素朴な琴
八木 重吉
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね
琴はしずかに鳴りいだすだろう
(「秋の瞳」より)
…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
八木重吉(1898年~1927年)。東京生まれ。東京高等師範学校卒。キリスト者として神と愛を信じ、希望の微光を見出そうとする詩を残した。29歳で病没。(大岡信・選、集英社文庫「ことばよ花咲け」の経歴を引用)
9月に入って日射しが弱まり、晴れてもいよいよ秋晴れの感を深くするきょうこの頃です。そんな良き秋晴れのある日、詩人は「ひとつの素朴な琴をおけば」と想像するのです。
「素朴な琴」を置くのにふさわしい場所とはどこなのでしょう?詩の中で場所は明示されていません。野原のただ中でしょうか?人々が絶えず行き交う街の中でしょうか?それとも日差しが明るく差し込むとある家の中でしょうか?
どこでもOKだと私は思います。たとえどんな場所であろうとも、そこにひとつの琴をポンと置くことによって、そこはそれまでのありふれた日常世界から、いわば非日常性をおびた世界へとたちまち変容してしまいます。
そうであるためには、琴は飾り気のない古(いにしえ)からの伝統的な、「素朴な琴」でなければなりません。贅を凝らした近代的な琴ではなく、ましてや直前から大流行し始めた大正琴などではもちろんなく。
そして、「秋」はあくまでも美しくあらねばなりません。「秋の美しさに耐えかね」て素朴な琴が同調してしずかに鳴りいだすほどに。
そうして鳴りいだした琴は、さてどんな調べを奏でるのでしょう?今美しい秋のただ中にわが身がいると思って、イマジネーションの中の琴の音なき音色をじっくり聴いてみましょう。
(大場光太郎・記)
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コメント
08年9月記事ですから、出だしの気候挨拶は今年とは幾分違います。
この詩を知ったのは『ことばよ花咲け』によってでしたから、10余年前とそんな昔ではありません。ただ私が知らなかったでけで、近年中学の国語の教科書で採用されることも多い詩のようです。
たった4行だけの「素朴」な詩ながら、味わい深い名詩だと思います。
投稿: 時遊人 | 2011年9月21日 (水) 03時39分