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ビニール袋・パートⅡ

  とある夜更けの 車道ぎは
  きまぐれ風に さそはれて
  小さき白き ポリ袋
  ひとりさびしく 舞ひにけり

  中身はもとより いづかたの
  ひとの許にや 在りぬべし
  袋ばかりは 要らぬとて
  いとも安げに 捨つるらむ

  心に懸くる 人は無く
  近きたぐひの アスファルト
  己の性(さが)を 知りてかや
  彼の視線を 避けてけり

  かすかに動く 我がこころ
  袋ぞそれと 気付きしや
  舗道をさして 佇みし
  我が足もとに  慕ひ来つ

  さりとて猫を 愛(め)づるごと
  ひとつの愛撫も 出来かねて
  こころ冷たく 我れもまた
  あらぬ方をば 見やるなり

  やがて悟りし かの袋
  つと車道へと あとずさり
  寄る辺なき身と うずくまる
  うしろ姿ぞ あはれなる

           (くまさん・作)

 (注記) この度くまさん様より、拙詩「ビニール袋」に対してコメントをいただきました。くまさん様は、私の詩の意図を実に余すところなくお解りです。その上同詩を上のような格調高い文語詩としてリニューアルしてくださいました。これは一コメントとして隠しておくには、あまりにももったいありません。そこで独断で申し訳ありませんが、「パートⅡ」として発表させていただくことにしました。皆様、香気ある詩を、どうぞご堪能ください。 (大場光太郎・記)
  

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コメント

ビニール袋がテーマとはなかなかユニークだと思います。発想が豊かででないとこの詩はなりたちませんね。
楽しいと思うのは くまさん様の作品は大場様のオリジナルとはまた違う味わいになったことです。
このようなつながりが出来るブログは素敵だと思います。

投稿: おキヨ | 2008年7月29日 (火) 00時54分

どうもありがとうございます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月29日 (火) 01時47分

大場 様
一寸留守にしておりましたので、ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません。
 このたびは私の無作法な振舞いにも拘わらず、このような寛大なお言葉をいただきまして大変恐縮し、また感謝いたしております。そのうえあらたな一項として愚作の掲載までしていただきました。実をいうと、この件に関しては削除をお願いしようかと思っていたのですが、おキヨ様のコメントを拝読して、少々考え直しました。
このような愚作でも衆目に曝すことによって、却って原詩の心にしみる抒情性といいますか、真価が明瞭になる、と思ったからです。原詩をピチピチはねる新鮮な魚に譬えるなら、拙作は表面を取り繕っただけの、生命の無い剥製に過ぎません。
 私が御作にこころ惹かれたのは、前にも申し上げたように、日常の平凡な事象の中に鋭く「詩情」をキャッチされた豊かな感性、そしてその奥に見え隠れするやさしい心根でした。
それともうひとつ。
話が少々大袈裟のようですが、この「ビニール袋」の運命に、ふと現在の若者の姿を重ね合わせてしまいました。先だっての秋葉原や八王子等の事件にみられる「誰でもいいから」殺傷事件。彼ら犯人に共通して感じられるのは、誰からも心に留めてもらえないという孤独感、誰からも愛されていないという絶望感ではないでしょうか。
士は己れを知る者のために死し、女は自分を愛する者のために粧う、とか。もし彼らの身近な周囲に、親を含めて、そのような人間が一人でも居たとしたら、あるいはあのような悲劇は防げたかも・・・などと思ったりしています。そういう視点からも、この詩に注目した次第です。
 ところで、今回あのような新体詩風のものをひねってみて、しみじみ実感したことがあります。俳句や和歌の世界はべつにして、現代に生きる我々が真に「生きた詩」を創ろうとすれば、やはり「現在の生きた言葉」を使わなければ表現できないな、ということです。文語調、まして七五調では、やはり現代社会では無理があり、違和感を拭いきれません。

また例のごとく長いお喋りになってしまいました。今日はこの辺で失礼します。

投稿: くまさん | 2008年7月30日 (水) 22時41分

おキヨ 様
このたびは私のくだらない詩作にまで言及して下さいまして嬉しく存じます。「うた物語」でも貴方様のコメント、たのしく拝見いたしております。 (くまさん拝)
             

投稿: くまさん | 2008年7月30日 (水) 22時51分

くまさん様
はじめまして

私のコメントを読んでいただいて有難うございます。
大場様つながりの方々の大人のブログの端に置かせていただいて本当に嬉しく思っています。とりわけ仁木先生の〔うた物語〕は素晴らしいものがありますね。今後とも宜しくお願いいたします。

大場様 この場をお借りしてくまさん様にご挨拶申し上げました。

投稿: おキヨ | 2008年7月31日 (木) 01時04分

くまさん 様
 私の方こそ、本当はくまさん様と事前にお話しご了承を得てから御詩を公開すべきでしたのに、勝手に公開させていただき、深く感謝申し上げます。
 そして私が何より嬉しいのは、拙詩「ビニール袋」をくまさん様が本当に熟読して下さったんだなあということが、ひしひしと分かることです。私と致しましても、例えお一人でもこの詩をここまでお読みいただいたことに、この詩を作り公開した者としてこれに過ぎる喜びはありません。
 それに加えまして、くまさん様には拙詩を遥かに上回るような、格調高い詩にアレンジしていただきました。私個人の見解と致しましては、少し俳句をかじっているせいなのか「文語体の詩だから時代に合わない」ということはないと思います。以前若い女流作家が、現代的テーマを旧仮名遣いで表記した小説を発表して、話題になったことがあったように記憶しています。実際御詩を最初読んで、私はむしろ別の意味でフレッシュささえ感じたのでした。
 くまさん様例に出されました、最近の痛ましい事件。加害者の心を覆っている殺伐とした心象風景。おそらくそれは加害者のみならず多くの若者が共有しているものなのではないだろうか?と考えますと、本当に心痛む時代だと思います。
 「愛」という言葉が声高に叫ばれながら、その実は「愛なき世界」。それゆえの、一人一人の孤独感、絶望感…。6月初旬に公開致しました『聖フランチェスコの祈り』を、私自身もう一度噛みしめながら読み返してみようと思います。
 でも、くまさん様の深読みのような意図はありませんでした。ただ私はこの詩で「ビニール袋」をあえて擬人化することによって、無機質な物体に少し「生命」を吹き込んでみようかな?そして生命といわれるものの範疇をもう少し広げてみようかな?という意図はあったように思います。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月31日 (木) 02時03分

大場 様
 前回の私のコメントの中で、現代詩に文語調は似つかわしくないとお話したところ、早速貴兄より反論をいただきました。よくよく考えてみれば、これは全く仰るとおりで、素人の分際でずいぶん不遜な発言をしたものだと、ふかく反省をしております。と同時に、内心うれしく思っております。私自身古風な文体が大好き人間ということもありますが、礼儀正しい美しい日本人となるには、正しく美しい日本語が不可欠と思います。その美しい日本語の拠って立つ原点としては、結局、伝統的に正統派たる言葉、すなわち文語体というか古語といったところに行き着くのではないかという気がします。
的を得たご指摘に感謝申し上げるとともに、今後もご教示のほどお願い申し上げます。

投稿: くまさん | 2008年7月31日 (木) 13時45分

くまさん 様
 またまたのコメント大変ありがとうございます。今の時代「正しい美しい日本語」が、いろいろな分野で破壊されつつあるのではないだろうか?私は大変な危惧を抱いている一人です。
 以前記事として取り上げましたが、ブログ一つ取ってみましても、あるタレントの片言の言葉と絵文字をちりばめたブログが、何と1日23万余ものアクセスがあり、ためにギネス認定されたそうです。「言葉の破壊、崩壊」は文化、社会そのものの崩壊に即つながりかねず、私は深く憂慮しております。
 なお私個人としては、以前も述べたことがありますが、今の「ギャル語」「絵文字」などは、一つの文化現象として否定はしません。しかし例えば、夏目漱石、泉鏡花、志賀直哉…などといった、大文豪たちの彫心鏤骨の文業を想う時、私自身は決して使う気にはなれません。
 なお『ビニール袋・パートⅡ』に関して、嬉しいお知らせがあります。今晩の記事でご紹介できればと思います。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月31日 (木) 16時17分

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