてみました。
 堤防道の反対の町側には、三階建ての県営住宅が建ち並び、西日はその陰に隠れて見えません。それでこちら岸は日陰。ただ、川の向こう側半分くらいを明るく照らしております。例の二、三十メートル下流の堰で蓄えられた水は湖水のように満々と湛(たた)え、水面(みなも)が青く、下流からの南の風に少し逆波(さかなみ)立って見えております。
 きょうはやや風が強い一日でした。分けても川風は、街風よりも一段と強く吹き渡るもので、川のエリア内は十分に涼風(すずかぜ)ゾーンです。ただ堤防に座っているだけで、本当に爽快な気分です。

 腰を下ろし川を見渡して真っ先に目に飛び込んできたのが、一羽の白鷺(しらさぎ)の姿でした。私のいる位置より上流十メートルくらいの川中です。その更に上流に、もう去年の枯れ葦をほぼ覆いつくすように青々と伸びた葦が、びっしり繁茂している中州があります。その州伝いの浅瀬に、白鷺が立っているのです。白鷺は下流を向きながら、長い脚の下部を水に浸(つ)けて、じっと佇んでおります。赤々とした返照(へんじょう)を一身に浴びた、真っ白い姿です。みごとなほどに純白で、実に絵になる姿です。

 その姿を見つめながら私は、あることをふと思い出しました。
 つい三ヶ月弱前の四月二十八日。私は「二木紘三のうた物語」への(いささか大げさながら)「辞世」のつもりで、「白鳥の歌」コメントを発表致しました。『おそらくあんな文は当分は書けないだろうなあ。またコメントすることが分っていたら、取っておくんだったなあ』。牧水の歌の白鳥(しらとり)と、今見ている白鷺がダブって感受されたのです。

 忘れておりました。私が堤防を下りた途端、こちらの丈の長い草が生い茂る水際からツツーッと一羽の鴨(かも)が、川の方に泳ぎ去っていきました。この中津川で鴨は常連の鳥です。特に秋も深まった頃から春先にかけては、時に数十羽ほどの大群を見かけることもあります。
 人の気配にとても敏感で、『そんなに慌てて逃げていかないでよ』と思っても、いつも決まってそうなのです。さてどこへ行くのかな?と思ってみていると。何と白鷺のいる方へスイスイ…と。そしてそのすぐ側でようやく落ち着きました。何といっても種類こそ違え、同じ鳥類ですからねえ。
 互いにつかず離れず。白鷺は側近くの鴨のことなどまるで知らんぷりで、依然下流をじっと見つめたまま。孤高な純白の立ち姿を守っておりました。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

大暑

    風さわに梢(こずえ)揺らせり大暑夕    (拙句)

 本日は二十四節気の一つの「大暑」です。なるほど確かに、きょうも暑い一日となりました。そういえば私はついうっかりしておりましたが、先週土曜日関東地方をはじめ列島全体の梅雨が明けたのだとか。『この私に断りもなく、勝手に梅雨明け宣言して。気象庁さん、少しヒドイじゃないの。はっきりそう言ってくれれば、その日に早速梅雨明けの記事が書けたのに。』 これは勿論冗談で、お天気ニュースなどをあまりよく見ていなかった、私の不注意でした。

 しかし大暑とは申しましても、皆様先刻ご承知のとおり、暑さはまだ序の口。本当の暑さはむしろこれからです。そういえばきのうは「海の日」、そして各種学校は二十日頃から「夏休み」。いよいよ本式な盛夏到来をいやが上にも意識させられます。その上更に、テレビのお天気ニュースが全国各地で30何℃を軒並み記録したこと、また見るからに暑そうな各地の表情が連日映し出されます。
 「映像の力」とは本当に恐いもので、見る者に直接的、間接的に強い影響を及ぼします。確かにそんな数字を並べられ映像を見せられると、現実に体感している暑さはさほどでもないのに、にわかに暑さが増幅して感じられてきたりします。

 そのようなことを述べた矢先に、更に暑さを増幅させるようで申し訳ありませんが。(一種の「イメージトレーニング」のつもりでお読みください。)
 夏の季語の中には、大暑以外に「暑さを表現する季語」がどっさりあります。例えば、
   極暑、酷暑、劫暑、炎暑、炎帝…。
 字面を眺めただけで、暑さがドッと押し寄せ汗がドバッと吹き出してきそうです。(今後私も、当ブログの季節記事の中でしばしば使うかも知れません。)
 それに歳時記では一般に季語として採用されていませんが。「猛暑」も私たちには、もうすっかりおなじみの言葉です。おそらくこれは、気象庁が近年の暑い夏を表現する用語として用いたのが嚆矢と思われます。参考まで、
    夏  日    日最高気温  25℃ 以上
    真夏日       同     30℃  〃
    猛暑日       同     35℃  〃     
 ちなみに、「熱帯夜」の方は、れっきとした夏の季語です。これも気象庁の用語で、夕方から翌日の朝まで25℃以上の日をいいます。この用語は、かつてNHKの気象予報で全国のお茶の間に親しまれた、あの倉嶋厚さんの造語だそうです。とにかく、年毎に寝苦しくなる体感と共に、イヤでも意識させられる用語ですよね。

 そんなこんなで、盛夏は何かと体調を崩しがちです。水分の取りすぎによる内臓不調、食欲不振、寝苦しいゆえの睡眠不足…。はっきり申しまして、この私からして、夏にはあまり強くありません。山形という寒い地方出身の上、元百姓の子倅(こせがれ)としてはお恥ずかしいながら、だいぶ華奢な体なもので。ゆめ「夏バテのためしばらく当ブログの新記事お休みさせていただきます。」などということにならないよう、体調管理に十分留意致したいと思います。
 どうぞ皆様も、お体大切に、今夏をご健勝でお過ごしくださいますように。
 (大場光太郎・記)

 (追記) 梅雨明けと共に変えるお約束の当ブログ背景、まだ変えておりません。まだ新背景決めかねていることと、毎度申し上げているとおり、私自身「カッパ君」に愛着があるもので。もう少しお待ちください。

| | コメント (0)
|

「現し世」考(2)

 この度くまさん様より、当ブログ記事「二木紘三のうた物語(3)」に対しまして、大変貴重なコメントをいただきました。このような貴重なご所見を、一記事の中に潜めておくのはもったいない。そこでその返信としての私の所感を、今回記事として公開することに致しました。なおくまさん様の御文は長文のため、残念ながらここにご紹介することができません。そこで同御文また前の『「現し世」考』をお読みいただきましてから、当記事をお読みくだされば幸いです。
                         *
 私が先に『「現し世」考』を書くそもそものきっかけとなったのは―。テレビなどのニュース・報道番組は、特定の例えば某凶悪犯罪などが起きた場合、その表面的な事象を大々的に取り上げ、特に事件現場などの同じシーンを繰り返し繰り返し流し続ける。そして視聴者側もマインドコントロール的にそれに振り回され、いたずらに不安動揺に駆られがちである。と同時に「人を見たら犯罪者と思え」とばかりに、特に都市部住民は今や隣人との良き人間関係がズタズタに破壊される傾向にある…。更に申し訳ない物言いながら、ある方々のブログでもその現象的な面をお取り上げなのはいいが、その奥に潜む本質的なことには余りお触れにならないようである。これでは余り根本的な解決にはならないのではないだろうか?そう思ったのが、そもそものきっかけです。
 以上のことを、先ずしっかりと確認しておきたいと思います。

 さて「この世」をズバリ「形の世界」と把えた場合、これは間違いなく「現し世」言い方を換えれば「真実ならざる世界」だと言えます。なぜならご存知のとおり、およそこの世の形あるものは、どんなものでも変化・変滅を免れないからです。
 もし「真実」であるのなら、例えどのような状況の変化にも時間的経過にも「永久不変」であるべきはずだからです。従って「形あるモノは滅す」ゆえに、五感の肉眼に映ずる「形の世界は真実ならざる世界」である。

 ではこの世界には果して、「真実」はどこにもないのだろうか?もしこの世界が真実の世界ではなく、仮の世、映しの世なら、私たちが生きる意味が一体どこにあるんだ?ということになろうかと思います。
 ご安心ください。「真実」はズバリあります。どこに?意外なところに。外の形の世界ではなく、私たち各人の「心の内深く」に。皆様ご記憶でしょうか?私は以前『猫びしょ濡れで…』の中で、ある賢者の言葉を紹介致しました。
 「外を見るな。内を観よ。そこにすべてがある。」
 本論で私が言いたいことは、この言葉に尽きるのです。心の内深くの世界を、「魂」「霊」「神」と言ってしまえば、話は簡単です。が、あらぬ誤解を生みかねませんので、ここではただ私たちの普段形の世界に付随した、五感のみに囚われ振り回されている「通常の心」を鎮めた時に、初めて到ることのできる「深い意識状態」とだけ言っておきましょう。
 更に別の賢者の曰く、「智者は真と非真の境目を見る」。これは即ち「外観」と「内観」を厳しく峻別せよ、との教えだと思います。

 「色即是空。空即是色」。私の乏しい知識でごく簡単に申せば。「色」とは通常我々が「外観」によって見えている世界。対して「空」とは、それこそ深い「内観」によって初めて感得し得る、量子力学などがやっとその端緒についたばかりの、精妙不可思議世界。即とはイコール。私たちの「意識レベル」によって、非真(色)の中に仮に真(空)が現れていても見逃してしまったり、非真的事象の奥に真が発見できたりする。
 俳聖の「不易流行」もそれに近似した概念なのかな?と私は勝手に解釈致します。更に申せば、近代正岡子規が唱えた「写生主義」も、事象(流行・色・非真)の奥を探って生の実相(不易・空・真)に迫れ、そしてかく把握したものを俗心(非真の心)を交えずそのまま写せ(表現せよ)という運動だった、と言えなくもありません。
 いずれに致しましても、内なる「覚醒意識」こそが、「空」あるいは「不易」すなわち先の冒頭拙歌の中の「本源世界」に直結したものであることは間違いないようです。

   道の辺につましく咲ける小(ち)さき花
   花の白きに神顕われぬ 
 以前『小さき花』の中でご紹介した拙歌です。ご引用の「なずなの花」もそうでしょう。自然界の草花は、本然の美が巧まずしてそのまま顕われている姿だと思います。また良寛さんの「心眼」に映じた子供たちの純真無垢な姿、あるいはボランティアの女性の思わず人に「神性」を感受させてしまう「無償の愛」の姿…。
 例に出されたいずれにも共通するのは、通常人にありがちな「エゴの心」が極めて少ないということです。私たちをして「本源の世界」と遮断させ、その発露を妨げているものこそ、黒い雲のように分厚い「エゴの心」に他ならないからです。

 従いまして、人はいざ私のようなエゴの塊りのような者は、努めて「内観」をしてエゴの曇りを刻々瞬々に祓い清めることをしない限り、「愛ある真(まこと)の世界の住人」になることは決して出来ないと、日々自戒致しております。
 それと共に、巷間テレビなどでイヤというほど伝えられております出来事に、一々不安動揺したり一喜一憂しない「平和な心」の涵養も必要かな、と思う次第です。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

近隣不動産業事情など

 きのうの記事でお伝え致しましたとおり、きのうの午後3時過ぎ伊勢原市に向かいました。不動産会社二社にお伺いするためです。どちらの会社とも長い付き合いです。社長は共に40代、今が働き盛りといった年代です。
 ご多分に漏れず当地近隣の不動産業界は、都心のような地価の下げ止まりや上昇傾向はとても望めず、依然厳しい状況です。そんな中で30代、40代の不動産会社経営者は、よく健闘していると思います。年配の経営者が同業界の長期低落傾向の前になすすべもなく立ち尽くし、前途を悲観しているのに比べて、若い世代の経営者はそんな中で何とか活路を見出すべく、新しい業務分野にも果敢にチャレンジしています。
 私の不動産関係の顧客の中にも、ずば抜けた売り上げ実績を挙げている会社もあります。どうも急成長している会社の若手経営者は、不況を不況と捉えていないようなのです。逆にかえってこんな時こそ絶好のビジネスチャンスとばかりに、ドーンと新機軸を打ち出して急速に実績を伸ばしているのです。

 さて今回お伺いした伊勢原市内の二つの会社は不動産屋さんだからといって、「宅建業免許」の件ではありません。「建設業許可」に関してです。
 特に「不動産売買」を業としている不動産屋さんの場合、土地を仕入れて自社で注文住宅を建築したり、建売住宅として分譲して売り出す場合、そのどちらの場合でも建設業許可業者として自社施工して10年住宅保証の土地付き建物として売買した方が、利益にもなるし売りやすいようです。
 それで一時期、不動産会社が建設業許可を取得したがる例がけっこうありました。(残念ながら、ここ何年かはさっぱりです。)

 「行政書士」といえば、おおむね私のように(笑)おとなしくて知的で学究肌の人が多いようです。ですからいざ開業しても、営業活動などは滅多にしないようです。まして「不動産会社」などは、自分の方から出向いてPRするというようなことは、まずないでしょう。
 しかし私は、敢えてそれをしたのです。平成8年10月の開業でしたが、「カネ、コネ」ともになく(それに加えて業務上のスキルも)、とにかく切羽詰まっていて、すぐにでも業務を受注してこなしていかなければならない状態でした。ですからなりふり構っておられず。当厚木市、海老名市、綾瀬市、大和市、座間市、相模原市、伊勢原市、平塚市、秦野市…。近隣各市町村の特にターゲットにしている、建設業者、不動産業者などを片っ端から飛び込み訪問して歩いて回ったのです。
 そうやって一年間で配った名刺が分っているだけで3500枚ほど。実際は5000社ほど訪問したと思います。訪問先ではたいがいびっくりされました。
 「えっ?行政書士の先生(一応「先生業」です)が営業かよ。初めてだよ。まあご苦労なこってすねえ。…折角だから、お茶でも飲んでってよ。」
 そうやって逆に気に入られて、その後の業務につながったり。中にはケンもホロロに断られたり。おかげ様で、普通は開業後3ヵ月くらいは業務受注ゼロが常識と言われる中で、1ケ月目からボチボチ仕事が確保できました。

 今回お伺いした二社のうち一社の社長は特に、開業間もなくの頃からのお付き合いです。それのみか、伊勢原市、秦野市、平塚市の10社以上の会社の「建設業許可(新規)申請」を紹介していただきました。そのくらいですから、40代の若さで風格のある親分肌の社長です。

 とにかく。私にもわずか10余年前に、厳冬のさなかコートも着ないで夜の9時過ぎ会社の灯りを見つけては、『それっ!』とばかりに飛び込んで行った頑張りがあったのです。今失いかけている、業務を始めとした各分野への敢闘精神、再び思い起こしたいものです。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

自然回帰

 午後3時過ぎ、業務上の用事でお隣りの伊勢原市にまいりました。
 乗り込むべく車のドアを開けて中に入った途端、こもっていた熱気がムッと押し寄せてきて閉口しました。さながらサウナ状態です。『今年もこれで、正真正銘の夏本番というわけか』。
スイッチを入れると同時に、クーラーをつけて、しばらくしても熱気は衰えず。汗だくで5分以上経過して246号線に入ったくらいでようやく通常の涼気が徐々に戻ってまいりました。

 最近の私は運転しながら、視線はもっぱら無意識的に『どこかに記事の材料は?どこかに自然は?』と探し回ります。記事の材料=自然なのですね。
 振り返れば私が子供の頃は、『少年画報』『少年』『冒険王』といった少年雑誌の表紙をめくると、すぐの見開きのページにカラーで真鍋博というイラストレーターの、ファンタジックな近未来都市がよく掲載されていました。私は将来あり得べきその美しい近未来都市の絵に、ワクワクしながら見入ったものでした。
 その近未来都市には、自然はどこにもない。木立も草花も、およそ自然に属するものは完璧に排除されている、完全人工都市。山形の草深い田舎町の純な少年は、『これが未来のホントの姿なんだな』と、真っ正直に信じておりました。

 その記憶が心のどこかにあったのか。私は青年期、とにかく首都圏にやって来てしまったわけですし。その頃もし「さあ都会か自然か。どっちを選ぶ?」と二者択一を迫られれば、何の躊躇もなく「都会!」と答えたと思います。
 それがいつの頃から、急に自然の方に視点を変え出したものなのでしょう?多分30代前半の頃だったと思います。昭和57年頃から「精神世界ブーム」というのがあって、気がついたらいつしか私もその流れに乗っていました。その一つに「自然回帰」というテーマがあり、その分野の本を何冊か読んで強い感銘を覚え、自然の重要性に目を開かせられた…おそらくそんなことだったのではなかったか、と思われます。

 それを更に後押ししてくれたのが、7、8年前から始めた「俳句」だったように思います。俳句は今でも「自然諷詠」が主流の、どちらかと言えば小説、現代詩などに比して、大変遅れた(?)文芸です。しかし私にはそれが幸いして、人工的な建造物に対するよりも自然の観察の方へと、より関心が向かっていったものと思われます。

 さて一つの市から別の市へと行くには、まま昔の表現をすれば郡部を通る形になります。ここ40年当地に住んで、驚くべきその変貌ぶりを目のあたりにしてきた私から見ても。その辺は市街化調整区域として開発が厳しく制限され、まだ昔ながらの田園風景が残されております。
 特に小田原厚木道路周辺には、青田がかなり広く続いています。この暑い盛りに、青田を眺めながら通るのはけっこういいものです。実に涼しい眺めです。
 同バイパス道路を右折しますと、以前『ひばりそしてつばめ…』でご紹介しましたとおり、遥か遠くの真正面に大山の峰が見えてきます。しかし本日は、大山もその右手に連なる丹沢の峰々も、夏霞みの薄墨色にぼかされて一つながりに連なって見えておりました。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

万物備乎我(2)

 私の母校・山形県立長井高等学校は、そもそも大正9年山形県下の旧制中学・山形県立長井中学校として発足致しました。それが戦後の学制改革により、新制の高等学校として再出発し、その後幾多の変遷を経て今日に至っております。
 
 旧制長井中学校として発足するにあたって、犬養毅(1855年~1932年)に揮毫(きごう)していただいたのが、本タイトルの「万物備乎我(万物我に備はる)」だったのです。母校の学校案内でも、その辺の事情は明らかにされておりません。想像するに、中学校創立に携わった関係者の中に犬養毅と政治的に近い人がいて、その関係で犬養に学校創設の趣旨などを話し、特に頼んで揮毫してもらったものではないでしょうか?そうして頼まれれば「あヽいいよ。」とばかりに、古今の名言をすらすら墨書する。政治家のみならず、当時の各界の指導者の漢学的なかんずく儒教的素養の深さを垣間見るエピソードです。
 このようなわけで、以来この揮毫の書は扁額として我が母校に掲げられ、「校訓」となった次第です。
                        *
 犬養毅(犬養木堂)は皆様よくご存知かとは思いますが。
 時の若槻礼次郎内閣が、直前に勃発した「満州事変」(1931年-昭和6年9月18日)への対応の不手際などの責任を取り総辞職したのを受け、同昭和6年12月若槻と対立していた立憲政友会総裁だった犬養が、第29代内閣総理大臣となりました。
 世界恐慌、満州事変直後の荒波の船出の内閣でした。既に首相経験者で「だるま宰相」として有名な高橋是清を蔵相に任命し、不況対策に努め一応の成果を挙げつつあった矢先…。

 就任間もない昭和7年5月15日夕刻。いわゆる「5・15事件」が起きました。犬養首相は首相官邸に乱入してきた、満州事変への対応に不満を募らせていた青年将校らの凶弾により、同日深夜絶命致しました。享年77歳。当時の政界の名だたる硬骨漢の、劇的な最期でした。
 犬養首相を取り囲み、首相にピタッと銃口の照準を定めている青年将校たちに、「話せば分かる!」と叫んだというエピソードは余りにも有名です。

 ところが当時から軍部は、「話せば分かる」ような正常な組織ではなくなっていました。この事件により、時の政界もマスコミも軍部批判の矛先が鈍り、その後の軍部独走を許す結果となりました。またこの事件の首謀者たちはいずれも刑を免れたことにより(彼らの中にはその後満州国の軍部高官になった者もいた)、後年の「2・26事件」の遠因ともなりました。
 ともかくこの事件は、時局が一気に軍国化していくエポックメーキングな事件であったことは間違いないようです。       (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

梅雨から盛夏へ

    夏雲に乗りて遊行(ゆぎょう)をしたきかな   (拙句)

 きょうも暑い一日となりました。梅雨晴れ間などと言うもはばかられるほどの、れっきとした真夏の一日といった感じでした。
 そんな昼下がり、バスで本厚木駅方面に向かいました。駅周辺で用を済ませてから、午後二時半頃駅から1.5キロほど先の県の出先機関に、ある申請書類を提出するため、徒歩で向かいました。
 
 日盛りの中そよ吹く微風はあれど、熱を冷ます何の効果とてなく、太陽の熱は外行く者の体全部の細胞にまで入り込むようで。それに下からもアスファルトの照り返しの熱がこれまた暑くて。道半ばで恨めし気に空を見上げると、なるほど抜けるような青空で。そんな中に『人が暑いのなんか知るもんか』とばかりに、取りつく島なき夏雲がふわりふわりと浮いているばかり。
 その役所から出てきたのが午後三時半頃。役所も最近では冷房温度を高目に設定しているとはいえ、外来者が熱を冷ますには十分で。『やれやれまた暑い中を歩くのか』と、観念して外へ出ました。すると折りよくたまたま日が翳っていて、心もち風も強く吹き始めワイシャツの中にまで入り込んで、少しばかり汗を引っ込ませてくれました。

 夕方五時過ぎ、今度は車で出かけてみると。家々の垣からこぼれるばかりだったアジサイは、すっかり朽ち果てて今では見る影もない姿に。街路に植えられているものは、管理業者の手によってとうの昔に花をちょん切られ、青々とした大きな葉ばかりになってしまっているし。バラの花もすっかり影を潜め、花々には過酷なこの季節、代わってひまわりやダリアや真紅のゼラニュームなどが時たま見られるばかり。
 そんな中で先日ご紹介した当地各所の秋桜(コスモス)は、咲き切ったかと思えば他のつぼみがまた花を開かせ、このまま晩秋までずっと咲き続けていけるものなのでしょうか?
 また中津川に至る道沿いの例の水田は、今ではすっかり田んぼ全体を覆いつくすばかりに一面青田の状態です。

 梅雨のさなかには、街の中といわず木立といわず多く見かけられたツバメも、今ではたまにチラホラ目にするだけに。そろそろ次なる涼しい国へ、少しずつ移動中なのでしょう。
 『ラ・ゴンドリーナ(つばめ)よ、また来年ね!』。もうそんな季節です。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

ご報告致します。

 当ブログ開設以来、2ヶ月半余。おかげ様で、昨15日で総訪問者数「1000人」越えました。これはひとえに、当ブログをお訪ねくださる皆様のお力の賜物です。大変ありがとうございました。

 さて先週の『「記事数100」越えました』でも申し上げましたとおり、総訪問者数の中身をもう少し詳しくご報告させていただきたいと存じます。(なお各訪問者数には、私自身の分も常に含まれておりますこと、ご了承ください。近いうち、私の分は外すつもりでおります。)
  
  (1)開設(4月29日)~7月15日分
      訪問者合計    1,017 人 
      日 平 均        13 人
  (2)過去30日分 
      訪問者合計      542 人
      日 平 均        18 人
  (3)開設~7月15日分
      コメント数          47 件  (うち私の返信22件)
  
 なお開設以来のアクセス総数は「10,705件」となりますが、これはその4/5くらいが、当ブログの管理人たる私がガチャガチャいじっているための数字だと思われます。実際のご訪問者アクセス数は、2000~3000件くらいではないかと思われます。

 上記訪問者数のうち、開設以来日平均の「13人」が、今の当ブログの偽らざる実力かな?と思います。特に過去30日日平均の「18人」は、後で述べます突発的事態の恩恵によるものであり、あまり参考にはなりません。
 低レベルでお恥ずかしいことながら、当面は「日平均13人」を維持しつつ、出来ればその底上げを、と考えております。

 訪問者数に関してさらに―。例の7月1日の「二木紘三の歌物語」の「アクセス禁止事件」により、当ブログのアクセス数は当日で81人、翌日で61人という、当ブログとして前代未聞の驚異的な数字となりました。そして2日付けの「ココフラッシュ・雑記」という一日当り40人前後が記事を寄せてくるカテゴリーの「ディリー部門」で、当ブログ記事「二木紘三のうた物語(2)」が堂々の1位に、「二木紘三の歌物語ご同好の皆様へ」が5位に、それぞれランクインされました。
 また同じく、当ブログ記事「現し世考」が、7月14日付け「日常カテゴリー」で3位に、「雑記カテゴリー」で4位にランクインされました。

 ここで先の「酔い過ぎる文章の戒め」に関しまして、補足させていただきます。その後も天声人語様のご指摘につき顧みまして、「二木紘三のうた物語(4)」に不適切な表現のあることに思い当たり、この度その部分を削除させていただきました。
 『うた物語』を愛するがゆえとは申せ、お読みになられた皆様がご不快に思われたかも知れず、そのこと改めて深くお詫び申し上げます。なお蛇足ながら、ここ何日かの『うた物語』コメントのゆったりしたペース、私個人としては大いに満足しています。これならご同好の皆様も、紹介された歌をじっくり味わえましょうし。

 以上今回は、極めて事務的な報告文となりました。
 今後とも、当ブログをごひいきくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

都会の叙情的な雨

 久しぶりの雨になりました。ここ何日も晴れの日が続いてかなり暑くもあり、もうすっかり今が梅雨であることを忘れておりました。昼過ぎからにわかに空模様が怪しくなり、真昼にしては異様な暗さに。『これは一雨くるな』と思っておりましたら、案の定午後一時過ぎから、どっとばかりに堰を切ったような雨が降ってきました。
 以来三時半頃まで、地面を激しくたたきつける驟雨で。外行く人たちも、きのうまでのお日傘とはうって変わって、皆頑丈そうな雨傘で。おかげでここ幾日かの蒸し暑さもだいぶ掃われ、久々の涼気が戻ってきました。(ただし午後四時前には、雨はすっかり上がりました。梅雨というよりも、早い時間帯での夕立だったようです。)
 雨といえばどちらかというと鬱陶しい気分になるものですが、この時期のこんな雨なら大歓迎です。
                         *
 そんな雨を眺めながら、思い出したことがあります。
 雨は時に、都会の意外な一面を垣間見せてくれることがあるものです。
 もう三十年も前のこと。今のような梅雨時ではなく、昭和五十四年五月のある雨の午後。私は当時の上司から用事を仰せつかって、外出して原宿通りを歩いておりました。きょうのような激しい雨ではないものの、そぼ降る雨の午後でした。
 今の原宿通りはどうなのでしょうか。おそらく当時とあまり変わらないのではないかと思いますが、広い車道の両側の舗道にはずっと遠くまでうっそうとした欅(ケヤキ)並木が続いております。

 ひょんなことから、私の東京での職業生活は前年の昭和五十三年の秋頃から始まったばかりで。田舎者の私には、首都という大都会の東京砂漠的な面ばかりが強調されて迫ってくるばかりで、いまだしっくりなじめない頃でした。
 おそらく「雨の欅並木効果」だったのでしょう。その時は雨がそぼ降る中を一歩歩くごとに、原宿通りの瑞々(みずみず)しい美しさが如実に感受されました。そして私はその時初めてと言っていいほど、都会に潜む叙情的な美を発見した思いがしたのでした。

 直後その感懐を、下手くそな一編の詩にしました。五月に当ブログでご紹介しようかとも考えましたが、とてもそのまま公開できるような代物ではなく…。うまく推敲できましたら、来年のその頃公開致したいと思います。
 また面白くもあり、苦(にが)くもあった「私の東京物語」。いつかシリーズとして、ご紹介できればと思います。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

ひと日の終わり

  街が暮色を濃くし
  かくてひと日が終ろうとする。
  遠き峰を霞み色のものが
  やわらかく包み峰は
  薄いグレーのシルエットとなる。

  ひと日中この街を明るく照らして
  偉大なる陽(ひ)は
  峰の遥か向うで
  海原深き龍宮世界に
  荘厳なひと日を齎(もたら)すのだろう。

  夕鳥が名残り惜し気に
  ひと日の締めくくりの
  さようならのループを描いてから
  何処(いずこ)かのねぐらへと
  一直線に飛び去って行く。

           (大場光太郎) 

| | コメント (0)
|

「酔い過ぎる文章」の戒め

 この度「二木紘三のうた物語(3)」において、天声人語様より貴重なご指摘コメントを賜りました。このご指摘は私にとっても、大いに反省すべき点がございます。よってここにそのコメントをご紹介させていただきます。
 それにつきましては、天声人語様よりご了承をいただいておりません。が、いずれに致しましても同記事を開きますと、どなたもコメントをお読みいただけるわけです。天声人語様もし後日こ訪問いただきました折りは、その旨どうぞご了承ください。(私の返信は煩雑になりますので、ご紹介致しません。)

 (天声人語様コメント)
 甚だ辛辣なことを言う様だが、貴方は己が文章に
 酔い過ぎている。

 下手とは言わないが、感動するに至らない。

 確かに「二木紘三のうた物語」シリーズは回を重ねるにつれて、『うた物語(以下このように表記)』それ自体をご紹介することよりも、それとの関わりで私自身のことを全面的に述べることになってしまいました。これはある意味私自身でもある当ブログで、この記事を扱っている以上、私自身の関わり合いを述べてもOKなのでは?その方がただ客観的な紹介よりは面白いのでは?と考え、あえてそのような形にした次第です。
 しかしそのためこの記事をお読みになられた方(特に『うた物語』ご同好の方々)は、『なーんだ。これじゃあ、アンタの自慢話か自己PRじゃないか』とご不快に思われたかもしれません。今回ご指摘をいただき、『うた物語』がいつの間にか『大場光太郎物語』になってしまったかなあと、深く反省致す次第です。(その意味で、中途ながら同記事を「終わり」にしたのは正解だったと思います。)

 「酔い」は本当に酔っ払ってしまっている当人には、まるで自覚症状が無いものなのでしょう。私もこの度天声人語様よりご指摘をいただくまでは、まさかこの私が「酔い過ぎている」などとは、夢思いもしませんでした。私にかかる「酔い」を与えたアルコール成分に相当するものは一体何だったのでしょう。「気の緩み」「多少のおごり」「自惚れ」…?。
 
 「天声人語」とは、中国のさる古典中の「天に声無し。人をして語らしむ。」が出典だったかと記憶しております。いつもなら、私のこれも悪しき習性として、『何だと!』とすぐさまムキになって負けじと反論するところです。しかしこの度は、少しのぼせ上がっていたのかもしれない私への、「天の戒めの声」として、そのまま素直に受け取らさせていただきます。
 天声人語様。このまま本当に「酔生夢死」に陥る前にご指摘賜り、まことにありがとうございました。この私、今後とも道から外れている場合は、忌憚のないご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
 ただし、時に畏兄が「コイツ少し酔っ払っているな」と思われる私の拙文が、実は私の文章スタイルである場合がございます。これは私が半生をかけて培ってきたもので、今さらどうにも直しようがない部分もあり、またそれこそが私の持ち味でもある場合もございます。どうぞその辺をご斟酌賜り、この未熟者を今後とも暖かく見守り続けてくだされば幸甚に存じます。
 末尾ながら、「人様に感動を与えられる文章とは?」。私の永遠のテーマです。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

万物備乎我(1)

 「万物我に備はる」と読みます。
 古代中国の思想家・孟子(もうし)が著した『孟子(もうじ)』の中の言葉だそうです。孟子(BC372年~BC289年)は、中国戦国時代の儒家です。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」などと呼ばれることもあります。

 孟子の母が、孟子を育てた時のエピソードとして、「孟母三遷」は有名です。孟母は、孟子の少年時代の居を墓地の近くから市場の近くへ、そこから更に学問所の近くへと移した。その結果、墓地の近くの時は葬式ごっこ、市場の近くの時は商売ごっこに夢中だった孟子少年は、学問所の近くに居を移したことにより熱心に学問の習得に精を出すようになった、という話です。子供の育成過程で環境がいかに大事か、という観点からよく引き合いに出されますが、どうやらこの話は史実ではないようです。
 しかしいずれにしても孟子が「十有五にして学に志した」祖師にならって、若くして「学問の道」を志したことはまぎれもない事実です。その結果やがて孔子の孫にあたる子思(しし)の門下の下で儒教を学び、他の門人たちを遥かに凌ぐ歴史的大学者へと大成していくことになるのです。

 孟子の中心思想に、有名な「性善説」があります。ごく簡単に申せば、「人間は生まれながらにして善なり」とする思想です。その後荀子(じゅんし・BC298年?~BC238年?)が孟子と真反対の「性悪説」を唱えましたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念として多くの儒学者に大きな影響を与えることになります。(なお荀子も、孔子の流れを汲む儒家の一人ですが、その門下に韓非や李斯などがおり、「秦」による古代中国統一のバックボーンとなった「法家思想」に大きな影響を与えました。)
 特に孟子の思想は後世・南宋の朱熹(しゅき・1130年~1200年)の「朱子学」に受け継がれました。
 それが日本に渡り、江戸時代には朱子学は「官学」とされたことにより、『孟子(孟子が著した書)』の研究が盛んに行われました。中でも特に影響を受けた人物としては、伊藤仁斎(1627年~1705年)や幕末の思想家・吉田松陰(1830年~1859年)がおります。

 孟子関連の話が長くなりましたが。
 実はこの「万物備乎我」は、私の母校・山形県立長井高等学校の「校訓」でもあります。なぜなのか?その由来などを以下に述べさせていただきます。       (以下次回につづく)

 (付記) この記事をまとめるにあたりましては、フリー百科事典『ウィキペディア』などをだいぶ参考に致しましたこと、予めお断り申し上げておきます。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

二木紘三のうた物語(4)

 私という存在をご同好の皆様に広く知らしめたい。そのため私は二つのある戦術を用いました。一つはコメントの内容に更に磨きをかけ、誰にも負けないような光ったものにすること。 次には、私という人間と名前を一番効果的に知ってもらうには、折角のコメントをいかに有効なタイミングで出していくかということです。
 とにかく一回出すコメントは、推敲に推敲を重ね練りに練った「一コメント入魂」のつもりで発表しました。そのようにして、読んだ人がハッとするような光ったコメントを一つ出す。しかしそれを間もおかずに連続して出したのでは、前のコメントは後のコメントに打ち消されてしまって、逆効果である。さて、どうするか?

 「最近のコメント欄」で私のコメントが一つ出ている。名前も出ている。他の人が続いてコメントして、一巡して私の名前が同欄から消えるまでは、次のコメントは出したくてもあえて出さない。じっと我慢する。
 そのようにして(当時は)四、五日後に私の名前が、同欄から消える。その頃合を見計らってすかさず、用意してある次のコメントをパッと出す。そうすると結果的に、「コメント欄」には絶えず私の名前が載っているような形になる。しかも十分に間を取っているから、皆様からうるさがられる悪印象も与えないだろう。
 どうでしょう?この戦術は?かなりインパクトがあったのではないかと、今でも自信をもっているのですが。
                                                         *
 (甚だ僭越ながら)ここで最近の『うた物語』のコメントのあり方に、少しばかり苦言を呈させていただきます。
 私は以来50曲余の歌に対してコメントを重ねてきました。その数においても多分私はトップクラスでしょう。その中には、大成功コメント、大失敗コメント、問題コメント、爆弾コメント…さまざまありました。そして4月末以来一ヵ月半ほどは、ほとんどノーコメントで、その時々にコメントされる方々を外野席から見てもきました。そのような私が、特に感じることがあります。

 ある人は、一度に3つも4つも、ずらっとコメントを並べてくることがあります。また毎日のようにコメントを寄せてくる人もいます。このような流れを作ってしまったそもそもの張本人はこの私かも知れず、その責任を痛感しながら内心忸怩たる思いで見ておりました。
 そのような方に敢えて申し上げれば、私はそれは大変な「下策」だと思います。私なら1、2度はお付き合いで読んでも、それが度重なると、その人が薦める歌は先ず聴きません。コメントなど、なおのこと読みはしません。それらの方がどのような意図でコメントされてくるのか私には分かりませんが、とにかくそのようなあり方は逆効果だと思います。
 その意味でも、ご自身を有効にアピールしたいのなら、当初私が立てた「コメント戦術」を、少しは参考にしていただきたいものだと思います。

 なお私はゆえあって、またコメントを再開致しました。前からのご同好の方々に、私の悪名(?)は広く知られております。今さら改めて、名前を売る必要などありません。よって前のように「一コメント入魂」などと気張らずに、もう少し気楽にゆったり間を空けてコメントしていくつもりです。

 このシリーズずっと続けていくつもりでしたが、どうも切りがないようです。それに当ブログには、『うた物語』とは関係のない方も訪問されます。諸般を勘案致し、中途ながら一応これにて締めとさせていただきます。
 ただ人一倍『うた物語』を愛する者として、今後また述べたいことがありましたら適宜述べさせていただく所存です。なにとぞご了承ください。
 以前『「いちご白書」をもう一度』の中で述べましたとおり、『うた物語』が更に更に「国民的大ブログ」に発展致しますことを祈りつつ。      ― 完 ―
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

太郎村の清水

    ふるさとの清水皆々ご神水   (拙句)

 以下は、私の記憶が始まったそもそもの頃の、そして数少ない記憶の中の親父が登場する懐かしい思い出です。
 
 親父とおふくろと共に、太郎村(山形県内陸部の一寒村)の部落の東側の畑に、私たち家族が来ています。親父が:元気で畑仕事をしているということは、私が五つ頃のことになります。
 部落の東の段々畑の一つが当家の畑です。その畑を、さる地主から地代を払って借りていたのです。一体何の事情があったのでしょう?確か戦後間もなく、GHQ指令による全国的な農地解放によって、それまでの小作農にも大地主から借りていた農地を貰い受けられたはずなのに。
 しかし昭和三十年前後の当家は、東山と西山の麓にあちこち点在している畑を借りている「水呑み百姓」だったのです。田んぼは借りておりません。もっぱら畑のみ。そこで粟、芋、大豆、きゅうりなどの季節の野菜物を作っていました。絵に描いたような、本当の貧農です。

 さて家族がいる畑には、日がさんさんと降りそそいでいます。そんなに極端に暑かった記憶も、かといって寒かったおぼえもなく、季節は初夏の頃だったでしょうか。畑仕事が一段落して、ちょうどお昼時です。
 畑の隅で昼飯を食べます。その前に両親に連れられて、近くの木立が繁った谷地に下りて行きます。清冽な水が流れている細い渓流です。少し大きな石でもひっくり返せば、沢蟹(さわがに)が慌てて飛び出してきそうです。
 両親は、暑い中での野良仕事に喉が渇いていたのでしょう。何もせずに両親の畑仕事をただ見ていただけの私も、一丁前に喉だけは渇いてその清水を飲みたくなりました。しかし茶碗などは持ってきておりません。そこで親子はかつて知ったるとおり、渓流の側に生えている蕗(ふき)の葉の手頃な大きさのを見つけ、茎を引きちぎります。その葉っぱを手でくるんと丸めます。
 そうして渓流に身をかがめながら、丸めた蕗の葉で流れの水を掬います。冷たい清水です。なるべく早く飲まないと、どんどん水がこぼれてなくなってしまいます。そこで、蕗の独特な苦みばしった匂いと共に、一気に冷水を飲み干します。乾いた喉に、その清水の何とうまいこと !

 清水をたっぷり飲んで畑に戻ります。父がやおら二個の赤い石を取り出し、互いの手に一個ずつ持ち、パチンパチンとたたきます。火打ち石です。火花が飛び散ります。何度かそれを試みるうちに、火種が得られ、そうやって煙草でも吸うようです。
 さて畑の端の手頃な所で、弁当を広げていよいよ昼飯です。その前に肝心の箸が必要ですが、これも家から持ってきていません。そこで親父が、畑の近くの潅木の細い枝を鎌でちょん切ります。枝の皮をむき、適当な長さで二つずつに切りそろえて、にわか箸の出来上がりです。
 そうしてようやく、野良での昼飯にありつけたのでした。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

「現し世」考

    この世とは子の世仮の世映しの世
    コの世の本源(もと)はアの世なりけり   (拙歌)

 以前私は、当ブログでは政治ネタ、時事ネタ、芸能ネタなどは、原則扱わない旨表明致しました。しかしこれは考えてみれば、視聴率稼ぎならぬ「訪問者獲得」のための最もおいしい部分をみすみす捨てます、と言っているようなものです。
 それでも私のポリシーとして、よほど私自身が心を動かされる出来事でもない限り、今後ともその方針は堅持していきたいと思います。

 それら日々に生起している出来事は、例えいかに深刻な事態に見えようとも、しょせんは「消えていく事象」の一コマに過ぎないのです。それが証拠に、皆様一年前いや半年前の何か重大な出来事を、今すぐパッと思い浮かべることができますでしょうか?

 皆様も古来我が国では、この世を「現(うつ)し世」と言い習わしていることをご存知でしょう。では、その本来の意味、お分かりになります?
 「現し世」とは、または「映し世」。つまりただ映っているだけの世界、現代用語で表現すれば「三次元立体映画世界」ということなのです。更に申せば、この手触りのある実体があるように感受されている「現実世界」そのものが、実は「バーチャル・リアリティ(仮想現実)の世界」に他ならないということです。(各宗教の宗祖クラスは皆、そのことを悟得しておりました。)

 スクリーンに映画が映っているような世界であるならば、当然このように映している「本源の世界」が先ずあるはずです。勿論です。ただしダイレクトではなく、本源世界から幾つものプロセス(世界)を経て、この現象世界が映し出されていますから、かなりの歪みが生じてきます。
 今は訳あって、その「歪み」を正していくプロセスの真っ最中なのです。したがって、自然災害、政治的・経済的混迷、通り魔殺人…ネガティヴとも思われる出来事が各分野、各方面、各地で立て続けに起きているわけなのです。(「良し悪し」の問題ではなく、ただ必然的に起きているだけ。)

 このような本質的把握なしに、日々生起する出来事をただ追いかけ回すのみなら、かえってそれは受け手の不安動揺、恐怖心を招くだけなのでは?と私は考えます。なお、テレビなどのニュース番組、報道番組も、しょせんその域を出るものではないと思います。
 よってこの私は、新聞購読も止めていると共に、テレビからの変な「マインドコントロール」を避けるために、ニュース番組等も必要最小限しか見ないことにしております。
 
 (追記) 当ブログは、「秘教的(エソテリックな)領域」にもあまり踏み込まない方針ですが、今回は少し(いやだいぶ)踏み込んでしまいました。なにとぞ、ご寛恕たまわりたいと存じます。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (6)
|

「記事数100」越えました(2)

 さて当ブログを開設致しましてから、私としては多くの方に読んでいただきたいしっかりした記事を公開しているつもりなのに、しばらくは訪問者がさっぱりで。当初から私が最低ラインとしておりました「訪問者数10人」(これには私自身の分が含まれていますので、実質9人)にすら届かず。これにはさすがの私も、気分的にかなり落ち込みました。
 思い余って、開設を勧めてくださった方に、その悩みを打ち明けたこともあります。参考までにその方のご回答は、「片ことの文言などで大勢の人たちをひきつける若い人のブログと違って、しっかりした内容の「大人のブログ」にはかえって訪問者は少ないものです。今後とも今までのような記事作りを心がけていけば、確実に訪問者はふえていきます。」というような内容でした。
 このご回答に、私は大いに心励まされました。そして不思議なもので、それを境に少しずつ訪問者がふえ始めました。

 なお訪問者数の方も、あと10日ほどでこれも一つの区切りの数字を迎えます。その時は改めてまた記事に致し、その中で開設以来の日平均訪問者数などを公開したいと存じます。
 当ブログの運営・管理人は、もちろんこの私です。しかし開設以来特に強く感じますことは、やはり当ブログを訪問してくださる皆様があってこそのブログだということです。これがもし、極端な話「訪問者ゼロ」だったらどうでしょう?とてもブログを続けていく意志も、記事を書く意欲もとうの昔になくなっていたと思います。
 ですから当ブログは、私と皆様で日々作りあげていっているようなもの。よって株式会社等の法人組織が定期的に決算書等を公開して経営内容を明らかにしていますように、いかに沈滞気味な時でも包み隠さず、法人の決算書にあたります「訪問者数」を、区切り区切りで公開してまいる所存です。

 一時は最低訪問者数確保のため、シャカリキで日によっては2~3件の記事を公開したこともありました。おかげ様で今は、そのレベルは何とか脱したようです。(ただし今後どうなるかは分かりません。気を引きしめて、「初心忘るべからず」でまいりたいと思います。)
 実際「一つの記事」を作るだけでも、なかなかです。時間的にも、労力的にも大変なものがあります。当ブログにかなりの時間を割かなければならず、ここのところ業務も滞りがちです。
 ただ、日々の記事の更新を楽しみにされている方々もおいでかも知れません。よってなるべく「一日一記事更新」は、今後とも続けていきたいと思います。今後もし「更新なし」の日があるようでしたら、業務多忙か、体調不良か、頭の回転不足かのいずれかだと、お察しいただきたいと存じます。その時は、既に内容のある味わい深い記事をどっさりストックしてありますから(笑)、遡ってそちらのアーカイブ記事をお読みいただければと思います。
 以上、「記事数100」を越えた、ご挨拶まで。今後とも当ブログよろしくお願い申し上げます。           ― 完 ―
(大場光太郎・記)  

| | コメント (0)
|

「記事数100」越えました(1)

 4月末に当ブログ「今この時&あの日あの時」を開設してから、2ヶ月余。 おかげ様で、最初の難しい時期を無事乗り越えることができました。
 より正確に申せば、4月29日の開設ですから、本日7月8日で72日くらいを経過したことになります。そして昨日の『七夕のこと』で、ちょうど記事数が「100」に達しました。
 これには実は少し裏の事情がありまして。当然のことながら、開設当初は記事数ゼロなわけです。それではお話になりませんから、二木先生に私から特別にお願いして、『うた物語』に既コメントとして発表していた長文コメント(例えば『テネシーワルツ』『朧月夜』『浜千鳥』など)の七曲分を、そっくりそのまま「名曲-所感、所見カテゴリー」として、当ブログに移させていただきました。その分も含まれておりますこと、ご了承たまわりたいと存じます。

 開設当初は、本当にどうなるのか不安いっぱいでした。『もし書く材料が見つからず、このまま何も書けずに立ち往生…というようなことになったらどうしよう。』
 しかしやはりそこは、「必要は発明の母」。その気になって必死で書く材料を探してみますと、身辺雑記的に材料はけっこう見つかり、後先考えずに片っ端から記事にしていき…。気がついたら、いつの間にか「記事数100」に達していた、というような次第です。

 ここで折角のいい機会ですので、当ブログを開設するに至りました経緯を、少し述べさせていただきます。
 『うた物語』の常連コメンテーターであった私は、4月中に私が起こしました大問題の責任を取り、『うた物語』のコメントする立場から完全に撤退するつもりでおりました。あるコメントで、その旨ハッキリ言明も致しました(既削除済)。
 また一連のコメントを通して、ネットに潜む恐さも何度か垣間見た私は、『うた物語』を去る決意と共に、もういかなるサイトにもコメントなどで関わることは金輪際するまいと思っておりました。

 そう考えていた4月20日頃。ある方より一通のメールを頂戴致しました。「ご自分のブログを立ち上げ、その中で大場さんの表現力を生かしてみてはどうでしょう」というような内容の、「ブログ開設のお勧め」でした。
 自分のブログを持つことなど、私は全く考えてもいませんでした。しかしよく考えて見ますと、『待てよ。仮に自分のブログを作り、そこで自分の考えを述べるとなると、また話は別かも知れんぞ』。二日ほど熟慮し、『よし。やってみよう!』ということになりました。

 『うた物語』の区切りの日を、私は4月28日と決めていました。その最後のコメントは『白鳥の歌』とも。そこで私はその別枠で、お世話になった皆様方に「ご挨拶(既削除済)」をするつもりでしたので、何とかそれに間に合わせねばと鋭意努力したのですが…。何せブログ初心者の私は、開設の基本的なことから学ばねばならず、結局開設は一日遅れの4月29日となりました。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

七夕のこと

    願いごと山ほどもありお七夕    (拙句)

 きょうは新暦で七月七日。どなたもご存知の七夕(たなばた)です。そもそも七夕とは、
 
 陰暦(いんれき・旧暦のこと)七月七日、またその日の行事。現在は陽暦(ようれき・新暦のこと)七月七日や月遅れの八月七日に行う所が多い。この行事は中国の牽牛・織女の伝説とそこから派生した乞巧奠(きっこうでん)の行事が伝わり、日本の棚機女(たなばたつめ)の信仰と習合したものとされる。江戸時代には五節句の一つとされた。笹竹に詩や歌を書いた短冊形の色紙を吊るし、軒先や窓辺に立てて文字や裁縫の上達を祈る。仙台や神奈川県平塚市の七夕祭は風物詩として有名。 (角川書店編・俳句歳時記「秋の部」より)

 さて、七夕の本日の当地のお天気はどうだったかと申しますと。これが日中からあいにくの曇り空でした。全天をやや分厚い雲が覆い、それは夜になっても変わらず。結局七夕の夜空に、天の川を挟んでの彦星(わし座一等星・アルタイル)と織女星(琴座一等星・ベガ)の煌めきは、残念ながら見られませんでした。
 年によって晴れることはあっても、例年この時期はまだ梅雨のさなかなわけで、確率的にもあいにくの天気になることが多いと思います。
 そこでちなみに、旧暦を繰ってみますと。新の七月七日は旧のまだ六月五日。そこで旧の七月七日は新ではいつか?とみますと。八月七日。今年はたまたまその日が立秋にもあたります。ちょうどそのくらいの日でしたら、例年を思い起こしても残暑厳しい折りで、牽牛と織姫の一年に一度の「逢ひびき」の日としては、絶好の日和のようです。真夜中に外に出て、『彦星どこだ?織女星どこだ?』と、空を見上げて星涼し。なるほど。だから七夕という季語は、歳時記でも「秋の部」なんだな!

 上に引用しました中でも触れられている、「平塚市の七夕祭」。新暦で行われます。(ちなみに有名な「仙台七夕祭」は、月遅れの八月七日。)おそらく今晩は、豪華に飾りつけた平塚市紅屋町商店街は、夥しい人、人、人でごった返していることでしょう。
 平塚市は当厚木市と接した市です。そこで私は当地に来たばかりの若い頃、当時の仲間と一緒に二、三度、平塚の七夕を見に行ったきりで。以来三十有余年、とんと見ておりません。

 七夕に限らず、あのような大観衆が集まる場には、一人で行くものではありません。独り身の私は、それがすっかり習い性になってしまって、何をするにもいつも単独行動、普段は特に不便も何も感じません。ところが一転、そのような「お祭り」などの場に入り込みますと、独りであることの孤独感がにわかに浮きぼりにされ、それと共に寂しさが増幅されてしまうのです。
 老若男女を問わず、あのような「ハレの場」に共に連れ立って行ける、パートナーなり家族なり仲間がいる人は、本当に幸せだと私は思います。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

二木紘三のうた物語(3)

 私はあくまでも「二木先生へのお礼」が目的であり、最初のコメントだけで終わりにするつもりでした。
 しかしちょうど年末年始の時期で少し暇だったこともあり、『うた物語(以下「二木紘三のうた物語」をこのように表記させていただきます)』の各歌をじっくり聴いているうちに、『そういえば、『カチューシャの唄』を聴いたのが、最初だったよなあ。あの歌には誰もまだコメントしていなさそうだし。どれまたコメントしてみるか』。そんなことで年が明けた今年の1月5日に2回目のコメントを致しました。
 さすがに今度は、初めてのコメントよりは少し落ち着いて言葉を打ち込むことができました。そのようにして、その次は『別れのブルース』 『昭和ブルース』『サーカスの唄』 …。気がついてみたら、すっかりいっぱしのコメンテーター・モードに入っておりました。

 そうしてコメントを続けていくうちに、私の中で長い間眠っていた「物を書きたい願望」が、徐々に目覚めていったようです。とにかく私は、他のことならいざ知らず、「文章を書く」ということに関しては、並の人には負けない自信がありました。また私のプライドに賭けても、負けてはいけないとも。(なぜそんなにまで思うのかは、述べれば長くなります。また本記事の趣旨からも大きく逸脱致します。いずれ改めて、ご紹介したいと思います。)

 「敵を知り己を知らば、百戦危うからず(孫子)」 。私の独りよがりでは、ただ恥ずかしいだけです。ですから、その頃から時々に出される各人のコメントにも、特にじっくり目を通すようになりました。
 たいがいの人には『勝った!』と思いました。しかし中には、少しずつ私という存在が意識され出したのか、コメントの中身が明らかにグレードアップしてきた人が、2、3人おられ、私も時にハッとするような「光ったコメント」を寄せてこられます。私としては当面この人たちを、しっかりマークしていけばよいようです。

 このようにして、それらの人たちとの切磋琢磨とともに、少しずつ「欲」や「野心」という変なものが芽生えてきました。
 折角こうして「良質なコメント(?)」を出し続けているんだから、この際『うた物語』を日頃聴いている方々に、私・大場光太郎という存在を強くアピールしたい、という願望です。 (以下次回につづく)

 (注記) 私はこのシリーズ、当初はあくまでも『うた物語』の紹介だけにするつもりでした。ですから回数も多くて3回程度のもの。しかし書き始めていくうちに、『うた物語』と私との絡み合いも描きたくなり…。どうも少し長いシリーズ物になりそうです。今の時点では次回の稿も無く、いったい何回目で終わるのか?およそ私自身にも見当がつきません。
 一つの読み物として、気長にお付き合いくださればと思います。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (8)
|

河童考

    大天狗小河童何処(いずこ)青山河   (拙句)

 間もなく、関東地方も梅雨明けを迎えそうです。そうしますと、雨のイメージの当ブログの「カッパ君」の背景も変えなければなりません。「ココログテンプレート」で各種とりどりのテンプレートが用意されている中から、これを見つけて採用しただけに残念です。来年の六月以降のバックにもまた使うとしても。それまではカッパ君とも、しばしのお別れ、その前に「河童」についての話を取り上げてみようと思います。

 河童は、日本の妖怪・伝説上の動物、または未確認動物。標準和名の「かっぱ」は、「かわ(川)」に「わらは(童)」の変化形「わっぱ」が複合した「かわわっぱ」が変化したもの。河太郎(かわたろう)ともいう。ほぼ日本全国で伝承され、その呼び名や形状も各地方によって異なる。類縁種に「せこ」等がいる。
 水神、またその依り代(よりしろ)、またはその仮の姿ともいう。鬼、天狗と並んで日本の中で最も有名なものの一つとされる。  (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 河童をはじめ、天狗、座敷童子(ざしきわらし)…。これが実際に存在するか否か?これが問題なのではありません。それらの存在が単に伝承中の架空の存在であっても、いっこうにかまわないと私は思います。
 ただ深山幽谷まで切り開き、トンネルを掘り道路を建設してきた。あるいは各地の小河川に到るまで、コンクリート護岸など人工的加工を加えてきた。そんな過程を、到るところでイヤというほど目撃してきた。そんな私たちの心の中で、それらの存在を今やさしく受容してあげられるだろうか?結局は、私たち一人一人の「心の問題」だと思います。

 当地の近くに、海老名市と綾瀬市の境を流れる某小河川があります。ご多分にもれず近年河川整備が完了し、その一つのコンクリート橋が「河童橋」と命名されました。その橋の欄干の上に、河童の小さな像がちょこんと乗っております。
 私はたまに通るたびに、『さすが最近では行政の意識も変わったもんだな。なかなか乙なことをやるじゃないか。』と、感心しながら眺めていきます。
 すべて昔からの言い伝え、昔話、民話などのたぐいは、誰しもの心の奥深くにある民族的な郷愁心を揺さぶられるものであります。だからこのテクノロジー最優先のこの時代に、ああして河童の像を掲げることなども、その息苦しさから脱け出したい願望の一つの表れなのかも知れません。
 
 なお冒頭の拙句は、その河童像に触発されて、数年前に詠んだ句です。
 とにかく近年、私の想い描く「こうであってほしい青山河」は、私の周囲からどんどん消えつつあります。そんなんだから、イメージとしてさえ、河童も天狗もなかなか現れてきてはくれません。嗚呼 !
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

大神殿への道

  私はいと高き神の神殿に向かっていた。
  私の誠心を神に宣(の)り上げ祈りを捧げるために。
  しかし行く手には夥しい群衆がひしめいている。
  進もうにも一歩も進めそうにない。
  どうしたものか?私は躊躇逡巡していた。

  と気がつくと私の右手に立派なロッド(杖)が握られていた。
  二匹の蛇が互いに絡み合い、
  先端で頭を天に聳やかしている装飾のロッド。
  なぜか私はその用い方がすぐに分った。
  ロッドを厳かに大群衆に向けて、
  高らかに告げた。
  「民よ!我が道を開けよ !」

  我が大音声を聞くや否や、
  大群衆は二手にさっと分かれた。
  そのさまは紅海が真っ二つに分かれた時のようだ。
  私はモーセさながらだ。

  一気に視界が開け私は粛々と歩を進める。
  彼方に黄金に煌めく大神殿が見える。
  群衆は賞賛の眼差しで私を見守っている。
  神殿の階(きざはし)を一歩ずつ登り始める。

  と突然神殿も階もかき消えて、
  私はとある近世の大きな広場のただ中にいた。
  私が登っているのは何と断頭台だったのだ !
  大群衆は今度は周りをぐるっと取り囲み、
  断頭台の上の私に容赦ない怒号と罵声を浴びせかける。

                   (大場光太郎)
  

| | コメント (0)
|

日傘など

 正真正銘の夏の一日でした。炎帝の威光をおそれて中空には雲ひとつなく、四辺の低い空にわずかに白雲がうずくまるのみ。よって中天高く太陽は、熱い日差しをこの地上に容赦なく浴びせています。
 街のようすもどことなく、白日に漂白されたかのように何となく白っぽく見え。そう、これこそは私が感じる「真夏の感覚」です。本日は梅雨晴れ間どころか、夏の日そのものといってもよさそうな一日でした。
 そんな中、六月の主役の花だったアジサイは、遠目に見てさえ明らかに腐(くた)れぎみ。こんなところにも、無常な(「無情」ではありません)時の移ろいを感じます。

 こんな日は、街のあちこちでずいぶん日傘を見かけます。動いているのは、日傘なのか人なのか?一瞬白昼の錯覚に襲われます。
 日傘の色はとりどりながら、やはり黒日傘が圧倒的に多いようです。確か黒は光熱を吸収しやすい色、むしろ涼を求める日傘なら、白い色の方が反射してくれてよさそうなものを。それが昔から日傘は黒と相場が決まっているものなのか、白などの軽い色のものは少ないようです。(白色系は日に変色しやすい、ということもあるのでしょうか?)

 日傘を差している人は、やはり年配のご婦人が圧倒的です。若い女性で差している人は、たまに見かけるだけ。さすがに男性は皆無です。
 当今の10代、20代の女性の肌のきめの細やかさ、そのすべらかさは驚異的です。日傘などで保護せずとも、少々はちゃめちゃなことをしようが、短時日ではその美肌が崩れることはないという自信の表れなのでしょうか。それに一般的な男どもはそもそも、美肌などということにあまり気を使いませんから。

 太陽の直射日光を浴びるのは、近年のオゾン層破壊による地表に降り注ぐ紫外線量の増大で、発がんの可能性があり危険である。このような喧伝がさかんです。しかしこれは、元はといえば「天に唾した行為」が人類全体に今そのまま還ってきているだけ。だから素直に受け取ればよさそうなものを、受け取り拒否して逃げ回っているだけなわけで…。

 私見を申せば―。現代人は屋内で過ごすことが多くなり、「日光を浴びる」ことが極端に少ない人種であるように思います。確かに日傘は、江戸時代の「日唐傘(ひからかさ)」あたりから庶民化されたもののようです。それゆえ我が国の古くからの風物詩には違いないけれども…。
 折角たまに外に出たからには、お日さまの御光りを恐れず怯まず。むしろ真夏の日盛りに我が全身を丸ごとさらして、大路を闊歩して行きたいものです。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

ある母娘

 「夏の夕べの寸景」の母娘とは、バスでも途中まで一緒でした。
 私は後部座席、その母娘は前の横長のお年寄りシートで親子並んで。あまり乗客もなく、見るともなしに見ていると、女の子は車中でもしきりに母親に甘え、母親の方もそれをうるさがらずに。バス待ちの時とまったく同じです。
 この親子。見ていてほほえましくなります。思うに、この若いお母さん、ダンナさんともとてもうまくいっていて、仲睦まじく、夫婦円満なのでは?と推察されます。

 時に、同じバスの車中では。同じ母娘連れながら、母親が娘の所作にいちいち厳しい叱責の言葉を浴びせかけ、時に「そんなこと止めなさい。何で分かんないの。」と言って、膝の辺りをピシャとたたいたりしているのを目撃することがあります。
 それでも娘の方は、例えどんなに怒られようがたたかれようが、頼るのは母親しかないわけで、「ママー。ママー」。私は『可哀想になあ。もう少しやさしくしてやれないのかなあ』と思いながら見ていました。そして同時に『おいおい、アンタ。ダンナさんとうまくいってんの?』とも。

 ある人がいみじくも言っておりました。「家庭は平和な世界の基本単位である」と。またある人は、「男は愛すべき妻や子の待つ家庭を持ち、それに一心に打ち込める仕事があれば、後は他のものを高望みすべきではない」という意味のことを言っていました。
 確かに、そうだと思いますよね。この私の「今回の人生」は、そのうち特に「幸せな家庭」を得られる人生コースに、プログラミングされていなかったもので。それは身に沁みて、強く感じます。

 例の母娘は、私より二つ手前のバス停で降りました。私はその母娘の後姿に、『これからもずっと仲良く、幸せにね!』と、心の中でエールを送ってやりました。
 (大場光太郎・記)
 

| | コメント (2)
|

夏の夕べの寸景

 六月のある晴れた土曜日。私は午後から本厚木駅方面にバスで出かけました。以下は、夕方帰ろうとして駅北口バス停でバス待ちをしていた時の寸景です。

 その時バスを待っていたのは、ほんの数人程度。私のすぐ前は、ある親子です。見ると、若いお母さんと3歳くらいの女の子です。女の子はうすいピンクの半そでの上着、同系色のスカート、肩から子供用の水筒を提げています。
 梅雨の晴れ間の土曜日。電車に乗ってどこか近郊の行楽地にでも行ってきた、その帰りなのでしょう。
 母親は、白い帽子をかぶった小柄でポッチャリ太目の、本当に若いお母さんです。女の子の方はちょうど可愛い盛りの年頃で、幼児語を大いにとどめた話し方で、しきりに母親の手をぐいと引っ張ったりしながら話をしかけます。それに対して「うん。うん。そうねえ。」などとうなずきながら、母親はうるさがらずにきちんと答えを返しています。
 よく見ると、なるほど親子です。顔立ちがどことなく似ています。

 そのうち子供はバス待ちの列を離れて、どこかに走っていきました。母親はそれとなく我が子の姿をしっかり目でたどっています。私もどこに行ったのだろうと思って、斜め後ろのその方に振り向きました。
 そちらの方向は駅北口に向かう広場の一角で、見ると一羽の鳩がいます。なぜか鳩は一ヶ所にうずくまったまま、動こうとしません。女の子は、そんな鳩のようすが気になって走り寄っていったのでしょう。女の子は鳩から少し離れて佇みながら、鳩を指差して、
 「ママァーッ! このはと、うごかないよ。」
 「そうねえ。でも、もうこっちに来なさい!」
 そう促されて女の子はもっと見ていたそうなそぶりでしたが、母親のもとに走って戻ってきました。

 例の鳩は、まだ同じく足をたたんで地面にうずくまったままです。そもそもこの駅前広場は、常々たくさんの鳩がたむろしてしているのです。中には、スナック菓子やパンくずを与える人もいるようです。鳩たちも慣れたもので、通る人たちを特段怖れるようすもなく、人が行き交う側を平然と歩いていたり、何かをしきりについばんでいたりしています。
 『あの鳩はどうしちゃっんだろう?どっか具合でも悪いんだろうか?』
 すると駅の方から歩いてきた年配の男性もその鳩に気がついて、私と同じ疑問をもったらしく、その鳩のようすを見ようと覗き込むように近づきました。
 さすがに鳩もそこまで近づかれては…。途端に何食わぬ顔ですっと立ち上がり、例の鳩歩きですたすた歩き出し、大きな円形花壇の陰に隠れてしまいました。

 例の女の子は、鳩のことなどすっかり忘れて、母親となにやらお話に夢中です。すると母親が鳩がいた方をふと見て、
 「あらっ。いなくなったわねぇ!」
 「ホントだ。どこいったんだろ?」と女の子。

 以上はこれといってどうということのない、とある夏の夕べの一光景でした。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

大ハプニングの7月1日

 七月のスタートの日のきのうは、お天気もまずまずだし。『おっ。今月も良いスタートが切れそうだぞ!』と喜んでおりましたら。お昼前頃、とんでもない事態が起こりました。(『うた物語』関係者以外の方は、一体何のこっちゃとお思いでしょう。どうぞ我慢してお読み下さい。)

 昼少し前、当ブログの内容を一通り確認し、『さあ、昼飯にしよう』と思い当ブログを閉じ、『うた物語』に戻りました。ハッキリとは覚えていませんが、それまで聴いていた『東京ブルース』も閉じて、一つ手前の『うた物語』トップに戻ろうとした時だったでしょうか。突然見慣れない画面に切り替わりました。みれば@niftyの「案内画面」のようです。
 そしてその文面にびっくり仰天です。「アクセスが禁止されています。」
 続いて、「…ココログ開設者がココログを閉じた可能性があります。」
 『えっ?そんなバカな! 二木先生が、自分で「うた物語」お終いにしちゃったってこと?』
 何度試みても、もう『うた物語』画面は戻ってきません。

 私は、お先真っ暗な気分になりました。
 きょう7月1日は、富士山などの「お山開き」の日じゃないの。なのにこの日が、「うた物語閉め」になるなんて。二木先生、一体どうなったんですか?ホントにもうお終いなんですか?
 そして時には。待てよ、これは日頃『うた物語』で問題ばっかり起こしている私への「懲らしめ」かもしれんぞ。何か特別な操作で、私だけが以後出入り禁止ということで、皆は何事もなく聴いていたりして…。こんなとりとめのない、トホホな想いがぐるぐる回りしました。

 その後の概略は、「ご同好の皆様へ」で述べたとおりです。その時には、『どうやらこれは、「うた物語」全体の問題らしいぞ』と、ハッキリ分かりました。
 なぜ分ったのか。おそらく「うた物語関係者」からと思われる、当ブログへのアクセス数が異常に多いのです。ご存知のとおり、当ブログは開設以来二ヶ月余りの駆け出しブログです。 この日に限っては、午後3:30の時点で、通常の日平均訪問者数の約4倍にも達してしまっていたのです。当ブログにとりまして、前代未聞の数字です。

 その時『これはただ事じゃないな。』と実感しました。そして『これは個人として、ただ成り行きをみているだけじゃいけない。何かオレに出来ることをしなきゃ』と思いました。
 先ず、二木先生に今回の件の「お尋ねメール」を差し上げました。次に念のため、「ココログサポートセンター」にも「質問メール」を出しました。ただしこちらは、回答にけっこう時間がかかることが分っていましたが…。そして次に「ご同好の皆様へ」の記事を掲載致しました。

 二木先生からのご返信。3回ほどチェックしたのですが、その都度「新着メッセージなし」でした。『これは何か相当込み入った事情が…』。それでいつもどおり、外出致しました。(『谷間のともしび』のれいこ様の返信で述べましたとおり、夜の時間帯は私にとっての、コーヒータイムが習慣になっております。)帰宅がPM10:30頃。慌しく先生からのメールの有無確認しましたところ、何ととうの昔に届いていたではありませんか! (PM7:45頃)『ああ、しまった!皆に申し訳ないことをしてしまった。』とりあえず、先生から頂戴した全文をそのまま掲載させていただくことにし、「二木先生のメール紹介」を記事にしました。

 本当に、私にとりまして疾風怒濤のような一日でした。そしてその中で、緊急事態が発生した場合の、身の処し方、適切な対処法など、いろいろな教訓を含んだ一日となりました。
 (大場光太郎・記)
 

| | コメント (0)
|

「二木先生からのメール」ご紹介します

 『うた物語』ご愛好の皆様。こんばんは。
 きょうは、お互いびっくりの一日でしたね。
 さて、私は所用で外出しており、戻りましたところ、夕方二木先生に今回の件の「お尋ねメール」の、先生からの返信が届いておりました。午後七時四十分頃にお出しになられたものです。

 皆様。やきもきされておいでなのに、遅くなり大変申し訳ございません。
 今回ばかりは、二木先生のお許しも得ず、特にその内容全文を以下に公開させていただくことに致しました。この責はすべて、この私が負います。
 
                       *
私のブログ「二木紘三のうた物語」は、ファイル数が多く、重い、アクセス数が多くてサーバーに負荷がかかりすぎるという理由で、アクセス禁止にされてしまいました。3日ほどかかるようです。
再開されても、状況は同じですので、やむなく歌謡曲だけ、別サイトにすることにしました。しかし、元のサイトが再開されないと、歌謡曲のファイルをこちらに移すことができません。
まことに恐縮ですが、再開されるまでお待ちください。
(管理人、二木紘三)

 
 以上が、私が二木先生より頂戴いたしましたメールの全文です。
 皆様。大変よかったですね。原因もしっかり分ったし。仕方ありません、『うた物語』がちゃんと復旧するまで、3日くらいお互い我慢して待ちましょうよ。
 ご報告おそくなりましたこと、心よりお詫び申し上げます。 7月1日PM11:15

   ご同好各位様                             大場光太郎

 (追記) ご同好の皆様。こんにちは。
 『うた物語』。何と、復旧したではありませんか ! 私はその間出かけていて分かりませんが、復旧はお昼前後だったのでしょうか?
 取りあえず聴くことができるのは、「童謡・唱歌」のみらしいですけれども。それでも、『うた物語』の姿が再び見られたことは、何よりの喜びです。この嬉しさを、共々分かち合いたいものです。
 その後、「歌謡曲」の復旧に数日かかるのみで、後のジャンルは再開されました。二木先生のひとかたならぬご尽力には、本当に感謝ですね。
    7月2日PM4:30 (一部補正・PM11:00)       大場光太郎

| | コメント (4)
|

「二木紘三のうた物語」ご同好の皆様へ

 『うた物語』ご同好の皆様。こんにちは。
 私は通常通りきょうも、午前中から『うた物語』を聴いておりました。
 すると確か昼前だったと思いますが、当ブログから『うた物語』に戻ってみますと、何とそれが突然表示されなくなっているではありませんか !
 そして、続いて「ココログ案内画面」が出てきて、そのタイトルが「アクセスが禁止されています。」それに「…ココログ開設者がココログを閉じた可能性があります。」

 えっ。何で?一体何が起こったの?これは自分のパソコンだけの問題なのかなあ?二木先生、一体どうなっちゃったんですか?これから先、先生の名演奏、名曲の数々聴けなくなっちゃうなんて、あんまりだよぅ。
 何が何だか、訳が分からず。頭がすっかりパニくってしまいました。

 昼過ぎから所用で出かけました。三時半過ぎ帰って、取るものも取りあえず。パソコン開き、祈るような気持ちで『うた物語』への再アクセスを試みました。しかし、結局ダメ !!

 本当に一体どうしちゃったんでしょう?本日の『うた物語』関係者と思われる方々からの当ブログへの、異常なほどのアクセスの多さからして、どうもこれは私だけに起きていることではなさそうだし。

 皆様。このことに関して何か情報をお持ちなら、この記事のコメント欄でお知らせください。私も今鋭意調べているところです。何か新しいことが分かりましたら、その都度ご報告致します。

 当ブログが、今回の問題に対する、皆様にとっての「一中継基地」になれればと存じます。   7月1日 PM5:00        大場光太郎 

| | コメント (0)
|

六月尽

    雨降りて曇りて照りて六月尽(ろくがつじん)   (拙句)

 早いもので『六月の綺麗な風』でスタートした今月も、もう終わりですね。
 梅雨入りが早かった分、『ひょっとしたら今月中に梅雨明け?』などと、気の早いことを考えておりましたが、いくら何でもそんなことはなく。先の予報のことなど気にもしておりませんが、やはり例年通り明けるのは七月中旬過ぎ頃なのでしょうか?
 とにかく。ここ何年かの、梅雨明け以降の「殺人的猛暑」を想像するだに、とにかく明けるのは出来るだけ先にしてくれ ! というのが、私個人の願いです。いずれ「猛暑の悲鳴」とともにお話しすることにもなりましょうが。貧乏書士の当家には、「クーラー」なる快適な利器が一台も無いのです。今後とも入れる予定はありません。それでとにかく猛暑はなるべく先に、できるだけ短くと…。
 それに梅雨明けになりますと、現在使用している背景の「カッパ君」ともお別れです。私自身とっても気に入っていますので、それも寂しいし…。

 きょうは午前中は曇りでしたが、午後二時過ぎ頃から雲が切れ出して、日が照ってきました。そんな中、綾瀬市の顧客にお伺いする用事があり車で出かけました。相模川の橋を越えて海老名市、綾瀬市は更にもう一つ先の市です。綾瀬市とその先の大和市にまたがった広大な敷地に、かの悪名高い(?)「米軍厚木基地」があります。D・マッカーサーが、日本占領統治のために初めて降り立った基地として有名です。
 「えっ。厚木基地だから、厚木市じゃないの?」と思われる方もおいでかも知れませんが、さにあらず。実は私も、現居住地に引っ越す前数年以上綾瀬市に住んでおりました。いやあ、たまらないです。米軍機の飛行音は ! 家の中にいても、外はもちろん。十分遠ざかる間は、話は中断せざるを得ません。あの音が嫌で、元々の厚木市に逃げ帰ってきたのですから。その上同基地の地下には、「○」が格納されているなどという噂も…。

 伺う顧客は、私よりも何歳か年下ですが、なかなかの傑物です。伺うたびにお互いいろんなことを話し合い、向うさんは切れ味鋭い人で、そのたび刺激を受けて帰って来ます。けっこう波乱万丈の人生だったようで、ご紹介したいのですが「守秘義務」がありますので。

 行く時相模川沿いの、『母さんの歌』で述べさせていただいた、「母の最後の花道」を通りました。あの時は満開の桜。今この時期は、青葉繁れる桜並木です。何やら幽玄とも感じられる、木下闇(こしたやみ)の道路となっておりました。
 相模川には、鮎釣り人がそこそこに。川州に、青いビニールテントが点々と。好きなんでしょうねえ、あの人たちは。釣りが、ホントに。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

インナーチャイルド

  ぼくの中の子供は
  しきりに広い世界に出たがっている。
  広い世界で存分に飛び回りたがっている。

  ぼくがたとえ幾つ年を重ねようと
  永遠の子供が
  ぼくの中に在り続けるのだ。

  その子供は
  やんちゃ坊主で
  茶目っ気たっぷりで
  いたずら好きで
  遊びたがりで
  好奇心旺盛で 冒険的で
  妖精的で 天使的で
  何より純粋無垢な知恵の子供 !

          *

  ああ大人であることは
  内なる子供を
  心の奥なる座敷牢に閉じ込め
  この世の滞在期間中ずっと
  固く施錠して外へ出さないこと。

  私は立派な権威者です
  私の中に「子供」などおりません
  知りません 存じません。

  この世限りのペルソナかぶり
  とりつく島なきお澄まし顔で
  国会議員の○○でございます。
  大学教授の○○でございます。
  評論家の○○でございます。
   ……  ……  ……

  何と痛ましいこと !
  ペルソナかぶった当人と
  夥しいペルソナ人(びと)が
  創り上げてきたこの世界は。
   何より 牢に閉じ込められっ放しの
  内なる子供は !

            (大場光太郎)  

| | コメント (1)
|

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »