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東京オリンピックの思い出(2)

 とにかくただの一度もテレビ観戦しようとしない私を、寮内の人たちはいぶかしがり、それが決定的なキッカケとなって、私は「変わり者」のレッテルを貼られることになりました。(中学2年の初冬頃からその兆候は出ていました)。今から思えば変わり者どころか、とんだ「非国民少年」といったところでしょう。
 千載一遇の国威発揚の晴れ舞台で、国民全体がこぞってその大成功を願い沸き立ち、各競技の日本選手に熱狂的な声援を送っているというのに。独り山形の片田舎町の15歳の少年のみは、それに背を向けて「我関せず」とばかりに、自室に閉じこもってごろんと寝転びながら読書三昧なのですから。それでも、学校の勉強ならまだ許せます。しかし実際は、およそ学校の成績に直結しそうにない、その時お好みの一般読書に耽っているのですから。

 だから、昭和39年10月10日の国立競技場における、大快晴の歴史的な開会式のもようも、東洋の魔女・女子バレーチームのソ連との決勝戦での死闘も、裸足の聖者・アベベのマラソンでの走りも…。オリンピック期間中は全く知らず、後で市川昆監督の映画『東京オリンピック』を観たことで、ようやくその一端を知ったくらいのものでした。

 何で15歳の少年が、そんなにまで依怙地になって東京オリンピックを意図的に避けたかったのでしょう?
 当時中学3年だった私には、自分自身の心できちんと論理立てられるわけでも、ましてや他の人にうまく伝えるすべなどはありませんでしたが。逆に、純粋な田舎少年であったればこその「直観」とでも申しましょうか。内心では、『世の中どうもおかしな方向に進んじまっているんじゃないのか?このまま突っ走っていって、日本はホントに大丈夫なのか?』という、漠然とした危機感があったのです。多分、オリンピックのテレビ観戦拒否も、その延長線上の行動だったと思われます。

 15歳の私が、当時の政治的な状況、社会状況などほとんど知る由もありませんでしたが。
 その4年ほど前の60年安保闘争の騒乱はありながら、結局我が国はアメリカの安全保障の枠内に更に深く組み込まれることを選択しました。直後総辞職した岸内閣の後を引き継いで池田勇人が首相になり、「所得倍増」というスローガンのもと「高度成長経済政策」が実行されることとなりました。それまで数千年間続いてきた農耕型社会から、工業型社会への社会構造の根本的な転換政策でした。
 詳しいことなど何一つ解らないながらも。そのような社会を丸ごとひっくり返す政策転換は、時ならずして全国津々浦々にまで何らかの形となって具体的に波及してくるわけで。余波を確かに感受して、当時の私には、そのシンボル的イベントととして「東京オリンピック」が映っていたのかも知れません。   (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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コメント

投稿: | 2010年7月24日 (土) 04時57分

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