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万物備乎我(6)

 最後に、私自身の拙い所見を述べさせていただきます。

 「万物備乎我」―万物我に備はる。
 この中の「我(われ)」とは、素直に生身の自分自身と受けとめて良いと思います。肉体人間としての私たちは、身長たかだか2mにも及びません。それに生老病死の四苦を免れそうにもありません。時に日常的な諸問題にあたふたしてしまうこともあります。こんな卑小とも思われる私たち人間の中に、「万物が備わっている」というのです。この場合の万物とは、「森羅万象皆悉く」と言い変えてもよいでしょう。何という心鼓舞される、気宇広大かつ深遠な教えなのでしょうか。
 私はこの言葉は、古今の高等宗教の教えの核心部分と、あい通じるものではないだろうかと思います。さまざまな宗教的な教えの中で、これに類似した教えが説かれています。思いつくだけでも、

  「一切衆生皆仏性」「無一物中無尽蔵」            (仏教の教え)
  「宇宙即我(うちゅうそくわれ)」                (仏教系団体の教え)
  「神の国はここに見よ、かしこに見よというようなものではない。
   神の国は、あなた方の(心の)ただ中にあるのだ」   (イエスの言葉)
  「あなたが(世界そのものである)ブラフマンなのだ」   (ヒンドゥー教の教え)
  「我即神也(われそくかみなり)」              (新宗教系団体の教え)

 上記のような言葉は、一応頭の中の知識としてとどめておくだけでも、全く知らないよりは意義のあることです。しかしそれらをいくら知識として知っていても、四苦八苦の苦悩を克服できるものでも、人生に時に訪れる難問に賢明に対処できるわけでもありません。
 昔道元禅師が、「竿頭を一歩越えざれば(悟りには到れない)」と言ったそうですが、それを実際の生きた智慧にするには、単なる「頭脳智」から全身全霊で理解する「生命智」への飛躍がどうしても必要なようです。そのため禅家では、「公案」という日頃の頭の考えがぶっ飛びそうな奇想天外な質問を投げかけたり、日常茶飯事に「静中の工夫」「動中の工夫」を探ったり致します。

 あるインドの聖者が、「ブラフマンとの合一を果たすには、どうすればいいのでしょう」という弟子の質問を受けました。その聖者は以下のことをうまずたゆまず実践していけば、必ず合一に達するだろうと答えたそうです。
      1 聖典の学習
      2 祈りと瞑想の実践
      3 聖者、聖友との交流
      4 無私の奉仕の実践

 浅学の私が思いますに、どのような宗教的実践法、行法も究極するところ、上記の4項目のいずれかに帰着するのではないでしょうか。
 それに致しましても。私たちは、今生でか幾生先でか幾十生先でかに、「万物備乎我」等の心内の大荘厳世界を、必ず体得できるようにプログラミングされている生命体であるようです。(そのような理(ことわり)を悟得することこそが、特定の宗教者のみならずこの世で生きている全ての人にとっての真の目的なのであり、その余のことは全て手段でありプロセスである。これに気づいていない分だけ、低い世界での「六道輪廻」を繰返すことになる…。)
 これを思う時、私たちをかく在らしめている「大いなる存在」に、深い感謝を捧げずにはおられません。   ―  完  ―

(大場光太郎・記) 

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