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空の鳥、野の花(6)

 「栄華を極めた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

 「野の花」は文語体聖書では「野の百合」となっているようです。私が聖書を読み始めた頃そろえた、『イエスの世界』という新約の代表的な場面を写真つきで紹介した本の中でも、野の花は当時のカナン(イエス当時の古称。現在のパレスチナ)の野に咲いていたユリとして紹介されています。ただし色はオレンジや赤い色で、我が国の白百合のようなユリ科植物とは分類が違うようです。

 さて、この文を素直に受容できるか否かが、イエスの全福音を受容できるか拒否するのかの試金石であるように思います。ソロモン王VS野の花。この物質世界の現実しか見えない「肉眼」で見れば、誰が判断してもソロモンの栄華の方が遥かに勝って見えます。
 しかしイエスの「神眼(しんがん)」で観れば、さに非ず。究極的な「逆転の発想」です。

 遥か古代の遠い国の譬え話でピンとこないのであれば、今の私たちに引きつけて考えてみればどうでしょう?例えば、首都・東京の繁栄ぶりと、季節柄秋風に揺れて咲いている野辺のコスモスとでは?あざけり笑いと共に、「何バカなこと言ってんだ。そんなの東京の方に決まってんだろ。それにオレは今忙しいんだ。そんなつまんない話すんじゃないよ!」という言葉が返ってきそうです。
 ソロモン王のエルサレム→ローマ→パリ→ロンドン→ニューヨーク→東京。かように、三千年の時を越えて、飽くことなく「栄華を極めた大都会」別の表現をすれば「その時々のバベルの塔」を求め続けてきたのが、人間の歴史でもあったのではないでしょうか。私たちも、この対比はよくよく熟慮すべき問題だと思います。

 「神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。」

 ここに至って「空の鳥、野の花」の比喩物語は、ようやく山上でこの話を聴いている人々に直接結びつくことになります。
 聴衆は、一連の垂訓と共に一種の変性意識状態にあったものと思われます。イエスの超自然的なキリストの力によって、聴衆はかつてないほどの「命の高揚」と共に、(一時的にせよ)以上の話を素直に受容出来るレベルにまで高められていたに違いありません。そこでイエスは、この段の結論を厳かに告げることになります。

 あヽ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。   (「マタイによる福音書・第6章30~34」)                 
 
 なお、「スピリチュアルな探求」に、新約聖書なかんずく「四福音書」と「ヨハネの黙示録」は不可欠です。最初に同書を読むように導いてくれた、私の「見えざるガイド」に心より感謝を捧げます。聖書の一節は、また折りに触れて取り上げていくつもりです。お読みいただき大変ありがとうございました。   ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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