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青山河

    名将の眼(め)に読まれゐし青山河   (拙句)

 季節はまさに夏本番。たびたびお伝えしてきましたとおり、当地の西は大山・阿夫利峯(あふりね)の秀峰、その右手には丹沢連峰の峰々が連なっています。
 当厚木市は、これ以上踏み込めば重畳たる山また山の丹沢連峰の麓に開けた町なのです(そして東境は、相模川)。それゆえそんな名だたる峰々のみならず、少しその方向に車を走らせてみますと、奥に行けば行くほど豊かな自然が広がっています。
 皆様よくご存知の、七沢温泉、飯山温泉などのある当市は、その付近一帯に小山がけっこうあります。そして全国どこでも似たり寄ったりながら、小山の峡(かい)には川が流れ、田畑が広がり、集落が点在しております。小山も谷地も田畑も皆悉く今は深緑に覆われ、本当に青山河といった趣きです。
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 冒頭の句は、何年か前そんな様子を眺めながら、「三国志」のある名将を思い浮かべて詠んだ句です。名将の名は鄧艾(とうがい)といって、中国は三国時代末期の「魏(ぎ)」の武将です。鄧艾は、例えば蜀(しょく)の関羽、張飛、趙雲あるいは魏の張遼、徐晃、李典のような歴戦の勇士タイプではなく、知略家、軍略家として知られています。それに曹操、劉備、関羽、諸葛孔明…といった三国志中のスターたちが、悉く表舞台から去った後に登場する人物です。

 鄧艾は少年時代からその戦術的知略を磨くために、育った郷里近辺の山や谷や平地などの地形をつぶさに観察し、仮想敵と対決するために、山や谷のどの辺に我が軍の兵をどの位埋伏(まいふく)すれば攻めて来る敵を撃破出来るだろうか?といったような研究に余念がなかったそうです。

 後年、その努力が実を結ぶことになります。劉備玄徳が、白面の青年・諸葛孔明の「天下三分の計」を容れて、その後孔明補佐のもと艱難辛苦の末西暦221年蜀を建国しました。天然の要害、難攻不落の地といわれたその蜀を見事撃ち破り、成都を陥落することに成功したのです。こうして諸葛孔明が、主君劉備亡き後暗君劉禅を補佐して、心血を注いで護ってきた蜀は、263年に滅亡。
 しかしこれには伏線があります。234年孔明が五丈原(ごじょうげん)で陣没の後、蜀の宮廷はすっかりタガが緩み、ねい臣特に宦官(かんがん)が宮廷内を壟断(ろうだん)し不正乱脈を極めたと言われています。蜀は滅ぶべくして滅びたのです。
 伝説では、蜀征途上鄧艾は、さる地の諸葛孔明の廟に参ったそうです。敵国の人ながら日頃尊敬してやまない、孔明の御霊に静かに祈りを捧げていると、その時孔明の声が聞こえてきたのだそうです。「もはや蜀の滅亡は致し方ない。しかしどうか無辜(むこ)の民衆が戦禍に巻き込まれて苦しむことの無いよう、格別のご配慮を賜りたい。」

 以来、1700年余。中国は間もなく開催される世紀の祭典・北京オリンピックに向けて、大盛り上がりです。しかしまた今年5月には、四川大地震で成都を始めとした広大な地域が激甚な被害に見舞われました。成都には、昭烈帝(劉備玄徳)廟や武侯(諸葛亮)祠があります。三国志ファンとしては、それらの遺構は無事だったのだろうかと気がかりです。
 そして、民を思う心の人一倍篤かった泉下の諸葛亮は、大地震で失われた多くの人命に何を想うのだろうかと。

 (大場光太郎・記)

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