« 空の鳥、野の花(1) | トップページ | 空の鳥、野の花(3) »

空の鳥、野の花(2)

 冒頭引用のイエスの教えについては、非常に分かりやすい譬えで普遍的な真理が説かれております。小難しい解釈などは不要、各人が感じたとおりに受け止めればよいのでは、と思われるほどです。
 しかしそれでは、当記事はここで終わりになってしまいます。それでは私としても困ります。そこでご参考までに、私の所感を以下に述べさせていただきたいと思います。なお、これを述べるにあたってキリスト教の正当な注釈書などは参考にしておりません。よって以下はあくまでも私独自の解釈でありますこと、予めお断りしておきます。

 先ず引用文冒頭の「それだから、あなたがたに言っておく」。これを穿って解釈すれば、「受洗者ヨハネによる、ヨルダン川での洗礼で始まった私の公生涯は、三年と定められている。旧約のイザヤ書などの預言どおり、その後私は十字架上での死を迎えることが既に決まっている。だから、今ここであなたがたに話すことは、すべて私の遺言なのだ。そのつもりで、しっかり心して聴いておいてほしい」。このような、イエスの密意が込められていると思います。

 そのような意図のもとに語られたこの文中で、何よりも注目すべきなのは、「空の鳥」を「命」に「野の花」を「からだ」に譬えていることです。ここにこの譬えを説いたイエスの、「命」と「からだ」についての捉え方が明瞭に読み取れるように思います。
 基本的捉え方として、人間というものは大きな構成要素として、「命」と「からだ」によって成り立ち生きているのだということです。

 ただ「命」と「からだ」の二つには、大きな違いがあります。
 命に譬えられている「空の鳥」は、地上高く舞い上がって空を自在に飛ぶことができます。しかし片やからだに譬えられている「野の花」は、地面にしっかり根を下ろしそこで花を咲かせ実を結ぶ。その場所から他へ移動することは出来ません。そこで、
   空の鳥 = 命 = 天     野の花 = からだ = 地
というような構図が見えてこないでしょうか?
 当ブログで何回か述べたことがありますが、およそ「命即天的なもの」は、この三次元世界の時間・空間に一切束縛されず、無限であり自由自在なるものです。そして「からだ即地上的なもの」は、この世の時間・空間にしっかり束縛されている有限、不自由なるものです。なおかつそれは変化変滅を免れません。

 本来「無限なるもの」である「命」が、「有限なるもの」である「からだ」に宿っている。天地一体なる存在が、他ならぬ私たち「人間」だと言うことがてきそうです。
 これをよく考えてみれば、人間とは神による奇跡的な芸術作品であると共に、またそれゆえにこそ究極の矛盾を抱えた存在であるということができると思います。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

|

« 空の鳥、野の花(1) | トップページ | 空の鳥、野の花(3) »

所感」カテゴリの記事

コメント

大場様 今晩は。またお邪魔いたします。
 御文興味深く拝読しました。私はクリスチャンでもなく、聖書をすべて読破したわけでもありませんが、心の支えとして、また人生の指針として、聖書は一生手放すことは無いでしょう。私が専ら愛用しているのは、日本聖書協会発行1968年版の文語体のものです。格調高く気品のある文章に惹かれるからです。大兄の引用された、「空の鳥を見よ、播かず、刈らず・・・」「野の百合はいかにして育つかを思へ、労さず紡がざるなり・・・」を含む『山上の垂訓』は殊に美しく、新約聖書の真髄と言いたいくらいですね。
 ところでどういうわけか、この箇所を読むたびに思い出す句があります。それは
 「焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな」
という良寛の句なんですが、彼は曹洞宗の禅僧です。暴論ですが、『山上の垂訓』の精神をほんとうに実行しているのは、案外形だけのクリスチャンよりも彼のような清僧ではないか、などと思ったりします。また、私が心から尊敬してやまない人物に足尾鉱毒事件の田中正造翁がいます。地位も財産も一切をなげうって谷中村の被害者救済に生涯を捧げた正造翁。その翁が臨終に残した財産は、わずか一個の信玄袋のみ。そしてその中身は書きかけの原稿と鼻紙、小石3個、帝国憲法そして新約聖書であったといいます。彼自身ははクリスチャンではなかったそうですが、
 「人その友のために己の命を棄つる、これより大いなる愛はなし。(ヨハネ伝第15章13)」
という言葉が自然と浮かんできます。

投稿: くまさん | 2008年9月21日 (日) 23時21分

くまさん様
 お持ちの聖書は文語体版ですか。私は今から20年以上前、たまたま東京の吉祥寺に遊びに行った際とある古本屋に入りました。そこに文語体聖書が置いてありました。よっぽど買おうと思いましたが、例によって分厚い本で持って帰るのが億劫で、結局買わずじまい。今考えれば、『あの時やっぱり買っておくんだったなあ』。
 やはり文語体と口語体とでは、イエスのイメージがだいぶ変わってくると思います。ただ私は、「慈しみ深き友なるイエスは…♪」で、より親しみやすい口語体は捨てがたいように思います。(ご存知のとおり、だいぶ前にもっとこなれた新訳も出ています。また私はそちらと、ある外国人神父さんにいただいた、「イエズス」呼称のカトリック版も持っています。)
 良寛の句そして田中正造の挿話。興味深く読ませていただきました。思いますに、「道」あるいは「真理」といったものは、一宗一派で独占できるものでも、その経典にそれ(真理)のすべてを盛り込むことは到底不可能と思います。更に申せば、「真理は一つ」「道は一つ」ですから、禅の境地を極めた良寛さんがイエスの精神を体現していても、何ら不思議ではないと思います。十九世紀インドの大聖・ラーマクリシュナは、もともとのヒンズーに加えて、キリスト教もイスラム教も極めた人です。結果は、到達点はすべて同じだったそうです。ちなみに、あの教義に厳格なバチカンも、「ZEN(禅)」は優れた「観想法」として認めているようです。
 私などキリスト者でも仏教徒でもないので、両宗教について言いたいことを言わせていただいておりますが、本当は「すべて行い」に尽きますね。
 余談ですが。くまさん様、『うた物語』コメントしばらく遠ざかっておられるようです。また「珠玉のコメント」楽しみにしてます。

投稿: 大場光太郎 | 2008年9月22日 (月) 01時19分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 空の鳥、野の花(1) | トップページ | 空の鳥、野の花(3) »