リルケ『秋』
秋
リルケ
葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。
さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥(せきりょう)へ落ちる。
我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覧。総てに落下がある。
しかし一人ゐる、この落下を
限(かぎり)なくやさしく支へる者が。
(茅野蕭々訳)
…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
リルケ(1875年~1926年)の詩の中でも、最も好きな詩の一つです。
これは西洋の詩でありながら、漢詩の決まりの一つである「起→承→転→結」を踏んでいる、見事な四聯詩であるように思われます。
ご存知のとおり「秋」は英語では「autumn」ですが、米国では「fall」という呼び方が一般的です。秋=fall=落下。もの皆が落下する季節。まさにこの詩は「落下」がテーマであるようです。先ず第一聯で具体的に木の葉の落下のさまが描かれています。
「大空の遠い園」とは何処(どこ)の園なのでしょう?リルケにとってそれは、キリスト教的「天国の園」がイメージされていたに違いありません。しかし天国にある園でさえも、落下という「衰」や「枯」を免れないのでしょうか。なにやら、仏教の「天人五衰(てんにんごすい)」が思い起こされます。
第二、三聯において、肉眼を超えたリルケの心眼は、「落下」は独り木の葉のみにとどまらず、我々が拠(よ)って立つこの「重い地(大地)」さえ「寂寥」に落下すると観照するのです。大地さえ落下するのであれば、我々だってどうして落下を免れることができるでしょう。
「重/軽」などの二元性は、この3次元相対物質世界の特質です。そもそも「物」には総て「重さ、質量」が伴います。いえ実は「物は物に非ず」(物質の究極は質量を有しないエネルギー)で、本当は重量などないはずです。それを「重い」と感受しているのは、私たちの五官(触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚の五つの感覚器官)の錯覚なのです。
たとえ錯覚であろうが何であろうが、物を物と見、それに重さを感受せざるを得ない以上、重い物は総て落下するのが、物理法則です。だから木の葉でも何でも、この我々自身ですら、落下(別の言い方をすれば、栄枯盛衰、変化変滅)を免れないわけです。
しかし第四聯で、リルケは謳います。ただ一人、その落下を免れ、かつ万物の落下をやさしく両手で支えている者がいると。それは一体どなたなのでしょう?
リルケにとって、それは言うまでもなく主なるイエス・キリストであり、「神」と呼ばれる究極的実在であるわけです。
それにしても、「限りなくやさしく支える」という表現は良いですよね。
神という途方もなく大きく遠い存在は、実はとても身近な、至慈至愛の存在でもあるようです。
(大場光太郎・記)
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コメント
本文中でも指摘しましたが、リルケの透徹した深い人生眼が感じられる詩です。さすがは、19世紀末から20世紀初頭にかけての代表的詩人の詩業というべきです。
ところで本邦訳は茅野蕭々訳ですが、石丸静雄の新訳もあります。こちらの方は平易で、茅野訳とはまた少し違った味わいがあります。著作権法の関係で大っぴらに紹介できませんので、この欄で紹介致します。
*
秋
木の葉が落ちる 遠くから落ちるように落ちる
空のなかの遠い遠い庭が枯れたように
木の葉は否定するような身ぶりで落ちる
そうして夜な夜な 重たい地球が
ありとあらゆる星から 静寂のなかへ落ちる
私らはみんな落ちる この手も落ちる
ほかの人たちを見なさい 落下はみんなのなかにある
けれども ひとりだけは この落下を
かきりなくやさしく その両手に支えている
(石丸静雄 訳)
投稿: 時遊人 | 2011年11月26日 (土) 16時50分
すっかり忘れていましたが、開設年(2008年)11月公開のこの記事、2011年11月に一度トップ面に再掲載していたのでした。
秋が深まるとともに思い出し読み返したくなる詩です。深秋の寂寥感のうちにリルケは、この詩を着想したわけです。巴里(パリ)の街の一角だったのだろうか、どこだったのだろうか。詩人がいたところに身を置き、詩人の想いを追体験したくなります。
投稿: 時遊人 | 2013年10月22日 (火) 19時32分
こんにちは。
リルケのこの詩、私も好きです。
富士川英郎の訳も良いですよ。
『木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように
大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように
木の葉は否定の身振りで落ちる
そして夜々には 重たい地球が
あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる
われわれはみんな落ちる この手も落ちる
ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある』
最後の2行が特に好きです!
投稿: 露 | 2013年12月 4日 (水) 15時01分
露様
どうもありがとうございます。
このたびご提示いただいた「富士川英郎訳」もなかなかいいですね。三者三様微妙に違ったニュアンスがあり、それぞれに味わいがありますね。
けれども ただひとり この落下を
限りなくやさしく その両手に支えている者がある
おっしゃるとおりラストのこのフレーズは素晴しいです。このフレーズこそがこの詩の生命線だと思います。
『富士川英郎、そういえば・・』と、私が持っている『世界青春詩集』をめくってみました。この詩は収録されていませんが、ありました、富士川英郎訳が二詩。ご存知かもしれませんが、
『九月の終り』(ホルトゥーゼン)
『時おり一度も愛したことのない』(ホーフマンスタール)
同詩集は私が21歳の時に求めたものですが、両詩ともチェックが入れてある好きな詩でした。いずれ記事として取り上げれればと思います。
投稿: 時遊人 | 2013年12月 5日 (木) 01時25分
(15年10月24日再掲載に当たって) リルケのこの詩は過去何度か再掲載していますが、今回またトップ面に再掲載します。それに季節柄なのかアクセスも増えていますし。小池昌代という人の編著による『おめでとう』(新潮社)という小さな詩集でこの詩が取り上げられているようで、そのせいもあるのでしょうか?なお私が掲げたのは著作権法の関係で茅野蕭々訳でしたが、コメントでこっそり石丸静雄訳を掲げ、またコメントされた露さんが富士川英郎訳を紹介しておられます。是非読み比べて味わっていただければと思います。
投稿: 時遊人 | 2015年10月25日 (日) 01時30分
この年は当ブログ開設の年でもありましたが、公開以降これで4回目の再掲載となります。たぶん最多再掲載でしょう。本文中でも述べていますが、あまたあるリルケの名詩の中でも私自身特に好きな詩なのでついそうなってしまったのです。
最後の聯まで読んでみると、(誰か有名な西洋詩人が「詩人の中の詩人」と形容した)リルケによる「祈りの詩」という感じがしてきます。
投稿: 時遊人 | 2018年10月18日 (木) 01時35分