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万物備乎我(1)

 「万物我に備はる」と読みます。
 古代中国の思想家・孟子(もうし)が著した『孟子(もうじ)』の中の言葉だそうです。孟子(BC372年~BC289年)は、中国戦国時代の儒家です。儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」などと呼ばれることもあります。

 孟子の母が、孟子を育てた時のエピソードとして、「孟母三遷」は有名です。孟母は、孟子の少年時代の居を墓地の近くから市場の近くへ、そこから更に学問所の近くへと移した。その結果、墓地の近くの時は葬式ごっこ、市場の近くの時は商売ごっこに夢中だった孟子少年は、学問所の近くに居を移したことにより熱心に学問の習得に精を出すようになった、という話です。子供の育成過程で環境がいかに大事か、という観点からよく引き合いに出されますが、どうやらこの話は史実ではないようです。
 しかしいずれにしても孟子が「十有五にして学に志した」祖師にならって、若くして「学問の道」を志したことはまぎれもない事実です。その結果やがて孔子の孫にあたる子思(しし)の門下の下で儒教を学び、他の門人たちを遥かに凌ぐ歴史的大学者へと大成していくことになるのです。

 孟子の中心思想に、有名な「性善説」があります。ごく簡単に申せば、「人間は生まれながらにして善なり」とする思想です。その後荀子(じゅんし・BC298年?~BC238年?)が孟子と真反対の「性悪説」を唱えましたが、孟子の性善説は儒教主流派の中心概念として多くの儒学者に大きな影響を与えることになります。(なお荀子も、孔子の流れを汲む儒家の一人ですが、その門下に韓非や李斯などがおり、「秦」による古代中国統一のバックボーンとなった「法家思想」に大きな影響を与えました。)
 特に孟子の思想は後世・南宋の朱熹(しゅき・1130年~1200年)の「朱子学」に受け継がれました。
 それが日本に渡り、江戸時代には朱子学は「官学」とされたことにより、『孟子(孟子が著した書)』の研究が盛んに行われました。中でも特に影響を受けた人物としては、伊藤仁斎(1627年~1705年)や幕末の思想家・吉田松陰(1830年~1859年)がおります。

 孟子関連の話が長くなりましたが。
 実はこの「万物備乎我」は、私の母校・山形県立長井高等学校の「校訓」でもあります。なぜなのか?その由来などを以下に述べさせていただきます。       (以下次回につづく)

 (付記) この記事をまとめるにあたりましては、フリー百科事典『ウィキペディア』などをだいぶ参考に致しましたこと、予めお断り申し上げておきます。
 (大場光太郎・記) 

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