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少年時代のトリックスター

 昭和35年、私が小学5年の初秋頃。お世話になっていた母子寮に、一人の男が訪れました。(『北帰行』が一般に広まる前でしたから、確かその年だったと思いますが、あるいは翌年だったかもしれません。)

 東京から来た人ということでした。今思えば、流れの興行師といった人だったでしょうか。40代くらいの中肉中背、ダンディな感じの人だったと記憶しています。その人が、集会室でその夜手品をしてくれるというのです。私たちは、楽しみに待ちました。
 その人が、夕方寮の玄関近くで遊んでいた私たち小学生何人かに、「町内を一回りしてくるけど、一緒に行かないか」と誘ったのです。滅多に乗れない車ですから,一も二もなく乗せてもらいました。途中ある店で停まって、お菓子を買ってもらったりして、帰りました。
 
 その夜寮内のお母さん方、子供たちが集会室に勢ぞろいして、その人が繰り出す手品に熱狂しました。特に度肝を抜かれたのは、探していたトランプが、指名されて立った友人の、あるはずのない、ワイシャツの胸ポケットから出てきた時でした。一同びっくり拍手喝さいでした。

 その人は去っていきました。その後、拍手喝さいした手品のトリックが、ばれてしまいました。友人があっさりばらしたのです。車で町内を回って、途中で車を降りた時、その友人はいくらかの小遣い銭をもらって、ポケットにトランプを忍ばせるのを引き受けたというのです。それ以外にも、寮内のあるお母さんを口説いた…。
 その人が去った後の評判は、あまりいいものではありませんでした。

 しかし、良いものを一つだけ残していってくれました。『北帰行』の歌です。
 手品が終わって子供たちが引き上げてから、その興行師とお母さんたちによる懇親会が催されたそうです。その時、「こういういい歌があるんだが」といって黒板に歌詞を書いて、お母さんたちが覚えるまで、指導してくれた…。
 おかげで、この歌は寮内全部に広まりました。私も、母からか先輩からか教わって、すぐ覚えました。素直に良い歌だと思いました。子供のくせして、「♪さらば祖国愛しき人よ 明日はいずこの町か」などと口ずさんでおりました。

 だが、これにも裏話があります。その人は、「この歌は、私が作った歌だ」と言ったというのです。これにはまんまと騙されました。私も『違う』と分かったのは、ずっと後になってからのことです。
 その人にしてみれば、『どうせこんなとこ、二度と来ないんだ。その場さえうまく取りつくろえりゃあそれでいいんだ』てなもんだったのでしょう。
 
 しかし、二木先生の『星影のワルツ』での解説のように、この人も東北の片田舎町を転々とどさ回りしている我が身の境遇を、『北帰行』に重ねて、本当に歌と同化していたのかも知れず。表向きの口八丁、手八丁は世を渡るペルソナ(仮面)で、実は夜宿屋で寂しく独り酒を呑んでこの歌を口ずさんでは、「涙流れてやまず」だったのかも知れず…。

 今改めて聴いてみて、『本当に良い歌だなあ』と再認識致しました。
 私にとって、北は「望郷の方位」です。

 (『北帰行』の歌詞と曲は「二木紘三のうた物語」にあります)

 (大場光太郎・記)

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コメント

以前「うた物語」の『北帰行』のところで、確かこの文章を読みました。
私も小学5~6年生の頃(静岡市で)、祭りに来た興行師が怪しげな手品をするので、終わった後友達と一緒に追及したことがあります。
その興行師はそそくさと立ち去っていきました。いつの世にも、イカサマ師はいますね。でも、彼らも生活する(食う)ためには必死になって生きているのです。“あな哀れ”と言うしかありません。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年8月20日 (水) 17時31分

矢嶋様。どうもありがとうございます。
 そうですね。この興行師といい、矢嶋様が祭で出会った興行師といい。どこか怪しげで、胡散くさげで…。それでも、子供の時分にはそれにまんまとのせられて、祭で気がついてみると変なもの買わされていたりして。でも今となっては、それぞれが人生舞台につかの間異彩を放ってくれた、懐かしい「トリックスター」だったように思います。
 それにしても矢嶋様は、幼少時代各地に移り住まれたようですね。確か私の記憶では、名古屋、静岡、そして浦和。(あれっ。新潟もでしたか?)お父上のお仕事の関係だったのでしょうか。

投稿: 大場光太郎 | 2008年8月20日 (水) 18時37分

大場様
小生のことまで良く知っていただいて恐縮です。
生まれは新潟ですが、すぐに名古屋に移り終戦前に空襲に遭いました。小学校に入ったのは名古屋ですが、すぐに浦和に移り5年生の半ばに静岡に移住、中学入学の際にまた浦和に戻りました。
どうでも良いことですが、あちこち移るのもその土地や人を知ることになり、良かったと思っています。親父が第一生命のサラリーマンでしたので、どうしても転勤が多くなりました。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年8月21日 (木) 09時09分

矢嶋様。
 私の記憶違いでなくて、ほっとしています。そしてやはり、お父上は戦前からのエリート企業戦士でしたか。子供の頃の住居の移転は、転校の問題などがあり、大変なこともあると思います。しかしおっしゃるとおり、新しい土地や人と出会える別のワクワク感があるのかもしれませんね。
 でもそれを見送る側にとっては、深い悲しみとなって後々まで残ることがあります。例えば私ごとですが。中2が始まると共に転校してきて同じクラスになった女の子が、中2終了と同時にまた九州に引っ越していきました。可愛くて勉強のできる子で、何より私の片思いの娘でしたので…。

投稿: 大場光太郎 | 2008年8月21日 (木) 10時07分

またお邪魔させていただきます。「トリックスター」のお話、私も大変楽しく拝読しました。
 昭和30年代の初め頃までは、私の住む富山県の田舎町でも、春秋の祭礼の時にはよく「車寅次郎」のような紳士方が見えられて、大道で怪しげなトリックで客の足を止めさせ、言葉巧みに日用品なんかを売っていたものです。彼らが、私たち田舎の言葉とは全く異なる「東京弁」で述べ立てる口上の面白さに、私たち子供は好奇心の塊りとなって見物していました。(どういうものか関西弁の大道商人にはお目にかかったことがありません。)
あるとき、父が「サクラ」につられて安物の万年筆を買って帰り、母から散々絞られていたのを思い出します。良き時代でした。現在では、テレビショッピングがややそれに似たようなことをやっていますが、イカサマでない分、あの独特の味わい、風情に欠けるようです。
また当時はまだ、家々を回って「門付け」をする芸人もたくさん見ました。子供には本当に面白かった。今となっては、まるで夢のようです。

投稿: くまさん | 2008年8月23日 (土) 22時41分

くまさん様。こんばんは。
 私の郷里の町は、『うた物語』でさんざんPRさせていただきましたのでご存知かも知れませんが、「宮内町」といいます。宮内―熊野神社としては東北一の規模の神社の、門前町として開けた土地柄でした。
 ですから、夏祭りと文化の日前後の秋祭りは特に賑わいました。神社の参道筋にあたる数百メートルが町一番の大通りですが、その両側にまあいろんな出店がいっぱい建ち並んでいました。私の母子寮は町の東外れでしたが、これといった娯楽もなく、祭の時は昼も夜も友だちとよく見に行きました。
 くまさん様もご存知かも知れませんが。もう昭和30年代にも関わらず、境内の近くで、ウソかホントか「戦争で負傷した。だから寄付を頼む」という白服の人が数人たむろしていたり。「焼け跡から見つけてきた掘り出し物だ」と言って、わざわざ砂に万年筆を突刺して「一本どうですか」と大人たちにすすめていたり…。(ひょっとしてお父上は、こういう言葉にころっと…?そうであれば、憎めないお人柄です)
 おっしゃるとおり、今ではあんな猥雑な光景を目にすることはなくなりました。しかし何ともノスタルジックな、少年時代の懐かしい思い出ですね。

投稿: 大場光太郎 | 2008年8月23日 (土) 23時42分

 タイトルの「トリックスター」とは、「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと」をいいます。我が国の古事記神話で言えば、スサノオノミコトがその典型的な例と言えましょう。また中国の孫悟空やギリシャ神話のプロメテウスもしかりです。
 このような神話、物語中の型破りな「いたずら好き」は、どの国でも人気が高いものです。トリックスターは、大方は型にはまって、あるいははめられてしか生きることのできない人間のタブーや限界など、いとも簡単に破ってしまうからです。その痛快さに魅かれるのでしょう。
 年端の行かない少年にとっては、見ず知らずの土地からやってきて、あっという間に去っていく本記事のような大人も、トリックスターとして後々まで深く記憶に残るものです。

投稿: 時遊人 | 2011年3月 5日 (土) 03時44分

 本記事は2008年8月20日公開でしたが、今回トップ面に再掲載します。
 直前記事で「二木紘三のうた物語」の『北帰行(ほっきこう)』の私のコメントの一節を紹介しました。以下の文はそのコメントの全文です。当ブログ開設何ヶ月かして、二木紘三(ふたつぎ・こうぞう)先生にお願いして当ブログに移し替えさせていただいたのです。

 この記事に矢嶋武弘さん、くまさんがコメントをお寄せになったことも懐しい思い出です。共に「二木うた物語」の良きコメント仲間でした。矢嶋さんは私より一世代前の人で、早稲田大学仏文学科卒業後フジテレビ入社、社会部記者として活躍後定年退職した人でした。二木先生(政経学部)とは早稲田の同学年の誼みで「二木うた物語」の常連になったようです。また「くまさん」は金沢大学卒業後、富山県内で公認会計士を開業した人でした。
 ついでに申せば、最近時折りコメントをお寄せになる「「能勢の赤ひげ」さんも「うた物語」のコメント仲間でした。この人は灘高に次ぐ神戸の名門校・神戸高校からしかるべき大学医学部卒業後、大阪能勢市で開業医としてご活躍のようです。くまさんと能勢の赤ひげさんは私より1年ほど先輩です。

 縷々余計なことを述べましたが、互いに切磋琢磨し合う良きコメント仲間に恵まれ、そして私は思いもしなかったマイブログを持ち、こうしてネット発信することになったのです。二木先生そしてあの頃の仲間の方たちに感謝です。

投稿: 時遊人 | 2017年12月15日 (金) 03時21分

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