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十三夜(後の月)

    古(いにしえ)の心偲ばゆ十三夜   (拙句)

 「後(のち)の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。幼い訳とは思うが何分にも忘れることができない。」
 この書き出しで始まる小説をご存知でしょうか?民子と政夫の悲恋物語、伊藤左千夫の名作『野菊の墓』です。

 今晩はその後の月(十三夜)です。
 陰暦八月十五日(今年は九月十四日)の中秋の名月は「十五夜」ですが、こちらは陰暦九月十三日の、月齢13の月の「十三夜」。十五夜の次に愛でる月であるため、「後の月」とも呼ばれます。
 また中秋の名月が別名「芋名月」なら、こちらは「栗名月」または「豆名月」などとも呼ばれます。これは、ちょうどこの頃が栗や豆の収穫時期と重なるため、そう呼ばれました。

 中秋の名月は元々中国で行われていた行事が、日本に伝来したものですが、十三夜の月見の行事は日本独特の風習だそうです。一説には、宇多法皇がこの月を愛でて「無双」と賞したことが始まりとも、醍醐天皇の時代(延喜19年、西暦919年)に開かれた観月の宴が風習化したものとも言われています。
 一般に十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものとされていました。これは十五夜だけでは、「片月見」といって嫌われていたからです。
 十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対して、十三夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。
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 ところが本夕は、雲の多い空模様でした。それで今夜月は見えるのだろうかと心配していました。
 午後7時前外に出てみました。空を見上げると、南南東に掛かっている月が見えました。『良かった !』と思い、十三夜月をじっくり見るには中津川に限るとばかり、川の方に車を走らせました。

 堤防上部の草叢のススキの穂も水辺の葦の穂も、川夜風にいっせいに下流側になびいています。幾分冷気を含んだ秋の北の風がやや強く吹き渡っているようです。川は流れているさまとも見えず、何やら白々長々と横たわっているような感じです。
 中洲やそこに繁っている葦原も、対岸の葦原も木立も岸そのものも、皆黒々と一つに連なって見えています。だだ薄暗がりの川原です。方々から虫の声が聞こえてきます。それは各々さまざまな種類の虫なのでしょう。しかしこうして堤防の一角に立って聴いていますと、それは「虫族」という一つの種族の交響楽のようにも思われます。

 そうでした。十三夜月、後の月のことでした。川の下流のちょうど上辺りに、その月が白く浮かんでおりました。やはり薄くて白い雲に覆われています。雲はうんと高い空にあるようです。その雲を透かしておぼろに潤んだお月様です。
 よく見ると月の形は、何やらアメリカンフットボールのような楕円形をしています。月の周りを白銀色の光茫が漂っており、そのさまは月自体が放っているオーラのようにも思われます。たまに、低い空の流れの早い暗灰色の雲が、お月様を隠してしまうこともあります。

 古来我が国では、月齢13のこの月を十三夜月と呼び慣わしてきました。これはおそらく、世界にも類を見ない風習なのではないでしょうか?満月に少しだけ欠けた月を「趣きがあって良い」と愛でてきた、古の日本人の風流心がつくづく偲ばれます。
 しかし今の時代、この夕べわざわざ「お月見」などという酔狂な御仁は皆無です。中津川には、私以外誰もおりません。
 (大場光太郎・記) 

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雑記」カテゴリの記事

コメント

大場様 こんばんは。
 しばらく留守にしていましたが、久しぶりに例によって間の抜けたコメントをさせて頂きます。
今夜は当地も秋晴れの好天で見事な月夜ですよ。たしかに日本とりわけ北陸などは八月の十五夜よりも、十三夜の方が晴天が多いようです。そこから必然的に「後の月」を愛でる風習が生まれたのかもしれません。
「十三夜」と聞いて私が先ず思い出すのは、『十三夜』という歌謡曲です。♪河岸の柳のゆきずりに ふと見合わせる顔と顔・・・というあの歌です(旧いですね!)。でもね、こんな粋な歌が昭和16年という太平洋戦争が勃発した年に作られたというからすごいじゃありませんか。
 ところで、この月を見るときの心持の違いぐらい、如実に東洋と西洋の差をあらわすものはない、と言った人がいます。それは、上智大学の第二代学長を勤められたヘルマン・ホイヴェルスというドイツ人神父です。同神父の随筆集『人生の秋に(春秋社)』はわたしの大切な愛読書のひとつです。日本や中国では観月の宴などといって名月を楽しむのに対して、西洋では満月や新月を科学的な観点からか不吉なものと捉えるのですね。ラテン語で月はLuna,しかしこれが英語でlunaticとなると、「狂人」あるいは「狂気の」となるんですなあ。東では月を詩人の目で見、西では月を科学者の目で見る。まあ、月の見方としてはどちらも正しいといえますね。
また、今昔物語集に見える「月の兎」の話。なんと美しい伝承でしょう。私はこの話を高校のときに良寛の長歌を読んで知り、すっかり参ってしまいました。

投稿: くまさん | 2008年10月16日 (木) 22時43分

くまさん様
 確かに「月」に対する観かた、捉え方、感じ方は、東洋人と西洋人には大きな違いがあるようです。西洋には、満月に変身する狼男の伝説もありますからね。余談ですが。映画『ハリー・ポッター』シリーズの『アスカバンの囚人』のラスト近くで、ある男が満月を背にして狼に変身するシーンは、リアルで凄い迫力がありました。
 なぜこうも違うのか?それは多分「東洋原理(精神性)」と「西洋原理(物質性・科学性)」にまで行き着くことなのかも知れません。ただ面白いことに、近年の「脳科学」の結果分かったことは、例えば東洋人の一員たる日本人は、「虫の音」や「水の音」を、言語脳である左脳で聴いている。だから、その音に情緒的意味付けをしたり、味わったりできる。対して西洋人は、それらを右脳で聞いているだけなので、単なる雑音としてしか捉えない、という違いがあるようです。
 それから類推すれば、同じ月を見ても、その映像を互いに脳の別の領域で処理しているために、微妙に感受の仕方が違ってくるのかな…などと。ともあれ―
 No policy can be more lunatic than this.(これ以上バカげた政策はありえない)。世界中に憎悪をばら撒いたイラク戦争。何年も前に破綻が分かりきっていた、サブ・プライム問題への無策。今回の金融不安への対処の仕方…。最後の花道のブッシュ政権に、謹んでこの言葉を贈りたいと思います。
(「二木紘三のうた物語」の『十三夜』を聴きながら)

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月17日 (金) 01時40分

No policy can be more lunatic than this.
たしかにおっしゃる通りですね。ついでにこれはブッシュのイラク政策に盲従するだけだった小泉さんにも、餞けの言葉として贈ろうじゃありませんか。

投稿: くまさん | 2008年10月17日 (金) 05時59分

くまさん様
 お説に大賛成です。
 ついでに、彼をヨイショし続けた、マスコミ、ジャーナリストたちにも。そして、高い支持率を与え続けた、我々国民も反省が必要ですね。

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月17日 (金) 09時52分

大場 様
 実に仰るとおりで、小泉という千両役者を政治の舞台にまつりあげ、世にいう『小泉劇場』をおおいに煽りたて推し立てたのは、結局他ならぬ我々自身であったということになります。
ここが民主主義というシステムの甚だ危ういところで、民主主義政治が別名「衆愚政治」といわれる所以ですね。ならば哲人政治がbetterかというと、これも危ない。哲人といえど所詮は人の子、絶対的な権力を握った途端何をしでかすか判ったもんじゃない。まあ、やはりVox Populi,Vov Dei.民の声は天の声なり、ですかねえ。
 たしか昭和34・5年頃だったと思いますが、NHKの教育テレビで『弁護士プレストン(原題The Defenders)』というアメリカ映画が放送されていたことがあります。地味な映画でいたが、ニューヨークを舞台に、プレストンという弁護士親子がいろんな事件や被告人を通じて正義と法を守っていく姿を描いたもので、民主主義の矛盾に鋭く迫った大変良心的な映画でした。その番組の冒頭に流れるナレーションが大変印象的だったので、今も記憶に焼き付いています。
 「民主主義は決して良い政治制度ではない。しかしながら、他はもっと良くない。」

この映画、是非再放送してほしいと思っているのですが。

投稿: くまさん | 2008年10月17日 (金) 14時54分

くまさん様
 またまた畏兄の、含蓄ある政治哲学をご披露いただき、ありがとうございます。
 私見ですが。「哲人政治」は、例えば古代ギリシャのぺリクレスや古代ローマのカトー、マルクス・アウレリアス、三国時代の蜀の諸葛亮、時代がうんと下って我が郷里の上杉鷹山…といった、個人的野心など超越した真の哲人によって為された場合、見事に機能するシステムだと思います。しかしそんな聖賢に近い優れた為政者は、各時代に幾人も出現するものではありません。(その多くは、封建的君主制下での、哲人政治家でしたが)。その後を継ぐのは、似非哲人ということになって、途端に破綻したり独裁化したりして、それが問題かと思われます。
 そこで現人類が編み出した、最も妥当な結論が近代以降の「民主主義」というシステムだったかと思われます。「小泉劇場」の例で顕著な通り、それは時に「衆愚政治」そのものになり下がることもあります。しかし他に別のよいシステムがあるのか?といったら、現時点では見出せないのですから、私たちはこのシステムを更に磨きをかけてよりよいものに「アウフヘーベン―止揚(という使い慣れない用語を使います)」していくしかないのでしょう。
 それにしても「民主」ですから、何より求められるのは、国民たる私たちの政治に対する「意識レベル」の高さです。「相応の理」で、国民の民度に見合った政治的代表者しか得られないわけですから。
 ところで私たちの意識がうんと進化すれば、おそらく今の「議会制民主主義」を超えたシステムに、必ず人類は到達していくと思います。その時は、今のように権力ある一部の政治家や官僚による、過度の管理、コントロール、利権の寡占、国民が知るべき情報の秘密的独占…などは無くなって、遥かに風通しの良い自由な世界であることでしょう。
 『弁護士プレストン』は知りませんでした。その頃だったでしょうか。映画『十二人の怒れる男たち』。ヘンリー・フォンダの、静かなる熱演が見事な、ヒューマニズム溢れる名画でした。あの頃のアメリカは、「理想」が今よりずっと高かったのに。 

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月17日 (金) 16時55分

申し訳ありません。粗忽長屋のくまさんまた勘違いしていました。「弁護士プレストン」が放映されていたのは昭和40年代の半ばでした!
 Marcus Aureliusの『自省録』は学生時代に読みました。stoicとは彼のような人を謂うのかと感動したことをおぼえています。(当時はなぜか彼と乃木将軍のイメージがダブって仕方ありませんでした。)
私が「哲人政治」も危ういと言ったのは、アウレリウスや上杉鷹山公その人個人は優れた人物であったにせよ、それはあくまでその人個人の一代限りのことだと思うからです。彼等の遺徳を偲ぶあまりその子供たちに世襲させた場合、往々にしてどうなるか、北の将軍様がその好例ですね。
 また私がなぜDemocracyを重視するかというと、それが拠って立つ「人間観」に共鳴するからです。つまり「人間というものは不完全な存在である。」と言う前提に立って考え出されたシステムだからです。人によって能力、徳性それぞれ大きく違いましょう。しかし神のあるいは天の前では人間皆同じ。『努力する限り過ちをおかすのが人間(ゲーテ)』です。そういう意味ではわたしは完全なPessimistと言えます。しかし「人間はか弱い一本の葦に過ぎない。でも人間はそのことに気付いている。そこに人間の価値がある。(パンセ)」こと教えてくれたパスカルの信奉者でもあります。


投稿: くまさん | 2008年10月17日 (金) 20時33分

 マルクス・アウレリアスもパスカルも。くまさん様ご存知かとは思いますが、中央公論社刊の「世界の名著」シリーズで集めました。(例えばパスカルは)昭和53年発行、価格980円也。廉価ゆえ他のもけっこう集めましたが、『そのうち、そのうち…』と積読がずいぶん多いです。ただマルクス・アウレリウスの方は岩波文庫版もあり、そちらで一度は読み通しました。パスカルは今確認したところ、『パンセ』第二章の途中まで線が引いてあります。ということは、そこで止めてしまった公算大です。
 ゲーテのご引用。出典は分かりませんが、今ちょうど読んでいる『ファウスト』導入部「天上の序曲」中に、似たような「人間というものは、努めているあいだは迷うものだ。(河出書房新社刊・高橋健二訳)」という「主の言葉」があります。何と、メフィストというファウストを誘惑する悪魔に対してです。今第二部に入ったばかりですが、ゲーテ畢生の大著もいよいよ佳境か?と、先が楽しみです。
 政治論はお説の通りかと存じます。
 私も中学2年で少し心の病にかかってから、(こちらに来てからは、更に人間不信に拍車がかかり)30代前半頃までは、相当根暗なペシミストだったと思います。しかしいつのころからか、『これじゃあ、オレの人生先が開けんな』と思い直し、以来努めてオプティミストであるように心がけています。その頃、生長の家の谷口雅春師などの「光明思想」にふれたことも大きかったように思います。

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月18日 (土) 01時06分

大場 様
 私が引用したゲーテの言葉は、まさにご指摘の「ファウスト第一部・天上の序曲」の中の「主」の言葉のつもりでした。
が、今あらためて手元の岩波文庫(相良守峯訳)で確認すると、『過つ』ではなく『迷う』となっていますね。ドイツ語の原語は知らないのですが、私はこれまでずっと『過つ』とおぼえていました。たぶん「迷う」の意を、誤った道に迷うあるいは色香に迷う等から拡大解釈して「過ちをおかす」とおぼえていたのかも知れません。お恥ずかしい限りです。
 正直に打ち明けますが、ゲーテ畢生の大作と言われているこの「ファウスト」ですが、私にはどうも今ひとつ好きになれません。これよりも『エッケルマンとの対話』の方が何倍も好きです。

投稿: くまさん | 2008年10月18日 (土) 20時21分

 いや、「迷う」はしばしば「過ち」に直結しがちですから、あながち間違えとも言えないと思います。
 「過ちて改めざる。これを過ちと云う」というような箴言が、論語か何かにあったと思います。私の半生とは、常に道に「迷い」そこで「過ち」を犯し、そのことに気がつけずに、更に「迷う」。その繰り返しだったように思います。
 私は中学の時、元の戯曲ではない『ファウスト物語』という少年向けのダイジェストを読みました。それで興味を抱き、高校の時一度『ファウスト』にトライしました。しかし意外なほど面白くなく、前半部分で放り出して…この年に到った次第です。今回は、とにかく全編を読み通して、それから当ブログにその率直な読後感でも、と思っております。
 『エッケルマンとの対話』。私も1、2巻くらいは、文庫本で求めました。探せばどこかに眠っているはずです。『イタリア紀行』も読みたい本です。また河出書房新社版の世界文学全集には、『ファウスト』の次が『若きウェルテルの悩み』です。既に2、3度読んでますが、何といっても若き日の天才のエネルギー迸る書です。機会があれば、これももう一度と思っています。
 いくら「灯火親しむの候」とは言え、にわかに文学書づいて、ああ大変!

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月18日 (土) 22時56分

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