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万物備乎我(2)

 私の母校・山形県立長井高等学校は、そもそも大正9年山形県下の旧制中学・山形県立長井中学校として発足致しました。それが戦後の学制改革により、新制の高等学校として再出発し、その後幾多の変遷を経て今日に至っております。
 
 旧制長井中学校として発足するにあたって、犬養毅(1855年~1932年)に揮毫(きごう)していただいたのが、本タイトルの「万物備乎我(万物我に備はる)」だったのです。母校の学校案内でも、その辺の事情は明らかにされておりません。想像するに、中学校創立に携わった関係者の中に犬養毅と政治的に近い人がいて、その関係で犬養に学校創設の趣旨などを話し、特に頼んで揮毫してもらったものではないでしょうか?そうして頼まれれば「あヽいいよ。」とばかりに、古今の名言をすらすら墨書する。政治家のみならず、当時の各界の指導者の漢学的なかんずく儒教的素養の深さを垣間見るエピソードです。
 このようなわけで、以来この揮毫の書は扁額として我が母校に掲げられ、「校訓」となった次第です。
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 犬養毅(犬養木堂)は皆様よくご存知かとは思いますが。
 時の若槻礼次郎内閣が、直前に勃発した「満州事変」(1931年-昭和6年9月18日)への対応の不手際などの責任を取り総辞職したのを受け、同昭和6年12月若槻と対立していた立憲政友会総裁だった犬養が、第29代内閣総理大臣となりました。
 世界恐慌、満州事変直後の荒波の船出の内閣でした。既に首相経験者で「だるま宰相」として有名な高橋是清を蔵相に任命し、不況対策に努め一応の成果を挙げつつあった矢先…。

 就任間もない昭和7年5月15日夕刻。いわゆる「5・15事件」が起きました。犬養首相は首相官邸に乱入してきた、満州事変への対応に不満を募らせていた青年将校らの凶弾により、同日深夜絶命致しました。享年77歳。当時の政界の名だたる硬骨漢の、劇的な最期でした。
 犬養首相を取り囲み、首相にピタッと銃口の照準を定めている青年将校たちに、「話せば分かる!」と叫んだというエピソードは余りにも有名です。

 ところが当時から軍部は、「話せば分かる」ような正常な組織ではなくなっていました。この事件により、時の政界もマスコミも軍部批判の矛先が鈍り、その後の軍部独走を許す結果となりました。またこの事件の首謀者たちはいずれも刑を免れたことにより(彼らの中にはその後満州国の軍部高官になった者もいた)、後年の「2・26事件」の遠因ともなりました。
 ともかくこの事件は、時局が一気に軍国化していくエポックメーキングな事件であったことは間違いないようです。       (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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