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2008年9月

山林に自由存す


               国木田独歩

  山林に自由存す
  われ此句(このく)を吟じて血のわくを覚ゆ
  嗚呼(あヽ)山林に自由存す
  いかなればわれ山林をみすてし

  あくがれて虚栄の途(みち)にのぼりしより
  十年(ととせ)の月日塵のうちに過ぎぬ
  ふりさけ見れば自由の里は
  すでに雲山(うんざん)千里の外にある心地す

  眥(まなじり)を決して天外をのぞめば
  をちかたの高峰(たかね)の雪の朝日影
  嗚呼山林に自由存す
  われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ

  なつかしきわが故郷は何処(いずこ)ぞや
  彼処(かしこ)にわれは山林の児(こ)なりき
  顧みれば千里江山(せんりこうざん)
  自由の郷(さと)は雲底(うんてい)に没せんとす

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
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《私の鑑賞ノート》
 国木田独歩(くにきだどっぽ)。明治4年(1871年)~明治41年(1908年)。千葉県銚子生まれ。5歳の時父に伴われ上京。その後父が司法省の役人になったことにより、16歳まで山口、萩、広島、岩国などに住む。以後単身上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、後校長の方針に納得がいかず中退。1891年洗礼を受けクリスチャンとなる。小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。特に小説において、わが国自然主義文学の先駆とされる。代表作『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『忘れ得ぬ人々』『運命論者』など。37歳で病没。

 若い頃国木田独歩を愛読したのは、私たちの世代が最後かもしれません。いや私たちの一世代前既に、独歩や徳富蘆花などという自然志向の作家は読まれなくなっていたかもしれないのです。そんな中私は高2の頃、独歩の『武蔵野』などを読み耽っておりました。「武蔵野的世界」を私が当時住んでいた郷里の自然の中に見出そうと、「我が武蔵野の道」なる下手くそな詩を作って、独り悦に入っていたこともあります。
 この詩は、その頃おなじみの詩でした。

 独歩の青年時代は、明治の勃興期とも重なります。明治憲法の制定、議会の召集等。明治新政府による、西欧列強に追いつけ式の近代化政策は着々と軌道に乗り始めていました。それゆえ有能な人材が多数必要とされ、比較的富裕な家庭の子弟たちが、全国から中央集権化されつつあった東京に続々と集まってきました。(戦後特に高度成長期は、その拡大版とも言えます。)

 旧士族の子弟だった独歩も、その中の一人だったわけです。しかし、「末は博士か大臣か」とばかりに、ただひたすら立身出世を夢見る大勢の青年たちとは、独歩は少しばかり違っていました。豪放な一面と共に、ナイーヴで繊細な面も合わせ持っていたのです。
 20歳の時、キリスト教の洗礼を受けたことなどは、その表れだと思われます。だからこの詩は、独歩のそんな時代潮流への「アンチテーゼの詩」と捉えることもできます。

 この詩は独歩25歳頃に作られたようです。当時独歩は、東京の渋谷村(現・渋谷区)に居住しておりました。今でこそ渋谷は、大東京の心臓部のような場所ですが、名作『武蔵野』で描かれているように、当時はまだ武蔵野の面影の残る一村に過ぎなかったのです。
 直前独歩は、熱烈な恋愛の末に結ばれた女性との結婚に失敗しています。そのことも、この詩の詠嘆調の基調となっているようです。

 「なつかしきわが故郷は何処ぞや」

 生まれ故郷をわずか5歳で後にした独歩には、本当の意味での故郷は見出せなかったでしょう。だから「山林」とは、少年時代を過ごした中国地方のどこかの山林でもあり、今居住している武蔵野の山林でもあると共に、「虚栄の途」と対極をなす「真実の途」としての「心象の中の山林」でもあったことでしょう。

 詩の中では「嗚呼山林に自由存す」と高らかに謳い上げながらも、ひと度「近代化の洗礼」を受けその渦中に身を投じてしまった独歩には、もはや「山林の児」としての生き方に還れるわけもありません。
 「山林(自由)か虚栄か」。これは、明治の児・独歩のみならず、現代を生きる私たちの誰の心にも潜んでいる、切実なジレンマだと思われます。
 (大場光太郎・記)  

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朝顔や

    朝顔や濁り初めたる市の空     杉田久女

    …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 杉田久女(すぎた・ひさじょ)。明治23年鹿児島県生まれ。東京女史師範附属お茶ノ水高女(現・お茶の水女子大学)卒業。小倉中学教師杉田宇内と結婚。小説を志したのち、「ホトトギス」雑詠に投句、注目を浴びる。天才的で特に光り輝いていたと言われる。昭和7年、女性だけの俳誌「花衣」を創刊、5号で廃刊することになった。昭和11年「ホトトギス」同人を除籍され、昭和21年大宰府の筑紫保養所で没した。 (平井照敏編『現代の俳句』講談社学術文庫より)
                         *
 朝顔のことは、記事としていつか取り上げようと思っておりました。少し時期を外したかもしれません。しかし、朝顔は秋の季語です。以前ご紹介致しました近所の「水路道」には、通路の両側に青紫や紺や赤などの色とりどりの朝顔が今でも咲いていて、道行く人の目を楽しませてくれています。
 確か例年、10月半ば頃までは平気な顔で咲いているようです。

    朝顔につるべ取られてもらい水  
 朝顔の秀句はそれこそたくさんあることでしょう。そんな中で皆様よくご存知のとおり、加賀千代女(かがのちよじょ・江戸中期の女流俳人)のこの句が特に有名です。
 朝水を汲むとて井戸に寄ってみると、何とまあ。つるべにまで伸びてからまった蔓や葉のさま、朝顔の花の形や色、更にはそれを取り巻く周りの景色までもがくっきりと浮かび上がってきます。そして千代女の心根の優しさが伝わってくる秀逸な句です。対して、
    朝顔や濁り初めたる市(まち)の空
 近代俳句界の才女・杉田久女にかかると、同じ女性の朝顔の句でありながら、詠み方捉える視点がガラッと変わってしまいます。

 「朝顔や」と発句(ほっく)にドーンと主役を据えるのは同じとしても。「や」という感嘆を表わす終助詞を用いたことにより、久女が目の当たりにしている朝顔が、より強調されて読み手に迫ってきます。
 続いて第二句、第三句の「濁り初めたる市の空」と、情景は遠景に急にパッと切り換ります。この「一句二章」の近景の朝顔、遠景の市の空のコントラストは絶妙です。

 この句が作られたのは、昭和2、3年頃、北九州は小倉在住の時だそうです。小倉市は当時から、工業地帯として発展途上の町だったようです。この句について久女は後に、「(小倉)市街の空気は煤煙で濁り初め、海上の汽笛にあはせて、所々の工場の笛がなりつづける」とエッセイの中で書いています。ここにおいて、この句の背景がより一層分かってきます。
 しばしば実感されることですが、夜明けから早朝の時間帯は、ピカピカの一日が真新しく創造されるような、何かしら神聖で霊妙な感覚におそわれることがあります。しかしそのような霊気も、日が昇るにつれて久女が述べているようなこと共によって打ち破られ、人間の慌しい諸活動が始まります。

 それを「濁り初めたる」と捉えた。これこそが、近代的知性を十分に身につけていた、杉田久女の真骨頂のように思われます。
 「濁り初めたる市の空」と感受した久女の云いようのない哀しみ。同時に『さあきょうも一日が動き出したぞ』という頼もしさの感じ。このあい矛盾した感情が、その時の久女の中にはあったのだろうと思います。
 しかし独り朝顔は、そんな人間界の「濁り」に決して汚されることなく、清らかに咲いている…。
 (大場光太郎・記)

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秋の日(2)

 しかし、第三聯(れん)において、詩の状況は一変します。
 この第三聯で描かれていることこそが、リルケが今身を置いている状況そのものです。その中での、詩人の本心の吐露なのです。
 この詩全体をより深く理解するためには、ここに至るまでの説明が必要でしょう。

 石丸静雄『リルケ詩集』(旺文社文庫)の解説によりますと。前年リルケは、26歳で彫刻家ロダンの弟子である女流彫刻家、クララ・ヴェストホフと、その年の1月に結婚しています。(その縁でリルケは後に、ロダンと深い親交を結び、後年有名な評論『ロダン』を著すことになります)。北ドイツの一寒村の農家を改造した家で結婚生活をスタートさせ、12月には女児も授かります。しかし経済的な行き詰まりから、間もなく結婚生活は立ち行かなくなります。
 リルケは、生涯の過渡期の重要な所産である『形象詩集』を五百部限定で発刊し、一人でパリへ旅立ちます。

 パリは、リルケにとって憧れの夢の都でした。しかし到着した1902年8月27日は、折りあしく雨の多いもの悲しい季節だったようです。リルケは着くなり、パリはラテン区のさる街区の小さなホテルに投宿しました。
 しかしたちまち街頭の騒音に悩まされ、人並みはずれて繊細な詩人の神経は苛立つばかりでした。

 「人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。」  (大山定一訳・新潮文庫より)
 小説『マルテの手記』の有名な冒頭の文には、この時の孤独と苦悩のパリが色濃く反映されていると言われています。

 この詩は、懊悩の日々を送っていた9月21日に、パリで作られた詩なのです。ですから、そのような背景を知ると、第一聯、第二聯の捉え方もまるで違ったものになってきます。それは実際目の当たりにしている風光なのではなく、大都会パリの片隅の安宿の薄暗い一室で描き出された、詩人の夢想の中の風光なのです。もしくは『主よ。我が心にも豊かなるみ恵みを!』という、詩人の心の切実な希求だったかもしれません。

 この時リルケは27歳。この後51歳で人生の幕を閉じるまで、とうとう一定の安住の地を得ることはありませんでした。ヨーロッパ各地を転々として(中国の杜甫や我が国の芭蕉のような)「漂泊の詩人」としての生涯を送ることになるのです。
 なにやらこの詩の第三聯は、その後のリルケ自身の人生を前もって予見していたかのようです。  ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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秋の日(1)

        秋 の 日
                 リルケ

  主よ、時です。夏は偉大でした。
  あなたの影を日時計の上へ横たへて下さい、
  郊野(こうや)へ風を放って下さい。

  最後の果実等に充ちるやうに命じ、
  なほ彼等に南の二日を与へ、
  彼等を完成へ押しやり
  また最後の甘さを重い葡萄(ぶどう)へお入れ下さい。

  今家のないものは最(も)う家を立てませぬ、
  今一人のものは長く一人で居るでせう、
  眼覚めてゐて、読み、長い手紙を書くでせう。
  木の葉の散り動く時、不安に
  並木の中を往来するでせう。

          (茅野蕭々訳『リルケ詩抄』より)
  
   …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 ライナー・マリア・リルケ(1875年~1926年)は、オーストリア・ハンガリー帝国の一地方都市であるプラハで、ユダヤ系ドイツ人の家庭に生まれた。20世紀を代表する詩人の一人。独特な言語表現による詩で、ドイツ詩に新たな一面を切り開いた。
 茅野蕭々(1983年~1946年)は、長野県茅野市の出身。東京帝国大学独文学科卒業。ドイツ文学者。

 リルケは、例の『マリアへ少女の祈祷』の一件以来、西洋詩人の中でも最も好きな詩人の一人になりました。

 「主よ、時です。」は、少し変わった書き出しです。しかし、この詩のタイトルや全体を読んでみれば、時とはいつなのかはおのずから分かります。ただ石丸静雄という人の訳詩では、「主よ いまは秋です」と最初からはっきり明示されております。(この詩に関しては石丸訳の方を採用したかったのですが、著作権法の関係で出来ません。)

 この詩の第一聯(れん)と第二聯は、夏から秋へと季節が移り変わるに当たって、リルケによる主への、豊かな収穫を願う詩的な祈りになっています。
 これだけ読みますと、リルケは幾分残暑の名残りをとどめた初秋に、ヨーロッパのどこかの地方の見晴らしの良い高台に立って、肥沃なブドウ畑がうねりながら広がっている丘陵地帯を一望に鳥瞰(ちょうかん)して、作詩しているかのような印象を受けます。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)     

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空の鳥、野の花(6)

 「栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

 「野の花」は文語体聖書では「野の百合」となっているようです。私が聖書を読み始めた頃そろえた、『イエスの世界』という新約の代表的な場面を写真つきで紹介した本の中でも、野の花は当時のカナン(イエス当時の古称。現在のパレスチナ)の野に咲いていたユリとして紹介されています。ただし色はオレンジや赤い色で、我が国の白百合のようなユリ科植物とは分類が違うようです。

 さて、この文を素直に受容できるか否かが、イエスの全福音を受容できるか拒否するのかの試金石であるように思います。ソロモン王VS野の花。この物質世界の現実しか見えない「肉眼」で見れば、誰が判断してもソロモンの栄華の方が遥かに勝って見えます。
 しかしイエスの「神眼(しんがん)」で観れば、さに非ず。究極的な「逆転の発想」です。

 遥か古代の遠い国の譬え話でピンとこないのであれば、今の私たちに引きつけて考えてみればどうでしょう?例えば、首都・東京の繁栄ぶりと、季節柄秋風に揺れて咲いている野辺のコスモスとでは?あざけり笑いと共に、「何バカなこと言ってんだ。そんなの東京の方に決まってんだろ。それにオレは今忙しいんだ。そんなつまんない話すんじゃないよ!」という言葉が返ってきそうです。
 ソロモン王のエルサレム→ローマ→パリ→ロンドン→ニューヨーク→東京。かように、三千年の時を越えて、飽くことなく「栄華を極めた大都会」別の表現をすれば「その時々のバベルの塔」を求め続けてきたのが、人間の歴史でもあったのではないでしょうか。私たちも、この対比はよくよく熟慮すべき問題だと思います。

 「神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」

 ここに至って「空の鳥、野の花」の比喩物語は、ようやく山上でこの話を聴いている人々に直接結びつくことになります。
 聴衆は、一連の垂訓と共に一種の変性意識状態にあったものと思われます。イエスの超自然的なキリストの力によって、聴衆はかつてないほどの「命の高揚」と共に、(一時的にせよ)以上の話を素直に受容出来るレベルにまで高められていたに違いありません。そこでイエスは、この段の結論を厳かに告げることになります。

 あヽ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。   (「マタイによる福音書・第6章30~34」)                 
 
 なお、「スピリチュアルな探求」に、新約聖書なかんずく「四福音書」と「ヨハネの黙示録」は不可欠です。最初に同書を読むように導いてくれた、私の「見えざるガイド」に心より感謝を捧げます。聖書の一節は、また折りに触れて取り上げていくつもりです。お読みいただき大変ありがとうございました。   ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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空の鳥、野の花(5)

 「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」

 新約聖書は言うまでもなく、キリスト教にとっての正典(カノン)です。しかし、これを世界的な古典文学として読んだとしても、この箇所などは比類ない美しい名文章だろうと思います。

 ソロモン王の名前はどなたもご存知でしょう。古代イスラエル(イスラエル王国)第三代の王(在位紀元前965年~紀元前925年頃)で、父はダビデ王です。
 在る晩ソロモンの夢枕に現われた神の、「何でも願うものを与えよう」という言葉に、ソロモンは「知恵」を求めたそうです。その願いは容れられ、ここからソロモンは知恵者のシンボルになりました。そのようなソロモン王の下で、イスラエル王国は繁栄を極め、ソロモンは初めてエルサレム神殿を築きました。
 
 シバの女王が、多くの随員を従え金や財宝を携えてソロモン王を訪れたのは、有名なエピソードとして後世の人々に刺激を与え、文学や絵画や音楽などで表現されてきました。
 しかし晩年は人民に重税を課し、享楽に耽り財政が悪化し、ソロモンの死後イスラエルは分裂、衰退していくこととなります。

 余談ながら。イスラエル十二部族国家は、その後イスラエル王国(北王国)とユダ王国(南王国)の二つに分裂しました。紀元前721年アッシリア帝国の侵攻により、先ずイスラエル王国が滅亡しました。残ったユダ王国も、その後興った新バビロニアの侵攻に遭い指導者の多くが捕囚となり、紀元前586年滅亡します。
 その後も周辺の覇権国家の興亡に翻弄され続け、イエス在世当時は、古代ローマ帝国の版図に組み込まれ、その属国状態でした。
 ですから、当時のユダヤの民が切に待望していた「救世主(メシア)」とは、かつてのダビデやソロモンのような、国と自分たちとを今の窮状から救い出してくれるような英雄的救世主像なのでした。その意味でも、「愛の救世主・イエス」を真のメシアとして受け入れることが出来ず、そのことがイエスを十字架上の死に至らせた、大きな要因の一つとも言われています。  
 
 また「エルサレム神殿」は、イエスの死後間もなく独立を目指して起こったユダヤ戦争に敗れ、西暦70年ローマ軍によって破壊され、以後は「嘆きの壁」を残すのみとなりました。(そしてユダヤの民は、その後二十世紀前半までの二千年近くもの永い間諸国に散り散りの「ディアスボラ」が続くことになるのです。)その後神殿跡に西暦七世紀末イスラム教の「岩のドーム」が建てられました。以後エルサレムは、ユダヤ教とイスラム教の、世界の命運をも左右しかねない深刻な対立の象徴的な舞台として、今日に至っております。  (以下次回につづく) 

 今回の記事をまとめるに当たり、以下の資料を参考にしました。
   フリー百科事典『ウィキペディア』より、「ソロモン王」「古代イスラエル」の項
 (大場光太郎・記)

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秋分の日―彼岸花

    秋分の正しき没(い)り日拝みけり   (小原青々子)

 秋分の日のきょう、当地ではあいにくの曇りがちな一日でした。秋分の日はまた、「秋彼岸の中日」でもあります。「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から言い習わされてきたとおり、確かに朝方は少し肌寒さを覚えるほどでした。しかし日中は曇りながら、徐々に気温が上昇し、少し汗ばむほどの暑さになりました。

 夕方4時過ぎ、外に出て空を見上げてみますと。それまでは全天分厚い雲に覆われていたはずなのに、いつの間にかその雲は見事に払われて、青い中空(なかぞら)にはウロコ雲が広がっていました。故知らず、懐かしさを覚える秋空です。
 既に西に傾いた日は、大山の上空を覆っているうす雲を透して、夕日となって厚木市街に赤い光りを投げかけていました。

 また昨今は、近くの桜並木を通りますと、葉群の何割かは黄色く色づき、その下道に朽ち葉となってかなり落ちています。「君が心の若き夢 秋の葉となり落ちにけむ」。『いや違う。そんなことはない!』と、打ち消しながら落ち葉を踏みしめて通ります。
 更に5月に『水田そして田植え』でお伝え致しました田んぼは、今はすっかり黄金色。稲穂が重く頭(こうべ)を垂れています。あの分ですと、刈り入れも間近でしょう。ただここ最近の風雨でだいぶ痛めつけられたようで、所々稲穂がベタッと倒れていて、何やら田全体が大波小波をうっていて痛々しい感じです。

    地霊(ちれい)の血吸いて咲きゐし曼珠沙華   (拙句)
 『そう言えば今年はまだ彼岸花を見てないなあ』と思っておりましたら。すぐ近所の空地の道近くの角辺りに、去年までは彼岸前にいつも律儀に咲いていたはずなのに。しかし何のことはない、私の記憶違いでした。咲いていたのは、今も残されている空地ではなく、その手前の、今年の春先にRパレスアパートに変わってしまった元空地の方でした。
 他の所、例えば上記の田んぼに面した道沿いにある、だいぶ古そうな小さなお地蔵さんの辺りには、本夕確認したところ、例年通り赤々とした彼岸花の群生が見られほっとしました。

 彼岸花(曼珠沙華)といえば、見ようによっては少し毒々しい赤い色です。上掲の拙句は、7、8年前そのさまを句にしたものです。
 以前、ある句誌の選者がある人の句に対して、「少し気持ち悪い句ですねえ」と評していました。そうすると私の上掲の句なども、さだめしその部類でしょう。もちろん俳句は「気持ちの良い句」であるに越したことはありません。しかし時には、自分が感じたままを素直に詠んでもよいのではないでしょうか?

 ところで。先日、仙人様のブログ「心の居間・Ⅱ」(ご覧になりたい方は、左をクリックのこと)で、『野の花』という記事を拝見してびっくりしました。横浜の三渓園内の野の花の、秀逸な数枚のお写真と紹介文です。そのお写真の中の、赤い彼岸花、萩、薄(すすき)は分かります。ところが、彼岸花の次の花。花の形状は彼岸花と全く同じなのに、花の色が「白」なのです。
 『えっ。こんなのあり?』。そこで同記事のコメントで、仙人様にその花のことをお尋ね致しました。その結果、「上の赤いのも、次の白いのも共に曼珠沙華(彼岸花)です」というご回答をいただきました。
 思えばこの地上は、本当に無数の驚きと不思議で満ち満ちております。この年になって、また一つ新しい発見をさせていただきました。
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 ご覧のとおり、当ブログ背景変えました。前からの『二木紘三のうた物語』ファンの皆様にとりましては、懐かしい背景であることでしょう。『うた物語』で、今年春頃使用していた背景ですから。確かこの背景の時に、『赤い靴』『「いちご白書」をもう一度』『故郷を離るる歌』などの傑作コメント(?)を発表させていただきましたので、私自身ひときわ懐かしい背景です。
 二木先生にご了解を求めましたところ、「どうぞお使いください」とのことでしたので、採用させていただくことに致しました。この「本を開いて」、来年の立春頃まで用いていくつもりです。少し長すぎますでしょうか?もし飽きてきましたら、どなたかコメントください。その時点で検討致します。

 末尾ながら。れいこ様。本日の『紅屋の娘』コメント拝読させていただきました。お母様の思い出につながる懐かしい歌だそうです。大切な思い出の歌ですね。
 またこの度、喜寿をお迎えになられたとのこと。心よりお慶び申し上げます。今後とも益々ご健勝で、「喜び」と共にお過ごしください。
 (大場光太郎・記)
 

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空の鳥、野の花(4)

 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。…野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」

 これは譬え話でありながら、この「空の鳥」「野の花」のあり方こそが、実は人間としての理想的なあり方であるということを示していると思われます。
 「命」と「からだ」をほど良くバランスさせた生き方が出来てくると、周りの状況はおのずから良い方向に整ってくるもののようです。既に悟境に達した人たちはよく言います。「必要なものが必要な時に、思いがけない人や状況を通して与えられてきた」。どうやら、このような人には、見えざる「自然界のサポート」が得られるようなのです。

 人間は本来、倉に取り入れる(さしずめ現代的解釈では、労働の対価としての「カネ」を将来の備えにとたっぷり貯蓄しておく)ことなどは必要ないようです。
 誤解を恐れずに極論すれば、「貨幣経済システム」という、有史以来から今日まで誰しもが当たり前のものとして受容してきたシステムは、本来の「自然の法則」からすればオカシイことなのです。自然の法則こそは人間が真っ先に謙虚に学ぶべきものですが、そのどこに「貨幣経済システム」に相当するものが見当たりますでしょうか?
 このシステムが、「人間本来のあり方」をどれだけ歪めてしまっていることか。また今日の混乱や悲劇の原因になっていることか。世がこれだけ迫っている今日、私たちは真剣に考えてみる必要がありそうです。
 という訳で、私個人としては、その大本になっている「資本主義システム」は今後益々行き詰まることはあっても、未来永劫に存続できるシロモノではないということを指摘しておきたいと思います。(但し皆様は、こんな簡単な記述だけでは到底ご納得されないでしょう。この問題はいずれまたしっかりまとめて、記事にしていきたいと思います。)

 「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」
 「野の花」は、(これまで述べてきたことにご賛同いただければ)私たち肉体人間の象徴なのでした。この文は、「怠惰に何もしない生き方を良し」とする「愚者の天国」の勧めなのでしょうか?イエスがそんなことを説くはずがありません。
 この文は、「…(表面的には)働きもせず、紡ぎもしない。」と、カッコを入れた方がよさそうです。ご存知のとおり、野の花とて一つ所に置かれたからには、必死に生きるための努力をしています。先ず土中にしっかり根を生やし、芽を出し、花を咲かせ、実を結ばせます。光合成によって、でん粉なども作り出しているでしょう。実は隠れた目に見えないところでは、大変な「働き」をしているわけです。
 だからこの文(を含め最初に掲げた全文)は、まだご紹介していないマタイによる福音書「第六章の結論部」につながっていくと考えた方がよいようです。イエスがここで説かれていることは、折角働くのであれば、ソロバンづくの表面的な働きではなく、より本質的な働きをしなさいということではないでしょうか。 (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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空の鳥、野の花(3)

 ここで留意すべきは、「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。」というイエスの言葉です。イエスは別の時に、
   私は道であり、真理であり、命である。 (「ヨハネによる福音書・14-6」)
と宣言しています。イエスほど「命」の何たるかを知悉していた人はおりません。何といっても、「私は命である」人だったのですから。 だからイエスご自身は、命それ自体を余すところなく体現され、(「からだ」はともかくとして)「命」には飲食も何の思いわずらいも必要ないことをよくご存知でした。
 しかし山上でこうして話を聴いている、夥しい民衆はそうではありません。自分が「命」と「からだ」が一体となって生きていることや、「命の自覚の程度」によってイエスの無限性、自由自在性にいくらでも近づき得ることなど、まるで理解出来なかったのです。
 命もからだもごちゃ混ぜにしていて、とにかく「日々の飲食」が彼らの最大の関心事であったのです。それゆえ、「何を食べようか…」以下のことを説かなければならなかったのです。

 イエスはパレスチナ全土をくまなく巡教して回り、そのつど多くの病人を癒しております。まるで当時は、病人で溢れかえっていたかのようです。だから四福音書とは、イエスによる病気癒しの「奇跡物語」のようにさえ思われます。
 これは当時の人々が、「命という無限で自由自在なるものが、このからだに宿っている」ことなど露知らず、自分を「肉体中心思考」という檻の中に閉じ込めていたということに他ならないと思います。
 
 このような二千年前のパレスチナの人々に向って、イエスは教えを説いたわけです。当時は魚座の二千年のサイクルが始まる頃で、物質性は最も濃密、人類史の中でも人々の眠っている度合いが最も強い時代だったようです。(「魚」はキリスト教会のシンボルの一つです)。現代的表現で言えば、今ほど波動が精妙ではなく、ずっと鈍重・粗雑な世界だったということです。
 そんな困難な状況の中で、教えを説かなければならなかったのです。「命とは何か」「真理とは何か」などという核心を、直接的に説いても当時のほとんどの民衆には理解出来ないのです。そこでこの場合の「空の鳥、野の花」あるいは同じ「山上の垂訓」の中の「地の塩、世の光」別の所では「放蕩息子の譬え」など、類い稀な比喩的な物語によって、少しでも真理理解に至らせようとしたわけです。
 
 我が国の伝統的な道の言葉に、「和光同塵(わこうどうじん)」ということがあります。「光を和らげ塵に同じゅうす」―俗な言葉で申せば、「人を見て法を説け」ということです。イエスのこの一節は、まさしくそれに当たり、真理を一段も二段も下げて説かれたものと推察されます。
 つくづくイエスのご苦労が偲ばれます。(なお十二使徒たちには、聖書に記されていないような高度な「密教」を別に説いていたようです。)  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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空の鳥、野の花(2)

 冒頭引用のイエスの教えについては、非常に分かりやすい譬えで普遍的な真理が説かれております。小難しい解釈などは不要、各人が感じたとおりに受け止めればよいのでは、と思われるほどです。
 しかしそれでは、当記事はここで終わりになってしまいます。それでは私としても困ります。そこでご参考までに、私の所感を以下に述べさせていただきたいと思います。なお、これを述べるにあたってキリスト教の正当な注釈書などは参考にしておりません。よって以下はあくまでも私独自の解釈でありますこと、予めお断りしておきます。

 先ず引用文冒頭の「それだから、あなたがたに言っておく」。これを穿って解釈すれば、「受洗者ヨハネによる、ヨルダン川での洗礼で始まった私の公生涯は、三年と定められている。旧約のイザヤ書などの預言どおり、その後私は十字架上での死を迎えることが既に決まっている。だから、今ここであなたがたに話すことは、すべて私の遺言なのだ。そのつもりで、しっかり心して聴いておいてほしい」。このような、イエスの密意が込められていると思います。

 そのような意図のもとに語られたこの文中で、何よりも注目すべきなのは、「空の鳥」を「命」に「野の花」を「からだ」に譬えていることです。ここにこの譬えを説いたイエスの、「命」と「からだ」についての捉え方が明瞭に読み取れるように思います。
 基本的捉え方として、人間というものは大きな構成要素として、「命」と「からだ」によって成り立ち生きているのだということです。

 ただ「命」と「からだ」の二つには、大きな違いがあります。
 命に譬えられている「空の鳥」は、地上高く舞い上がって空を自在に飛ぶことができます。しかし片やからだに譬えられている「野の花」は、地面にしっかり根を下ろしそこで花を咲かせ実を結ぶ。その場所から他へ移動することは出来ません。そこで、
   空の鳥 = 命 = 天     野の花 = からだ = 地
というような構図が見えてこないでしょうか?
 当ブログで何回か述べたことがありますが、およそ「命即天的なもの」は、この三次元世界の時間・空間に一切束縛されず、無限であり自由自在なるものです。そして「からだ即地上的なもの」は、この世の時間・空間にしっかり束縛されている有限、不自由なるものです。なおかつそれは変化変滅を免れません。

 本来「無限なるもの」である「命」が、「有限なるもの」である「からだ」に宿っている。天地一体なる存在が、他ならぬ私たち「人間」だと言うことがてきそうです。
 これをよく考えてみれば、人間とは神による奇跡的な芸術作品であると共に、またそれゆえにこそ究極の矛盾を抱えた存在であるということができると思います。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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空の鳥、野の花(1)

 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物(しょくもつ)にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(中略)また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るが良い。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
 (日本聖書教会「新約聖書・1951年改訳」―「マタイによる福音書(第六章25~30)」より)
                         *
 少し引用が長くなりました。古来有名なイエスによる「山上の垂訓」の、中でもとりわけ人口に広く膾炙されてきた一節です。

 先ずは私と「新約聖書」とのそもそもの関わりについて述べてみたいと思います。
 今から25年以上前の昭和57年盛春の頃。ある深夜、それまでのボォーッとした「酔生」からたたき起こされるような「呼び声」を聞きました。(またまた奇妙な話で恐縮です。その時のことは、いずれ記事にまとめることがあるかもしれません)。それをキッカケに私は、以後「スピリチュアルな探求」に向うことになったのでした。

 それまでは、例えば「神」などということは、およそ考えてみたこともありませんでした。しかし先ず足がかりとして、手始めに読んだのが新約聖書だったのです。
 当然冒頭から読み始めますから、四福音書の「マタイによる福音書」がスタートです。そして「山上の垂訓」にさしかかり、どこかの個所が(忘れましたが、あるいは冒頭引用の部分だったかもしれません)いきなり心の琴線にダイレクトに触れ、途端に涙がどっと溢れ出し止らなくなりました。
 本好きな私は、これまで人並み以上に本を読んできたつもりです。ずいぶん感動的な本にもめぐり合い、中には泣けてしかたなかった本もけっこうあります。しかしあれほどとめどもなく涙が流れたことは、後にも先にもありません。
 当時私は33歳くらい。後で正気に返って思ったものです。『こんな凄い本を、何でもっと早く読んでおかなかったのだろう』と。
 (大場光太郎・記)

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絶顛(ぜってん)

  絶顛―切り立った途方もなく高い峰
  それは心の中で
  大きく立ちはだかって
  私の行く手を阻む。

  いつかは越えなければならない絶顛
  いまだ越えられない絶顛。

  いつかそのうち いつか必ず…
  いつか…いつか…いつか…
  いつかとは一体いつか?
  時間に縛られているこの世界でのいつかだろうか?
  それともこの世界では遂に越えられずに
  時間を超えた向うの世界に
  その登攀(とうはん)を持ち越すのだろうか?

  そもそもこんな迷惑千万な絶顛を描き出す
  心とは一体何なのだろう。
  知ってるようで実は知らない我が心。

  心は良いものでも悪いものでも
  何でも好き勝手に描き出しつくり出す名人だ。
  すると絶顛も実は心がつくり出した
  幻影だったのだろうか?

  そうだ。我が心がつくり出した夢幻(ゆめまぼろし)だったのだ。
  ならば 喝! 喝! 喝! 消えろ! 消えろ! 消えろ!
  消えたぞ! 消えた! さしもの絶顛が消えてしまったぞ!
  夢の中で今にも跳びかからんばかりの猛獣が
  夢主(むしゅ)の意志次第で
  おとなしい飼い犬に姿を変えるように
  かの絶顛がなだらかな小高い丘に変わってしまった。
  何ーんだ。長いこと恐れていたのは一体何だったんだ。
  
  とにかくめでたい。さあどうしようか?
  あの丘越えて 色とりどりの花咲く丘越えて
  今度は今まで行けなかった世界へ行けそうだ。
  行こう! さあ行こう!
  行って今まで出来なかったことをかの地で叶えるのだ。

  先ず女王様のように素敵な女性と巡り会おう
  そうして結婚して世界一幸せな家庭をつくろう。
  次に何かの分野で際立って
  六十五億人からあまねく賞賛される有名人になろう。
  遂にはかつて誰も手にしたことがないような
  巨万の富をこの手で掴み取るのだ。
  そうだ! 欲張ってそれらの全てを手に入れてしまうのだ!

  …しかし、と。夢想はここでハタッと止まる。
  待てよ。あの絶顛が丘に姿を変えたように
  それらを全部手に入れたとて
  それらも夢の夢のまた夢だったらどうなる?
  夢の夢のまた夢でどんな輝かしいものを
  手に入れたって一体それが何だって言うんだ。

  絶顛…小高い丘…咲き乱れる花々
  …彼方の理想の地…理想の女性
  …これ以上ない名声…巨万の富…。
  皆な夢。夢。夢。夢。夢。夢。…。
  あることないこと何でも作り出す我が心。

  あヽ何が何だか訳が分からなくなってしまった。

                    (大場光太郎)

(追記) 心とは何か?これを詩という短いもので表現するのは
難しいですね。人はもちろん夢であろうと何であろうと、この世で
とにかく、日々精一杯努力して生きていかなければなりません。
「真剣に悩んではいけません。ふざけていい加減に遊ぶのも
いけません。真剣に騙されて真剣に遊ぶのです。」
忘れましたが、誰かの名言です。  

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秋の蔭

                    高浜 虚子

    もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭(かげ)                   
  
  …… *  …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 高浜虚子(たかはま・きょし)。本名 高濱清。明治7年(1874年)~昭和34年(1959年)。愛媛県松山市生まれ。明治21年京都第三高等学校入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治24年子規より「虚子」の号を受ける。
 明治30年松山で創刊された俳誌「ほとヽぎす」に参加。翌年虚子がこれを引き継ぎ、東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文芸誌として再出発。夏目漱石なども寄稿し、『我輩は猫である』『野分』『坊ちゃん』などは、このほとヽぎすへの連載が初発表。その他では伊藤左千夫の『野菊の墓』や寺田寅彦の『竜舌蘭』など。
 「ほとヽぎす」からは、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎などを輩出している。
 高浜虚子は、「ほとヽぎす」の理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱した。 (以上参考資料・フリー百科事典『ウィキペディア』より)
                         *
 高浜虚子は正岡子規と共に、近代俳句の創始者ともいえる俳人です。そのため略歴も少し長くなりました。

   もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭

 他の詩形でなら先ず扱わないような、日常的なありふれた事象での、季節感の発見の句です。俳句は、生活の中の文芸としての側面があるかと思いますが、そのお手本のような作品です。

 考えてみれば、どこかに何か「もの」を置けば、そこに蔭が生まれるのは当たり前のことです。あまりにも当たり前すぎて、誰もそんなことなど気にも止めようとしません。
 しかしニュートンがリンゴが木から落ちるのを見て、「万有引力」を発見したと言われるように。虚子はさすが非凡です。その時そこに「秋の蔭」を発見したのです。

 このように当たり前すぎて誰も気にも止めない事象にこそ、新しい発見につながる「何か」が潜んでいるのではないでしょうか。そう考えれば、俳句のみならず、各人のいろいろな分野のアイディアの素材は、案外日常の中にごろごろ転がっているものなのかもしれません。後は研ぎ澄まされた感性で、それをいかにキャッチ出来るかという私たちの側の問題で…。

 また留意すべきは、この句は「秋の蔭」であってこその名句だということです。これが「春の蔭」や「夏の蔭」であったら、句のニュアンスは全く違ってきます。

 秋と蔭がダイレクトに結びつくことによって、物の光りの当たらない部分の物悲しさ侘しさの気配が、そこはかとなく読む者に伝わってきます。

 (大場光太郎・記) 

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中津川寸描(2)

   株下落ただ静かなり秋の川   (拙句)

 夕方5時過ぎ、例の中津川に立ち寄りました。広々とした川に夕闇迫りつつある頃合です。日は大山の峰に既に入ってしまったのだろうか。山の上はうっすら雲に包まれていて、確かめようがありません。
 いつもの所から降りてみますと。下流に30mくらいの大堰からこちらは、例によってちょっとした湖のように満々と水を湛えています。本夕川面は穏やかで、対岸の木立や工場の建物などをくっきりと水面に映し出しています。こちら岸にびっしり繁茂した草の陰のあちこちからは、涼しい夕虫の声がしきりに聞こえています。幾分秋冷の気を含んだ風が、川原に吹き渡ります。

 堤防の中ほどの踊り段の上でぐるっと川を眺めまわしますと、もうそんな季節なのでしょう。先ず目に飛び込んできたのが、夥しい鴨(かも)の群です。いるわ、いるわ。どこから集まってきたのか、川全体で数十羽ほどはいそうです。
 堰のこちら側に、十幾つもの円形テトラポット(波消しブロック)が、Φ30㎝くらいの天辺だけ水面から突き出して二列に並んで続いています。そこに一羽ずつがちょこんと乗って、羽をたたんで休んでいます。そこを確保し損ね近くを泳いでいるのを含めて、ざっと二十羽ほどはいそうです。
 降り口から下流に行った、いつもの堤防突起の指定席に座りたいのだけれど。そこまで行けば一番近いテトラまでは5mほどで、近づき過ぎです。一羽が川中に逃げてしまうと、「我も我も」と皆逃げて行ってしまいます。それを何度も経験済みなので、降りてすぐの踊り段の所に立って川のようすを眺めることにしました。(その付近は草ぼうぼうで座れません。)

 鴨はこちら岸ばかりではなく、川の中ほどにもそして対岸にもそれぞれ十数羽ずつ群をなしております。一ヶ所にじっとしていたり、あるいは後ろに少し白い水脈(みお)を曳いて気持ち良さ気に泳いでいたり。
 時折りその中で、対岸べりの浅瀬で水面から立ち上がり周りに波紋を広げながら羽ばたきするもの、遠くで「グワァー、グワァー」とけたたましい鳴声をあげるもの、突然飛沫(しぶき)を上げて水面すれすれに滑空したかとみれば群から離れて大堰の更に下流までバタバタと飛び去っていくもの…。

 めんめめんめの実に百鴨百態のさまを、十数分ほど見飽きずに眺めておりました。
 (大場光太郎・記)

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里程標

  憂愁の曠野(あらの)に
  ただ立ち尽くす 我は旅人
  日は既に沈みて
  傍(かたわ)らに朽ちて傾きし里程標(りていひょう)は
  何を語るや

  潰(つい)え去りし夢は
  真昼野を駆け過ぎし白馬(しらうま)の如く
  過ぎ去りし日々は
  遠ざかりゆく星々の如し

  嗚呼 数多(あまた)の美しきものに背かれて
  善き運命に拒まれて―
  寂寥の風ひたすら身に沁みて
  我はただ独りなり

  我ただ独り
  荒涼の野を 放浪(さすら)いゆくなり

         (昭和55年作―大場光太郎) 

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中秋の名月

    秘めやかな蜘蛛(くも)の落下や月下の樹(じゅ)   (拙句)

 最近は当地の天候もようやく落ち着き、ここのところ秋晴れの良い天気に恵まれています。暑からず寒からずの、過ごしやすい季節を迎えつつあります。
 案にたがわずきょうも薄い秋雲が多いものの、良く晴れた一日となりました。
 さて本日は「中秋の名月」です。そこで今回はそのことについて、少し述べてみたいと思います。                        
                         *
 古来我が国では、太陰太陽暦(旧暦)の八月十五日の月を「中秋の名月」と呼び習わしてきました。例えばこの夜、月が見える場所などに祭壇を作りススキを飾って月見団子、里芋、枝豆などを盛り、御酒を供えて月を愛でてきました。また秋は収穫の時期であることから、その年の収穫物をこの夜の月に供える風習が各地に残っております。そこでこの月を「芋名月」と呼ぶこともあります。

 しかしなぜ八月十五日の月が「中秋の名月」なのでしょう。そのことを少しご説明致します。
 旧暦では三ヶ月毎に季節が変わり、「一、ニ、三月」は春「四、五、六月」は夏「七、八、九月」は秋「十、十一、十二月」は冬と分けられていました。そしてそれぞれの季節に属する月には、「初、中(仲)、晩」と季節をさらに細分化しました。この方式に当てはめますと、秋である七、八、九月のうち、「八月」は秋の真ん中で「中秋」となります。
 また旧暦は太陰暦の一種ですから、日付はその時の月齢にほぼ対応しています。月の半ばである十五日はだいたい満月になりますから、
    十五夜の月 = 満月
と考えられるようになりました。(なお「仲秋の名月」との表記が一般的ですが、以上のことから「中秋の名月」の方が正しい表記です。)
 しかし仔細に見てみますと、(いろいろな理由で)実際の旧暦八月十五日の中秋の名月は、満月ではないことの方が多いようです。十年間のヅレを平均しますと、「+0.8日」―つまり実際の満月より中秋の名月の方が0.8日分早いようです。ちなみに今年の満月は九月十五日であり、一日分(+1.0日)早かったことになります。
                         *
 夕方少し南に寄った東空に昇り始めた名月は、低くわだかまっている雲によってさえぎられがち。時に雲間を透かして鈍い赤さの、潤んだ大きな月となっていました。
 それが夜八時も過ぎると。名月は中空近くまで昇っており、雲の切れ間から白い顔を煌々とのぞかせていたり。少し経つと周りを取り囲んでいる雲にまるっきり隠れてしまったり。かと思うと、薄い雲間から横すじ雲がたなびくまだらもようの顔で現われたり。
 このようにお月様の変わるさまも、なかなかの風情です。
 そして我がよって立つ下界はと辺りを見渡しますと、おちこちの暗がりの草むらからは美しい虫の音が絶えず聞こえてきます。吹き抜ける風も、涼しい秋の夜風です。
 こうしてみると確かに、旧八月十五夜は観月には佳き夜です。ただ惜しむらくは、街の灯りが強すぎて、名月の情趣が著しくそがれがちなことです。

 (追記) 当記事は、以下を参考にしてまとめました。
        フリー百科事典『ウィキペディア』―「月見」の項
        こよみのページ・暦と天文の雑学―「中秋の名月はいつ?」の項
 (大場光太郎・記) 

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『赤毛のアン』読みました(2)

 初夏のある日、マシュウ・カスバットは引き取ることにしていた男の子が汽車でやってくるというので、駅まで迎えに行きます。しかし手違いによって、マシュウを待っていたのは赤毛でそばかすだらけの女の子でした。
 駅の外れの砂利山の上での、アン・シャーリー登場のシーンは印象的です。私はこのシーンを読んだだけで、アンがいっぺんに好きになってしまいました。

 こうして11歳の赤毛の少女アンは、すったもんだの末、小さな三角の半島のエヴォンリーという自然豊かな土地のグリーン・ゲイブルズ(緑の破風屋根の家)に引き取られることになります。
 以来アンが16歳になるまでの数年間の、その家のマリラやマシュウとの心温まる泣き笑いの日々。無二の親友ダイアナとの友情。美しい自然とのふれあい。「嵐を呼ぶ少女」アンが巻き起こす学校や地域での数々の騒動。土地の人々とのトラブルと和解。後の恋人(になるらしい)ギルバート・プライスとの確執と競争心…。

 読み進んでいくうちに、絶えず「?」がついたことがあります。それは「孤児の少女」アン・シャーリーが、どんな困難な状況に遭遇しても若竹のように曲がらずひねくれずすくすくと育っていく、そんなことが本当に可能なのだろうかということでした。
 私自身の幼少時の「極貧の体験」からして、『逆境に置かれた子供にとって、世間はそんな甘いもんじゃあないはずだがなあ』という想いがどうしても拭いきれないのです。私の場合父親がいないだけで、けっこうな悲哀を味わいました。まして両親共にいないのであればなおのこと、この物語が始まる11歳以前に深いトラウマが心の奥深くに刻み込まれてもおかしくないはずなのに…。これは原作者・モンゴメリ自身が、「極貧の体験者」ではなかったということでしょう。(もっともそんな境遇であれば、こんな名作もまた書けたはずがありませんし。)

 しかし「並みではない魂がひそんでいる」アン・シャーリーは、自由奔放な想像力と活発な行動力を共に持ち、数々の悲喜劇や困難などものともせずに乗り越え、衆に抜きん出た立派な娘に成長していくのです。
 そしてそのことこそが、100年もの長い間、世界中のその時々の少女を中心とした無数の読者に深い感銘を与え、読みつがれてきたゆえんなのでしょう。
    こんなにたくさんの幸せが、
    毎日の中にかくれているなんて。
 (何度でも引用しますが)劇団四季のこのキャッチコピーは、『赤毛のアン』全体を一言で的確に捉えていると思います。アン・シャーリーは本当に「幸せ探しの名人」です。

 だから「?」さえ、物語だからと受容してしまえば、この作品はやはり名作であることに間違いありません。特筆すべきは、モンゴメリの物語をつむぎ出す類い稀れな想像力そしてエヴォンリーの自然描写の見事さです。特に自然描写。同じ季節―例えば春なら春を何回迎えようと、そのつど違った新鮮な角度から春の美しさを的確に描ききっています。
 それに随所に散りばめられた、ウイットとユーモア溢れる文章。そしてハッとするような警句。最後に、私のお気に入りになった文章をご紹介したいと思います。

 「あたしたちはお金持ちだわ」とアンが断言した。「だってあたしたちには、今まで生きてきた十六年間があるし、みんな女王様のように幸福だし、多かれ少なかれ想像力もあるわ。ねえみんな、海をごらんなさいよ。―銀色の影の中に、眼に見えないいろんなものの幻影があるわ。もしあたしたちが百万ドルや、ダイヤモンドをくさるほど持っていたら、あの美しさを楽しむことはできないのよ。」 (「第33章」より)   ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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『赤毛のアン』読みました(1)

    こんなにたくさんの幸せが、
    毎日の中にかくれているなんて。

 この言葉をご記憶でしょうか。劇団四季・ミュージカル『赤毛のアン』ポスターのキャッチコピーでした。6月初旬、相鉄海老名駅の壁面でたまたま見つけたものでした。
 今年2008年は、カナダの女流作家・モンゴメリが『赤毛のアン』初版本を発刊してから、ちょうど満100年に当たるそうです。劇団四季の公演も、その記念行事の一環だったのかもしれません。(なお、同公演は既に終了しております。)

 その日の夜そのことを記事にし、その中で出来れば「原作を読んでみるつもりで、読んだら記事にします」とお約束致しました。次の日曜日有隣堂本厚木店に行き、買い求めたのです。それも新潮文庫と角川文庫の二冊あって、結局迷いながら両方とも買ってしまって。後で冒頭部分を読み比べて、活字の大きさや(60歳間近になりますと、これは大きな問題です)文章の読みやすさから、角川文庫の中村佐喜子訳の方で以後読み通しました。但し同文庫では、アンの名前は「アン・シャーリィ」ですが「アン・シャーリー」が一般的だと思いますので、この文中ではそちらの名前を用います。

 さていざ読み始めても、一気に…というわけにはいきませんでした。原則毎日数ページ、時には読めない日もあり。読了はつい10日ほど前でした。
 理由はいくつかあります。その第一は、私の場合(碧野圭著『辞めない理由』でも述べましたが)およそ小説を読むことからすっかり遠ざかっていることです。どうやら読書にも、ある種の慣性のようなものが必要なようです。

 遠い昔の、高校生の頃のことを思い出します。高1で私の進路は就職と決まり、以来学校の勉強などそっちのけ、何かに取り付かれたように一般読書に耽る日々でした。授業が終わるとほぼ連日図書館通い。例えば土曜日の授業が終わった午後には、特別に分厚い本を借りることにしていました。そして帰りの汽車の中で読み、帰って家で夜通し読み、次の日曜日は終日読み、それでも読み終わらなければ通学の車中や授業の合い間に読み。そうして読了し、夕方今度は文庫本の文学作品を借りてくる。
 そうして読んだ、『罪と罰』『赤と黒』『嵐が丘』『神曲』『二都物語』『父と子』…。今ではそれらの内容などは、全部といっていいほど忘れています。ですから、あの頃の読書体験は、その後の私にとって何の意味があったのやら?しかし、当時のその集中力に、今の私はただただ感心するばかりです。

 それに。言ってみれば『赤毛のアン』は、孤児のアン・シャーリーをヒロインとする少女小説です。このことも、遅々として進まなかった理由の一つかもしれません。これが例えば『十五少年漂流記』や『宝島』だったら、もっとはかどっていたのかもしれません。(いずれも小学生の時、少年版を読んだだけです。)    (以下次回につづく)     (大場光太郎・記) 

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ご報告致します。(2)

 当ブログ開設以来、4ヵ月余。きのう9月10日(水)で135日が経過しました。そしてきのうで、開設以来の総訪問者数がちょうど2000人に達しました。 これはひとえに、当ブログを訪問してくださる皆様方の賜物であり、心より深く感謝申し上げます。
 かねてより申し上げているとおり、今回も訪問者数の概要を以下にご報告致します。ただし前回同様今回も、これらの数字には私自身の分も常に含まれております。ご了承ください。(その後除外を試みましたが、うまくいきませんでした。)

 (1)開設(4月29日)~9月10日分
     訪問者合計    2,000 人
     日 平 均        15 人
 (2)過去30日分
     訪問者合計      474 人
     日 平 均        16 人
 (3)訪問者数1000人当たり対比
     前回  78日で到達
     今回  57日で到達
     今回/前回比    0.73 (73%)
 (4)開設~今現在
     コメント数        106 件  (うち私の返信51件)

 前回(7月15日)は、『二木紘三のうた物語』閉鎖という大ハプニングがあり、一時的に訪問者殺到(?)という盛り上がる出来事がありました。今回は特別そういうことはありませんでした。むしろ、どちらかというと今月は訪問者数が伸びなやみがちです。

 またコメントもややもすれば止まりがちです。当ブログは、内容的に硬い、長文で読むのに骨がおれる、時にはスピリチュアルなとんでもない分野も扱う…などが要因なのでしょうか。皆様、記事をお読みくださってもなかなかコメントはしづらいようです。
 「文は人なり」とか申しますが、これは私自身の性格的なことが多分に影響しているのかな?と思います。そこで当初から、『コメントはあまり来ないだろうなあ』とある程度予想しておりました。
 それでも今現在、私の返信を除いた「コメント数55件」。上出来です。お寄せいただきました皆様には、改めまして深く感謝申し上げたいと存じます。
 今後とも、コメントがあろうがなかろうがあまり気にすることなく、私が今一番述べたいことを日々淡々と記事にしていきたいと思います。お読みいただいて、感ずるところがありましたらどなたでもお気軽にどうぞ、というスタンスです。

 「スピリチュアルな記事」。これは、好き嫌いがハッキリ分かれる分野かと思います。しかしこれは、我が半生をかけて最も関心をもって探求してきた分野です。これを除外致しますと、書く材料が大きく制限されてしまいます。今後とも、どうぞご寛恕賜りたいと存じます。
 それに「真理」とは実は「霊的真理」のことなのであって、「物質的真理」というのは本来ありえないことです。私たちは先ずもって「霊的存在」なのですから。「肉体人間」は有限、「霊的存在」は無限です。
 
 どうぞ今後とも、当ブログごひいき賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)       

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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(5)

 本シリーズ(2)で引用した文中に、解脱して「真理」を体現すればどうなるかを、少しだけうかがわせる箇所があります。
 すなわち真理を体現するということは、「自分の生活における最大のもの」であり、「生々として水々しく生きている「今」を」体感することであるということです。
 ポイントは二つあると思います。一つ目は「真理即生活」。日常生活から遊離した真理はあり得ないということです。それともう一つは、「生々として水々しい「今」」と完全に一致して生きることが真理の体現なのだということです。

 ところで(改めて申すまでもありませんが)、当ブログのタイトルは『今この時&あの日あの時』です。そしてURL(ブログアドレス)の中に「be-here-now」というワードを入れております。これは「今この時、この場所に集中して生きる」という意味です。開設当初のタイトル解題記事でも触れましたが、過去の後悔に生きず、未来の不安に生きず、ただ「今この時」にフォーカスして生きていきましょう、という私の願いを込めたつもりです。そこでも書きましたが、原理としてもし人が100%今にフォーカスして生きる生き方がマスターできたとしたら、その人は年を取ることなく永遠の若々しさで生きられるそうです。
 実はこのような人々のみが生きている世界が、何百年か先の、この地上の未来図なのです。私たちから見れば子孫に当たりますが、もし仮にその世界を覗けるとしたら、さながら神々が生きている地上の楽園に映ることでしょう。(その土台を創る重要な時代こそ「今この時」です。そして上記の生き方を今この時代でマスターした方々は、その何百年か先でも生き続けているかも知れません。)
                        *
 本題からだいぶ逸れてしまいました。
 スコットランド紳士がS大師に語ったような、「哲学や高度な形而上学(物質を超えた世界を極める学問)」が「本当かどうかは大した問題じゃない」と言うのなら。私たちが常日頃、『あヽこれは弱った問題だ』と思って頭を抱えたり悩んだりする出来事などは、一体何だというのでしょう?迷妄(まよい)つつ生きているがために、それらは本当は過ぎ去っていく幻に過ぎないのに、さも実体のある大問題のように深刻に捉えているだけなのではないでしょうか?
 迷いを祓ってよく観てみれば、それらはすべて本当に「大した問題じゃない」のかも知れません。よって今後とも、そんな時は一度立ち止まって、
 「息子よ。(あるいは娘よ。)そんなことは大した問題じゃないのだ」
という、「内なる大師」の声が聴こえるようでありたいものです。   ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(4)

 おそらく「真理」というものは、書き記されたどんな書物や理論体系あるいは真理を悟得した者の名言・卓説によっても、把握できるようなものではないのでしょう。例えば、「神という言葉」あるいは「愛という言葉」が「神そのもの」「愛そのもの」ではないのと同じように。それはいかなる言葉でも表現できない、およそ言葉や観念を超えたものだからです。それは、自ら「解脱」して直接体得する以外にはないものなのでしょう。(なお理論的には、神=真理=愛です。)

 「解脱とは自由の別名である」という、ある覚者の言があります。これは裏を返せば、解脱に至っていない間は常に「不自由」なままなのだということです。
 なるほど私たちはいかにも不自由です。先ず「肉体だけが自分」と思い込んでいるがゆえに、2m未満の有限な肉体に縛られています。肉体が痛みでもすると、まるで自分のすべてが病んでしまったかのようにおろおろします。肉体が別だからあの人は他人であり、そこにあらゆる争いの根源である「分離感(エゴ)」が生まれます。
 また私たちは「時間」にも縛られています。過去現在未来―「直線的時間」という「誤った時間観念」に囚われそれを超えられないため、「人間はある年令に達すると老化して死ぬもの」と強固に思い込んでいます。「真人」なら、時間を自在にコントロール出来てしかるべきですが、逆に時間にコントロールされてしまっているのです。
 これらはすべて「真理」を知らないがための、自己限定であり自縄自縛です。(一般の方々はご存知ないかもしれませんが、肉体意識からも時間観念からも解脱して、何百年も若々しい姿で生きている人が現に存在するのです。いつか機会がありましたら、当ブログでご紹介致します。) 

 しかしもっと始末が悪いことに、私たちの多くは「真理を知らないということすら知らない」で平気な顔で生きています。それはあたかも眠っている者が、眠っていることを知らずにぐっすり眠りこけているのと似たようなものなのかも知れません。いくらレベルが上がったとはいえ、私を含め人類の多くは「真の目覚め」からはほど遠い状態なのです。
 はっきり申し上げます。今は「目覚めの時」です。「時は今!」。今ほど重要な時はまたとありません。(その理由も、いずれまた…)。そして「目覚め」に、老若男女の別などまったく関係ありません。

     自分が眠っていると
     気づいた人は、
     その瞬間、
     すでに半分目覚めている。
         (「聖なる知恵の言葉」より)   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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白露

    かぐや姫今も泣きゐし夜露かな   (拙句)

 先日『二十四節気について』という記事を公開致しました。きのう9月7日はその一節気である「白露(はくろ)」でした。白露とは、
 陰暦8月の節のこと。秋はいよいよ本格的となり、野の草には露が宿るようになる。「陰気ようやく重なり、露凝って白し」という中国の古書から名づけられました。

 さて、白露のきのうの当地でのようすはどうだったかと申しますと―。
 日曜なので午後2時半過ぎ、バスで本厚木駅方面に向かいました。晴れて少し暑いくらいの感じでした。駅周辺で用を済ませて、4時半過ぎ頃本厚木駅内のミロード商店街のコーヒーショップに入って過ごしました。
 午後6時過ぎコーヒーショップを出て帰路につくべく、駅北口のバス停に行こうとしました。するとミロード内通路の出口は人がいっぱいです。何やら嫌な予感がしました。『あれぇ。ひょっとしてまたかぁ!?』。見事嫌な予感的中です。近づくほどに、もの凄い雨音です。人混み越しに外を見てみました。それこそ、地面をたたきつけるような豪雨ではありませんか。これはどうも、いいさか度が過ぎる夕立のようです。

 出がけの天気からして、傘など持ってはおりません。恨めしげに立っている周りの人の多くもそのようです。
 目指す北口広場バス停は、そこからほんの20mほど先。駅の売店でビニール傘でも買って、出ようとすれば出られます。しかし外通路もその先の広場も、10㎝角くらいの敷石をはめ込んだ地面は、既に水で溢れかえっています。たとえ傘があろうとも、とにかく一歩たりとも外へ出ようという気がそがれてしまいます。
 立っている人の誰もがそう思っているようで、中には傘を持っている人もいますが外へ踏み出そうとはしません。そういえば、豪雨で煙ってしまっている広場にも、その先の車道をはさんだ向うの舗道にも、人影はほとんど見当たりません。

 私もそこに立ち尽くしてようすを見ること10分ほど。雨はいよいよ激しさをますばかり。『ダメだ、こりゃあ』。しばらく帰るのをあきらめて、ミロード店内の別のコーヒーショップに入って待つことにしました。店から15分おきくらいに外に出ては雨の具合を確かめて、7時過ぎ小降りになったのを見計らって店を出ました。駅売店でビニール傘を買い、ようやく帰路につきました。

 それに致しましても。今年はこのような突発的な大雨が、何と多い年なのでしょう。その次第を、当ブログ記事でもこれまで折りに触れて述べてきました。
 先ず既報のとおり、3~5月の春季における関東地方の降雨量は、気象庁が観測を始めて以来最大量だったそうです。梅雨時はまあ例年どおりだったとしても。その後特に8月の旧盆過ぎは、夕方から夜半にかけてしょっちゅう稲光、雷鳴、大雨のパターンに見舞われた感覚です。

 『人心乱るるがゆえに天候乱る』。ついつい、そんなあらぬことを考えたことでした。

(大場光太郎・記)

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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(3)

 引用文中の「私」であるスコットランド紳士は、かつて母国の大学で医学を学んだ人です。実際世界各地を回り多くの人を癒し、各大陸でそれなりの名声も得ていた人です。いわゆるインテリですから紫色の法衣の人(S大師)に、みやげ話のつもりで、デカルトを嚆矢とする西洋近代哲学の概略などを滔々と話したのに違いありません。対して、非常に静かに傾聴していたS大師の一言は強烈です。
 「息子よ、そんなのが本当かどうかは大した問題じゃないんだよ。」

 これは聞きようによっては、その人の半生を賭けて培ってきたものの全否定であると共に、東洋的なるものから「西洋的なるものへの全否定」とも取られかねない由々しき発言です。全インドを支配している栄光の大英帝国の一員である紳士が、植民地化されている民の側から否定されている構図です。ですからその人にとっては、「人から大きなハンマーでなぐられた以上の驚き」だったわけです。
 もしその言葉を投げかけられたのが、この私であったなら。「何だと、折角話してやったのに大した問題じゃないだと!」とばかりに逆上して法衣の人につかみかかるか、または『こんなものの道理の分からん人とは付き合ってられん』と、折角千里の道をヒマヤラくんだりまでやって来たのに元来た道を引き返してしまったかもしれません。
 こうして「人間を解脱させる第一歩」すらクリアー出来ずに、またぞろ迷妄(まよい)の世界にまい戻り、そのただ中でさ迷いながら生きることになっていたかもしれません。

 しかしさすがその人は違います。その強烈な言葉を投げかけられ大変な衝撃を受けながらも、かえってその言葉によって「完全にカラッポ」になってしまったのです。そしてその言葉によって、その人は「完全に変わってしまった」のです。
 
 デカルト、パスカル、スピノザ、カント、ヘーゲル、ニーチェ…。いかに歴史上優れた哲学者たちと称されてはいても、彼らの高度で精緻な「西洋近代哲学」なるものは、しょせん彼らの心が造り上げた壮大な観念体系なのです。それは根底に大きな矛盾を抱えた、人類の根本的な救済にはあまり役に立たないばかりか、かえって世界を混乱に陥らせるだけなのではあるまいか?
 実はその人は前からそのことにうすうす気がついており、それらに最終的な充足感を見出せず、「解脱に到る真理」を常に求めていたのです。

 しかしそうは言っても、「西洋近代原理」はその人の心の奥深くに根付いてしまっており、それをベースにして「言葉、考え、思想、イメージ」などを造り上げていたわけです。それがS大師に出会ったことによって、一気に意識の表面に踊り出してきて、前記の講釈になった。そして「そんなことは大した問題じゃないのだ」と、ビシッと破折(はしゃく)された。
 本来「真理」というものは、心が造り上げた「言葉、考え、思想、心像」などとは全く別の次元のものなのであり、それら心が造り上げた観念では決してアプローチ出来るものではないのだ…。
 こうして、その時その人の迷妄(まよい)の暗雲が祓われたわけです。

 翌日S大師は言いました。「君に受け容れる用意が整っていなければ、(自身の解放の端緒につくことは)私の言葉でも出来なかったのだよ。」
 古来から定理とされている有名な言葉があります。
 「弟子に完全な準備が整うまで、師はその前には現われない」 (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)                                       

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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(2)

 紫色の法衣の人(実はS大師)は、スコットランド紳士の半生のすべてを知っているらしいことに、その人は改めて驚きました。「私は長い間君と一緒にいた」という言葉が、文字通り真実であることを覚ったのです。
 それ以降の二人のやり取りなど重要なことが述べられていると思われますので、少し長くなりますが『解脱の真理』本文をそのまま引用したいと思います。
                          *
 私は納得がいくと、今度は私がこれまでに学び知ったことをこの方に知って貰いたいという強い欲望がでた。それで私は哲学や高度の形而上学について講釈をしだしたのである。いくばくかの時間(というのはもはや時間はこの世から消え去ったかと思われたからである。どれだけの時間がたったかは分からない)の間その方は非常に静かに聞いていた。私はある程度の印象は与えたと思った。私には少なくとも関心を寄せるだけの価値はある筈だと思った。やおらその方は次の言葉を発した。
 「息子よ、そんなのが本当かどうかは大した問題じゃないんだよ。」
 もし人が大きなハンマーで私をなぐったとしてもこれ程までの驚きは喫しなかったろう。そのあとから又語る声が聞こえた。
 「息子よ、明日また会おう。君の旅行がうまくいくようにみんな準備がすすんでいるのだよ。みんな手筈は整いつつあるからね。」
 その方は向きを変えると完全にカラッポになってしまった私を残して歩き去ってしまった。
 然り、私はカラッポであった。
 その方の口数少ないその話を私は深く考えてみた。その言葉は私を完全に変えてしまった。私が後生大事にこれまで持っていたものはみんな私の心の中で造り上げたものだったのだ。そのために自分の生活における最大のものを私は失ってしまっていたのだ。生々(いきいき)として水々しく生きている『今』を失っていたのだ。私の持っていたのはただの言葉、考え、思想、心像(イメージ)にすぎなかったのだ。この長い年月の間何という馬鹿なことをしてきたものか。
 それにしてもこの短い言葉の何という有り難さよ。お蔭で、これまで探し求めてきたものが今度こそ遂に見つけ出せるぞ、と心は思い勇むのであった。
 翌日その方は満足の微笑みを浮かべながら早目にやって来られた。
 「息子よ、これで君は人間を解脱させる真理の第一課を学びとったのだ。君はこれまで縛られていたのだ。しかし今や自分を解放し始めたのだ。」
 「そうです。あなたがしてくだすったのです。」
 「いやいや、君に受け容れる用意が整っていなければ、私の言葉でも出来なかったのだよ。」   (以上、本文P35~P37まで引用)   (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)                                   

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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(1)

 最初にお断り致します。このシリーズは、以下の本をもとにまとめました。予めご了承ください。
    『解脱の真理―(ヒマラヤ大師の教え)』 (霞ヶ関書房刊)
                         *
 スコットランド高地生まれのその人は、7歳の頃既に多くの霊的体験をしていたそうです。ただ一枚のヴェールだけで我々を引き離している「不可視の世界」が、物質界と同じようにその人には見えていたというのです。子供の頃何とその人は、イエス・キリストの顔を間近に見たといいます。それは本や絵画などに描かれている観念的な姿などではなく、イエスの生命そのものが躍動する生ける顔容(かんばせ)だったといいます。

 第一次世界大戦が終結した1920年前後のある時、このスコットランド紳士の前に、ある人の霊姿(れいし)が現われ、ヒマラヤ山脈のとある場所に行くように告げられました。そこで、ゆえあって一般人とは隔絶して生きているR大師に会い、「その下で、やり残した修行をせよ」と言うのです。
 その人は、前世でR大師の弟子だったのです。しかし修行途中でその時の人生が終わってしまったため、今回の人生で改めて修行を完成させるのが目的でした。
 (注記。高度なレベルの修行をマスターしたヨガ行者などで、自分自身を遠隔地に自在にテレポテーション出来る人が現実に存在します。)

 こうしてその紳士は、当時滞在していたカナダのモントリオールから海路はるばるインドを目指すことになります。多くの日数をかけてインドに上陸し、今度はインド国営鉄道と山岳鉄道に乗って、ヒマラヤ山脈の麓の町まで着きました。そこから目指すチベットに入るためには、その町で入国許可が下りるのを待たなければなりません。

 町のホテルに宿泊すること3日目。ホテルから町の方へ歩いて行くと、紫色の法衣をまとった人がいるのに気づきました。法衣の人は、その人の前までつかつかと歩み寄り、「やあ、息子よ。とうとうやってきたね」と、流暢な英語で語りかけてきました。(当時インドは英国領だったため、教養あるインド人は英語が話せたのです。)
 法衣の人物は更に続けて、
「私は長い間君と一緒にいたのだが、君はそれに気づかなかった」
と奇妙なことを話しました。しかしその言葉で、その人はハタッと気がついたのです。幼少の頃から、耳から聞こえてくる外からの声ではなく、耳の内側で鳴り響いていたのが法衣の人の声に他ならなかったことを。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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偶成

        朱熹 (?)

  少年易老学難成    少年老い易く学成り難し
  一寸光陰不可軽    一寸の光陰軽んずべからず
  未覚池塘春草夢    未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
  階前梧葉已秋声    階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声

                 (一部の漢字については新漢字表記としました)

   …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

 《私の鑑賞ノート》
 朱熹(1130年~1200年)。南宋の思想家。朱子は尊号。宋代に始まった新しい儒学(宋学)を首尾一貫した体系にまとめ朱子学として完成させた。中国の明、清王朝をはじめ13世紀以降の朝鮮、そして江戸時代の我が国に多大な影響を与えた。

 朱熹の略歴をご紹介しました。そこで先ずお断りしなければなりません。明治の漢文教科書以降、この漢詩の作者は朱熹とされてきました。この私も、昭和40年代前半高校の漢文Ⅱでそう教わりました。しかし近年の研究の結果、どうもこの詩の作者は違う人物らしいということが解ってきました。今現在は作者不明という段階のようです。よって今回は、作者名に(?)を付しました。

 おそらく50代以上の世代で、この詩を知らないという人は皆無かと思われます。それほど広く人口に膾炙しております。この詩の中の「一寸の光陰軽んずべからず」は、この部分だけ独立してことわざとしてもよく用いられます。
 今さら、一々の解釈など無用だと思います。ただ、当ブログを訪問される方は、比較的年齢層の高い方々と推察致します。そこで、以下のことを述べさせていただきます。
 
 私は、今回改めてこの詩を読み返して思います。その発句の「少年老い易く学成り難し」に、『確かにそのとおり。高校3年でこの詩と出会った時、もっと強く肝に銘じておくべきだったよなあ』と。

 この詩を初めて学んだ18歳の紅顔の美少年(?)も、今では「既に秋声」を聞く年代です。本当に「光陰矢の如し」の感を深く致します。では我が前途に待ち受けているものは、もはや悲嘆と諦めだけなのでしょうか?私は決してそうは思いません。

 「何かを始めるのに、遅すぎるということは決してない」
いつか読んだ本の中の、誰かの印象深い言葉です。それより何より鼓舞されるのは、 「Boys Be Ambitious. (少年よ大志を抱け)」の、クラーク博士の次の言葉です。
 「人が何ごとかを成そうと思うのなら、身はたとえ老人であろうとも、心はボーイ(少年)でなければならない」
 (大場光太郎・記)

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星月夜

    オルフェウスの竪琴をふと星月夜  (三重県「音の一句」採用の拙句)

 きょう当地では、快晴の秋晴れの一日となりました。日差しはさして暑からず、街並みに吹き渡る風は心地よく、気持ち良い秋の一日でした。
 
 夕方6時半頃所用で車で外出しました。この季節、もうその時間ともなれば、既に薄暗く街ははや暮色に包まれています。
 西の大山の秀峰にはわずかに雲がかかり、うすくすじを引いて上空にのびた巻き雲がみごとな茜色に染まっています。大山の南寄りの空には、今にも虚空に消え入りそうなほどに薄い眉月(びづき)が、うっすらと掛かっております。中空はまだ深い青い色をとどめ、南空の幾すじかの巻き雲も美しい夕焼けの色になっておりました。
 
 夜8時過ぎ帰宅し、車から降りて空を仰ぎました。雲一つない夜空です。ただ惜しむらくは、街の諸々の灯りが明るすぎて、認められる星はあちらに一つこちらに一つと点在しているのみであることです。南西の空に輝く金星が一番明るく、あと見えているのは一等星だけのようです。二等星は2×2で明るさが減じられます。つまり一等星の1/4の光度しかありませんので、街のこの明るさでは探すのが容易ではありません。

 冒頭の句は、2年ほど前『俳句のくに・三重「音の一句」』で佳作入選した句です。マニュフェストの提唱者である北川正恭が県知事だった、今から10年ほど前から三重県は県起こし事業の一環として、その年々でテーマを決めて(例えば「水の一句」「風の一句」など)全国から新作の俳句を募ってきました。俳聖・松尾芭蕉の出身県(旧伊賀の国)であることから、俳句という文芸を三重県から発信していきたいという趣旨のようです。
 私も某俳句誌でそれを知ってから毎年、テーマに沿った句を10数句ずつ投稿してきました。これまで6回ほど佳作入選しております。ちなみに、全国のみならず世界各国から「テーマ句」「自由題句」の二部門合計で、毎年200万句くらいの応募があるようです。入選した句は、翌年の夏頃角川学芸出版が一冊の本として出版し、その中に掲載されます。

 オルフェウスはご存知のとおり、ギリシャ神話に登場する吟遊詩人です。オルフェウスはまた、竪琴の名手でもありました。その技は非常に高度で、彼が竪琴を弾くと森の動物たちが集まって耳を傾けたと言われています。自然界の生物たちが耳をそばだてたということは、オルフェウスの竪琴の音色が本物であったことの証明だと思います。
 またオルフェウスの事跡として、亡くなった妻を取り戻すべく冥府に入った「冥府くだり」は有名です。

 今から数年前の残暑の頃。「深夜涼み」のために外に出て、近所の草地(今はもうありません)に腰を下ろしながら夜空を眺めていました。12時過ぎの真夜更けのこととて街の灯りもだいぶ落ちていて、天の川もうすぼんやりと認められるくらいの星空でした。
 『あれら無数の星々は、ある規則正しい法則によって布置されているんだろうなあ。かくあらしめている法則はまた、音無き「星界の音楽」によって真釣合っているのかもしれない。その音楽を表現するとすれば、オルフェウスの竪琴の響きになるのかもしれないなあ』。そんな取りとめもないことを考えながら、しばし眺めていました。冒頭の句は、そのことをもとに後でまとめたものです。ちなみに「星月夜」は秋の季語です。

 (大場光太郎・記)

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素朴な琴

               八木 重吉

  この明るさのなかへ
  ひとつの素朴な琴をおけば
  秋の美しさに耐えかね
  琴はしずかに鳴りいだすだろう

             (「秋の瞳」より)

   …… * …… * …… * …… * …… * ……

 《私の鑑賞ノート》
 八木重吉(1898年~1927年)。東京生まれ。東京高等師範学校卒。キリスト者として神と愛を信じ、希望の微光を見出そうとする詩を残した。29歳で病没。(大岡信・選、集英社文庫「ことばよ花咲け」の経歴を引用)

 9月に入って日射しが弱まり、晴れてもいよいよ秋晴れの感を深くするきょうこの頃です。そんな良き秋晴れのある日、詩人は「ひとつの素朴な琴をおけば」と想像するのです。
 「素朴な琴」を置くのにふさわしい場所とはどこなのでしょう?詩の中で場所は明示されていません。野原のただ中でしょうか?人々が絶えず行き交う街の中でしょうか?それとも日差しが明るく差し込むとある家の中でしょうか?
 
 どこでもOKだと私は思います。たとえどんな場所であろうとも、そこにひとつの琴をポンと置くことによって、そこはそれまでのありふれた日常世界から、いわば非日常性をおびた世界へとたちまち変容してしまいます。
 そうであるためには、琴は飾り気のない古(いにしえ)からの伝統的な、「素朴な琴」でなければなりません。贅を凝らした近代的な琴ではなく、ましてや直前から大流行し始めた大正琴などではもちろんなく。

 そして、「秋」はあくまでも美しくあらねばなりません。「秋の美しさに耐えかね」て素朴な琴が同調してしずかに鳴りいだすほどに。
 そうして鳴りいだした琴は、さてどんな調べを奏でるのでしょう?今美しい秋のただ中にわが身がいると思って、イマジネーションの中の琴の音なき音色をじっくり聴いてみましょう。

 (大場光太郎・記)

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二十四節気について

 以前『処暑』という節気(せっき)の記事を書きました。当ブログでは今後とも、季節の変わり目としての節気を、折りにふれて取り上げていく予定です。そこで今回は、その元になっている「二十四節気(にじゅうしせっき)」について述べてみたいと思います。

 二十四節気とは、一太陽年を日数または太陽の公道上の視位置によって二十四等分し、その分割点を含む日に季節を表わす名称を付したものです。これをもう少し分かりやすく申せば、二十四節気とは、節分を基準に一年を二十四等分して約十五日ごとに分けた季節区分のことです。
 特に季節の重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至八分といい、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立、二至八分と四立を併せて八節といいます。

 そもそも二十四節気はどうして生まれたのでしょうか。
 二千数百年前の古代中国では、最初は月の満ち欠けに基づいた純粋な太陰暦が使われていました。しかしこの日付は太陽の位置と無関係であるため、暦と四季の周期との間にズレが生じ、農耕などに不便が生じました。そこで本来の季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に導入され、その暦と月の運行による暦(純粋太陰暦)とのズレが一ヶ月程度になった時に、余分な一ヶ月(閏月)を入れて調節するようになりました。

 以下に、季節ごとに分類した二十四節気を掲げます。ここで言う月とは「節月(せつげつ)」のことを言います。(そして節月とは、節気から次の節気の前日までで区切る月表示のことを指します。)なお日付は年によって変動します。

   ◎ 春
       一月:立春(2月4日)-雨水(2月19日)
       二月:啓蟄(3月6日)-春分(3月21日)
       三月:清明(4月5日)-穀雨(4月20日)
   ◎ 夏
       四月:立夏(5月5日)-小満(5月21日)
       五月:芒種(6月6日)-夏至(6月21日)
       六月:小暑(7月7日)-大暑(7月23日)
   ◎ 秋
       七月:立秋(8月7日)-処暑(8月23日)
       八月:白露(9月8日)-秋分(9月23日)
       九月:寒露(10月8日)-霜降(10月23日)
   ◎ 冬
       十月:立冬(11月7日)-小雪(11月22日)
       十一月:大雪(12月7日)-冬至(12月22日)
       十二月:小寒(1月5日)-大寒(1月20日)

 二十四節気は太陰暦のような、気候と暦のズレはありません。しかし元々は二千数百年前の中国の黄河地方の気候に基づいて作られた暦であるため、実際の日本の気候とは多少のズレが生じます。例えば三月六日頃の「啓蟄(けいちつ)」は、「春になって虫が穴から出てくる」という意味です。しかし我が国の季節では、その頃はまだ早春の候で、実際に虫が穴から出てくるといえばそれから一ヵ月後の四月上旬頃の感じでしょう。

 ただ毎年同じ時期に同じ節気が来ることや、節気の感覚が約十五日で一定しており半月ごとの季節変化に対応できることなどから、農業の目安としては非常に便利であり我が国でも導入されるようになりました。

 四季のサイクルを常に意識して生活することは、案外重要なことであると私は思います。それは、自然のリズムとシンクロしつつ生きることとダイレクトに結びつくからです。
 その点、今日世界中で用いられているグレゴリオ暦は、残念ながら自然とはまるで同調できない暦であるのです。皆様もたまには、陰暦(旧暦)や二十四節気を意識してみてはいかがでしょうか。(「暦」については、いずれ取り上げることがあるかもしれません。)

 上記記事は、以下を参考にまとめました。
     フリー百科事典『ウィキペディア』
     日本文化いろは事典「二十四節気」

 (大場光太郎・記)

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八月尽

    八月の尽きむひと日や晴れし街   (拙句)

 月初から旧盆過ぎ頃までは厳しい残暑。それ以降は、一転して大雨に見舞われがちな日々が続きました。ちなみに当地では、昨晩まで三日連続で夜半の大雨となりました。
 八月も終わりの本日は、朝からうって変わっての晴天でした。雲がやや多いもののその雲はと見れば、ムクムクと入道雲やカナトコ雲と思しき夏雲のさま。日射しもこれまた、じっとして日を浴びていると肌に熱がじりじりと押し寄せてくるような炎熱です。日向と日陰のコントラストも際立ち、まさに日盛りといった感じです。きょう一日に限ってみれば、あれだけ夏の暑さを冷まし続けたかに思われた雨続きにも関わらず、炎帝の威たるや恐るべしといったところです。
                         *
 当月の当ブログ記事は、やや問題記事が多かったように思います。
 特に『東京ビッグサイト』シリーズ。そこでは、「宇宙存在」「地球外生命体」の可能性にまで踏み込んでしまいました。このことに嫌悪感、違和感を持たれた方も多かったかと存じます。しかし、かつて『未知との遭遇』や『E..T.』などが公開され話題をさらったのは、もう二十年以上前のことです。そして今や「UFO(未確認飛行物体)」という用語が、若者などの日常会話では何のてらいもなくごく自然に語られるような時代です。
 私個人の見解としては、例に挙げた映画などは、近未来確実に現実化するであろう「E.T.との遭遇」に備えて、少しずつ人類全体に心理的準備をさせるためのものだったように思われます。(この問題は、いずれまた取り上げることがあるかもしれません。よって今回はここまでにしておきます。)

 また『東京オリンピック』シリーズ。ここでは当時中学三年だった私が、意図してテレビ中継の観戦を拒否したことを述べました。その体験を踏まえて、同オリンピックを三十年後のバブル崩壊に結びつけるなど、否定的に捉えた内容となりました。これにつきましては、矢嶋様より「東京オリンピックが、アジアの国々に与えたプラス効果などをもっと考慮すべきでは?」という問題提起があり、それについての私の拙論。それを更に発展させて、くまさん様から「バブル後のソフトランディングにみられるように、国民はいざとなると賢明な判断をするのでは?」といったコメントがあり、私がそれにお答えし…というように、有意義な意見交換が出来ました。(ラストは私の脱線により、WBC次期監督問題にまで到りました。しかしこれはこれで、思わぬ予期せぬ展開で歓迎すべきことです。)

 有意義な意見交換といえば。『万物備乎我(6)』もそうでした。ここではくまさん様から、「朱子学は現在否定的に受け取られているが、その功の方にももっと光りを当てるべきでは?」というような問題提起がなされ、私がそれに拙い論でお答えする…というように展開されていきました。ここでも、私の郷里の大偉人・上杉鷹山公にまで話が及び、私としては大変嬉しい展開となりました。
 両記事を通して、私と致しましては、当ブログ開設以来初めて、大変有意義な意見交換が出来たという満足感でいっぱいです。来月も皆様と共に時々の記事で、いろいろな意見を出し合って、共々「知の水位」を高めていければと思います。
 (大場光太郎・記)

 (追記) 当ブログ背景の模様替えは、「暑さ寒さも彼岸まで」の秋分の日頃の予定です。今しばし「winter」の背景と共におつき合いください。

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