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2008年11月

田母神論文をめぐって(1)

 先週土曜未明、お決まり月1回のテレビ朝日『朝まで生テレビ』がありました。今回のテーマは「田母神論文について」。
 私は現在大新聞の購読を止め、故筑紫哲也氏がTBSの『NEWS23』を降板してからテレビの報道番組もあまりよく見ておりません。しかしこの『朝まで生テレビ』だけは今もって関心があり、月1回のテーマに沿った討論を楽しみに待っています。

 本題からは逸れますが。先ず私と『朝まで生テレビ』との関わりから少し述べさせていただきます。
 同番組はもう20年以上続いている長寿番組です。確か私は、番組スタート当初から見続けてきたように記憶しています。司会の田原総一郎の、司会者としての立場を忘れて興奮のあまり討論者を怒鳴りつけたりする型破りな進行役も面白ければ、時々に出席した討論参加者(今では「パネリスト」というシャレたネーミングのようです)の発言も、我々一市井人などが知りえない内容があったりして大いに刺激を受けてきました。
 当初から、大島渚、野坂昭如、西部邁、渡部昇一、栗本慎一郎、猪瀬直樹、桝添要一などといった錚々たる論客が、本音で口角泡を飛ばして舌鋒鋭く相手の論に切り込んでいました。栗本や猪瀬などは『もうアンタらとはやってらんねえや』とばかりに、議論途中で退場する騒ぎも起きました。

 このような一テーマを長時間徹底議論することで、では何か有効な結論が得られたのかといえば、なお問題は議論のその先に積み残されている様に思われて、何か虚しい感じになったことも再々です。
 しかしだからといってこのような議論自体は、決して無駄ではなかったと思います。それまで一般人があまり関心を持たなかったことが、このような議論の場を通してそれに対する関心の目が開かれていっただろうからです。

 同番組でこれまで取り上げたテーマは、実に広範多岐に亘ります。やはりメーンは時々の政治的テーマだったかと思います。しかし時には、それまで公共メディアが取り上げることなくタブー視されてきた問題をも取り上げました。
 例えば、「天皇制問題」や「被差別部落問題」などは何度か討論の対象になりました。またアダルトビデオが流行の兆しを見せ始めた頃は、当時人気AV嬢だった黒木香がトレードマークの腋毛をチラッと見せながら、セックスについてのポリシーを熱く語ったこともありました。
 
 また時には、俳優の池部良などかなり高齢の、太平洋戦争を実際に職業軍人として直接体験した人たちばかりが出席して、同戦争について論じたこともありました。その中である陸軍幹部だった80代の人が、「南京大虐殺は確かにありました。私はこの目でその光景を実際に目撃したんですから。今回この討論に参加したのは、後の人たちにそのことをお伝えしたかったからなんです」という、大変衝撃的な証言などもありました。
 その議論で大変興味深かったのは、実際戦場で戦ったそれらの人たち全員が、「あんなヒドイ戦争はもう二度と起こしてはならん」と言っていたことでした。
 
 更には、まだ駆け出しの教団だったオウム真理教と幸福の科学のメンバーによる、激しい宗教論争もありました。オウム側は、教祖の麻原彰晃自らが出席していました。当時私は、客観的に判断して『オウムの主張の方がどうやらまっとうだぞ』という率直な感想を持ちました。
 その時のオウムや麻原の議論からは、後の地下鉄サリン事件につながるような兆候は微塵も感じられませんでした。その後オウムはどこでどう変質してしまったのか。その変質は、同教団と日本社会の両方にとって、大変不幸なことだったと私は考えております。

 以上のような「歴史」を持つ『朝まで生テレビ』が今回は、今各方面に波紋を広げている「田母神論文」を巡って、10人ほどのパネリストによって議論されるというのです。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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玉の如き小春日和

    玉の如き小春日和を授かりし   松本たかし

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
 松本たかし。明治39年東京神田の生まれ。幕府所属室生流座付能役者の家に生まれた。父長(ながし)は名人といわれた人。たかしも9歳で初舞台をつとめるが、病弱のため能を断念。大正10年頃から俳句を始め、虚子に師事。昭和21年「笛」を創刊主宰。物心一如、只管写生し、自然の深く蔵する秘密に触れようと唱えた。読売文学賞受賞。句集に『松本たかし句集』『鷹』『野守』『石魂』『火明』。昭和31年没。(講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 世間一般に子供が生まれた時、「玉のような子を授かった」と言って五体満足でコロコロした赤子の誕生を喜び合います。それを句として詠めば(季語の無い「無季句」となり厳密には俳句とは言えませんが)、「玉の如きすこやかな子を授かりし」というようになるのでしょう。

 松本たかしはそのような慣用的言い回しを十分承知の上で、冒頭の句を詠んだものと思われます。

 小春日和は、立冬を過ぎてからの春のように暖かに晴れた日のこと(角川文庫版『角川歳時記・冬の部』より)。第二句目を「小春日和を」と言い換えただけで、『なるほど小春日和とはそんな感じだよなあ』と納得させられてしまいます。

 これは一種の換骨奪取の句であり、口さがない一部の批評家から手厳しい批判の対象にされる句かもしれません。しかし俳句はもともと「俳諧」、つまり諧謔味、おかしさをいかんなく発揮させる文芸です。よって私は、このようなちょっとした言い換えもまた、それはそれで「新しい発見の句」としてOKなのではないだろうかと考えます。

 それに本来「赤子」であるべきところを「小春日和」と言い換えたのであれば、たまたま授かった玉のような良い日を、余計いとおしむ心持ちが溢れている句だとも思います。

 ともあれ。今後とも身近な自然に出来る限りの目くばせをし、季節的事物の移り変わりに敏感でありたいものです。私たち人間は、いかに文明化、都市化されても結局「自然の児(こ)」であることは変えられない事実です。

 「自然」という、地球の大きな系(スキーム)の中で生かされている身であることを常に心に留め、自然万物への感謝の心を忘れないようでありたいものです。

 (大場光太郎・記)

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当代総理大臣事情

 現麻生政権は、発足後2ヶ月余で早くも迷走状態に陥ってしまったようです。当ブログでも先日述べた、定額給付金を巡る総理の右往左往ぶりが大きなキッカケになったようです。それ以来、麻生総理の無策ぶり、「阿呆総理」ぶりがそれこそ総理愛読のマンガではありませんが、マンガチックにおもしろおかしく報道されています。
 ある世論調査では、内閣支持率が危険水域とされる20%台に降下しました。と共に与党内から早くも、総選挙の顔として自民党総裁として選ばれたはずなのに、「麻生総理の下では来るべき総選挙は戦えない」という声が出始め、既に水面下では「麻生下ろし」の怪しい動きも始まっているようです。

 それにしても、小泉元総理以後の3代の総理大臣はそろいも揃って何という無様な姿なのでしょう。内閣総理大臣といえばいやしくも、一国の顔となるべきトップリーダーです。時に国全体の浮沈をその双肩に担うべき極めて重い職責のはずです。なのにこの体たらくは一体どうしたことなのでしょう。自民党は長く一党独裁を続けてきましたが、もう耐用年数が尽きて、今の麻生総理は(大変失礼な物言いながら)「出がらし総理」ということなのでしょうか。
 ともかく、この事態は国内的に大きな損失のみならず、国際的に見ても日本の国益を大きく損なうこと測り知れないのではないでしょうか。

 少なくとも私が子供の頃あるいは若い頃の総理大臣は、皆々どっしりした重厚さとそれなりの威圧感、存在感がありました。それが時代と共に国民全体が劣化してしまったからなのか、特に現麻生総理などは史上最軽量級総理であると言わざるをえません。

 話は変わりますが。以前8・15の記事『終戦記念日に思うこと』のある人へのコメント返信で述べたことを、ここで改めてご紹介したいと思います。
 昭和10年以前、時代がかつてない難局に向いつつあることが識者の目に明らかになった頃、大本(教)の聖師・出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)がある人に漏らしました。「西郷隆盛は一等星だった。しかしそれ以降政界に一等星は出ておらん。今こそ総理大臣に一等星をすえなきゃならん時なんじゃがのう」。「それじゃあ、日本のため、聖師あなたが総理になられればいかがか」。
 何しろ出口王仁三郎は、大本神諭の神が「三千世界の大化け物」と表現しているほどの巨星です。当時教勢は全国のみならず広く海外にも拡大していました。(それが官憲に強い警戒感を抱かせ、昭和10年12月8日の「第二次大本事件」に到ります)。それに実は皇室の血も流れており、明治維新時「宮さん、宮さん」と歌にも歌われた有栖川宮・熾仁(たるひと)親王のご落胤でもあります。資格は十分過ぎるほどあったのです。
 対して出口王仁三郎は、「ワシが総理になってやってもいいんじゃが、今の連中は皆小粒な二等星以下の者ばかりだから、満足に組閣一つ出来んのじゃよ」。

 戦前の政治家はさておき、このような巨視的尺度で戦後の歴代総理を振り返ってみるとどうでしょう。西郷以上は酷としても、西郷に肩を並べるような大器量の人物が果していたのでしょうか。
 何やら国難めいてきた現下の金融危機の情勢下、本来ならば一等星のごとき大人物が総理大臣の椅子にどっしりと腰をおろし、各大臣も一等星に準じる綺羅星が揃い、国内的には国民皆を安心させられるビジョン豊かな政策が確実に実行でき、対外的にはアメリカや中国などとも対等以上に渡り合え、諸外国から「尊敬される国・日本」へと国の価値を高めてくれる。そんな体制を整えることこそが、今緊急に必要に思われるのに。現実の政治的貧困には、深く嘆息させられます。
 (大場光太郎・記)

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暗いと不平を言うよりも…

   暗いと不平を言うよりも、
   すすんであかりをつけましょう

 この言葉、ご年配の方は、あるいはご記憶がおありかもしれません。私のあやふやな記憶によれば、昭和30年代半ば頃(いやそのもっと前から、そしてその後も長く続いたのかもしれませんが)、学校に登校する前の朝の時間に流れていたラジオ番組「ルーテル・アワー」の確か冒頭で、いつも決まって流されていた言葉だったと思います。
 確か女性の声でした。その頃は小学校高学年、当時唯一の娯楽といっていいラジオが、我が家にもたらされたばかりの頃でした。夜はもっぱら歌謡曲が流れてきましたが、さすがに一日の始まりである厳粛な時間には、このような格調高い番組も組まれていたようです。

 子供でしたから、同番組の詳しい内容のことなど、何一つ理解できません。しかしこの言葉だけは毎日のように冒頭で繰返されるので、いつしか覚えてしまいました。「ルーテル・アワー」という名の通り、何やらキリスト教関係の番組らしいということは子供ながらに分かりました。(今回少し調べましたら。提供していたのは、国際ルーテル信徒連盟の日本支部である「日本ルーテル・アワー」というプロテスタント系組織のようです。今は主に、インターネットでイエスの福音を伝えているようです。)
 その後キリスト教とはあまりご縁のない半生を歩んできた私にとって、この言葉は一体どれだけのおかげがあったのか。仔細には分かりません。しかしその後時たま、何かの拍子にふいに思い出すことがありました。

 現下は去年のサブプライム問題に端を発して、世界同時株安など株暴落が続き、それまで「いざなぎ景気越え」などと悠長に構えかつ堅調な経済状態でしたが、外需頼みの構造になってしまっている我が国経済はその煽りをまともに受け、各指標をみても分かるとおり一気に景気後退局面に入りました。そして更に追い討ちをかけるように、つい2、3カ月か前にはリーマンショックが襲いかかり、いよいよもって先行き不透明な金融不安に覆われています。
 そんな暗い局面の反映のように、秋葉原の連続殺傷事件やつい先日は小泉容疑者による厚生元事務次官殺傷事件が起きたばかりです。これらほど衝撃的ではないものの、嫌な事件はそれこそ毎日のように起きています。

 暗いといえば暗い世相です。しかしだからこそ、「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」なのではないでしょうか。思えば、キリスト教の小難しい神学的なことを探求し論ずるよりも、このような小さくてささやかな「愛行為」の日々の積み重ねこそが、イエスのみ心に適うことなのかもしれません。

 それにイエス自身が述べております。「自分が蒔いたものを汝(なんじ)は刈り取る」。キリスト教のみならず、「原因結果の法則」「作用反作用の法則」「ブーメランの法則」は、知る人ぞ知る、普遍的な根本法則のようです。
 つまり自分が行った言動は、時間的タイムラグはあるものの、いつか必ず回りまわって自分にはね返ってくるということになります。(賢者ならぬ私にはよく分かりませんが)「賢者」とは、このような基本的原理を十分弁え知り、なおかつこのような法則から外れない日常行動の取れる人のことをいうのでしょう。

 そしてまたすべて物事には、二律背反的な側面があります。「陰極まれば陽となる」「ピンチの後にチャンスあり」etc. ある一つの出来事は明も暗も善も悪もない、本来はニュートラルなのかもしれません。要はその出来事を、どう解釈するのか、暗いと取るのか明るいと捉えるのか、それは各人の自由な判断であり解釈の問題なのだと思われます。
 どうせ何ごとかを感受し解釈せずには生きていけない人間であるのならば、見通しが暗いと思われる時ほど余計悲観も落胆もせず、物事の明るい面、良い面、光の面を観るよう常に心がけていきたいものです。
  
 (大場光太郎・記)

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群衆の一人として…

  この日一日せわしなく動き回って
  世間一般の終業時間に押し出されるように
  都会の片隅のビルの中から
  『ともかく一仕事終わった』と
  一安堵の吐息を漏らして外に出る
  だがそれもつかの間
  この時代は絶えず何ものかに急かされて
  気が休まる時がない。
 
  晩秋の日は早やとっぷりと暮れている
  歩く街路のビルの谷間の先の西空に
  一番星が明るく輝いている
  途方もなく隔たった
  六十五億人のたった一人である私と
  (多分あれは金星に違いない)遠くの星が
  一瞬ぴたっと一つに結ばれるようだ。

  元々の自然を一旦すべてチャラにして
  地面を舗装やビルで覆い尽くして
  少しは自然のことも景観も考えていますよと
  一般市民やおっかない自然界へのポーズで
  街路に飛び飛びに樹が植えられている。
  その街路樹が今葉を落とす季節だ
  時に舗道に散り散りの落葉を踏んで歩く
  (こんな一枚の葉にさえ結晶化している
  全宇宙の造化力を感じたことがあるだろうか?)
  落葉はその度故郷の野山でいっぱい
  踏みしめたのと同じくカサコソ音を立てる。
  
  鋪道を人も私も黙々と歩いていく
  本当に道行く人たちは寡黙だ
  それもそのはず赤の他人が奇妙な巡り合わせで
  たまたま同日同時刻この通りに居合わせ
  同じ方向目指して歩いているだけなのだから
  ただそれだけのことだから特別話す必要もないし
  互いに何か話しかける方がおかしいというものだ。

  こうしてただ黙々と歩いている人々を
  一くくりに群衆というのだろう
  そしてかくいう私も群衆の一員というわけか
  群衆はとにかく滅多なことでは声を発しない
  しかしこんな不条理な時代なのだから
  心の中はたくさんの愚痴や怒りや恨み言が
  逆巻いているんだろうなきっと
  想念だって実は生き物であるからには
  それらの想いは四方八方に放射されて
  大気中にどのような作用を及ぼしつつあるのだろうか。
  
  この世はタテ×ヨコ×高サの三次元立体世界なのに
  群衆ときたらこの世界を自在に天翔けることはできず
  アリのように気ぜわしく地の上を移動するだけ
  上からアリを眺める人間のように
  人間を眺めている存在がいるとしたら
  人間は地上に這いつくばって生きている
  アリのように見えているに違いない。

  我ら群衆は駅というとりあえずの座標原点を
  目指して一目散に歩き続ける
  原点から先はめんめめんめに電車に揺られて
  第一象限から第四象限まで東西南北ちらばらな
  それぞれの事情がいっぱい染みついた
  我が家という地点に散っていくのだろう
  駅という座標原点が0(ゼロ)としての
  本来の静寂を取り戻すのは
  オリオンやシリウスが天頂をだいぶ過ぎて
  西に傾く頃合だろう。

                   (大場光太郎)    

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当世若者気質(2)

 私は近年移動手段としてバスをよく利用します。その中で気づくことがあります。乗り合わせた若者の多くが、乗ってすぐに携帯電話(以下「ケイタイ」と略称)を取り出してその画面とにらめっこしていることです。

 ついこの前の、夕方本厚木からの帰りのバス車中でのことです。私はバスの最後列の一つながりの座席の真ん中に座りました。車中をよく見渡せます。私の両隣や前の座席は、いずれも若い人たちで占められています。彼らは座席に落ち着くなり、真っ先にケイタイを取り出し、例によって画面とにらめっこです。
 周りの人のことなどまるで眼中にないようです。むしろ周りとの関わりを絶つ手段としてのツールのようです。あっという間に互いがケイタイを通して、没交渉的世界に入り込んでしまったかのようです。幸い通話する者はおらず、周りに迷惑をかけるものではないので、その行為自体は特段とがめだてするようなものではありません。(時には周りのことなどお構いなしで、車中ずっと大声で通話している不届きな若者、特に若い女性もいます。)

 しかし一人や二人ではなく、周囲の若者(10人弱)のほぼ全員がケイタイとにらめっことなったらどうでしょう?当人たちにとっては、当たり前の行為なのかもしれませんが、それは一種異様な光景に映ります。
 私のようにケイタイといえば専ら通話専用で,、メールその他の機能を全く使っていない者には、彼らが食い入るように見つめている画面で何をしているのか仔細には分かりません。
 彼らにとっては、「近くの隣人より遠くのメル友」ということなのでしょうか?まるで彼らにとって、今身を置いている現実は彼らにとってのバーチャル世界であり、画面を通して現われている世界こそがリアリティある世界のようなのです。

 現実の行動の中には、生身の周りの人たちとの生きた会話、コミュニケーションが必要な場面が多々あります。それは時にはうっとうしく、わずらわしいことです。私のようにこの世で長くメシを食ってきた者でも、時にそれを避けたくなる時もあります。その点、都会生活は比較的好都合に出来ています。対人関係から逃げようとすれば、それなりの手段はいくらでもありますから。
 しかしそれでも、人間社会の一員である以上最低限度の対人関係は不可欠です。ニートや引きこもりのように、一生家という殻に閉じこもっていることなどできはしません。
 
 ここで、私の想いはいささか飛躍します。彼らのようなテレビ、ゲーム機、パソコン、ケイタイなどのバーチャル画面を何の抵抗もなく受け入れ、否それ無しでは生きていけない世代がどんどん広がった近未来の世界は、一体どうなるのでしょう?
 現実とバーチャルが主客転倒している世界、そしてその住人たち。そのSF的世界の住人たちは、およそ「生きている」という実感も喜びも感じられない。既に根無し草のように地から遊離してしまっている、肝心な部分では皆々死んでいる一種の「ゾンビ状態」の人々なのではないでしょうか?そう考えると、何やら冷ややかで、不気味で、空恐ろしい心地がしてきます。

 …そんな私の想いをよそに、なおも若者たちは夢中でケイタイ画面とにらめっこなのでした。

 (大場光太郎・記)

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静夜思(せいやし)

      李白

  牀前看月光   牀前(しょうぜん)月光を看(み)る
  疑是地上霜   疑(うたご)うらくは是(こ)れ地上の霜かと
  挙頭望山月   頭(こうべ)を挙(あ)げて山月(さんげつ)を望み
  低頭思故郷   頭を低(た)れて故郷を思う

   …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 李白(701年~762年)は、中国盛唐の詩人。字(あざな)は太白(たいはく)。逸話によると、李白が生母の胎内に宿った時、母は夢で太白(金星)に遭遇したことから、この字がつけられたといわれている。
 李白の詩は豪放磊落で、唐の絶頂期の男性的な力強さを持っているといわれ、率直な感情をダイナミックに表現する骨太の詩風が特徴。「絶句」の表現を大成させた人物でもあり、後世の人から「詩仙」と呼ばれ、同時期の杜甫と並び称される。(フリー百科事典『ウィキペディア』-「李白」の項より)

 私がこの名詩にめぐり会ったのは、中学に入学して間もなくのことでした。担任になられたT先生が、国語の時間に古今の名文章を、達筆な字で書かれたガリ版印刷したワラ半紙2枚にしてクラス全員に配ってくれたのです。他に室生犀星の詩などがあったと記憶していますが、私が特に惹かれたのがこの詩でした。そしてこの詩によって初めて、漢詩に触れたのです。

 詩の意味はいたってシンプルです。
 「今いる私の寝台の前まで月の光が射し入っている。その光が白くて地上の霜のように見える。私は思わず頭を挙げて山上の月を望み見、そして頭を垂れて故郷のことを思った」
という意味かと思います。

 それなのにこの詩は、杜甫の「江は碧りに鳥いよいよ白く…」の詩と並んで、五言絶句の極みのような名詩だと思います。

 この詩では、「白髪三千丈」式の誇張し過ぎとも思われる表現は抑えられ、何やらこの世の奥の実相を静かに観照している趣きすらうかがえます。詩全体に寂静(じゃくじょう)の気が漲っているようです。

 ところで、頭を挙げたままではなく、なぜ「頭を低れて故郷を思う」なのでしょう?
 室内に射し入っている白い月光に導かれるようにして、山上の月を見て、李白はその神々しさに激しく搏(う)たれたのかもしれません。

 想像するに、李白が見上げた月は満月またはそれに近い月だったと思われます。

 時に満月を、「玻璃鏡月(はりきょうづき)」と形容することがあります。「玻璃鏡」とは、死後閻魔様の法廷に引き出された死者が見せられるという鏡だそうです。その中には、生前の一切の行為が、何の隠し事もなく映し出されるというのです。(但し生前から、越し方を顧み、マイナスだった行為にも光の想いを当てていれば何の心配もないようです。)
 ちょうどその時李白も、月をそのようなものとして観じていた…。
 
 李白は畏怖を覚え、敬虔な祈りの気持ちになって、思わず知らず頭を垂れたのではないでしょうか。すると自然に故郷のことが思われてきた。

 そして、千古の時を越えて今なお私たちの心を打ち続けるからには。その時単に地上的故郷-蜀(しょく)の故郷への望郷のみならず、李白は人類の普遍意識にまで入り込み、更に悠古の「魂の原郷」にまで思いが到っていたのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記) 

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勤労感謝の日

 きょう11月23日は勤労感謝の日です。しかも今年は大安でもありました。大安吉日、勤労感謝の日。天も寿(ことほ)ぐように、当地は抜けるような青空が広がる快晴のすっきりした一日となりました。
 このような日を小春日和というのでしょう。『はて、季節は晩秋だろうか初冬だろうか』と判断に迷う境目に、ふとこのような春のようにのどかな暖かい日に恵まれることがあります。そういう日を「小春日和」と名づけた、昔々の人たちの感性には驚かされます。

 さて勤労感謝の日は、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」において、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨としています。1948年(昭和23年)公布、施行の祝日法で制定されました。
 勤労感謝の日が制定される以前(戦前)は、11月23日には「新嘗祭(にいなめさい)」が行われていました。古来我が国は「豊葦原の瑞穂の国(とよあしはらのみずほのくに)」と美称され、農事は先ずもって最重要な生存手段であり、それゆえ最重要な神事(しんじ)でもありました。そのため新嘗祭は、古くから国家の重要行事であり、「瑞穂の国」の祭祀を司る最高責任者である大王(おおきみ-天皇)が、国民を代表して豊作物の恵みに感謝する式典でした。「新嘗」とは、その年収穫された新しい穀物のことをいいます。

 なお新嘗祭は、1872年(明治4年)までは旧暦11月の2回目の「卯の日」に執り行う決まりでした。ところが1873年(明治5年)に太陽暦(グレゴリオ暦)が導入され、そのままでは新嘗祭が翌年1月になってしまい都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うことにしました。それが1873年は11月23日だったのです。
 そのため翌年からは、11月23日に固定して行われることになりました。よってこの日付自体には、特別深い意味があったわけではありません。

 勤労感謝の日は戦前の11月23日をそのまま踏襲しているように、新嘗祭が土台となりました。その上で、アメリカで行われている9月の第1月曜の「Labor Day(勤労の日)」さらには11月最後の木曜の「Thanks Giving Day(感謝の日)」の影響も受けて制定されたものと思われます。
 我が国やアメリカのみならず、秋に「農作物の恵みを感謝する」行事は、大昔から世界各地で行われていました。しかし時代と共に、日々の労働に対して「農作物」という目に見える形を実感できることが少なくなりました。「勤労」の内容や質が大きく変わってきたのです。

 そこで戦後、勤労の意味として「肉体的な労働によって物品等を生産するということのみに終始するものではなくて、精神的な方面においても一日一日を真剣に考え、物事の本質へと深めてゆく研究態度にも勤労の大きい意味は存在し、創造し、生産していくことの貴重な意義ある生活が営まれていくことが出来る。物質的にも、精神的にも広い意味での文化財を建設してゆくことは、生産ということの正しい理解の仕方である(衆議院文化委員・受田新吉著『日本の新しい祝日』より)」などと定義し直されました。

 上記の規定で、今日的「勤労の意義」は言い尽くされていそうです。思えば「勤労」「働くこと」は、私たちにとって神聖な義務であり権利です。またそれは人間にとって本質的、根源的な生命活動とも言えます。
 ですから年1回の勤労感謝の日のみにその意義を考えるのではなく、日々を真に価値ある黄金の実りの日とするためにも、常にその意義を考え続ける必要があろうかと思われます。そこで「働き」については、私自身の一層の自覚を深める意味合いからも、いつかまた更に掘り下げて述べさせていただければと思います。
 (大場光太郎・記) 

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『K-20怪人二十面相・伝』のこと

 『K-20怪人二十面相・伝』という日本映画が、12月20日公開されるそうです。これは江戸川乱歩の同シリーズを翻案した、劇作家・演出家の北村想(きたむら・そう)の『怪人二十面相・伝』を原作とする映画で、佐藤嗣麻子監督は「日本でも海外でも、こんな映画は見たことがないというものに仕上がった」と日本発のアクション大作として自信のコメントをしているようです。

 映画を観ていないので詳細は述べられませんが、今テレビで流されている予告編によれば、時代は1949年(昭和24年)。そして物語の中では第二次世界大戦は起こっておらず、戦前の体制が存続している社会という設定のようです。
 つまり現実では敗戦と共に廃止された「華族制度」がそのままより強固な体制として続いており、華族という特権階級を頂点とする厳しい階級社会で、例えば結婚なども同じ身分階級でないと許されないような、同特権階級以下の人間たちの自由が厳しく制限されている社会という設定です。

 考えてみれば現代も自由主義社会とは名目で、経済競争の勝者たちが、あたかも昔の貴族階級のように断然優位に立つ格差社会です。これだけ格差が固定化されてしまうと、この硬直したシステムは容易なことでは揺るがないと言われています。その上更に管理システムが、全国津々浦々に網の目のように張り巡らされている重苦しい、息苦しい社会でもあります。
 その意味で、設定こそ違えこの映画の背景は、今日的状況とどこか通底したものがありそうです。

 同映画は、日本の架空都市・帝都を舞台に、富裕層だけを狙って出没する“怪人二十面相(K-20)”を巡る戦いを描いたものだそうです。騙されてK-20に仕立て上げられたサーカス団員の遠藤定吉(金城武)が、富豪の令嬢・羽柴葉子(松たか子)や名探偵・明智小五郎(仲村トオル)らを巻き込んでK-20に挑むというストーリーのようです。

 ところで昭和30年代前半頃の子供たちにとって、「怪人二十面相」は、二十もの顔を持つミステリアスで神出鬼没で痛快な「悪のヒーロー」でした。その存在感は、好敵手の名探偵・明智小五郎をもしのぐものがありました。
 おそらく推察するに、1949年の架空の帝都を背景に、怪人二十面相はそのような重苦しい体制に風穴を開ける、ドロップアウトした「怪盗」「怪傑」「義賊」として描かれているのではないでしょうか?

 私は評判の『レッドクリフ』は観ないつもりです。と申しますのも、同映画は『三国志演義』の骨子を大きく変えてしまっている部分がありそうで、私の三国志のイメージが崩される懸念があるからです。例えば『演義』では呉の大都督・周諭は、諸葛孔明の神の如き明察を恐れて密かに殺意を抱き、陰に陽に孔明を亡き者にしようと画策します。しかし同映画では、孔明が周諭の人格に惚れ込み兄のように慕い、共に一致協力して曹操の魏軍という「悪」に立ち向かうという設定にしているようです。
 『はぁっ?』。いくらなんでも、それはいかがなものか、というのが私の率直な感想です。片方を何が何でも「悪」に仕立て上げ、それに敢然と一致協力して立ち向かう「善のヒーローたち」。その過程での「友情」「愛」といったくさいストーリー。いかにも「ハリウッド映画的発想」です。

 その点『K-20怪人二十面相・伝』は、江戸川乱歩の原作を十分尊重し、なおかつそれへの愛惜の念からの翻案と思われます。
 それにこの映画では、『レッドクリフ』で諸葛孔明を演じた金城武が、今度は遠藤定吉という怪人二十面相(K-20)の「二代目(?)」という主役の人物を熱演しているようです。私個人として、諸葛孔明役には「?」をつけました。しかしこちらの金城武は面白いのかなと期待しています。

 またこの映画は、昨晩たまたまテレビで観た『ALLWAYS 続・三丁目の夕日』のスタッフが主に製作した映画だそうです。時代背景の見事な再現力は折り紙つきですから、その意味でも私が生まれた1949年をどのように描いてくれているのかも、大いに興味をそそられます。何より、私の子供時代の怪人二十面相への郷愁も呼び起こされそうだし…。
 この映画は、是非観てみたいと思います。
 (大場光太郎・記) 

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今は昭和初期と酷似 !?

 ついこの前の日曜日(午前)のテレビ朝日『サンデープロジェクト』の中で、田母神論文が議論になっていました。その中で、ジャーナリストの某氏が「現在の我が国の状況は、昭和初期の状況とよく似ている」と指摘しておりました。出席の各氏もおおむね賛意を表していたようです。

 問題の昭和初期は、1929年10月24日の米国ウォール街の株の大暴落が世界大恐慌の引き金になり、当時の我が国とて例外ではなく、一気に昭和大恐慌に見舞われました。大企業の倒産が相次ぎ、巷に失業者が溢れ、分けても農村部の疲弊は甚だしく、公然と子売りの看板を立てる農民まで現われたほどでした。
 余談ながら。当時の「娘売ります」の写真が、高校の時の日本史の教科書に載っていました。実はその写真の現場は「伊佐沢(いさざわ)」という所で、私の高校のある長井市の一部落なのでした。そのため余計私は、昭和初期の深刻さがよりリアルに実感できたのです。

 今回アメリカのサブプライム問題そしてリーマンショックが、全世界に飛び火し、各国の主要株式市場の株が一気に大暴落しました。世界的金融不安と呼ばれている現在の状況が、当時とまるで同じパターンだというのです。

 次に当時は、世の中の不況感、閉塞感を背景に、政府要人等を狙ったテロ事件が頻発した暗い時代でした。主なものだけで、(既に当ブログ記事『万物備乎我(2)』で述べたように)昭和7年の5・15事件により、時の犬養毅首相が青年将校らに射殺。同年3月5日には三井財閥の団琢磨(だん・たくま、音楽家の団伊玖磨は孫)が右翼団体・血盟団の菱沼五郎に狙撃され暗殺。昭和11年には2・26事件により、時の岡田首相、高橋蔵相、斎藤内大臣が殺害。
 ついでに申せば、正当な言論によらず対象とする要人の命を直接狙う、テロ、クーデターの頻発で、軍部の暴走に歯止めでかからなくなり、遂に破滅的な戦争へと突入していくことになりました。

 この面でも現在は酷似しているのだろうか?それに対して、今は「シビリアンコントロール(文民統制)」が当時に比べ幾重にも確立されているから、余り心配はないというのが共通認識だったようです。
 しかしそれにしては、「日本が侵略国家だったことは一度もない」とする田母神元空幕長の論文はどうなのでしょう?歴代の政府見解とは異なると現政府は弁明していますが、それを密かに支持する自民党議員や防衛省幹部はけつこう多そうです。防衛省をめぐっては、タガが緩みっぱなしと思われる不祥事が次々に明るみに出されています。
 また田母神論文を扱ったネットにも、同論文を支持する内容のコメントも多く寄せられているようです。

 そしてこの度、『本当に似てきたのかなあ』と思わせられる衝撃的な事件が起きました。厚生省元事務次官をターゲットとしたと思われる「連続テロ事件」です。テロにしては未だ犯行声明が出されておらず、現在捜査中でもあり断定は出来ないものの、「宙に浮いた年金問題」や厚生省や社会保険庁職員の相次ぐ不祥事への憤りが背景にあるものと見られています。

 先行きの見えない不況下で、社会に広く蔓延する閉塞感のストレスと不満。荒廃する人心と人間関係。食品偽装問題などにみられる企業モラルの低下。異常事件の頻発。現麻生政権に顕著なとおりの政治的無策。広く醸成されつつあるナショナリズム的傾向。「盗聴法」や「有事法制」などの危ない法律がたやすく成立してしまう政治状況。シビリアンコントロールが効かなくなりつつあるかのような防衛省。……。
 「歴史は繰返される」といいますが、『これはひょっとしていつか来た道をたどることもありえるぞ』と、私個人としては非常に危惧しております。
 
 (大場光太郎・記)

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どこまでも鉈追ってくる…

    どこまでも鉈(なた)追ってくる林檎園   (拙句)

 今日の社会は複雑化、高度化し、いついかなる場面でも「法的思考(リーガルマインド)」が要求される厳しい社会です。息苦しいといえば息苦しい社会ですが、これが国民総意のもとで築き上げられた社会である以上、その一員たる私たち一人ひとりも法規を遵守する厳粛な義務を負っております。

 しかし私が小学校時代を過ごした、オールディーズな昭和30年代半ば頃までは、それはそれはのんびりした大らかな世の中でした。

 当時私は、山形県宮内町立母子寮にお世話になっている子供でした。そこは宮内町でも東外れに位置し、百メートル弱東の吉野川の橋を越えると上り坂となり、その道から左にそれた高台の農道沿いには野原や畑や農園が広がり、その更に東には小高い山々が連なっていました。

 少年時代は、町場と共にその辺一帯もまた、私たちの格好の遊び場でした。雪解(ゆきげ)も過ぎいっせいに草木が芽吹く春ともなると、その辺の野山に分け入り、ワラビやゼンマイやフキを採り放題に採っていました。また辺りが見事な紅葉に染められる10月半ば頃からは、山深く分け入ってシメジや何とか茸のキノコも採り放題でした。

 当時といえど、野山にはそれぞれに所有者がいたのでしょう。しかし今日のように所有権がシビアではなく、どこも「立ち入り禁止」「入山禁止」などということはありませんでした。大人も子供も好き勝手にどこの野山に入り込んでも、誰も何とも言わない大らか時代でした。

 以下はもうとっくに時効ですから、お話します。いたずら盛りの小学校高学年の頃、その中でもさすがに進入禁止のブドウ園やリンゴ園に、友だちともしくは単独で不法侵入しては、たわわに実ったブドウやリンゴをかっぱらっては(つまり盗んでは)、園の外でもぎたてのブドウやリンゴをおやつ代わりにちょうだいしたこともありました。

 秋も深まったある日、学校が終わってから友だちと例の野山に遊びに行きました。そして山のたもとの傾斜地にある、広いリンゴ園にまたまた不法侵入しました。

 もう忘れましたが、いつもいでもいいような見事な紅玉だったと思います。沢山のリンゴの木に大きく真っ赤な紅玉が鈴なりなのです。私と友だちは『それっ!』とばかりに、一本の木に寄り、夢中でリンゴをもぎ始め、上着やズボンのポケットに詰め込みました。しかしその日は折り悪しく園主がリンゴの取入れか木の剪定かをしていたらしく、不意にどこからか現われて、私ら悪童の不法行為が見つかってしまいました。

 園主は子供たちの度重なるかっぱらい行為に相当業を煮やしていたらしく、烈火のごとく怒り「こらっ。ガギめら待てっ!」と言うなり、手に持っていた鉈を振り上げ私らを威嚇しながら、追いかけはじめました。

 私らはびっくりしたのなんの。取るものも取りあえず、と言っても既にもいでポケットに詰め込んだのはそのままで、段々の傾斜を下って逃げに逃げました。園主はやはり鉈を振り上げた格好で、執拗に追ってきます。もしつかまりでもしようものなら一巻の終わりと、子供ながらに分かります。それで私たちはほうほうの体で逃げまくります。悪夢で何者かにどこまでも追いかけられる、さながらあんな恐怖でした。

 そのうち園主の姿が見えなくなりました。『んっ?』と思ってその方を見てみると、傾斜の低い土手を降りる際転んだらしく、今しも起き上がるところでした。私たちはこれ幸いと、更に速度をあげて逃げました。

 とっくにリンゴ園から遠ざかり、さすがにもう園主は追ってきません。そこでやっとほっと一安堵し、二人で道端に腰を下ろし、ポケットから収穫物を取り出し、上着で皮の消毒をきれいにふき取りガブッとばかりかぶりつきました。案の定、中にたっぷり蜜のあるうまいリンゴでした。(さすがにその後は、リンゴ園等への不法侵入は自粛の方向に向いました。)

 (大場光太郎・記)

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♪壊れかけのradio♪

 それまでの暖かい小春日和がウソのように、きのうあたりから一気に冷え込んできました。きょうも良く晴れたものの、街を吹き抜ける風は冷たく、いよいよ冬の到来を思わせられる一日でした。
 そんな中、また横浜に行ってきました。と申しましても、きょうは先月のように横浜港近辺の歴史的建造物をじっくり見て歩く余裕はありませんでした。

 今は私にとって、業務の繁忙期なのです。いえ、不況感が列島全体をじわじわと覆い始めている昨今、私如き者が繁忙であろうはずがありません。各社よりとうの昔に依頼されておりました各業務が、当職の怠慢でたまりにたまって、ここに来てどっと集中的に期限が迫ってきているだけの話なのです。
 本日横浜の役所に提出する申請書類を、本日ぎりぎりまでかかって何とかまとめ、午後1時半過ぎ頃外出しました。

 冬用のコートを着ていくべきか否か?今の季節は迷うところです。私は若い頃から、着るもののセンスがまるでなく、人より先に季節を先取りした物を着てやろうなどという野心もとんとなく。それで本日も、『夕方あたりから一段と冷え込むんだろうな』と思いつつ、背広のみで外に出ました。
 やはり外気はうすら寒く、暖かくてほっとするのは建物や電車の中だけです。相鉄線海老名駅は始発が出ますから、いつも座っていけます。横浜駅までの所要時間は、ちょうど30分くらい。電車が走り出し十分に冷えがおさまった頃、バックの中から提出書類を取り出して、チェックしてみました。
 すると、一社の方の提出書類の一つがビニールケースごと見当たりません。これでは提出することができません。慌て仕事は、本当にロクなことになりません。同社申請はとっくに出すべきだったのに、今まで延ばしに延ばしていただきました。その上きょうを逃すと、役所の日程により一週間先の提出になってしまいます。着く前から暗澹たる気持ちになってしまいました。

 『折角来たんだから、もう一方の方だけでも何としても受領してもらわなけりゃ』。気を取り直して関内駅に降り立ちました。同駅周辺のケヤキ並木の地面に散り敷く落葉の風情を味わう暇(いとま)もなく、横浜市庁舎を増設でもするのかその高い防護板が巡らされた舗道を歩き、近くの同市分庁舎のある民間ビルの中に入りました。
 何とかそちらの方は受付OKとなり外に出た途端、『そういえば朝方軽い食事をしただけだったなぁ』と思い出し、にわかに疲労感と空腹感を覚えました。そこで横浜スタジアムの反対にある、ヴェローチェというコーヒーショップに入り軽食を取り、つかの間の休息をしたり、提出できなかった会社の担当の方にお詫びの電話を入れたりしました。

 本厚木駅に戻ったのが、夕方6時半頃。改札を出て北口広場に向うと、何やら懐かしい歌声が聞こえてきます。
    ♪ 思春期に少年から 大人に変わる
      道を探していた 汚れもないままに
      飾られた行きばのない 押し寄せる人波に
      本当の幸せ教えてよ 壊れかけのradio 
 
 『うわぁー!「壊れかけのradio」だぁ!』。広場の噴水の手前に人がいっぱい集まっています。なお近づくと、きれいに豆ランプでアーチ型に電飾されているちょっとしたステージで、20代と思しき3人の男子グループです。いわゆるストリートミュージシャンによる、路上(広場)ライブというものでしょうか。
 小さな折り畳みイスに腰掛け、互いに電子ギターを弾いたりドラムをたたいたりしています。右の一人がボーカルですが、これがクリアーな澄んだ声で、徳永英明ばりのなかなかの美声なのです。こういう処で鍛えて、いつか全国デビューをということなのでしょう。歌といい演奏といい、本当にプロ級です。

    ♪ 華やいだ祭りの後 静まる街を背に
      星を眺めていた 汚れもないままに
      遠ざかる故郷の空 帰れない人波に
      本当の幸せ教えてよ 壊れかけのradio

 思わず聴き惚れ歌の終いの方で、不覚にも涙がこぼれてしまいました。年のせいか私は今時の歌はほとんど評価しない方ですが、この歌はそれまでのどの名曲にも負けないくらい良い歌だと思います。今日一日の労苦が、彼らの歌と演奏を聴いたおかげですべて報われ、心が洗われた感じがしました。
 まさか涙をぼろぼろこぼしながらバスに乗るわけにもいきません。そこでぐっとこらえて、歌が終わってひと際大きな拍手を送りながらバス乗り場の方に向いました。  

 (大場光太郎・記)

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呂布と貂蝉(3)

 以上が『三国志演義』に基づいた「美女連環の計」のいきさつです。(特に、かなりの部分を中国電視台が1994年に製作した『三国志』に準拠しています。)
 董卓殺害後、その地位を襲おうとした呂布の企みは失敗し、わずか数百騎のみで首都長安を逃れていきます。しかし丁原、董卓と二人の義父を殺害したことで「親殺し」の悪名をこうむり、群雄たちから疎んじられ、その後諸国を変遷することになります。

 気になるのはヒロインである貂蝉のその後の消息です。『演義』では董卓亡き後呂布の妾となるも子は出来なかったとしています。198年呂布は曹操によって捕らえられ、縛り首の刑で果てますが、それ以降の貂蝉の記述はありません。
 なお、我が国で広い読者を持つ吉川英治の『三国志』では、連環の計が成し遂げられるのを見届けて自害して果てたというように翻案しています。ヒロインの最期としては、こちらの方の訴求力が断然かと思われます。

 西施、王昭君、楊貴妃と共に古代中国四大美女の一人と称えられる貂蝉ですが、史実にその名はなく、架空の人物である可能性が高いと言われています。
 ただモデルとなった女性はいたようです。史書である陳寿の『三国志』には、「呂布が董卓の侍女と密通し、発覚を恐れて王允に相談した。そこで董卓打倒を狙っていた王允は、この際董卓を討つべしと進言し、呂布はそれを実行した」という記述があるそうです。
 そこで、この「董卓の侍女」こそがモデルで、後世の講談や物語において「貂蝉」という架空の名前をつけ、この物語で重要な役割を果たした王允の養女ということにした、というのが真相のようです。だから『演義』において、呂布の最期の時まで妾として連れ添った貂蝉こそは、この侍女だったのかもしれません。
 
 考えてみれば、男でも女でも余程傑出した「何か」がなければ、伝説化され後世さまざまな説話が生まれることはないと思われます。例えば、諸葛亮(孔明)の場合も、「七星壇で風を祈る」や「空城の計」などの『演義』中の名場面は、架空の物語だと言われています。しかしそのような超人的な物語を生み出したくなる「何か」を、諸葛孔明は備えていたということです。
 貂蝉の場合も、この他にさまざまなバリエーションの説話が残ってます。それからすれば、モデルとなったこの侍女は後世中国四大美人と言われたくらいですから、類い稀な美貌の女性だったのではないだろうか?と推測されます。

 ところで西施、王昭君、楊貴妃は、中国史上実在の人物です。その余りの美しさのゆえなのか、それぞれに数奇な運命をたどります。いずれも大変興味深い物語かと思われます。いつの日か、当ブログでも「中国美女列伝」というような形でご紹介できればと思います。
 
 また冒頭に紹介しました、「中国電視台」は中国のNHK的テレビ局です。同局が国家的プロジェクトとして総力を挙げて製作した『三国志』は、『三国志演義』を初めから終わりまで、ほぼそのまま映像化した壮大なスケールの物語です。私は3年ほど前、厚木市の某出先機関からビデオを借りて全巻観ました。その面白さに、ニ、三度繰り返し観たほどです。いささか長いものの、『レッドクリフ』とはまた違った三国志の醍醐味が味わえると思います。
 孔明も曹操も周諭も小喬もそして今回の主役の呂布も貂蝉も、実に良いキャスティングでした。三国志ファンの皆様には、お薦めです。  ― 完 ―
 
 (大場光太郎・記)

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呂布と貂蝉(2)

 そんな中、霊帝の時からの忠臣である司徒・王允(おういん)という人物がおりました。王允は、董卓の専横に漢室の将来を深く憂いていました。かといって董卓を除けるほどの良策も思い浮かびません。
 ある晩自邸の廊下で、庭園の闇を見やりながら深く嘆息していると、一人の少女がそっと近づいてきました。「養父さま。夜も遅いのに、何をそんなに嘆いておいでですの?」。王允は一瞬ぎくっとしながら「あヽ貂蝉お前だったか。いや別に何でもないんだ。…遅いからもう寝なさい」。「いえ、養父さまは何か深い悩みを抱えておいでです。私には分かります。隠さずにおっしゃってください。この貂蝉、身寄りのない幼時に養父さまに引き取っていただき、以来16歳の今日まで実の娘以上に大切に育てていだきました。何とかそのご恩に報いたいのです」。類い稀な美しい顔に強い意志をひそませ、なおも貂蝉は引き下がりません。遂に王允も根負けし、「実はのぅ…」と苦しい胸のうちを語り始めます。

 …こうして王允(と貂蝉)による、董卓と呂布を仲違いさせる計である「美女連環の計」が練り上げられ、実行されていくことになります。なお、連環の計には二つあります。その一つは既述のとおり、赤壁の戦いに臨みほう統が曹操に進言した、魏水軍の二千艘の船すべてを互いに鉄鎖、鉄板で連結させる計。それと区別するため、こちらを特に美女連環の計と呼んでおります。

 ある日計略を秘めて王允は呂布に近づきます。「将軍の日頃のご精励をねぎらいたい。ついては今宵拙宅にお越し願えまいか」。名家からの招きとあって、呂布は一も二もなく了承し、宵の口王允の館を訪れます。最上の饗宴にあずかり呂布酩酊の頃、王允は「将軍に余興をお見せします」と、貂蝉と二人の侍女を呼び寄せ呂布の前で舞を舞わせます。
 貂蝉の光り輝く美貌と天女のような見事な舞に、呂布は我を忘れてしまいます。頃合を見計らって王允は、「将軍。真ん中で舞っているのは、娘の貂蝉です。あれも年頃なのでどなたかにと思っておりました。もし気に入っていただけたのでしたら、天下の将軍の妾(しょう・呂布は既婚者)にしていただければこれに勝る名誉はございません」。そう言って貂蝉を、呂布に引き合わせます。
 すっかり貂蝉のとりこになってしまった呂布に否やのあろうはずもなく、その場で輿入れの日にちまで決まりました。呂布は天にも昇る心地で王允の館を後にします。

 王允の計はこれだけにとどまりません。次は最終ターゲットである董卓をこの計に巻き込む番です。王允は同じく董卓を自邸に招き、同じ方法で貂蝉を引き合わせます。そして王允は言います。「天下の相国(しょうこく・董卓の称号)たるあなたに妾としてもらっていただけるのなら、親娘にとってこれ以上の幸せはございません。早速今夜にでも娘をお連れください」。
 こうして貂蝉はその夜のうちに、董卓の大邸宅に輿入れすることになりました。

 呂布は、約束の期日が過ぎても何の連絡もないので、怒って王允を詰問します。王允は、董卓から「呂布を呼んでおきながら、なぜわしを招待せぬ」と言われ仕方なく招待したところ、たまたま給仕に出た貂蝉を見初め強引に連れ帰ったのだと弁明します。ここで呂布に董卓への疑念が芽生えます。
 呂布が董卓の館に赴くと、果して貂蝉がいるではありませんか。貂蝉はさも呂布に想いがあるような秋波を送ってよこします。呂布は怒りと嫉妬で気も狂わんばかりでした。
 董卓不在のある日、呂布は鳳儀亭という美麗な庭園の離れに貂蝉を呼び出し、問いただしました。貂蝉は、「嫌々ながら相国に連れてこられましたが、今も将軍をお慕いしています」と言うなり泣きくずれてしまいます。
 その後董卓不在の折り、二人はここで密会を重ねていきます。

 それはやがて董卓の知るところとなり激怒しますが、腹臣の李儒の進言により、貂蝉を呂布の元に送ることを呂布に伝えます。その経緯を貂蝉に告げると、「乱暴者の呂布の元に送られるくらいなら、この場で死にます」と言われ、董卓は思いとどまります。
 約束を違えた董卓に、呂布は怒り心頭です。王允に相談したところ、この際相国を亡き者にすることで、将軍が変わって天下を掌握できるし貂蝉も得られるし、一挙両得だと奨められ、呂布も董卓殺害を決心するに至ります。

 決行の日取りも決まり、それに加わる若干名の有志への説得も終わりました。時に192年4月、その頃まで病に臥せっていた献帝の病が癒え、その快気祝いが催されました。宮中に参内した董卓は、義子の呂布の手によって殺害されました。
 こうして貂蝉という絶世の美女を巡る争いによって、董卓の恐怖政治は終わりを告げることになったのです。
 その後事態は王允が思い描いたとおりにはならず、首都長安は大混乱に陥り王允自身も命を落とします。「美女連環の計」で最大の恩恵をこうむったのは、三国志中の大スターである曹操でした。董卓という稀代の梟雄が除かれたことで、曹操覇道の条件が整ったのです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

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呂布と貂蝉(1)

 映画『レッドクリフ』が今月1日に日本で公開されるや、やはり記録的大好評で、既に総入場者数150万人を突破したそうです。これは3、4日前のテレビCMによるものですから、この数は更に増え続けているに違いありません。映画通ならぬ私には分かりませんが、この数字は、過去に我が国で公開された無数の映画の中でも未曾有の数字なのではないでしょうか。
 おかげ様で、当ブログの『レッドクリフ&三国志』シリーズも好評で、「検索フレーズランキング」を御覧になってお分かりのとおり、今でも同記事へのアクセスが引きもきらない状態です。

 その中で、諸葛孔明や周諭と並んで、「呂布(りょふ)」の検索が多かったのには驚きました。確かに呂布は、三国志の前半途中で姿を消してしまうものの、戦乱の後漢末期にあって抜群の武勇を誇り、三国志物語ではあの関羽、張飛、趙雲などを押さえて最強の武将として描かれています。
 190年曹操ら若い群雄が組織した反董卓軍との「虎牢関の戦い」では、希代の名馬・赤兎馬(せきとば)に跨り先ず張飛と互角の打ち合いをし、続いてその加勢に入った関羽、劉備という三国志中の大スターたちに囲まれながら、なお持ちこたえたというのですから、その強さのほどが覗えます。(後世に言う「三英戦呂布」)

 そのような華々しい武勇と共に、智謀には疎く、利によって反覆をくり返した「裏切りの武将」という甚だ人間くさい面も、『三国志演義』を彩る個性として際立った存在感を放っている要因です。
 私はまだ『レッドクリフ』を観ていませんので分かりませんが、その中で呂布と(中国四大美人の一人と讃えられた)貂蝉(ちょうせん)とのロマンスも取り上げられているはずです。そのことも呂布に関心を寄せる人が多い理由なのかもしれません。
 という訳で、今回『レッドクリフ&三国志』の番外編として、『呂布と貂蝉』を載せることと致しました。(映画とはストーリーが違うかもしれませんが、ご了承ください。)
                         *
 呂布(りょふ、ピンインまたはリュイブゥー。生年不詳~198年)は後漢末期の武将にして群雄の一人。字(あざな)は奉先。五原郡九原県(現在の内モンゴル自治区)生まれ。
 『三国志』において呂布は、井州刺史の丁原の側近武将として登場します。189年の霊帝死後の動乱の中、丁原と共に首都洛陽に入りますが、その頃台頭しつつあった董卓の主従離間の計により主であり義父でもあった丁原を殺し、そのまま董卓の側近として仕えます。
 
 董卓は呂布を養子にするほどの信愛を示し、その下で呂布はどんどん栄達し都亭侯に封じられるまでになりました。董卓もまた強大な権力を掌握していきます。
 董卓は西の辺境出身の有能な武将で、親分肌の統率力をそなえた人物でした。一方、農民を皆殺しにしたり、洛陽に入ってから富裕を襲って金品を略奪したり、捕虜の舌を抜き目をえぐった上で熱湯に入れて苦しむさまをみながら平然と酒を呑むなど、残虐な性格でもありました。また一度決まった新帝を廃し陳留王(後の献帝)を帝位に就かせたり、強引に洛陽から長安に遷都したりと、悪政、暴政ぶりが人心の憤りを買っていくことになります。
 しかし董卓を護衛する呂布の存在を恐れて、誰一人意見する者さえいませんでした。
  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)      

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「七五三」と「三五七」

    母が子の歩みに合わせ七五三   (拙句)

 きょう11月15日は「七五三」の日です。めったに見かけませんが、それでもたまにこの日に街中で、母と子が手をつないで歩いている姿を見かけることがあります。母も着物で正装、子も特に女の子の場合はきれいな着物で着飾っているので、『あヽ七五三だな』とすぐ分かります。そうしてこれからお宮参りに向うのでしょう。
 冒頭の拙句は、何年か前にそんな母娘の姿を見かけて、微笑ましくなって詠んだものです。

 「七五三」は7歳、5歳、3歳の子供の成長を祝い、男の子は5歳、女の子は3歳と7歳で、神社や寺に詣でる年中行事です。現在では全国で行われていますが、元々は関東圏における地方風俗だったのが全国に広まったもののようです。
 昔は今と違い乳幼児の生存率がとても低く、3歳まで生きるのでも大変だったようです。まして5歳、7歳となるとなおのこと。そこで7歳までは子供は人間ではなく、神様からの預りものという認識を抱くようになりました。子供が無事7歳を越えてくれれば、後はほっと一安心と言うわけです。七五三というお祝いの文化は、このような考えをもとに生まれたもののようです。

 昔は、7歳まで成長できた子供はお祝いをした後、氏神様(自分が住んでいる所を守ってくれる神社の神様)にお参りし、氏子札をもらいました。氏子札をもらって初めて人格として認められ、地域社会の仲間入りを果たすことが出来るという考え方があったようです。
 それに「なぜ七五三か?」と言えば、中国そして日本では奇数を「陽数」といって縁起のいい数という考え方があったためです。元旦や桃の節句、端午の節句など奇数の重なる日に特別のお祝いをするのもこの考え方によるものです。
 そして「七五三の祝い」はもともと公家や武家の文化だったものが、江戸時代から大衆文化にまで広がりました。
                        *
 ところで、「七五三」であってなぜ「三五七」ではないのでしょう?「長幼の序からいって上の子を立てて七五三にしたんだろ」。確かに一理あります。あるいはそのとおりかもしれません。
 話は本来の七五三から大きく逸脱、飛躍しますが。神道系のある説によると、今の世の天地律そのものが「七五三」の律動(リズム)なのだそうです。しかし本来は「三五七」が「正律」なのであって、七五三は「逆律」つまり本来の天地のリズムとは真逆なのだと言うのです。

 本来の根本律が180度引っ繰り返っている以上、世が進めば進むほどそれに準拠している政治、経済、宗教、教育、文化などすべてにおいて混迷を深め行き詰まるのは理の当然だと言うのです。
 これを根本から正すには、本来の「三五七」のリズムに戻さなければならない。そのため我が国では幕末、明治から、そのための「立て替え」「立て直し」が徐々に進行してきた。そして近未来「世の大峠(おおとうげ)」を迎えることにより、逆律から正律への切り替えが為され、天地のリズムは三五七になるだろう、と言うのです。

 私はこの説が正しいかどうかの判断基準を持ちません。しかし気になるのは、今から20余年前から世界中の心ある人々の間で、(現時点の)後数年以内の「ある年ある月ある日」が密かに注目されていることです。
 その時が「世の大峠」の切り替えの時なのかどうか。よくは分かりません。しかし私は『今の世の中の激変からして、ひょっとしたら有り得るのではないだろうか?』と、その日を注目しながら、現在自分に出来る備えをしておいた方がいいかもしれない、そう考えております。

 (大場光太郎・記)

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魂の映る菊見とは?

    たましひのしずかにうつる菊見かな   飯田蛇笏

   …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 飯田蛇笏(いいだ・だこつ)。明治18年、山梨県五成村(現境川村)生まれ。早稲田大学英文科中退。大学時代、詩や小説に熱中し「俳壇散心」に参加する。虚子の俳壇復帰とともに「ホトトギス」に投句。大正6年、俳誌「キララ」を「雲母」と改称主宰、虚子に次ぐ俳壇の巨匠となり、西島麦南、中川宋源などの俊秀を育てた。『山響集』『雪峡』『家郷の霧』『椿花集』などの句集がある。評論、随筆も多い。昭和37年没。没後制定された「蛇笏賞」は、俳句における最高の賞である。(平井照敏編・講談社学芸文庫『現代の俳句』略歴より)

 先日2回に渡り私の郷里の「菊祭り」の思い出そして現在のようすなどをご紹介致しました。それをまとめている過程でふと浮かんだのが、この句です。
 同記事で述べましたとおり、我が小学校の校庭が菊花展の会場となり、そのつど出展者が丹精込めて育てた大輪の菊花を、子供ながらに驚きながら見て回ったこともお伝え致しました。
 しかし私のような凡人は、その時も今この年になっても、それがいくら美しく見事であってもやはり菊は外見どおりの菊です。そして菊を見て作る句はといえば、だいぶ前に作った、
    携帯を耳に当てつつ菊見かな   (拙句)
くらいなものです。

 それに比べて(いえ本当は次元が違いすぎて比べることなど出来ないのです)、蛇笏の例句の見事さは何ということでしょう。菊を見て「たましひのしずかにうつる」とは、恐るべき慧眼です。(本当に申し訳ありませんが)引用の拙句は、ただの状況説明的な「外観」の凡句。翻って蛇笏の句は、菊の外形の奥に在るものを深く透かし見た「真の写生句」ないしは「内観」の名句です。

 我が国古神道(こしんとう)の伝統的行法に、「鎮魂法」という秘伝があるそうです。いわゆる「御魂鎮め(みたましずめ)の法」です。特にこのような一子相伝的行法が秘密裏に伝えられていたということは、常人、凡人の心はそれこそ「コロコロ」と絶えず落ち着きなく動き回り、それを静めるのがいかに困難であるかということだと思われます。
 しかしこの句を詠んだ時の蛇笏は、鎮魂法に見られるような、まさに明鏡止水の心境だったのではないでしょうか?
 (大場光太郎・記) 

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定額給付金をめぐって

 現政権は今「定額給付金問題」で四苦八苦です。
 10月30日の現下の金融危機を踏まえた総理会見で、麻生総理の肝入りで発表されたものでした。しかし総理の「全所帯一律支給」との方針にも関わらず、その直後から給付対象者をめぐって、お足もとの閣僚から「高額所得者への支給はいかがなものか?」という異論が出され、麻生総理も「言われてみれば確かに」とばかりに当初の見解をひるがえし。かと思うと今度は、違う閣僚らから「いや。やっぱり支給は全所帯公平にすべきだ」との反論があり、内閣発足後1ヶ月余という短期間に早々と閣内不一致が一気に表面化してしまいました。

 これを「それ。格好の、おいしい政治ネタだ」とばかりに、各マスコミが首相の二転、三転ぶりを連日報道したものだから、国民の関心がいやが上にも高まり、今や同問題の裏側まで広く知られることになりました。ここに到ってさすがに、『この問題をいつまでも未解決のままづるづる引っ張ってはいけない』と思ったのか、政府並びに与党間の協議でつい先日一応の統一見解を出しました。
 「給付の所得制限は1800万円。ただし同制限の設定は市区町村の裁量に委ねる」こと。「給付金は一人当たり12,000円とする(19歳未満と65歳以上は20,000円)」こと。「08年度内の実施に向けて制度の詳細を検討する」こと等々。これで一件落着かと思いきや、今度は自主裁量という名目の丸投げをされた各自治体が、これに噛みつきました。「この問題でのシステム変更に膨大な経費がかかる」「受給者が窓口に殺到することになるが、現職員数ではとても対応しきれない。かと言って、個人情報保護の観点からアルバイトなどは雇えないし…」等々、こちらは「ただでさえ大変なのに、変な難題押しつけないでよ」と不満たらたらです。
 それに08年度内支給のはずが、今国会では審議すら出来ず、来年冒頭の通常国会からになるよし。そこでも野党の猛反対が予想され、早くも同制度の年度内運用が危ぶまれています。

 一体全体この給付金制度は、政府の意図がどこにあるのかよく分かりません。先の見えない金融危機下での、「低所得者支援」なのか「景気浮揚策」なのか…。『あわよくばその両方とも』という意図があったのかもしれません。丸投げされた各自治体の多くは、どうせ面倒な高額所得者制限などは実施せず一律給付だろうし、まず低所得者支援の目的を失います。次に景気浮揚にしても、試算によると同給付金によるGDPの押し上げ効果は、たったの0.1%に過ぎないそうです。まるで効果なしということです。「同じ2兆円をつぎ込むんだったら、公共事業投資の方がずっと効果があったのに」と、自民党内から禁句も飛び出す始末です。

 そもそも今回の政策(と、大見得きって呼べるのでしょうか?)は、元をただせば福田内閣の時の、公明党からの「定額減税要求」が形を変えたものだったようです。以前小渕内閣の時の、悪評高い「地域振興券」も公明党が旗振り役でした。総選挙を間近に控えて、同党の集票マシーンである中低所得者が多い創価学会員への配慮が、そもそもの発端なのです。一つは学会票欲しさ、もう一つは一般有権者への選挙目当ての餌まき。麻生総理ら現政権の、真の狙いがここにあったことは明らかです。(こんな政教一致政党に、いつまでも与党の一角を占めさせておいていいのか?という問題はさておき。公明党支持の皆様、もしこれを御覧ならごめんなさい。でも政権与党ならこれくらいの批判は当然ですから、あしからず。)
 この問題について、最近国民新党の(元警察官僚だった)亀井静香代表代行が面白い見解を延べました。曰く、「(定額給付金は)国家権力による壮大な選挙買収事件だ。東京地検特捜部は(麻生総理を)検挙して、捕まえたらいい」。
 ことほど左様にこの問題は各方面に飛び火し、まだまだ収拾がつきそうにありません。

 よく考えてみれば、現下の世界的大金融危機の中、定額給付金などは取るに足らない問題のはずです。この先行き不透明な情勢を打開するために、やらなければならないことは他に山ほどあるでしょうに。なのに麻生総理を初めとする政府与党の、この問題へのブレぶり、周章狼狽ぶりはどうしたことなのでしょう。すべては、麻生総理がしっかりと基本方針を固めずに見切り発車的発表をしてしまったことと、総理の指導力欠如が招いた問題です。
 私は既に表明していますとおり、あの小泉元首相を当時も今も評価しておりません。しかし小泉氏がもし今回の問題を扱っていたとしたらどうだったでしょう?マスコミに弱みを握らせることになる閣内の異論を、表ざたになる前に有無を言わさず黙らせたことでしょう。そして出来るだけ間を置かずに、今国会中に制度の了承を取り付け、早速今年中にも各所帯支給実施となっていたかもしれません。
 
 とにかく国家として、こんな問題にいつまでも振り回されていてはいけないのです。麻生総理。仮にもっと大変な事態が発生したら、一国のトップリーダーとして、一体あなたはどう対応してくれるのですか?
 (大場光太郎・記) 

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桐一葉

    桐一葉日当たりながら落ちにけり   高浜虚子

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 「桐一葉落ちにけり」というごくありふれた秋の情景に、「日当たりながら」という第二句を得たことで、秀逸な句になりました。それによって、秋の日を浴びながらゆらゆら落ちつつある桐の一葉の、侘しくも哀しいさまが絵画的、視覚的に浮かび上がってきます。秋日差しがちょうどスポットライトの働きをして、桐の葉が枝から離れて地面に落ちるまでが、まるでスローモーションのようにたどれそうです。

 毎度申しますが、詩なかんずくわずか十七音の俳句にあっては、「日当たりながら」のような発見が絶えず求められます。そうでなければ、世界一の短詩ゆえ、作る俳句が皆々前の誰かの類句や模倣句になってしまう危険性を常にはらんでいるのです。
 それには、詠みつつある季節的事物に向けられた、研ぎ澄まされた観察力、鋭敏な感性、豊かな想像力が俳人には必要ということなのでしょう。逆にその資質さえあれば、この句のようにごく日常的な場面から、俳句という「詩の真実」はいくらでも無尽蔵に汲み取れるということです。

 さてそれでは子規や虚子といった、近代文学でも名だたる俳人たちが詠んだ句のすべてが、新鮮でみずみずしい発見の句ばかりだったのだろうか?そうなるといささか疑問です。
 例えば例句の作者・高浜虚子は、若い頃正岡子規に師事してから没するまで、生涯25万句くらいの句を残しています。その句数たるや古今の俳人の中でも、ダントツでしょう。ではその膨大な句のすべてが秀句かというと、私は正直そうは思えません。虚子は自身が作った膨大な句の中から、「五百句」「千句」というように自選の句を選んでいます。私などが大先人のその自選句を読んでさえ、今一つピンとこない句があるくらいです。

 また私が中学3年の頃、郷里の町立図書館に、「子規全集」という全部で二十巻くらいの全集が揃っていて、その何巻かを試しにパラパラとめくってみたことがあります。俳句、短歌、評論、随筆などに分かれていました。俳句だけでも何巻にも及び、子規が生涯に作った俳句はほぼすべて網羅しているようでした。そのうち例えば「へちま」を題材にした句だけでも、ズラッと百も二百も続くのです。
 中には子規自身が「近代俳句」を創始するに当たって、試作的、実験的に作ったような句もあったでしょう。その結果大半は、俳句の「はの字」も知らない当時の私でさえ、『何だ、この句は』というようなものでした。

 俳句の巨匠たちですらそうなのです。これは裏を返せば、日常「俳句的な場面」に出会うことがいかに難しいかということです。また仮に出会ったとしても、それを瞬間的に捉える心構えなり感性なりが、その時の俳人にあったかどうかという問題にもなります。
 こうしてみると、一つの秀句、名句が生まれるためには、数多くの捨て駒のような凡句がなければならないということかもしれません。私などとても真似出来ませんが、とにかく「うまずたゆまず句作する人」こそが、真の名句を生み出せる人なのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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リルケ『秋』

     秋   
            リルケ

  葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
  大空の遠い園が枯れるやうに、
  物を否定する身振で落ちる。

  さうして重い地は夜々に
  あらゆる星の中から寂寥(せきりょう)へ落ちる。

  我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
  他を御覧。総てに落下がある。

  しかし一人ゐる、この落下を
  限(かぎり)なくやさしく支へる者が。

               (茅野蕭々訳)
 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 リルケ(1875年~1926年)の詩の中でも、最も好きな詩の一つです。
 これは西洋の詩でありながら、漢詩の決まりの一つである「起→承→転→結」を踏んでいる、見事な四聯詩であるように思われます。

 ご存知のとおり「秋」は英語では「autumn」ですが、米国では「fall」という呼び方が一般的です。秋=fall=落下。もの皆が落下する季節。まさにこの詩は「落下」がテーマであるようです。先ず第一聯で具体的に木の葉の落下のさまが描かれています。

 「大空の遠い園」とは何処(どこ)の園なのでしょう?リルケにとってそれは、キリスト教的「天国の園」がイメージされていたに違いありません。しかし天国にある園でさえも、落下という「衰」や「枯」を免れないのでしょうか。なにやら、仏教の「天人五衰(てんにんごすい)」が思い起こされます。

 第二、三聯において、肉眼を超えたリルケの心眼は、「落下」は独り木の葉のみにとどまらず、我々が拠(よ)って立つこの「重い地(大地)」さえ「寂寥」に落下すると観照するのです。大地さえ落下するのであれば、我々だってどうして落下を免れることができるでしょう。

 「重/軽」などの二元性は、この3次元相対物質世界の特質です。そもそも「物」には総て「重さ、質量」が伴います。いえ実は「物は物に非ず」(物質の究極は質量を有しないエネルギー)で、本当は重量などないはずです。それを「重い」と感受しているのは、私たちの五官(触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の五つの感覚器官)の錯覚なのです。

 たとえ錯覚であろうが何であろうが、物を物と見、それに重さを感受せざるを得ない以上、重い物は総て落下するのが、物理法則です。だから木の葉でも何でも、この我々自身ですら、落下(別の言い方をすれば、栄枯盛衰、変化変滅)を免れないわけです。

 しかし第四聯で、リルケは謳います。ただ一人、その落下を免れ、かつ万物の落下をやさしく両手で支えている者がいると。それは一体どなたなのでしょう?
 リルケにとって、それは言うまでもなく主なるイエス・キリストであり、「神」と呼ばれる究極的実在であるわけです。

 それにしても、「限りなくやさしく支える」という表現は良いですよね。
 神という途方もなく大きく遠い存在は、実はとても身近な、至慈至愛の存在でもあるようです。

 (大場光太郎・記)

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おめでとう日本一! 西武ライオンズ!!

 今年のプロ野球日本シリーズは、4勝3敗で西武ライオンズが4年ぶり13度目の日本一に輝きました。昨季は26年ぶりに屈辱のBクラスの5位に沈んだチームを、就任一年目の渡辺久信監督(43)が一気に頂点へと導きました。
 スポーツキャスターの江川卓氏が「うるぐす」で、ゲスト出演した渡辺監督以下に向って「歴史的な日本シリーズでした」と言っておりました。今改めて、第7戦までを振り返ると確かにそう実感する好試合が続きました。

 しかし、今年の日本シリーズが巨人vs西武と決まって、正直私は『日本一は巨人だろうな』と思っておりました。だから『今年のシリーズはつまんないだろうな』とも。直前に来春のWBC監督に原巨人軍監督が内定したのも、シリーズで巨人を勝たせたいがための陰謀では?と、アンチ巨人の私はそんな穿った見方もしていました。(巨人ファンの皆様。大変申し訳ありません)
 ですから、もう結果はやる前から決まっているとばかりに、例年ならシリーズだけは毎試合テレビ観戦するのに、今年に限ってはほとんど見ず、後でニュースなどでその日の結果を知るくらいなものでした。

 そんな私が『ん。ひょつとしたら、ひょっとするぞ』と思い始めたのは、本拠地で王手をかけられた西武が、敵地東京ドームでの第6戦に勝って逆王手をかけた時です。だから最終戦の第7戦は、初回からテレビで初めて見てみました。
 しかし初回の西武の攻撃で、俊足の片岡が3番中島のショートゴロでホームに突っ込みタッチアウト。方やその裏の巨人の攻撃では、ピッチャー西口のワイルドピッチでみすみす大切な先制点を献上…。どうも西武にとって嫌な流れでした。そこでテレビ観戦を止め、以後中盤までは時々ラジオをつけ戦況を確認する程度。結果巨人の2-1。今年の巨人の中継ぎ陣の出来の良さからして、『こりゃ、西武の逆転はないだろう。巨人の勝ちで決まりだな』と、その後は試合から遠ざかりました。

 ようやく11時過ぎ結果が気になり、「Yahooプロ野球」を開いてみました。その結果、びっくりです。何とタイトルが、「西武が日本一!渡辺監督1年目で頂点 日本シリーズ」とあるではありませんか!
 その後のスポーツニュースなどで見てみると。1点を追いかける8回に片岡がデットボールでガッツポーズをしながら出塁。すかさず二塁に盗塁し、栗山の送りバントで三塁へ。続く中島のサードゴロで、片岡は判断良くホームに突っ込み、ノーヒットで同点。さらに2四球で走者をためると、今シリーズ男の平尾がセンターにタイムリーを放ち勝ち越し。
 投げては先発西口を2回であきらめ、以後は石井一、涌井、星野そして最終回はグラマンが巨人打線を完璧に抑えてゲームセット。
 こうして西武ライオンズの勝利。本当に野球は「筋書きのないドラマ」です。

 しかしこんな凄い日本シリーズを演出してくれてのは、渡辺久信監督です。実は私は昨年のシーズン終了後、Bクラス転落の責任を取って辞任した伊東監督に変わって就任したのが、渡辺久信と聞いて『えっ。まさか』と思いました。彼は確かに西口や松坂の前の西武のエースではありました。現役時代は今よりスリムで、長身から投げ込む向う気の強そうな速球派ピッチャーでもありました。
 『しかしまさか、渡辺久が監督とは』。例の堤オーナーの一件以来西武球団は血迷っているんじゃないの?そう思いました。だがこれは私の完全な思い違いだったようです。いざ今シーズンがスタートしてみると、西武は予想外の快進撃。あれよあれよという間に、パリーグを制覇し、そしてこの度の巨人を破っての価値ある日本一。渡辺久を監督に選んだ、球団首脳の眼力に狂いはなかったわけです。

 それにしても。渡辺久信は、いつ監督学を身につけたのだろうか。現役時代常勝森元監督の下で、密かに学んだのだろうか。彼自身元々リーダーシップある男だったのだろうか。いずれもそうだったのかもしれません。
 しかし少し彼の経歴を調べて、『なるほど、これだな』と思い当たることがありました。それは西武からヤクルトに移った彼が、同球団から戦力外通告を受け、翌99年から日本を離れ台湾某球団のコーチとして3年間を台湾で過ごしたことです。失意と反骨心から、「どうせ日本の監督にはなれないだろうから、北京五輪で中国代表コーチになって日本代表を打ち負かしたい」との決意を胸に、海を渡ったそうです。
 「艱難汝を玉にす」。言葉もまるで通じない異国での経験から、指導者としての基礎と忍耐を学んだのでしょう。その苛酷な経験こそが、長期低落傾向に歯止めがかからなくなっていた西武ライオンズを見事蘇生させ、監督就任一年目での日本一達成という大偉業の原動力になったのではないでしょうか。

 渡辺監督という青年監督の下、西武ライオンズは見事に息を吹き返しました。指導者も若ければ、選手層も若い。西武はなにやら、第何期かの黄金時代を創りつつあるかのような予感すらしてきます。心よりそれを期待したいものです。
 おめでとう、西武ライオンズ! そして渡辺監督!
 (大場光太郎・記) 

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続・菊祭りの思い出

 11月3日・文化の日に、郷里の町の菊祭りの思い出を記事にしました。同記事をまとめながら、『今はどうなってるんだろう?もうやってないんだろうか?』と気になりました。
 「去る者日々に疎し」で、故郷を離れて40年余にもなりますと、郷里の行事のことなどはとんと分からなくなります。そこで最近は何でもネット検索が一番手っ取り早いので、「南陽市 菊祭り」で検索してみました。
 するとやっぱり出てきました。それもかなりの件数です。そのトップ面一番上のずばり『南陽の菊まつり』という見出しがありましたので、それを開いてみました。それはどうやら南陽市役所商工観光課による紹介ページのようです。その主な個所を以下にご紹介致します。

 第96回南陽の菊まつり
  全国一の歴史と技と文化を誇る南陽の菊まつりが、下記の日時で開催されます。
  ○会期:08年10月10日(金)~11月9日(日)
  ○会場:南陽市宮内「双松(そうしょう)公園」
  ○菊人形場面:「義と愛の将 上杉謙信と直江兼続」
  ○菊花展:第95回南陽市菊花大会(約1,500鉢の菊花展)
  ○その他:ビューティー花壇切花装飾花壇
     (以下、同まつり別ページ)
  この南陽の菊まつりは、全国から観光客が訪れる一大イベントで山形の秋の風物詩の一つになっています。菊まつりは、場面ごとに展示される菊人形と、会場内に開設される菊花展で構成されており、菊の花が所狭しと飾られています。
 なお、11月3日(文化の日)には菊まつり会場周辺で菊と市民のカーニバル(仮装パレード)が行われます。(中略)
 “南陽の菊”つくりの歴史は、上杉時代(17世紀初期)からはじまり、明治末期から大正にかけて“菊”の風格を慕う人々が増え、はじめての菊人形が大正元年に飾られ、翌大正2年に第1回の菊品評会が開かれました。長い菊つくりの伝統に支えられ、昭和62年に、この“菊”が南陽市の「市の花」に制定され、かおり高い文化のまちづくりのシンボルになっています。(同ページは以下をクリックのこと)
    http://www.city.nanyo.yamagata.jp/007/kiku/index.htm
     http://www.city.nanyo.yamagata.jp/007/seeing/kiku/index.htm

 少々長い引用でしたが、昔より更にグレードアップして今も続いていたわけです。
 中には、東北各県と北海道在住の何人もの有志による素晴らしいブログで、そのうちの山形在住のメンバーによる「<山形県 南陽市>菊まつりに行ってきました」という報告記事もありました。今年の菊人形展や菊花展のもようを、臨場感溢れる写真と文章で紹介したものです。(「花さんぽブログ」は以下をクリックのこと)
    http://kita.hibiyakadan.com/page.jsp?id=457865

 これらから我が郷里の町の、今現在の「菊まつり」の全貌がだいぶ分かってきました。子供時代は、ただワクワクしながら菊人形展を見て回るだけで、歴史的背景などはとんと無頓着でしたが、大正元年から続いてきた伝統あるお祭りだったわけです。
 それに「全国一の歴史と技と文化を誇る南陽の菊まつり」とありますが、そう言えば昭和43年に関東に来て以来、全国のどこかでそれに類した菊人形展があるとは余り聞いたことがありません。それは我が宮内町独自のものだったのでしょうか?

 そして期間は、2週間くらいという私の記憶は誤りで、10月の体育の日頃からほぼ一ヶ月間という長期に亘る行事だったわけです。今改めて思いますに、『そういえば、確かにそのくらいの期間続いていたかなあ』とも思います。
 私の子供の頃との一番の違いは、菊人形展も菊花展も、会場が現在では双松公園に移されていることです。同公園は、熊野神社の東側(我が宮内小学校の反対側)の道路を何百メートルか行った所に入り口があります。公園全体が小高い山で、当時から町民の憩いの場で私もよくそこを登って遊びに行きました。全山に桜の木があり、時期には満開の花が楽しめます。登りきった辺りの大広場を会場にしているようです。その辺からは、街全体や遠く置賜平野が一望されます。

 写真を見ると、今はもう小屋ではなく、広場にオープンセットでシーンごとに建物などの背景を作り、そこに各人形を配する形式のようです。よく見ると、建物などは手の込んだ豪華なセットで、かなりお金もつぎ込んでいるようです。「これで町起こしを!」という市当局の意気込みが伝わってきます。
 私としては、子供時代の昔ながらの小屋形式の菊人形展にノスタルジアを感じます。しかしそれはそれとして。今後ちょうどその時期に帰省する機会があれば、是非今の菊まつりをじっくり観てみたいものです。
 (大場光太郎・記)

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フォーマルハウト(北落師門)

  今宵 南の空の中ほどに
  ただひとり
  しかも気高く
  フォーマルハウトは輝けリ

  そが玲瓏(れいろう)なる面(おも)は
  秋の日の 侘(わび)しさを
  そのままに

  汝(な)れは
  遠く聖なるものながら
  孤高の冷たさを 感じさせない
  人間界のささやかな生業(なりわい)をも
  ただ見つめている
  微笑(ほほえ)む如くに

  げにも 貧しきこの我でさえ
  汝れへの心からの凝視に耐ええる

     (昭和42年11月作―大場光太郎)

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
 
《注記》
 フォーマルハウト(Fomalhaut)は、みなみのうお座にある、視等級1.16等の恒星です。太陽を除けば、地球から見て17番目に明るい星です。地球からは25.1光年離れており、比較的近距離の恒星といえます。
 
 フォーマルハウトという名前は、アラビア語のフム・アル・フート(Fam al-Hut)に由来し、これは「魚の口」という意味です。その名のとおりフォーマルハウトは、みなみのうお座の口にあたる場所に位置しております。紀元前2500年頃から、ペルシャではフォーマルハウトは、アンタレス、アルデバラン、レグルスと並んで、ロイヤル・スター(王家の星)の一つとされてきました。
 中国では「北落師門(ほくらくしもん)」と呼ばれています。「北落」は「北の垣根」、「師門」は「軍隊の門」という意味です。これは、中国の星座では、夏と秋の星座が「北方」とされたことによります。長安の城の北門は、これにちなんで「北落門」と呼ばれました。

 秋の宵に北半球で夜空を眺めると、南の空高くに夏の名残りとして、夏の大三角形を構成するベガ、デネブ、アルタイルの3つの一等星があるものの、南の空低くには明るい星が少なく、フォーマルハウトだけがポツンと光っているように見えます。
 ここから日本ではフォーマルハウトは、「秋の一つ星」や「南の一つ星」と呼ばれました。(フリー百科事典『ウィキペディア』-「フォーマルハウト」の項より)

 私がこの星を知ったのは、この詩を作る直前の高校2年の秋頃です。その頃星と宇宙の神秘に興味を抱き、天文図鑑や宇宙論などの本を少し読みかじりました。そしてたまたまこの星の記述を見つけ、フォーマルハウトという呼び名の美しさ、また中国名の北落師門という名の響きにも魅了され、我が乏しい詩想が刺激され作った詩です。 

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筑紫哲也氏をしのぶ

 昨11月7日午後1時50分、ジャーナリストの筑紫哲也氏が肺がんのため都内の病院で亡くなりました。享年73歳。謹んで哀悼の意を表したいと存じます。
                       *
 筑紫哲也(以下、広く知られた人であるため敬称略)は、1935年6月23日大分県日田市生まれ。早稲田大学政経学部卒業。1959年~1984年朝日新聞記者。1984年~1987年「朝日ジャーナル」編集長。1989年~2008年『筑紫哲也NEWS23』メーンキャスター。早稲田大学大学院経営研究科客員教授。立命館大学客員教授。著書『筑紫哲也のこの「くに」のゆくえ』など。

 私が氏の訃報に接して真っ先に思い浮かんだのは、『これで本当の意味での言論人が、いなくなっのかなあ』ということです。
 筑紫哲也は、とにかく見事なほどその言論にブレのない人でした。例えば、あの小泉政権下それが長期政権になればなるほど、「郵政選挙報道」に見られたように、多くのジャーナリズムやジャーナリストが大政翼賛的に同政権にすり寄っていきました。しかしそんな中筑紫哲也は、最後までそのリベラル、反権力の姿勢を崩すことがありませんでした。時に鋭い言説を放ち、権力へのチェック機能としての言論人のあり方を貫きました。これは言うは易く行なうは難しで、いくらジャーナリストと言えど、わが身が可愛いわけだし、それで長くメシを食っていこうとするなら、時に権力的なものにヨイショもしたくなるでしょうに。ただただ立派というしかありません。

 世に筑紫哲也が広く知られるようになったのは、TBSの夜の報道番組「NEWS23」のメーンキャスターになってからでした。そのような形式の先駆けとなった、テレビ朝日の久米宏の「ニュースステーション」に対抗する形で発足した番組でした。
 久米と筑紫では、経歴も個性も違いそれぞれの特長を出し合って、その後の報道番組のあり方に強い影響を及ぼすことになりました。久米も筑紫も共に早稲田大学出身。そのためなのか、共にリベラル、反権力というあり方では共通していました。早稲田の自由な校風、気風がしのばれます。
 
 始めたのも久米宏が早く、そして報道番組から去っていくのも久米の方が先でした。その後筑紫哲也一人が、「言論の良心の砦」をただ独りで護る形が以後続きました。私は筑紫は、ガンに侵されているのが分かり同番組を降板するまで、「言論の自由」という孤塁をよく護り切ったと思います。
 筑紫哲也の「NEWS23」をどれだけの人が、視聴していたのかは知りません。が、私は筑紫が、一貫して自分の言葉で視聴者にニュースを伝えていた姿に感銘を覚えます。特に主なニュースが一段落した後の、筑紫の総括とも言える「多事争論」が好きでした。筑紫の自分の言葉、肉声で、その時々のテーマについて視聴者に率直に伝えていこうという真摯さが伝わってきました。その言説に、『あヽこんな視点、こんな切り口があったのか』と、何度ハッとさせられたか分かりません。

 筑紫哲也ほどのジャーナリストが今後出てくるのだろうか?是非是非出てきてもらいたい、という思いでいっぱいです。しかし今は、筑紫哲也に「不世出の言論人」の称号を贈りたいと思います。
 (筑紫哲也氏については、今後も触れることがあるかもしれません。今回はその訃報に接し、取り急ぎまとめました。)
 (大場光太郎・記)

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けふ立冬

   立冬のうすき日洩るる部屋の壁   (拙句)

 きょう11月7日は暦の上の「立冬」です。実際の季節感では11月いっぱいは晩秋の感じですが、いずれにしても時の移ろいの早さを思わずにはおられません。本日近くの郵便局に行きましたが、既に来年の年賀ハガキが発売されており、図案によっては売りれてしまったものもあるようです。
 さて立冬のきょう当地では、雲のまばらな大快晴の一日でした。外を歩いていると少し汗ばむほどです。何やら9月中くらいの暖かい日でした。小春日和とは、このような陽気の日のことを言うのでしょうか。

 先日お伝えしましたとおり、桜の木は特に落葉が激しく(同じ桜の木でも個体差はあるものの)かなり葉を落とした木々が目立ちます。また当地では街路や公園などにケヤキの木もまま見受けられますが、ケヤキはおおむねまださほど葉を落としておらず、こんもりと全体が赤茶けた葉色になっています。そのさまは大きな箒(ほうき)を逆さに突っ立てた感じがします。

 木と言えば、つい先日の午後本厚木駅前道路を車で通りました。前に何度かお伝えしました同駅北口広場に、大きな木が何本か飛び飛びで植えられています。その一本を囲むように高い防護フェンスが張られ、外から大きな高所作業車がアームを伸ばして、枝の中ほどでその先端のワゴンに乗った作業員が、何かの作業している光景が見かけられました。
 信号待ちで停車しながら、『ん。何だろう?』と思って見ていました。そして通り過ぎてから、はたと思い出しました。同広場は例年冬の季節になると、広場の木々に無数の豆ランプを取り付け、夜通し木全体を電飾イルミネーションで輝かせるのです。それは確かクリスマスを過ぎて年末まで続きます。そのための準備作業だったわけです。
 こんなことからも、冬へと急ぐ季節の変化を感じます。

 どなたもそうでしょうが、花の中でバラはとり分け好きな花の一つです。
 家々の垣根や庭のバラは、梅雨時とりどりの華麗な花を咲かせて、その後はバッタリでした。それがこの時期、同じ所で再び咲いているのを見かけることがあるのも嬉しいことです。
 例えばとある家の庭には、丈がヒョロンと3mにもなろうかというバラの木があります。細長い茎が幾つもの束で空に向って伸びて、この時期その中ほどから天辺にかけて数輪ほど綺麗なピンクの花を咲かせているのです。見事な大輪で、いつもそれを仰ぎ見て通ります。
 前にも申しましたが。「薔薇(ばら)」は夏の季語です。私の感覚では秋に咲くバラは「秋バラ」または「秋薔薇(あきばら)」、対して冬咲くバラはなぜか「冬薔薇(ふゆそうび)」という古めかしくて美しい響きの言い方を用いたくなります。
 立冬とは申せ、こんな小春日和のバラは、「秋薔薇」なのか「冬薔薇」なのか、判断に迷うところです。
 (大場光太郎・記)

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当ブログ近況

 先日の『ご報告致します。(3)』の中で、『レッドクリフ&三国志』シリーズが大好評だったことをお伝えしました。そしてその時、今後は時々の時事的なことも折り込んで記事にしていくつもりであることも。
 今回早速その機会が訪れました。11月4日の「小室哲哉逮捕」のニュースです。これに私の心のアンテナが反応し、各方面からそれとなくそれに関する情報を収集していました。その結果まとまったのが、昨日の『小室哲哉逮捕に思うこと』です。

 今まで続いてきた『レッドクリフ』人気もさすがに下火になり、昨日は同関係のアクセスが減少していました。夕方の段階で、その日の訪問者数15人。思うように伸びていません。そこで既にまとまっていた『小室哲哉逮捕に思うこと』を、いつもは公開する時間帯ではありませんが、早めに午後5時過ぎ公開することにしました。
 これが大当たりとなりました。公開直後から同記事目当ての訪問者が激増です。午後5時24人、6時33人、7時6人(なーんだ、たった2時間でピークは過ぎたのかと思いましたら)、8時17人(とまた勢いを取り戻し、後は)、9時10人、10時12人、11時3人という訪問者の推移となりました。

 その結果、11月4日の当ブログ総訪問者数が、何と開設以来前代未聞の「120人」!!!
 我ながらびっくりの数字が出たではありませんか。振り返れば7月1日の『二木紘三のうた物語』のアクセス禁止事件の時、同愛好者の方々によるアクセスで、81人という訪問者数を記録したことがあります。私は『この数字は当分破ることはないだろうな』と思っておりました。しかし今回これをあっさり更新し、しかも当ブログとしては信じられない100人も突破ですから。私自身本当に驚愕です。

 それに6日の「検索フレーズランキング」では、8位までを同記事関係が占めております。その中でも特に目を引くのが、「堀江貴文」関係のアクセスの多さです。今回の記事の主役は「小室哲哉」のはずが、何とその関連でたまたま名前を出した堀江ライブドア元社長の方が検索件数でずっと多かったのです。
 意外な発見でした。ついこの前までの時代の寵児「ホリエモン」への、根強い関心の高さを再認識した思いです。(そのため追記として、同社長のブログも紹介したほどです。)

 また同記事に関してもう一つご報告を―。
 『小室哲哉逮捕に思うこと』は、ココフラッシュの「雑記」「日常」「日々のこと」そしてココフラッシユカテゴリーには含まれない「所感」の4カテゴリーで公開しました。いつ頃からか、一つの記事に複数のカテゴリーを選択することにしたのです。もちろん当ブログ記事がより多くの人の目に触れられるようにと考えてです。
 何と。今回同記事が本日11月6日づけランキングのディリー部門で、「雑記」「日常」「日々のこと」いずれのカテゴリーでも、堂々の第1位にランクされていたではありませんか!
 これもまた、当ブログ開設以来初の大快挙です。

 本日「時事問題」を、当ブログカテゴリーに新たに加えました(これはココフラッシュカテゴリーには無いようです)。『レッドクリフ&三国志』そして今回の『小室哲哉の逮捕に思うこと』の大成功(?)に味をしめて(笑)、今後とも時折りタイムリーな時事記事も扱っていくつもりです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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小室哲哉逮捕に思うこと

 11月4日、音楽プロデューサーの小室哲哉(49)が大阪地検に逮捕されました。トップニュースだったので既にどなたもご存知でしょうが、音楽著作権の売却を持ちかけ、兵庫県芦屋市の会社社長(48)から5億円を詐取した容疑だそうです。

 近年このような有名人による事件や逮捕劇が多いようです。2年ほど前は、ホリエモンこと堀江貴文が証券法違反容疑で逮捕されましたし、また村上ファンド代表の村上世彰もインサイダー容疑で逮捕されました。
 今回の小室容疑者もそうですが、いずれもあっという間に時代の寵児に上り詰め、そして転落して行きました。いずれの事件も、社会に与えた影響は大変大きなものがあると思いますが、私は今回の小室哲哉の場合は特にそうだと思います。

 それは彼が、音楽という国民に直接訴えかけてくる度合いの大きい芸術、芸能、文化に携わっていた人間だからです。1990年代飛ぶ鳥も落とす勢いの頃は、小室の手がけた音楽は出せば200万枚以上の売り上げを連続して記録していたそうです。安室奈美恵や華原朋美など主に女性ボーカリストの歌を軒並みメガヒットさせました。その中には、今でも結婚式によく歌われる歌もあるそうです。
 「歌は世につれ、世は歌につれ」という言い方がされます。当時音楽的カリスマだった彼の歌をよく聴いたり歌ったりした世代は、今回の逮捕をどう思うのでしょう。彼らにとって青春の懐かしい思い出に直結するであろう小室が手がけた歌の数々を、今後どのような思いで聴くのだろう。とても複雑な気持ちがするであろうことは、想像にかたくありません。
 その意味で、今回の小室の逮捕に到る一連の犯罪行為は、時代の音楽や文化全般に対する侮辱なのではないでしょうか?

 小室哲哉は、90年代後半頃全国納税者番付で2年連続4位を記録したこともあったそうです。その頃の年間所得は優に20億円以上だったとか。とにかくやることなすこと大当たりの絶頂期だったのでしょう。
 その頃でしょうか、彼は言っていたそうです。「アーティストはわがままでいいんだ。わがままが許されなければ、アーティストは本当の表現ができないんだ」。ある程度まではそうだとしても。それにしても、海外旅行の搭乗機のファーストクラスを全席押さえたり、都内の高級ホテルでスイートルームのあるフロア全部を借り切ったり等々は、財産を湯水の如く使い果たした歴史上の悪しき王侯貴族のような振る舞いだったのではないでしょうか。

 90年代前半社会全体のバブルは既に崩壊していても、小室個人のバブルはその頃なお膨らみ続けていたのでしょう。その頃彼は本当に「アーティスト」に徹する強い自覚があったのだろうか?いつの頃からかメガヒットやそれがもたらす巨利に目がくらみ、「商売人(ビジネスマン)」に変質してしまったのではないでしょうか。
 しかしこれは小室哲哉個人の特異体質というにとどまらず、芸能界や一部の音楽界がずっとバブル状態が続いていて、小室は単にその渦中で踊らされていただけなのかもしれません。その後彼は、アジアでの事業展開を狙って資本参加して香港で設立した音楽関連会社を巡る失敗などで70億円もの債務を抱え、これがその後の一落千丈の暗転のきっかけとなったようです。

 「驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し」。何やら平家物語の冒頭の一節が思い起こされてきます。とにかく今回の小室の逮捕劇で思うことは、人間虚飾・虚栄に惑わされてはダメだなということです。
 巨額詐取事件だけに、いくら上告しても5年乃至10年くらいの実刑は免れることはできないかもしれません。しかし彼は49歳とまだ若い。並の人間では到底経験することの出来ない「天国と地獄」を若くして味わい尽くせたことは、この世の善悪の尺度を超えて彼の魂の大きな財産になることでしょう。すべてが決着した暁には、今度こそ「真の我(われ)」に目覚めて、世のための有意義な働きをしていただきたい、心からそう願うばかりです。

(追記) 本文中でも引用しました、ホリエモンこと堀江貴文ライブドア元社長が、今回の小室事件についてコメントしています。興味のある方は、下記をご覧ください。
  「六本木で働いていた元社長のアメブロ」
  http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10160391144.html (←クリック) 

 (大場光太郎・記)

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暮色スケッチ

 遠くの杜(もり)で鐘が鳴っている。日暮れを告げる鐘の音(ね)は、韻々(いんいん)として物悲しい。西の山々の一峯に、大輪の日は静かに静かに落ちていった。それでもなお、辺りの空一面に、いっそうのあかね色をとどめている。薄暗く青い山々と、燃えんばかりの空との侘しい釣り合いの切れる大空の一角に、黒い影をともなった青白い三日月が、不気味に下界を見下ろしている。
 ―下界は今風ひとしきり強く、木々や足もとの草むらがさながら生きているものの様に、戦(そよ)いでいる。

   …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……  

(追記) これは昭和38年10月、私が中学2年の時に作った、作文とも散文詩ともつかぬものです。それを、昭和41年8月高校2年の時直したとあります。いずれにしても、人様にお読みいただけるような代物ではありませんが、私が残している最初の文章です。懐かしさと、当時の記念のため、今回公開させていただきました。 (大場光太郎・記)

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菊祭りの思い出

    菊人形男も女も美形なり   (拙句)

 きょう11月3日は文化の日です。この日は「晴れの特異日」として知られ、私も例年秋晴れが多かったように記憶しています。しかし今年、当地では残念ながら少し肌寒い曇り日となりました。
 さて「文化の日」とは言っても、当地に来て早や40年余になりますがこちらでの思い出は特にありません。やはり郷里での子供の頃が思い出されます。
 私の記憶では、11月3日をピークとしてその前後10日間くらい、熊野神社の秋祭りが行われていました。夏祭りと共に、その思い出が懐かしいのです。
 
 既に『郷里の民話・真心の一文銭』でお伝えしましたとおり、熊野神社は私が小学校1年の秋から過ごした山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)にある少し大きな神社です。
 現在では熊野大社(くまのたいしゃ)の通称の方が用いられ、日本三熊野の一つとされているようです。いざなみの命が主祭神であり、熊野三山の神々やいざなぎの尊・すさのおの尊も配祀しているようです。
 社伝の最も古い記述では、大同元年(806年)平城天皇の勅命により熊野権現の勧請を受けて再興されたとあり、それより前の国分寺建立の時に創建されたとする説もあるようです。また社伝によれば、後白河天皇即位の久寿2年(1155年)同神社に天下泰平の祈願を命じ、以降勅願所になったとも伝えられているそうです。(フリー百科事典『ウィキペディア』より「熊野神社(南陽市)」の項)

    熊野神社の 森をおい 
    置賜平野 前にして
 これは私の母校・宮内小学校の校歌(作詞:高野辰之、作曲:梁田貞)の1番の出だしです。ここに「森をおい」とありますとおり、小山の神域に隣接して、我が小学校はありました。大鳥居に到るすぐ手前参道の左隣です。いたずら盛りの4、5年の頃、友だちと昼休みなど校庭と神社の境の1m強の石垣を乗り越え、境内の小山の木立に分け入って遊んだりしていました。
 秋祭りでは、毎年この時期「菊花展」が、校庭の半分くらいを使って繰り広げられていました。私も例年、学校の昼休みや下校時などに、近隣の腕自慢が丹精込めて育てた、色も形もとりどりの見事な大輪の花を珍しげに見て回ったものでした。(そういうことから、我が郷里の秋祭りはいつしか「菊祭り」と言われるようになったものと思われます。)

 そして参道を少し南に下った、(参道に接する)広い敷地内には例年大きな小屋が建てられました。菊人形小屋です。小学校低学年から6年生まで、毎年学年単位での菊人形観覧は私たち児童の楽しみの一つでもありました。
 全国的に、今ではこのような興業は少なくなりつつあるのかもしれません。しかしご年配の方はご存知でしょう。例えば安宅関において弁慶が主の義経を打ちすえる場面や、名月赤木山での国定忠治の子分たちとの分かれの場面など…。時代物の名場面を、それぞれに人形を配してその人形の全身を菊の花で覆うのです。
 
 ここでの菊花は展覧会のような大輪のものではなく、小ぶりな花々です。それをびっしり人形に埋め込み、あたかも美しい着物のように装わせます。それが見るタイミングによって、まだ蕾だったり、パッと黄色や紅や白にいっぱい花開いていたり。
 各場面の面白さと共に、菊の花の咲き具合も楽しめるという、あの頃ならではの洒落た文化的仕掛けでした。
 確か小屋はいつも二階建てで、段を上ったり下ったりしながら、『次はどんな場面だべ』と全部で十幾つかあるうちのまだ見ぬ場面を、ワクワクしながら見て回ったものでした。
 
 (大場光太郎・記) 

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ご報告致します。(3)

 当ブログを開設したのが4月29日。早いもので、既に半年以上が経過しました。
 そしてきのう11月1日で、開設以来の総訪問者数が3000人を越えました。これはひとえに、当ブログを訪問してくださる皆様方の賜物であり、心より感謝申し上げます。
 今回も訪問者数の概要等を、以下にご報告いたします。(例により私の分も含まれております。)

 (1)開設(4月29日)~11月1日分 (187日)
     訪問者合計     3,006 人
     日 平 均         16 人
 (2)過去30日分
     訪問者合計       671 人
     日 平 均         22 人
 (3)訪問者1000人当たり対比
     前回  57日で到達
     今回  52日で到達
     今回/前回比     0.91
 (4)開設~今現在
     コメント数        178 件  (うち私の返信84件) 
                       *
 上記数値のうち「今回/前回比0.91」でお分かりのとおり、訪問者の増加度は少し鈍化ぎみです。ここから、(1)開設~今現在の日平均訪問者数「16人」前後くらいが、現時点における当ブログの偽らざる実力なのだろうと推測されます。
 当初私は、ブログ開設をお勧めいただいた方に、「日平均訪問者数が常時30人以上の段階が、当ブログ離陸の目安と考えております」と申し上げました。それからしますと、まだ半分ぐらい。『まだまだ一人前のブログとは言えないなあ』と、率直に考えます。その意味でも、今回/前回比の伸びの鈍化は、大いに気になるところです。

 既にご存知のとおり、直前に『レッドクリフ&三国志』シリーズを公開いたしました。これは、その前何日間か日訪問者数が10人+アルファくらいと少し停滞気味だったので、『何か良い浮上のキッカケはないものか?』と考えておりました。そんな折り、『レッドクリフ』が11月1日から封切られるとあってテレビでもその予告編が流されるなど、なかなかの評判です。それに私自身三国志のファンであることもあり、『よし。これで行ってみよう!』と、記事として公開することにしました。

 タイムリーな記事であることから、事前に『ある程度の訪問者の確保は出来るな』と思っておりました。しかしいざ公開してみて、びっくりです。公開したのが午後8時過ぎ、その日の訪問者はその時点で12人。それが午前零時直前のアクセス確認では、当ブログとしては驚異的な37人という数字が出ていました。公開後わずか4時間弱で25人もの人がアクセスしてくれたことになります。
 そのほとんどが、『レッドクリフ&三国志(1)』目当てです。特に「レッドクリフ」そのものよりも、「金城武」という検索による訪問者の多さには驚きました。そのため、当初は金城武の諸葛孔明役を否定的に書きましたが、その後少し肯定的な内容に改めたほどです。
 翌日も44人とこれまた驚異的。以後は20人+アルファで推移しました。そして封切り前日の10月31日はご祝儀で32人、封切り初日の11月1日は37人。
 まさに「レッドクリフ様々」です。

 これから分かりますことは、その時々で世間的に関心の高い話題をうまく記事として取り込めば、ある程度間違いなく訪問者の確保は見込めるということです。しかしだからと言って、テレビのワイドショーではあるまいし、そのような話題ばかりを追い回して良いのか?ということはあります。
 ただ今後当ブログのバリエーションを広げるためにも、私自身の趣向や感覚にフィットすれば、そのような話題を(あくまで私独自の視点を織り込みながら)取り上げてもOKかな、と思っております。

 なお次回は大いに間延びすると思いますが、訪問者数「5000人」に達した段階でのご報告とさせていただきます。
 今後とも引き続きまして、当ブログごひいきくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)      

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秋深き

   秋深き隣は何をする人ぞ   松尾芭蕉

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》  
 松尾芭蕉(まつお・ばしょう)。寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年)。現在の三重県伊勢市出身の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、「俳聖」と呼ばれた。しばしば旅に出て、『野ざらし紀行』『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』などの紀行文を残した。また元禄2年(1689年)、弟子の河合曽良を伴いみちのくの旅に出て(元禄4年江戸に戻る)、有名な『奥の細道』を著した。
 最期も旅の途中であり、大阪御堂筋の旅館で客死した。享年50歳。生前の「墓は義仲殿の隣に」という遺言により、大津膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)の木曾義仲の墓の隣に葬られた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)
                        *
 俳句はわずか「十七音」の極めて短い詩形式です。それゆえ余分な説明や叙述は一切出来ません。この句において、芭蕉が独居しているのはどこだったのか、そこを包む周囲の状況は?などはすべて省かれています。(それらは、読み手の想像に委ねられているわけです。)
 そして描かれているのは「秋深き」時期であること、それに「隣は何をする人ぞ」という問いかけだけです。 しかしそれだけで、晩秋の持つもの淋しさ、侘しさが十分伝わってきます。それに今から300年以上前の、(耳に聴こえずとも電磁音が世界隈なく覆い尽くしている)現代人がもはや味わうことが出来ない「本当の沈黙」も。果ては、人間存在の持つ根源的な孤独さ、それを越えようとする見えない隣人との命の連帯感までもが、読み手に印象されてきます。

 俳句は例句のように、一面では「沈黙の文学」です。詠み手の主張、思想信条、理屈などは先ず述べられません。それらを句として表わせばもちろんのこと、言外ににおわせただけでも途端につまらない句になってしまいます。このように俳句は、「言挙げ(ことあげ)せざる文学」という、世界でも類を見ない詩形式なのです。
 この日本精神のエッセンスとも言える俳句が、「HAIKU」として「ZEN(禅)」などと共に、多くの国々で受け入れられ愛好者を増やしていることは、まことに慶ばしいことです。

 世界一短い文学ということは、言ってみれば「世界一不利な文学」でもあります。しかしだからこそ同時に、読み手の感性、想像力などを「世界一要求する文学」でもあると申せましょう。
 私たちは加齢と共に、感性、想像力などが硬直してうまく働かなくなりがちです。すると当然一句の持つ、広がりや奥行きが感受、イメージ出来ず、ただ字面だけを追って「面白くない、つまらない」となりがちです。
 
 今若い人の間でも俳句への関心は高いものがあります。彼らにとって俳句は、魅力的な自己表現の一形式なのでしょう。一例としてだいぶ前から、選抜された学校単位による「俳句甲子園」が、正岡子規生誕の地・愛媛県松山市で毎年開催されています。人生で一番豊かな感性とイマジネーションに溢れた彼らの俳句に接すると、本当にハッとさせられます。

 俳句が芸術であるのかないのか、学の無い私には分かりません(俳句が芸術でないのなら、他の文学形式―和歌、短歌、詩、フランス文学など―も、皆々芸術ではないのでしょう)。また家元俳句(家元政治、家元宗教、家元学問…)、そんなことも我々末端の俳句愛好家にとっては、どうでも良いことです。
 「言挙げ(主張や争論や理屈づけ)」せず、自身の感性や想像力を枯渇させないためにも、今後とも「俳句への言挙げ」には沈黙を守り、真摯に俳句に向き合っていきたいと存じます。

 (大場光太郎・記) 

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