山林に自由存す
国木田独歩
山林に自由存す
われ此句(このく)を吟じて血のわくを覚ゆ
嗚呼(あヽ)山林に自由存す
いかなればわれ山林をみすてし
あくがれて虚栄の途(みち)にのぼりしより
十年(ととせ)の月日塵のうちに過ぎぬ
ふりさけ見れば自由の里は
すでに雲山(うんざん)千里の外にある心地す
眥(まなじり)を決して天外をのぞめば
をちかたの高峰(たかね)の雪の朝日影
嗚呼山林に自由存す
われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ
なつかしきわが故郷は何処(いずこ)ぞや
彼処(かしこ)にわれは山林の児(こ)なりき
顧みれば千里江山(せんりこうざん)
自由の郷(さと)は雲底(うんてい)に没せんとす
…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
国木田独歩(くにきだどっぽ)。明治4年(1871年)~明治41年(1908年)。千葉県銚子生まれ。5歳の時父に伴われ上京。その後父が司法省の役人になったことにより、16歳まで山口、萩、広島、岩国などに住む。以後単身上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学、後校長の方針に納得がいかず中退。1891年洗礼を受けクリスチャンとなる。小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。特に小説において、わが国自然主義文学の先駆とされる。代表作『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『忘れ得ぬ人々』『運命論者』など。37歳で病没。
若い頃国木田独歩を愛読したのは、私たちの世代が最後かもしれません。いや私たちの一世代前既に、独歩や徳富蘆花などという自然志向の作家は読まれなくなっていたかもしれないのです。そんな中私は高2の頃、独歩の『武蔵野』などを読み耽っておりました。「武蔵野的世界」を私が当時住んでいた郷里の自然の中に見出そうと、「我が武蔵野の道」なる下手くそな詩を作って、独り悦に入っていたこともあります。
この詩は、その頃おなじみの詩でした。
独歩の青年時代は、明治の勃興期とも重なります。明治憲法の制定、議会の召集等。明治新政府による、西欧列強に追いつけ式の近代化政策は着々と軌道に乗り始めていました。それゆえ有能な人材が多数必要とされ、比較的富裕な家庭の子弟たちが、全国から中央集権化されつつあった東京に続々と集まってきました。(戦後特に高度成長期は、その拡大版とも言えます。)
旧士族の子弟だった独歩も、その中の一人だったわけです。しかし、「末は博士か大臣か」とばかりに、ただひたすら立身出世を夢見る大勢の青年たちとは、独歩は少しばかり違っていました。豪放な一面と共に、ナイーヴで繊細な面も合わせ持っていたのです。
20歳の時、キリスト教の洗礼を受けたことなどは、その表れだと思われます。だからこの詩は、独歩のそんな時代潮流への「アンチテーゼの詩」と捉えることもできます。
この詩は独歩25歳頃に作られたようです。当時独歩は、東京の渋谷村(現・渋谷区)に居住しておりました。今でこそ渋谷は、大東京の心臓部のような場所ですが、名作『武蔵野』で描かれているように、当時はまだ武蔵野の面影の残る一村に過ぎなかったのです。
直前独歩は、熱烈な恋愛の末に結ばれた女性との結婚に失敗しています。そのことも、この詩の詠嘆調の基調となっているようです。
「なつかしきわが故郷は何処ぞや」
生まれ故郷をわずか5歳で後にした独歩には、本当の意味での故郷は見出せなかったでしょう。だから「山林」とは、少年時代を過ごした中国地方のどこかの山林でもあり、今居住している武蔵野の山林でもあると共に、「虚栄の途」と対極をなす「真実の途」としての「心象の中の山林」でもあったことでしょう。
詩の中では「嗚呼山林に自由存す」と高らかに謳い上げながらも、ひと度「近代化の洗礼」を受けその渦中に身を投じてしまった独歩には、もはや「山林の児」としての生き方に還れるわけもありません。
「山林(自由)か虚栄か」。これは、明治の児・独歩のみならず、現代を生きる私たちの誰の心にも潜んでいる、切実なジレンマだと思われます。
(大場光太郎・記)
最近のコメント