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桐一葉

    桐一葉日当たりながら落ちにけり   高浜虚子

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《私の鑑賞ノート》
 「桐一葉落ちにけり」というごくありふれた秋の情景に、「日当たりながら」という第二句を得たことで、秀逸な句になりました。それによって、秋の日を浴びながらゆらゆら落ちつつある桐の一葉の、侘しくも哀しいさまが絵画的、視覚的に浮かび上がってきます。秋日差しがちょうどスポットライトの働きをして、桐の葉が枝から離れて地面に落ちるまでが、まるでスローモーションのようにたどれそうです。

 毎度申しますが、詩なかんずくわずか十七音の俳句にあっては、「日当たりながら」のような発見が絶えず求められます。そうでなければ、世界一の短詩ゆえ、作る俳句が皆々前の誰かの類句や模倣句になってしまう危険性を常にはらんでいるのです。
 それには、詠みつつある季節的事物に向けられた、研ぎ澄まされた観察力、鋭敏な感性、豊かな想像力が俳人には必要ということなのでしょう。逆にその資質さえあれば、この句のようにごく日常的な場面から、俳句という「詩の真実」はいくらでも無尽蔵に汲み取れるということです。

 さてそれでは子規や虚子といった、近代文学でも名だたる俳人たちが詠んだ句のすべてが、新鮮でみずみずしい発見の句ばかりだったのだろうか?そうなるといささか疑問です。
 例えば例句の作者・高浜虚子は、若い頃正岡子規に師事してから没するまで、生涯25万句くらいの句を残しています。その句数たるや古今の俳人の中でも、ダントツでしょう。ではその膨大な句のすべてが秀句かというと、私は正直そうは思えません。虚子は自身が作った膨大な句の中から、「五百句」「千句」というように自選の句を選んでいます。私などが大先人のその自選句を読んでさえ、今一つピンとこない句があるくらいです。

 また私が中学3年の頃、郷里の町立図書館に、「子規全集」という全部で二十巻くらいの全集が揃っていて、その何巻かを試しにパラパラとめくってみたことがあります。俳句、短歌、評論、随筆などに分かれていました。俳句だけでも何巻にも及び、子規が生涯に作った俳句はほぼすべて網羅しているようでした。そのうち例えば「へちま」を題材にした句だけでも、ズラッと百も二百も続くのです。
 中には子規自身が「近代俳句」を創始するに当たって、試作的、実験的に作ったような句もあったでしょう。その結果大半は、俳句の「はの字」も知らない当時の私でさえ、『何だ、この句は』というようなものでした。

 俳句の巨匠たちですらそうなのです。これは裏を返せば、日常「俳句的な場面」に出会うことがいかに難しいかということです。また仮に出会ったとしても、それを瞬間的に捉える心構えなり感性なりが、その時の俳人にあったかどうかという問題にもなります。
 こうしてみると、一つの秀句、名句が生まれるためには、数多くの捨て駒のような凡句がなければならないということかもしれません。私などとても真似出来ませんが、とにかく「うまずたゆまず句作する人」こそが、真の名句を生み出せる人なのではないでしょうか。

 (大場光太郎・記)

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