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厚木市と♪夕焼け小焼け♪(3)

 中村雨虹(なかむら・うこう)は、明治30年(1897年)東京府南多摩郡恩方(おんがた)村の宮尾神社の宮司・高井丹吾の二男として生まれました。同地は、現在の東京都八王子市上恩方町です。本名は高井宮吉。
 大正5年(1916年)東京府立青山師範学校(現・東京学芸大学)を卒業し、北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師となりました。

 雨虹は日暮里で教員生活を送るかたわら、児童の情操教育のためと、童謡や童謡詩を童話雑誌『金の船』(のちに『金の星』に改題)に投稿していました。その作品の選考にあたっていたのが、野口雨情だったのです。雨情は、若い教師の自然体の詩を高く評価していたようです。
 そして雨虹もまた、雨情に傾倒し、後に「雨情」の「雨」の字をもらった「雨虹」というペンネームを使うことになります。

 雨虹は、思い切って教師をやめて作家の道を歩もうとも考えたようです。しかし作家として生計を立てられるかどうかは定かではありません。そこで、教師を続けながら作家も…という二束のわらじ生活も考えました。しかしどう考えても、教師という職業柄、思うように机に向って創作に没頭する時間を確保出来そうにないし…。
 悶々と思い悩んでいたある日、当時の校長から「このままでは、教員としての職務に支障をきたすぞ」と、大目玉を食らってしまいました。そこで雨虹はやむなく、童話作家の道を断念し、少しの時間で創作可能な童謡詩に方向転換することになります。

 そんな大正12年(1923年)。当時としては珍しかった輸入ピアノを販売していた「鈴木ピアノ」では、ピアノを買ってくれた客に新作童謡を集めた楽譜をプレゼントしていました。そこの社長が雨虹のもとに詩の依頼をしてきたのです。
 その依頼に応えて雨虹は、5編の詩を提出しました。その中に大正8年作詞した、『夕焼け小焼け』も入っていたのです。この詩は、故郷の恩方村の風景を歌ったものでした。
 その年の7月末、プレゼント用の童謡集『文化楽譜・あたらしい童謡』に、草川信の作曲で発表されました。
 なお雨虹はこの年、その発表に先立って、漢学者・本間問亭の二女・千代子と結婚しています。

 『夕焼け小焼け』を作曲した草川信(くさかわ・しん)は、明治24年(1893年)2月14日長野県で生まれました。東京音楽学校(現・東京藝術大学)卒業後、雨虹と同じく教師のかたわら演奏家として活動していました。 その後童話雑誌『赤い鳥』に参加し、童謡の作曲を手がけることになります。昭和23年(1948年)9月20日亡くなりました。
 主な作品は、『揺籠の歌(北原白秋作詞)』『夕焼け小焼け』『汽車ポッポ(宮原薫作詞)』『みどりのそよ風(清水かつら作詞)』など。   (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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