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「そんなことは大した問題じゃないのだ」(4)

 おそらく「真理」というものは、書き記されたどんな書物や理論体系あるいは真理を悟得した者の名言・卓説によっても、把握できるようなものではないのでしょう。例えば、「神という言葉」あるいは「愛という言葉」が「神そのもの」「愛そのもの」ではないのと同じように。それはいかなる言葉でも表現できない、およそ言葉や観念を超えたものだからです。それは、自ら「解脱」して直接体得する以外にはないものなのでしょう。(なお理論的には、神=真理=愛です。)

 「解脱とは自由の別名である」という、ある覚者の言があります。これは裏を返せば、解脱に至っていない間は常に「不自由」なままなのだということです。
 なるほど私たちはいかにも不自由です。先ず「肉体だけが自分」と思い込んでいるがゆえに、2m未満の有限な肉体に縛られています。肉体が痛みでもすると、まるで自分のすべてが病んでしまったかのようにおろおろします。肉体が別だからあの人は他人であり、そこにあらゆる争いの根源である「分離感(エゴ)」が生まれます。
 また私たちは「時間」にも縛られています。過去現在未来―「直線的時間」という「誤った時間観念」に囚われそれを超えられないため、「人間はある年令に達すると老化して死ぬもの」と強固に思い込んでいます。「真人」なら、時間を自在にコントロール出来てしかるべきですが、逆に時間にコントロールされてしまっているのです。
 これらはすべて「真理」を知らないがための、自己限定であり自縄自縛です。(一般の方々はご存知ないかもしれませんが、肉体意識からも時間観念からも解脱して、何百年も若々しい姿で生きている人が現に存在するのです。いつか機会がありましたら、当ブログでご紹介致します。) 

 しかしもっと始末が悪いことに、私たちの多くは「真理を知らないということすら知らない」で平気な顔で生きています。それはあたかも眠っている者が、眠っていることを知らずにぐっすり眠りこけているのと似たようなものなのかも知れません。いくらレベルが上がったとはいえ、私を含め人類の多くは「真の目覚め」からはほど遠い状態なのです。
 はっきり申し上げます。今は「目覚めの時」です。「時は今!」。今ほど重要な時はまたとありません。(その理由も、いずれまた…)。そして「目覚め」に、老若男女の別などまったく関係ありません。

     自分が眠っていると
     気づいた人は、
     その瞬間、
     すでに半分目覚めている。
         (「聖なる知恵の言葉」より)   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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