どこまでも鉈追ってくる…
どこまでも鉈(なた)追ってくる林檎園 (拙句)
今日の社会は複雑化、高度化し、いついかなる場面でも「法的思考(リーガルマインド)」が要求される厳しい社会です。息苦しいといえば息苦しい社会ですが、これが国民総意のもとで築き上げられた社会である以上、その一員たる私たち一人ひとりも法規を遵守する厳粛な義務を負っております。
しかし私が小学校時代を過ごした、オールディーズな昭和30年代半ば頃までは、それはそれはのんびりした大らかな世の中でした。
当時私は、山形県宮内町立母子寮にお世話になっている子供でした。そこは宮内町でも東外れに位置し、百メートル弱東の吉野川の橋を越えると上り坂となり、その道から左にそれた高台の農道沿いには野原や畑や農園が広がり、その更に東には小高い山々が連なっていました。
少年時代は、町場と共にその辺一帯もまた、私たちの格好の遊び場でした。雪解(ゆきげ)も過ぎいっせいに草木が芽吹く春ともなると、その辺の野山に分け入り、ワラビやゼンマイやフキを採り放題に採っていました。また辺りが見事な紅葉に染められる10月半ば頃からは、山深く分け入ってシメジや何とか茸のキノコも採り放題でした。
当時といえど、野山にはそれぞれに所有者がいたのでしょう。しかし今日のように所有権がシビアではなく、どこも「立ち入り禁止」「入山禁止」などということはありませんでした。大人も子供も好き勝手にどこの野山に入り込んでも、誰も何とも言わない大らか時代でした。
以下はもうとっくに時効ですから、お話します。いたずら盛りの小学校高学年の頃、その中でもさすがに進入禁止のブドウ園やリンゴ園に、友だちともしくは単独で不法侵入しては、たわわに実ったブドウやリンゴをかっぱらっては(つまり盗んでは)、園の外でもぎたてのブドウやリンゴをおやつ代わりにちょうだいしたこともありました。
秋も深まったある日、学校が終わってから友だちと例の野山に遊びに行きました。そして山のたもとの傾斜地にある、広いリンゴ園にまたまた不法侵入しました。
もう忘れましたが、いつもいでもいいような見事な紅玉だったと思います。沢山のリンゴの木に大きく真っ赤な紅玉が鈴なりなのです。私と友だちは『それっ!』とばかりに、一本の木に寄り、夢中でリンゴをもぎ始め、上着やズボンのポケットに詰め込みました。しかしその日は折り悪しく園主がリンゴの取入れか木の剪定かをしていたらしく、不意にどこからか現われて、私ら悪童の不法行為が見つかってしまいました。
園主は子供たちの度重なるかっぱらい行為に相当業を煮やしていたらしく、烈火のごとく怒り「こらっ。ガギめら待てっ!」と言うなり、手に持っていた鉈を振り上げ私らを威嚇しながら、追いかけはじめました。
私らはびっくりしたのなんの。取るものも取りあえず、と言っても既にもいでポケットに詰め込んだのはそのままで、段々の傾斜を下って逃げに逃げました。園主はやはり鉈を振り上げた格好で、執拗に追ってきます。もしつかまりでもしようものなら一巻の終わりと、子供ながらに分かります。それで私たちはほうほうの体で逃げまくります。悪夢で何者かにどこまでも追いかけられる、さながらあんな恐怖でした。
そのうち園主の姿が見えなくなりました。『んっ?』と思ってその方を見てみると、傾斜の低い土手を降りる際転んだらしく、今しも起き上がるところでした。私たちはこれ幸いと、更に速度をあげて逃げました。
とっくにリンゴ園から遠ざかり、さすがにもう園主は追ってきません。そこでやっとほっと一安堵し、二人で道端に腰を下ろし、ポケットから収穫物を取り出し、上着で皮の消毒をきれいにふき取りガブッとばかりかぶりつきました。案の定、中にたっぷり蜜のあるうまいリンゴでした。(さすがにその後は、リンゴ園等への不法侵入は自粛の方向に向いました。)
(大場光太郎・記)
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