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二木紘三のうた物語(3)

 私はあくまでも「二木先生へのお礼」が目的であり、最初のコメントだけで終わりにするつもりでした。
 しかしちょうど年末年始の時期で少し暇だったこともあり、『うた物語(以下「二木紘三のうた物語」をこのように表記させていただきます)』の各歌をじっくり聴いているうちに、『そういえば、『カチューシャの唄』を聴いたのが、最初だったよなあ。あの歌には誰もまだコメントしていなさそうだし。どれまたコメントしてみるか』。そんなことで年が明けた今年の1月5日に2回目のコメントを致しました。
 さすがに今度は、初めてのコメントよりは少し落ち着いて言葉を打ち込むことができました。そのようにして、その次は『別れのブルース』 『昭和ブルース』『サーカスの唄』 …。気がついてみたら、すっかりいっぱしのコメンテーター・モードに入っておりました。

 そうしてコメントを続けていくうちに、私の中で長い間眠っていた「物を書きたい願望」が、徐々に目覚めていったようです。とにかく私は、他のことならいざ知らず、「文章を書く」ということに関しては、並の人には負けない自信がありました。また私のプライドに賭けても、負けてはいけないとも。(なぜそんなにまで思うのかは、述べれば長くなります。また本記事の趣旨からも大きく逸脱致します。いずれ改めて、ご紹介したいと思います。)

 「敵を知り己を知らば、百戦危うからず(孫子)」 。私の独りよがりでは、ただ恥ずかしいだけです。ですから、その頃から時々に出される各人のコメントにも、特にじっくり目を通すようになりました。
 たいがいの人には『勝った!』と思いました。しかし中には、少しずつ私という存在が意識され出したのか、コメントの中身が明らかにグレードアップしてきた人が、2、3人おられ、私も時にハッとするような「光ったコメント」を寄せてこられます。私としては当面この人たちを、しっかりマークしていけばよいようです。

 このようにして、それらの人たちとの切磋琢磨とともに、少しずつ「欲」や「野心」という変なものが芽生えてきました。
 折角こうして「良質なコメント(?)」を出し続けているんだから、この際『うた物語』を日頃聴いている方々に、私・大場光太郎という存在を強くアピールしたい、という願望です。 (以下次回につづく)

 (注記) 私はこのシリーズ、当初はあくまでも『うた物語』の紹介だけにするつもりでした。ですから回数も多くて3回程度のもの。しかし書き始めていくうちに、『うた物語』と私との絡み合いも描きたくなり…。どうも少し長いシリーズ物になりそうです。今の時点では次回の稿も無く、いったい何回目で終わるのか?およそ私自身にも見当がつきません。
 一つの読み物として、気長にお付き合いくださればと思います。
 (大場光太郎・記)

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雑記」カテゴリの記事

コメント

甚だ辛辣なことを言う様だが、貴方は己が文章に
酔い過ぎている。

下手とは言わないが、感動するに至らない。。

投稿: 天声人語 | 2008年7月13日 (日) 20時11分

天声人語様
 貴重なご指摘、まことにありがとうございます。私は自分の文章に「酔う」ことのないよう、いつも「醒めた意識」でと、重々留意しているつもりなのですが。
 「酔い過ぎている」のは当ブログ全体にわたってなのか、それとも特定のこの記事のようなものを指しておっしゃられたのか?もう少し具体的にご指摘いただければ、ありがたかったです。確かに当記事では、私の文章力への自負を全面に出しすぎたきらいがございます。人間何ごとも、常に謙虚であらねばなりませんね。
 自分の欠点は(その文章スタイルも含めて)なかなか分からないものです。ご指摘いただいて、『ああ、こういうふうなご感想をお持ちの方もおられるのか』と改めて知ることが出来ます。重ね重ね、大変貴重なご指摘ありがとうございました。今後とも「酔い過ぎない文章道」を目指してまいりたいと存じます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月13日 (日) 20時36分

大場様のサイトにはじめてお邪魔させていただきます。一度ご挨拶をと思いながら、自信の体調不良その他の身辺雑事にかまけて、つい今日に至ってしまいました。このような立派なサイトをオープンされたことに、あらためて心から敬意と祝意を表させていただきます。
開設に当たってのご苦労話など拝見し、また日々の管理運営についてなにかと気苦労もおありかと拝察しますが、なによりも大場様ご自身のお心のままに、ゆったりと自由にブログを楽しまれるのが一番かと思います。
ご迷惑でさえなければ、こちらでも時折小生の気ままなコメントなどお赦し願えれば幸いです。

投稿: くまさん | 2008年7月16日 (水) 20時30分

くまさん様
 お待ち致しておりました ! コメントありがとうございます。
 決して「立派なサイト」ではありませんが、何とかおかげ様で、というところです。こちらもお褒めいただき、ありがとうございます。確かに開設前後、また開設以来二ヵ月半余、いろいろしんどいこともありました。しかしこうしてくまさん様はじめ多くの(?)方々のご訪問たまわり、そのことが何よりもそんなことを吹き飛ばしてくれる大きな励みです。
 もしよろしかったら、くまさん様も「ご自分のサイト」をお始めになりませんか?『うた物語』の左サイド下の「ココログ」あるいは「無料登録」から入られれば、「基本的な使用法」や「開設法」が分かります。ブログ初心者の私ができたのですから、くまさん様もきっとお出来になります。勿論今すぐとは申しませんが。そこでくまさん様が、どのようなお説やエッセイなどを述べられるか、楽しみです。
 後輩が、つい余計なことを申しましたが。そうやって相互訪問して刺激し合えればと思ったものですから。
 ところで『あの日にかえりたい』コメント、しっかり拝読させていただきました。いやあ、大変啓発される奥の深い内容でした。まさに「珠玉のコメント」です。そんな後に続いて申し訳ありませんが、いずれ私も同歌にコメントさせていただいてもよろしいでしょうか?
 体調不良とのこと。梅雨時から猛暑にかけては、以外にそうなりやすい季節かもしれません。こんなこと今さら申し上げるまでもございませんが、人間「健康第一」です。畏兄もご健康には十分ご留意されて、夏を乗り切ってください。
 いずれに致しましても、くまさん様の当ブログへのコメント、いつでも大歓迎です。またお待ち致しております。
 

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月16日 (水) 23時52分

大場様
 小生の「あの日にかえりたい」のコメントに対し、過分のお褒めの言葉を頂戴しましてまことに有難うございます。しかし「珠玉のコメント」には恐れ入りました。まあ、ひろい世間には大場様のような奇特(!)なご贔屓がいて下さるのをいいことに、また年甲斐も無くあのような青臭い議論など振り回したりしたような次第で。
私がインターネットなるものを始めたのは、つい2年前のことですが、ひと様のブログに投稿したのは二木先生の「うた物語」が最初でした。昔の懐メロをあれこれ探しているうちに、偶然「うた物語」を発見し、たちまちその演奏の美しさと、すばらしい「蛇足」に魅了されされました。やがてこのような素晴らしい演奏を「無料」で提供してくださる先生への感謝の気持ちを、私なりにコメントを通してお伝えできればとの思いから、諸先輩方の見よう見まねで、昨年の12月頃から始めたのが、そもそものきっかけでした。それ以来、なんら深い考えもなしに、思うままにいくつかのコメントを発信させていただいたのはご覧の通りです。
しかし、最近このコメントというものを、より慎重に考えるようになりました。つまり、コメントをするに当たってのマナーというか、節度というか、そういったことに少々思いを巡らすようになったのです。「うた物語」はなんといっても音楽サイトですから、主役はあくまで「うた」であり、mp3の演奏であり、先生の「珠玉の蛇足」です。当然ながら、それぞれのコメントはそのテーマに沿った内容、それも出来るだけ簡潔なものであるべきであり、また他の大勢の訪問客との調和ということにも配慮すべきで、それがビジターとしてのエチケットというものでしょう。いつか大場様もなにかの折に書いておられたと記憶していますが、なるべくさらりとした、軽いタッチのコメントが理想的と思います。その点で、私のコメントの多くは失格だと思っています。本旨から敷衍して自説を披瀝するのは、本来自分のブログにおいて展開するのが筋道ですから。
 ただ現在のところ、私としては未だブログを開設することは考えていませんので、甚だ厚かましい話ですが、このような場をお借りして、対話という形ででもお話させていただければ幸せだな、と思っている次第です。ですから、私のコメントについて、いささかでも不快に感じられたり、本ブログにふさわしくないと思われたらならば、問答無用、即刻削除して下さるようお願いいたします。
今日はこの辺で失礼します。この次には、「現し世考」について、私なりの感想を申し上げたいと思っております。
当地(富山県)も連日のうだるような暑さで閉口しておりますが、貴兄におかれてもどうかくれぐれもご自愛下さいますよう。 夏に弱いくまさんより

投稿: くまさん | 2008年7月19日 (土) 20時16分

くまさん様
 またコメント頂戴致し、ありがとうございました。いえいえ。あの表現は私の率直な気持ちです。私のみならず、そう思った方は多かったのではないかと思います。あのコメントで、また一段とくまさんファンがふえたのではないでしょうか?
 くまさん様の『うた物語』との最初の出会い、そして初コメントに至るまでの経緯など私と近似しており、共感を覚えました。『うた物語』は当ブログなどとはおよそ比較にもならないほどの、「国民的ブログ」です。コメント一つにしても、その影響たるや測り知れません。その意味で確かに、コメントの仕方には、しっかりしたマナーと他の方々への十分な気配りが求められそうです。
 例えば今回のくまさん様に続きました私のコメント。私にとりましてはどうということのない内容ですが、一般の方がお読みになれば、およそ理解に苦しむ「危ない内容」と受け取られかねないなあ、と発表前から思っておりました。ただこの時期誰かがどこかで一度は言っておかなければならない、何年かたって『そういえばかつて大場某があんなことを…』と例え何人かの人でも思っていただけたらと…。くまさん様には千載一遇のチャンスをいただき、感謝申し上げます。
 「ブログ開設の件」、くまさん様のお気持ち了解致しました。「野に遺賢なし」とか申しますが、くまさん様ほどの才能を野にいたずらに放っておくのはもったいない、こういう形式で世に発信されれば…とつい余計なことを考えたもので。その件は、思い立たれたらいつでも、ということで。とにかく当ブログ、もし活用できるものでしたら、どんどんご活用ください。
 なお当ブログにおいては、記事へのご感想なり、私へのご意見なり何なりとというスタンスです。私は余り度量の広いタイプではありませんが、出来るだけ誠意をもって対応させていただきます。私はご存知の通り、何の権威もありません。一介の「真理探究学徒」です。ですから時々に私がふと心でキャッチしました題材を、記事にして公開します。それに対して皆様の方で何かご意見、ご感想がありましたらコメントいただく。それに対して私が更に…というように、その時々のテーマについて、皆でよりよい結論に達していければいいかなあと、考える次第です。
 それゆえ、「反論のための反論」明らかな「私なり投稿者への個人攻撃」以外は、原則削除はしない方針です。とにかく先ずもって私自身の「心のキャパシティ」を広くもって、今後とも「開かれたブログ」にしていきたいと存じます。
 畏兄の「現し世考」へのコメント、楽しみに致しております。梅雨明け間近、いよいよ猛暑の夏をふ迎えます。私も寒い地方の出身で、近年の猛暑は本当に苦手です。ともども予想される酷暑を乗り切ってまいりたいものです。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月20日 (日) 02時14分

「現し世考」を拝読し、また諸先輩方のコメントに感銘を受けながら、私なりに考えてみました。

「現世」という言葉は面白い言葉ですね。これをゲンセまたはゲンゼイと中国読み(音読み)にすると、明々白々、嘘偽りの無い現実(真実)の世界ということになるし、これを「ウツシヨ」と日本読み(訓読み)でよめば、仮の世、露の世、幻の世ということになる。
ということは、私たちが生きているこの世界すなわち現世は、真実の世界でもあり、また幻の世界でもあると、まあ、こういうことなんですね。般若心経でいう「色即是空、空即是空」と、どこか似てますね。
ところで、俳諧の世界には「不易流行」という言葉があるとうかがっております。俳句の、とくに蕉風の俳句の心を理解するためのキーワードの一つとか。以下は私の勝手な解釈です。
「不易」とは万古不易、つまり永遠に易わることない普遍の世界を指し、「流行」とは一時流行、すなわち有為転変極まりない世界をいいます。しかし、この不易と流行は、実は一体のものとされます。
  よく見れば なずな花さく 垣根かな
「あら、こんな垣根のなかに何かと思ったら、ナズナの花じゃないか、ほほう。」珍しくもなんとも無い、ちっぽけなペンペン草の花。そんな小さな命でも、力いっぱい垣根にへばりついて生きようとしている。心のどこからかこみ上げてくる小さな命への愛情、いとおしさ。きっと芭蕉はこのちっぽけな花という「流行」の姿の中に、万古「不易」の姿を見たにちがいありません。いや、このような「流行」の姿の中にこそ、不易の世界が存在する。その思いを芭蕉はこの句に籠めたのでしょう。
 「遊びをせんとや生まれけん たはむれせんとや生まれけん 遊ぶこどものこゑ聞けば わが身さえこそ揺るがるれ」
ご存知梁塵秘抄の有名なこの歌。無心に、夢中になって遊ぶ子供の姿を見れば、どんな人間だって心を洗われ、優しい気持ちになりますよね。その子供たちも、やがて間違いなく大人になり、もはや無心に遊ぶ日が来なくなります。だから無心に遊ぶ遊ぶ子供の姿は「流行」そのもの。でも、良寛はその姿の中に、はっきりと「不易」の世界を観ました。いや、梁塵秘抄の編者である後白河法皇、あの政争に明け暮れた法皇も、実はひそかに垣間見たにちがいない。
 もう大分以前のことですが、あるラジオ番組で噺家の三笑亭夢楽さんが話しておられたことが今でも忘れられません。夢楽師の知り合いに身体の不自由なかたがおられて、その方の介護に家族が難渋していた時、あるボランティアの女性が、身内でもとうてい及ばぬ愛情をもって永年お世話をされたのですが、どのように謝礼を申し出ても、決して受け取ろうとはされなかったそうです。強い感動と深い感謝の思いをこめて、師匠が最後に口にされた言葉。
「私は神というものを信じません。しかし、その方が神だというのなら、私は神を信じます。」
その女性のボランティアという行為も、所詮は仮の世の一時の「流行」のすがた。でもきっと、夢楽師は、彼女の無私の姿に「不易」の世界を見られたのではなかったか。
 私たちが生きているこの世界が、「現世」なのか「移し世」なのか、正直言って私にはわかりません。ただ、どちらにせよ、ひとつだけハッキリしていることがあります。
私にとって、「愛」がある世界が「まこと」の世界です。
  露の世は 露の世ながら さりながら(一茶)

現時点での私の「現し世」観とは、まあこんなところです。明日になればまた考えが変わるかもしれません。どうもわたしの気分は一時「流行」なものですから。


投稿: くまさん | 2008年7月21日 (月) 11時44分

くまさん様
 この度のコメント、ありがとうございました。
 またまた大いに啓発される内容でした。このたびの御文への私の返信、かなり長いものになりそうです。そしてこのコメント欄だけにとどめますと、くまさん様の御文も含めて、ごく一部の方しかご覧にならない可能性があります。また当座何でも記事にしなければならない、私の事情もございます。
 そこで大変申し訳ありませんが、私の返信の主要部分は、しっかりまとめて記事として今晩遅く公開致したいと存じます。その旨、どうぞあしからずご了承下さい。
 なお今回のような貴重なご感想、ご意見今後とも賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月21日 (月) 17時21分

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