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私の不思議体験(3)

 全て肉体中心、物質中心、言いかえれば「この世中心」でモノを見、考えてしまうことが、誕生以来の習い性になってしまっている―そのため、本来的に誰にでも備わっているはずの「エーテル視力」さえ発現出来ずにいるのです。いわんや、その更に奥の「アストラル視力」「メンタル視力」…においておや。更に奥なる「仏眼」「法眼」は言うもさら。
 ともかく、その時の私は10歳前後の子供です。思春期以降の通常「肉体意識」に直結してしまう、「自我」がまだ芽生えていない頃です。それにその時の私は何もものを考えず、ただボーっとしていた(一種の「忘我状態」にあった)ことなども複合的に作用して、たまたま一時的にそういう視力が開かれたものと思われます。

 ともあれ。私のその時の体験から、確信をもって申し上げられることがあります。それは「肉眼に見えているものに、見えているとおりのものは何もない」ということです。
 私たちが外の世界を見るのに唯一の拠りどころとしている肉眼は、無限ともいえる「波動領域」の極めて微少部分しか感受できない、一感覚器官にすぎないのです。よって肉眼で見たものを即真実と受けとめるのは、極めて危ういことだということも出来ます。
 それに見る者の「意識レベル」がどこにあるかによっても、各人が肉眼を通して見る世界は、それぞれに皆違って感受されているのかも知れません。ここで「意識レベル」とは何か?を定義するとなると、それだけで一小論となってしまいそうです。そこでこのテーマは、また別の機会にということで、ここではごく簡単に「受信し感受できる波動レベル」とでもしておきます。主体である各人が、粗雑な波動しか受信できないのか、精妙な波動をも受信できるレベルなのか、その違いと言うことです。
 いわゆる悟った(「空」を悟得した)法然上人や道元禅師などが見るものと、私たち凡人が見るものは「同じもの」であっても、全く違って見えている可能性があるのです。

 それはまた、以下のことを示唆しています。
 この世に存在しているありとあらゆる「もの」は、この世単独でただポツンと存在しているのではないということです。例えば、今ここに置いてあるコップや時計などは、その奥の奥のそのまた奥の…幾重ものより精妙な要素が重なり合うことによって、今ここに初めて見える形になって存在出来ているということです。
 よって「主体的世界」はこのように最終的に映っている(形として現れている)こちら側の世界なのではなく、かくあらしめている「奥(本源)の世界」にあるというわけなのです。
 (なおこれは、私たちの肉体にもそのまま当てはまります。私たちのボディは、単に「肉体」だけと思うのは大間違いで、実際はその奥に「エーテル体」「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」…と複雑かつ重層的な、奥のボディほどより精妙体になっているものなのです。)

 私はここでハッキリ断言致します。私たちの世界に今山積している各分野の解決不能とも思われる諸問題は、全てこの事実を全く無視しているか、あるいは「この世中心」「物質中心」「肉体中心」にひっくり返ってしまっているからなのです。
 もし仮にこれを人類全体が、本来の認識のあり方に戻せたとしましょう。今私たちが抱えている世界的、国内的な諸問題は、瞬く間にきれいさっぱり解決してしまうことでしょう。それのみか、この世界がそのまま「地上天国」になることでしょう。しかしそれは土台無理な注文と言うものです。そこでそのうちの1%の人々だけでも気づき、「目覚めた生き方」に変われば「百匹目の猿現象」で、この世界は急速に良い方向に変わっていくものと思われます。

 以上、当ブログでは「秘教的(エソテリック)な領域」には踏み込まないと言っておきながら、またまた踏み込んでしまいました。もしこのような内容がお嫌いでしたら、コメントでその旨おっしゃっていただければ以後は出来るだけ慎みます。(でも実はこれも当ブログの主要テーマとして、今後とも皆様と研鑽を重ねていきたいと思うのですが。)
 なお私は皆様既にお気づきのとおり、宗教的な関心が高い人間です。ただ特定の宗教的結社に所属するつもりは、今後ともございません。   ―  完  ―
 (大場光太郎・記)

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