万物備乎我(4)
犬養毅という、今では歴史上の人物が揮毫した「万物備乎我」が、母校の「校訓」だったとは。私は在学中は全く知りませんでした。当時から学校のどこかに掲げられていたか、保管されていたかしたのでしょう。しかし入学式の校長訓話や、各学年の担任の先生からも、これについての特別な話はなかったと思います。
私がこの「万物備乎我」という名言と、それが我が母校の校訓であることを知ったのは、今から10年ほど前のことだったと思います。その頃から、毎年初冬頃届き始めた見開き10ページほどの「同窓会報」の中で、その謂れ(いわれ)などが紹介されていたからです。
振り返ってみますと、確か私が20代、30代の頃はこのような会報自体なかったと思います。バブル崩壊と共に社会全体が自信喪失、アイディンティティを失いかけ、その一つの救済のように全国的に「郷土回帰現象」のような動きが見られたように記憶しています。母校の会報なども、その一つの現れだったのではないでしょうか。
それまではただ馬車馬のように、「それ行け! やれ行け!」とばかりにやみくもに突っ走っていた社会全体が、平成と年号が変わった途端バブル崩壊によって一気に冷や水を浴びせられ…。「経済大国日本」の幻想が見事に打ち砕かれたと共に、国民全体の心にもポッカリ穴が開いてしまったような虚しさを感じ始めていた。
そんな心の空虚感を埋めようとでもするかのように、全国的に「地方を見直そう」「郷土を見直そう」「出身母校を見直そう」という動きが活発化してきたのではなかったでしょうか。
ちょうどその頃(40歳前半頃)我が半生で最も転落期の真っ只中にあった私は、何度か転居を繰り返しそのため母校からの連絡も途絶していました。しかし郷里にいるさる級友が、「同窓会名簿を作成するから」とやっとの思いで当時の私の居住地を探し当て、それ以降ぼちぼち年1回の(年会費払込み用紙同封の)同窓会報が届くようになったのです。
またそう言えば。会報のみならずそれ以降何年かの間に堰を切ったように、高校のみならず中学校や小学校の同窓会参加通知のハガキが、集中的に来たりしたものです。
ちなみにその級友は同じ宮内町の出身で、中学時代は同じクラス。その時同時に手紙や電話で、中学時代の学年全体の合同同窓会が近々開かれるから、是非出席してクラス代表として何か挨拶してくれまいか、という要請がありました。私は中学を通して、級長または副級長をつとめておりましたので。しかしクラスの誰よりも転落していそうなその時の私が、どのツラ下げて挨拶など出来ましょうや。私は丁重にお断りしたのでした。
以上のようなことから私は、母校の「校訓」もその頃制定されたのではなかろうか?と推測しております。当時の学校関係者がそんな世の趨勢の中で、この際母校をアピールするものが何かないものかと、あれこれ思案をめぐらしていた。すると『そう言えば我が校には、創立以来犬養毅の揮毫の書があったではないか。文言もなかなかのものだし、よし、この際あれを校訓として前面に出そうじゃないか!』というようなことになったのではないでしょうか。 (以下次回につづく)
(大場光太郎・記)
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