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鶏頭の句―名句?凡句?

                               正岡 子規

   
     鶏頭の十四五本もありぬべし    

 …… * …… * …… * …… * …… * ……

《私の鑑賞ノート》
 (正岡子規の略歴紹介は別の機会にということで、今回は省略します。)
 この句が作られたのは明治33年、子規が亡くなる2年前です。この年の8月13日、子規は病床で喀血しています。その疲労は甚だしく長く続いたようです。
 鶏頭の花はご存知かと思います。東南アジア原産とされるヒユ科の一年草で、9月上旬頃から鶏冠状の紅、赤、黄、白などの花を咲かせます。仏花や生け花用として広く親しまれている花です。従いまして、レッキとした「秋の季語」の花の一つです。(角川文庫版「角川歳時記・秋の部」より)

 子規は明治27年から、昔から文人墨客が多く住んでいた、東京は根岸の里に越してきます。ここに郷里の松山から母と妹を呼び寄せ、病気の看病などをしてもらいながらの日々を送ります。そしてそこは、当時から「根岸庵(後の「子規庵」)」と呼ばれ、夏目漱石、森鴎外、高浜虚子、与謝野鉄幹、島崎藤村など多くの友人、門弟などが訪れ、近代文学の原点の一つとなりました。
 その家の庭に面した部屋で、子規は病の床に臥せっています。まさに『病しょう六尺』状態です。この句の鶏頭は、先年母か妹かが庭に植えたもの、それが今を盛りと咲いているわけです。もどかしいことに、起き上がって側に寄って、しげしげと見ることも適いません。『俺は余命いくばくもない。やらねばならないことは山ほどあるのに…』。そんな中で、この句が生まれました。

 この句には、先人の優れた鑑賞文があります。少し長い引用ながら、先ずそれをご紹介したいと思います。
 「鶏頭が立ってゐる。群がって立ってゐる。十四五本に見える。あはれ、鶏頭は十四五本もあるであらうか―鶏頭を、さう捉へた瞬間子規は鶏頭をあらしめてゐる空間の、その根源にあるものに触れたのである。自己の「生の深処」に触れたのである。
 子規はそれを純粋に、直接に「鶏頭の十四五本もありぬべし」と表現した。かく表現された鶏頭は、鶏頭にちがひないが、同時にそれは「子規の鶏頭」となり、子規が鶏頭となって立ってゐると云ってもいいのである。
 鶏頭は「十四五本もありぬべし」という独自の意味を持って、その空間に立ってゐる。……最早それ以上の何ものをも必要とせぬ。鶏頭として立ってゐて、ただそれだけで、人を動かし、第一級の句となってゐるのである。」(山口誓子「子規の一句」より)

 子規はご存知のとおり、俳句の理想的あり方として「写生」を唱えました。写生とは文字どおり、「生(自然万物)をそのまま写す」ということです。更に申せば、子規の写生とは、「生の実相に迫る」あるいは「写す、迫る」などを通り越して、「生そのものと融合し一体化する」という境地を目指していたものと思われます。
 上の誓子の文は、さすが先人の秀句・名句を数多く読みこなし、かつ自分でも多くの秀句・名句を作ってきた人の文です。そのことを、余すところなく述べていると思われます。(「権威」の力を借りるかたちになりましたが、それだけ誓子の評論がずば抜けているということです。)

 この句は、本当に簡潔にして単純な句です。凛とした気品さえ感じられます。おそらくこれ以上の簡潔さを求めるとすれば、それはもうただ「ああ」という言葉に行き着いてしまうのでしょう。そしてこの「ああ」は、詠嘆であり、感嘆であり、喜びであり、呻きであり、哀しみであり、嘆きであり…。とにかく、「生の根源」から発せられる声なき音声(おんじょう)のように思われます。
 「あ」は、そもそも「言霊(ことたま)」の初発の音に他なりません。「あいうえお……」が、ただ無秩序に並べられているなどと、ゆめ思うなかれ。これは実は、「天地剖判(天地創造)」のプロセスそのものでもあるのです。
 実に子規は、この句において、「ああ」という「生の根源」に限りなく迫っていたのです。

 甚だ僭越ながら。この句を、「面白くない、つまらない、だから一体何なの?」と思われる方に申し上げます。( 「それでは貴方にとって、面白くてつまらなくない句って何ですか?」という問いは別として。)
 その方は、以上の「ああ」の分からないお方です。そしてこの「ああ」こそは、俳句のみならず、和歌、詩(ポエム)、絵画、音楽…すべての芸術の根底にあるものですから、つまりその方は、「芸術の本質」の味わえないお方ということになろうかと思われます。
 「言葉」だけが、ただ物事の表層を上滑りしているだけ…にならぬよう。先ずもって私自身が、自戒していかなければなりません。

 (大場光太郎・記) 

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コメント

 なお、俳句には「正規な表記法」があります。例えば今回の句は、
   鶏頭の十四五本もありぬべし
が正しいのであって、
   鶏頭の 十四五本も ありぬべし
ではありません。極論を申せば、それは単なる「言葉の団子」であって、もはや「俳句」とはいえません。このような表記を誰が編み出したのか知りませんが、私にはハナから「俳句をナメてかかっている」としか思えません。
 現在この表記をお使いの方は、お願いですから、俳句を知らない方、後の世代の人たちに、誤った表記法を流布しないでください。どうしてもその表記法で通したい方は、その表記でお作りになった句をもって、俳壇になぐりこみをかけてからにしてください。それで表記ががらっと変われば、それこそまさに、「新風児」「革命児」と絶賛されると思います。
 なお、これは「ファシズム」でも「権威の押し付け」でもありません。芭蕉以来連綿として続いてきた、「伝統」なのです。(よって、以前の当ブログコメントの当該個所はすべて直させていただきました。)

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月 8日 (水) 00時49分

《私の鑑賞ノート》の十四行目「この句の鶏頭は、先年母か妹かが庭に植えたもの」と、ありますが、その出展を教えてください。

投稿: 青木宏一郎 | 2009年4月 2日 (木) 09時23分

青木宏一郎 様
 はじめまして。このたびは、当ブログ記事『鶏頭の句―名句?凡句?』にお越しいただき大変ありがとうございます。
 朝のご質問ですのに、私今日一日諸事、雑事に追われ、返事が深夜になってしまいました。そのこと先ずお詫び申し上げます。
 
 ご質問をお読みして、私は率直にギクッと致しました。と申しますのも、私がこの記事を書きました時は、子規の「鶏頭の句」についての背景などを深くは知りませんでした。ご質問の趣旨からはまったく外れますが、その時期、この句に対する私の見解といったものをどうしても書かなければならなかったのです。ある人のブログで、この句を引用してズバリ「凡句である」と斬って捨てられたからです。当ブログにおけるその前の句の意見交換が飛んでもないことになった結果でした。ほんの少し俳句をかじっているものとして、これはゆるがせに出来ない。それでにわかにまとめた記事でした。
 
 だいぶ前置きが長くなってしまいました。青木様よくご存知のようですが、この句の鶏頭は、間違いなく根岸の子規庵の庭に植えられていたものだと思われます。私は本記事を書くにあたって、いちおう『植わっているからには誰かが植えたはずだ。さて誰だろう?』と率直に思いました。そしてネタバレでお恥ずかしいことながら、俳句専門誌などではなく、手っ取り早く「根岸 子規庵」というようなネット検索により、さるサイト(今回改めて当たりましたが、見当たりせんでした)に、確か「くだんの鶏頭は先年子規の身の回りの世話のため、郷里から呼び寄せた母と妹が植えたもの」というような下りがあったので、深く考えもせずにそれを拝借して記載した次第です。
 
 しかし今回のご質問により、再度調べましたところ、「誰が植えた」という確証は得られないようです。私が本記事全体の構想のため参考にしたのは、秋元不死男著『俳句入門』ですが、その中の鶏頭の句にふれた個所では、「先年庭に植えた鶏頭…」と子規自身が植えたことが暗示されています。また『俳句の雑学』という大変示唆に富むサイトの当該句の個所では、以下のように記述されています。
 「子規庵の庭には、草花好きの子規のために植物がたくさん咲き乱れていたと言う。鶏頭は明治三十年の春、森鴎外が色々な種子の種を送られた一つであり、その他に向かいの家から貰ったもの、近くに住む中村不折が持ってきたものなどがあり…(以下略)」

 この件につきしては、もう少し調べさせていただきたいと存じます。そして植えたのは「誰々」と確証が得られた段階で具体名を変更するか、もしくは結局分からずじまいの場合は、「母か妹」という当該個所は削除、修正させていただきます。その点あしからずご了承たまわりたいと存じます。

 なおこの「鶏頭の句」は、着想したのが明治32年の初冬の頃。そして子規逝去2年前の明治33年9月9日の子規庵句会に、他の鶏頭の句数句と共に提出されたものらしいですね。その時は「鶏頭の句」の点は低かったとか。この時既に後の「鶏頭論争」に発展する契機があったということですね。さて、青木様ご自身は、この句をいかが評価されておりますでしょうか?いずれまたその辺のご高説をおうかがい出来れば幸甚です。

投稿: 大場光太郎 | 2009年4月 2日 (木) 23時50分

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