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玉の如き小春日和

    玉の如き小春日和を授かりし   松本たかし

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 松本たかし。明治39年東京神田の生まれ。幕府所属室生流座付能役者の家に生まれた。父長(ながし)は名人といわれた人。たかしも9歳で初舞台をつとめるが、病弱のため能を断念。大正10年頃から俳句を始め、虚子に師事。昭和21年「笛」を創刊主宰。物心一如、只管写生し、自然の深く蔵する秘密に触れようと唱えた。読売文学賞受賞。句集に『松本たかし句集』『鷹』『野守』『石魂』『火明』。昭和31年没。(講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

《私の鑑賞ノート》
 世間一般に子供が生まれた時、「玉のような子を授かった」と言って五体満足でコロコロした赤子の誕生を喜び合います。それを句として詠めば(季語の無い「無季句」となり厳密には俳句とは言えませんが)、「玉の如きすこやかな子を授かりし」というようになるのでしょう。

 松本たかしはそのような慣用的言い回しを十分承知の上で、冒頭の句を詠んだものと思われます。

 小春日和は、立冬を過ぎてからの春のように暖かに晴れた日のこと(角川文庫版『角川歳時記・冬の部』より)。第二句目を「小春日和を」と言い換えただけで、『なるほど小春日和とはそんな感じだよなあ』と納得させられてしまいます。

 これは一種の換骨奪取の句であり、口さがない一部の批評家から手厳しい批判の対象にされる句かもしれません。しかし俳句はもともと「俳諧」、つまり諧謔味、おかしさをいかんなく発揮させる文芸です。よって私は、このようなちょっとした言い換えもまた、それはそれで「新しい発見の句」としてOKなのではないだろうかと考えます。

 それに本来「赤子」であるべきところを「小春日和」と言い換えたのであれば、たまたま授かった玉のような良い日を、余計いとおしむ心持ちが溢れている句だとも思います。

 ともあれ。今後とも身近な自然に出来る限りの目くばせをし、季節的事物の移り変わりに敏感でありたいものです。私たち人間は、いかに文明化、都市化されても結局「自然の児(こ)」であることは変えられない事実です。

 「自然」という、地球の大きな系(スキーム)の中で生かされている身であることを常に心に留め、自然万物への感謝の心を忘れないようでありたいものです。

 (大場光太郎・記)

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