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空の鳥、野の花(4)

 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていてくださる。…野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」

 これは譬え話でありながら、この「空の鳥」「野の花」のあり方こそが、実は人間としての理想的なあり方であるということを示していると思われます。
 「命」と「からだ」をほど良くバランスさせた生き方が出来てくると、周りの状況はおのずから良い方向に整ってくるもののようです。既に悟境に達した人たちはよく言います。「必要なものが必要な時に、思いがけない人や状況を通して与えられてきた」。どうやら、このような人には、見えざる「自然界のサポート」が得られるようなのです。

 人間は本来、倉に取り入れる(さしずめ現代的解釈では、労働の対価としての「カネ」を将来の備えにとたっぷり貯蓄しておく)ことなどは必要ないようです。
 誤解を恐れずに極論すれば、「貨幣経済システム」という、有史以来から今日まで誰しもが当たり前のものとして受容してきたシステムは、本来の「自然の法則」からすればオカシイことなのです。自然の法則こそは人間が真っ先に謙虚に学ぶべきものですが、そのどこに「貨幣経済システム」に相当するものが見当たりますでしょうか?
 このシステムが、「人間本来のあり方」をどれだけ歪めてしまっていることか。また今日の混乱や悲劇の原因になっていることか。世がこれだけ迫っている今日、私たちは真剣に考えてみる必要がありそうです。
 という訳で、私個人としては、その大本になっている「資本主義システム」は今後益々行き詰まることはあっても、未来永劫に存続できるシロモノではないということを指摘しておきたいと思います。(但し皆様は、こんな簡単な記述だけでは到底ご納得されないでしょう。この問題はいずれまたしっかりまとめて、記事にしていきたいと思います。)

 「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。」
 「野の花」は、(これまで述べてきたことにご賛同いただければ)私たち肉体人間の象徴なのでした。この文は、「怠惰に何もしない生き方を良し」とする「愚者の天国」の勧めなのでしょうか?イエスがそんなことを説くはずがありません。
 この文は、「…(表面的には)働きもせず、紡ぎもしない。」と、カッコを入れた方がよさそうです。ご存知のとおり、野の花とて一つ所に置かれたからには、必死に生きるための努力をしています。先ず土中にしっかり根を生やし、芽を出し、花を咲かせ、実を結ばせます。光合成によって、でん粉なども作り出しているでしょう。実は隠れた目に見えないところでは、大変な「働き」をしているわけです。
 だからこの文(を含め最初に掲げた全文)は、まだご紹介していないマタイによる福音書「第六章の結論部」につながっていくと考えた方がよいようです。イエスがここで説かれていることは、折角働くのであれば、ソロバンづくの表面的な働きではなく、より本質的な働きをしなさいということではないでしょうか。 (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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