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「現し世」考(2)

 この度くまさん様より、当ブログ記事「二木紘三のうた物語(3)」に対しまして、大変貴重なコメントをいただきました。このような貴重なご所見を、一記事の中に潜めておくのはもったいない。そこでその返信としての私の所感を、今回記事として公開することに致しました。なおくまさん様の御文は長文のため、残念ながらここにご紹介することができません。そこで同御文また前の『「現し世」考』をお読みいただきましてから、当記事をお読みくだされば幸いです。
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 私が先に『「現し世」考』を書くそもそものきっかけとなったのは―。テレビなどのニュース・報道番組は、特定の例えば某凶悪犯罪などが起きた場合、その表面的な事象を大々的に取り上げ、特に事件現場などの同じシーンを繰り返し繰り返し流し続ける。そして視聴者側もマインドコントロール的にそれに振り回され、いたずらに不安動揺に駆られがちである。と同時に「人を見たら犯罪者と思え」とばかりに、特に都市部住民は今や隣人との良き人間関係がズタズタに破壊される傾向にある…。更に申し訳ない物言いながら、ある方々のブログでもその現象的な面をお取り上げなのはいいが、その奥に潜む本質的なことには余りお触れにならないようである。これでは余り根本的な解決にはならないのではないだろうか?そう思ったのが、そもそものきっかけです。
 以上のことを、先ずしっかりと確認しておきたいと思います。

 さて「この世」をズバリ「形の世界」と把えた場合、これは間違いなく「現し世」言い方を換えれば「真実ならざる世界」だと言えます。なぜならご存知のとおり、およそこの世の形あるものは、どんなものでも変化・変滅を免れないからです。
 もし「真実」であるのなら、例えどのような状況の変化にも時間的経過にも「永久不変」であるべきはずだからです。従って「形あるモノは滅す」ゆえに、五感の肉眼に映ずる「形の世界は真実ならざる世界」である。

 ではこの世界には果して、「真実」はどこにもないのだろうか?もしこの世界が真実の世界ではなく、仮の世、映しの世なら、私たちが生きる意味が一体どこにあるんだ?ということになろうかと思います。
 ご安心ください。「真実」はズバリあります。どこに?意外なところに。外の形の世界ではなく、私たち各人の「心の内深く」に。皆様ご記憶でしょうか?私は以前『猫びしょ濡れで…』の中で、ある賢者の言葉を紹介致しました。
 「外を見るな。内を観よ。そこにすべてがある。」
 本論で私が言いたいことは、この言葉に尽きるのです。心の内深くの世界を、「魂」「霊」「神」と言ってしまえば、話は簡単です。が、あらぬ誤解を生みかねませんので、ここではただ私たちの普段形の世界に付随した、五感のみに囚われ振り回されている「通常の心」を鎮めた時に、初めて到ることのできる「深い意識状態」とだけ言っておきましょう。
 更に別の賢者の曰く、「智者は真と非真の境目を見る」。これは即ち「外観」と「内観」を厳しく峻別せよ、との教えだと思います。

 「色即是空。空即是色」。私の乏しい知識でごく簡単に申せば。「色」とは通常我々が「外観」によって見えている世界。対して「空」とは、それこそ深い「内観」によって初めて感得し得る、量子力学などがやっとその端緒についたばかりの、精妙不可思議世界。即とはイコール。私たちの「意識レベル」によって、非真(色)の中に仮に真(空)が現れていても見逃してしまったり、非真的事象の奥に真が発見できたりする。
 俳聖の「不易流行」もそれに近似した概念なのかな?と私は勝手に解釈致します。更に申せば、近代正岡子規が唱えた「写生主義」も、事象(流行・色・非真)の奥を探って生の実相(不易・空・真)に迫れ、そしてかく把握したものを俗心(非真の心)を交えずそのまま写せ(表現せよ)という運動だった、と言えなくもありません。
 いずれに致しましても、内なる「覚醒意識」こそが、「空」あるいは「不易」すなわち先の冒頭拙歌の中の「本源世界」に直結したものであることは間違いないようです。

   道の辺につましく咲ける小(ち)さき花
   花の白きに神顕われぬ 
 以前『小さき花』の中でご紹介した拙歌です。ご引用の「なずなの花」もそうでしょう。自然界の草花は、本然の美が巧まずしてそのまま顕われている姿だと思います。また良寛さんの「心眼」に映じた子供たちの純真無垢な姿、あるいはボランティアの女性の思わず人に「神性」を感受させてしまう「無償の愛」の姿…。
 例に出されたいずれにも共通するのは、通常人にありがちな「エゴの心」が極めて少ないということです。私たちをして「本源の世界」と遮断させ、その発露を妨げているものこそ、黒い雲のように分厚い「エゴの心」に他ならないからです。

 従いまして、人はいざ私のようなエゴの塊りのような者は、努めて「内観」をしてエゴの曇りを刻々瞬々に祓い清めることをしない限り、「愛ある真(まこと)の世界の住人」になることは決して出来ないと、日々自戒致しております。
 それと共に、巷間テレビなどでイヤというほど伝えられております出来事に、一々不安動揺したり一喜一憂しない「平和な心」の涵養も必要かな、と思う次第です。
 (大場光太郎・記)

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