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空の鳥、野の花(1)

 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物(しょくもつ)にまさり、からだは着物にまさるではないか。
 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(中略)また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るが良い。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。
 (日本聖書教会「新約聖書・1951年改訳」―「マタイによる福音書(第六章25~30)」より)
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 少し引用が長くなりました。古来有名なイエスによる「山上の垂訓」の、中でもとりわけ人口に広く膾炙されてきた一節です。

 先ずは私と「新約聖書」とのそもそもの関わりについて述べてみたいと思います。
 今から25年以上前の昭和57年盛春の頃。ある深夜、それまでのボォーッとした「酔生」からたたき起こされるような「呼び声」を聞きました。(またまた奇妙な話で恐縮です。その時のことは、いずれ記事にまとめることがあるかもしれません)。それをキッカケに私は、以後「スピリチュアルな探求」に向うことになったのでした。

 それまでは、例えば「神」などということは、およそ考えてみたこともありませんでした。しかし先ず足がかりとして、手始めに読んだのが新約聖書だったのです。
 当然冒頭から読み始めますから、四福音書の「マタイによる福音書」がスタートです。そして「山上の垂訓」にさしかかり、どこかの個所が(忘れましたが、あるいは冒頭引用の部分だったかもしれません)いきなり心の琴線にダイレクトに触れ、途端に涙がどっと溢れ出し止らなくなりました。
 本好きな私は、これまで人並み以上に本を読んできたつもりです。ずいぶん感動的な本にもめぐり合い、中には泣けてしかたなかった本もけっこうあります。しかしあれほどとめどもなく涙が流れたことは、後にも先にもありません。
 当時私は33歳くらい。後で正気に返って思ったものです。『こんな凄い本を、何でもっと早く読んでおかなかったのだろう』と。
 (大場光太郎・記)

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