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2008年8月

碧野圭『辞めない理由』

 先ず皆様に、碧野圭(あおの・けい)という女流作家のことを、ごく簡単にご紹介させていただきます。
 碧野圭さん(と少し気安く呼ばせていただきます)は、現在48歳。今から3年ほど前それまで長くお勤めだった都内の某出版社を辞められ、少し遅まきながら女流作家としてのスタートを切られました。その最初に世に問われた処女作が、今回取り上げました『辞(や)めない理由(りゆう)』です。現在東京都在住。高校生2人を育てられている主婦でもあります。

 そもそも私は、日本文学は「三島由紀夫の死」をもって終わったと、勝手に思い込んでいるフシがあります。そのためそれ以降の現代作家の作品は、ほとんど読んでおりません。
 それがなぜ今回、碧野圭さんのこの作品を読む気になったのでしょう?実は碧野さんはつい先日まで、ブログにおける「ココログ仲間」でもあったのです。私が当ブログを開設した4月末から当初は、「ココフラッシュカテゴリー」の「身辺雑記」に絞って記事を投稿しておりました。当然その仲間たちのことが気になります。それで身辺雑記に記事を寄せられる何人かのブログに、立ち寄らせていただきました。そこで、何と「女流作家」という碧野さんの『ものを書く日々』を見出したのです。
 以来何日かおきに出される記事を、なるべく読ませていただいておりました。さすがプロ作家らしい、切れ味鋭い冴えたエッセイです。その都度大いに刺激を受け、私が最も注目しているブログの一つでした。

 それがどうしたことなのでしょう。7月上旬突然ブログの閉鎖を宣言され、その数日後に実際ブログは閉じられてしまいました。それまでは『プロの作家だからなあ、どうもなあ』とコメントをためらっていました。が、最後にお出しになった文に今までのお礼と共に直前にアーカイブ記事をプリントアウトさせていただいた旨のご報告などを致しました。その中で、「今後『辞めない理由』なども読ませていただきます」とお約束したのです。
 それで早速、本厚木駅前の有隣堂書店から同書を取り寄せてもらったはいいけれど…。日々の諸事、雑事でなかなか読み進まず。読了がつい一週間ほど前のことでした。

 前置きが長くなってしまいました。以下『辞めない理由』の読後感などを述べてみたいと思います。
 主人公は、某大手出版社に勤務する七瀬和美という37歳の女性です。バリバリのキャリアウーマンで、人気雑誌の副編集長という立場です。いかんなくその力量を発揮している場面からストーリーは始まります。しかしある時事態が暗転し、複雑な社内事情が絡んだ理不尽な理由によって、その地位を追われてしまいます。同じ頃ワーキングマザーでもある彼女に、小1の娘のことで学校でも難しい問題が起こります。七瀬和美にとって、のるかそるかの人生最大の試練の時です。苦悩の末彼女は、「辞めるわけにはいかない理由」によって、社内での厳しい立場に踏みとどまり、敢然と新しいチャレンジに挑みます…。

 歯切れの良い文体で、ストーリーも無駄なくテンポ良く進展していきます。時間にゆとりのある人なら、冒頭からこの本の物語世界にぐいぐい引き込まれ、気がついたら一気に読み終えているかもしれません。私は一日一章以下のペースでしたが、それでも何ヶ所かは(不覚にも)涙なしでは読めませんでした。
 碧野さんがそれまで培ってきた人生経験のすべてを投入したように感じられる、力作、感動作です。ご自身が出版界に在籍されていただけあって、『現実の出版界でも起こり得る話だよなあ』と、思わせられるほどリアルな作品です。それにビジネスの第一線で働く有能なキャリアウーマンの、男社会における立場の難しさ、苦悩などをクローズアップして問いかけた、意欲作とも思います。お奨めの文学作品です。

 この本の帯に、「誰か、テレビ局さ~ん、ドラマ化して!!!」という、大学講師の女性の切実なコメントがありました。矢島武弘様。どうでしょう?実力あるOBとして、フジテレビの後輩たちにお奨めになってみては。素人ながら、ドラマとして「成功間違いなし!」と思うのですが。
 最後に碧野圭様。私のコメントのご返信では、当ブログにもたまにお立ち寄りいただけるということでした。もしこの記事をお読みになりましたら、その時お願いした「貴ブログ再開の件」、もう一度前向きにお考えいただけませんでしょうか?

 (大場光太郎・記) 

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夏と言わんや秋と言わんや

    すじ雲と入道雲の空もよう   (拙句)

 きのうは東海地方や関東地方を中心に、広い範囲で突然の豪雨に見舞われました。地域によっては大きな水害に襲われたようで、被害に遭われた地域の方々には心よりお見舞い申し上げます。
 とにかく、最新の気象テクノロジーと気象衛星などからのデータを駆使しているはずなのに、その予報などいとも簡単に覆すほど突発的な大雨だったようです。このようなケースの大雨を、多分気象庁が名づけたのだと思いますが、「ゲリラ豪雨」というのだそうです。そう名づけたい気持ちは分かりますが…。「ゲリラ」というからには、気象関係者は時として「気象」を「仮想敵」と捉えているのかも知れません。
 
 それは、できれば止めてもらいたい捉え方です。「気象」という自然現象を、決して「敵」にしてはいけません。皆様も、「精神科学」を学んでいかれればお分かりになるかと思いますが。人類全体・国民全体の意識状態の総和は、気象にも如実に反映されていきます。もちろん自然災害などにも…。
 気象や自然を敵とみなしている限り、仏典が描く「五風十雨」の理想的国土は決して訪れないばかりか、「これでもまだ分からないか!」とばかりに、より「強い敵」となって人間社会に襲いかかってくることでしょう。
 皆様は『そんなバカな!』と、お思いかもしれません。しかし人類や国民が本当に「平和な心」になれば、近年特に問題になっている「異常気象」や「激甚災害」はピタッと止まるはずです。(そうならないということは…?)
                         *
 関東地方の当地でも、昨晩はもの凄い雨でしたが、本日はうって変わって、朝から快晴になりました。こんな日をもって秋晴れといってよいものやら、微妙なところです。もはや旧盆前までのような厳しい残暑ではないものの、それでもけっこう暑い一日でした。
 街では、日傘も復活しました。昼過ぎ街路を歩いていて、向うから日傘の女性が歩いてきました。すれ違いざまふと見ると、珍しく若い女性の日傘姿で、黒い日傘の陰の顔が一瞬白くてとても綺麗に見えました。

 近所の桜並木では、確かきのうまでは遠慮がちだったのに、きょうはまたうるさいほどの蝉声が復活していました。その並木の木下道を通った時などは、すぐ上の梢のどこかからミンミンゼミがつんざくばかりに鳴いていました。

 空はと眺めると、南空と中空はすでに秋の空で、うすく横にすじ引く幾つかのすじ雲が見られます。しかし目を東から北の方向に転じると、雲のようすはまるでさま変わりで。低い空から高空へ、真っ白なムクムクと盛り上がった大入道雲が連なっています。
そんな雲のさま一つを取ってみても、『今を夏と言わんや、秋と言わんや』と迷うところです。(但し夕方から曇りだし、夜半また一時大雨になりました。)
 (大場光太郎・記)

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しあわせ少女(4)

 開設以来、当ブログで既に150以上の記事を公開してきました。その中でも特に人気があるのが、6月中に公開しました「しあわせ少女シリーズ」です。今でも、一週間に数人以上必ず訪ねてこられます。当ブログの隠れた人気商品ならぬ、隠れた「人気記事」です。

 特にその中でも、しあわせ少女そのものに私自身の考えを少し加えた、『しあわせ少女(2)』。試しに「しあわせ少女ゆうかちゃん」をグーグルで検索してみますと、検索結果として約1万件の情報があります。その第1ページの上から2番目に、当ブログの同記事が載っております。ちなみに一番上は、(もう名前を出してもいいでしょう)ズバリ「お仏壇のはせがわ」です。
 やはりCMや街中の大ポスターで、あのゆうかちゃんの可愛らしい合掌姿に心惹かれて、ついついネット検索をしてみたくなるものなのでしょう。(再度ポスターをご覧になりたい方は、下をクリックしてください。)
            しあわせ少女ゆうかちゃん

 さて当ブログで人気がある記事がもう一つあります。何だと思われます?『そんなこと知るか!』ですよね。申し上げます。『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』です。
 こちらは「二木紘三のうた物語」の中の、『赤い靴』の私のコメントをお読みになり、心を動かされて当ブログの『実見記』も読んでみようか、と訪問される方々のようです。こちらも実は、「しあわせ少女」に勝るとも劣らない訪問数です。
 参考まで、「赤い靴の女の子の像」をご覧になりたい方は、下をクリックしてください。
            赤い靴はいてた女の子の像
 なおこの写真は、仙人様の『心の居間Ⅱ』からのものを使用させていただいております。仙人様は、当ブログ開設当初からほぼ毎日のように訪問してくださり、時に暖かく時に厳しく、この至らない私を見守ってくださっておられます。この場をお借りして、深く感謝申し上げます。

 共にキーワードは「少女」です。一方は数千人の応募の中から選ばれた、「超しあわせ少女」。他方は童謡『赤い靴』で知られているとおり、岩崎きみちゃんという親元を離れて幼くして病死した、薄幸の「超不しあわせ少女」。(そして私の下の妹・菊子も)
 考えてみれば不思議です。「超しあわせ少女」と「超不しあわせ少女」が、当ブログで甲乙つけがたい隠れた人気になっている…。どうしてなのでしょう?よくは分かりませんが、「しあわせ少女」の方からは、少しでもその幸せのおすそ分けをと願い、方や「不しあわせ少女」には憐憫の情禁じ得ず、思わずもらい泣きして…ということなのでしょうか?

 ともすれば、お互いが別個別個にまるでヤドカリのように、自分たちだけの狭い殻に閉じこもり、そこ以外とはコミニュケーションを拒絶しているかのような「冷たい社会」。
 もちろん「戦う心」を中核にすえている男共は、ハナからダメ。かといって、今が盛りの10代、20代の美女でも、色香ただよう美熟女でもなく。まるで年端もいかない、いたいけない「少女の力」。今の殺伐としたこの時代に、意外にも「少女」は強い訴求力を持っているのかな?などと、適当なことを考えてしまいます。
 (大場光太郎・記) 

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東京オリンピックの思い出(3)

 私にとっての『今の世の中どうも変だぞ』という感覚は、東京オリンピックなどはそのほんの端緒に過ぎず、それ以降どんどん強くなっていきました。社会全体が巨大な龍のように、「物質的な豊かさ」を求めてうねりをあげながら突き進んでいきました。
 今振り返って申しますが、それは私とはまるで波長の合わない社会でした。いくら合わせようと努めても、不器用な私には肝心の部分でどうにもこうにも調子が合わなくて、とにかく困りました。そんな具合ですから、この私は中学高学年の頃既に、この社会の落伍者であることが確定していたようなものでした。

 『このまま世の中との折り合いがつかず、めちゃくちゃなままオレは終わるんだろうなあ』と、今回の人生全部を棒に振る覚悟でおりましたら。ある時から、『おっ。少しずつ波長が合い出したかな?』と感じられるようになりました。
 今振り返りますと、きっかけはあの「バブル崩壊」だったようです。あの出来事によって、あっという間に、この日本から約1000兆円もの金が失われたと言われています。(それは元々バブル・泡だったのだとも言えます)。皆様、それがどれくらいの損失か想像がつきます?それは例えてみれば―大正12年9月1日に起きた「関東大震災」の被害総額が、今の時価に換算すると約100兆円になるそうです。そうしますとバブル崩壊時、この国に関東大震災クラスの巨大地震が、同時多発的に連続して十個も起きたことになるわけです。

 当時の日本社会全体にとって、いかに衝撃的な出来事だったかが分かります。ですから日本全体、金融、経済など各分野でその建て直しに四苦八苦し、その後遺症は今日にまで尾を引くことになります。
 それは、あの昭和30年代半ば以降、「豊かな社会」を目指して先祖伝来脈々と受け継いできた農耕社会をかなぐり捨てて、欧米型の工業社会を目指して猪突猛進してきた戦後ニッポンへの、「天の鉄槌」ではなかったかと私などは思います。
 その結果この国は、以後どんな経済政策を実施しようとしても、「不景気」のスパイラルから脱出せないように見受けられます。しかしものは考えよう。バブル以前の狂乱状態こそが、「自然の法則」からすれば完全に異常だったのであり、むしろ今のこの状態の方が少しはまともになってきたとも言えます。だから「不景気」は「普景気」。世も人も「夢よもう一度」などとは、決して考えないことです。

 とにかく。社会全体にとっては大変不幸な出来事のおかげで、私は少し息を吹きかえすことができたのですから、皮肉といえば皮肉です。「変り者」が少しは見直される時節になってきたのです。

 もう媚びなくてもいいのですよね。(略)これからは本音の時代が来ますから、良い子をやめることですね。人から良く思われようなんて、いっさい考えないことです。
 (略)変人というレッテルを貼られたらしめたものです。やりたいことが、本当にやれますからね。                (足立幸子著『あるがままに生きる』より)

 バブル崩壊以降、社会全体も国民も少しは「モノの豊かさだけじゃあダメなんだ」ということが、実感として分かってきたのではないでしょうか。
 「モノ、カネ主体の価値観」が必ず行き詰るのなら、ではどうすればいいのでしょう?それとは別の価値観への転換を図る以外ないわけです。別の価値観、それは「精神的、スピリチュアルな価値観」です。モノとスピリチュアルとのバランスです。その探求が今やっと、その端緒についたばかりです。この社会も各個々人も。  ― 完 ―

 (大場光太郎・記) 

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東京オリンピックの思い出(2)

 とにかくただの一度もテレビ観戦しようとしない私を、寮内の人たちはいぶかしがり、それが決定的なキッカケとなって、私は「変わり者」のレッテルを貼られることになりました。(中学2年の初冬頃からその兆候は出ていました)。今から思えば変わり者どころか、とんだ「非国民少年」といったところでしょう。
 千載一遇の国威発揚の晴れ舞台で、国民全体がこぞってその大成功を願い沸き立ち、各競技の日本選手に熱狂的な声援を送っているというのに。独り山形の片田舎町の15歳の少年のみは、それに背を向けて「我関せず」とばかりに、自室に閉じこもってごろんと寝転びながら読書三昧なのですから。それでも、学校の勉強ならまだ許せます。しかし実際は、およそ学校の成績に直結しそうにない、その時お好みの一般読書に耽っているのですから。

 だから、昭和39年10月10日の国立競技場における、大快晴の歴史的な開会式のもようも、東洋の魔女・女子バレーチームのソ連との決勝戦での死闘も、裸足の聖者・アベベのマラソンでの走りも…。オリンピック期間中は全く知らず、後で市川昆監督の映画『東京オリンピック』を観たことで、ようやくその一端を知ったくらいのものでした。

 何で15歳の少年が、そんなにまで依怙地になって東京オリンピックを意図的に避けたかったのでしょう?
 当時中学3年だった私には、自分自身の心できちんと論理立てられるわけでも、ましてや他の人にうまく伝えるすべなどはありませんでしたが。逆に、純粋な田舎少年であったればこその「直観」とでも申しましょうか。内心では、『世の中どうもおかしな方向に進んじまっているんじゃないのか?このまま突っ走っていって、日本はホントに大丈夫なのか?』という、漠然とした危機感があったのです。多分、オリンピックのテレビ観戦拒否も、その延長線上の行動だったと思われます。

 15歳の私が、当時の政治的な状況、社会状況などほとんど知る由もありませんでしたが。
 その4年ほど前の60年安保闘争の騒乱はありながら、結局我が国はアメリカの安全保障の枠内に更に深く組み込まれることを選択しました。直後総辞職した岸内閣の後を引き継いで池田勇人が首相になり、「所得倍増」というスローガンのもと「高度成長経済政策」が実行されることとなりました。それまで数千年間続いてきた農耕型社会から、工業型社会への社会構造の根本的な転換政策でした。
 詳しいことなど何一つ解らないながらも。そのような社会を丸ごとひっくり返す政策転換は、時ならずして全国津々浦々にまで何らかの形となって具体的に波及してくるわけで。余波を確かに感受して、当時の私には、そのシンボル的イベントととして「東京オリンピック」が映っていたのかも知れません。   (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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東京オリンピックの思い出(1)

 8月23日、17日間にわたって繰り広げられた北京オリンピックが閉幕致しました。当初懸念されていた大規模テロも起きず(局地的小規模なものはあったようですが)、無事大成功裡に閉幕し、国の威信をかけた中国政府と関係当局は大満足、大安堵といったところでしょうか。

 『そういえば今回のオリンピック、ほとんど見なかったよなあ』。まさにそうなのです。開会式も閉会式も、北島康介の金二冠の泳ぎも、宿敵アメリカを破った女子ソフトボールの決勝戦も…。ほとんど生中継では見ておりません。後でテレビのニュース番組等で逐次その結果だけを知った程度です。
 業務のことと当ブログのことでそれどころではなかった、ということがやはり大きな:原因です。しかしそれ以外にも。オリンピックそのものが回を追うごとにショー化されビジネス化されています。そのことによって、クーベルタンが提唱した近代オリンピック本来の精神がどこかにいってしまい、競技自体をつまらないものにしている部分があることも否めません。それに当今は、わざわざ四年に一度の世紀の祭典を待たずとも。サッカーならワールドカップが真の王者決定戦だろうし、野球も本当のチャンピオンはアメリカのワールドシリーズの優勝チームだろうし。その他柔道でもマラソンでも水泳でも、年に何度も大きな国際大会が開催されているんだし…わざわざ注視して視る必要性も感じないわけなのです。(以上は、あくまで私だけの考えです。)

 北京オリンピックへの私自身の距離感のことを考えながら、私は今から40数年も前の昭和39年の「東京オリンピック」のことに思いが及びました。
 当時私は中学3年生。私と同じくらいに若々しかった戦後日本が国際社会に本格デビューするのに、東京オリンピックは絶好の檜舞台だったに違いありません。その世紀の大イベント成功のために、何年も前から周到な準備を重ね、会場となる各施設はもとより首都高や都市景観全般など、首都・東京の整備が急ピッチで進められたと聞いております。

 今だから告白致しますが。この私は、国民全体が熱狂したに違いない、あの世紀の祭典に当時全く関心がありませんでした。実は私は、同オリンピックをただの一度もテレビ観戦していないのです。
 当時お世話になっていた母子寮には、その1、2年前から集会室に(白黒)テレビが設置されていました。それで夜のゴールデンタイムなどは、寮内の人なら誰でも好きなだけテレビを視ていいことになっていました。だからオリンピックを視ようと思えばいくらでも視られたのです。事実寮内のお母さん方も子供たちも、オリンピック期間中は特別昼夜なく集会室に集まり、テレビ観戦に熱狂していたようです。時折り、だいぶ離れた当家にあてがわれている部屋にまで、廊下を伝って大歓声が聞こえてきたほどでした。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

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          オイゲン・クロアサン

  けふつくづくと眺むれば
  悲(かなしみ)の色口にあり、
  たれもつらくはあたらぬを、
  なぜに心の悲しめる。

  秋風(あきかぜ)わたる青木立(あをこだち)
  葉なみふるひて地にしきぬ。
  きみが心のわかき夢
  秋の葉となり落ちにけむ。

           (上田敏『海潮音』より) 

    …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》 

 日常的な何気ない景色の中に、ふっと季節の推移を感じることがあります。この詩の場合は、それが秋であるわけです。ちょうど今頃の初秋の候でしょう。
 秋色。悲秋。それゆえ誰か他人がつらく当たっているわけでもないのに。秋の訪れを心が感じてしまったがゆえに、心が独り悲しんでいるというのです。

 この詩に限らず、そういうことってよくありますよね。私たちの心は、外界の事象の印象から喜怒哀楽を感受するのですから。

 心が既に秋を感受してしまったがゆえ。見ればまだ青木立なのに、それに吹き渡る風はもはや夏風ではなく「秋風」です。その「滅びの秋」の予兆の風に、葉なみさへ震えます。
 そのさまを見て、詩人の心は目の前の景色を飛び越えて、人間の普遍的、不可避的とされる考察へと飛躍します。すなわち、
    きみが心の若き夢  
    秋の葉となり落ちにけむ。

 「きみ」とは特定の誰かでしょうか。それとも若者全体を代表させた人称なのでしょうか。あるいは客観視した詩人自身なのでしょうか。

 いずれにしても、その「若き夢」はやがては秋の落葉のように朽ちてしまうだろうというのです。その時に到れば、「若き夢」=「落葉」。これは人類全体の心の奥深くに潜む、深い悲愁であり詠嘆です。
 (但し天邪鬼な私は、この人類共通の通念に大いに異を唱えたいと思います。それは、いずれまた別記事にて。)

 (大場光太郎・記) 

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処暑

    けふ見れば露置く草でありにけり   (拙句) 

 きょう8月23日は、二十四節気のうちの「処暑(しょしょ)」に当たります。ここで先ず「二十四節気」とは何か?ということになりますが、これにつきましてはいずれ一文を設けたいと思います。ごく簡単に申せば、一年を二十四等分した区切りの日であるということです。 
 そのうちの一節気である処暑は、中国の古書に「処は上声、止なり、暑気の止息するなり」とあるそうです。つまり暑さが収まる頃の意味で、昼間はまだ暑い日が続くものの、朝夕は涼風が吹き渡る初秋の候をさしております。

 通常慣用的に「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。日本の四季的実感からすれば、これは確かにその通りでしょう。しかし今年に限って言えば、上記の処暑の定義がそのまま当てはまるような、昨今の気候の推移となりました。

 当地では、一昨日の8月21日の夕方が大きな変わり目だったように思います。

 その夜7時を少し回った頃、厚木市内での所用を済ませて帰路につくべく車に乗り込みました。それまで晴れて暑かった空がにわかにかき曇り、という表現がピッタリの何やら怪しい雲行きです。案の定走っている間向かっている北の方向の低い空が、時々ビカッと大きく閃光しています。その辺りの暗雲が丸ごと夜空に浮かびあがるような怪光です。光りのまん中には、その辺の空を切りさかんばかりにギザギザな稲光り。それが断続的にピカッピカッ。やや間があって、ドドーンと雷鳴。にわかに雨も落ちてきました。それが例の中津川側道のころには本式に激しくなって、雷鳴も心なしかより大きくより近くなっているようで。『まさか、オレを標的にしてんじゃないだろうな』。車中という閉じ込められた空間で、時にそんな心細い思いもよぎりつつ。怪光、雷鳴、滝のような大雨という三重苦の中を、ほうほうの体でやっと我が家にたどり着きました。

 今年の当地は以前にもお伝え致しましたとおり、例年にもまして大気不安定な夏でした。特に夕方以降の雷鳴、大雨はしょっちゅう。珍しく停電が二回もありました。

 以来きのうは終日曇り。そして本日は昼過ぎ頃から雨となりました。おかげでそれまでの暑さは一気に収まり、涼しさを通り越して本当に秋冷といった感じです。

 午後近所を歩きますと、雨に濡れて風に吹かれて、つい先年整備された遊歩道の花々は早秋草の風情。道の辺の雑草の細長い葉には、雨滴が小さな白露となってびっしりと。名もない雑草さえかくも秋の趣き。そして草むらのどことも分からない所からは、何を訴えるのかか細い虫の声。

 なお冒頭の拙句の「露」は、秋の季語です。

 (大場光太郎・記) 

関連記事
『二十四節気について』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post_c386.html

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マリアへ少女の祈禱

              リルケ

  これは私が自分を見出す時間だ。
  うす暗く牧場(まきば)は風の中にゆれ、
  凡(すべ)ての白樺の樹皮は輝いて、
  夕暮れがその上に来る。

  私はその沈黙の中に生い育って、
  多くの枝で花咲きたい、
  それもただ総てのものと一緒に
  一つに調和に踊り入る為め……
     *      *      *
  夕暮れは私の書物。花緞子(はなどんす)の
  朱の表紙が眼もあやだ。
  私はその金の止金(とめがね)を
  冷たい手ではずす。急がずに。

  それからその第一ペエヂを読む、
  なじみ深い調子に嬉しくなって―
  それから第二ペエヂを更にそっと読むと、
  もう第三ペエヂが夢想される。
     *      *      *
  誰が私に言ひ得る、
  何処(どこ)に私の生が行きつくかを。
  波として池に住むのではないか。
  また私はまだ春に蒼白く凍ってゐる
  白樺ではないか。

            (茅野 蕭々訳)
   
    …… * …… * …… * …… * …… * ……

  《この詩の思い出》
 この詩は、高校3年の時の現代国語の一学期の授業で習いました。私はこの詩の授業中、およそ考えられない素っ頓狂なことをやらかしました。その思い出を以下に述べさせていただきます。

 授業でこの詩を一読した途端、私の中でインスピレーションのようなものが溢れ出してきたのです。新任して間もない若い男性教師の話などそっちのけ。私はその溢れる想いを、あたかも霊現象でみられる自動書記のように、次から次へとノートに書き記していきました。言葉は途切れることなく、次々と。ノート一面が私の下手くそな字でほぼ埋まった頃、やっとその流れは止まりました。
 それを自分の中だけにしまっておけばいいものを。私は咄嗟に「先生!」と挙手し、「この詩に今思いついて感想を書いてみたので、読み上げてもいいでしょうか?」という意味のことをズーズー弁で。先生は寛容にも、即座にオーケーしてくださいました。こうして私は、先ほど記した感想をクラス全員に向かって読み上げたのでした。

 さてその内容はどんなものだったのか?今となっては、皆目思い出せません。ただ読み終わって着席すると、先生は「いやあー、大場君。凄いじゃないか。こんな感想を書かれたら、国語の教師上がったりだよ」というようなことを言われました。
 これはあながちお世辞だけではなかったようで、卒業も差し迫った頃、この先生から年一回発刊の学校の機関誌に、卒業生代表として一文を書いてくれないかと依頼されました。(400字原稿用紙10数枚。但しこの時は、すらすらとは書けなくてウンウンうなりながら。30代の頃恥ずかしくなって、その機関誌ごと処分しました)。頭の良い連中には頼めなかったのでしょう。何せ彼らは、大学受験のことでそれどころではなかったでしょうから。

 今改めてこの詩を読み返してみますと、『あの時何であれほどのインスピレーションが湧いたんだろう?』と、本当に不思議です。確かに良い詩だとは思いつつも、その時のような溢れる想いは湧き上がってこないのです。
 そんな今の自分でも、頭の中でこねくりまわせば、この詩への感想は書けるでしょう。しかし止しましょう。18歳の自分に笑われそうですから。(なお教科書に載っていた詩は、全く同じながら、新仮名遣い、漢字がひらがななど若干表記が異なります。今回は、岩波文庫版『リルケ詩抄』を用いました。)

 (大場光太郎・記)  

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万物備乎我(6)

 最後に、私自身の拙い所見を述べさせていただきます。

 「万物備乎我」―万物我に備はる。
 この中の「我(われ)」とは、素直に生身の自分自身と受けとめて良いと思います。肉体人間としての私たちは、身長たかだか2mにも及びません。それに生老病死の四苦を免れそうにもありません。時に日常的な諸問題にあたふたしてしまうこともあります。こんな卑小とも思われる私たち人間の中に、「万物が備わっている」というのです。この場合の万物とは、「森羅万象皆悉く」と言い変えてもよいでしょう。何という心鼓舞される、気宇広大かつ深遠な教えなのでしょうか。
 私はこの言葉は、古今の高等宗教の教えの核心部分と、あい通じるものではないだろうかと思います。さまざまな宗教的な教えの中で、これに類似した教えが説かれています。思いつくだけでも、

  「一切衆生皆仏性」「無一物中無尽蔵」            (仏教の教え)
  「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」                (仏教系団体の教え)
  「神の国はここに見よ、かしこに見よというようなものではない。
   神の国は、あなた方の(心の)ただ中にあるのだ」   (イエスの言葉)
  「あなたが(世界そのものである)ブラフマンなのだ」   (ヒンドゥー教の教え)
  「我即神也(われそくかみなり)」              (新宗教系団体の教え)

 上記のような言葉は、一応頭の中の知識としてとどめておくだけでも、全く知らないよりは意義のあることです。しかしそれらをいくら知識として知っていても、四苦八苦の苦悩を克服できるものでも、人生に時に訪れる難問に賢明に対処できるわけでもありません。
 昔道元禅師が、「竿頭を一歩越えざれば(悟りには到れない)」と言ったそうですが、それを実際の生きた智慧にするには、単なる「頭脳智」から全身全霊で理解する「生命智」への飛躍がどうしても必要なようです。そのため禅家では、「公案」という日頃の頭の考えがぶっ飛びそうな奇想天外な質問を投げかけたり、日常茶飯事に「静中の工夫」「動中の工夫」を探ったり致します。

 あるインドの聖者が、「ブラフマンとの合一を果たすには、どうすればいいのでしょう」という弟子の質問を受けました。その聖者は以下のことをうまずたゆまず実践していけば、必ず合一に達するだろうと答えたそうです。
      1 聖典の学習
      2 祈りと瞑想の実践
      3 聖者、聖友との交流
      4 無私の奉仕の実践

 浅学の私が思いますに、どのような宗教的実践法、行法も究極するところ、上記の4項目のいずれかに帰着するのではないでしょうか。
 それに致しましても。私たちは、今生でか幾生先でか幾十生先でかに、「万物備乎我」等の心内の大荘厳世界を、必ず体得できるようにプログラミングされている生命体であるようです。(そのような理(ことわり)を悟得することこそが、特定の宗教者のみならずこの世で生きている全ての人にとっての真の目的なのであり、その余のことは全て手段でありプロセスである。これに気づいていない分だけ、低い世界での「六道輪廻」を繰返すことになる…。)
 これを思う時、私たちをかく在らしめている「大いなる存在」に、深い感謝を捧げずにはおられません。   ―  完  ―

(大場光太郎・記) 

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万物備乎我(5)

 私の母校の校訓でもある、「万物備乎我」(万物我に備はる)。
 ちなみに私は、この言葉を「ワード機能」の斜めのある書体の大活字で印字致しました。そしてそれを、外出時にたいがい携帯しているノートの、表紙を見開いたページの最上段に貼り付けております。
 このノートは、かつて知って覚えていた「名言」「励ましの言葉」あるいは「自己宣言文(アファーメーション)」などで埋め尽くされております。外出し時間の空いた時に、このノートを取り出して少しでも読むことによって、生来怠惰で愚鈍な自分自身を鼓舞しようというのが目的です。

 ここで母校のホームページの中に、この言葉の校訓としての意義について述べてありますのでご紹介致します。
 
 出典は「孟子」の「萬物皆備於我矣」で本校創立以来の訓えとなっている。題字は犬養木堂翁書で現在も校内に掲げられている。人間は誰もが自己の内に限りない創造発展の力を内蔵している。これを自覚し本校に学びながら日々精進すればそのすばらしい力が必ず引き出されるという意味である。

 この中の「人間は誰もが自己の内に限りない創造発展の力を内蔵している」との説明は、「万物備乎我」を簡潔に説明していると思います。
 人間に元々備わっている「無限力」を確信していたがゆえの、孟子の「性善説」だったのではないかと思われます。孟子はしかし、ただ何の努力もせずにその「善」が発揮されるとは説いておりません。本来の善を善たらしめるためには、普段の精進努力が必要なのだと説くのです。前に述べました、犬養道子の講演の中の、心を「culture(耕作)」することの必要性と、あい通じるものがあるようです。
 
 そこに、「教育」の必要性もまた存在するように思われます。教育は英語で「education」。その元になった動詞「educate」には、「引き出す」という意味があるようです。つまり子供たち(のみならず人間全般)の中に潜在している「無限の創造力=善」をうまく引き出すお手伝いをするのが、本来の教育の役割であるということになります。
 そこで前掲説明文では、「本校に学びながら日々精進すればそのすばらしい力が必ず引き出されるという意味である」と結ぶわけです。しかしいくら母校といえども、これは少し我田引水的結論ではないかなと、私は率直に思います。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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少年時代のトリックスター

 昭和35年、私が小学5年の初秋頃。お世話になっていた母子寮に、一人の男が訪れました。(『北帰行』が一般に広まる前でしたから、確かその年だったと思いますが、あるいは翌年だったかもしれません。)

 東京から来た人ということでした。今思えば、流れの興行師といった人だったでしょうか。40代くらいの中肉中背、ダンディな感じの人だったと記憶しています。その人が、集会室でその夜手品をしてくれるというのです。私たちは、楽しみに待ちました。
 その人が、夕方寮の玄関近くで遊んでいた私たち小学生何人かに、「町内を一回りしてくるけど、一緒に行かないか」と誘ったのです。滅多に乗れない車ですから,一も二もなく乗せてもらいました。途中ある店で停まって、お菓子を買ってもらったりして、帰りました。
 
 その夜寮内のお母さん方、子供たちが集会室に勢ぞろいして、その人が繰り出す手品に熱狂しました。特に度肝を抜かれたのは、探していたトランプが、指名されて立った友人の、あるはずのない、ワイシャツの胸ポケットから出てきた時でした。一同びっくり拍手喝さいでした。

 その人は去っていきました。その後、拍手喝さいした手品のトリックが、ばれてしまいました。友人があっさりばらしたのです。車で町内を回って、途中で車を降りた時、その友人はいくらかの小遣い銭をもらって、ポケットにトランプを忍ばせるのを引き受けたというのです。それ以外にも、寮内のあるお母さんを口説いた…。
 その人が去った後の評判は、あまりいいものではありませんでした。

 しかし、良いものを一つだけ残していってくれました。『北帰行』の歌です。
 手品が終わって子供たちが引き上げてから、その興行師とお母さんたちによる懇親会が催されたそうです。その時、「こういういい歌があるんだが」といって黒板に歌詞を書いて、お母さんたちが覚えるまで、指導してくれた…。
 おかげで、この歌は寮内全部に広まりました。私も、母からか先輩からか教わって、すぐ覚えました。素直に良い歌だと思いました。子供のくせして、「♪さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か」などと口ずさんでおりました。

 だが、これにも裏話があります。その人は、「この歌は、私が作った歌だ」と言ったというのです。これにはまんまと騙されました。私も『違う』と分かったのは、ずっと後になってからのことです。
 その人にしてみれば、『どうせこんなとこ、二度と来ないんだ。その場さえうまく取りつくろえりゃあそれでいいんだ』てなもんだったのでしょう。
 
 しかし、二木先生の『星影のワルツ』での解説のように、この人も東北の片田舎町を転々とどさ回りしている我が身の境遇を、『北帰行』に重ねて、本当に歌と同化していたのかも知れず。表向きの口八丁、手八丁は世を渡るペルソナ(仮面)で、実は夜宿屋で寂しく独り酒を呑んでこの歌を口ずさんでは、「涙流れてやまず」だったのかも知れず…。

 今改めて聴いてみて、『本当に良い歌だなあ』と再認識致しました。
 私にとって、北は「望郷の方位」です。

 (『北帰行』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)

 (大場光太郎・記)

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秋の兆し

    秋色(しゅうしょく)の兆し探して遊歩かな   (拙句)

 旧盆も過ぎて、少しずつ秋の気配が感じられる季節になりました。
 たとえば夜中10時頃近所の通りを歩いていると、つい先日までは桜並木などを通ろうものなら、夜蝉の声がうるさいほどでした。しかしここ何日かは蝉声はすっかり影をひそめ、代わって草むらの方からすずろに虫の声が聴こえてきたりします。

 そんな時中空には月が掛かり、時に薄い横なびきの雲間を通しまた時に雲を出て煌々と。月がなぜ秋の季語であるのか、振り仰ぐ者に日々にその意義を明瞭に示しつつあるかのようです。
 その柔らかな光りの下(もと)、すぐ近くの空き地の一隅に、月見草の淡黄色の小さな花の群生が認められます。そのさまは、年々狭められゆく当地の自然界の、はかない抵抗の姿のようで…。

 きのう17日は当地では曇りがち、夕方は雨になりました。それと共に、前日までの暑さはウソのように単なる涼しさではない、秋冷がはっきりと感じられた一日でもありました。
 本日は朝から、うって変わっての大晴天でした。炎帝の勢い再び盛り返した具合の、日射しの強さではあるものの、季節の移ろいはもはや隠しがたく。昼過ぎ近所の通りを歩いておりましたら、今年初めての赤とんぼが一匹、とある駐車場の上をすいすい飛んでおりました。
 もっとも『なぜ一匹だけなの?』と、思わないでもありません。何しろ私の郷里・山形の田舎町では、うんと子供の時分には、秋の夕空を覆うほどに赤とんぼの群が飛んでいましたので。ただ少し同情的に類推すれば、今はまだ本式の赤とんぼのシーズンではなく、この一匹だけは「とりあえず人間界のようすを探って来い」と、赤蜻蛉界(あかとんぼかい)から偵察を仰せつかって来た斥候のようなものなのかも知れません。

 その他にも、秋を感じるものとしては。当住宅地の飛び飛びの田んぼも、今では一面の青田状態で、まだ青いものの立派に穂が稔っており、その丈の長さといいもう一丁前の稲穂といった感じです。また並木の桜葉群(はむら)に、既に黄色く色づいた幾葉かが認められたりします。
 時にまだまだ暑さに閉口しながらも、そこここに秋の気配が感じられるきょうこの頃です。

 (大場光太郎・記) 

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東京ビッグサイト(6)

 船井幸雄著『エゴからエヴァへ』の中で、同書の基本的な要点がうまく述べられています。以下に何点かをピックアップしてご紹介したいと思います。

(1)宇宙のすべての存在物には、意識と意志がある。なぜなら原子核を構成している中性子が意識で、陽子が意志だからである。 
(中性子=意識=調和, 陽子=意志=愛)
(2)あらゆる存在、あらゆるエネルギー、物質は固有の振動をし、振動波を出している。
(3)人間はもちろん、すべての存在の本質は、原子核の集合体である。原子核は陽子と中性子でできており、原子核の周辺を多くの電子がくっついて回って原子となっている。
(4)この世では、人間は「本質」と「ボディ(肉体)」で構成されている。
(5)「本質」のことをEXA PIECO(エクサ・ピーコ)といい、それは「魂」といってもいいが、原子核の集合体のことと考えてよい。
(6)すべての存在の目的は、EXA PIECOのスタディである。
(7)人間のEXA PIECOの原子核の和は、調和のとれた決心をするだけで増え、不調和な発信や行動により陽子や中性子がゆがんでしまう。(それが我々の病気の根本原因である)
(8)EXA PIECOのスタディの方向は、より深い「愛」とよりすばらしい「調和」である。競争とか奪い合いは間違った方向である。
(9)地球も生命体である。いま地球のEXA PIECOが、現在地でのスタディを終えようとしている。近々より上位の星に変わろうとしている。(いわゆる地球の「次元上昇」のこと) この動きは、もはや止めるわけにはいかないようである。

 なお、船井氏の『エゴからエヴァへ』というタイトルも、足立育郎氏の情報に基づく「宇宙語」だということです。すなわち、
 「EGOH(エゴ)」とは、ある惑星の住人の集合意識が、「エゴ、対立、競争」をベースにしている社会のこと。それに対して「EVAH(エヴァ)」とは、集合意識が「愛、調和、互恵」をベースにしている社会のことだそうです。
 地球自体が「エヴァの星」として新生しようとしている今、その住人である私たちも「エヴァ的生き方」を身につけることが、必須条件だというのです。そうでなければ、新地球の波動と波長が合わなくなって、生きていけなくなるからです。(今は、そのふるい分けのプロセスと見ることができます。なお、人類全体の集合意識のレベルの向上により、「ハルマゲドン」という大破局は回避出来たようです。)

 足立氏のセミナーでの内容も、おおむね『波動の法則』に沿ったものでした。8:30頃、これ以上新情報はなさそうだと判断し家も遠いし、大変申し訳ないことながら中座致しました。こうして東京ビッグサイトを後にし、帰路についたのでした。  ― 完 ―

(追記) 思いもかけず先日のエスカレーター事故により、今回こうして皆様に以上の情報を提供させていただくことができました。私としては、この上ない喜びです。時に舌足らずで、時に言いすぎて、皆様に誤解ご不快をお与えしたかもしれませんこと、お詫び申し上げます。私は以上述べましたことを、絶対視するつもりはありません。今後また折りをみて、通りいっぺんに述べました個々のことにつき、より掘り下げた記事を公開できればと存じます。皆様もご意見ご質問などありましたら、お気軽にどうぞ。共々理解を深めていければと思います。 

 (大場光太郎・記)

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東京ビッグサイト(5)

 夜7時過ぎ、いよいよ最後の足立育郎のセミナーを聴くべく、会場に向かいました。それは一階フロアー全体を会場にしたような、広い会場でした。ゆうに1000人以上は入っているようです。私は前から1/3くらいの列の右寄りの席につきました。

 足立育郎(あだち・いくろう)は、1940年東京生まれ。早稲田大学第一理工学部建築学科卒業。1968年、樹生建築研究所設立。1990年、形態波動エネルギー研究所設立という経歴の人です。当時56歳くらい、長身痩躯、長髪には白髪が目立ち、学究肌という印象の人でした。
 創立以来の自由な校風がそうさせるのでしょうか。とにかく早稲田大学は、各分野の異色の人材を際立って輩出させる大学のようです。その中でも足立育郎は、異色中の異色の人物と言えます。何しろ公然と「宇宙人」の存在を認め、地球滞在中という宇宙人に会うためカナダまで飛んで行ったり、それのみか宇宙人とのテレパシックなコンタクトにより「宇宙情報」を得ているというのですから。

 そのそもそものキッカケとなったものは―。建築設計という専門の仕事を通して、「直観的にものを創る、創造する、クリエーションする」というのはどういうものかということについて、常に考えていたのだそうです。そして解ったことは、「創造」は論理を組み立てるプロセスを経て、創造的なものが生まれるのではない、本当に大事な部分は、直観で閃いたそのキッカケみたいなものであるということだそうです。その閃きを、後で整理し直し体系化することによって具体化していくのではないのかと。
 更に「直観」「閃き」というものは何なのか。それを探っていった結果、それはどうやら「波動」と関係があるのらしい。「波動」でもってそれが何らかの形で周波数、波長といったものと同調し、一体化するという形で情報が入ってくるのではないか?と感じたそうなのです。
 直観、閃きを研ぎ澄ますために、何年間も瞑想を実践したようです。そのようにして、普段は絶えず動き回る「顕在意識」を鎮めるレッスンを積み重ねるうちに、直観力はどんどん磨かれていき、遂には高度な宇宙人による「宇宙情報」をキャッチ出来るようになった、と言うのです。

 その成果を一冊の本にまとめたのが、『波動の法則』という本だったのです。この本は類書にありがちな、参考文献というようなものは一切用いず、ただそうして得られた宇宙情報のみで成り立っている驚くべき本なのです。つまり営々として積み重ねられてきた、地球の文化的成果を、むしろ邪魔なものとして排除しているということなのですから。
 その情報源は、惑星連合から30%、銀河連合から20%、他の50%はプレアデス人やカシオペア人からの情報とのことです。何れも、地球人より何千年から何万年も進んだ文化を有する星人たちからのメッセージなのだそうです。

 PHP出版がこの本を出版するに当たっては、内容が内容であるだけに「当出版社がこんな本を出版して、本当にいいのか?」と、社内で侃々諤々(かんかんがくがく)の議論になったそうです。しかし最終的に、1995年12月出版に踏み切り、結果的に数万部の売り上げとなったという経緯があったようです。

 なおこの本の製作に当たっては、足立氏や森眞由美女史らの綿密な作業により、各ページ毎に「波動調整」がなされ、最初から最後まで読みきることにより(顕在意識の理解の如何に関わらず)、読む者の「本質」が大きく意識変換されるようになっているそうです。
 この本の情報について船井幸雄は、「90%以上は真実の情報だと思われるが、数%は疑問をもっています」と述べております。私の判断でも、おおむねそんなところです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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終戦記念日に思うこと

 8月15日。満63年目の終戦記念日です。思えば、63年はずいぶん長い歳月です。あの戦争を直接体験された方々は、ご高齢化されあるいは次々に世を去られ、戦争体験が語られることが年々少なくなり、そのうち若い世代から、「えっ。日本は昔どっかの国と戦争したんだ?で、どっちが勝ったの?もちろん日本でしょ」というのようなことにもなりかねません。
 かく言う私からして、かつての戦争も終戦の日もその後の戦後の混乱期も、何一つ知らないわけです。戦争や終戦を語ろうとする時、私自身まずこのことを謙虚に思い致さねばならないと思います。

 63年前のちょうどこの日。終戦の報すなわち天皇の歴史的な玉音放送を聴いた国民は、戦争の捉え方によって各人各様の感懐があったのでしょう。極めて少数の人は自決さえしました。しかし多くの国民は、その前からうすうす日本の敗戦を予感しており、それまでの閉塞感からようやく開放されたと感じたのではないでしょうか。
 それが極まって、吉本隆明(詩人、思想家。当時は学生)のように、当日の抜けるような青い空に、何か得体の知れない虚無の裂け目を感受したという、何やら戦後日本全体を予見したような人もいたようですが。

 それにしても、余りにも多大で悲惨な代償を払った果ての終戦の決断(連合国からのポツダム宣言の受諾)でした。東京を始めとする米軍機の爆撃による全国主要都市の焦土化、広島・長崎での原爆投下による死者・20万人以上、死亡軍人230万人、死亡民間人80万人…。(数字はいずれも推定)
 あの戦争を主導した軍部などの当時の指導者には、確たる見通しもないまま「神国思想」「皇国史観」という神秘思想をより所に、戦争に突入していった感が否めません。日米の国力の差を冷静に分析検討し、出来れば戦争回避を、無理ならば早期の終結を…と唱えていたのは、山本五十六連合艦隊指令長官(昭和18年4月18日撃墜死)ら海軍首脳の一部だけ。
 以前の日露戦争の時の児玉源太郎のように、戦争に全責任を負う立場の指導者の中に、開戦前から戦争終結までを見通していた真の戦略家が存在しなかったということでしょう。

 今にして思うことは、時局を戦時色一色に染め上げていったのは、何も陸軍首脳部など一部の勢力だけではなかったということです。当時の新聞等のマスコミも大政翼賛的に戦時体制を煽り、何より忘れてならないのは、国民の多くがその方向性を支持したということです。いくら軍部の力が強大であっても、国民世論の圧倒的多数が「戦争絶対反対」であれば、戦争は回避出来た可能性が高いのです。
 そのように一方の極から他方の極へ、あっという間に振れやすい国民性。私はつい数年前のイラク戦争の時に、その恐さを垣間見た思いが致しました。加えて、近年のナショナリズムに傾斜しやすい傾向性。そして私や私より若い「戦争を知らない」世代のトップリーダーたちの間から、「太平洋戦争擁護論」や「核武装やむなし論」が出ていることに、大変な危惧を感じます。
 (大場光太郎・記)

 (追記) 本記事とは関係ありませんが。8月15日深夜0:30過ぎ確認致しましたところ、拙詩『死者たちを想う季節の中で』が、ココフラッシュ「詩カテゴリー」の「ディリー部門」第1位になっておりました。くまさん様の『ビニール袋・パートⅡ』以来の快挙です。
 最初にコメント下さいましたBianca様、そして皆様の同詩へのアクセスの賜物です。大変ありがとうございました。

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のちのおもひに

                 立原 道造

  夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへった午(ひる)さがりの林道を

  うららかな青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
  ―そして私は
  見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
  だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
  
  夢は そのさきには もうゆかない
  なにもかも 忘れ果てようとおもひ
  忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには

  夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
  そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
  星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

 《私の鑑賞ノート》

7246

 立原道造(1914年~1939年)。東京生まれ。旧制一高を経て、東京大学建築学科卒業。堀辰雄に師事。病気療養のため、信州追分を度々訪れた。師の影響から抜けようと模索するさなか、24歳で夭折。

 山形の田舎町の高校生にとって、立原道造の詩にはなぜか響き合うものを感じました。高校2年の冬頃、角川文庫の「立原道造詩集」を買い求め、一時期夢中で読みました(同詩集は、今でも大事に持っています。)

 とりわけこの詩は、当時の私の青っちょろいロマンチシズムにぴったり適い、ひとりでに口をついて出てくるほどに読み込んでいたことが、今懐かしく思い返されます。

 不思議なほど澄明な詩です。夭折の詩人の、汚れや破綻がどこにもない、極めて純度の高い「奇跡のソネット(十四行詩)」といった感じがします。

 東京で生まれ育った生粋のシティボーイ。そして時代の知的エリートの最たる一人であったはずなのに。なぜ「夢」がいつもかへって行くのは、「山の麓のさびしい村」なのだろう?そもそも詩のタイトルの「のちのおもひに」の「のち」とは「何ののち」なのだろう?そしてこの詩における「夢」とは何なのだろう?

 特別難解な言葉を駆使しているわけでもない、それゆえ読み易いこの詩は、実は専門の建築設計のような他の追随を許さない緻密な精神工程を経た精華のようで。今なおいかなる解釈も拒み、ただ純粋にこの詩を読むことだけを求めているかのようなのです。

【補注】

水引草(みずひきぐさ) タデ科の多年草で、晩夏から初秋にかけて咲く。

7248
(水引草)

草ひばり 草雲雀。直翅(ちょくし)目クサヒバリ科の小形のコオロギ。体色は淡黄褐色で黒褐色の点や帯紋がある。雄は昼間からフィリリリと高い声で鳴く。(「コトバンク」より)

72410
(草雲雀)

日光月光(にっこう・がっこう) 奈良市薬師寺の薬師三尊のうち、中央の薬師如来の左右に控える日光菩薩、月光菩薩立像のこと。

7249
(薬師寺の薬師三尊像)

 (大場光太郎・記)

参考 
信州の街道探訪 -北国街道 (追分宿~小諸宿) http://www.ktr.mlit.go.jp/nagano/sinsyukaidou/hokkoku/oiwake.html

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死者たちを想う季節の中で

  死者たちを想う慣わしの季節の夕暮れ
  小洒落(こじゃれ)た街を
  人々が絶えず行き交う。

  人は今 滅びも死をも想いはせず
  目先の歩くという行為に夢中だ。
  ただただ「生きる」ことのみに捧げられた
  この社会の目的が
  立派に成就されたからだ。

  そこで人々は この国に初めて与えられた
  繁栄のきらびやかな装いを
  思い思いに身にまとう。
  豊かさがいついつまでも続くものと
  信じきっている表明のように。

  しかしその実誰もが
  絶えず何ごとかに急かされている。
  身ほどには装われることのない心は
  種々雑多な想念でぐちゃぐちゃで
  だからこんなにも慌しげに
  行き交っているのだ。

  想念同士が心の中で互いにぶつかり合い
  とにかく前へ、ひたすら前へ。
  「死」という忌まわしい魔物を振り払うために
  「生(せい)」は つんのめってでも前に進むことを
  この社会の人々に絶えず要求するのだ。

  生に寄り添う死の豊かな養分を拒み
  生のみを光りのみを求め続けて。 それゆえ
  この夕べ 通りを吹き抜ける涼風(すずかぜ)に
  季節の移ろいを深く感じることも
  行き交うお互いへの共感を抱くこともなしに。

  まして遠き死者たちとの交感など
  何一つ味わいつくせず
  己自身のケチくさい生の妄念に呪縛されながら
  意味喪失の社会の 意味なき通行人として
  ただ歩き続けているだけなのだ。

  だからこの国には死者たちが占めるべき
  名誉ある場所は年毎に失われてゆく。

  昔から還ってくると信じられたこの季節
  死者たちは確かに還って来ているのだろう。
  されど還って来ても落ち着ける場所とてなく
  何処(どこ)かを哀しくさ迷っているのだろう。

      (平成4年8月作の改作―大場光太郎)  

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東京ビッグサイト(4)

 大型スクリーンに映し出されている、船井幸雄のパワー溢れるお話には惹きつけられました。しかし大勢の人に囲まれてではあまり集中できず、私は途中でその場を後にしました。そして再びワークショップの場に行き、先ほど気になっていた本を買うことにしました。
 その本は足立育郎関係ブースにあり、二冊買いました。一冊は足立氏本人の著作(既処分済みらしく、今となってはタイトル名も思い出せません)と、もう一冊はその妹さんの足立幸子の本です。
 ワークショップを出て時刻を見ますと、夕方4時過ぎ。そういえば私は、その日は朝から食事をしていないのでした。渡されたプログラムでは、次に聴講したい足立育郎のセミナーは夜7時過ぎからのようです。それまでだいぶ時間があります。そこで一階の喫茶室に入り、何か軽食とコーヒーを頼み、しばらくそこで時間をつぶすことにしました。

 喫茶室で私は、早速買った本を読み始めました。二冊見比べてみて、足立幸子の本の方が読みやすそうなので、そちらを読みました。
 本のタイトルは『あるがままに生きる(七賢出版刊)』。今も手元にありますが新書版の大きさで、なかなか美しい装丁です。表紙をめくると最初の数ページは、足立幸子自身が描いたという、「宇宙波動アート」などの紹介です。極めてシンプルな色やタッチで描かれた、不思議な感じのする絵です。次にある知人による「はしがき」。それにより、足立幸子という私より3歳ほど年上の人は、もうこの世にはいないことを知りました。
 本文は、足立幸子生前のある時の講演の内容を、ほぼそのまま再現したもののようです。この本は、大きな書店の「スピリチュアルコーナー」で今でもたまに見かけることがあり、未だに根強い人気があることを示しています。

 ページ数も200ページ強と読みやすい本ですが、目からウロコがポロポロ落ちる類いの内容です。出来ましたら皆様にも是非ご一読いただきたいと思いますので、内容については触れません。一言で言えば、「新時代の生き方ガイドブック」といったところでしょうか。今回改めて要所をたどって読んでみましたが、今でも十分通用する新鮮な内容です。
 ご参考のため、兄である足立育郎氏の「あとがき」の中の驚くべきことをご紹介致しましょう。それによりますと、足立幸子は地球人としてのスタディと役割を終えて、自らの意志で、より大きな役割のために自分の星(プレアデス星団のタイゲタ星)に戻ってしまったようだ、というのです。ちなみにプレアデス星団は和名を「昴(すばる)」といいます。古来「昴の七人娘」と言い伝えられてきたとおり、主要な7つの星で構成されている、地球から450光年ほど離れた星団です。同星団の中心星を「アルシオネ」といい、「タイゲタ星」は5番目の星にあたります。

 私自身はそのような情報に接しても、その頃も今も何の抵抗もなく受け入れられる―そんなメンタリティの持ち主です。でも、これをお読みの皆様には、まさに驚天動地の情報かも知れません。なおプレアデス星団と我が太陽系には、更に驚くべき情報があるのですが…。それにつきましては、皆様がそのような情報をもスンナリ受け入れられる段階になられた、と私が判断した段階でということで。
 これをお読みになり、『こんな内容のブログは、もうゴメンだ!』という方がおられませんように。とにかく「今この時」は、何ごとに対しても「オープンハートの時代」ですから。     (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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東京ビッグサイト(3)

 午後最初のセミナーに参加しました。東京ビッグサイト内の何階かの会場です。前にステージがあり、観客席が後部ほどせり上がっているけっこう広い劇場タイプの会場です。
 私は開演間際に駆け込みました。既にいっぱいの人でほぼ席は埋まっています。そこで中間通路を通って反対側まで行き、その少し前の列の壁よりの席にやっと空きを見つけて座りました。ステージ中央に演壇が設けられており、その袖に立って会場内をじっと見渡している人が、今回の主役の人のようです。森眞由美。ズングリした体型ながらキリッとした顔立ちの女性で、当時40を少し過ぎたくらい。私より数歳は若い人です。
 しかしこと「精神的進化度」に関しては、肉体上の実年令は全く関係ないようです。例えば(極論ながら)70歳でも「通過すべき100の扉」のうちやっと10番目の扉にたどり着いたような人もいれば、10代ながら既に98の扉は通過しており、後2、3の扉を開ける経験をすれば「地球卒業」のような人もいるのです。
 
 森眞由美は、コリン・ローズという人が提唱している加速学習法の実践家であり、船井氏や足立育郎氏との交流を通して、その著書である『直観で生きる(PHP出版刊)』の言葉を借りれば、「何千年もの学び」や「多次元的な情報の吸収」を極めて短期間のうちに体験したと言う人です。また同女史は、『波動の法則』の製作に重要な立場で関わった人であることから、私は最初にこの人のセミナーを受けることにしたのです。
 確かお話の中で、「今この会場内の「宇宙との調和度」は○○です」と、当時の一般社会レベルよりもだいぶ高い数値を示されました。残念ながらそれ以外に、今ではその時の内容は思い出せません。

 森眞由美に限らず、船井幸雄のこのイベントに賛同したリーダーたちには、共有している見解があったようです。それは要約すれば―
 (1)近未来、資本主義システムは終焉を迎える。それゆえ、それに変わる全く新しい原理やシステムを提示していかなければならない。
 (2)今の時代は人類史上というより地球史上でも、かつてないほど重要な時代である。近未来、人類は「新しい進化のステージ」を迎えそうである。
 (3)その準備として、今目覚めている一人一人がさきがけの「百匹目の猿」となって、周囲や社会に好影響を及ぼしていかなければならない。
というようなことだったと思います。

 森女史のセミナーが終わって、次がお目当ての船井幸雄自身の講演でした。しかしいざその会場に向かってみると、既にいっぱいで入場打ち切りのようです。仕方なく私は一階大ホールに戻って、そこの大型ビジョンに映し出された船井氏講演の中継を、溢れかえるばかりの人だかりの中でしばしの間見入りました。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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新涼(2)

    新涼の川面の灯影(ほかげ)揺れてをり   (拙句)

 夕方4時過ぎ、北隣町の愛甲郡愛川町中津の某会社に伺いました。
 私の住居から北へ数百メートルも行くと、東西に走る道路を境に、それまではびっしり住宅が建て混んでいるのが、それから先はウソのような田園風景に変わります。その道路が、市街化区域と調整区域の境なのです。
 しばらく田んぼの中を突っ切って、数年前に造られたゆったりした車道を走ります。右も左も見渡す限りの青田が広がっており、たまにぽつんぽつんと(調整区域内に、専業農家の長男家にのみ建築が許可された)住宅やこんもり繁った木立が点在するのみです。

 とっくに雨は上がっていますが、全天を薄白い雲が覆っています。遠くの景ほど霞んでおり、遥か遠くの大山の姿は全く見えず、わずかに重畳たる丹沢の一番手前の小高い峰の連なりのみがうっすらと認められるだけです。
 「霞み」や「夏霞み」はあれど、「秋霞み」という季語はなく、秋は「霧」となります。しかしきょうのような場合は、どう見ても霧ではなくやはり「秋霞み」です。いえ、秋とはいってもそのとば口で、木々の葉が色づいているわけでもなく、あの春の霞みのさまを眺めているような錯覚すら覚えます。

 走るほどに緑豊かな田舎道の景色です。分けても、中津川の橋を渡る時などは。何度か近所の中津川のことは記事に致しましたが、ここはそのだいぶ上流になります。川の流れそのものは狭く、そのため川一面が青々とした草に覆われているような感じです。そんな緑をただ眺めるだけでも、心が落ち着きます。少し下流では、浅瀬に入り込んで鮎を釣っている人の姿も見受けられました。
 川の上流右岸側の、遠近(おちこち)の小山の連なりの墨絵ぼかしのようなさまは、さながら一幅の山水画の趣きです。

 橋を渡りきって左折して少し川側の道を走り、少しずつ川から離れていきやがて曲がりくねった上り坂です。その両側に高い木々が繁り、到る所からミンミン蝉もアブラ蝉も、かまびすしいほどの蝉声が聞こえてきます。本当にこの時期、蝉はその短い命の限りにと、昼も夜中も鳴き通しです。
 その坂を上り終えると街並みが始まり、目指す某社は後少しです。
 
(大場光太郎・記) 

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新涼(1)

 昼食を済ませてテレビを見ていました。時折り外でピカッと閃いてやや間があってドカーンと雷鳴が続きます。家の中もにわかに暗くなり、この分では閃光と雷鳴を繰返しながら、そのうち大雨になりそうです。
 見ているのはNHKの『バラエティー生活笑百科』。皆様よくご存知かもしれませんが。毎週2つの身近な法律問題を、先ず上方漫才コンビがコントを通して問題提起し、それにレギュラー回答者の上沼恵美子などやゲスト回答者が答え、最後に弁護士が正解を述べるという番組です。司会の笑福亭仁鶴の名仕切りや、時々のコントはともかく。「大阪城が自分の家だ」とか「淡路島は自分の所有地だ」というような上沼恵美子の大ぼらトークが面白いうえ、三瀬顕など弁護士先生の解説が分かりやすくて、ほぼ毎週くらい見ています。
 私も一応法律家のはしくれとして、この問題は法律的には特に民法上はこうだろうと推論しながら見ております。しかしお恥ずかしいながら、その推論が間違っていることがけっこう多いのです。そんな時三瀬先生などの、民法第○○○条からしてこの問題はこういう結果が導き出されるという説明は、分かりやすくて勉強になります。

 同番組もそろそろ終わりに近い頃、またピカッと閃光が走ったと同時に、スイッチがカチッと切れて画面もスウーッと消えてしまいました。暗いので点けていた部屋の照明も。また停電です。ここ何年も停電なんてなかったのに、今夏はこれで二度目です。
 今回は5分、10分、20分過ぎてもずっと回復しません。回していた扇風機も勿論動きませんから、部屋の中の蒸し暑さがたまりません。こういう場合、私は扇風機レベルですからまだ我慢できます。しかし普段からクーラーをガンガンかけている、ハイグレードなご家庭はさぞや大変でしょう。

 ピカッと光ってドカーンと来るのが、だんだん短くなってきました。台所の隅の冷蔵庫の天辺に、以前ご紹介しました子の方の猫(といっても10歳)が寝そべっていました。だがさすがに、閃光のつどビクッとしたように首を回して、何ごと?と外の様子をうかがうようす。この猫は猫一倍(?)警戒心が強いのです。そしてある時間髪を入れずに、ドカーンと大音響が轟いたのにはたまらず。慌てて下に降りて、陰の部屋の安全だと思われる所を探して逃げていきました。
 そのうち案の定、ザーッと大雨が降り出しました。それと共に家の中に、スーッと冷気が入り込んできました。今夏の場合このような雨を繰返すうちに、少しずつ残暑が和らいでいってくれるのでしょうか。かくあらんことを!

 (大場光太郎・記)

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東京ビッグサイト(2)

 東京ビッグサイトでのそのイベントは、船井幸雄が企画立案し、それに当時の錚々たる「精神世界の」トップリーダーたちが賛同集結し、その各人がイベントの中でセミナーを担当してくれるもののようです。そして参加者たちは入場料の何千円かを払えば、どのセミナーにも好きなだけ参加できるというようなものでした。

 私は当日朝早くから、お台場の東京ビッグサイト目指して移動しました。小田急線、山手線そしてどこかの駅で新交通ゆりかもめに乗り換え、途中いくつかの駅に停車し。当日は良く晴れた夏休み中の週末とあって、ゆりかもめ車中は乗客でいっぱいでした。やはり子供づれの家族が多かったと思います。
 明るい陽光の下、車窓から通り過ぎていく東京湾の風光などを眺めながら…。午前11時頃、目指す国際展示場正門駅に着きました。少し歩いて東京ビッグサイトへ。歩くにつれてその大きな外観が目に飛び込んできました。その形状といい、見た感じの素材的なものといい、何やら時代の先を行く超モダンな、それでいてどこか硬質で冷ややかな感じがする建物だなあという印象を持ちました。

 しかしその時の私は、この建物を見に来たわけではありません。その中で繰り広げられている、各セミナーに出席することが目的です。
 駅からの道々も、建物の外にも、そして入り口の受付で入場料を払って当日のプログラムを受け取り、中に入っても。とにかく押す押すなの人の群です。夥しいそれらの人々は、私と同じでこの日のイベントのために、どこからともなく集まってきたのでしょう。その頃では、感情的、メンタル的に少し鍛えられていたからいいものの。20代の頃だったらこんな人の波の中に入ってしまったら、それこそ周りのネガティブな気をモロに受けて、気分が悪くなりどこかにしゃがみこんでしまったことでしょう。

 思えば、船井幸雄は当時60代前半。あの頃が、船井氏のパワー全開の時だったのではないかと思われます。その直前同氏は、関係者の間で大評判になった『エゴからエヴァへ』を、PHP出版から発刊したばかりでした。私は直前にこの本と、同時くらいに同じPHP出版から発刊された足立育郎の『波動の法則』を読んだことが、イベント参加の決め手になったのでした。
 ともあれ。すべては船井幸雄という人の人間的魅力、パワーが、数千人をゆうに越えているであろう多くの人々を、この場所に引きつけた原動力なのは間違いないようです。

 もう10余年前のことです。その日の私自身の行動は、詳細には覚えておりません。午前中お目当てのセミナーはありませんでした。そこで先ず一階に設けられた、ワークショップをだいぶ長い時間かけて見て回ったのだと思います。
 特設の各ブースに、所狭しと各商品などが陳列されていました。いわゆる一般の方々にはなじみのない、「精神世界関連商品」の類いです。例えば、波動グッズ、自然食品、健康器具、アルファ波誘導装置…といった。中には欲しいものがありましたが、何せ失業中で懐がさびしくもあり、遠くまで帰るのに荷物になるのもイヤだし。結局私は、そこではただ眺めるだけの時間つぶしをしていました。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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けふ立秋

    立秋の街行く人の後ろ影   (拙句)

 きょう8月7日は「立秋」です。ですからこの日を境に季節は「秋」ということになり、ご存知のとおり「暑中見舞い」は「残暑見舞い」になります。
 とは申しましても、これはあくまでも暦の上でのことです。本日昼過ぎ所用で外出致しましたが、外に出た途端日差しのまぶしいこと! 見上げる空の色は極まったような深い青色で、雲一つない中空のど真ん中に、太陽が容赦ない炎熱を地上に、いえこの私に浴びせかけています。日向と日陰のコントラストも際立ってくっきりしており、『この暑さは今夏一番じゃないの?』と思われるほどでした。

 午後2時半過ぎ、今度は建設業関係届出を提出すべく厚木市内に車で向かいました。 その前に、厚木警察署と隣接する神奈川県厚木北合同庁舎内の厚木県税事務所で、同届出の添付書類である法人事業税の納税証明書の交付を受けます。その交付を受けてから、途中のコンビニ店で何枚かそれをコピーし、原本は正本に写しは副本に収めて、手回し良く持参したホッチキスで止めて、提出書類の完成です。今度はいよいよ目指す、神奈川県南合同庁舎の何階かの建設業担当窓口です。
 同じ県の機関なのに、246号線を挟んで直線距離で数百メートル離れて北合庁と南合庁。『一つに統合してくれれば、一ヶ所で済むのによぅ』とグチッてみても。これは私が当地に来た昭和40年代前半以降ずっと変わらないことですから。
 同庁舎入り口付近に車を停めて、時計を見ると午後2時56分。『急げ!』。出先機関であるここの受付は、毎週木曜日の午後3時で終了なのです。

 エレベーターを待つのももどかしく、とにかく担当部署にすべり込みセーフ!
 そのコーナーには、担当の人が机の向うに座って、本を読んでおりました。幸い他に人はおらず、即受付OKのようです。
 この人は県の正規職員を定年退職して、今春から臨時職員としてこの建設業窓口担当に着任してきた人です。何回も来ていますから、もうスッカリ顔なじみです。堂々たる体躯で、まだパワー十分といった温厚な感じの人です。しかしメガネの奥の目が時にキラッと光ることがあり、『ミスはどんなものでも見逃さないよ』と物語っているようです。思うに、現役時代は有能なお役人として、その力量を存分に発揮していた人なのでしょう。

 無事チェックが終わり、変更届の正本と副本の第一面の上の空欄に赤いスタンプで県の大きな丸い収受印がポンと押されて、副本が返却されて受付完了です。
 担当のその人は私と共に立ち上がりながら、窓の外に広がる東の抜けるような青い空を見やりながら、
 「外は暑いんでしょ?車で来たの?」
 「ええ車です。きょうなんか、車に乗り込む時が特に大変でしたよ。窓を締め切ってましたから、開けて中に入った途端熱気がこもってて蒸し風呂状態で。ホントに暑いですよねえ。きょうはもう立秋だというのに」
 「ああそうか、きょうは立秋かあ。でもこの暑さまだ当分続きそうだねえ。まあ気をつけて帰ってくださいよ」

 役所での用を終えて、次は依頼主の会社に向かいます。この届出の必要書類として同社の直前の確定申告書原本を預っていますが、それが急に必要になったから至急返して欲しい旨の電話が、出る直前にあったのです。同社は、飯山温泉の手前の自然豊かな集落の中にあります。
 途中246号線の信号待ちで、対面側角のビルの壁面に、例のお仏壇のは○○わの「しあわせ少女ゆうかちゃん」(ポスターをご覧になりたい方は「」クリックのこと)のデッカイ看板が認められます。看板の中のゆうかちゃんも、『おじさん。暑いけどボーっとしないで、安全運転で気をつけて行ってきてね』と言ってくれているような。
 6月中の『しあわせ少女(1)~(3)』は、私自身気に入っている記事の一つです。
 
(大場光太郎・記) 

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東京ビッグサイト(1)

 つい先頃、東京ビッグサイト内のエスカレーター事故のことが大きく報道されました。テレビでその都度、エスカレーター付近のようすやその外観が映し出されました。私は『そう言えば、オレもだいぶ前あそこに行ったことがあったんだよなあ』と、懐かしく画面を見ていました。
 今回シリーズで、東京ビッグサイト(東京国際展示場)を訪れた時のことなどを述べてみたいと思います。
                          *
 今から12年前の平成8年の8月のことだったと思います。
 当時私は、7月末で直前の会社を辞めて失業中の身でした。転職癖があった当時の私の悪いクセで、辞めたはいいけれど、その先何をするという明確なプランなど何もなく。かといって先々のことをさして深刻に思い悩むでもなく。9月のある日『そうだ。行政書士の資格を活かせないだろうか!?』と閃くまで、まだ脳梗塞で倒れる前の母の小言などどこ吹く風とばかりに、光太郎ならぬ全く光らないプー太郎状態で過ごしておりました。(母が翌年6月に倒れたのは、私のそういう親不孝生活の心労が重なったせいであることは明らかです。)
 そんなある日雑誌か何かで、船井幸雄(以下人名の敬称略)という人が主催する大きなイベントが、8月中のある週末に行われるということを知ったのです。会場は都内はお台場の東京ビッグサイトという建物らしい。『どうせヒマなんだし』とばかりに、私は行くことを即決しました。

 「船井幸雄」という人については、ご存知の方も多いかもしれません。1933年(昭和8年)大阪のとある神社の神主の子息として生まれ、京都大学農学部出身、卒業後主に経営コンサルタントを業とし、その後自分の会社を設立し、(株)船井総研を経営コンサルタント会社としては日本で初めて株式一部上場させた人物です。顧問先会社は国内外で数千社にものぼるそうです。
 これだけの簡単な経歴紹介でも、第一線で活躍するバリバリの企業家としての像が浮かび上がってきます。事実そのとおりなのですが、もし氏が単にそれだけだったら、私は氏に対して全く何の関心も示さなかったでしょう。
 氏には経済人、企業家とは全く別の側面があり、そのゆえにこそ私は20余年前から船井幸雄という人に注目していたのです。

 なお余談ながら。私はテレビなどが「時の人」として、いくら大々的に取り上げても(いやむしろ、取り上げれば取り上げるほど)私はそれだけではその人物を過大評価することはまずありません。
 私が「有名人」を評価する基準は、大きく二つあります。その一つは、その人が「意識レベルが高い」と感じられること。もう一つは、その人が「至誠の人」であるかどうかということです。この二つは、常日頃テレビなどに身をさらしている有名人ですから、いずれ『ああ、この人はこういう人だったのか』と、その人間の本質的な部分が否応なく分かってきます。
 ちなみに船井幸雄は、あくまでも私個人の基準ながら、極めて意識レベルが高くかつ至誠の人という、稀有な人であるように思われます。 

 (話は戻って)船井幸雄は、今まで百冊を越えるほど著書を上梓しております。私はそのうち少なくとも10数冊は読みました。それによって分かったことは、氏が30代の頃愛する肉親の相次ぐ死によって、「宗教的回心」のような体験をし、以来私の最大関心事と同じである「精神世界・スピリチュアル」への探求を深めていくことになったらしいということです。
 但し船井幸雄は、私のような凡俗とは人間的な器量もパワーもおよそ桁違いです。だから氏は、その探求の成果を著作として世に問うたり、経営コンサルタントの立場でそこから得られた叡知をフル活用したり、更にそれすら超えて広く日本全体、人類全体のより良き「進化向上」のために、当時から大車輪の活動をされていたようです。      (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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幻想画

  灰色の 奇妙な風景
  静まりかえった 空漠の時
  それはある夏の日の午後

  かげった青白い太陽が
   ぼんやりとうかんでいる

  そんな時 何が一体私を
  外界からこんなに引き離してしまうのか?
  近くに見えた家並みが急に遠くなる
  全てのものが疎くなる
  ―風にそよいでいる無心な木々さえも

  そのかわり この広い風景の何処かで
  何物かが冷たく笑っているような……

  ああ かげった青白い太陽が
   ぼんやりとうかんでいる

            (大場光太郎)

(注記) この詩は、私が高校3年生だった昭和42年8月の夏休みの時に作った詩です。拙い詩ながら懐かしくもありますので、今回一切手を加えず当時のまま公開することに致しました。
 その当時は、「二木紘三のうた物語」の『花の街』コメントのような「頂上体験」を味わったり、また『モスクワ郊外の夕べ』コメントのようにクラスのために積極的な活動をしたかと思うと、ひそかにこのような少し病的な詩を作ってみたり。
 今振り返りますと、中学2年秋頃から少し(大いに)「思春期の自我の病」にかかり、以来10年間ほど私の心の中は、けっこう苦しい状態でした。

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青山河

    名将の眼(め)に読まれゐし青山河   (拙句)

 季節はまさに夏本番。たびたびお伝えしてきましたとおり、当地の西は大山・阿夫利峯(あふりね)の秀峰、その右手には丹沢連峰の峰々が連なっています。
 当厚木市は、これ以上踏み込めば重畳たる山また山の丹沢連峰の麓に開けた町なのです(そして東境は、相模川)。それゆえそんな名だたる峰々のみならず、少しその方向に車を走らせてみますと、奥に行けば行くほど豊かな自然が広がっています。
 皆様よくご存知の、七沢温泉、飯山温泉などのある当市は、その付近一帯に小山がけっこうあります。そして全国どこでも似たり寄ったりながら、小山の峡(かい)には川が流れ、田畑が広がり、集落が点在しております。小山も谷地も田畑も皆悉く今は深緑に覆われ、本当に青山河といった趣きです。
                          *
 冒頭の句は、何年か前そんな様子を眺めながら、「三国志」のある名将を思い浮かべて詠んだ句です。名将の名は鄧艾(とうがい)といって、中国は三国時代末期の「魏(ぎ)」の武将です。鄧艾は、例えば蜀(しょく)の関羽、張飛、趙雲あるいは魏の張遼、徐晃、李典のような歴戦の勇士タイプではなく、知略家、軍略家として知られています。それに曹操、劉備、関羽、諸葛孔明…といった三国志中のスターたちが、悉く表舞台から去った後に登場する人物です。

 鄧艾は少年時代からその戦術的知略を磨くために、育った郷里近辺の山や谷や平地などの地形をつぶさに観察し、仮想敵と対決するために、山や谷のどの辺に我が軍の兵をどの位埋伏(まいふく)すれば攻めて来る敵を撃破出来るだろうか?といったような研究に余念がなかったそうです。

 後年、その努力が実を結ぶことになります。劉備玄徳が、白面の青年・諸葛孔明の「天下三分の計」を容れて、その後孔明補佐のもと艱難辛苦の末西暦221年蜀を建国しました。天然の要害、難攻不落の地といわれたその蜀を見事撃ち破り、成都を陥落することに成功したのです。こうして諸葛孔明が、主君劉備亡き後暗君劉禅を補佐して、心血を注いで護ってきた蜀は、263年に滅亡。
 しかしこれには伏線があります。234年孔明が五丈原(ごじょうげん)で陣没の後、蜀の宮廷はすっかりタガが緩み、ねい臣特に宦官(かんがん)が宮廷内を壟断(ろうだん)し不正乱脈を極めたと言われています。蜀は滅ぶべくして滅びたのです。
 伝説では、蜀征途上鄧艾は、さる地の諸葛孔明の廟に参ったそうです。敵国の人ながら日頃尊敬してやまない、孔明の御霊に静かに祈りを捧げていると、その時孔明の声が聞こえてきたのだそうです。「もはや蜀の滅亡は致し方ない。しかしどうか無辜(むこ)の民衆が戦禍に巻き込まれて苦しむことの無いよう、格別のご配慮を賜りたい。」

 以来、1700年余。中国は間もなく開催される世紀の祭典・北京オリンピックに向けて、大盛り上がりです。しかしまた今年5月には、四川大地震で成都を始めとした広大な地域が激甚な被害に見舞われました。成都には、昭烈帝(劉備玄徳)廟や武侯(諸葛亮)祠があります。三国志ファンとしては、それらの遺構は無事だったのだろうかと気がかりです。
 そして、民を思う心の人一倍篤かった泉下の諸葛亮は、大地震で失われた多くの人命に何を想うのだろうかと。

 (大場光太郎・記)

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万物備乎我(4)

 犬養毅という、今では歴史上の人物が揮毫した「万物備乎我」が、母校の「校訓」だったとは。私は在学中は全く知りませんでした。当時から学校のどこかに掲げられていたか、保管されていたかしたのでしょう。しかし入学式の校長訓話や、各学年の担任の先生からも、これについての特別な話はなかったと思います。
 私がこの「万物備乎我」という名言と、それが我が母校の校訓であることを知ったのは、今から10年ほど前のことだったと思います。その頃から、毎年初冬頃届き始めた見開き10ページほどの「同窓会報」の中で、その謂れ(いわれ)などが紹介されていたからです。
 振り返ってみますと、確か私が20代、30代の頃はこのような会報自体なかったと思います。バブル崩壊と共に社会全体が自信喪失、アイディンティティを失いかけ、その一つの救済のように全国的に「郷土回帰現象」のような動きが見られたように記憶しています。母校の会報なども、その一つの現れだったのではないでしょうか。

 それまではただ馬車馬のように、「それ行け! やれ行け!」とばかりにやみくもに突っ走っていた社会全体が、平成と年号が変わった途端バブル崩壊によって一気に冷や水を浴びせられ…。「経済大国日本」の幻想が見事に打ち砕かれたと共に、国民全体の心にもポッカリ穴が開いてしまったような虚しさを感じ始めていた。
 そんな心の空虚感を埋めようとでもするかのように、全国的に「地方を見直そう」「郷土を見直そう」「出身母校を見直そう」という動きが活発化してきたのではなかったでしょうか。

 ちょうどその頃(40歳前半頃)我が半生で最も転落期の真っ只中にあった私は、何度か転居を繰り返しそのため母校からの連絡も途絶していました。しかし郷里にいるさる級友が、「同窓会名簿を作成するから」とやっとの思いで当時の私の居住地を探し当て、それ以降ぼちぼち年1回の(年会費払込み用紙同封の)同窓会報が届くようになったのです。
 またそう言えば。会報のみならずそれ以降何年かの間に堰を切ったように、高校のみならず中学校や小学校の同窓会参加通知のハガキが、集中的に来たりしたものです。
 ちなみにその級友は同じ宮内町の出身で、中学時代は同じクラス。その時同時に手紙や電話で、中学時代の学年全体の合同同窓会が近々開かれるから、是非出席してクラス代表として何か挨拶してくれまいか、という要請がありました。私は中学を通して、級長または副級長をつとめておりましたので。しかしクラスの誰よりも転落していそうなその時の私が、どのツラ下げて挨拶など出来ましょうや。私は丁重にお断りしたのでした。
 
 以上のようなことから私は、母校の「校訓」もその頃制定されたのではなかろうか?と推測しております。当時の学校関係者がそんな世の趨勢の中で、この際母校をアピールするものが何かないものかと、あれこれ思案をめぐらしていた。すると『そう言えば我が校には、創立以来犬養毅の揮毫の書があったではないか。文言もなかなかのものだし、よし、この際あれを校訓として前面に出そうじゃないか!』というようなことになったのではないでしょうか。   (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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私の不思議体験(3)

 全て肉体中心、物質中心、言いかえれば「この世中心」でモノを見、考えてしまうことが、誕生以来の習い性になってしまっている―そのため、本来的に誰にでも備わっているはずの「エーテル視力」さえ発現出来ずにいるのです。いわんや、その更に奥の「アストラル視力」「メンタル視力」…においておや。更に奥なる「仏眼」「法眼」は言うもさら。
 ともかく、その時の私は10歳前後の子供です。思春期以降の通常「肉体意識」に直結してしまう、「自我」がまだ芽生えていない頃です。それにその時の私は何もものを考えず、ただボーっとしていた(一種の「忘我状態」にあった)ことなども複合的に作用して、たまたま一時的にそういう視力が開かれたものと思われます。

 ともあれ。私のその時の体験から、確信をもって申し上げられることがあります。それは「肉眼に見えているものに、見えているとおりのものは何もない」ということです。
 私たちが外の世界を見るのに唯一の拠りどころとしている肉眼は、無限ともいえる「波動領域」の極めて微少部分しか感受できない、一感覚器官にすぎないのです。よって肉眼で見たものを即真実と受けとめるのは、極めて危ういことだということも出来ます。
 それに見る者の「意識レベル」がどこにあるかによっても、各人が肉眼を通して見る世界は、それぞれに皆違って感受されているのかも知れません。ここで「意識レベル」とは何か?を定義するとなると、それだけで一小論となってしまいそうです。そこでこのテーマは、また別の機会にということで、ここではごく簡単に「受信し感受できる波動レベル」とでもしておきます。主体である各人が、粗雑な波動しか受信できないのか、精妙な波動をも受信できるレベルなのか、その違いと言うことです。
 いわゆる悟った(「空」を悟得した)法然上人や道元禅師などが見るものと、私たち凡人が見るものは「同じもの」であっても、全く違って見えている可能性があるのです。

 それはまた、以下のことを示唆しています。
 この世に存在しているありとあらゆる「もの」は、この世単独でただポツンと存在しているのではないということです。例えば、今ここに置いてあるコップや時計などは、その奥の奥のそのまた奥の…幾重ものより精妙な要素が重なり合うことによって、今ここに初めて見える形になって存在出来ているということです。
 よって「主体的世界」はこのように最終的に映っている(形として現れている)こちら側の世界なのではなく、かくあらしめている「奥(本源)の世界」にあるというわけなのです。
 (なおこれは、私たちの肉体にもそのまま当てはまります。私たちのボディは、単に「肉体」だけと思うのは大間違いで、実際はその奥に「エーテル体」「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」…と複雑かつ重層的な、奥のボディほどより精妙体になっているものなのです。)

 私はここでハッキリ断言致します。私たちの世界に今山積している各分野の解決不能とも思われる諸問題は、全てこの事実を全く無視しているか、あるいは「この世中心」「物質中心」「肉体中心」にひっくり返ってしまっているからなのです。
 もし仮にこれを人類全体が、本来の認識のあり方に戻せたとしましょう。今私たちが抱えている世界的、国内的な諸問題は、瞬く間にきれいさっぱり解決してしまうことでしょう。それのみか、この世界がそのまま「地上天国」になることでしょう。しかしそれは土台無理な注文と言うものです。そこでそのうちの1%の人々だけでも気づき、「目覚めた生き方」に変われば「百匹目の猿現象」で、この世界は急速に良い方向に変わっていくものと思われます。

 以上、当ブログでは「秘教的(エソテリック)な領域」には踏み込まないと言っておきながら、またまた踏み込んでしまいました。もしこのような内容がお嫌いでしたら、コメントでその旨おっしゃっていただければ以後は出来るだけ慎みます。(でも実はこれも当ブログの主要テーマとして、今後とも皆様と研鑽を重ねていきたいと思うのですが。)
 なお私は皆様既にお気づきのとおり、宗教的な関心が高い人間です。ただ特定の宗教的結社に所属するつもりは、今後ともございません。   ―  完  ―
 (大場光太郎・記)

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私の不思議体験(2)

 私はその出来事を、長い間全く理解できませんでした。誰かに話そうにも、一体どう説明したらよいのやら…。結局話す機会を逸して、今日に至ったような次第です。
 しかも、時間の経過と共に、そんな体験のことはスッカリ忘れて…。しかしその時の不思議体験は、心の奥深くに強い印象を残したようです。例えば、小学校高学年になって少しはものが考えられる年頃になると、学校の帰り道などで見慣れた景色を見て、ふと思うのです。『この世界は何とお粗末でくすんだ世界なんだろう』。そう思うからには、『本当の世界は、もっとキラキラ輝いて美しい世界のはずなんだがなあ』という反語があるわけなのです。
 そんな思いは高校時代も、こちらにやってきて社会人になってからも、時折りありました。いわゆる高度な用語で表現すれば、「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」ということでしょうか?(そういう私の傾向性が、ともすれば現実遊離、現実逃避の方向に向かいがちだったことも否定できませんけれども…。)

 そして30代前半頃、ふとしたきっかけで「スピリチュアルな探求」を始めたことによって、『そう思うのは、ひょっとしてオレはレベルの高い精妙で天的な世界から、ゆえあってこの世に生まれてきた「選ばれし高貴な魂」なのではないだろうか?』などと、霊的なことに関心を持つ者によくありがちな選良意識(実は「エゴ」の一変形)にとりつかれたこともあります。
 しかし今冷静になって考えますと、勿論そんなことではなく、全てはあの時の体験が大きな要因であったように思います。

 私がその時垣間見たのは、後年のスピリチュアルな探求の成果から申し上げれば―。通常の肉眼で見えるより一段奥の「エーテル視力」が、一時的に開けた結果かなと思われます。その結果、日常私たちが見ているごくありふれた物質の、一段奥の構成要素を偶然にも見ることになったのではないだろうか?
 
 「エーテル視力」とは、我が国で古来言われております「心眼」「仏眼」「法眼」「神眼」などという超高度な視力ではありません。肉眼のほんの一歩奥の、それらに至るほんのとば口の視力に過ぎないのです。
 しかし今の私を含め通常人は、その視力さえ得ることが難しいようです。なぜなのでしょう?それは簡単に言ってしまえば、私たちの心が、余りにもこの世の「物質」「肉体」オンリーに囚われ過ぎているからなのです。言い換えますと、私たちが通常「心」と呼んでいるものは、この肉体にがんじがらめに束縛されている「肉体意識」に過ぎないということです。  (以下次回につづく)
 
(大場光太郎・記)

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七月尽

    暮れゆける七月尽(しちがつじん)の街の灯よ   (拙句)

 7月も末日のきょう、当地では薄い雲が終日全天を覆い、時にそのあわいから日が射してきたり雲に隠れて曇ったり。その繰り返しの、しのぎやすい一日でした。
 いずれにしても、ここまでは本式な猛暑型の夏ではなさそうで、ほっと一安堵といったところです。しかしまだ先は分かりません。なにせ、1995年の超猛暑の年は、8月に入ってから急に焼けつくような暑い日がいつ果てるともなく続いた、トラウマ的な記憶があるもので。

 午後4時過ぎ、お隣の伊勢原市に行きました。道々盛夏の候とはいえ、一帯に広がる勢いよく伸びた青田のさまといい、処々に見られる木立のさまといい。いくら国土が開発という名目の破壊にさらされ続けてきたとはいえ、郊外部にはまだ至る所に緑が認められる、我が国の豊かな風土には本当に感謝です。
 途中小田急線沿いの高い鉄製のネットにからまりながら、葛の葉群が何やら大きな動物の形のトピアリーめいているのも垣間見られました。

 ところで。道々私はあらぬことを考えてしまいました。
 『目にも豊かなこの緑が、仮に全く別な色例えば赤とか黄色とかだったらどうなんだろう?』
 赤や黄といえば、晩秋から初冬にかけての紅葉を思い浮かべます。しかしあれは、一時期限定の色合いだからこそ美しいと感受されるのであって、赤や黄色が一年中野山や街の通りを覆い尽しているとしたら…。どうなんでしょう?おそらく人類は発狂して、とうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。

 この季節、道々見かける花は多くはありません。そんな中で、旧家の垣根や庭先で百日紅(さるすべり)の赤紫の花のかたまりが、風にゆらゆら揺れているさまいとおかし、といった風情です。
 またとある家の垣からは、ヒマワリの花がひょろんと伸びた長い茎の天辺にぴょこんぴょこんと真ん丸い黄色い顔をこちらに向けて「こんにちは!」。よく見ると、たいがいは西日の方角に律儀に顔を向けています。しかし中には、あらぬ方向を向いているへそ曲がりなヒマワリも見受けられます。

                        *
 話題は変わりますが、ここで嬉しいご報告を―。
 31日未明たまたま「ココフラッシュ」の「詩カテゴリー」をのぞいてみました。すると何と! 当ブログで28日深夜に公開致しました、くまさん様の詩『ビニール袋・パートⅡ』が、「ディリー部門」の第1位になっているではありませんか!
 ココログの「詩カテゴリー」には、一日に30~50篇の詩が寄せられます。その中で堂々の第1位ですから、これは大いに誇りに思ってよいことです。
 既報のとおり、以前拙文で「雑記」で第1位、「日常」「身辺雑記」で第何位かになったことはあります。しかし「詩」では、初めての快挙です。(なお31日朝には、別の詩が1位になっていました。同詩へのアクセスのピークは、29、30日だったものと思われます。)
 公開に快く応じていただいたくまさん様、そしてご覧いただいた多くの皆様に、心より感謝申し上げたいと存じます。おかげ様で当月も、気分良く締めさせていただけました。8月も当ブログ変わらずごひいき賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記) 

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