静夜思(せいやし)
李白
牀前看月光 牀前(しょうぜん)月光を看(み)る
疑是地上霜 疑(うたご)うらくは是(こ)れ地上の霜かと
挙頭望山月 頭(こうべ)を挙(あ)げて山月(さんげつ)を望み
低頭思故郷 頭を低(た)れて故郷を思う
…… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
李白(701年~762年)は、中国盛唐の詩人。字(あざな)は太白(たいはく)。逸話によると、李白が生母の胎内に宿った時、母は夢で太白(金星)に遭遇したことから、この字がつけられたといわれている。
李白の詩は豪放磊落で、唐の絶頂期の男性的な力強さを持っているといわれ、率直な感情をダイナミックに表現する骨太の詩風が特徴。「絶句」の表現を大成させた人物でもあり、後世の人から「詩仙」と呼ばれ、同時期の杜甫と並び称される。(フリー百科事典『ウィキペディア』-「李白」の項より)
私がこの名詩にめぐり会ったのは、中学に入学して間もなくのことでした。担任になられたT先生が、国語の時間に古今の名文章を、達筆な字で書かれたガリ版印刷したワラ半紙2枚にしてクラス全員に配ってくれたのです。他に室生犀星の詩などがあったと記憶していますが、私が特に惹かれたのがこの詩でした。そしてこの詩によって初めて、漢詩に触れたのです。
詩の意味はいたってシンプルです。
「今いる私の寝台の前まで月の光が射し入っている。その光が白くて地上の霜のように見える。私は思わず頭を挙げて山上の月を望み見、そして頭を垂れて故郷のことを思った」
という意味かと思います。
それなのにこの詩は、杜甫の「江は碧りに鳥いよいよ白く…」の詩と並んで、五言絶句の極みのような名詩だと思います。
この詩では、「白髪三千丈」式の誇張し過ぎとも思われる表現は抑えられ、何やらこの世の奥の実相を静かに観照している趣きすらうかがえます。詩全体に寂静(じゃくじょう)の気が漲っているようです。
ところで、頭を挙げたままではなく、なぜ「頭を低れて故郷を思う」なのでしょう?
室内に射し入っている白い月光に導かれるようにして、山上の月を見て、李白はその神々しさに激しく搏(う)たれたのかもしれません。
想像するに、李白が見上げた月は満月またはそれに近い月だったと思われます。
時に満月を、「玻璃鏡月(はりきょうづき)」と形容することがあります。「玻璃鏡」とは、死後閻魔様の法廷に引き出された死者が見せられるという鏡だそうです。その中には、生前の一切の行為が、何の隠し事もなく映し出されるというのです。(但し生前から、越し方を顧み、マイナスだった行為にも光の想いを当てていれば何の心配もないようです。)
ちょうどその時李白も、月をそのようなものとして観じていた…。
李白は畏怖を覚え、敬虔な祈りの気持ちになって、思わず知らず頭を垂れたのではないでしょうか。すると自然に故郷のことが思われてきた。
そして、千古の時を越えて今なお私たちの心を打ち続けるからには。その時単に地上的故郷-蜀(しょく)の故郷への望郷のみならず、李白は人類の普遍意識にまで入り込み、更に悠古の「魂の原郷」にまで思いが到っていたのではないでしょうか。
(大場光太郎・記)
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