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私の不思議体験(2)

 私はその出来事を、長い間全く理解できませんでした。誰かに話そうにも、一体どう説明したらよいのやら…。結局話す機会を逸して、今日に至ったような次第です。
 しかも、時間の経過と共に、そんな体験のことはスッカリ忘れて…。しかしその時の不思議体験は、心の奥深くに強い印象を残したようです。例えば、小学校高学年になって少しはものが考えられる年頃になると、学校の帰り道などで見慣れた景色を見て、ふと思うのです。『この世界は何とお粗末でくすんだ世界なんだろう』。そう思うからには、『本当の世界は、もっとキラキラ輝いて美しい世界のはずなんだがなあ』という反語があるわけなのです。
 そんな思いは高校時代も、こちらにやってきて社会人になってからも、時折りありました。いわゆる高度な用語で表現すれば、「厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」ということでしょうか?(そういう私の傾向性が、ともすれば現実遊離、現実逃避の方向に向かいがちだったことも否定できませんけれども…。)

 そして30代前半頃、ふとしたきっかけで「スピリチュアルな探求」を始めたことによって、『そう思うのは、ひょっとしてオレはレベルの高い精妙で天的な世界から、ゆえあってこの世に生まれてきた「選ばれし高貴な魂」なのではないだろうか?』などと、霊的なことに関心を持つ者によくありがちな選良意識(実は「エゴ」の一変形)にとりつかれたこともあります。
 しかし今冷静になって考えますと、勿論そんなことではなく、全てはあの時の体験が大きな要因であったように思います。

 私がその時垣間見たのは、後年のスピリチュアルな探求の成果から申し上げれば―。通常の肉眼で見えるより一段奥の「エーテル視力」が、一時的に開けた結果かなと思われます。その結果、日常私たちが見ているごくありふれた物質の、一段奥の構成要素を偶然にも見ることになったのではないだろうか?
 
 「エーテル視力」とは、我が国で古来言われております「心眼」「仏眼」「法眼」「神眼」などという超高度な視力ではありません。肉眼のほんの一歩奥の、それらに至るほんのとば口の視力に過ぎないのです。
 しかし今の私を含め通常人は、その視力さえ得ることが難しいようです。なぜなのでしょう?それは簡単に言ってしまえば、私たちの心が、余りにもこの世の「物質」「肉体」オンリーに囚われ過ぎているからなのです。言い換えますと、私たちが通常「心」と呼んでいるものは、この肉体にがんじがらめに束縛されている「肉体意識」に過ぎないということです。  (以下次回につづく)
 
(大場光太郎・記)

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