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2008年10月

十月尽

    十月はたそがれの国尽きにけり   (拙句)

 10月もきょうで終わりです。この日当地では、あいにくの曇りの一日となりました。いささか寒くはあっても大快晴だったきのうとはうって変わって、雲が全天に低く垂れこめ、何やら街全体が沈んだようにもの悲しい感じに包まれているような、いよよ晩秋、深秋との感を深くした一日でした。

 当地は以前お伝えしましたとおり、湘南海岸から十数キロくらいの、相模川右岸沿いの沖積平野に開けた、首都圏外縁の町です。もちろん冬でも、めったなことでは雪は降りません。それゆえ、何ヶ月も根雪に閉ざされる我が郷里とは違って、年中を通して過ごしやすいとは言えるのです。
 しかしその分、メリハリの効いた季節感がなかなか味わえません。ですから、人並み以上に季節感を感じたい私は、街の中のわずかばかりの自然に、つかの間の「小さい秋」をつとめて感受しようと心がけております。

 と言うわけで。外に出てまず真っ先に感じるのは、急に寒さが加わり出したここ何日かで、虫の音がめっきり少なくなったことです。3、4日前までは真夜中でもリンリンと賑やかだったのに、今では日中でもとある草むらの方から時折り、チリリリリーンというような鳴き音が聴かれるのみです。まして夜中ともなるとそれはいっそうか細くなり、どこか遠い処(ところ)から「さよなら」を告げるもののようで、聴く者の哀れを誘います。
 また曇天のきょうは、近所の遊歩道の花壇のコスモスや菊や野菊などの秋花が、小寒い風に頼りなげに揺らいでいます。そんな中夏の名残りのダリアの、幾つかの小さな橙色の花を咲かせている姿が、通る者の印象に残ります。

 ところできょうはまた「ハロウィン」だそうで、夜たまたま最近オープンしたばかりの、主に若者向けのコジャレたレストランを通りました。店の前両側に小さな置き物があり、そこに例のカボチャの絵が掲げられております。店内を見るともなしに見ると、店員もお客もとんがり帽子をかぶったり動物のぬいぐるみを着たりして、だいぶ賑わっていました。
 十月尽とはいっても、私のような年代の者と、自然にアメリカナイズされて育った彼らとでは、およそ受ける感じがだいぶ違うのでしょう。

 思えば私が当ブログを開設してから、既に半年以上が経過しました。折りにふれて季節の便りを記事にしてきた私としては、例年にもまして季節の推移に敏感にならざるを得ない月日でした。
 例えば桜の木一つを取ってみても、開設当初の四月末は既に桜の花は散って、初々しい桜若葉が、木毎に繁茂しつつある季節でした。それが青葉繁れる盛夏も過ぎて、8月下旬頃から少しずつ葉が落ち始め、今では枝々にその2、3割を残すのみです。
 また街行く人の服装も、ゴールデンウィークに向いつつあったあの頃のカラフルな装いが、今では全体的に地味でシックで厚手の服装に変わりつつあります。

 きょうは曇天ですから、夕方5時前にして外はだいぶ暗くなってしまいました。ちょうど5時に当市お決まりの、『夕焼け小焼け』のチャイムが鳴り響きました。そして3分ほどたってから、女性の声が聞こえてきました。『ん?何だろう』。耳を澄ませて聴いてみると、どうやら「11月1日から(つまりあしたから)夕焼け小焼けのチャイムは、4時30分に変更になります」との告知のようです。
 こんなことからも、『もうじき冬だなあ』との感を深くします。そういえば、一週間後の来月7日は、暦の上ではもう「立冬」です。

 (大場光太郎・記) 

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「タスポカード」申し込みました!!

    街の秋紫煙(しえん)の行方不明なり   (拙句)

 タバコの販売にタスポカードが導入されてから、既に何ヶ月かが経ちました。喫煙されない方も、ニュースとして既にご存知かとは思いますが―。今年7月1日から(第三次エリア神奈川県の場合)このカードが無いと、自動販売機でのタバコの購入が出来なくなったのです。

 導入のだいぶ前からタバコ屋さんなどに「カード申込書」が置いてあり、もらって読んでみました。そうしたら証明用写真添付の申込書を作成の上、社団法人・日本たばこ協会まで郵送しなければならないらしいのです。
 『たかがタバコを買うくらいで、何でこんな面倒くさい手続をしなけりゃならんのだよ。だったらいいよ、タバコ屋さんかコンビニで買うから』。私は結局カードを入手しませんでした。

 以前は吸う本数をセーブするためにも、タバコが切れかかると近くの自販機で一箱だけを買っていました。しかしそれ以降はつい面倒で、一日分として三箱まとめ買いをしています。その結果、知らず知らずのうちに、その3×20=60本をついつい吸ってしまいがちなのです。『以前は確か一日40~50本だったはずなんだけどなぁ。やっぱり一箱吸うごとに買えた方がいいよなぁ』。(いずれにしても、かなりヘビースモーカー!)

 きょうの夕方、家から少し遠い、滅多に通らない市内の路上を車で走っていてタバコが切れて、タバコが置いてあるとある酒屋さんに立ち寄りました。すると、カウンターに
  「タスポカードの申し込み。無料ですぐ出来ます」
という張り紙がしてあるではありませんか。私はタバコを買いながら、「あのぉ。タスポカード、ホントにすぐ申し込み出来るんですかねぇ?」。応対された60代と思しき奥さん、「ええ、すぐ出来ますよ。申し込みますか?」。「そうねえ。やってみようか。ところで、写真も必要なんでしょ。それもすぐ出来るの?」。
 奥さんは「ええ、すぐ撮れますよ。こちらへどうぞ」と、店の奥へ案内してくれます。そこの壁に白い大きな幕が垂れ下がっていて、「ではそこに立ってください。(少しの間)それじゃぁ撮りますよ」。用意のいいことに、手元のポラロイドカメラで、パシャッ!

 次に入り口付近の小さなテーブルで、渡された申し込み用紙の必要欄に記入です。郵便番号、住所、氏名、生年月日それにたまたま携帯していた認め印をポンと押印して(サインでもOK)、奥さんに渡します。奥さんはそれに先ほど撮った写真を貼り付け、申込書を封に入れて、ハイ出来上がり! いたって簡単です。
 「はい、これで出来ました。個人情報の関係で、これをご自分で外のポストに入れてください。カードは1週間か10日くらいでご住所の所に届きますよ」「いやぁ、ずいぶん簡単だったんですねぇ」「そうでしょ。もっと早くしとけばよかったと思うでしょ」「ところで本当に無料でいいんですか?写真だって撮ってもらったんだし」「いえ、これは協会を通したサービスだから、いいんですよ」「そうですか。いやぁ、おかげで助かりました。ありがとうございました」「いえ、どう致しまして」。
 一から十までご親切な対応に、気持ちよく外に出て、自動ドアのすぐ側のポストに投函しました。
 
 もっとも、最初からタバコなど吸わなければ、こんな申し込みは必要ないし、健康のためにもいいんだし、いつも真っ先に値上げの対象だから経費節減にもなるし…。しかしこればかりは、どうも止められなくて。いえ、私の場合そもそも止めようという意志すら、あまりなくて。
 ただ『とにかく本数は減らさなければな』、そう思うきょうこの頃です。
 (大場光太郎・記) 

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  白い雲がぽっかり浮かんでいる。
  この世界の何かを象(かたど)った形で
  ぽっかり浮かんでいる。

  世界の一部である僕は
  浮かんでは静かに流れていく雲を
  仰ぎ見ている。

  僕のせわしない心は
  ディープブルーの空の光の乱反射のように
  僕と雲との間を行き来する。

  雲はただ雲であるだけなのに
  僕はそんな高いところの儚いものにも
  つい何かの意味づけをしてしまう。

  だから雲は僕の憧れを映して
  麗しいお姫様の形になって
  僕ににっこり微笑んでみたり。

  時には僕の怯えを映して
  奇っ怪な化け物に姿を変えて
  今にも僕を襲うばかりだったり。

  ああ 雲がぽっかり浮かんでいる。
  世界の一部である僕は雲を
  独自の意味づけをしながら仰ぎ見ている。

             (大場光太郎)  

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レッドクリフ&三国志(7)-赤壁大戦

 その後一日経っても、二日経っても北風の向きが変わる兆候は一向にありません。呉軍大都督周諭は、何度も帷幕の外を覗いながら、『孔明の奴、万一東南風が吹かなかったらどうしてくれるんだ』とヤキモキして、ろくに食事も喉を通らぬほどでした。すると孔明が祈り続けてちょうど三日目の夕方のこと、風向きが変わって待ちに待った東南(たつみ)の風が吹き出したではありませんか!
 
 時は西暦208年初冬旧10月(新11月下旬)。決戦場は、長江流域の水陸複雑に入り組んだ赤壁付近。
 周諭は、周りがとっぷりと暮れ江上に夜霧が立ちこめた頃『ここぞ!』とばかりに、全軍に出撃命令を発します。かねてからの手筈どおり、燃えやすい枯れ草や柴に油を沁み込ませた船に黄蓋が乗り込み、二十艘くらいの快速船を引き連れて先陣を務めます。「それ、黄蓋将軍に続け!」とばかりに、三百余艘と数こそ劣れ、日頃鍛え上げられた呉国水軍は、第一艦隊韓当、第二艦隊周泰など四艦隊に分かれて、皆それぞれに勇躍して長江を魏軍目指して粛々と出撃していきます。

 周諭はまた孔明暗殺の件も抜かりなく、徐盛ら豪の者に指示して、南屏山に向わせます。徐盛らは七星壇を一気に昇って祭壇についてみると、孔明の姿はどこにも見当たりません。とうに周諭の奸計を見破って、風が起こるや壇を下りたのです。そして劉備が差し向けた船に乗り込みます。徐盛らも後を追いますが、孔明は既に船上の人。それに護衛に当たっている者はと見れば、長橋の勇者趙雲ではありませんか。「これはとても太刀打ち出来ぬわ」とばかりに、引き上げます。
 こうして孔明は劉備の待つ夏口に無事帰り着き、休む間もなく魏軍掃討に向けて劉備軍の指揮に当たります。

 呉が思い描いた作戦は、ずばり当たりました。
 今夜黄蓋が投降してくると、呉の快速船より先触れがありました。曹操以下旗艦上でそれを待っております。すると、風向きが急に生温い東南風に変わったではありませんか。するうち遠くの江上を、夜霧をぬって駆けてくる船が確認できます。「あれは黄蓋の船に違いない」。注視していると、どうやらそのようです。しかし参謀の一人が、その船の異変に気がつきました。投降船ならそんなに積荷があろう筈がないのに、その船はずっしりと船体が沈みこんでいたのです。東南の風。燃料物満載の船…?。この時曹操以下誰もの胸中に、只ならぬ嫌な予感が走ります。
 「その船待て。止まれ。停船だ」。しかし向うの船隊は構わず、魏の艦隊目指して突進してきます。今さら小型艇での追撃も適わぬ間近にまで迫っています。

 至近距離まで近づいた黄蓋の船から、そのうち火矢が魏艦隊目がけて雨あられと降りそそいできます。一艘に火がついて燃え出すと、次々に連結した船に延焼し、魏艦隊は瞬く間に一面火の海です。のみならず、後続の呉の艦隊が続々と襲い掛かっては、更に火を放ちます。
 折からの強い東南の風にあおられて、海上のみか陸上の広大な魏陣にも延焼し、各陣所の建物、糧倉、柵門、厩舎などの建造物はたちまち紅蓮の炎に包まれていきます。

 呉軍の仕掛けた火攻めによって、およそ戦闘らしい戦闘もないまま魏の大軍は総崩れの大敗を喫してしまいました。一夜のうちに、百万と豪語していた(実数は二十余万。対して呉と劉備の連合軍は数万)魏軍は、その三分の一以下に減少してしまいます。
 更に魏陣の背後の烏林(うりん)などに回っていた、呉将甘寧や大史慈などに挟撃され、劉備軍もその側方を衝き、いまや魏軍は指揮系統が完全に失われ、敗走に敗走を重ねます。この大戦で生き残った魏兵たちも、逃走中折りからの寒さと飢えと疫病などにより、無事北の故郷に帰還できたのは少数と言われています。

 魏の丞相・曹操もまた燃え盛る旗艦から辛くも脱出し、一面戦火の自陣から張遼や徐晃などの側近の武将に護られ窮地を逃れます。何とか追っ手を振り切り、時には寒さの中氷雨でぬかるんだ山道を辿ったりして、わずか数十人と共にやっとの思いで許都にたどり着きました。
 
 以後曹操は、その存命中二度と南征に赴くことはありませんでした。こうして曹操の大野望は阻まれ、北に魏、南に呉、西に蜀という国が鼎立する三国時代へと、中国史は、白面の青年・諸葛孔明が想い描いた大計通りに進んで行くことになるのです。  ― 完 ―

 (追記)今回の記事をまとめるに当たり、以下の資料を参考にしました。
       吉川英治『三国志』
       フリー百科事典『ウイキぺディア』より「三国時代」「赤壁の戦い」等の項
     なおいずれまた、赤壁以降の三国志をご紹介できればと思います。

 (大場光太郎・記)

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レッドクリフ&三国志(6)-祈七星壇

 呉では大都督周諭の指揮のもと、魏軍との臨戦態勢が急ピッチで進んでいきました。
 そんなある夜周諭の陣営に一人の老将が訪れてきます。孫権の父孫堅の代から呉に仕え、多くの武勲を立ててきた黄蓋(こうがい)です。その黄蓋いわく、「魏の大軍を一挙に殲滅するには火攻めしかあるまい。どうじゃ、火攻めは?」。実は周諭もそれを考えていたのです。しかしそれには火付け役が必要です。投降と偽って魏の船団に近づき、最接近した頃合を見計らって一気に火を放つことが不可欠です。
 しかしこの計には失敗が許されません。生半可な人物には任せられない、今次大戦の行方を決する最重要任務なのです。それゆえ周諭は、その人選に苦慮していたのでした。黄蓋は、「その任務わしにお任せくだされ。最後のご奉公のつもりで完遂致そう」と言うのです。初めは功績ある老将にはと躊躇していた周諭を、黄蓋は「どうしても」と納得させてしまいます。こうして二人は、そのための計画を周到に練り上げます。

 ある日呉の武将たちが居並ぶ軍議の最中、黄蓋は周諭の方針に異を唱え、かつ痛烈に面罵します。周諭は激怒し、黄蓋の斬首を命じます。それに一方の大将である甘寧が代わって罪を詫びると、周諭は杖百打の刑に罪を減じます。
 衆人環視の中、黄蓋の細った老体に杖が容赦なく打ち込まれます。世に言う「苦肉の策」です。衆人の中には、魏からの偽りの投降者二名も含まれていました。それを承知でわざと泳がせているのです。彼らは、このようすを曹操に報告することを折り込み済みです。

 この事件後周諭は、かん沢という参謀を曹操のもとに密かに送り込みます。事の次第を話させ、黄蓋の投降の手筈を整えるためにです。当初は疑ってかかっていた曹操以下の魏の首脳陣も、かん沢の巧みな弁舌にすっかり信用してしまいます。こうして(旧暦)十月のある夜、夜陰に紛れて黄蓋が船でやってくる段取りも決まりました。

 このように決戦間近になるにつれ、両軍の諜報合戦は激しさを加えていきます。ある時曹操の密命をおびてしょう幹という魏の参謀が、呉に降伏勧告の使者としてやってきます。周諭はそれを逆手に取り、しょう幹を巧みにほう統という人物の庵に誘い込みます。
 この人こそ、「臥龍、鳳雛」として広く天下に知られた、孔明と並び称される鳳雛だったのです。ほう統も今次の大戦に当たり、呉の民を戦乱から救うために一肌脱ぐ肚を固め、事前に周諭と示し合わせ済みだったのです。それとも知らないしょう幹は、相手が天下のほう統と知り大喜びで貴賓として魏に連れて帰ります。

 ほう統は曹操の賓客となり、魏軍の練兵のようすなどをつぶさに見せてもらいます。その夜の宴席でほう統は曹操に切り出します。「貴水軍には船酔いや体力を著しく消耗させる兵士が多くありませんか?」。図星であることを曹操も認めざるを得ません。「それは長江の波高く各船の揺れが激しいからでござる。それを防止する良い方策がござるが…」。こう言われて曹操は、「是非とも先生のご高説をお伺いしたい」。
 そこでほう統が持ち出したのは、各艘を鉄板や鉄鎖で連結することでした。こうすれば各艘バラバラの場合より、揺れは遥かに緩和される上、各艘同士の上位下達もスムーズにいくと説くのです。
 これが火攻めを容易にするための「連環の計」とも露知らず、曹操以下感心しきりで、こうして魏水軍二千艘のすべてが互いに固く連結されることになりました。

 ところで周諭は、最近陣中で病に臥せっていました。周諭には大戦を前にして、大きな気がかりがありその心労のためでした。
 そこに魯粛に伴われて、孔明が見舞いに訪れます。孔明は周諭に言います。「大都督。私は、あなたの病が快方に向う処方箋を持っております。それをこれから書いて進ぜましょう」。そう言いつつ、次の言葉を示しました。
  欲破曹公宜用火攻  曹公を破らんと欲すれば宜しく火攻めを用うべし
  万事倶備只欠東風  万事倶(とも)に備う 只東風を欠く
 「大都督。これがあなたの病の根源でしょう」。周諭は今さらながら孔明の明察に驚嘆しながら、「いかにも。しかしいかな先生でも冬のこの時期に東風を起こすことは適うまいし…」。「ご案じ召さるな。お望みならばこの孔明、東南の風を起こして差し上げましょう。ついては、南屏山の上に七星壇を築かせてください。孔明一心を込めて三日三晩祈り、必ず天より風をお借り致しましょう。大都督は、東南の風吹き起こらば、それを合図に魏軍に総攻撃を掛けてください」。

 こうして孔明は斎戒沐浴して白い道服を着、素足のまま祭壇に昇り、三日三晩の祈りを開始したのでした。
 周諭は病たちまちに癒え、決戦の時を期して魏軍への総攻撃の準備に着手します。それと同時に、七星壇上の孔明を今度こそは亡き者にせんと、数百人の手勢に言い含めて南屏山を襲うよう密かに指示したのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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レッドクリフ&三国志(5)-赤壁前夜

 かくて諸葛孔明は、魯粛の帰船に同乗して呉に向いました。折りしも呉の孫権のもとには、曹操からの恫喝とも思われる降伏勧告文書が届いており、いよいよもって帰順派が大勢を占める情勢でした。
 諸葛孔明を最初に待っていたのは、呉の講堂にずらっと居並ぶ張昭を始めとする帰順派の論客たちでした。堂に入るや否や、論客たちから矢継ぎ早に情け容赦のない舌戦を挑まれ、劉備や孔明自身への面罵の言葉や曹操を持ち上げる言辞などが舌鋒鋭く浴びせかけられます。それを、戦国時代の蘇秦や張儀などの名遊説家ばりの舌先三寸の弁舌で、次々に切り返していきます。最後は論客全員グーの音も出なくなります。かくて第一関門は孔明の圧勝でした。

 孔明は呉主・孫権とも直々に会談し、安直に帰順降伏することの愚かさ、劉備と連合すれば必ずこの難局は打開できることを説得します。一時は孫権もグラッと心を動かされますが、「敵は百万こちらはたかだか十五万、たとえ孔明が神でも勝てる見込みはありません」との、張昭らの執拗な抗議で再び動揺を来たします。
 ろくろく夜も寝られず食も喉を通らないほど懊悩している孫権を、国母である孫夫人が訪れて言うには、「内政は張昭に外交は周諭にというのが、兄孫策の遺言ではなかったのか。これほどの国難なのに、なぜにそなたは周諭に助言を求めないのじゃ」。孫権はハッと我に返り、早速鄱陽湖(はようこ)で水練に励んでいる周諭を引き戻します。

 周諭はその時30代前半、美周郎と言われた美丈夫。単なる武弁にとどまらず、弾琴もよくする風流人でもあります。「呉の二喬」と讃えられた、喬家の絶世の美女姉妹の妹の小喬を妻としています。
 周諭は邸宅に着いたその夜、帰順派、主戦派から交々訪問を受けます。どちらにも体のいい返事をして、「私の本心は明日の衆議の場で明らかにするから」と引き取ってもらいます。夜更けには孔明と魯粛の訪問も受けます。そこで孔明の巧みな弁舌、特に「曹操の南征の真の目的は二喬を得ることだ」と言われ激高し、開戦の意志を強固なものにします。

 翌日、呉の柴桑城の大室には、孫権を中心に文武百官がずらっと居並び、両派とも周諭の言明を固唾を呑んで待っています。周諭は決然と言い放ちます。「敵は遠征の疲れもあり、疫病も蔓延しよう。その上魏軍は陸戦ならいざ知らず、長江での水戦に持ち込めばこちらが断然有利である。背後から劉備軍が挟撃すれば、勝利はこちらのものである。魏の大軍何するものぞ !」。
 これで大勢は決しました。孫権はその決意を満場に示すために、やおら立ち上がって抜刀し愛用の机を両断します。「以後降伏を口にする者はこのとおりだ !」そしてその場で、周諭を呉軍大都督に、程普を副都督に、魯粛を参軍校尉に任命します。
 こうして諸葛孔明は、大きな使命を果たしたことになります。

 周諭は再び孔明に会い、事の次第を伝えます。しかし孔明はまだ一抹の不安を覚えています。「呉主は心の奥底から開戦を決断されたのか?彼我の戦力を比較して、なおお迷いなのではあるまいか。大都督自ら、再度呉主の本心を確かめていただきたい」。
 その夜更け周諭は孔明の助言どおり、孫権と面談します。その結果案の定、呉主はそれをなお気に病んでいることが分かりました。そこで周諭は改めて「勝利は確実です」と、念を押して孫権に断言します。
 帰り道同行した魯粛に告げて言うには、「孔明は本当にそら怖ろしい。人の心の奥底まで分かる、神のような人間だ。今のうちに始末しておかないと、呉にとって大脅威になるだろう」。魯粛は驚き、「理由もなしに賓客を殺めては、天下の笑い者ですぞ」と強く諌めます。

 しかし以来周諭は、ことあるごとに孔明に無理難題を押し付けてきます。しかし孔明は、その都度神算鬼謀をもっていともたやすく切り抜けていきます。その度周諭はますます孔明の叡智を恐れ、その殺意は深刻かつ陰険なものになっていきます。(なお今回の『レッドクリフ』では、孔明は周諭を兄のように慕い、意気投合して共に難局に立ち向かう設定に変えているようです。いかにも「ハリウッド映画的発想」ですが、『それはいかがなものか?』というのが、私の率直な感想です。)  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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レッドクリフ&三国志(4)-風雲南征

 諸葛孔明を軍師に迎えた劉備は、関羽や張飛といった股肱の臣たちが嫉むほどの、「水魚の交わり」の故事のような肝胆あい照らす親交ぶりでした。
 しかしいくら孔明を軍師に招いたからとは言え、すぐに蜀の地が手に入るものでもありません。焦眉の事態として、曹操が南を征服するための橋頭堡とするために、荊州を虎視眈々と狙っています。そのことは劉備も孔明も百も承知です。荊州は古来北と南を結ぶ要衝の地であり、守るには難しい地なのです。いよいよに備えて孔明の軍事教練は順調に進み、劉備軍は見る見る規律ある精鋭部隊に整えられていきます。

 そんな時、荊州の主(あるじ)の劉表が死んでしまいます。実権を握っていた奥方の弟らの策謀で劉備にはその事実を報せず早々と二男の劉琮を後継に立て、その上曹操と内通して荊州を明け渡す密約を結んで降伏してしまいます。
 これにより曹操の大軍が一気に南下し、あっと言う間に荊州は魏の領土に併呑されてしまいました。(こうなる前に荊州を奪うことを孔明は進言しましたが、劉備は聞き入れませんでした。)

 これにはいかな諸葛孔明とて策の立てようもなく、劉備は新野を捨てて南へ逃れる以外方途はありません。この時も孔明の更なる忠言も聞かず、希望する新野の民百姓を一緒に引き連れての行軍となりました。兵站は伸びきりこれが魏軍の追撃を容易なものとし、行軍は辛酸を極め、軍にも民にも多くの死者が出ました。
 長坂(ちょうはん)における劉備の世継ぎ・阿斗(後の劉禅)を護っての趙雲の獅子奮迅の活躍、たった一人で長坂橋に仁王立ちし無数の曹操軍を退却させた張飛の活躍は、『演義』の名場面の一つです。こうして劉備など中枢は、何とか辛くも劉表の長子である劉琦が守る、長江のたもとの地・夏口(かこう)までたどり着くことができました。
 
 この辺の民を思う情の深さが、劉備が後々まで民衆に敬愛され善玉とされ、対して覇道のためには時として手段を選ばなかった、曹操が悪玉とされた要因の一つかと思われます。
 夏口で一足先に来て待っていた諸葛孔明は劉備に、この難局を乗り切るためには呉との同盟が不可欠であることを説きます。劉備もこれを受け入れ、その方途を模索していくことになります。

 さて一方の雄である呉の孫権は、父孫堅と兄孫策が辛苦して築き上げた呉を受け継ぎ、まだ20代後半ながらなかなかの英主でした。しかしそんな孫権をもってしても、この度の八十万とも百万とも言われる曹操の大軍の襲来にいかに対処すべきか、日夜苦慮していました。
 既に呉にも文武百官が綺羅星のごとく揃っていましたが、大別して張昭などの文官は非戦論(帰順派)、対して周喩などの武官側は主戦論と、まさに国論は真っ二つです。

 そんな折り、主戦論の武官で参謀の魯粛が、劉備のもとを訪れます。一つは劉表亡き後の荊州の実情把握と、劉備の動向を探るためです。
 遥かに蜀を望む劉備や孔明にとって、降伏などという選択肢は元々ありません。かといって劉備軍単独で立ち向かうのは不可能である以上、呉と連合して戦いを挑むしかありません。協議の結果、劉備側と魯粛の間で連合軍結成の方向で合意に達します。
 そこで問題なのは、頑強な非戦論者である張昭らを説得して呉を開戦に踏み切らせること、更には強大な魏軍を撃破するための戦略・戦術や意思統一を、呉の主将・周諭らと図らなければなりません。
 
 そこで諸葛孔明は、「私が呉に赴きたい」と劉備に申し入れます。
 「むざむざ虎穴に赴くようなことを、先生にさせるわけにはいかない」と、劉備は必死で思いとどまらせようとしますが、今度は孔明がそれを聞き入れません。「いかなる窮地であろうとも、私にとっては春風の中にあるが如くですから大丈夫です。冬(旧暦)十月に東南(たつみ)の風が吹き荒れたら、迎えの船を寄越してしださい」。孔明はこう言い残して、魯粛と共に敢然と呉に赴くのです。
 (なお、赤壁大戦前後の諸葛孔明の動きについて、陳寿の『三国志』等の正史ではほとんど触れられておりません。しかしそれでは面白くありませんので、以下は『三国志演義』を元にして記述を進めていきたいと思います。)  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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レッドクリフ&三国志(3)-孔明登場

 曹操南征の目的は、それによって中国全土を手中に収め統一して、新たに曹王朝を創るためです。

 その大野望を阻むことになる劉備も、着実に力を蓄えつつありました。一時徐州の牧(ぼく・地方長官)となったものの呂布に追われ(呂布は後に曹操によって討ちとられる)、曹操を頼って許都に滞在中、曹操は最大級の待遇をもって劉備を遇しました。ある時梅を煮て酒を酌み交わしながら天下国家を論じた時は、曹操をして「天下の真の英雄は、君と僕だ」とまで言わしめました。
 劉備は元をたどれば、前漢6代皇帝・景帝の子の中山靖王・劉勝の末裔と言われ、献帝に拝謁の折りは「劉皇叔(りゅうこうしゅく)」という賛辞の言葉を賜り、そのことが劉備の名声を更に天下に高めることになりました。

 しかしその後、献帝の曹操討伐の密勅に連判したことが曹操の知るところとなり、都を逃れ、その頃は同じ漢室の流れを汲む荊州(けいしゅう)の劉表の客将として、新野(しんや)という一地方の守護に当たっている身分でした。
 顧みれば、黄巾の乱平定に関羽らと共に身を投じてから幾十星霜。今は既に齢五十半ばなのに、未だ「漢室再興」という志を遂げずにいる。それを嘆いた「髀肉之嘆(ひにくのたん)」の故事は有名です。

 『演義』によれば、そんな折りこのままでは荊州を劉備に乗っ取られると危機感を抱いた、劉表の奥方の弟らが、さまざまに劉備暗殺の謀略を企てます。ある重要な宴の主宰を務めることになった劉備は、勇将の一人・趙雲のみを連れてその館に赴きます。しかし暗殺計画を事前に報せてくれた劉備を慕う者のお蔭で、間一髪難を逃がれます。
 その逃走中、水鏡先生の庵に偶然立ち寄ります。そこで水鏡先生より、「天下を治める器量をお持ちのあなたが不遇なのは、傘下に優れた智謀の士すなわち軍師がいないからである。臥龍、鳳雛の何れかを得られれば、天下を取ることも夢ではないでしょう」と告げられます。

 劉備も深く思うところあり、その二人を探し続けます。ある時そのうちの一人の臥龍(がりょう)先生が、新野にほど近い南陽の草蘆(そうろ)に隠棲していることを知り、その草蘆を最大の礼を以って訪れます。しかしなかなか会えず、三度目の訪問でやっと臥龍・諸葛孔明(孔明は字・あざなで正式名は「諸葛亮」)に逢えたと言われています。名高い「三顧の礼」です。
 常々自らを歴史上の人物・管仲や楽毅になぞらえていた諸葛孔明は、この時弱冠27歳の白面の青年。白皙長身、どこか神仙的雰囲気の漂う人物だったと伝えられています。

 その会見で諸葛孔明は、庵の壁面に大きな中国の地図を掲げ、劉備に「中国はあまりに広大で、統一しこれを運営するのは極めて難しい。ゆえに北と東は魏の曹操に任せ、南は呉の孫権に任せて、あなたは西の益州(後の蜀)に入りその地を治めたらいかがか?」という、有名な「天下三分の計」を授けたと言われます。
 それまではとても思いもつかなかった、大戦略、大構想を示されて劉備の視界は一気に開けたことでしょう。

 「その大望成就のために、何とか先生のお力をお貸しいただき、この私を補佐して欲しい」と、劉備は説得に当たります。孔明は固辞し続けますが、「このまま動乱がうち続き、民が苦しむのを座して見ていることができましょうや」という言葉に、孔明も深く心を動かされ、遂に出蘆(しゅつろ)を決意することになるのです。
    嗚呼(ああ)南陽の旧草蘆
    二十余年のいにしへの
    夢はたいかに安かりし
    光を包み香(か)を隠し
    隴畝(ろうほ)に民と交われば
    王佐(おうさ)の才に富める身も
    ただ一曲の梁歩吟(りょうほぎん)
    丞相(じょうしょう)病あつかりき
                (土井晩翠「星落秋風五丈原」より)

諸葛孔明の登場によって、『三国志』がにわかに精彩を帯びて感じられるのは、私だけでしょうか?  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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レッドクリフ&三国志(2)

 中国古代史における三国時代は、狭義には西暦220年の後漢滅亡から280年晋(しん)による中国再統一までを指します。また広義には黄巾(こうきん)の乱が起こった184年から晋統一の280年までのほぼ100年間に及ぶ時代を指します。
 この三国時代は、ほぼ同時代人の歴史家・陳寿が著した『三国志』や、明の時代の初め頃羅貫中などによって、それまでの説話や伝承をもとにまとめられた『三国志演義』などにより、中国数千年の歴史の中でも特に広く世界中に知られることになりました。
 なお、今回の映画『レッドクリフ』は、白話小説『三国志演義』をベースにしております。そこには、史実ではないフィクションの部分が多分に含まれていることは承知しておいた方がよいかと思われます。
                        *
 後漢末期、劉氏王朝の力は衰え、外戚(皇帝の后に一族の娘を送り込んだ有力豪族)や宦官(生殖機能を喪失した男性官吏)が専横を奮うようになります。そんな悪政が続く中民衆の生活は窮迫し、太平道という道教系の新興宗教に救いを求めるようになっていきます。
 多くの民衆を吸収した太平道は、184年遂に反乱を起こします。黄巾の乱と呼ばれ、これが『三国志演義』のプロローグです。宮廷は皇后の兄である何進を大将軍とし、また各地の有力豪族を将軍などとし鎮圧に当たらせます。官軍の奮戦により同年反乱軍は鎮圧されます。しかし民衆や各地の豪族の不満は解消されず、黄巾の残党も多く残り、更なる動乱と、各武将が中原を窺う群雄割拠の時代へと突入していことになりました。

 そんな中霊帝が崩御し、帝の二人の皇子を巡って争いが起こり、その過程で董卓という人物が実権を握り、都・洛陽に入り暴政を布き、一度決まった新帝を廃し陳留王(後の献帝)を皇帝に就かせます。
 これに対して有力武将たちは、各地で反董卓の軍を挙げ連合して董卓を攻めました。三国志中の名悪役である曹操、そのライバルの一人だった袁紹その弟の袁術、また後に呉を建国する孫権の父の孫堅らがこれに加わります。しかし、元々利害の不一致が多く連合軍は中途で解散してしまいます。
 この中には、三国志のスターたちである、劉備玄徳やその義兄弟の関羽や張飛も共に参加していました。しかし劉備は、公孫瓉傘下の一武将に過ぎませんでした。

 董卓は洛陽に火を放ち、西の長安に献帝を連れて行きます。新都・長安でも暴政は続きますが、192年司徒王允と部下の呂布の手により殺されます。献帝は東に逃れます。

 その頃曹操は郷里の青州で着々と実力を蓄えていき、30万といわれる旧黄巾軍などを自分の配下に納めて勢力を拡大していきました。難を逃れていた献帝は、曹操によってその拠点である許昌(後の許都)に連れて行かれます。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として利用し、政略を有利に進めていくことになりました。

 それ以外の各地でも、群雄がしのぎを削っている状態でした。その中で特に、名門豪族出身である袁紹が河北・山西を領有し、曹操と袁紹がにらみ合う状態となりました。
 そして両雄は遂に西暦200年、史上名高い「官渡の戦い」で激突することになります。既に智謀の士を幕下に多く集めていた曹操は辛くも袁紹軍を撃破し、以後曹操は中原での覇権を確固たるものにしていきます。
 曹操はその後袁紹の旧勢力を吸収し、圧倒的な大勢力となり、いよいよ宿願の南下、南征に乗り出すことになるのです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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レッドクリフ&三国志(1)

 中国映画『レッドクリフ』が、11月1日の本邦公開を前にして大評判です。
 とにかく何が凄いかって、まず監督がジョン・ウー(呉宇森)、そして映画の総制作費が100億円という中国映画史上空前のスケールの超大作であることです。なお、ジョン・ウー監督は、現在主にアメリカで活躍しており、暴力的かつ華麗なアクション映画作りで有名で「バイオレンスの詩人」とも呼ばれている監督です。
 ハリウッド仕込みの大アクションやお得意のバイオレンスシーンが、この映画でどう展開されていくのか、公開前から楽しみではあります。

 それに加えて、一応は中国映画ながら、この映画の製作に携わっているのは、中国、香港、日本、韓国、台湾と、これも東アジア全域にわたるスケールです。
 またキャスト(出演者)がこれまた凄くて、中国や台湾などの名優たちに加えて、日本からも何とよりによって諸葛孔明役で金城武が、また中村獅童が呉の甘興という架空の武将役で出演しています。また一時は、渡辺謙の曹操役も候補に挙がったようです。

 『レッドクリフ』は英語タイトル(Red Cliff)で、原題は「赤壁(せきへき)」です。
 中国前漢末期・三国時代の西暦208年初冬、曹操軍Vs孫権・劉備連合軍の歴史的決戦の舞台となった、長江の赤壁(現在の湖北省)からとられました。『三国志演義』という「100年物語」の中でも、特に前半のクライマックスとも言える「赤壁の戦い」を特にクローズアップした映画のようです。なお、その後半のクライマックスは、234年の魏遠征途中五丈原における諸葛孔明の陣没の場面だと、私は思います。

 今回公開されるのは、その第一部で、第二部は来春の予定のようです。中国国内では既に公開されており(韓国でも)、初日興行収入も新記録なら公開から11日でそれまで他の映画が持っていた記録を塗り替えてしまったそうです。
 
 なにしろ中学生の頃からの大の三国志ファンである私は、公開とともに早々と観たい気持ちと。『どうせ評判の映画だから、どこの映画館も大混雑で満席立ち見状態だろうな。きっと』と、二の足も踏んでしまいます。
 それと、大の諸葛孔明ファンでもある私としては、『金城武の孔明役でホントにさまになってるの?』という気持ちも率直あります。それに『中国語(北京語)は大丈夫なの?』と思い少し調べましたら、金城武(かねしろたけし)は、1973年台湾は台北市生まれ。日本人の父と台湾人の母の間に生まれたというじゃあありませんか。それに彼の活躍は日本やアジアのみならず、国際的だそうで、何とあのフランシス・コッポラ監督をして「アクションができればジャッキー・チェン以上の素材」と言わしめたとか。『知らなかった。こりゃ、案外良い孔明像になるかもな』。

 ともあれ、三国志の背景をあまりご存知なく『レッドクリフ』をご覧になる方のためにも、予行演習のつもりで、次回で簡単な流れなどをご紹介してみたいと思います。  (次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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虫の夜

    びっしりと虫の鳴き継ぐ夜道かな   (拙句)

 本夕お隣の愛川町中津に行きました。
 以前『新涼(2)』でお伝えしましたが、当家のある所より数百メートル北へ車を走らせますと、東西に横断する道路を境に北側は市街化調整区域、途端に田園風景が広がります。数年前に完成した南北に走る新車道の両側は、人家はまばらで一面の田んぼです。もっとも今では既に刈り取りは終わり、どの田も刈り残った短い稲株の列を残すのみです。
 周りに夕靄が立ちこめています。遠く西の彼方の大山と丹沢の峰々は、うっすらシルエットとなって静かに連なっています。進むほどに、何やらもの悲しい秋の夕暮れといった感じがしてきます。

 新道を1.5kmほど進むと旧道に合流し、後はその旧道をしばらく北へ進みます。この道も、刈り入れの済んだ田んぼそして旧の農家が点在していたりします。道々コスモスの可憐な姿が薄暮の中に浮き上がって咲いています。本夕は風がさほどないようです。いつもならば、わずかの風にもそよぐコスモスの、じっと身じろぎもせぬ立ち姿です。
 農家の庭や畑には、すでに色づいた柿の実がたわわです。思えば、私が当ブログを開設してすぐくらいの記事が『柿若葉』でした。早いもので、あれから半年近くも経ったわけです。
 とまた、どこからともなく『夕焼け小焼け』のメロディが聴こえてきました。残念ながら本夕、夕やけ小焼けは見られません。

 しばらく走って、中津川の橋を渡ります。この地点は、いつもご報告している中津川堤防道からは数キロ上流にあたります。その分河川全体の幅も少し狭まって、真ん中の川も数mの一本の流れのみです。
 見ると川の両側の州は、上流も下流も葦や薄(すすき)やセイダカアワダチ草などが覆い尽くし、何やらすがれた秋川原の風情です。

 …両側の小山を止める低いコンクリート擁壁と道の際に、枯葉がびっしり吹き溜まっているのを見ながら、左右にカーヴする坂を登っていきます。坂を登りきると中津の街並みです。県道沿いの両側には、主に各商店が建ち並んでいます。既に車のライトを点灯させないと危険なくらいの暗さになりました。
 武田氏と北条氏との古戦場として名高い、三増(みませ)方向に二キロほど車を走らせて、目指す建設会社に到着です。5時10分すぎ。西の小山がやっと幽かに認められるくらい、夕暮れが急に迫ってきています。

 「そろそろ県の電子申請更新の時期だから、今年の建設業の手続は早めに進めてもらいたい」と、過日お電話をいただいての訪問です。既に各都道府県とも実施しているかと思いますが、神奈川県でも県と各市町村がコンピュータネット化され、指名参加申請の主要データは県が一元管理し、それを各市町村が共有するシステムなのです。
 国自体が以前から「電子政府」を目指しており、当初困難と思われていた法務省管轄の各登記申請ですら、今では電子申請が可能な時代なのです。

 用事が済んで外に出てみると、早や日はとっぷりと暮れて辺りは真っ暗です。5時45分。応対してくれたおかみさんも一緒に外に出られて、「缶コーヒーですが、よかったらどうぞ」と、敷地内の自販機から温かい缶コーヒーを取り出してくれました。ありがたく頂戴します。
 近くのコンビニに立ち寄り、パンを買って、車の中でいただいたコーヒーを飲みながらパンを食べて一服します。すると、コンビニに隣接した庭のあちこちから、元気な虫の声が聞こえてきます。
 もう虫の夜は峠を越えたのかな?と思っていたら、さにあらず。今秋一番ぐらいリンリンとひときわ高い虫の音色ではありませんか ! 駐車していた十数分間小止みなしです。

 ややあって帰路に着きました。西に小高く連なる山々は、早や境目とてなく黒々と一つらなリで続くのみ。そのたもとにポツンポツンと灯が見えます。西の斜め空には、宵の明星でしょう、たった一つだけ明るく輝いています。
 帰るさのしばらくは、まるで虫のリレーのように、心地よい音色が引きもきらずに続いておりました。

 (大場光太郎・記) 

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10月はたそがれの国

 『10月はたそがれの国』という、レイ・ブラッドベリの短編小説集があります。
 かつて『何とシャレたタイトルなんだろう』と思いながら、少し読んだことがあります。レイ・ブラッドベリ(1920年~)は、アメリカイリノイ州出身のSF作家で、「SFの抒情詩人」と呼ばれています。(本の所有や読書が禁じられた架空の人間社会を描いた、『華氏451度』は特に有名です。映画化もされています。)
 
 今は時あたかも10月。季節柄、ふとそのタイトルのことを思い出しました。読んだのはずっと以前、20代の終わりか30代前半頃のことです。当時は推理物やSF物などの軽いものを読んでいました。もっぱら文庫本です。この手の本を扱っている出版社と言えば創元社という出版社です。ですから「創元推理文庫」「創元SF文庫」がけっこうたまりました。
 本というものは、とにかく知らぬ間にどんどんたまっていくもので(これが金銀財宝だったら、どんなにか良かったことでしょう!)、狭い部屋のスペースでは、常に何かの本を処分しなければなりません。そこである時思い切って、『もう推理物やSF物は卒業だ!』とばかりに大量に処分してしまいました。その中に、この『10月はたそがれの国』も入っていたようです。
 今回どんな内容だったろうと調べようとしましたが、見つからないところをみると、きっとそうです。

 『今さら改めて買うのも癪だし』と思い、同タイトルでグーグル検索してみました。14万件以上出てきました。その中でトップ面上位ランクを当たってみると―。私はてっきり、サーカス小屋やカーニバルでの回転木馬などをモチーフにした、幻想SF譚かと思っていましたら。少し違うようです。(いえ、それもいずれかの短編にあるかも知れません。)
 レイ・ブラッドベリは、かのエドカー・アラン・ポーの衣鉢を継ぐ者とも言われています。まさにそういうジャンルの、闇や日陰に息づくうら寂しい奇譚を叙情的に描いた短編集のようです。同人の名声を確立した処女短編集も含まれているようです。

 びっくりなのは、原作のタイトルは『THE OCTOBER COUNTRY』であり、そのまま直訳すれば単に「10月の国」です。『なーんだ、つまんないの』というところです。そんな平凡なタイトルでは売れないだろうと、『10月はたそがれの国』という見事なタイトルにして出版したのは、創元社だったわけです。(翻訳初版・1965年12月24日)
 詩でも例えば、カール・ブッセの『山のあなた』や、ヴェルレーヌの『落葉』などは、原詩よりも上田敏の訳詩の方が優れていると言われています。外国の歌の訳詞でも、そういうケースはままあるようです。この本のタイトルも、その一例と思われます。

 このように書いてくると、読んでみたい気持ちがまたふつふつと湧いてきました。時あたかも「Deep October」。一年でいえば、やがて冬という「夜の季節」を控えた、なるほど「たそがれの季節」。それを「10月はたそがれの月」とせずに、原題に沿いながら『10月はたそがれの国』としたのが、なんとも秀逸です。すぐにでも、読みたくなってきちゃった !

 (大場光太郎・記)  

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秋風辭(秋風の辞)


      漢 武帝  劉徹 

  秋風起兮白雲飛、     秋風(しゅうふう)起こりて 白雲飛び、
  草木黄落兮雁南歸。    草木黄落(おうらく)して 雁(かり)南に帰る。
  蘭有秀兮菊有芳、     蘭秀(らん・しゅう)有りて  菊芳(きく・ほう)有り
  懐佳人兮不能忘。     佳人を懐かしみて 忘る能(あた)わず。
  汎樓船兮濟汾河、      楼船を浮かべて 汾河(ふんが)を渡り、
  横中流兮揚素波。     中流を横ぎりて 素(しろ)き波を揚(あ)げ。
  簫鼓鳴兮發櫂歌、     簫鼓(しょうこ)鳴りて 櫂歌(とうか)発(お)こる、
  歡楽極兮哀情多。     歓楽極まりて 哀情多し。
  少壯幾時兮奈老何。    少壮幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん。

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 漢の武帝(ぶてい。紀元前156年~紀元前87年)は、中国前漢の第七代皇帝。前漢の創始者にして初代皇帝・高祖劉邦の曾孫に当たる。父は景帝、母は王氏。十五歳で即位、以後五十四年の長きに亘り帝位にあった。

 この『秋風の辞』は、盛唐の頃のような、洗練された五言絶句や七言律詩などが現われるずっと前の詩です。それゆえ、原詩は難解です。なお「辞(じ)」とは、散文の要素も併せもった詩体のことを言います。しかしこの詩は、読み下し文を読めば、そのままストレートに意味が分かり味わえる、実に優れた漢詩かと思われます。

 武帝の時代、漢の高祖・劉邦も為しえなかった匈奴制圧に成功し、領土は最大となり、武帝治世の前半は、前漢の最盛期と讃えられています。

 しかし拡大しすぎた領土運営が少しずつ行き詰まり、後半は財政が厳しくなり、各地に士族や農民らの暴動が起こるようになります。そんな折り武帝は、李陵を断罪し(後に無罪が明らかとなる)一族皆殺し、李陵を弁護した『史記』の著者・司馬遷を宮刑に処すなど、冷酷な一面も見せ始めます。
 だが時には、このような見事な詩をものにしたりもするのです。何やら、後代の三国時代・魏の曹操(魏武帝)が想い起こされてきます。

 この詩は、武帝が晩年汾河(ふんが。黄河の一支流。汾水)の南方を巡幸した際、作られたものと言われています。秋色到る行幸途次の景色を詠み、同河を、楼船という皇帝専用の豪華な二階建の屋形船で横切りながら、河の周囲を見渡して詠む。

 秋の美しい情景を詠みながらも、いつしか帝自身の「老いの哀感」の吐露になっていきます。武帝も、秦の始皇帝のように、不老長寿を願う心は人一倍だったようです。しかしいかな最高権力者といえども、最早いかんともし難い「老い」を受容し、半ば諦観に達しているかのような詩でもあります。『偶成』のように教訓的ではなく、自然さが感じられます。

 秋あるいは秋風に、凋落や滅びを感受し、それを名詩に著した詩人は、洋の東西を問わず多いのです。ただ私個人と致しましては、人類全体にとってのかかる嘆きが、過去のものとなる日の近からんことをと願うばかりです。

 (大場光太郎・記)

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秋風の詩(うた)

    秋風の詩(うた)     

  冷ややかな大気が
  なべてのものを秋の色に
  変えていこうとする。
  風はだめ押しのように
  さらに深い秋のスタンプを
  到るところに押して過ぎてゆく。

  風は 落ちなんとして
  なおためらいがちな朽葉に
  最後の一押しを加えて
  母なる枝から引き離す。

  ああ 朽葉は
  空中をひらりひらりと舞い落ちる。
  落葉の落下点を
  風は誰にも予測させない。

  風はまた 孤独のうちに
  秋思して歩く者に吹きつける。
  時に体をもするりと通り抜け
  心の核心にある想いを
  そっと取り出して運び去るだろう。

  遠くの そう幾つもの
  野や町や山や川を越えて
  風はそれを 見も知らぬ誰かの心に
  秋のメールとしてそっと届けるだろう。

                                 (大場光太郎)    

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のぎく小曲

   (「野菊の墓」の民子に捧げる詩)

  そぞろさみしく吹く風に
  そよぐ野山の秋の草
  知る人ぞなきこの野辺に
  うすむらさきの色染めて
  なぜにやさしく匂うのか

    (昭和39年作を改作―大場光太郎)

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横浜の秋風に吹かれて(4)

 産業貿易センタービルといえば、公的機関のビルのようです。しかし実際は、(株)産業貿易センターという民間企業が運営する、テナントビルです。一階や広場では、定期的にいろいろな催事も催されるようです。
 このビルの7階に、神奈川県行政書士会事務局があります。今回同事務局を訪れるのは、日本行政書士会連合会(日行連)が会員に交付している、「戸籍謄本・住民票の写し等職務上請求書」の新様式との交換のためです。戸籍法の改正により、それまでの様式での請求書が使えなくなったのです。今年の春頃から切り替えがあったのですが、なかなか都合がつかず、かといって場面によっては同請求書が必要になるし。それで今回の訪問となりました。(たまに、同請求書を悪用するケースがあるようです。誓って私は、そのようなことは致しません。)

 私が所属する事務局を批判して申し訳ありませんが。直接訪問でも電話でも、応対は決して良いとは申せません。まあ、能面のように無愛想、慇懃無礼、つっけんどんです。前の所から、産貿センターに越してからは特にです。『自分たちは特権階級なんだ』というような、変な思い上がりがあるのではないでしょうか。
 今では各役所とも、応対はずっと親切で柔らかくなっているというのに、俗に「民間官僚」と言うのでしょう。官僚化して改めようとしない民間組織は実に困りものです。
 というわけで、折角道々浜の秋風に吹かれながら、歴史的建造物を心地よくたどってきたのに。一辺で台無しの気分になりながら、ぐっとこらえて新請求書を受け取りました。

 一階に下りて、午後4時半少し過ぎ。気分転換に、通路から山下公園へと歩いて行きました。いえ、同事務局を訪れた後は、必ずといっていいほど、目と鼻の先の公園に足を伸ばすのです。敷地から、山下公園通りを渡って、同公園内に入り、海の方へと歩いていきます。公園内もそうですが、この界隈には街路樹を始め、本当に樹木が豊かです。もしそうでなければ、とてもこの辺には立ち寄らないことでしょう。
 横浜港はと見れば、既に日は翳って、海全体に夕靄が漂っているような感じです。前はベンチに腰掛けて、海を眺めながらゆっくり一服できたのですが、今はできません。そこで、また「赤い靴はいてた女の子の像」に逢いに行くことにしました。(以前はよく来ても、すぐ近くにその像があるとも露知らず。)

 いつもの夕方と同じで、大勢の市民が三々五々散策を楽しんでいます。特に本日は、像の周りにもいっぱい人がいるようです。どうやら、どこかの高校生たちが見学に訪れているようです。引率の先生が「どうだ。記念写真を撮ってやろうか」と呼びかけると、像を取り囲んでいた男子たちはそれに応じて、女の子の像の後ろに並びポーズを取りました。私も先生から少し離れた所でそのようすを見ていました。すると真ん中辺の男子が、私の方に一瞬シャイな視線を送ってよこしました。私はくるっと向きを変えて海を見やりました。

 秋の暮色はつのるばかり。私は早々と像も公園も後にしました。途中開港広場公園に、もう一度立ち寄りました。お隣の横浜海岸教会を、しかと確かめるためです。
 これは、先日仙人様ブログ『心の居間Ⅱ』で紹介された折り、私は「この教会は山手地区にあるんですか?」と、トンチンカンなお尋ねをした教会です。何年か前は、ここの敷地内の桜が見事に咲いて(関内地区には、他に桜はほとんど見当たりません)ちょうどその時期に偶然何度か通り、そのたびに近くまで行ってしげしげと見上げたものでした。
 しかしその木の向うに、白壁の美しい我が国最古のプロテスタント教会があったなんて。「心ここにあらざれば、見るども見えず。聞くども聞こえず」。今回はその正面に行って、暮色がいよいよ深まる中、周りを樹木で囲まれた幽玄とも思われる教会のさまを、しばし見入っておりました。(太字個所をクリックすれば、赤い靴の女の子の像・教会画像がご覧いただけます。)  ― 完 ―
 (大場光太郎・記) 

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横浜の秋風に吹かれて(3)

 目指す産業貿易センタービルまでは、距離にして1キロ弱です。しかしその道々には歴史的建造物がけっこうあります。今回はそれをご紹介するべく、あちこち視線を走らせたり立ち止まったりしながら歩きました。

 日本大通沿いの舗道を、山下公園の方に歩いていきます。すると、直交しているみなと大通りとの交差点に来ます。その角に、横浜の代表的な建造物の一つである、横浜市開港記念会館があります。
 同会館は、横浜開港50周年を記念して大正6年(1917年)市民の寄付によって創建されたのだそうです。赤褐色のレンガ壁、西洋のさるお城のような外貌…。なるほど確かに、時代を感じさせる古い建物です。3年ほど前までは、私が所属している神奈川県行政書士会の会員への研修会の会場として、よくここの一階講堂を利用していました。私も2、3度この講堂での研修会に参加したことがあります。2年ほど前、会長が現在の女性会長に変わってから、なぜか研修会自体が少なくなりました。

 その交差点から日本大通を渡って反対側に来ました。開港記念会館を少し離れて見るためです。すると少し身をかがめて、同会館をデジカメで撮っている70前後の人がいました。親近感を覚えてそのようすを眺めていると、シャッターを押すなり、そそくさと立ち去っていきました。
 同会館を改めて眺めて、忘備のために持ち合わせの用紙にメモしていると、60代くらいの男性がつかつかと歩み寄り、「大桟橋はどちらですかねぇ?」と、自分では桜木町駅の方を指差しながら聞いてきます。「いやぁ、私も知らないんですよ」「あヽそうですか」と言いつつ、その人はやはり桜木町の方向へ。少し歩いて『ん?』と思ったのか、もう一度戻ってきて、今度は信号待ちをしている人に改めて問い直しているようす。ようやく納得して、反対の山下公園の方に歩き去って行きました。私も『大桟橋って、あっちだったのかぁ』。

 そこから、みなと大通りを神奈川県庁本庁舎沿いに歩きます。同庁舎は、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失した前庁舎を再建するかたちで、昭和3年(1928年)建造されました。当時流行していた帝冠様式の先駆けとなった歴史的に意義深い建物です。私はいつぞや同庁舎内の部署に書類提出後、余裕があったので屋上まで上ったことがあります。そこからは横浜港や市街のようすが一望でき、有意義なひと時を過ごせました。
 
 みなと大通りを海の方にそのまま歩きますと、有名な赤レンガ倉庫に行き着きます。私は山下公園から遠く望むばかりで、未だ間近に見たことはありません。いつか余裕のある時に、じっくり見学したいものだと思います。
 さて県本庁舎を右に曲がると、今度は山下公園通りです。県庁の並びには、横浜開港資料館があります。横浜市に関する資料を収集し、閲覧、貸与、出版などにより一般に公開する「近代都市横浜の記憶装置」のような施設だそうです。
 そしてその裏が、開港広場公園。それに接する通りを海に向っていくと、さきほど尋ねられた大桟橋に行けるようです。
 もちろん私はそちらには向わずに、そこの信号の横断歩道を渡ります。すぐの建物がシルクショッピングアーケードで、産業貿易センタービルはその隣りです。(太字の個所をクリックすると、建物の外観などがご覧になれます)  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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横浜の秋風に吹かれて(2)

 日生横浜本社ビル4階の、宅建指導班に入りました。担当窓口の手前に、銀行などにあるような自動受付器があり、見ると「待ち人は0」。しめた ! とばかりにカードを引き抜くと、№28。きょうは既に27人当窓口に来庁したということでしょう。きょうはたまたま誰もいませんが、時には10人くらいも先に待っていて、閉口することがあります。
 窓口担当の二人のうち一人は手があいているようです。その場に立って、少し待っていました。するとその人が「次の方どうぞ」と。私はイスに腰掛けて、書類を差し出しながら本日の用件を伝えます。
 
 肝心の宅建業免許(更新)申請の前に、変更届が2件あり、先ずそちらが片付かないと更新申請のチェックには入れません。宅建業のみならず他のどんな申請でも、各役所のチェックは鵜の目鷹の目、非常にシビアです。特に宅建指導班はその業者の全データをコンピュータに入力してあり、それとつき合わせてのチェックですから余計です。
 しかし考えてみれば、役所としては原則「書類審査第一主義」で、特例以外は現地調査は実施しないわけですから、当然と言えば当然です。
 それに業者の不正が後を絶たないのか、何年か置きに申請マニュアルが改正になり、その都度審査基準が一段と厳しくなっていきます。こと申請書類審査に関しては、規制緩和どころか規制強化の方向のようです。(そのお蔭で、私のような職種の者が何とかメシを食っていけるとも言えるのです。)

 どんな申請でも、担当者を前にしてじっと座って、書類の一ページ一ページ、一項目一項目のチェックを受けている時は、(開業後12年になった今でも)かなり緊張します。先方はその道のプロですから、ミスは先ず見逃してくれません。
 万全を期したつもりが、今回も『そんなことどうでもいいじゃん』と思うようなことで、2点ほど不備の指摘を受けました。ウン万円の県証紙を申請書に貼付し、申請書第一面余白に神奈川県の丸くて大きな収受印をポンと押してくれて、副本は渡してくれたものの。後日その書類を郵送しないと、以後の内部審査は止まったままとなります。(ホントに、もう !)

 外に出てみると、午後4時少し前です。ほっとして、ちょっと一服したくなります。しかし横浜関内地区は、去年の春頃から全域禁煙ゾーンに指定されました。市の監視員が巡回しており、もし喫煙しているのが見つかると、罰金ウン千円だそうです。
 ですから目立たぬよう、日生ビル玄関横の植え込みに身を隠すようにしての一服を…。次にこれから向う先は、神奈川県行政書士会のある、山下公園に隣接した産業貿易センタービルです。  (次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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横浜の秋風に吹かれて(1)

 本日午後久しぶりに横浜に向いました。もちろん業務上の書類提出が目的です。目指すは、中区関内は日本大通沿いの神奈川県分庁舎のある、日本生命横浜ビルです。厚木市内の不動産会社の、宅地建物取引業免許(更新)申請です。

 相鉄線で、横浜駅着が午後2:30分過ぎ。根岸線に乗り換えて、次の桜木町駅で下車。同駅構内通路から見ても、外は明るい午後の日差しが降りそそいでいるようです。いざ外に出て空を見上げますと、少し雲が多めながらまあ秋晴れといってよい天気です。
 駅を出て左手に名物のノッポビル・ランドマークタワーが、秋空を摩すようにでんと聳え立っています。いつぞや雨もよいに見た時は、高い山の頂きとでも勘違いしたのか、その天辺あたりをガス状の雲が覆い隠しておりました。
 同ビルの後方には、クイーンズタワーやまん丸の大観覧車が秋の陽をあびて輝いています。

 同駅内にも広場にも、いつもながら大勢の人が絶えず行き交っています。少し右手に歩いて、屋外エスカレーターに乗り、大きな歩道橋上を、周りのみなとみらい地区の景観を眺めやりながら歩きます。するとそのままCROSS・GATEビルの二階通路に連結されます。
 同ビル壁面の左端に「横浜トリエンナーレ2008」開催の、大きな垂れ幕が下がっています。9月13日から来月末までの長期に及ぶ、現代美術に関する国際展で、それにまつわるいろいろな催しがあるようです。つい先日の仙人様ブログ『心の居間Ⅱ』によりますと、この付近で連休中「JAZZ PROMENADE」が開催されたとのこと(同ブログでは、「横浜トリエンナーレ」紹介も、画像つきでご覧になれます)。体育の日には、このビルの二階にあるスターバックスコーヒー店が、道行く人に無料でコーヒー飲み放題サービスをしていたそうです。
 残念ながら本日は平日で、いつもと同じく、特にこの通路を通る人はまばらです。

 同ビル二階通路を抜けて階段を下りて少し歩くと、大岡川に架かる弁天橋です。横浜港はすぐですから、淡水と海水が入り混じっていることでしょう。西日を浴びた川面はキラキラと輝き、凪いで穏やかです。
 橋の途中で、向うから歩いてくる二人のご婦人がいました。お一人は30代と思しきふくよかななかなかの美人です。もうお一人は見るからに品の良さそうな老婦人です。母娘でしょうか、姑さんとお嫁さんでしょうか。川の方を見ながら、何やら楽しげに語らいながらすれ違っていきました。
 
 橋の少し先の信号を右に渡り、そこを左折して、後は日本大通沿いの舗道を7、800メートルひたすら歩きます。左手の方からやや強い浜風が、絶えず吹きつけてきます。しかし少し汗ばむくらいの秋日和には、むしろ心地よいくらいの爽やかな秋風です。
 舗道には銀杏の街路樹が繁っています。見ると、葉はまだ青々としており、この分ではすべての葉が黄色く色づいて銀杏落葉が舗道に散り敷くのは、12月に入ってからのことでしょう。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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貧者の一灯

 「貧者の一灯」は有名な仏教説話です。少しずつ異説はあるものの、おおむね以下のような説話です。

 昔々お釈迦さま在世中の古代インドでのこと。マガダ国のアジャセ王が、お釈迦さまをご招待し、その帰路を万灯をもって照明しようと考えました。
 そのことを知った城下に住む篤信のある老婆も、灯を供養したいと望みました。しかしこの老婆は、物乞いをしながら日々の生活をしている貧しさで、持ち越しているお金は一銭もありません。そこで老婆は、その日物乞いで稼いだお金全部を投じて、わずかに一灯を得ることができました。それを、アジャセ王のきらびやかな万灯の片隅にそっと献じました。
 その翌朝、アジャセ王が献じた万灯はすべて消えてしまっていました。しかし老婆の一灯だけは消えずに、明々と灯っておりました。(真夜中に嵐が吹き荒れたという説もあります。)
 それを目連(もくれん)尊者が消そうとしますが、なぜか消えません。目連といえば、「神通力第一」と言われた、お釈迦さまの十大弟子の一人です。その目連をもってしても、老婆が献じた灯を消すことはできませんでした。
 それをご覧になって、お釈迦さまは言われました。
 「目連よ。そなたの通力によっても、この灯は消せはしないのだよ。なぜなら、この一灯こそ、真の布施の灯であるからである」
                          *
 賢明な皆様には、この説話の言わんとしていることは、既にお分かりのことと思います。 一言で申せば、「真心の布施」の大切さということになろうかと思われます。
 仏教における「布施行」は、悟りへの道である「六波羅蜜」の一つです。六波羅蜜とは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六種の修行を指していいます。そしてその最初の修行である「布施波羅蜜」には、以下の三布施行があります。
  1 財施  文字通り、金銭や物品を他人に施すこと。
  2 法施  御仏の教えを説き、迷いに悩める衆生を救い、悟りへと導くこと。
  3 無畏施 人の悩みや恐れを取除き、安心を与える布施のこと。

 アジャセ王と老婆の献灯は、上の布施行のうちの「財施」に当たるわけです。
 いずれの布施行であっても、共通した基本的な姿勢が求められます。それは布施とは、何の見返りも求めず無償の心でもって捧げなければならない、ということです。
 この説話で、それに適っていたのは、明らかに老婆の一灯の方でした。方やアジャセ王には、お釈迦さまをご招待し、贅を凝らした万灯を献じはしたものの、そこにお釈迦さまの名声を利用して自分の力を内外に誇示しようという、邪念が少しでも無かったとは言えません。
 それでは、「真心」ならぬ「間心」です。御仏の御心との間に、隔たりが出来てしまうのです。すなわち、御心に適わないのです。なお、「間(ま)」は、「魔」に通じます。

 今回は、貧者の一灯 > 富者の万灯。いつぞやは、野の花 > ソロモン王の栄華。
 この両方の教えには、宗教の違いを越えて、共通するものがありそうです。

 なお、貧者は「善」で、富者は「悪」なのか?というと、決してそうではありません。神仏は、貧者、富者の違いなど形の一切の差別なく、「真心」の有りや無しや、ただそれのみを見給うのです。
 また、この説話とは別問題ですが、清貧よりは「清富」をずっと喜び給うのです。
 (大場光太郎・記)

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記事数200越えました

 おがけ様をもちまして、『郷里の民話・真心の一文銭(3)』で記事数200に達しました。これはひとえに4月末開設以来半年弱の間、当ブログをご訪問くださった皆様のたまものです。
 大変ありがとうございました。

 本日10月13日で、開設から181日くらい経過しました。記事の中には、『二木紘三のうた物語』の既コメントをそのまま当ブログに移させていただいたものなどが10弱ありますが、それでも1日1記事以上は公開してきた勘定です。そのことに我ながら驚いています。人間必要に迫られると、本当に何とか形にしてしまう生き物のようです。

 本当は、一回ごと完結の「読み切り物」が理想かと思います。しかし当ブログでは、ご覧いただいてとうにお分かりのとおり、ある一つのテーマの「シリーズ物」もけっこう多くあります。中にはそれがお好みでない方もおいでかもしれません。しかしシリーズ物によってある日数は確実に埋められるわけなので、『次はどんなのにしようか?』と常に思い悩んでいる私としては大いに助かるのです。その辺の事情をどうぞご理解賜りますようお願い申し上げます。
 と申しましても、例えば5回シリーズの場合、当初から原案が全部出来ているわけではありません。その場合でも、一回分をその日その日にまとめています。そのため当初おおまかに考えていた方向とは、かなりかけ離れたものになることもしばしばです。
 
 「記事の内容」そのものにつきましても、ご訪問くださるすべての方にご満足、ご納得いただける記事、というのは大変難しいと思います。心構えと致しましては、アンテナをより鋭敏に、より広範囲にとは思いますが…。どうしても記事作成者である私の、これまでの半生で培ってきたこと(逆に未熟ゆえの経験不足だったこと)、知識、個性、好みになどに偏ったものにならざるを得ません。
 例えば、その一つに「スピリチュアル記事」があろうかと存じます。よく考えてみますれば、普段気がついていないだけで、私たち人間は物質的な世界にありながらも、元々(今このままで十分)「霊的な(スピリチュアルな)存在」であるわけです。「アクエリアス(水瓶座・宝瓶宮)新時代」への移行期である重要なこの時期、「スピリチュアルな叡知」を取り戻すことは何にもまして必要不可欠かと存じます。私はこの信念によって、折りにふれてそのような内容の記事も公開しているつもりです。
 どうぞ併せてご理解賜りますよう、お願い申し上げます。

 日々ご訪問くださる方々にとりましては、当ブログも「新聞」の一記事のようなものなのかもしれません。それにお応えするには、先ず何より「ネタが新鮮」なものでなければなりません。例えば、昔の回想記のようなものであっても、そこに新しい視点や光りがなければならないと思われます。
 ということは私自身が、常に新しい発見、新しい喜び、新しい感動、新しい気づき…を心がけていかなければならないということです。
 かくありますよう。「日々新生」のつもりで生き、かつ時々に「ハッとした新鮮なこと」を記事にしていければと思います。

 どうぞ今後とも、当ブログご愛顧たまわりますようよろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記) 

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郷里の民話・真心の一文銭(3)

 当地(厚木市)に来てから少し全国の民話などを読んでみましたが、この話は他の地方には無いようです。どうやら私の郷里独自の昔話のようです。あるいは、昔々これに類する何らかの実話があって、それが形を変えて伝承されたものなのかもしれません。何やら、仏教説話の「貧者の一灯」を彷彿とさせる心温まる民話です。
 
 「アレンジ」などと言いながら、「夕焼けの里メール」の内容にほんの少し手を加えただけになりました。しかし考えてみますと、地元の語り部さんが語った『真心の一文銭』の文は、代々長い間言い伝えられてきた物語だと思われます。
 その間不要な個所は削られ、エッセンスのみの完成体として語り継がれてきたものが残っているわけですから、ほとんど手を加える必要がないのは当然のことです。

 この物語理解のために、以下に何点かを補足説明させていただきます。
 先ず、「今から四百年前」という時代についてです。ちょうどその頃、有名な関ヶ原の合戦(慶長5年、西暦1600年)が起こりました。東軍を率いた徳川家康が、豊臣家の西軍に勝利し、以来徳川家が天下の実権を握っていくことになります。ですから、日本史の中心部では、江戸幕府が開かれた頃ということになります。
 その頃の郷里の状況は―。関ヶ原の戦いで西軍についた会津百二十万石の上杉家の当主・上杉景勝は、戦後家康によってその罪を許され、米沢三十万石に減封され新たに米沢一帯を治め始めた頃のことです。

 今でこそ「宮内(みやうち)」という町ですが、その頃は「熊野神社」というお宮のある小山の周りに集落が点在する村に過ぎなかったわけです。(それが時代が下ると共に町に発展し、お宮を中心に開けた門前町だったために、「宮内」という地名になりました。)
 そして物語の中の、「熊野大権現」とあるのは、元宮であり熊野信仰の総本山である「熊野本宮大社」の、「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」に倣ったものと思われます。本地垂迹とは、仏教が興隆していた時代に表れた神仏習合(しゅうごう)の一つで、日本の八百万の神々は実はさまざまな仏が化身して現れた権現であるとする考え方です(「権現」とは、権り(仮り)に現われるという意味です)。
 ですから当時は、お宮にも鐘撞き堂があり、今の神職である宮司は「和尚さま」であったわけです。

 最後に、このお話をご提供いただいた「夕鶴の里」の謂れについてです。
 木下順二の戯曲『夕鶴』にもなり全国に知られた『鶴の恩返し』の話が、同資料館のある漆山地区にかなり昔から伝わっていたようです(私も、郷里にいた頃から知っていました)。この話は全国各地にさまざまな形で広く伝播しており、類似の話は240もあるそうです。
 「夕鶴の里」のSさんはもちろん、「うちが、そもそもの発祥だと思っております」というご返事でした。同地区には『鶴の恩返し』を開山縁起とする、鶴布山珍蔵寺というお寺があり、その由来を記した「鶴城(かくじょう)地名選」という古文書が残っているそうです。
 冬に鶴が飛来する地域といえば限られております。そこで一説では、山形(ということはやっぱり、私の郷里?)か新潟のどちらかが発祥源ではないかと言われているようです。

 この『鶴の恩返し』も含めまして、いずれまた郷里の別の民話をご紹介できればと思います。
 とうびんと(完)。
 (大場光太郎・記)

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十三夜(後の月)

    古(いにしえ)の心偲ばゆ十三夜   (拙句)

 「後(のち)の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。幼い訳とは思うが何分にも忘れることができない。」
 この書き出しで始まる小説をご存知でしょうか?民子と政夫の悲恋物語、伊藤左千夫の名作『野菊の墓』です。

 今晩はその後の月(十三夜)です。
 陰暦八月十五日(今年は九月十四日)の中秋の名月は「十五夜」ですが、こちらは陰暦九月十三日の、月齢13の月の「十三夜」。十五夜の次に愛でる月であるため、「後の月」とも呼ばれます。
 また中秋の名月が別名「芋名月」なら、こちらは「栗名月」または「豆名月」などとも呼ばれます。これは、ちょうどこの頃が栗や豆の収穫時期と重なるため、そう呼ばれました。

 中秋の名月は元々中国で行われていた行事が、日本に伝来したものですが、十三夜の月見の行事は日本独特の風習だそうです。一説には、宇多法皇がこの月を愛でて「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜19年、西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています。
 一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものとされていました。これは十五夜だけでは、「片月見」といって嫌われていたからです。
 十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対して、十三夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。
                              *
 ところが本夕は、雲の多い空模様でした。それで今夜月は見えるのだろうかと心配していました。
 午後7時前外に出てみました。空を見上げると、南南東に掛かっている月が見えました。『良かった !』と思い、十三夜月をじっくり見るには中津川に限るとばかり、川の方に車を走らせました。

 堤防上部の草叢のススキの穂も水辺の葦の穂も、川夜風にいっせいに下流側になびいています。幾分冷気を含んだ秋の北の風がやや強く吹き渡っているようです。川は流れているさまとも見えず、何やら白々長々と横たわっているような感じです。
 中洲やそこに繁っている葦原も、対岸の葦原も木立も岸そのものも、皆黒々と一つに連なって見えています。だだ薄暗がりの川原です。方々から虫の声が聞こえてきます。それは各々さまざまな種類の虫なのでしょう。しかしこうして堤防の一角に立って聴いていますと、それは「虫族」という一つの種族の交響楽のようにも思われます。

 そうでした。十三夜月、後の月のことでした。川の下流のちょうど上辺りに、その月が白く浮かんでおりました。やはり薄くて白い雲に覆われています。雲はうんと高い空にあるようです。その雲を透かしておぼろに潤んだお月様です。
 よく見ると月の形は、何やらアメリカンフットボールのような楕円形をしています。月の周りを白銀色の光茫が漂っており、そのさまは月自体が放っているオーラのようにも思われます。たまに、低い空の流れの早い暗灰色の雲が、お月様を隠してしまうこともあります。

 古来我が国では、月齢13のこの月を十三夜月と呼び慣わしてきました。これはおそらく、世界にも類を見ない風習なのではないでしょうか?満月に少しだけ欠けた月を「趣きがあって良い」と愛でてきた、古の日本人の風流心がつくづく偲ばれます。
 しかし今の時代、この夕べわざわざ「お月見」などという酔狂な御仁は皆無です。中津川には、私以外誰もおりません。
 (大場光太郎・記) 

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郷里の民話・真心の一文銭(2)

   真心の一文銭

 むがーし、あったけずまなぁ。(という決まり文句で、郷里の昔話は始まります。)
 今から四百年ほど前、今の熊野神社―その頃は、熊野大権現と呼ばれていました―を、当時村びとたちは「オクマンサマ、オクマンサマ」と親しみをこめて、そう言っておりました。
 そしてオクマンサマが鳴らす鐘の音を聞いて、「あヽ今は何時だなぁ」と時を知りながら暮らしていました。しかし立派なお社(やしろ)のわりには、鐘は小さくだいぶ傷んで、響きも悪くなっていました。そこで「大きな鐘に造り替えたらどうだろう?」ということになりました。協議がまとまり、大権現の和尚さま方が手分けして、村中を托鉢に回ることになりました。
 熊野大権現といえば有名なお社ですから、知らない者はおりません。そこで皆それ相当の金子(きんす)を寄付してくれました。
 ある時。ある和尚さんが、村外れの家に行きました。玄関先で用向きを伝えたところ、奥からおばあちゃんが出てきて、
 「あらあら。オクマンサマでいらっしゃいますか。…私もいっぱい寄付したいのは山々ですが、何せこのとおりの貧乏暮らしの年寄りなもんで」
と言いながら、何がしかの金子を紙に包んで、恭しく和尚さまに渡しました。
 「どうも、おしょうすなっすー(ありがとうございます)」
と礼をいいながら、和尚さまは外に出ました。少し歩いた所で立ち止まって、「どのくらい入ってるんだろう?」と紙包みを開けてみました。
 そうしたら、中から出てきたのは、たったの一文銭。
 それを見た和尚さまは、「なーんだ。たった一文銭かい。こんなのクソの役にも立たんわ」と、側のドブ川に銭をポーンと投げ捨ててしまいました。
                         
 さて、皆様の温かい志で寄付もたくさん集まり、お蔭で立派な梵鐘が出来ました。きょうはその撞き初め(つきぞめ)の日です。オクマンサマの石段途中の左側の鐘撞き堂の前に、村の衆が皆集まって、今か今かと待っています。
 熊野大権現さまの一番えらい和尚さまが、
 「それでは、これから撞き初めを致します」
と挨拶してから、鐘撞き棒をグーッと引いて、
 「いーち・・・にい・・・さーん・・・ !」と鳴らしました。
周りの皆は「ぐぁぁぁ~ん」と、さぞ良い音が響くものと期待していました。
 ところがどうしたことでしょう。「ゴトン、ゴトン・・・」と小さな音がしただけで、鐘は響きません。それを聞いた村の衆は互いに顔を見合わせて、
 「何か悪いことが起きるんじゃないだろうか?」
 「いやいや、何という音だ」
などと、口々に言い合いました。

 驚いた和尚さまは、早速熊野大権現さまにお伺いを立ててみました。その結果、
 「托鉢に行った時に、一文銭をドブに捨てた者がいる」
とのお告げがありました。
 お告げに驚いて鐘をよく調べてみると、ちょうど一文銭くらいの穴が開いているではありませんか。
 それを知った例の和尚さま。顔を真っ青にして、一文銭を投げ捨てたドブ川まで走って行きました。川にドブンと入りドブをさらいながら、必死で一文銭を探しました。すると―
 「あったぁ !」
 今度は見つけた一文銭を大切に握りしめて、急ぎ熊野大権現に帰り、それを鐘の穴にはめてみました。するとどうでしょう。穴にピタッと一文銭がはまったではありませんか !
 こうして鐘を鳴らしてみますと、
 「ぐわぁぁぁぁぁぁん・・・」と、それはそれは心に響く綺麗な音で、村中に鳴り渡りました。

 その音を聞きながら、村の衆は幸せに暮らしました。
 とうびんと。(「これでおしまい」という、決まり文句です。)   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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中津川寸描(3)

    川の面(も)に佇(た)つ白鷺の孤影かな   (拙句)

 空の中ほどにうすいすじ雲が少しあるくらいで。すっきり晴れ上がった、気持ちよい、まさに秋日和の一日でした。

 本夕また中津川堤を降りてみました。
 秋分の日から間もなく、少し下流の大堰は開けられて、既報のかつて満々と水を湛えていたその上流側は、すっかり様変わりです。目測でも、1m弱くらいは水位が下がったでしょうか。
 堰からこちら20mほどは川幅いっぱいに浅く広がっていても、それより上流はぐんと中洲の砂地がだいぶ露わになっており、そこからこちら岸までの川幅約20mほど。以前と比べると、川の流れはだいぶ細って見えます。
 天辺に鴨がくつろいでいたテトラポットも、今では突起から数十㎝ほど突き出しており、改めて数えてみるとその数40以上。ずらっと連なっている様は、何となく異様な感じがします。
 一体どこに行ったものか、堰が切られてこの方鴨の姿はついぞ見かけません。

 ご存知の方もおいでかもしれませんが。中津川の最上流は、今から二十年ほど前に完成した、「宮ヶ瀬ダム」です。同ダムは、神奈川県の重要な水源確保の他流域全体の洪水や渇水時の流量調節などの機能を有する、首都圏最大級の多目的ダムです。
 私が立っている中津川岸の地点から、1キロ弱下流で相模川と合流します。毎年3月頃から9月までの約半年間は堰を閉めて満水にし、統計的に雨量が少ない後の半年間は堰を開けて放流する。神奈川県土木事務所や(財)宮ヶ瀬ダム周辺振興財団などが協議して決めたことなのでしょう。
 しかしその結果、鴨の例に見られるように、その都度生態系にそれなりのダメージを与えているかもしれない…などという環境アセスメントなどは、あまり考慮されていないように思われます。

 そんな中だいぶ下に伸びた中洲近くの水面に、白鷺が一羽、上流の方を向いて歩いている姿が認められました(中洲で分断されて、その向うにも小さな流れがあるのです)。しばらくその姿に見惚れていると、更にもう一羽堰の方から真っ白い翼を優美に広げて飛来してきました。向うの仲間の側に行くのかと思いきや、中洲のこちら側の水際にスーッと降り立ちました。中洲を挟んであちらとこちらと。互いに没交渉で、それぞれが上流の方を向いてしばし佇んでいたり、ツツーッと歩き出したり…。

 向こう岸といわず中洲といわずこちらの水際といわず、群生している葦が白い穂をつけて連なっています。この夕べ風はさほど無く、穂はピタリとも揺れません。
 私が座っているコンクリート堤防から直ぐ先は自然のままの堤防で、雑草が伸び放題です。悪名高いセイダカアワダチ草の黄色い花も、所々に見られます。そんな雑草に紛れて、私の直ぐ前に、幾株かのコスモスが十幾つかのやわらかいピンクの花を咲かせています。確か去年まではこの辺にはなかったはずです。堤防道沿いに咲いているコスモス群の種が、風に飛んで運ばれてきたのでしょう。

 と、夕方5時を告げる例の「夕焼け小焼け」のメロディが、北の方角のどこか遠くから、天来の楽の音(ね)のようにワンフレーズ流れて、プツンと消えました。
 当厚木市は湘南海岸からそう遠くなく、相模川右岸の沖積平野の一角です。標高せいぜい何十m。街中にいては、「秋」を感受するのは容易ではありません。しかしここ中津川は、しみじみ秋思のできる数少ないスポットです。
 下流の南の空を望めば、まだ東寄りの冴えた秋空に、半月に少しふっくらした白い夕月。十三夜(後の月)までは、後2、3日でしょうか。
 (大場光太郎・記)

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郷里の民話・真心の一文銭(1)

 『厚木市と♪夕焼け小焼け♪』シリーズを作成しながら、ふとある昔話を思い出しました。それは私の郷里である、山形県東置賜郡宮内町(現・南陽市宮内)に伝わる民話です。何で思い出したかといいますと、それが『夕焼け小焼け』の一番の出だしの、
   ♪ 夕焼け小焼けで 日が暮れて
      山のお寺の 鐘が鳴る  ♪
の「山のお寺の鐘」にまつわるお話だからです。(後述のとおり、実は「お寺」ではなく「お宮」でしたが)
 
 この「真心の一文銭」は郷里ではよく知られた昔話で、確か小学校高学年時の社会科の授業か何かの折り、スライド映写でこのお話を観た記憶があります。
 今回この昔話を何とか記事にまとめようと、物語のあらすじを思い出し思い出ししながらたどってみました。しかし肝心な個所で、『あれっ。ここはどうだったかなぁ?』とつっかえる場面が2、3ありました。『困ったなぁ。これじゃあ、とてもまとめられないや』と、半ばあきらめかけていました。
 とその時『もしや?』と思い、「真心の一文銭」でネット検索してみました。するとズバリそれそのものを扱っているホームページがあるではありませんか ! 早速そのページに飛んでみました。
     「夕鶴の里資料館」ホームページ 
 なかなかセンスの良いホームページです。この「夕鶴の里」というタイトルを見ただけで、ピンときました。『そうだ、これだ ! おらが田舎のものに間違いない !』。
 私は全く知りませんでしたが、南陽市が支持母体で、内外とも立派な三階建ての白壁の建物。中には伝統工芸室、図書コーナー、文化研究室、売店喫茶コーナーなどが設けられ、なかなか充実した施設のようです。
 民話や郷土工芸などを後々まで伝えようとの、おらが郷里の試み。私はすっかり嬉しくなりました。
 
 該当ページをざっと見渡しますと、「夕鶴の里ニュース」というコーナーがあり、そこでは地元「民話会ゆうづる」メンバーによる「民話CDが好評発売中 !」とあり、中に「真心の一文銭」もちゃんと収録されています。取り寄せて聴きたいのは山々だけど、時間がありません。
 そこで本夕電話して、要点だけ聞いてみることにしました。応対されたのは、柔らかいお声のSさんという女性の方でした。とりあえず、ご挨拶、昔宮内に住んでいたこと、今回同民話をブログで紹介したいので不明な点をお教え願いたいことなどをお伝えしました。Sさんは、私の疑問にていねいにお答えになり、なおかつ「電話での説明だけですとあいまいですから、同話を語り部が語ったものを再現した文がありますので、それをメールで送りましょうか?」。私はお言葉に甘えて、そのメールを待つことにしました。

 5時すぎ所用から帰って確かめてみましたところ、メール早々と届いておりました。早速メール添付ファイル「真心の一文銭」開いてみました。バッチリです ! 語り部さんの郷里の言葉を再現したお話が、まさに私が知りたいそのままに再現されておりました。
 本当は、この文をそのまま当ブログで公開したいくらいです。しかしそれでは著作権法の関係で具合がわるいですし、なにせ郷里の東北弁ですから別途翻訳文が必要になります。そこで私流にアレンジし直したものを、次回ご紹介致したいと思います。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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鶏頭の句―名句?凡句?

                               正岡 子規

   
     鶏頭の十四五本もありぬべし    

 …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 (正岡子規の略歴紹介は別の機会にということで、今回は省略します。)
 この句が作られたのは明治33年、子規が亡くなる2年前です。この年の8月13日、子規は病床で喀血しています。その疲労は甚だしく長く続いたようです。
 鶏頭の花はご存知かと思います。東南アジア原産とされるヒユ科の一年草で、9月上旬頃から鶏冠状の紅、赤、黄、白などの花を咲かせます。仏花や生け花用として広く親しまれている花です。従いまして、レッキとした「秋の季語」の花の一つです。(角川文庫版「角川歳時記・秋の部」より)

 子規は明治27年から、昔から文人墨客が多く住んでいた、東京は根岸の里に越してきます。ここに郷里の松山から母と妹を呼び寄せ、病気の看病などをしてもらいながらの日々を送ります。そしてそこは、当時から「根岸庵(後の「子規庵」)」と呼ばれ、夏目漱石、森鴎外、高浜虚子、与謝野鉄幹、島崎藤村など多くの友人、門弟などが訪れ、近代文学の原点の一つとなりました。
 その家の庭に面した部屋で、子規は病の床に臥せっています。まさに『病しょう六尺』状態です。この句の鶏頭は、先年母か妹かが庭に植えたもの、それが今を盛りと咲いているわけです。もどかしいことに、起き上がって側に寄って、しげしげと見ることも適いません。『俺は余命いくばくもない。やらねばならないことは山ほどあるのに…』。そんな中で、この句が生まれました。

 この句には、先人の優れた鑑賞文があります。少し長い引用ながら、先ずそれをご紹介したいと思います。
 「鶏頭が立ってゐる。群がって立ってゐる。十四五本に見える。あはれ、鶏頭は十四五本もあるであらうか―鶏頭を、さう捉へた瞬間子規は鶏頭をあらしめてゐる空間の、その根源にあるものに触れたのである。自己の「生の深処」に触れたのである。
 子規はそれを純粋に、直接に「鶏頭の十四五本もありぬべし」と表現した。かく表現された鶏頭は、鶏頭にちがひないが、同時にそれは「子規の鶏頭」となり、子規が鶏頭となって立ってゐると云ってもいいのである。
 鶏頭は「十四五本もありぬべし」という独自の意味を持って、その空間に立ってゐる。……最早それ以上の何ものをも必要とせぬ。鶏頭として立ってゐて、ただそれだけで、人を動かし、第一級の句となってゐるのである。」(山口誓子「子規の一句」より)

 子規はご存知のとおり、俳句の理想的あり方として「写生」を唱えました。写生とは文字どおり、「生(自然万物)をそのまま写す」ということです。更に申せば、子規の写生とは、「生の実相に迫る」あるいは「写す、迫る」などを通り越して、「生そのものと融合し一体化する」という境地を目指していたものと思われます。
 上の誓子の文は、さすが先人の秀句・名句を数多く読みこなし、かつ自分でも多くの秀句・名句を作ってきた人の文です。そのことを、余すところなく述べていると思われます。(「権威」の力を借りるかたちになりましたが、それだけ誓子の評論がずば抜けているということです。)

 この句は、本当に簡潔にして単純な句です。凛とした気品さえ感じられます。おそらくこれ以上の簡潔さを求めるとすれば、それはもうただ「ああ」という言葉に行き着いてしまうのでしょう。そしてこの「ああ」は、詠嘆であり、感嘆であり、喜びであり、呻きであり、哀しみであり、嘆きであり…。とにかく、「生の根源」から発せられる声なき音声(おんじょう)のように思われます。
 「あ」は、そもそも「言霊(ことたま)」の初発の音に他なりません。「あいうえお……」が、ただ無秩序に並べられているなどと、ゆめ思うなかれ。これは実は、「天地剖判(天地創造)」のプロセスそのものでもあるのです。
 実に子規は、この句において、「ああ」という「生の根源」に限りなく迫っていたのです。

 甚だ僭越ながら。この句を、「面白くない、つまらない、だから一体何なの?」と思われる方に申し上げます。( 「それでは貴方にとって、面白くてつまらなくない句って何ですか?」という問いは別として。)
 その方は、以上の「ああ」の分からないお方です。そしてこの「ああ」こそは、俳句のみならず、和歌、詩(ポエム)、絵画、音楽…すべての芸術の根底にあるものですから、つまりその方は、「芸術の本質」の味わえないお方ということになろうかと思われます。
 「言葉」だけが、ただ物事の表層を上滑りしているだけ…にならぬよう。先ずもって私自身が、自戒していかなければなりません。

 (大場光太郎・記) 

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コスモスなど

  コスモスなどやさしく咲けば死ねないよ    鈴木しづ子

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 鈴木しづ子。大正8年(1919年)東京生まれ。昭和15年専修製図学校卒業。工作機械工場に勤める。社内の俳句部に入り、句作を始める。この会を通して松村巨秋を知り師事。主宰誌「樹海」に属する。戦後『春雷』『指輪』の二句集を刊行。

 今そしてこれからは「コスモスの季節」です。当ブログでは「コスモス」については気の早いことに、5月から記事にしておりました。特に今年は、地植えのコスモスが梅雨頃からぼちぼち咲き始めました。以来それとなく注意して見て歩くと、一ヶ所だけではなく方々のコスモスがそうなのです。 『当地だけ?』と思っていたら、関東北部にお住まいと思われるある人から、「うちの地方でも咲いてます!」というコメントが寄せられました。
 本来ならば、秋冷至る中秋から初冬にかけて咲く「秋桜(コスモス)」が、夏本番前から咲いている。これは一種異様な光景でもありました。
 
 そうしてコスモスは、本来の季節を迎えて何ごともなかったかのように、今を盛りとあちこちでいっぱい可憐な花を咲かせています。(どうも以上の文は私の認識不足で、コスモスは「夏本番頃から咲き始める花」のようです。当記事の「仙人様コメント」をお読み下さい。)
                        *
 さて今回は、そのコスモスの名句のご紹介です。
 「第二芸術論」によって、かつて近代俳句をコテンパンにこきおろした、フランス文学の「権威」であらせられる桑原武夫大先生などがこの句を読んだとしたら、「フフン。何だ、こんなの。コスモスがやさしく咲けば死ねないよ、だ?それがどうした」と、せせら笑うことでしょう。
 しかし私は、この句に初めて出会った7年ほど前、強い衝撃を覚えました。そして『あヽ心に訴えかけてくるいい句だなあ』と、素直に思いました。各自がある句に接して、『あヽいい句だ』と思ったとしたら、それはその人にとっての「名句」なのです。「ここがこうで、ああしてこうして…したがって名句だ」式の、変な小理屈など必要ありません。 (桑原大先生への反論などは、近いうちに一文として公開の予定です。)

 鑑賞の参考に、この句の背景つまり作句者のことを少しご紹介したいと思います。
 鈴木しづ子は、婚約者を戦死で失っています(生年から推定して、終戦時26歳くらい)。昭和21年2月紙不足を極めていた中、『春雷』という新鮮でナイーヴな感覚の句を散りばめた小冊子句集を出版し、当時の俳壇の絶賛を浴びました。
 しかし彼女の人生の歯車は、既に狂い始めています。やがて名曲『星の流れに』のように身を持ち崩すことになり、東京から岐阜の現・各務原市(かがみがはらし)に移り住みます。そこの米軍キャンプの米兵と深い関係になります。が、その米兵は1950年に始まった朝鮮戦争に派兵され、麻薬中毒で変わり果てた姿となり佐世保に帰還。本国に帰ってその後病死したことを、彼女は翌年の賀状に紛れていた米兵の母親からのポストカードで知ります。
 彼女の人生はまさに、「戦争」に翻弄され続けた人生との感を深くします。

 冒頭の句は、その年の秋に詠まれたものといわれています。この一句に、しづ子はどれだけの想いを込めたのだろうか?もうこれ以上説明は不要でしょう。
 鈴木しづ子、これ以降消息不明。その後彼女は「娼婦俳人」などと呼ばれ、ある意味伝説的な女流俳人となっていきます。

 私たちは「俳句」を読んだり評したりする時、この極めて短い詩形式に、時に精魂を込め時に血の滲むような想いで句作した、多くの先人がいたことを決して忘れてはなりません。
(大場光太郎・記)

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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(5)

 中村雨虹の45年にも及ぶ厚木在住の中で、以下のようなエピソードが残っています。
 雨虹は厚木市内に住みながらも、同市西端の「七沢(ななさわ)」の地が故郷恩方の風景と似通っているからと、しばしばその辺りを散策したそうです。七沢は「七沢温泉」として関東の温泉地の一つとしても有名です。雨虹も、その中の元湯玉川館にしばしば足を運んだそうです。当時の旅館主人・山本均二の夫人が雨虹の教え子だったという奇遇もあったようです。

 住まいの厚木市から大山の峰を眺めて夕焼けを見つけると、「今夕焼けがきれいだろ」と均二氏に電話することがあったそうです。それで均二氏が片道30分かけて車で迎えに行くと、千代子夫人と一緒に外で待っておられた。その車に同乗して七沢に到着した頃には、周りはすっかり薄暗く既に夕焼けは消えていた…。そんなことが何度かあったそうです。
 雨虹は、自らが作詞して今や全国で歌われている『夕焼け小焼け』の歌、故郷恩方の景色を偲ばせる七沢の夕焼けを、こよなく愛していたのに違いありません。

 またある時雨虹は、「『夕焼け小焼け』の碑が、終生の地となる神奈川にはないんだよ」と、ポツリと呟いたそうです。そこには、出来れば第二の故郷・厚木市なかんずく七沢の地に、同歌の歌碑を建ててもらいたいという、想いが込められていたのかもしれません。
 雨虹の意を汲むように、その後山本均二が、元湯玉川館入り口に『夕焼け小焼け』の歌碑を建てました。
 なお同旅館入り口には、もう一つ別の碑が建てられています。厚木市が生んだ農民文学者・和田傳(わだ・でん)の詩碑です。(和田傳については、また別の機会にその業績などをご紹介できればと思います。)

 雨虹の歌碑の裏には、均二氏の「子孫に贈る」という詩が刻まれているそうです。一部をご紹介しますと、
    …童心は天使 童謡は心のふる里である
     人生は 花も嵐もある
     つらい事 悲しい事があったら
     この碑の前に立って 
     静かに唱って(うたって)ごらん
     いっ切を流して

 雨虹はそのまま厚木市に住み続け、神奈川県立厚木病院(2001年県から厚木市に移譲され現在は「厚木市民病院」と改称)で、昭和47年(1972年)5月6日逝去しました。享年75歳。
 雨虹は、八王子市上恩方町の『夕焼け小焼け文化農園』の外の、「高井家奥津城(おくつき)」と書かれた墓所にひっそりと眠っているそうです。   ― 完 ―

 (注記)今回の記事をまとめるにあたり、下記の資料を参考にしました。
     フリー百科事典『ウィキペディア』―「中村雨虹」の項他
     フナハシ学習塾その他37―童謡のなぞ19
     (厚木市)オノヅカピーナッツホームページ―「夕焼けの詩」 他
 (大場光太郎・記)

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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(4)

 『夕焼け小焼け』が、童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に発表されてから1ヶ月余。当時の日本社会を震撼させる大きな出来事が起こりました。大正12年9月1日。関東大震災の発生です。この震災は午前11時58分と、ちょうどお昼時と重なったため火を使っていた家庭も多く、東京市中を中心に二次災害的大火災となりました。 この大震災による死者数は約10万人といわれています。

 この予期せぬ悲劇的出来事により、『夕焼け小焼け』が入った楽譜集も、そのほとんどが焼失してしまいました。もう永遠に日の目を見ないのか、と思われました。しかし何という天の配剤でしょうか ! そんな中わずかに既に人手に渡っていた楽譜集がありました。その数たった13部。
 童謡『夕焼け小焼け』は、この13部から始まったのです。この歌が、今日までこうして歌い継がれているのは、実にこのわずかに残っていた楽譜集によるものなのです。
 雨虹の妻・千代子の妹の下田梅子は、東京府内の小学校の教員でした。彼女は、震災で家や親を失った多くの子供たちを何とか元気づけるためにも、その中の一部の楽譜をもとに、義兄が作ったこの歌を一生懸命教えたそうです。

 そのようにして、この歌は大震災の直撃に遭った東京で、先ず歌われたのです。「良いもの、本物は必ず広く伝播する」―これは法則であるようです。それを証明するかのように、それから関東一円でそして遂には全国津々浦々で歌われ、歌い継がれていくことになるのです。

 その後中村雨虹は、昭和2年(1927年)神奈川県立厚木実科高等女学校(現・神奈川県立厚木東高等学校)の教師として厚木市に赴任してきます。厚木東高校は、厚木高校と並んで神奈川県央地区の、伝統ある名門校です。以来退職した昭和24年(1949年)まで同校で教鞭を取ることになりました。
 (余談ですが。同校をご卒業されたS様(女性)は、私の業務上の恩人の一人でもあり、私の良き理解者でもあり、何より当ブログ愛読者のお一人でもあられます。この場をお借りして、深く感謝申し上げます。またご依頼の業務最近遅れがちでありますこと、深くお詫び致しつつ、今後はそのようなことのなきよう鋭意努力してまいる所存です。)

 こうして雨虹は、昭和2年以来、現在の厚木市泉町という本厚木駅南口から徒歩数分の市街地に住み続けることになります。雨虹はその間、厚木市立厚木小学校歌や厚木ちぐさ幼稚園園歌など多くの歌を残しております。 (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(3)

 中村雨虹(なかむら・うこう)は、明治30年(1897年)東京府南多摩郡恩方(おんがた)村の宮尾神社の宮司・高井丹吾の二男として生まれました。同地は、現在の東京都八王子市上恩方町です。本名は高井宮吉。
 大正5年(1916年)東京府立青山師範学校(現・東京学芸大学)を卒業し、北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師となりました。

 雨虹は日暮里で教員生活を送るかたわら、児童の情操教育のためと、童謡や童謡詩を童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)に投稿していました。その作品の選考にあたっていたのが、野口雨情だったのです。雨情は、若い教師の自然体の詩を高く評価していたようです。
 そして雨虹もまた、雨情に傾倒し、後に「雨情」の「雨」の字をもらった「雨虹」というペンネームを使うことになります。

 雨虹は、思い切って教師をやめて作家の道を歩もうとも考えたようです。しかし作家として生計を立てられるかどうかは定かではありません。そこで、教師を続けながら作家も…という二束のわらじ生活も考えました。しかしどう考えても、教師という職業柄、思うように机に向って創作に没頭する時間を確保出来そうにないし…。
 悶々と思い悩んでいたある日、当時の校長から「このままでは、教員としての職務に支障をきたすぞ」と、大目玉を食らってしまいました。そこで雨虹はやむなく、童話作家の道を断念し、少しの時間で創作可能な童謡詩に方向転換することになります。

 そんな大正12年(1923年)。当時としては珍しかった輸入ピアノを販売していた「鈴木ピアノ」では、ピアノを買ってくれた客に新作童謡を集めた楽譜をプレゼントしていました。そこの社長が雨虹のもとに詩の依頼をしてきたのです。
 その依頼に応えて雨虹は、5編の詩を提出しました。その中に大正8年作詞した、『夕焼け小焼け』も入っていたのです。この詩は、故郷の恩方村の風景を歌ったものでした。
 その年の7月末、プレゼント用の童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に、草川信の作曲で発表されました。
 なお雨虹はこの年、その発表に先立って、漢学者・本間問亭の二女・千代子と結婚しています。

 『夕焼け小焼け』を作曲した草川信(くさかわ・しん)は、明治24年(1893年)2月14日長野県で生まれました。東京音楽学校(現・東京藝術大学)卒業後、雨虹と同じく教師のかたわら演奏家として活動していました。 その後童話雑誌『赤い鳥』に参加し、童謡の作曲を手がけることになります。昭和23年(1948年)9月20日亡くなりました。
 主な作品は、『揺籠の歌(北原白秋作詞)』『夕焼け小焼け』『汽車ポッポ(宮原薫作詞)』『みどりのそよ風(清水かつら作詞)』など。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(2)

     ♪ 夕焼け小焼けで 日が暮れて
       山のお寺の 鐘が鳴る …… ♪

 およそ日本人で、童謡『夕焼け小焼け』を知らない、あるいは聴いたことがないという人はいないのではないでしょうか?それほどこの童謡は、お年寄りから小さな子供たちに至るまで幅広く歌いつがれてきております。ちなみに、我が国の童謡の中で、各地にその歌碑が建てられていることでは、この歌がダントツなのだそうです。

 なぜこんなにも人気があるのでしょう?
 まず考えられることは、小さな子供でも歌の意味が分かって、すぐに覚えられそうなほど、極めてシンプルな歌であるということです。歌詞でも曲でも、内容がどうであれコムズカシイ歌は、一部の熱烈な愛好者を得られても、国民大衆に広く受け入れられることはできません。

 しかしシンプルな歌なら何でもいいのかというと、それだけではダメだろうと思います。分かりやすく覚えやすい歌でありながら、その中に「深い何か」がなければならないと思います。知らず知らずのうちに、心の奥深くまで入り込んで、いつしか人々の心を揺り動かしていく。このようなことが、国民に幅広く受け入れられ、しかも長く後世までも歌いつがれていく、名曲・名童謡の必須条件なのではないでしょうか?
 まさに『夕焼け小焼け』は、この条件を見事にクリアーしていると思われます。

 更にこの歌には、一定以上の年代の人たちにとっては、歌うほどに聴くほどに、それぞれの子供時代の美しい「夕焼け体験」が鮮やかに呼び起されて、「たまらない!」ということもあろうかと思います。
 以前(6月中旬)私は当ブログで、『シュールな黄昏』という拙詩を公開致しました。その中に、
      夕暮れを告げる鐘の音も今は響かず
      残照色に染まったビルの壁々に
      遠い昔のこだまがただ虚しくはねかえるだけ。

という一節があります。日暮れ時一定の気象条件のもとでは、「美しい夕焼け」が見られるのは、今も昔も変わりありません。しかしこの歌のように「山のお寺の鐘が鳴る」となるとどうでしょう。今時そんな贅沢な夕焼けに出会うことは、滅多にないと思います。
 その意味でこの童謡は、遠い昔の日本の懐かしい原風景を思い起こさせてくれる、「郷愁の歌」でもあろうかと思われます。

 さて、『夕焼け小焼け』の歌詞を作ったのは、中村雨虹という人です。中村雨虹は実は、当厚木市に長く在住し厚木市でその生涯を終えました。(私が当地に来ました昭和43年にはまだご存命でした。)
 もうお分かりかと存じます。厚木市が日暮れ時、市内全域に『夕焼け小焼け』のチャイムを流しているのは、そのような理由からなのです。折角の機会ですので、以下に作詞家・中村雨虹の足跡や厚木市との関わりなどを、もう少し詳しく述べてみたいと思います。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(1)

  作詞:中村雨虹  作曲:草川信 

 (この歌は著作権保護期間に相当するため、残念ながら歌詞の掲載が出来ません。)

  …… * …… * …… * …… * …… * ……

 全国の多くの自治体がそうなのでしょうか?他の市町村のことはよく知りませんが、当厚木市では夕方になると決まって、市中に設置されたスピーカーから音楽(チャイム)が流れてきます。

 この音楽が厚木市の場合、『夕焼け小焼け』なのです。当記事をまとめるに当たり、市の行政サービスに関することですから、間違ったことは書きたくありません。そこで、厚木市に電話して聞いてみました。
 「ちょっとお聞きしたいんですが。厚木市では夕方スピーカーから『夕焼け小焼け』のメロディが流れますよね。その件でどちらか分かる部署を…」と言うと、「少しお待ちください。今担当とおつなぎします」と、応対した女性。ややあって担当につながり、「はい。防災対策課ですが」と、若い男性職員の声。
 『えっ。夕焼け小焼けと防災と何の関係があるの?』。そう思いながらも、用件を伝え幾つかの質問をしてみました。その結果―。

 まず『夕焼け小焼け』は、防災行政無線という、厚木市全域270ヶ所に設置されている高さ15mポールに取り付けられたスピーカーから、全市くまなく流されているとのこと。この無線施設はあくまで「緊急時の情報発信」が目的であり、そのため防災対策課の所管となる。『夕焼け小焼け』は試験放送を兼ねて日暮れ時をめどに流しているものである。
 『そう言えばたまに、…市内どこどこの誰れ誰れさんが、きょうの朝何時頃行方不明になりました…などと流れることがあるよなあ。あれと同じ回線だったのか』。
 流される時間帯についても、聞いてみました。その結果、基準はその時々の日暮れ時を目安にしており、したがって季節によって時間はずれるとのこと。ちなみに、春と秋は夕方5時、夏は6時、冬は4時半とのことでした。

 ところで厚木市は、なぜこの曲を使用しているのでしょう?「それはこの歌が日暮れの歌だからだろ。夕焼け小焼けで日が暮れて…♪ まさにピッタリじゃないか」。その通りです。したがって、この歌を日暮れに流している自治体はけっこう多いのかも知れません。
 しかし、厚木市の場合、それとは別の理由があります。そのことを以下に述べてみたいと思います。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)
 
 (『夕焼け小焼けmp3』。お聴きになりたい場合は、左をクリックのこと)

 (追記) うっかりしておりました。この歌、作詞の著作権がまだ消滅しておりませんでした。そこでしばしの間大目に見てもらって、折りを見て歌詞は削除させていただきます。法律家の端くれが言うべきことではないながら。こういうことがあるから思います、著作権保護期間の(著作者の没後)50年は長すぎるんじゃあないの?文化の普及発展のため、もっとうんと短くしてよ。しかし一方では、アメリカ著作権法にならって、70年に延ばすべきだという主張もあるのです。いやはや。

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九月尽

    曇りゐて街静かなり九月尽(くがつじん)   (拙句)

 1ヶ月はあっという間です。ついこの前1日を迎えたと思ったら、きょうで9月も終わりですから。というよりも、月日が経つのは早いというべきで、気がついてみれば今年も早3/4が過ぎ、後わずかに3カ月を残すのみです。

 さてここ何日かは、日本列島の太平洋側に、関東から九州にまで長々と伸びた秋雨前線が、べったりと張りついております。それに台風15号からの湿った空気が送り込まれて、あいにくのぐずついた空模様が続いております。
 当ブログ背景、秋分の日の夜半に、暖色系の『本を開いて』に替えましたが、それ以降もしばらくはやや汗ばむような残暑が続き、『少し時期尚早だったかな』と思っておりました。しかしこのところはすっかり秋めいて感じられ、特に朝晩などはやや肌寒いくらいです。もう「涼し」などとうに通り越して、「秋冷」「冷やか」「身に沁む」「そぞろ寒」「やや寒」「肌寒」の季語を使いたくなる秋本番の季節です。

 そう言えば当月は、久しぶりに「激動の政治の季節」でもありました。
 福田前総理による2代続いた政権放り出しに端を発して。例によって自民党の年食ったフィクサーのお歴々の密室談合により、早々と新総裁は決定していました。にも関わらず、「これを自民党人気上昇のキッカケにしよう」とばかりに、半月にも及ぶ候補者たち揃い踏みの全国顔見世興業ならぬ全国遊説。そして予定通り麻生太郎が新総裁に選出されたはいいけれど。同氏の下組閣された新内閣は、わずか5日で確信犯的失言連発で、某国土交通大臣が辞任。おやまあ、麻生さん。大変な船出ですね。

 総裁候補者たちがのんびりご遊説の間に、海の向うのアメリカさんが大変なことになっていました。まず、リーマン・ブラザーズ証券倒産という大ショック。そのあおりを受けて、翌日の東京証券市場の株も大暴落。
 そしてそのショックも覚めやらぬ本日、またまたアメリカが大変な事態になりました。最大75兆円もの公的資金で金融機関の不良資産を買い取る「金融安定法案」が、通過確実と言われながら、米下院でまさかの否決。
 それがウォール街を直撃し、一気に777ドル下落という、9・11直後の下落をも上回る超大幅下落(「777」は超ラッキーのはずなのに、一体どうしたことか?)。それがあっという間に世界中に波及し世界同時株安、我が東証も全面売りで始まり、取引開始直後一時565円という年初以来最安値を更新したとのこと。
 一説では、「世界大恐慌へ突入か」などと叫ばれています。どうする日本。どうなる日本。

 それにしても思いますことは、「グローバル経済」の持つ危うさです。うまくいっている時は、もうすっかり外需頼みの我が国などはそのお蔭で潤って、輸出企業は息を吹き返し、メガバンクの不良債権処理が一気に進んだでしょうけれど。
 昨年のサブプライム問題に端を発して一旦うまくいかなくなると、いっぺんに振り子が逆方向に振り切られ、このありさまです。
 「市場原理主義一辺倒」「アメリカ追随一辺倒」でホントに良かったんですかね?小泉さん、ときつく問い詰めようと思ったら。当のご本人は、「ワシャもう知らん」とばかりに、さっさと議員をお辞めになって。挙句の果ては、自民党どころか国民生活そのものをぶっ壊しておきながら、「四代目をよろしく」と、小泉家の政治的跡目だけは抜け目なく守り抜くごようす。壇上の涙なんざあ、さすが小泉さん、あなたは最後まで役者じゃのう。
 (多少戯画的表現になりました。自民党支持の方、小泉元首相ファンの方、どうぞご寛恕ください。)

 なお折りにふれてお伝えしてきました、当地のくだんの田んぼ。秋分の日の翌日頃通りましたら、稲刈りが終わっておりました。いよいよ秋は深まります。
 当月もご訪問くださり、大変ありがとうございました。来月も引き続きごひいき賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)

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