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2008年12月

行く年の…

    行く年の路地に仄(ほの)めく街灯よ   (拙句)

 一年を締めくくるにふさわしく、大晦日のきょう当地は朝から快晴となりました。冬日が我が家内にも長く伸びてきて、日だまりの台所のフロアーで、愛猫の一匹である10歳の(子の方の)猫が日向ぼっこよろしくうずくまっていました。雑種めいたあんばいの三毛の毛ヅヤがピカピカ光っています。

 午後2時過ぎ本厚木駅に向うべくバスに乗りました。途中246号線沿いのお仏壇のはせがわの壁面に、例の「しあわせ少女ゆうかちゃん」の大きなポスターを見ました。きょうもゆうかちゃんは、つぶらな瞳の童女観音のような合掌姿で、行き交う車中の人々や街の行く年来る年の幸を祈ってくれているかのようです。
 厚木市役所の通りの反対側の広い公園に、大晦日のきょうはさすがに人影はほとんどなく、園内のすっかり葉を落とし尽くしたケヤキの木立が、心なしか淋しげに黒々とした幹や細い枝々を晴天の空に伸ばしていました。

 用を済ませて厚木一番街の遊歩道を歩いていると、ちょうど例の「夕焼け小焼けチャイム」がどこからともなく高らかに鳴り響いてきました。午後4時半ということです。
 通りの途中ではお年寄りが小さなイスに腰掛けて、来年のカレンダーをずらり並べて売っています。また本厚木駅北口広場の一角では、毎年恒例のどこぞの鳶(とび)職によるお飾りや注連縄売りの、紅白のめでたい布で覆われた屋台が設けられています。店の前には通行人がけっこう集まって、並べられた各種の正月飾りを物色しているようです。

 真冬の澄明な大気の中で、地上のもの皆が明らかにあるべき姿で見えています。ことにこの寒空の下、街の花壇のパンジーのけな気な色とりどりの花がくっきりです。
 今年最後の赤い返照を戸毎の壁にそっと押し当て、西日は大山の南のなだらかな稜線に静かに沈もうとしています。大山と右手の丹沢の峰の連なりは、ただ一色濃紺のシルエットとなり、雲一つない西空の薄茜(うすあかね)色とのコントラストが截然です。

 この年末、私もずいぶん忙しく慌しい思いをしました。いずれも「忄(りっしんべん)」が付きますが、これは「心」を表わす「へん」だそうです。そうすると「忙」とは「心を亡くす」こと、「慌」は「心が荒れる」ことになります。
 あるいはそのとおりだったかも知れず。例えば、当月はついつい例の中津川に行くことがほとんどありませんでした。暮色迫る5時前頃久しぶりで行ってみました。

 中津川の流れは、下流の大堰がこの時分は完全に開けっ放しで、そのため幅10m弱の一本の狭い流れになっています。堰の少し下流の瀬から、ゴォーッという水音が絶えず聴こえてきます。
 流れの向こう半分一面は州となって、対岸際まで広がっています。こちら岸にもあちら岸にも赤茶けた枯れ草が覆い尽くし、荒涼たる冬川原の趣きです。

 本夕流れは鏡のように静かな水面です。かなり水温が低いせいなのか、プカッと浮いてくる小魚も、水面の上でもんどりうつ鯉の姿も皆無です。ただ北西の低空の横雲や対岸堤上の大きな一本の木の天辺のみ、水面にくっきり映し出されているばかりです。
 帰り際、振り返りざまに西空を見上げました。すると堤防道の反対敷地の三階建ての県営住宅の上空に、鋭鎌(とがま)のような眉月(びづき)が光っていました。少し離れて、宵の明星がこれまた煌たる光を放っていました。
                       *
 末尾ながら。当ブログ開設以来大変多くの皆様にご訪問いただき、感謝申し上げます。特に当初から毎日のようにご訪問くださった皆様には、深く感謝申し上げます。また不定期でご訪問の皆様、そして通りすがりでお立ち寄りいただいた皆様、感謝申し上げます。大変ありがとうございました。
 どうぞ皆様、良いお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)

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NHK大河ドラマ『天地人』

 来年のNHK大河ドラマは『天地人』だそうです。上杉藩の重臣であった直江兼続(なおえ・かねつぐ)が主人公で、その一代記のドラマ化のようです。直江兼続が生きた戦国末期から、織田信長、豊臣秀吉の政権や関ヶ原の戦いを経て、徳川幕府が開かれた頃までの激動の時代を背景に、ドラマは展開されていくのでしょう。

 歴史上の人物はたいがい知っていると自負している(?)私ですが、直江兼続は名前くらいは何となく知っていたものの、その具体的な人物像や事跡などはまったく知りませんでした。その人物を改めて意識させられたのは、8月の当ブログ記事『万物備乎我(6)』のコメント欄で、くまさん様と大変有意義な意見交換をした時です。話題は孟子の名言から朱子学の功罪、いつしか私の郷里の上杉藩や上杉鷹山公のことにまで及びました。その中でくまさん様が「米沢にゆかりの深い直江山城守兼続のファンでもあります」と述べておられました。
 気になって少し調べましたら、何と直江兼続は(私の郷里の置賜(おいたま)地方もその領地とする)上杉藩家老として、米沢でその生涯を終えた人物とあるではありませんか !

 それが今日までその事跡などはさっぱり知らなかったとは ! 大変お恥ずかしい次第でした。過日直江兼続関係の本を買い求め、今読み進めている最中です。その結果、同人の人となりや事跡や上杉藩を取り巻く当時の状況などがかなり分かってきました。
 新春『天地人』が始まる前後くらいに、直江兼続や上杉藩のことや当時の時代状況のことなどを、シリーズ化出来ればと考えております。

 来春1月4日(日)からスタートする『天地人』で、直江兼続の実像や当時の時代背景などをどこまでリアルに再現してくれるか、楽しみではあります。しかし私には、既に発表されている同番組のキャスティングで、大いに不満なことがあります。それは他ならぬ、直江兼続のキャスティングについてです。
 直江兼続に「妻夫木聡(つまぶき・さとし)」?『えっ?そりゃあないよ !』というのが、(まだドラマが始まる前の)私の率直な感想です。『脇役たちは結構良い役者さんをずらっと揃えているのに、肝心な主役がなぁ』。松方弘樹、宇津井健、中尾彬、富司純子、万田久子、木村佳乃、宍戸錠、加藤武、山本圭、山下真司、あき竹城…。

 直江兼続は、若い頃からかなりの美男子だったようです。それからすれば当代のイケメン俳優・妻夫木聡が適任ということなのでしょう。しかし直江は同時に、当時の日本人の体型では規格外ともいえるほどの六尺(180cm以上)豊かな巨漢だったようです。どちらかというと妻夫木風ヤサ男ではなく、堂々たる体躯の美丈夫という風貌だったのではないでしょうか?
 そういう外貌に加えて、直江兼続は歴戦の武将でもあり、政略家でもあり、何より軍師的存在です。そのような直江兼続像を想い描いてみた時、妻夫木の直江役には相当のギャップを感ぜずにはおられないのです。(以前私は、『レッドクリフ』の金城武の諸葛孔明役に少しイチャモンをつけました。しかし今回の直江兼続役に、金城武あたりを抜擢すれば面白かったのになあと思います。)

 実は私は、NHK大河ドラマなるものを最近とんと観ていないのです。今年好評だった『篤姫』もだから観ておりません。観た記憶があるのは、「梵天丸もかくありたい !」が有名になった『伊達政宗』くらいなものです。(だいぶ昔ですよね。)
 年初から年末まで、『何かつまんないストーリーがだらだら続くなあ』という印象なのです。NHKは例えば自局で放映した、韓流ドラマ『宮廷女官・チャングム』のような、文句なしに毎回ワクワクさせられる第一級の歴史ドラマを、なぜNHK自身で制作出来なくなったのでしょう?
 ちなみに『チャングム』では、イ・ヨンエのチャングムは、彼女以外考えられないドンピシャリのはまり役でしたが。
 
 NHKでだいぶ前に制作した名作『おしん』が、今でも海外で引き続き観られているようです。『チャングム』『おしん』…。良い作品は、広く海外でも受け入れられるのです。NHKには、ドラマ部門でそういう作品は最近あまりないようです。今後は是非優れた作品を期待したいものです。それには何より先ず、主役のキャスティングからしっかりと !
 (大場光太郎・記)

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天皇家3代の御名・考(3)

    一八(イワ)の世は早や終わりけり今今は
    十世(カミヨ)に到る九(ク)の産道(ミチ)の中  (拙歌)

 前回『天の数歌』をご紹介致しましたが、「天の数歌」は天地創造のプロセスであると共に、実は私たち「人間の進化プロセス」でもあるのです。ある人の説によりますと、今地上に生きる人はすべて、「一~八」までのプロセスはクリアーしてきているそうです。

 我が国神道系の教義で説くところでは、そもそも人は「霊止(ヒト)」、つまり「幽の幽」から発した神聖意志が分霊に分霊を重ねて「顕の顕(現界)」で魂魄(こんぱく)として肉体という形にとどまった存在、それが人間なのです。それゆえ私たちの肉体はまた、「神の生宮(いくみや)」とか「肉宮(にくみや)」と呼ばれることもあります。本来は皆様どなたも、「ミコト(ヒメノミコト)」であり「神の子」であるのです。
 更に数霊学的に見ると、人はまた「一十(ヒト)」でもあります。『天の数歌』の出口王仁三郎の言霊解によりますと、十は「完成の意味」なのでした。そして十はまた、「神そのもの」をも表わす数字でもあるのです。
 つまり「真人(本当の人)」とは、「一~十」のすべての生成化育のプロセスを経て、明らかに弁え知る「神人(しんじん、かみひと)」のことを言うのです。例えば、古代では釈尊やイエス、近代では黒住宗忠公や聖師・出口王仁三郎や五井昌久先生といった霊的巨人のことを言うわけです。(注―黒住宗忠公は幕末の黒住教教祖、五井昌久先生は「世界人類が平和でありますように」の提唱者です。)

 その意味で私たち通常人は「一~八」のプロセスは踏んでいても、その先には未だ達していません。ですから私たちはまだ本当の意味では「人」ではなく、人に到るまでの「人間」つまり中間的存在と言うべきものです。

 さて、1989年は重要な年であったようです。この年は1月7日昭和天皇が崩御され、年号が平成に変わった年でした。また同年11月に「ベルリンの壁崩壊」という歴史的な出来事もありました。
 以下は、1990年代これも関係者の間でブームになった『火水伝文(ひみつつたえふみ)』を伝達された、我空徳生(がくう・とくお)という人及びそれを解説した白山大地(しろやま・だいち)という人の説です。
 1989年は「厄年」だったそうです。この場合の「ヤク年」とは、八から九に到る年と言うことです。冒頭に述べましたとおり、それまで人間は「一~八」の「一八戸(岩戸)」の中にいたのです。閉じ込められていたという言い方もできますし、保護されていたという言い方もできるようです。ともかくその年まで人類は、おなかの中(子宮の中)にいたと言うのです。

 それが1989年の「ヤク年」に、子宮を出て「産道」に向かったのだそうです。すなわち「岩戸が開いた」わけです。そして翌1990年は、「九、十の道」に到る産道に私たちが入ったと言うのです。今私たちは「九の産道」を通過中であり、やがていやがおうでも「十の世界」に産み落とされるそうです。つまりまっさらな真地球世界で、「○九十の一十(マコトのヒト)」として新生(神生)していかなければならないと言うのです。
 なお、今の「九の産道」を「苦」とするか「楽」とするかは、各人の心がけ次第です。出来るだけ「頭を低くして」通させていただけば、道中も出産も「楽」だそうです。(このたびの逆児は大変だそうです。)

 そろそろ本考の結論です。
 目に見えず手でも触れ得ずとも「天の経綸」は着実に進み、時々に「今がいかなる時であるのか」を、天皇家御3代の御名や年号を用いて「神示し」に示しておられるわけです。そして今や経綸はその最終段階だと思われます。平成明仁天皇の今、こうして私如き者まで、「ヒトの意義」を「明らかに」述べることができるのですから。
 後は現皇太子徳仁殿下の、「マコトのヒトに成る」御世を残すのみです。
 
 (本記事は、『火水伝文と○九十の理』-白山大地著・四海書房-を参考にさせていただきました。)  ― 完 ―
 (大場光太郎・記) 

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天の数歌(あめのかずうた)

  ひと ふた み  よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ
  一  二  三  四  五  六  七  八  九  十  百  千  万
  霊  力  体  世  出  萌  生成 弥  凝  足

 「ひとふたみよいつむゆななやここのたり・ももちよろづ」。これは「天の数歌」と呼ばれるものです。我が国古来から伝わる、レッキとした祝詞(のりと)なのです。
 大本聖師・出口王仁三郎が口述した(古今東西第一の奇書と思われる)『霊界物語』の中で、「これは重要なる賛美歌で、天の数歌と云ひます。皆さまもこれから間(ま)があれば、この数歌をお唱ひなさい」と、ある登場人物に言わせています。

 また霊界物語の別の箇所では、それを「言霊(ことたま)学」的に解釈しています。かなり難解ですが、以下に掲げてみます。
 
  一(ひと)は霊(ひ)也、火也、日也。
  二(ふた)は力(ちから)也、吹く呼吸(いき)也。
  三(み)は体(たい)也。元素也。
  四(よ)は世界の世(よ)也。
  五(いつ)は出(いず)る也。
  六(むゆ)は燃(むゆ)る也。
  七(なな)は地(ち)成る也。
  八(や)は弥々益々(いよいよますます)の意也。
  九(ここの)は凝り固るの意也。
  十(たり)は完成の意也。
  百(もも)は諸々の意也。
  千(ち)は光也、血汐の血也。
  万(よろづ)は夜(よ)出(いづ)るの意也。

 之を大括して略解すれば、霊力体(れいりきたい)によって世が発生し、水火の呼吸(いき)燃え上り、初めて地成り、弥々益々水火の気凝り固りて完全無欠の宇宙天界は完成され、諸々の地の光は暗夜(あんや)に出現して総てのものの目に入るといふ言霊にして、造化三神の神徳を称へ奉り、其の徳にあやかりて紫微(しび)天界を修理固成(しゅうりこせい)し、諸神安住の清所(すがと)に照らさむとの意を謳(うた)ひ給ひしものと知るべし。 (『霊界物語』第73巻第10章・婚ぎの御歌より)
                                                  *
 いかがでしょうか。お分かりいただけたでしょうか。
 ごく簡単に申せばこの数歌は、天地剖判(天地創造)のプロセスを表わした数歌であったわけです。そしてその根源力は「一二三」の「霊・力・体」にすべて発しているということです。(なおこの数字を、「ひふみよいむなやこともちろ」と唱える「ひふみ祝詞」もあります。それについては、いずれ別の機会にと思います。)
 日本霊学では、「全霊界(この世も実は「霊界」の一部であるのです)」を四段階に大別しています。「幽の幽(の世界)」「幽の顕(の世界)」「顕の幽(の世界)」「顕の顕(の世界)」です。ちなみに「この世」は「顕の顕」の世界ということになります。私見では、この数歌はこの分類のうち、「幽の顕」以降の三世界の創造プロセスを表わしたものだと思われます。一番最初の「幽の幽」は、決して現われることのない世界で、これを示すとすれば「○(零、まる)」であるからです。

 普段何気なく使っている「一、二、三…(いち、にっ、さん…)」の数字には、実は深重秘沈の意義が隠されていたわけです。
 祝詞であり、賛美歌であり、神言(しんげん)でもある、天の数歌。気分がすぐれない時、元気になりたい時、治癒したい時など、これを数回唱えると気が静まり、癒されるそうです。

 ところで私は、「金(カネ)」で苦労し始めた30代半ば過ぎ頃、何かあるとすぐ頭の中にソロバンを置いて、『損か得か?』と数字をパチパチはじいている自分に気がついたことがあります。大変お恥ずかしいことながら、「数字 = 損得勘定のシンボル」になってしまっていたのです。正直申し上げて、少しは改まったとは言え今でもそういう傾向はあります。
 おそらくこれは「人間的成長」などと言えるものではなく、逆に「堕落」だと思います。久しぶりに「天の数歌」の御光に照らされて、つくづくそう思いました。

 (大場光太郎・記) 

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二木紘三のうた物語(5)

 「二木紘三のうた物語」を日頃ご愛聴されている方は既にお分かりかと存じますが、今晩私は『風』にコメント致しました。そして通常コメントの後に(追記)として、今回のコメントをもって『うた物語(以下「二木紘三のうた物語」をこのように表記)』コメントの終了とさせていただく旨申し述べさせていただきました。

 以前の本シリーズで既に述べましたが、『夜霧の第二国道』で初めてコメントさせていただいたのが昨年12月28日のことでした。ですからそれ以来、ちょうど1年が経過したことになります。当初は本当にその一曲へのお礼コメントのつもりでした。しかし気がついてみると、『うた物語』の全コメンテーター中でも断トツと思われるくらい、各歌にコメントを重ねて今日に至りました。(はっきりと数えたわけではありませんが、80曲以上にはなると思います。)
 今改めて振り返ってみて我ながら、『よくもまあ、こんなにコメントしたものよ』と驚いています。それは、思わずコメントしたくなる歌が、『うた物語』中に数多く収録されていたこと、そして収録されている各歌のmp3演奏が素晴らしかったこと、二木先生の各歌への解説が含蓄に富みそれに大変な刺激を受けたこと、などが挙げられると思います。

 私は既に本シリーズで既に述べましたとおり、当ブログ開設時より1ヶ月半ほどコメントを休止致しました。ですから私のコメントはそれを挟んで前半と後半に分けられます。そして率直に申し上げまして、前半(約4ヵ月間)の方が後半(約6ヵ月強)よりも期間的に短いものの、ワクワク感、充実感がずっと勝っていたように思います。
 先ず前半は、私自身ブログ投稿初心者として恐いもの知らずで、時に管理人である二木先生のご意向などあまり気にせずに自分の述べたいことを大長文で述べさせていただきました。(二木先生。大変申し訳ございませんでした。)
 また前半は、私のコメントに対する皆様方の反応に確かな手応えが実感でき、それも私のやる気を大きく後押ししてくれました。更に当時は、くまさん様、矢嶋武弘様といった良きライバルが、お互い切磋琢磨してコメントの内容を磨き高め合っていけました。

 以上のようなことから、後半は何か物足りない、あまりワクワクしない、手応えがイマイチ感じられない想いを絶えず抱きながら、コメントし続けていたことを告白しなければなりません。
 どうも『うた物語』の「コメントのあり方」が、私の休止期間中に大きく変わってしまったようなのです。ある人が、5月半ば頃からコメント欄に登場するや、毎日のように短いコメントを連発し、時には同じ名前が3~5くらいずらっと並ぶことも珍しいことではありませんでした。そしてその人がコメントされるのは、たいがい演歌系や流行歌系でした。

 休止期間それをじっと見続けて、『どうも違うなあ。このままではいかんなあ』という思いをしておりました。それはまるで『うた物語』コメント欄が、マイク握って離さないカラオケ大好きお年寄りによる、「カラオケ大会」になってしまったと感じたのです。
 私は根っからの「大の歌好き人間」ですから、収録してある演歌、流行歌ももちろん聴かせていただいております。しかしそれと同等いやそれ以上に、叙情歌や童謡・唱歌や外国の歌などが好きな人間です。そして一つの歌へのコメントも、少し掘り下げた内容のコメントをしたい人間です。それが前半からのコメントスタイルでした。

 しかしその人の登場以来、「カラオケ大会風連発コメント」をしっかり学習した人がけっこういたようです。私はコメント再開にあたり、その流れを変えて従前のスタイルに戻すべく試みました。しかし一旦出来てしまった流れは、もう止まりませんでした。その人自身は9月で退場しましたが、第2、第3の人がその人のスタイルに倣って登場してきます。
 でもこのスタイルも、二木先生が『うた物語』というブログ形式にリニューアルされ、新たにコメント欄を設けられた時に、既に折り込み済みだったのかもしれません。実際多くの方が今のコメントスタイルに、特段違和感をお感じではないようです。

 しかし私はやはり違和感をぬぐえません。そして今の私には、お年寄りの「カラオケ大会」にお付き合いするゆとりはありません。
 なお例えコメントする立場から離れても、従前通り『うた物語』を愛聴させていただき、そのより良きご発展を願う気持ちに変わりはありません。
 (大場光太郎・記)

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天皇家3代の御名・考(2)

 そもそも天皇は古来、「スメラミコト」と言われてきました。この謂れについては、「澄める尊」など諸説あり、はっきりと「こうだ」と断定できる説はないようです。
 私個人としてはその中で、「スメラ」は「統べる」に転化され、「ミコト」は「尊、命」つまり「神の子たる人」の意味ですから、「尊の中の尊、尊たちを統合する尊」と解釈する説が最も真義に適っているのではないだろうかと考えております。

 もし仮に「天」あるいは「神」が本当に存在するのならば、そのような重大な天命を帯びた「天皇」あるいは「天皇家」は、特別に注視しているに違いありません。その一つの例として、現皇太子殿下妃・雅子妃と、秋篠宮妃・紀子妃の不思議な暗合を、以下に紹介してみたいと思います。

       おわだまさこ   (雅子妃旧姓名)
       かわしまきこ   (紀子妃旧姓名)
 両妃殿下の旧姓名のひらがな書きを並べてみました。まず左上の「お」から、2列目以降下、上、下、上、下とたどって読んでみてください。「おわだまさこ」と読めますよね。
 次に今度は、左下の「か」から2列目以降それとは逆に、上、下、上、下、上とたどってみてください。「かわしまきこ」と読めますよね。
 一般的に将来夫婦になるような恋人同士でも、大の仲良しでも、その他どんな親密な関係であろうとも、このように互いの名前を入れ違いで読んで、ぴたっと両人の名前が符合するというケースがどれだけあることでしょう。皆無とは言えないかもしれませんが、極めて稀だと思われます。

 ご存知のとおり、両妃殿下とも民間のご出身です。数奇な運命に導かれて皇室に嫁されるまでは、お互い無関係だったはずです。しかし実はお二人の名前にこのような奇妙な符合が見られる。このことは、皇室の一員となられる御方ともなると、予め(おそらく未生から)天の配剤によってすべては決定されていたのではないだろうか、と推測されるのです。

 もう一例述べさせていただきます。
 それは現年号「平成」の解釈についてです。年号は、天皇が変わる時に制定されます。昭和天皇崩御の時も同じで、いち早くこの年号に決定されました。
 ところで私は、平成と年号が変わったばかりの頃、橋爪一衛(はしづめ・かずえ―故人)という人からある絵画展の招待状をいただきました。それは、関係者や研究者の間では超有名な『日月神示(ひつくしんじ)』を伝達された岡本天明(おかもと・てんめい―当時既に故人)という人の絵画展が京都の某所で開催されるからご出席いかがですかというものでした。(橋爪一衛先生は、『日月神示』のダイジェストである『太神(おおかみ)の布告』を出版され、当時日月神示ブームを起こされた人です。)
 
 岡本天明は元々画家であり、その独特な画風の作品は、ニューヨークでも展覧会を開いて大評判になったほどのものだったのです。私は当時諸事、雑事に追われ同絵画展には行けませんでしたが、その案内状の中に平成という新年号に触れてあり、それが後々まで記憶に残ることになったのです。
 それは、天明夫人の岡本三典(おかもと・みのり)という人の解釈の紹介でした。それによると、
    平成は、「一八十成ル」
と読めるというのです。(「平」の字を分解すると、「一、八、十」)

 「一八十」は「岩戸」です。ちなみに『日月神示』では岩戸に関して、
    「岩戸は五度閉められているのであるぞ」
    「騙した岩戸からは騙した神が出てきて、ウソの世となったのじゃ。
    この道理分かるであろう」
    「五度の岩戸開き一度に致す」
というようなお示しがあります。
 これは驚愕の神示です。何と現歴史の全部がそしてその最終的成果である現文明が、五回も岩戸が閉められた末に築かれたものだというのですから。

 一回目の「岩戸閉め」は、伊邪那美尊(イザナミノミコト)が黄泉国(よみのくに)に薨った(みまかった)ことだそうです。そして止めの五回目の岩戸閉めは、仏教伝来だそうです。(なお釈尊の教えが悪いというわけではなく、仏教伝来と共に「仏魔」が渡って来て、それ以降完全な「闇の世」になってしまったということです。)
 更に驚くべきことは、超有名な天照大神(アマテラスオオミカミ)の「天の岩戸隠れ」は三回目であり、そして田力男命(タジカラオノミコト)の怪力で強引に岩戸をこじ開けて出てきた神が、実は「偽神(にせがみ)」だったとしていることです。そしてその結果「ウソの(はびこる)世」になったのだとも。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)   

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ご報告致します(4)

 昨12月25日(木)で、開設以来の総訪問者数が(偶然にもぴったり)5,000人に達しました。日々当ブログをご訪問くださり拙い記事をお読みいただいている方々、そしてたまたまであろうともお立ち寄りくださった大多数の方々、あらためまして深く感謝申し上げます。
 今回も訪問者の概要等を、以下にご報告致します。(下記数字には、私の分も含まれています。)

(1)開設(4月29日)~12月25日(241日)
    訪問者合計     5,000 人
    日 平 均       20.7 人
(2)過去30日分
    訪問者合計     1,013 人
    日 平 均       33.7 人
(3)訪問者2,000人当り対比
    前回  110日で到達 (7月15日~11月1日)
    今回  55日で到達 (11月1日~12月25日)
    今回/前回比     0.50 
(4)開設~今現在
    コメント数        194 件  (うち私の返信等93件)
                       *
 先月から何とかクリスマスイヴまで、それが無理ならせめて年内「5,000人到達を」と考えておりました。ちょうど業務多忙の時期と重なり、思うように当ブログに集中出来ず、クリスマスイヴまでという第一目標から1日遅れのクリスマス当日のクリアーとなりました。
ともかくも年を越すことなくクリアーできたことに、満足しております。

 今回は『何としても年内5,000人到達 !』の想いが強かったもので、どうしても訪問者の耳目を集めやすい政治的記事、社会的記事などがメーンになってしまいました。
 そうして始めた『レッドクリフ&三国志』『K-20怪人二十面相・伝』『小室哲哉逮捕に思うこと』『筑紫哲也氏を偲ぶ』『今は昭和初期と酷似 !?』『当代総理大臣事情』『いい加減にせよ。御手洗キヤノン』そして直前の『飯島愛の急死に思うこと』など。『レッドクリフ』『怪人二十面相』『小室哲哉』『飯島愛』のように、当初の思惑以上の訪問者が得られた場合もあれば、思ったほどには訪問してくれないケースもありました。
 忘れていました。『田母神論文をめぐって』。7回の大長文になってしまいました。見切り発車的に始めたものの、途中でどう終結させればよいのやら迷いに迷い、仕上げに苦労しました。『まあまあの出来かな』と自己満足しています。

 それらの記事は、当ブログの新境地(?)を開くものでもありました。そのような記事を扱うようになってから、レパートリーがより広がって、記事がより書きやすくなりました。
 全体的傾向として、堅苦しい政治的なものよりは、くだけた社会的、芸能的話題に触れるものがよりヒットしやすいようです。よって今後とも趣味と実益を兼ねて(笑)、この方面の話題も積極的に取り上げていく所存です。ただしあまり三面記事的になっても仕方ありませんので、今回の『飯島愛』のように、私なりの視点を入れることを忘れてはいけないと考えております。

 それと共に、従前どおり「自然観察文」「時候報告文」「名詩・名句観賞文」などは、訪問者はさほど期待できないものの、当ブログ当初からの持ち味ですから、今後とも折りにふれて掲載していく所存です。
 また他ブログには見られない、当ブログの持ち味はもう一つあります。それは『ロックフェラー・センターのこと』『2012年12月22日』『天皇家3代の御名・考』のような、「オカルト記事」です。オカルトの真意は前に少し述べましたとおり、「隠智学」です。つまり、これまでは訳あって一般大衆には隠されていた、智恵あるいは情報のことを言うのです。(なお今の小学校で教えている理科だって、100年以上前の人々にとっては「オカルト」だったわけです。)
 今は、一部では『黙示録の時代』という言い方がなされます。黙示録の原義はギリシャ語で「アポカリプス」、その意味は「覆い(ヴェール)を取り払う」ということだそうです。この世界はだんだん「隠し事の出来ない世界」に進化しつつあるのです。その証拠に、政治家、高級官僚、大企業など社会的強者の不正が、次々に明るみに出て来ているではありませんか。
 「世の人々よ。人のふり見て我がふりを直しておけよ」という、これも一つの「黙示」「型示し」であるようです。だいぶ話が脱線致しましたが、以上のような見地から、これらの記事はむしろ確実に訪問者を減らしますが、『オレが言わなきゃ誰が言う !』とばかりに、必要に応じて今後とも記事にさせていただきたいと存じます。

 なお次回ご報告は、「7,000人到達時点」とさせていただきます。
 それでは皆様。今年も残すところ後数日となりました。お体くれぐれもご自愛くださいまして、慌しい年の瀬をご健勝でお過ごしください。大変ありがとうございました。

 (大場光太郎・記)

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飯島愛の急死に思うこと

 私は最近は、テレビの報道番組などをあまり見ておりません。それで時々に生起する突発的な出来事を、少し経過してから知ることがしばしばです。クリスマスイヴだった昨日も、『えっ?まさか』と思うようなニュースがあったようです。

 それは、元タレントの飯島愛(36)の急死です。
 これは昨深夜当ブログからたどれる「ココログニュース」で知りました。そう言えば飯島愛は、去年3月の芸能界引退からその後消息が途絶えて、過去の人になりかけていました。そんなクリスマスイヴの日、数日来連絡が取れなくなっているのを不審に思った知人が、飯島のマンションを訪ねたところ、自宅のリビングで着衣のままうつ伏せで変わり果てた姿になっている飯島を発見したというのです。
 今のところ原因は不明であるものの、引退の原因ともなったと言われる腎臓の持病などによる病死ではないかとみられているようです。

 一時期テレビに出まくって、独特のキャラで時に言いたいことをズバズバ言っていた飯島愛を知る人は、いくら芸能界を引退したとは言え、あまりにも落差の大きい孤独死に、にわかに信じられなかった人も多いのではないでしょうか。
 AV嬢からのタレントへの転身、テレビ画面から伝わってきた独特のキャラ、自叙伝『プラトニック・セックス』の百数十万部という大ベストセラー…。波乱万丈で一見華やかそうで、その上気丈な姉御肌に思われた飯島愛も、その実は内面的に繊細でナイーヴな感性が潜んでいたのでしょうか。それに持病の悪化、うつ状態と、引退後は思うほどバラ色ではなかったようです。そして引退すると共に、それまでの芸能関係の濃密な人間関係が少しずつ疎遠になっていき、それに比例するように孤独の深まりを感じつつあった日々であったようです。
 今となっては余人には覗い知れません。ともあれ、「飯島愛の前に飯島愛無く、飯島愛の後に飯島愛無し」。そんな形容をしたくなるユニークな女性でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
                          *
 (話は変わりますが)今後は飯島愛のように、年令に関係なく『えっ?あの人が何で?』と思われる形で世を去るケースが、更に増えてくると思われます。しかし例え傍目(はため)には突発的な事故死のように思われても、すべては「魂」が事前に選択し、決定していることのようです。
 今は当ブログでそれとなく触れていますとおり、地球が「高次元世界化」しつつあるプロセスなのです。ひとくくりに「人類」とは言っても、今地球上で生きている65億人の生存の目的はそれこそ千差万別です。中には、高次元化しつつある地球環境に適応出来なかったり、スタディの目的があくまでも「三次元世界限定の学び」である場合などは、別の星系の三次元的世界で続きをスタディし直すケース、あるいは一旦地球のアストラル界やメンタル界に赴いてそこで準備し直してから新地球に戻ってくるケースなど…が結構あるようです。

 高次元的見地からすれば、「死というものはどこにも無い」そうです。私たちのエッセンスである「魂は永遠」なのですから、当然と言えば当然です。ですから、今後地上を去っていかれる方々も、それはそれで十分尊重されるべき選択の在り方です。
 何年か後に予定されている、この地球がメーンステージになる「宇宙的パーティー」。折角肉体を持って臨むことが出来る、千載一遇の大チャンスです。それゆえ今後いかなることがあろうとも、願わくばこの肉体のままでパーティーに参加したいものと意図しております。それには地球環境の「波動上昇」に伴って、自分自身の身心の波動も共に上昇させ続けていくことが必須条件です。
 (大場光太郎・記)

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クリスマスイヴの思い出など

        ああベツレヘムよ

1 ああベツレヘムよ などかひとり ほしのみにおいて ふかくねむる
  知らずやこよい くらきそらに とこよのひかりの てりわたるを

2 ひとみなねむりて 知らぬまにぞ み子なるキリスト うまれたもう
  あしたのほしよ うたいまつれ かみにはみさかえ 地にへいわと

3 しずかによつゆの くだるごとく めぐみのたまもの 世にのぞみぬ
  つみふかき世に かかるめぐみ あめよりく(来)べしと たれかは知る

4 ああベツレヘムよ きよきみ子よ いましもわれらに くだりたまえ
  こころをきよめ みやとなして いまよりときわに すくいたまえ (アーメン)
                       *
 きょう12月24日クリスマスイヴ、当地は晴天に恵まれました。とは申しましても、私は世の華やかなイヴとはとんと縁なく、まだ業務に追われ、本日は午後から横須賀市役所まで書類提出に行ってきました。
 私の、とても「クリスマスイヴモード」に浸ってなどおられない気分を反映して、街の様子も常と変わらないたたずまいに見受けられました。

 わが半生を振り返ってみても、例えば彼女と二人きりで超ハッピーな一夜を過ごしたとか、そんな輝かしいイヴの記憶はまるでありません。そんな中で懐かしく思い出されるのは、ずいぶん昔、昭和31年のクリスマスイヴのことです。
 既に『唐傘の思い出』でも触れましたが、その年の10月、母と私は郷里の町の母子寮にお世話になることになりました。私が小学校1年の時のことです。そしてその年のクリスマスイヴでのこと。我が母子寮では、毎年この夜は全寮が集会室に集まって、クリスマス会を催すのが恒例になっていました。そしてその晩は餅や料理やお菓子を食べながら、母子がそれぞれ歌や寸劇などの余興を披露し合って、一晩楽しく過ごすのです。
 
 その年はたまたま、私ら母子がそれまで暮らしていた太郎村より更に奥に入った、小滝という部落の猟友会の人たちが、母子寮に直前に鉄砲で撃った雉(きじ)を届けてくれたそうなのです。早速お母さんたちが、東寮と西寮それぞれにある共同炊事場で雉を料理したのでしょう。
 クリスマス会場である集会室に、良いにおいのする雉鍋が運ばれてきました。記憶が定かではありませんが、それは雑煮だったかもしれません。私たち母子は太郎村の時のように、飢餓線上ぎりぎりの境界は入寮のおかげで脱していました。しかしそれでも当時は、全般的に皆ひもじい思いをしていた時代だったと思います。
 その時どんな余興があったかなどは、全く思い出せません。ただ豪華な雉鍋を、『世の中にこんなうまい食い物があったのか !』と思いながら、夢中で食べたことだけが懐かしく思い出されるのです。

 なお、集会室でそういう集いは年何回かありました。そして集会の始めだったか締めだったかで、必ず歌われる歌がありました。『愛の母子寮』という、我が宮内町立母子寮の寮歌です。
    若草の 吉野の川辺
    水清く 母の憩える
    永久(とこしえ)の 平和信じて
              (この行 記憶なし)
    ああああああー 愛の母子寮
 
 甚だ記憶不鮮明ですが、1番は上記のようなものでした。小学校の時、この歌が1、2年先輩(5、6年生)の音楽の教科書に載っていたのを見せられた時はびっくりでした。作詞は今では分かりませんが、作曲は我が宮内小学校の渋谷先生という、当時若くてハンサムな先生でした。
 私が高学年になった時の教科書には、もう見当たりませんでした。とにかく掛け値なしに、良い歌です。今となっては歌詞の記憶がうろ覚えなのが残念ですが、メロディはきちんと歌えます。時々思い出しては歌っていますが、そのたび当時が思い起こされて涙がこぼれます。(私はどうも、涙腺が弱い人間のようです。)

 (冒頭に掲げました、『ああベツレヘムよ』は、「クリスマスキャロル」というページを参考にしました。太字部分をクリックすれば、同歌のMIDIが視聴できます。他に素敵なクリスマスソングがいっぱい揃っています。よろしかったらどうぞ。)
 (大場光太郎・記) 

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天皇家3代の御名・考(1)

 本日は天皇誕生日でした。今上天皇陛下はこの日、美智子妃殿下や皇太子殿下はじめ他の皇族方と共に、一般参賀の人たちの前に元気なお姿を見せられました。冬至をわずかに過ぎた一陽来復の暖かい日を浴びて、最近体調を崩されていたとは思われない張りのあるお声で、「だいぶ体調が戻りつつある」ことや「現下の不況を心配している。国民皆が無事乗り切れるよう願っている」旨のことを述べられました。
 今のどこぞのトップリーダーの軽いコトバと、陛下のお言葉はかくも違うものでしょうか?一言一言慎重に選びながら噛みしめるように話されるお言葉に、にわかに希望が湧いてきたのは私だけでしょうか?

 思えば現皇室は、万世一系とは申せ、上古、中世、近世と幾度も皇統断絶の危機を乗り越えて今日に至るまで絶えることなく続いております。覇道凄まじい西欧諸国の王室には見られない、世界に類を見ない稀有な皇室です。
 言うなれば皇室は、私たちにとって「総本家」にあたり、民族の拠り所であると共にまた誇りでもあります。現皇室の永久(とこしえ)の「弥栄(いやさか)」を、心よりお祈り申し上げます。
                      *
 さて、皇室のことを語るのはいささかはばかられますが―。
 今回は天皇家御3代の「御名(みな)」について、少し考えてみたいと思います。ご存知のとおり、昭和天皇から現皇太子までの御名は、以下のとおりです。
    昭和天皇  裕仁 (ひろひと)
    平成天皇  明仁 (あきひと)
    現皇太子  徳仁 (なるひと)

 だいぶ以前ある人が、この御3代の御名には大変深い意味があると述べていました。   
    「ヒロヒト」→「アキヒト」→「ナルヒト」
 その人はそれを読む人はそういうことに対して、一定レベルの理解力があるという前提で、あまり詳細は述べられていませんでしたが。要約しますと、それは以下のように解釈できるそうです。
    第一段階  「ヒト」の意義を、広く告知する。
    第二段階  「ヒト」の意義を、深く明らかにする。
    第三段階  今の「人」が、いよいよ「ヒト」に成る。

 30代の頃、「日本霊学(にほんれいがく)」を少しかじった者には、これだけで重大なメッセージであることが解ります。しかし一般の方々は、そんな日本何とか学とは、おそらく無縁だったと思われます。ですから、これだけでは何がなんだかチンプンカンプンでしょう。
 次回では、少しでも皆様のご理解をいただくために、私流の解釈を施してみたいと思います。どうぞ皆様も、御3代御一人御一人の時代背景を思い浮かべながら、次回までご自分でもそれが何を意味するのかお考えください。 (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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2012年12月22日

 本タイトルの年月日が何を意味するにせよ、きょうから「その日」まで、ちょうどあと4年間ということになります。と申しましても、そんな日付をこれまで耳にしたことのない方々にとっては、『何それ?』という感じかと思われます。
 ところがこれが、世界中の心ある人たちが密かに注目している年月日であるのです。ちなみにグーグル検索で「2012(半角)」と入力した途端、(最近グーグルの検索機能がグレードアップして)下に別窓で関連項目がズラッと出てきます。参考まで、その代表的な項目を以下に列記してみます。

      2012問題           451,000 件            
       〃  アセンション         191,000 件
       〃  フォトンベルト        45,600 件
       〃  予言            138,000 件
       〃  カレンダー         344,000 件
       〃  マヤ文明           28,700 件
というような具合です。どうでしょう?いずれも相当な項目数なのではないでしょうか?
 
 なお、肝心の「2012年12月22日」での検索結果では、何と、
      2012年12月22日    1,010,000 件
という驚異的な件数になりました。

 私は今回これを数回くらいのシリーズにして、少し掘り下げてみるつもりでした。しかし当ブログをご訪問くださる方々は、当然のことながらさまざまなお考えをお持ちです。上に列記した項目から推定できますとおり、かなり特殊な分野に踏み込んでしまうことになります。
 そこで今回は、ただ「2012年12月22日」という日付が、『今、世界的に密かに注目されていますよ』ということを示すに止めさせていただきます。そして(私としては、皆様方全員がそうあっていただきたいと念願致しますが)興味を持たれた方は、早速上記項目などを検索していただきたいと思います。
 そして真剣に(単なる「ひやかし」ではなく)お取り組みいただき、『何だ大した問題じゃないな』とか『いや待てよ。これはひょっとすると、最重要な問題かも知れないぞ』という結論を、各自できちんとお出しいただきたいと存じます。

 世紀末は「ノストラダムス問題」で大騒ぎになりました。各マスコミもその騒動に乗っかって、面白おかしく煽り立てたキライがあります。しかし今回はどうでしょう?私が思いますに、後4年と迫っているにも関わらず、各マスコミは異常など静かです。これはきっと何かあるのです。
 こう仮定してみてください。「9・11」でも「イラク戦争」でも、全世界のメディアはなぜ画一的な報道や見解しか出せないのだろうか?そもそものキッカケになった「9・11」には、米国政府の公式発表以外に、もっとドエライ真実があったのではないだろうか?世界中のメディアが真に独立言論機関ならば、その真実がどこかから暴露されるのが本当なのではないだろうか?
 
 実は世界中の主要メディアを、影でコントロールしている「奥の院」があるとみられるのです。「彼ら」にとってこの問題は実に厄介な問題なのです。このような肝心要の情報を全世界に公開してしまうと、彼らの支配(コントロール)機構がたちまち崩壊してしまうことを、「彼ら」はよく知っているのです。それゆえ今後よほどのことがない限り、主要メディアがこの問題を取り上げることはないと思われます。

 ですから、お一人お一人が「自己責任」において探求していくことが、是非とも必要なのです。それには現在はしかるべき書籍以外に、「インターネット」はかっこうの情報源になっております。「彼ら」とてネット情報を封じ込めることは、最早不可能になってきているからです。
 なお、お調べになってご疑問などあり質問コメントありましたら、その時は私に分かる範囲でお答え致したいと存じます。また何かの折りに、この問題を少しずつ取り上げていくかもしれません。
 (大場光太郎・記)

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けふ冬至

    おふくろの冬至かぼちゃはもう食へぬ   (拙句)

 きょうは二十四節気のうちの「冬至」です。あらためて申すまでもなく、一年のうちで昼が一番短く夜が最も長くなる日です。これは太陽黄経が270度になり、北半球では太陽の南中高度が最も低くなるためです。(逆に南半球ではこの日は夏至であり、南半球にとっての冬至は北半球での夏至と真反対になります。)

 確かに盛夏の頃、日は最も中天高くギラギラまぶしく輝いていました。それが秋分の日を過ぎた頃から太陽は真東からやや南寄りの方角から上り、真西からやや南寄りの方角に沈むようになります。そして冬至のきょうは、日の出、日の入りが最も南寄りになります。
 例えば当地の日の入りを例に取るとよく分かります。というのも、既に何度も述べましたとおり、西の方角にはでんと大山の秀峰そしてその右側(北の方角)には丹沢連峰が連なっているからです。盛夏の頃、日はずっと北寄りの丹沢連峰の中ほどの一峰に沈みます。それが今の冬の季節には、日は大山よりも更に南に寄った左手の方角に沈みます。

 ちなみに大気が澄み切った今の季節、平塚市との境辺りまで車を走らせますと、大山の左の方遠くに、3、4合目から上のほぼ完全かつ秀麗な富士山の姿を望むことが出来ます。
 山形の田舎町で生まれ育った私は、当地で初めて富士山の全貌を目にした時は、感激というよりは『まさかこのオレが富士山を間近で見られる土地に住むことになるなんて』と、一種奇異な感がしたものでした。

 冬至のこの日、我が国では冬至粥(小豆粥)や南瓜(かぼちゃ)を食べ、柚子湯(ゆずゆ)に入ると風邪をひかないと言われています。昔々冬至の頃は、食物は枯れ動物は冬眠に入っていなくなり食物が手に入りにくくなりました。そのため昔の人々は、冬の生活に不安を感じていたのでした。そこで無病息災を祈るためと野菜の少ない季節に栄養を補給するためかぼちゃを食べたり、その香りに邪気を祓う霊力があるとされている柚子の風呂に入って冬至の夜を過ごしたもののようです。
 また柚子湯の謂れとしては更に、冬至を「湯治(とうじ)」と掛けて生まれた習俗でもあるようです。柚子自体にも意味があり、「融通(ゆうずう)が利きますように」という願いも込められているそうです。

 私は柚子湯は滅多に、そして今もって当地の「冬至かぼちゃ」がどんなものなのかよく分かりません。私の冬至かぼちゃはもっぱら、亡き母がこの季節になると作ってくれたものです。私の地方では俗に「小豆(あずき)かぼちゃ」と呼んでおりました。かぼちゃと小豆を一緒に煮込んで、適量の砂糖を加えてほど良い甘さ、ほどよい柔らかさにして食べるのです。
 おふくろは本当に無学な百姓女でした。しかし料理は好きな人で、当地に来てからも郷里に伝わる料理をせっせと作っては、私という出来の悪い息子に食べさせてくれました。
 今となっては、ただその一事だけでも、亡母には感謝、感謝です。

(追記) 本記事をまとめるにあたり、フリー百科事典『ウィキペディア』の「冬至」の項。また『日本文化いろは事典』の「冬至」の項を参考にしました。
 
 (大場光太郎・記)

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いい加減にせよ。御手洗キヤノン !

 年の瀬だというのに、派遣社員のクビ切り、正社員のリストラ、内定取り消しと、雇用悪化のニュースが流れています。そんな中、つい先日それに関連したあるニュースが流されました。
 それは、大分県杵築(きつき)市が、地元の「大分キヤノンマテリアル」と「大分キヤノン」を解雇される請負社員約1,200人を臨時職員として雇用することを決め、今月16日から募集を始めたというものです。不況風が吹き荒れ、ただでさえ財政が厳しい地方都市としては大英断であり、拍手を送りたくなります。

 ただ最長1ヶ月という短期雇用のようですが、クビを切られた非正規社員を自治体が直接雇用する例は近年はあまり聞いたことがありません。期間は来年3月までで、道路舗装などの補助が主な仕事で、市内の研修施設を緊急宿泊施設として提供するほか、5,400円の日当を支払うとのこと。一人当たり月収11万円前後になる見込みで、事業費はおよひ2,000万円程度になるそうです。
 市は予備費などを充てる計画ですが、一般会計で30億円ほどの小規模自治体に、支出する金額としては決して小さくはないと思われます。

 それにしても問題なのは、キヤノン側です。
 同社は「生産数量の減少に伴う雇用調整のケースが出ている」としています。しかし何と、キヤノンの「内部留保」は9月末時点で、約3兆円にも上っているのです。今回解雇される1,200人の社員の全収入を合算しても、必要額は0.1%程度。850年間雇い続けられるのです。

 キヤノンは、ボロ儲けするために、違法な「偽装請負」までやって労働者を安くコキ使い、去年国会でも問題視されました。キヤノンの現在の総帥の御手洗富士夫(73)はまた、「財界総理」と言われる経団連の会長でもあります。その経団連会長のお膝元で、白昼堂々違法行為がまかり通っていたのです。
 国会で民主党などから追及されると、「派遣法を変えろ」と開き直る始末。その御手洗富士夫の年収は、何と2億円だそうです。アンタさん、財政難の自治体に尻拭いさせずに、この非常時、自分の取り分の半分でも拠出して解雇者の雇用を守ってやったらどうなんだ !

 キヤノンの創立は、戦前の1937年(昭和12年)だそうです。創立者である吉田五郎は、観音菩薩を熱心に信仰していたことから、「キヤノン」という社名になったことは有名な話です。創立後しばらくは、創業の精神は大いに生かされていたのでしょう。戦後特に急成長し、現在ではカメラ、プリンタ、複写機をはじめとする事務機器、デジタルマルチメディア機器などを製造する、日本を代表する精密機器メーカーにのし上がりました。
 アメリカ、中国、オーストラリアなどに現地外国法人を有し、今や「キヤノン」は世界的に通用するブランドです。

 ところで観音様は、正式には「観世音菩薩」です。すなわち、老若男女一切衆生の祈り、希求、苦悩などの「世音」を如実に「観じ」給い救い給う、慈愛溢れる菩薩なのです。
 それが何たる所業だ。御手洗富士夫 !
 よりによってこんな寒空の師走に、多くの善男善女を路頭に迷わせて。これでは菩薩業どころか、血も涙もない悪鬼羅刹の所業ではないか ! 観音様のみならず、創業者の吉田五郎、それを後援したそなたの叔父上の御手洗毅も、泉下で泣いておられるぞ !
 
 (今回の記事をまとめるにあたり、「12月18日付日刊ゲンダイ」などを引用、参照しました。)
 (大場光太郎・記) 

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当世若者気質(3)-思い上がるな!植田佳奈

 以下は、本日の「ココログニュース」で見つけた新記事です。

 アニメやゲームで声優として活躍中の植田佳奈(28)が、自身が担当するラジオ番組で「問題発言」をして批判にさらされ、ネットで「祭り」が発生した、というものです。その問題発言の概略は―。
 
 電車内で座席の下に空き缶を置いたことを注意した「おっさん」に、植田が逆ギレした。
 植田はラジオ番組の中で、「このオヤジを―、社会的に抹殺とか、とにかく辱めて―、あいつが悪い方にさせるには、どうしたらいいかって考えたわけ」として、大きな悲鳴を上げ名誉毀損や傷害罪などにして、そのおっさんを社会的に抹殺すると、その方法を約5分間にわたって語り続けたというものです。

 問題の発言は、ラジオ関西で毎週土曜日25時から放送されている深夜番組『アニたまどっとこむstandardまるなげ♪』の、12月6日放送分で行われたものだそうです。
 放送直後から、ネット上では植田発言に対する批判が殺到し、ラジオ音源が次々とアップロードされた。これを聞いた人たちからも、植田に対する怒りの発言や抗議だけでなく彼女への擁護発言も寄せられ、たちまち祭り状態になった、というものです。
 (「ココログニュース―声優植田佳奈 おっさん抹殺発言で祭り発生」をかなり援用)

 以上が今回取り上げている「事件」の概要です。私はこれを読んで、何年か前報道番組でも取り上げられ話題になった、ある事件を思い出しました。
 それは朝のラッシュの電車内での出来事。大混雑の車内である女子大生が、周囲の迷惑などお構いなく、大きな声で携帯電話で通話していました。すぐ側にいた50代の会社員が、見かねて通話を止めるよう注意しました。(しぶしぶ女子大生はそれに従ったのかどうか、仔細には記憶していませんが)電車が次の駅に停車した時、注意した会社員を無理やり電車の外に連れ出し駅員室に連れて行き、「この人痴漢です!」と訴えたのだそうです。
 駅員たちはその言葉をすっかり信用し、警察に通報。会社員は痴漢の容疑者として即拘束、何日間か留置されたのです。
 その会社員は某社においてしかるべ地位もある人です。また痴漢の濡れ衣を着せられて、家族にも迷惑がかかりました。会社員は自身の名誉にかけて、こんな冤罪を絶対認めるわけにはいきません。彼女と徹底抗戦すべく裁判を起こしました。そして確か今年だったか、第何審かで晴れて「無罪」を勝ち取ったはずです。

 こういう問題、事件が起きるたび思うことは、今の若者特に若い女性の「思い上がり」ということです。「ジコチュー(自己中心的)」という言葉が一時ハヤリましたが、本当に彼女らの「アタシがこの世の中心なのよ ! だから何をやっても許されるの」という傲慢な態度を、私なども日常的に見かけます。
 彼ら、彼女らは、生まれた時から衣食住すべての面で何不自由なく育ってきました。更には今のテレビなどのコマーシャリズムが、ターゲットである若者たちにスポットを当て、過度に誉めそやします。我が国始まって以来、若者がこんなにもちやほやされ、持ち上げられた時代は他に無かったのではないでしょうか?
 彼らもすっかりその気になっています。自分と自分の利害関係の及ぶ範囲さえよければそれでOK。苦労知らずですから、人の痛みなどとんと分かりません。直接関係ない人への思いやりや周囲への配慮などは、著しく欠如しています。(但し若者全部がそうだと言うことではありません。)
 
 既に述べたことですが。私は船井幸雄という人を、今でも高く評価しています。船井氏はかつて『百匹目の猿』という本を著しました。全体的には大変良い本です。ただ一ヶ所、ひっかかる所がありました。それは、「百匹目の猿」のモデルとなった、宮崎県の幸島で、最初に海水にイモをつけて食べたのが、若いメスザルだった。ゆえにこれを敷衍して、今後この社会をより良い方向にリードしていくのは、若い女性だろうということです。『ホントにそうか?』。当時から、若い女性の傍若無人な所業に何回も遭遇していた私は、大変疑問に思いました。
 なお同著では、社会の変革に最後まで抵抗するのが、今回の一方の主役である「おっさん」たちだそうです。特に45歳を過ぎた男性諸氏は、従前の悪しき社会システムが骨の髄まで沁みこんでいて、変わるのが大変難しいそうです。これは私自身該当者として、当時も今も素直に『確かに』と認めざるを得ないところです。

 しかし、「若い女性vsおっさん」という対立図式で、いつも目の敵のように見られるのはいかがなものか。今の社会は、「長幼の序」がまるでひっくり返っています。若い者が異常に「高上がり」しています。そんな彼女らからすれば、年長者特に「おっさん」は、侮蔑すべき対象なのでしょう。女子高生が実の父親のパンツを洗濯するのに、箸でつまんで洗濯機の中に入れたということが話題になったのは、もう20年も前のことでしょうか。
     16歳できれいなのは当たり前で、自慢にもならない。
     しかし60歳を過ぎてもなおきれいだったら、それは魂の
     きれいさだから、私はその人を尊敬する。  (外国の誰かの言葉)
 
 今回の件は、『たかが空き缶一つで』と思われないこともありません。しかしそこは、人生経験を豊富に積み重ねてきた人の助言として、謙虚に耳傾けて。
 何せただ若いだけで、「経験」という人生最高の財産をまだそんなに保有していないんだから。それなのに、「社会的に抹殺せよ」とは、アンタら一体何様のつもりだ !

(追記) 「百匹目の猿現象」。以前当ブログでも取り上げ、その時「それについて記事にします」と申し上げました。それで少し調べた結果、『生命潮流』という大著でそれを発表したライアル・ワトソン教授が、そもそもの事実を意図的に改ざんした疑惑があることが判明しました。誤った記述に基づいて、その後「百匹目の猿現象」は一人歩きしてしまったわけです。よって、記事として取り上げるのは見合わせました。

 (大場光太郎・記) 

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星の界への憧れ(5)

 こうしてにわかにまた宇宙熱が昂じ、「二木紘三のうた物語」の『星の界』コメントで述べましたとおり、天体望遠鏡を買うまでになりました。高校2年の晩秋頃のことでした。
 東京の某社から送られてきた望遠鏡キッドを、実際自分の手で組み立てて望遠鏡を担いで野外に出て、三脚をしっかり固定しながら、いざ星空に望遠鏡を向けた時のワクワク感と言ったら !

 先ず驚いたのは、倍率が30倍、50倍、100倍と上がるにつれて、観測しようとする一つの天体、例えば月なら月の逃げ足が早くなることでした。『おい、ちょっと待ってよ』と思うくらい、望遠鏡の視界からどんどん外れていきます。その時改めて感じたのは、通常ではなかなか実感できなくても、『我が拠って立つ地球は結構早いスピードで自転してるんだな』ということでした。
 多分天体観測初心者の誰でもそうでしょうが、先ず最初に覗いてみたくなるのは、何と言ってもやはり月です。私もそうでした。そして写真などで見て分かってはいても、月の表面のあのクレーターがググッと間近に迫ってきた時は、本当に大感激でした。

 初観測の前に天文年鑑によって、予めその時見える惑星が何で、だいたいどの方角かくらいの予備知識は頭に入れていました。少し夜が更けていたせいか、宵の明星(金星)は既に西に沈んでしまっています。火星や木星もその時期は見られなかったようです。
 そこで次に探し当てて覗いたのが土星でした。最大100何十倍くらいの倍率では、そんなに大きくは見えません。しかし、土星のトレードマークである輪は、しっかり確認出来ました。確か人類史上最初に望遠鏡を使って天体観測を始めたのは、かのガリレオだったと記憶しています。そのガリレオでさえ、土星の輪にはびっくりしたようです。その時の私は、そんな「大偉人の驚き」にどれだけ迫れたことでしょう?
 そして次なる感激は、南の比較的低い空に、全天一の輝度をもって煌々とまたたくシリウスを覗いた時でした。知識としては分かっていても、『やっぱり一つ星ではなく、連星だったんだ』と確認できた時の嬉しさと言ったら !

 こうして夜な夜な、冷え込む外に出ては、あっちの星、こっちの星と観測し続けました。人によっては、それをキッカケにみっちりその道の学問を習得して、プロの天文学者の道を歩んだり。そこまではいかなくても、ますます「星の界」の魅力に取りつかれて、アマチュアの天体観測家として時に何とか彗星を世界に先駆けて発見して、時の話題になったり…。
 しかし私の場合は、それ止まりでした。しょせん私は理数系向きの人間ではなかったようです。望遠鏡を星空に思うさま向けたことで、私の宇宙への興味はほぼ燃焼されたもののようです。
 当時としては超高価な買い物であったにも関わらず、そのうちピタッと星空を覗かなくなりました。天文年鑑などを駆使して、根気よく観測に取り組んでみればいいものを…。もともと飽きっぽい性格の私は、次の深い観測レベルに進むことなく、ほんの初歩の段階で終わってしまったのです。(以後望遠鏡は一度も取り出すことなく、今でも青春の思い出として、当家の押入れ深くしまい込んであります。)

 高校を卒業して当地に来てからは、「星の界」への関心は更に遠のきました。唸りをあげて猛り狂う首都圏の厳しい現実に(と田舎者の私には実感されました)、「星の界への憧れ」も、更には諦めたようで心のどこかで持ち続けていた「文学への憧れ」も、共に木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのです。
 そして30代前半頃からは、物質的なそれゆえどこか冷ややかで虚無的な「無窮の遠」にではなく、心の内面に広がる真に豊穣な「無窮の遠」への探求の方に、関心を見出すようになっていきました。そしてその探求は、今現在でも続いております。諸事飽きっぽい私ですが、この探求だけは決して飽きることがありません。  ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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星の界への憧れ(4)

 T先生の予定のコースの第一関門は、地域の最名門高校である(上杉藩の藩校でもあった)米沢興譲館高等学校に私が進むことだったでしょう。しかし学校の勉強がとにかく嫌いなことが祟って、中学2年の2学期辺りからは数学や英語などは雑学ではいかんともし難く、学年トップテンから見る間に下落し、進路が決まる中学3年の2学期には30位以下にまで転落していました。
 これでは米沢興譲館高校は諦めざるを得ず、地域2番目の長井高等学校に進学することになりました。(なお、その後の母校の自助努力と後輩たちの頑張りにより、現在では偏差値60以上で、米沢興譲館高校に後一歩まで迫っているようです。)

 こうして第一関門で早くもつまづいてしまいました。また肝心の「小説」では、私もその気になって中学、高校を通して何か短編でもと何度もチャレンジしました。しかし小説というものをどう書けばいいのかすらさっぱり分からず、『先生は期待してくれたけど、オレには小説家の才能なんかないや』と、早々と見切りをつけてしまいました。そしてその心理的代償のように、小説よりは作りやすい下手くそな詩を作ったりしていました。

 (以下は、今年3月の「二木紘三のうた物語」の『遠き山に日は落ちて(家路)』コメントと重複しますが)
 長井高校の3年間を、長井線の宮内町駅から南長井駅まで、汽車通学で学校に通いました。秋頃ともなると、4時半も過ぎると辺りは暗くなってきます。帰りは、地元の宮内町駅に着く頃には日は早やとっぷりと暮れていました。駅が町の西の外れとすると、当時お世話になっていた宮内町立母子寮は東外れです。駅から母子寮まで、ほぼ東西に伸びた距離にして2、3キロの、町で中本かの大路の一つが通っていました。
 昭和40年代初頭頃の、まだ街の灯りも乏しかった東北の田舎町です。その道を歩きながら道に沿った星空を見上げると、見事なばかりの満天の星空が広がっていました。やや南よりの東空には、オリオンもシリウスも見え過ぎるほど、煌々と煌めいていました。

 そのようにして暗い夜道を家路についているうちに、進む道のちょうど東の45度くらいの高さの空に、いつも決まって薄ぼんやりと煙ったような星の固まりが浮いていることに気がつきました。『あれっ。何だろう?』。
 何回もその星の塊りに出くわすうちに、いよいよ興味が湧いてきました。それである時、学校の図書館で天文年鑑を繰って調べてみました。するとそれが、「昴(プレアデス星団)」であることが解りました。

 これをきっかけに、私の中に潜在していた「星の界への憧れ」が少しまた目覚めたようです。
 高校1年の2学期に体育系の部活をやめてからは、放課後はもっぱら学校の図書館で過ごすのが日課になっていました。そして借りて読むのは、主に外国文学でした。それに混じって天文学に関する本も、たまに読むようになりました。
 当時は、ジョージ・ガモフ(1904年~1968年)というロシア生まれのアメリカの理論物理学者が、その分野の最先端を行っているようでした。図書館のしかるべきコーナーには、『ガモフ全集』がズラッと並んでいました。どちらかというと、文科系の頭脳回路になっていた私は、さすがにそれを読破するには到らず、『宇宙のトムキンス』や『宇宙の創造』といった本を手にとってパラパラとめくって拾い読みした程度です。

 また名前や書名は忘れましたが、当時の我が国の理論物理学者が著した最新宇宙論に関する本は読破しました。
 それによると、20世紀になってアインシュタインの特殊そして一般相対性理論またボーアの量子力学の発表により、従前の宇宙像は劇的に変化することになった。それまで宇宙は、一定の大きさで恒常的に存在し続けるという「定常宇宙論」が定説だった。しかしその後、地球からどんどん遠ざかっている星雲が多く確認されたり、またアインシュタインらの登場により、宇宙は今から約150億年前にビックバン(Big Bang)という宇宙的爆発によって無から生じ、今なお膨張し続けているとする「ビックバン理論」が主流となっている。
 今となっては大方は忘れましたが、主なところはそんな内容だったと思います。とにかくその刺激的な内容に、ワクワクしながら読み進めたことを覚えています。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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オリオン賛歌

  真冬の張りつめた厳しい夜空に
  高く輝かな オリオン星座よ
  永久(とこしえ)に我と共に在れ

  逞しき腕(かいな)に斧持ちて
  全天を駆け巡る汝(なれ)が勇姿に
  猛り狂う野牛も怖れをなして
   疾々(とくとく)退きぬ
  オリオン星座よ
  汝こそは 全星座中の王者なり

  嗚呼、我が願いこそ
  汝が腕に抱かれて
   高らかに凱歌を奏して
  全天を経めぐりしことなりき

  勇士オリオンよ
  永久に我と共に在りて
  汝が湧き出る 凛々たる勇気を
  涯(はて)しなき高き星の国より
  常に 我が身体にふり注げ

      (昭和42年1月―大場光太郎)

 …… * …… * …… * …… * ……
(追記)
 私が高校2年の冬に作った詩です。
またまた気恥ずかしい、下手くそな詩ですが、
今連載中の『星の界への憧れ』との関連で
公開することに致しました。  

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星の界への憧れ(3)

 仲良しだった二人は2学期から別のことで忙しくなり、私たちの天文部はいつしか自然消滅してしまいました。というのも、2学期が始まって間もないある時、学級全員を前にして担任の先生が「I君とT君は、山形東高等学校の附属中学校を受験することになった。その準備のため、放課後などは他の人たちとは別行動になる」と告げたからです。
 山形東高校は、山形市内にある県下トップの進学校です。彼らはその附属中学に進むので、その受験勉強で忙しくなると言うのです。

 当時は学区制が今より一段と厳しかったはずです。子供の感覚では遠い山形市の中学まで…、どんな特例によるものだったのでしょう。とにかく先生のこの告知をもって、二人とはいつしか疎遠になっていきました。『チェッ。オレとそんなに出来は違わないのになあ』。私は大いにがっかりしましたが、こういうことは子供の領分を越えた所で決定される、いかんともし難いことです。
 このことも、世の中の不条理の一コマとして、私の記憶に残ることになりました。

 ちなみに小学校卒業と共に、二人を除いた学年全員は地元の中学に、そしてI君とT君だけは予定のコースに。その後の彼らのことはよく分かりませんが、多分そのまま山形東高校に進み更にしかるべき大学に入ったのでしょう。
 ずっと後の風の便りでは、その後二人とも地元の町に戻り家業を継ぎ、大いに盛り立てているようです。

 かくて天文部の消滅と共に、私の天体や宇宙への夢もいつしか冷めてしまいました。
 地元の中学に入学した私は、一年生時の担任としてT先生と巡り会いました。私が中学に入学する3年ほど前、私の町から初めてFさんという東大生が出ました。初めてというより、我が町からは後にも先にもFさんただ一人です。小さな町ですから当時だいぶ話題になりましたが、中学時代のFさんを育て、東大受験に導いたのもT先生であることを入学してから知りました。私たちの奮起を促すため、Fさんが中学生の時からいかに非凡だったかを、T先生は授業の合い間に話されることがありました。
 そんなT先生は入学早々、私の有るか無きかの「才能」を見出し、今度は私を「作家」「小説家」に育てようと、(今にして思えば)本気でお考えのようでした。

 文学・小説の世界はどちらかと言うと、人間社会の複雑に交錯する綾に鋭くメスを入れ、その矛盾や不条理や葛藤を抉り取る作業です。T先生によって、少しだけ「文学開眼」させられた私にとって、人の界(よ)を遥かに超えた星の界は、いよいよ関心外になっていきました。
 私の半生の中で、T先生くらい私の乏しい才能を高く買ってくれた人はおりません。その意味で先生は、我が人生で一番有り難い恩師と言ってよい人です。『あの頃T先生の言うことをもっと真剣に受け止めていれば、今頃どうだったのだろう?』。期待を裏切り続けた罪滅ぼしと、せめてものお礼に、T先生のことを当ブログでと考えつつもまだ書けません。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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師走半ばに思うこと

    夕月の方に走りし十二月   (拙句)

 12月を古来「師走」と言い習わしています。昔の「師」と言えば、位の高い僧侶や○○道のお師匠さんといったところでしょうか。そのような人ならば普段の月は、泰然自若どっしり構えていられるものを、さすがに年の瀬ばかりは諸事に追われて慌しくあちこち走り回るということなのでしょう。

 現代において師は、「先生」と言い換えられることが多いようです。しかし当今は「先生」と呼ばれる人の何と多いこと !
 先生の呼称で先ず思いつくのは、何と言っても学校の先生です。教授、教師、教官。国立、公立、私立。大学(最近は大学院も決して珍しくありません)、高校、中学校、小学校、それに自動車学校や各種専門学校。全国に夥しく林立する学校で教える人たち全員を先生と呼ぶのなら、一体どれだけの数の先生がいるのでしょう?

 また何とか医大や国立何とか病院といった大病院のドクターから、各地域の開業医による町医院の医師たちも、おおむね「先生」です。そして専門によって、外科、内科、神経科、産婦人科、小児科、歯科、耳鼻咽喉科…。加えて町の到る処にある犬猫病院(さすがにここの人は、先生とは呼ばないか!?)。
 こうしてみると、全国津々浦々の大小病院にどれだけの先生がいることだろうか。(しかしそれでも、教師も医師もまだまだ不足気味のようです。)

 忘れていました。衆参両議院の国会議員の方々も先生です。県会議員や市会議員の人たちも、やはり先生なのでしょうか?
 そして何より。私は行政書士業を営んでおりますが、その他弁護士、公認会計士、税理士、司法書士といったいわゆる「士業」の人たちも先生と呼ばれることが多いようです。(かく言う私も、顧客の中小企業経営者や担当者から「先生」と呼ばれたりします)。
 弁護士や公認会計士は別格として、士業に携わる人たちも夥しい数に上ります。難関と言われる税理士でさえ全国に4、5万人、既に飽和状態です。ちなみに、我が行政書士は全国で約2万人余です。私が所属しております神奈川会は、東京、大阪についで多く、2千人以上が登録して日々しのぎを削っております。

 以上列記した以外にも、あちこちに隠れた先生はまだまだ大勢いることでしょう。
 「先生」というものは、数に限りがあってこそ、その権威が守られまた尊敬もされるものでしょうに。当今はかくも大勢の「先生方」がおいでになるわけです。
 中には大分県の教師不正採用事件や、教え子への淫行教師や盗撮教師、弁護士先生による詐欺事件、悪徳代議士先生による汚職事件等々、先生自らがその品位を貶めているケースもまま見受けられます。
 
 私も含めて、先生の「品質向上」のため、「先生の先生」が必要なのでは?と、師走の東京や横浜などを走り回りながらふと考えたことでした。
 (大場光太郎・記)

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星の界への憧れ(2)

 ただし私が星や宇宙に興味を持つことになったきっかけは、星空を眺めたからではなかったようです。
 小学校4年生の頃のある日。天体のことを記した本を学校の図書館でたまたま手にしたのがきっかけだったと思います。それまで宇宙については全くの無知でしたから、どんな内容なのかさっぱり理解できません。しかし本の口絵を開いた時、その絵に引きつけられました。
 そこには一つの星の誕生から死までの「星の一生」が左下から右上にかけて弧を描くように全部で十段階くらいに並べてある絵でした。私はその美しさと共に、何か荘厳で神秘的にすら思われて、しばし呆然と眺めていたことを今でもハッキリ覚えています。(と言っても、その時その本は借りませんでした。)

 小学校6年新学期スタートと共に、課外活動の一環として中学以上の「部活」の真似事のようなものが取り入れられることになりました。各グループに分かれて、好きな部を作り週の1、2回の放課後をその自由研究に当てるというものです。そこで私は、二人の仲良しの級友と共に「天文部」を作りました。

 彼らは共に町の金持ちの子息で、勉強もトップクラスでした。羨ましいことに二人とも、ボーイスカウトに所属していて、そこでの歌や活動のようすなどを話すこともありました。私も勉強はトップクラスで、彼らとは5年生の2学期頃から、大の仲良しになっていたのです。
 
 (余談ですが)私の母は、尋常小学校卒業だけの無学な百姓女です。幸いなことに(?)私が高校卒業までただの一度も、「勉強しろ!」などという「責め苦の言葉」を投げかけたことはありません。それに八畳一間の我が家では、私専用の勉強机などあろうはずもなく、家で机に向って勉強するという習慣はとうとう身につきませんでした。

 そんな私でしたが、いつしか図書館の本を借りて、家で寝っ転がりながら読むのだけは習慣になりました。国内外の偉人伝、冒険小説、空想科学小説(後のSF小説)、シャーロックホームズ全集、ルパン全集…(すべて少年版)。いつしか本を読みふけることが、私の楽しみであり、また喜びになっていきました。多分全校でも、私以上に本を読んでいた少年少女はいなかったのではないでしょうか。
 本で得た雑学のおかげで、いつの間にかトップクラスの成績になったのだと思われます。

 共に天文部を作った級友のうち、I君は町外れの大きな麺工場の御曹司、T君は目抜き通りの電気店の御曹司です。5年生のクリスマスイヴには、T君と共に私もI君の家に招待され、ご両親を交えて楽しい聖夜を過ごしました。
 三人で「天文部」を作って、さて具体的に何をしたのかは思い出せません。さすがに両君も、天体観測をすべき望遠鏡などは持っていませんでした。そこで、理科室を借りて互いに持ち寄った、星や天体や宇宙に関する本を広げながら、互いに自分が知り得たことを発表し合った、そんなことだったと記憶してします。

 当時の知識としては、地球は金星や土星や天王星など他の惑星と共に太陽系に属し、それぞれが太陽の周りを回っていること。太陽系は天の川銀河という無数の恒星からなる銀河系に属している。同銀河の直径は10万光年(30万km/秒の光が10万年かけて届く距離)であり、太陽系はその銀河の中心から4万光年も離れた辺境といっていい所に位置している。そしてこのような銀河系が、宇宙全体には無数に散らばっている。というようなことだったでしょうか。

(追記) なるべく簡潔にと思いますが、私のいつものクセで時折り話が脱線します。それをご了承の上、どうぞ気楽に本記事とお付き合いください。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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星の界への憧れ(1)

 「二木紘三のうた物語」が新しくアップしました、『星の界(よ)』が大人気のようです。先週のアップと共に、同歌へのコメントが毎日引きもきらない状態です。かくいう私もつい昨日コメント致しました。一つは歌自体の持つ素晴らしさ、そして次には同歌によって触発される、ある懐かしさの感情の喚起が大きな要因なのではないでしょうか。
 
 二木先生も解説で述べておられますとおり、この歌は賛美歌としても使われております。実際二木先生も、『星の界』の歌詞と共に、賛美歌『いつくしみ深き友なるイエスは』の歌詞も併記しておられます。そのためコメントも、それぞれの歌詞についての思い出や感想に分かれるようです。
 私にとって『星の界』の方は主に郷里の子供時代の思い出、そして『いつくしみ深き…』の方は当地に来て大人になってからの思い出に結びつきます。今回の『うた物語』コメントは、そのうちの10代の頃の『星の界』についてでした。私は以前の『うた物語』での長文コメントの反省から、「なるべく短く」を心がけております。それで同歌コメントで触れられなかった、星や宇宙への憧れの思い出などを、今回は以下に述べていきたいと思います。
                         *
 私の子供時代の「星の界」への関心は、郷里の星空と密接に結びついているように思います。もっとも私のみならず、子供時代全天に星を散りばめた夜空を眺めては、星々や宇宙への関心や憧れや神秘の想いを深くした方も多いのではないでしょうか。
 私もそうでした。昭和30年代山形の田舎町には、まだまだ町全体や各家庭に灯りが乏しく、夜ともなると空一面に星々の饗宴が繰り広げられているかのようでした。やはり子供たちが星や宇宙への素直な関心を持つためには、何よりも先ずそのような見事な星空が見られることが大切だと思います。

 当地(厚木市)のような一地方都市であっても、まるで町全体が不夜城のように、通りにはネオンや電飾看板で溢れかえり、それに加えてびっしり建て込んだ家並みからは漏れすぎる灯かり…。夜はいつまでも夜光都市のようにボーっと明るく、それに伴って夜空はうすぼんやりとした星が申し訳程度に輝いているのみです。
 それでも一等星は難なく見つけられるとしても、二等星(1/2×1/2=1/4。つまり一等星の1/4の輝度。三等星は1/9の輝度)以下ともなると徐々に見つけるのが困難になります。それはまるで星がぽつんぽつんと申し訳程度に散らばっている感じで、私が郷里で毎夜目にした星空とはあまりにも異質です。

 当厚木市は、私が来た昭和43年当初からそうだったようです(当時の人口は7万人弱。現在では約22万人)。
 今なぜそう思うかと言いますと。こちらに来た翌年6月下旬、私が20才の時、当時の友人二人で二泊三日の尾瀬への旅に出かけたのです。奇跡的に三日間とも晴天に恵まれた旅の思い出は、別の機会にとして、二日目に泊まった尾瀬ヶ原ロッジでの夜のことです。中にいても何もすることもなく、私たちはロッジの外に出てみました。ロッジから漏れくる覚束ない灯かり以外に灯かりは一切無し。辺りは本当に、太古さながらの漆黒の闇です。当然に夜空を眺めます。するとどうでしょう。全天に息をのむほどびっしり、はっきり、くっきりとした星空が広がっていたのです。
 私は郷里以来久しく忘れていた「本当の星空」を取り戻した心持ちがして、友と二人でしばらく星空を飽かず眺めていたのでした。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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今年の漢字「変」について

 本日12月12日、先日当ブログでも取り上げました「今年の漢字」 が、「変」に決まりました。

 残念ながら私が、当ブログと「二木紘三のうた物語」の『遠い世界に』で、大見得を切って(?)私の「今年の漢字」は「迷」ですと述べましたが、見事「大外れ」でした。候補10位以内にも入らなかったようです。いささか負け惜しみのようですが、それでも「迷」の一字は、私にとっての「今年の漢字」であったことに変わりはありません。
 なお当ブログも所属しております、「ココログ」の「nifty」が開催した、ブロガー向けイベント「word of year‘08」でも、今年を象徴する出来事やトピックスに関する言葉をブロガーから事前募集した結果、最終的に「変」が選ばれたそうです。同イベントではこのほか、「崩」「金」「迷」「壊」がノミネートされたそうです。こちらではしっかりノミネートされていたわけで、とりあえず『よかった !』。

 上記は、  
   ブロガーは予見していた!?今年の漢字「変」   
というページを参考にしてご紹介しています。更に続けて同記事では、11月26日に行われたニフティの同イベントで「変」に決まったことが、「今年の漢字」選定にも大きな影響を与えたようだと分析しています。そしてニフティの、「いよいよブログという存在が、世論を形成し、また世論を代表する時代が到来した」というコメントも紹介しています。
 駆け出しの弱小当ブログも、ほんのかする程度でも世論の形成のお役に立てればよろしいのですけれど…。

 「変」の一字ですか。言われてみれば、『なるほど』と思いますよね。
 もう一々は挙げませんが、今年もとにかく「変な」出来事や事件が多くありました。いえ一つだけ挙げさせていただければ、ついこの前まで当ブログでも取り上げました『田母神論文』などは、「変なもの」の最たるものだったのではないでしょうか?
 それにもう耳タコですが、首相の突然の交代劇、海の向うから突如襲いかかって来たリーマンショックなど、何かと「変化」「変動」の多い年でもありました。おかげで株は「変動」続き、暴落に次ぐ暴落でした。
 また忘れてならないのは、次期大統領に決まったオバマ氏が一貫して訴えてきた、「Change(変革)」です。「変」が発表された同日、米国議会はビック3への救済案を否決したように、年明け早々スタートのオバマ新政権の厳しい船出が早くも予想されています。が、その清新な若々しいリーダーシップで、アメリカそして世界を良い方向にリードしていってもらいたいものです。

 何より先ず、「Change(変革)」は一人一人から始まります。先ずもって私自身、虚心になって顧みますに、とにかくがっかりするほど現状に埋没し、なかなか「Change」出来ません。しかしそれでは、変化のスピードが日々加速化している、今日的動きについていけなくなってしまいます。
 「永遠の若さ」を内に持つ私たちは、加齢など本来関係ないはずです。老若男女常に躍動的に、自在に変化の運動、行動を続けていけるはずなのです。『変化・変革を阻んでいるのは一体なんだろう?』。私自身よく自問、反省し、日々新たな「Change」を心がけていきたいと思います。
 (大場光太郎・記)

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ネットの話題

 本日は特別書きたい記事が見当たりませんでした。そこで、たまたま夕刊紙からひろったインターネットに関する話題を二つ取り上げてみたいと思います。どうぞお気軽に読み流してください。

 先ず始めは、「グーグル08年検索ランキング」に関する話題です。
 アメリカインターネット大手のグーグルが、今月10日今年の世界キーワード検索番付を発表したそうです。それによると、米大統領選で共和党の副大統領候補だったペイリン・アラバマ州知事が、対前年上昇率でオバマ次期大統領を抑えて、堂々の検索首位になったのだとか。ペイリン候補と言えば、選挙期間中から何かと話題をふりまきました。大統領選では敗れたものの、根強いペイリン人気を改めて裏付けた結果になりました。
 なお同調査では、2位に北京五輪、国別上昇率で米国首位のオバマ氏は(世界ランキングでは)6位だったそうです。

 次は、麻生首相の「ネットでの」ご活躍ぶりについてです。麻生首相「おバカ」発言が、ユーチューブに次々とアップされ、世界中から閲覧があるという話題です。
 既にご存知のとおり(当ブログでも何度か取り上げました)、麻生首相は「トップとしての資質がない」「おバカ」「KY(漢字が読めない)」などと世論から(のみならず自民党内からも)袋叩きの状態です。しかしネットの世界では、相変わらずの“人気者”のようです。
 たとえば首相が漢字を読み間違えた時の映像が、動画投稿サイト「You Tube」に次々と公開され、凄まじい閲覧数をはじき出しているようです。そしてそれらに対して、「これはギャグ」「みぞゆうの事態(笑)」などといった、首相を茶化した多くのコメントが書き込まれているそうです。
 (以上本日発売「12月12日付け日刊ゲンダイ」より)

 まあペイリン女史の場合は、結局副大統領にならなかったわけだし、「アフリカは(大陸ではなく)国だと思ってたわ」といった、多少のおバカキャラもご愛嬌といったところでしょう。
 しかし麻生太郎氏は現職の日本国総理大臣です。これらの映像は、世界中の人々にも見られています。いやしくも日本のトップリーダーがこのような恥をさらすようでは、それを見た世界中の人から、「ニッポンハ、コンナ、オバカサンノクニダッタノデスカ?」と思われかねません。

 もっとも、アメリカの現大統領・ブッシュだって、おバカぶりでは負けちゃいません。「我が国の輸入品は、海外から来るものが増えつつある」。はぁーっ?「輸入品」っていうのははじめから、「海外から来る」ものじゃないんですか?
 今の指導者は、世界一の国からしてこうですから。まるで「おバカ」の品評会みたいなものです。やはり、知性派のバラク・オバマに、早く世界の雰囲気を「Change」してもらわなくちゃダメだわ。ねぇ、麻生さん。
 (大場光太郎・記) 

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私の今年の漢字は―「迷」

 「1212」と言えば私などは「トェルブ・トェルブ」という大変重要な数字として認識しています。しかしそれはさておき。12月12日は「漢字の日」だそうです。そしてこの日は、もうすっかり恒例になった「今年の漢字」が発表される日でもあります。

 これは1995年に始まったもので、財団法人 日本漢字検定協会が、その年の日本や世界の世相を表わしその年をイメージできる漢字一字を全国から公募し、その中で最も公募数の多かった漢字一字を、この日に清水寺(京都府京都市東山区)で発表するものです。
 サラリーマン川柳、創作四字熟語、新語・流行語大賞などと並んで、現代日本の世相を反映する一つの指標として使われることが多いようです。

 ちなみに、1995年からこれまで(去年まで)の歴代「今年の漢字」は以下のとおりです。

 1995年―「震」  1996年―「食」  1997年―「倒」  1998年―「毒」  1999年―「末」  2000年―「金」  2001年―「戦」  2002年―「帰」 2003年―「虎」  2004年―「災」  2005年―「愛」  2006年―「命」  2007年―「偽」

 この中で特に印象に残っているのは。まず「今年の漢字」がスタートした1995年(平成7年)は、1月17日の阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、金融機関の倒産などにより、まさに社会に激震が走った年でした。
 次に1997年の「倒」。山一證券に代表される相次ぐ大型企業の倒産や銀行の破綻が相次ぎ、バブル崩壊後の我が国社会の深刻な事態を改めて認識させられました。
 また2001年の「戦」。この年は「世界を変えた日」と言われた(私の認識では「世界が騙された日」です。その理由については、いずれ述べさせていただければと思います)、あの「9・11」が起きました。そしてその直後「待ってました !」とばかりの手際のよさで、アメリカのアフガン侵攻が始まりました。続くイラク戦争に到るまで、世界中がどす黒い相互不信と憎悪に覆われました。
 翌年2002年の「帰」も『あヽそうだった』と懐かしささえ覚えます。北朝鮮による拉致被害者の何人かが帰国した年でした。曽我ひとみさんの、帰国に当たっての望郷の想い迸るメッセージには、涙がとめどなく流れました。後は横田めぐみさんをはじめとする、一日も早い「全員帰国」が強く望まれます。
 (以上は、フリー百科事典『ウィキペディア』「今年の漢字」を参考にしました。)
                       *
 先月下旬頃、ふと「今年の漢字」を思い出し、私なりに考えてみました。これは既に「二木紘三のうた物語」の『遠い世界に』コメントで述べさせていただいたことの繰り返しになりますが。その結果あまり迷わずに思いついたのが、「迷」の一字でした。
 
 「政(まつりごと)乱れれば国乱れる。国乱れれば人心乱れる」と言いますが、まずもって国の根幹であるべき政治の世界が、迷走続きだったと思います。秋には福田前首相が突然辞任会見をして、さっさと重責を放棄してしまいました。去年の安倍元首相に続く、あってはならない不祥事です。そして次の総理に就任した麻生首相、この人がまた、かの吉田元首相のお孫さんと言うには肚の座らない煮え切らないお方で。定額給付金や二次補正予算案などをめぐって、二転三転の周章狼狽、迷走ぶりです。「百年に一度の危機」と口では唱えながら、では発足後一体何か有効な手を打ってくれたの?と言いたくなります。(私も「迷いっぱなし人間」でエラソウなことは言えませんが、一庶民と一国の総理では、迷うことで与える悪影響はおよそ比ぶべくもありません。)

 その大危機を招いて全世界を一挙に混迷化させたのが、ブッシュ政権下のアメリカで起きたリーマンショックでした。すべての発端は、去年のサブプライム問題でした。しかしそれはもう2、3年前から、「いずれそうなるよ」と識者たちが強く警告していたにも関わらず、です。巧妙に証券化して世界中にばら撒いたことなど、私はブッシュ政権の無策と言うよりは、「何者か」の謀略、悪意を感じます。
 その他中国の毒入り食品問題や、国内で次々に出てくる食に関わる事件には、国民は本当に迷惑しました。
 そんなこんなで、本当に日本も世界も先行き不透明で出口の見えない、迷路、迷宮にすっぽり入り込んでしまったような感じが致します。しかしご安心ください、と『遠い世界に』コメントでは続けました。それにつきましては、また改めて述べさせていただければと存じます。

 もちろん当日選ばれるのは、別の漢字でしょう。しかし今年一年を振り返りながら、自分にとっての「今年の漢字」を考え、選定してみるのも、決して無駄ではないと思います。
 皆様にとっての「今年の漢字」は何でしたか?
 (大場光太郎・記) 

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流れ行く大根の葉

   流れ行く大根の葉の早さかな   高浜虚子

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 大根は「冬の季語」です。葱と同じく年中穫り入れはできるものの、旬が冬なのでそう決まったようです。そういえば、11月頃からスーパーでも、丸々と大きな大根がこの物価高の割には一本100円で、よく特売されているのを目にします。
 また市内を車で回っていると、とある旧家の軒先に白い大根がズラッと並んで吊るされて干してあるのを目にしたりします。

 この句は、中学2年か3年の国語の授業で習いました。そしてこの句は、ごくありふれた日常の一場面を切り取った句、まさに俳句ならではの「生活句」です。

 しかしこの句は凡百の生活句と違って、まさにこれ以上ない絶妙なタイミングで「俳句的場面」を捉えています。

 一枚の大根の葉の、青々とした色がくっきりと浮かんできます。上流のどこかのたもとで、大根を冷たい川水に浸して手も水に浸かりながら、ジャブジャブ洗っている人の姿まで思い浮かびます。
 極めて絵画的な句です。そして何よりも、生きたリアルさが伝わってきます。この句は虚子がどこかの冬の川―多分それほど大きくはない川―の土手に実際に立って詠んだものでしょう。そうでなければ、これほどのリアルな句は生まれません。

 この句のリアルさを引き立たせている最大のものは、流れ行く大根の葉の「早さ」を捉えたことにあると思います。まさにこれです。「早さ」の発見こそが、この句の生命線です。これこそが、生々流転してやまない自然万物の、「今この時」の生の実相の発見のように思われます。

 おそらく、上流から『何か青い葉っぱのようなものが「流れ来る」ぞ』という段階では、まだ「早さ」はさほど実感していなかったはずです。それが虚子の立ち位置の間近まで来た時初めて、『あっ、大根の葉だ』と気がついた。とその瞬間、虚子は『これは、俳句的題材そのものだ』と直感した。そこで虚子はもっと仔細にその葉を見つめたくなった。『待て、待ってくれ。その葉っぱ』。しかし大根の葉は無情にも、そんな虚子の思惑など委細構わず、下流にあっという間に「流れ行く」。虚子はその時「早さ」を実感、把握したのだろうと思います。

 この「早さ」は、見ている対象物への深い関心、あるいは深い愛情のまなざしがないと、なかなか発見出来るものではないと思います。

 (大場光太郎・記) 

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田母神論文をめぐって(7)

 私の結論

 いやしくも「論文」というからには、一つのテーマの光も影も、肯定面も否定面も、問題点の一切を白日の下にさらして、多角的にさまざまな観点から考証して慎重に結論を導き出すべきです。それからすれば、田母神の一文は論文の体をなしていない、単なる「大東亜戦争肯定文」であると、断ぜざるを得ません。
 こんな文が、アパグループという民間企業の懸賞論文とはいえ、「防衛省航空幕僚長 空将」の肩書きで出されて最優秀賞となり、世間の注目を浴びてしまうとは。私は深い憂慮の念を禁じ得ません。
 同グループ第1回「真の近現代史観」懸賞論文の審査委員長・渡部昇一は、私の出身県でもある山形県出身で、現代の碩学とも称されている人物です。渡部が本当に審査決定したの?と疑念を抱いていましたら、どうやらこれはアパグループ代表の元谷外志雄(もとや・としお)が、強引にねじ込んで最優秀にした「やらせ疑惑」まで浮上しているようです。
 それにしても思います。こんな困った一文が、なぜ今この時期に出されるのだろうか?と。
 
 ついでにご紹介します。『朝生』収録中に視聴者から募った電話アンケート結果では、「田母神氏論文に共感できるか?」という設問に対して、YESと答えたのが303件(61%)、NOと答えたのが164件(33%)、その他は30件(6%)と、共感できるという回答がトップだったそうです。また共感できる理由として、以下のような回答だったそうです。
  1. 論文内容は正しい:47件
  2. 田母神氏の意見は正しい:30件
  3. 日本は侵略国家ではない:22件
  4. 日本だけが悪いとはいえない:20件

 思えばバブル崩壊からだいぶ経過した今日、経済力、国民の生活水準、学童の学力など国際的な指標のどれを取っても、(高度経済成長期は世界のトップクラスだったのが)軒並み大幅に下落しています。これはすなわち、日本の国力が下降傾向にあることの表れと見るべきです。
 それに加えて、アメリカ発の一連の大問題による世界的金融危機が今日の我が国社会を直撃しています。まさに私が少し前述べました「昭和初期と酷似」した状況なのです。
 こういう時期はえてして、一見すると勇を鼓舞されるようなアナクロニズム(時代錯誤)的言説が流布され、もてはやされがちなものです。社会全体の自信喪失、閉塞感の穴埋めのように、多くの国民がそれに共鳴しがちなのです。(第一次世界大戦の莫大な損害賠償に苦しむドイツ国民もそうでした。そしてヒットラーの登場を、大歓呼で歓迎したのです。)

 『朝生』で誰かが述べておりました。「本当のシビリアンコントロールとは“主権在民”のことである」と。すなわち民主主義社会である今日では、「主権」は言うまでもなく我々「国民」なのです。その権利と責任のもとに、このような暴走的言説は、厳しくチェックしていくべきです。間違っても、主権者たる私たちが、いとも簡単に共鳴したり振り回されたりしてはいけません。
 とにかくこの論文から透けて見える田母神の本音とは、憲法第9条を改正しろ、自衛隊を正規な国軍として再整備しろ、集団的自衛権を認めろ、自衛隊が地球上のどこにでも出動できるような「普通の国」にしろ、本当に自国を守る体制にするために核保有しろ、等々です。

 私は以下のことを断言します。
 (甚だ失礼な物言いながら)田母神は単なる「軍事バカ」で、時代の「真の潮流」がまるで見えていません。いえ田母神のみならず、世界各地で今なお戦闘や紛争が繰返されている情勢では、皆様方もあるいは信じられないかもしれませんが。
 しかし底流では、この世界はもう「戦いのない世界」の方向に既に動き出しているのです。どこかでも述べましたが、今は「産み出し=膿(ウミ)出し」の時、人類数千年来のウミをさかんに出している最中なのです。どうぞ、現象面のみを見て捉われないようにしていただきたいと思います。今の混迷、ごたごたは、近未来必ず平和的、調和的に収束します。
 それでも「戦う心」を強く持っている人たちは、いずれこの地球上での生存が許されなくなるでありましょう。どうせ訴えるのなら、「平和」をこそ訴えましょう。これこそが、「真の勇気」なのです。   ― 完 ―

(追記) 今回の記事をまとめるにあたりましては、フリー百科事典『ウィキペディア』の「田母神俊雄」や昭和初期の出来事の各項など、また田母神論文『日本は侵略国家であったのか』などを参考にしました。
 なお、同論文は以下のページを開いて、PDF版でお読みください。但しくれぐれも、同論文にマインドコントロールされませんように。
    http://www.apa.co.jp/book_report/index.html
 また今回は、肝心の「村山談話」について触れることができませんでした。いずれ改めて、それと同論文の対比などを述べさせていただければと思います。
 真珠湾攻撃から満67年の、12月8日   (大場光太郎・記) 

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田母神論文をめぐって(6)

 次に(6)後段の「その(東京裁判の)マインドコントロールは戦後63年を経てもなお日本人を惑わせている」というくだりについてです。
 少し長くなりますが田母神の戦後観をよく表わていると思われますので、上記に続く個所を引用してみます。

 「日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来だけ動きにくいようにしておこうというものである。(中略)諸外国に比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きができないようになっている。このマインドコントロールから開放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。」

 結局田母神が言いたいことの本質はここにあると思われます。今のアメリカ追随の社会のあり方では、日本社会が根底から変質させられてしまう、だから今のシステムのままではダメなのだ。それには田母神にとっての最重要問題である「自衛隊のあり方」を根本的に見直さなければならないという論法です。
 それにはどうしても、かつての戦争を擁護し肯定し、「濡れ衣である侵略」の戦争責任を問われた東京裁判は「不当である」と断罪せざるを得ないのです。

 自衛隊の問題は、憲法第9条との関連など大変複雑な問題ですので、ここでは触れません。しかし以下のことは指摘しておきたいと思います。
 田母神はその前に、ルーズベルト(コミンテルン?)政権のハル・ノートなど度重なる不当な要求と罠によって、日米戦争は不可避だったと述べています。そしてもし戦争を回避したとすれば、「白人国家の植民地である日本」になっていたであろうとも。
 しかしそれは、上掲の「日本のアメリカ化が加速」している戦後今日の我が国の状況と、極めて酷似していないでしょうか?

 日米戦争をしてもしなくても、結局同じような状況に日本社会が立ち至ってしまうのなら、再三繰返すように国内外に甚大な被害をもたらした戦争など、始めからしない方が良かったことにならないでしょうか?
 なお、詳述はできませんが、田母神の言うような植民地状態にならずに、完全独立を堅持したままの戦争回避も出来たのです。少し前『当代総理大臣事情』で触れましたが、アメリカのルーズベルト政権の謀略を見通せる心眼が備わり、なおかつ同政権を手玉に取れるだけの大指導者が、当時の政界にいなかっただけの話です。田母神が賛美しているのは、二流、三流の指導者連中の戦争行為です。  (以下次回につづく)   (大場光太郎・記) 

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田母神論文をめぐって(5)

 次は(4)多くのアジア諸国が太平洋戦争における我が国の戦争行為を評価している。ということについてです。
 田母神は述べています。「私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ」。これについて『朝生』で、社民党衆議院議員・辻元清美が、同論文の選考委員の一人だったジャーナリスト、産経新聞客員論説委員・花岡信昭に、「どこの国のどんな人がどう評価しているのか、具体的に教えて欲しい」と問いただしました。しかし同氏は答えに窮して無言でした。
 田母神も抽象的にではなく、個別具体例を上げて「このように評価しているではないか」と述べてもらいたかったと思います。

 思えば我が国はかつての戦争への贖罪の意識があるからなのか、田母神が列記したアジア諸国には特に手厚いODA(政府開発援助)などを通して、多大な援助を続けてきました。それが効を奏して、同戦争における日本軍の行為に対する負の記憶が薄められ、それなりの評価さえ与えている面があることは否定できないと思われます。
 それに肝心なことは、それら東南アジア諸国は我が国とは一定の距離的隔たりがあることです。そのことが互いの戦争の記憶を希薄化させている面があることも考慮すべきだと思います。
 対して、中国、韓国は我が国と海を挟んで直接国境を接している、密接な近隣国同士です。田母神も触れているとおり、韓国とは竹島の領有権問題で係争中でもあります。また中国とは、尖閣諸島領有権問題が時に先鋭化することがあります。このように利害関係や愛憎関係の根深さは、他のアジア諸国とはおよそ比較にならないのです。

 最後の(6)東京裁判(極東軍事裁判)は、勝者が敗者を裁いた不当な裁判である。同裁判に日本国民はマインドコントロールされていて、63年後の今日もそれにまどわされている。という問題についてです。
 「東京裁判は不当」とする説は、ひとり田母神のみならず、A級戦犯だった岸信介を祖父に持つ安倍晋三など、中堅・若手を中心として自民党議員の中にも多くいるようです。(そしていずれも田母神と同じく、「大東亜戦争肯定論者」たちです。)
 「勝者が敗者を裁いた」それゆえ「不当である」という理屈です。しかしこれは前回述べましたとおり、「戦争」とは古今東西のどの戦争においても究極の不条理劇です。その最終的決着である軍事裁判もまた、不条理な面があることは仕方ないことなのではないでしょうか?
 もし「不当だった」と言い張るのなら、負けて裁かれることになる戦争など、始めからしない方がよかったのです。なのに当時の軍部首脳や為政者は確たる勝算もないまま戦争に突っ走り、日本国民のみならず近隣諸国に多大な損失と被害を与えました。この事実だけでも、裁かれて当然なのではないでしょうか?
 
 東京裁判については、『朝生』で姜尚中が洞察力ある発言をしていました。
 つまり、その東京裁判を当時の日本は受け入れたのであり、また「国体護持」の必要から昭和天皇をはじめとする皇室も認めた。それの受容の上に立って、その後の日米関係も進んできたのだし、天皇制も象徴天皇として存続が可能になった。何よりもその延長線上に日米安保条約が締結された。このように戦後日本社会の出発点となった東京裁判が不当と主張するのであれば、日米安保を含めたすべての日米関係を根本から見直さざるを得なくなり、良好な(?)両国の関係は完全に決裂してしまうことになる。
 以上が姜尚中の発言です。極めて論旨明快です。これに対して、田母神等はどう反論するのでしょう。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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田母神論文をめぐって(4)

 その後私自身遅まきながら、問題の田母神俊雄論文『日本は侵略国家であったのか』を読んでみました。その結果前回ご紹介した、田原総一朗が提示した6項目がおおむね同論文のポイントなのではないだろうかと考えます。
 『朝生』で各パネリストの面々がそれらの項目を巡ってどのような発言をしていたのか、まことに申し訳ありませんが仔細には記憶しておりません。そこでこれからは、同論文を直接読み込んで私なりに感じましたことを、以下に述べさせていただきます。
                               *
 先ず田母神の論法からいけば、(1)我が国が相手国の了承を得ずにその領土に軍を進めたことはない。その結果当然に(5)我が国が侵略国家だったというのは濡れ衣である。ということになり、(1)と(5)は同列に論じて構わないだろうと思います。
 その根拠として田母神は、「日清、日露両戦争などの勝利により、国際法上合法的に中国大陸に権益を得た」としています。確かに田母神の言うとおり、日清戦争後の下関条約において、当時の清国は朝鮮国の自主独立を認め、かつ遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲することを確約しています。(但し後にフランス、ドイツ、ロシアの三国干渉により、遼東半島は返還)。
 また日露戦争後のポーツマス条約において我が国は、満州南部の鉄道の租借権、大韓帝国に対する排他的領有権などを獲得しています。以来他国がよその国に進出するわけですから、田母神が述べているような美談ばかりではなく、一々列記できない軋轢やトラブルがたくさんあったことでしょう。ただこれは当時の西欧列強による植民地支配的構図からして、国際法上認められた我が国の権利だったのでしょう。
 
 しかし、その後の15年戦争の引き金となった「満州事変」以降はどうなのでしょう?その発端となった1931年9月18日の、関東軍による南満州鉄道の爆破(柳条湖事件)も、実はコミンテルンの謀略だったなどと言うんじゃないでしょうね?
 とにかく翌年「満州国」を建国し、日本国及び軍の行為は明らかに当時のいかなる国際条約にも準拠しない「侵略行為」となっていきます。当時の中華民国は、一連の日本軍の行為に対し国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣されることになります。(それが国際連盟脱退、日独伊三国同盟、太平洋戦争につながっていきます。)
 田母神論文では、そのことは一切不問に付しています。そして1928年の張作霖爆死事件や1937年7月7日の盧溝橋事件は、コミンテルンまたは中国共産党の謀略だったとして、その後の中国進出を正当化しています。結果満州国の経営に当たっては、現地の人々と相和して実に平和的、融和的に進められたと手放しで絶賛するのです。(なお、1932年には撫順郊外の平頂山村を日本軍が襲い、村民3千人余を虐殺した「平頂山事件」が起きています。戦後生存者が日本政府を相手取って裁判を起こし、我が国の最高裁判所も事件の事実を認定しています。)
 もしこの論文が日本国としての正式文書だと仮定したなら、それこそ中国政府は黙っていないことでしょう。必ずや小泉元首相の靖国参拝以上の二国間問題、場合によっては国交断絶にまでに発展しかねないのは明らかです。

 田母神は都合の悪い問題は伏せながら、ちゃんと予防線も張っています。(2)の蒋介石並びに国民党内部のコミンテルンの謀略により、日中戦争に引きずり込まれた、(3)ルーズベルト並びに同政権下のコミンテルンの罠により、太平洋戦争に引きずり込まれた、というのがそれです。
 これは『朝生』で森本敏が、「ルーズベルトがコミンテルンと関わっていたというのは正しい」と言うように、事実であったかもしれません。それにアメリカ首脳は我が国の真珠湾攻撃を事前にキャッチしていたのは、今では公然の秘密でもあります。また蒋介石国民党の場合も同じでしょう。
 しかしだからと言って、レッキとした主権国家が、戦争責任を「あっちこっちの国の謀略によって、うちの国は戦争に引きずり込まれたんだ。だから、当国は何も悪くなかったんだ」と主張して、国際的に通るのだろうか?こんなのはまるで「子供の論理」であって、お話にもならない屁理屈だと思います。

 それに兵法の基本書である孫子にあるではありませんか。「兵は詭道(きどう)なり」と。軍事や戦争とは、大昔からしょせんは「騙し合い」、今日的言葉で言えば「謀略戦、諜報戦」でもあったわけです。騙されて負けた方が悪い。これは戦争行為という非常時における常識なのではないでしょうか。同じ孫子には、「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という言葉もあります。
 軍事についてはズブの素人の私でさえ知っている、これは基本中の基本でしょう。なのに結局当時の日本軍首脳部や為政者は、冷静な彼我の戦力、国力の分析も出来ない、そして諜報戦で後手後手に回り相手国に騙されっ放しの無能な指導者ばかりだった、ということなのではないでしょうか?
 それなのに、やはり「当国は一切悪くありません。侵略はしていません」ですか?  (以下次回につづく)     (大場光太郎・記)

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木枯らしを実感した日

   枯れし葉のいよよ別れの輪舞(ロンド)かな   (拙句)

 きょうは朝から激しい風が吹いた日でした。私は、てっきりきょうのこの激風こそが「木枯らし一号」と思っておりました。それで『きょうの記事は木枯らしに限る』とばかりに少しまとめ始めて、『あれっ。ホントに第一号で間違いないの?』とにわかに気になり出しました。そこで早速ネット検索してみますと、何と今年の木枯らし第一号は、11月1日(土)だったというではありませんか。その日東京では冬型の気圧配置に覆われ、午前11時頃最大瞬間風速15.5mの北西の風を記録したのだとか。
 そう気象庁が発表したのだから間違いないのでしょう。昨年より17日も早い第一号だったようです。そうなるともう1ヶ月以上前に第一号は吹いていたわけです。うかつにも「木枯らしは12月に入ってから吹くもの」と思っていた私は、完全に遅れをとってしまいました。

 それで私の感覚では、本日午前中に吹き荒れた風こそが、私にとっての木枯らし第一号です。そういえば夜半から風が吹いているなあという感じはしていました。それが朝方から一段と激しくなりました。建物の中にいてさえ、ゴー、ゴーッ。ヒュー、ヒューッという絶え間ない風の唸りが周り中から聞こえてきます。
 そんな中午前中所用で外出しました。一歩外に出てみると、風の激しさがいよいよ実感できます。まるでそのさまは、きょうこの日ばかりは「風」という五大(ごだい)のうちの一要素が、領する一日であるように思われました。木立も道の辺のススキ群も店先の布旗の類いも皆々、吹き荒れる巨大な風圏にすっぽり覆われ、その中で身悶えしているかのようです。

 母の最後の花道となった、相模川沿いの桜並木を通りました。花見頃は満開の桜のトンネル、盛夏の頃は青木立の幽玄な趣の木下闇のトンネル。それがこの度は、葉はもうかなり落ちていて、並木の先の厚木市営グラウンドや対岸の海老名市側の景色なども透かし見られます。
 路面に落ちた葉はこの容赦ない風に煽られ、路上をあっちこっちに転がされたり、空中に巻き上げられて瞬間的な枯葉の舞を披露しているようです。「こヽかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな」さながらの情景です。

 国道246号線沿いに、私も何回か立ち寄ったことのあるコンビニがありました。きょう通りましたら、いつの間にか閉店になっていました。(不況がじわじわ押し寄せているからなのでしょうか。今はコンビニの閉店ラッシュの感があります)。閉店してがらんどうになった建物は、活気という活気を失い、オープン時よりだいぶ縮こまって見えます。しかもその建物の前面といわず側面といわず、早速例のスプレーによるいたずら書きのオンパレードです。建物に押し寄せるように、ここでも木の葉が思うさま舞い飛んでいます。
 木枯らし吹き荒れるこの日、そこはひときわ陰惨な印象を与えていました。

 昼少し過ぎ、帰りにいつもの中津川に立ち寄りました。川風は特に強く吹きつのっています。堤防中段の幅1m弱のコンクリート通路を、どこから集まってきたのか落ち葉がカサッ、カサッと音立てて、身をこするようにして下流から上流の方に飛ばされていきます。水際の枯れ葦もカサコソと激しく揺れています。
 しかし下流は南の方向です。『ということは、南風なの?』。対岸の下流側にある工場の煙突を眺めると、なるほど確かに白い煙は南から北の方向に横なびきになびいています。道理でこんなに風が強いのに、さして寒さを感じないわけです。
 
 そして嬉しいことに、きょうは鴨たちがいてくれました。堰のすぐ近くの、比較的水量が豊かな所で七羽ほど一塊りですいすい泳いでいます。と、下流からおおきな白いビニール袋が飛んできて、鴨たちの近くにストンと落下しました。鴨は驚いて、スウーッと対岸の方に逃げていきました。とにかく鴨は敏感ですから。よく「鴨の陣」といいますが、一群で逃げ去るさまは、本当に小さな艦隊のようです。
 「逃げる艦隊」。いいじゃありませんか。我々人間だった、逃げてもいいんですよ。強がって戦い続け、致命傷を負うよりは。
 (大場光太郎・記) 

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ロックフェラー・センターのこと

 本日昼前のテレビニュースを見ていましたら、ニューヨークのロックフェラー・センターの、巨大クリスマスツリーの点灯式が行われたそうです。ご存知のとおり、このクリスマスツリーのライトアップは毎年恒例のイベントで、点灯式当日同センターはおろか数ブロック先でも全く身動きできないほどの人が押し寄せるそうです。
 そもそもこのクリスマスツリーの歴史は大変古く、同センター建設工事中の1931年ある作業員が6mほどのモミの木を立てたのが始まりだそうです。

 このロックフェラー・センターは、ニューヨーク市マンハッタンの五番街にある超高層ビルを含む複数のビルからなる複合施設のことを指しています。ユダヤ系大財閥、ジョン・D・ロックフェラーによって1930年から建設され、すべての建築物が完成したのは1939年のことでした。
 マンハッタンの中心部の22エーカーの土地に、19の多機能商業ビルが四方に建ち、各ビルの低層階は一つの建物としてつながっています。「都市の中の都市」と呼ばれ、各種オフィス(日本企業もいくつか入居)や銀行や劇場やレストランはては領事館まで入っており、同センター内で働く人は6万5千人にも上るそうです。その中で一番大きな「GEビルディング」は、高さ259m、70階建です。

 また記憶に新しいところでは、1989年10月三菱地所が同センターを約2,200億円で買収しました。しかしその後バブル崩壊で莫大な赤字を出すこととなり、1995年5月に買収した14棟のうち12棟は売却され、現在は2棟のみが三菱地所の所有となっているそうです。
                          *
 だいぶ前置きが長くなりましたが―。
 今回ご紹介したいのは、そんな一般的なことではありません。おそらく、巨大クリスマスツリーに押し寄せるニューヨークっ子や海外からの観光客のほとんどの人が知らないであろう事実についてです。
 実は、同センターで一番大きなGEビルディングの入り口と、前面最上階左端壁面に“666”の数字が堂々と掲示されているのです。しかも夜ともなれば、この“666”の数字がピンクのネオンサインとなってNYの夜空に浮かび上がる仕掛けになっているそうです。
 なお、ヨーロッパ金融の支配者と言われる、これまたユダヤ系大財閥、ロスチャイルドの所有するビルも同じで、そのビル内にはマニアックなほど無数の“666”がディスプレイされているそうです。

 オカルト映画の傑作『オーメン』以来、“666”という数字が何を意味するのか、どなたもご存知のことでしょう。

 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。ここに智恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そしてその数字とは666である。
                     (日本聖書協会1954年改訳『ヨハネの黙示録』第13章16-18)

 このように“666”は、「最後の聖書」と言われる『ヨハネの黙示録』の中で、「獣の数字」とされている数字です。その他「反キリストの数字」「悪魔の数字」とも言われ、キリスト教特にカトリックにおいては古来忌み嫌われてきた数字です。
 そんな数字がよりによって、「アメリカの象徴」とまで言われる近代的なロックフェラー・センターに、なぜ掲げられているのだろうか?ここから、現代文明の本質、世界中くまなく行き渡っている現システムの本質が浮かび上がってこないだろうか?
 次回では、そんなことを少し探ってみたいと思います。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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田母神論文をめぐって(3)

 激論 ! 田母神問題と自衛隊

 11月の『朝まで生テレビ(以下「朝生」と略称)』は、11月29日午前1時20分から始まりました。いつもどおり、進行役の渡辺宜嗣(テレビ朝日アナウンサー)と長野智子(フリーキャスター)のあいさつから始まりました。今月のテーマは「激論!田母神問題と自衛隊」。進行の二人の紹介で、テーマ曲に乗って、これもいつもどおり今回のパネリストの面々が登場します。
 姜尚中(カン・サンジュン、東京大学大学院教授)、森本敏(拓殖大学海外事情研究所所長)、西尾幹二(評論家)、田岡俊次(軍事評論家)などの論客に加えて、平沢勝栄(自民党・衆議院議員)、浅尾慶一(民主党・参議院議員)、辻元清美(社民党・衆議院議員)などの政治家など総勢13人が次々に着席します。最後に20余年前からほぼ変わらず司会をつとめている田原総一朗が着席して、朝方4時過ぎまでの長丁場の討論のスタートです。

 この中で森本敏(もりもと・さとし)が保守派筆頭格の論客とすれば、片や姜尚中はリベラル派筆頭格の論客といえましょう。このように意見の違う互いが毎回、司会の田原を中心に右と左に分かれて座り、一つのテーマに対して、右と左、保守と革新、与党と野党…という対立図式で激論を戦わせ合う構図です。
 このように、対立し合う者や陣営が予めなければ「討論」は成立しないわけで、一つのテーマをめぐって違う見解を持つ各パネリストが激論を戦わせ、そのテーマに潜む問題点を、視聴者並びに会場で討論の行方を見守る50人ほどの若者たちに浮かび上がらせようという試みのように思われます。

 私はほぼ毎回、月1回の『朝生』を見てきたつもりです。しかしその都度テーマも違えば、出席パネリストの顔ぶれも違います。時にはあまり関心が持てずに、早々とスイッチを切ってしまうこともあります。そんな中で今回のテーマは関心のあるテーマでもあり、それに久しく出ていなかった、姜尚中や森本敏という当代きっての論客が出ているとあって、最初から興味深く画面に見入りました。
 と申しましても、午前3:30頃からさすがに眠気を催し寝てしまいました。目が覚めたのが朝方の5時過ぎ、『朝生』はもちろんとうに終わっていました。ですから、今回の討論全体を通して見たわけではないことをお断り申し上げておきます。

 先ず司会の田原総一朗から、今回のテーマである「田母神論文」について、「これはひょっとして、言論によるクーデターなのではないか?」とか、「このような論文が防衛省のトップに近いところから出てくるということは、日本は今重大な分岐点に差しかかっているのではないだろうか?」という趣旨の問題提起がなされました。
 そして同論文の要点として、6項目が列記されたパネルを掲示し、その一つ一つについて、以後しばらく各パネリストが見解を述べ合ったのだったと記憶しています。
 私はその6項目をメモしました。多少私なりの肉付けをしたものを、以下に列記します。

(田母神論文の要点)
(1)19世紀以降、我が国が相手国の了承を得ずして、相手国の領土に軍を進めたことは一度もない。
(2)当時の中国国民党総統の蒋介石(しょうかいせき)は「コミンテルン」に操られ、国民党内部には多数の中国共産党員がいた。蒋介石(とコミンテルン一味)によって、我が国は日中戦争に引きずり込まれたのである。(注 「コミンテルン」とは、共産党の国際組織のこと)
(3)当時アメリカ大統領だったルーズベルト政権にも多数のコミンテルンがいた。よって太平洋戦争は、我が国がルーズベルトの罠にはめられた結果起きた戦争である。
(4)多くのアジア諸国が、太平洋戦争における我が国の戦争行為を評価している。
(5)我が国が侵略国家だというのは、まさに濡れ衣である。
(6)極東軍事裁判は、勝者が敗者を裁いた不当な裁判である。同裁判に日本国民はマインドコントロールされていて、60年後の今日もそれに惑わされている。  
 (以下次回につづく)        (大場光太郎・記)

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田母神論文をめぐって(2)

 田母神俊雄氏の最近の動向

 本考とは直接関係ありませんが。本日の12月3日付日刊ゲンダイに、同論文の発表者である田母神俊雄氏(以下敬称略)の最近の動向が紹介された一文がありました。大いに興味をそそられましたので、本シリーズの番外編として、私の所見をおりまぜながら以下にご紹介させていただきます。
                         *
 田母神俊雄前航空幕僚長(60歳)は、12月1日(つまりきのう)日本外国特派員協会で国内外の大勢の記者を前に講演をぶったそうです。日本外国特派員協会といえば、これまでもその時々に日本国内で話題になった「時の人」がここに呼ばれては、何がしかの講演を行うことで有名です。
 今回その場に田母神が呼ばれたということは、彼の発表した論文『日本は侵略国家であったのか』が、いかに世間の関心を集めているかの証明でもあろうかと思われます。

 田母神俊雄は先ず、「危険人物の田母神でございます。私と5分話せば、いかに物分りのいい人か分かると思います」と、軽口交じりで自己紹介したそうです。田母神は、同論文を出すことによって国内世論が注目し、騒然となるであろうことを計算し狙っていたフシがあります。思惑通りに事が進んで、『してやったり !』という得意満面が透けて見えるようなオチャラケた冒頭の挨拶です。
 以後田母神は約1時間半、10月31日の身分降格処分の上退職、また11月11日の参議院外交防衛委員会に参考人招致されたことの重みなどどこ吹く風とばかりに、性懲りもなく以下のような屁理屈をこね回したそうです。

 「どこの国にも光と影がある。『お前の国は悪かった』とか持ち出すべきではない」。
 ―これは我が国の政府要人たちが、中国や韓国等に対して時に刺激的な言動をすることがありますが、そのたび敏感に反応するそれらの国を意識した発言なのでしょう。日韓併合も中国大陸進出も「侵略ではなかった」とする田母神からすれば、「中国よ、韓国よ。アンタらの国にも触れられたくない過去があっただろ。だからおらが国が言うことに対して、いちいち口出しすんじゃないよ」ということなのでしょう。

 「日本も原爆について、アメリカが言い出さなければ、こちらから言うべきではない」。
 ―これは何を言いたいのかよく分からない発言です。確かにアメリカは、広島・長崎への原爆投下について自国を正当化して、未だに我が国に正式謝罪していません。もしかしてそれを踏まえて、日本は「原爆のこと」つまり「核廃絶の訴え」などはすべきではない、ということなのでしょうか?どうやら田母神は、ガチガチの「核武装論者」でもあるようなので、彼の発言の真意は案外そういうところにあるのかもしれません。
 また同時に、昨年の久間元防衛大臣の「原爆投下はしかたなかった発言」を擁護する意図があるのかもしれません。
 (冗談ではなく、これは正真正銘の「危険人物」だ !)

 「歴史は勝者の都合のいいようにつくられる。私は論文で『日本はいい国だった』と言った。なのに政府は『日本はロクでもない国だ』と、『お前はクビだ』となった」。
 ―まあ、これまた何という言い草なのでしょう。この一文だけでも、今回の同人への一連の国家的処分に対して、反省の「はの字」も示していないことを広くアピールしたような手前勝手な発言です。
 軍人、民間人合わせて約310万人(推定)もの死者を出したかつての戦争をほぼ無条件で賛美し、かつそんなオレ様を首にした現政府は自虐史観に凝り固まった度し難い政府だ、という論法です。
 それにしても、こんな男が航空自衛隊・防衛省のトップに君臨していたとは。『この国のシビリアンコントロールは本当に大丈夫なの?』と、思わず耳を疑いたくなるような、言いたい放題の大放言のオンパレードです。
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 それに何の符合なのか、同講演の翌日のきょう(2日)は、懲戒免職でなかった田母神は、退職金7000万円をまるまる受け取る日だそうです。とんだゴネ得ですが、その前に公衆の面前で一席ぶつことによって、自分を正当化し堂々と退職金を満額受け取るつもりなのでは、という声もささやかれているようです。
 また今月8日(よりによって太平洋戦争開戦の日)には、問題のアパ論文の第1位賞金300万円の授与式も開催される予定で、そこでも田母神は一席ぶつのだそうです。もちろん同賞金もちゃっかりいただこうという魂胆なのでしょう。

 1日の外国特派員協会の講演の後、外国人記者から「今後の予定は?」と聞かれて、「講演やエッセイの依頼が多数あり、今は考える暇がない」と、ホクホク顔で答えたとか。この者は憂国の愛国者の仮面をかぶった、「計算高い銭ゲバ」なのでは?と疑ってしまいたくなります。
 皆様の中にも、田母神論文を支持する方がおいでかもしれません。しかし同氏の人物、識見、人間性について、慎重に見極めるべきなのでは?と私は考えます。
 (大場光太郎・記) 

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いよいよ師走です

    曇り日や暴発しさうな冬の柿   (拙句)

 早いものできょうは12月1日。あと今年も1ヶ月を残すのみとなりました。既に街の目抜き通りには、例年のことながら電飾イルミネーションが飾り付けられ、夜ともなると華々しい光彩を放って、街を行き交う人の目を楽しませてくれています。それに当今はちょっとしたシャレた店や、心得のある一般家庭でも前面に電飾を施してくれている所もちらほら見かけます。いずれの場合もどこかに「終わり良ければすべて良し」、年の最後くらい豪華にパァーッと行こうぜ!というような気持ちがあるのでしょうか。
 
 どちらかというと、懐疑的文明論者(?)である私などは、『そんなに麗々しくしなくても、もっとつましい年の瀬でもいいんじゃないの』と例年なら思うところです。しかし今年は少し違う心持ちです。
 というのも、これだけうすら寒い不況風がじわじわ吹き始めると、そのような年の瀬の恒例の装いに、ふっと『あヽこれじゃあ、まだ大丈夫だな』と妙に安心した気分になれてしまいます。

 午後たまたま車で通った厚木中学校の、校門から少し学校に入った校庭との境の所に、まあ何とも真っ赤に紅葉した、二本の楓の木が目に飛び込んできました。本当に「This is Koyo !」と言いたくなるような見事さでした。
 当地では本当の紅葉など見られないと、我が郷里での先入観から今までそう思い込んでおりました。しかし木によっては当地でも、かくも見事に紅葉するものなんだ。私はつかの間、「本当の季節感」を味わえた気分になりました。

 実は本日は、きのうから開始しました『田母神論文をめぐって』の第2回目を公開するつもりでした。ある人からは、「是非田母神問題を扱った今回の番組(『朝まで生テレビ』)への、感想・意見をお書きください」という励ましのコメントもいただきました。
 そこで、業務の合い間をぬっていざまとめようと試みました。しかし考えてみればこの問題は、我が国の歴史認識の問題、防衛上の問題、更には現憲法の問題等さまざま大変な問題が絡んできます。いざ続きを少し書き始めて、『いやぁ、よく分かりもしないで大変な問題に首を突っ込んじゃったなあ』と頭を抱えてしまいました。
 とにかく、軽々に書きなぐって済まされることではなさそうです。この問題は、しばし長考のお時間をいただきたいと存じます。

 ともかくも、残すところ後30日。パーフェクトに完璧に、今年のことは今年のうちに。私に限ってそんなことはハナから無理なのは百も承知です。ですからせめて、今年に何か大きな忘れ物(やり残したこと)が引っかかって、後ろ髪を引かれる思いで新年を迎える、そんなことだけはないように。残された今年の日々を、出来るだけ充実していければと思います。
 (大場光太郎・記) 

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十一月尽

    あたヽかき十一月もすみにけり   中村草田男

 十月が「たそがれの国」であるのなら、十一月は何と表現すればいいのでしょう。黄昏はとうに過ぎ、日は早やとっぷりと暮れた「今宵の国」とでもなるのでしょうか。
 当月三十日も一日一日が(私の感覚では)飛ぶように過ぎゆき、気がついたらきょうは末日です。

 そんな本日、当地は(きのう触れたばかりの)さながら小春日和の、良く晴れ渡った昼過ぎまででした。このまま暖かい日差しが続くのかと思っておりましたら、午後二時を過ぎた頃から一天にわかにかき曇り、全天の七、八割くらいを分厚い冬雲が覆い始め、雲の合い間から青空がのぞく程度の空模様に変わってしまいました。

 この季節さすがに関東南部で標高もさしてない当地でも、立ち木は紅葉しているのかどうかよく確かめる暇(いとま)もなく、かなり梢から葉を落としています。いよいよこれから本式な木枯らしが吹き荒れると共に、桜といわず欅並木といわず銀杏並木といわず、およそ落葉樹の類いは皆悉く葉を落とし尽し、殺伐たる裸木となって街並みで冬中さも寒そうにただ立ち尽くすのみなのでしょう。

 最近は、明るい時刻にいつもの中津川に立ち寄る機会がありません。しかし先週日暮れ前たまたま立ち寄った折りは、こちら側の堤防全体があれほど丈の長い雑草で覆われていたものを、いつの間にかつるんつるんの丸坊主のようにきれいに刈り込まれておりました。おかげで、三十メートルほど下流の大堰から数十メートル上流の橋の先まで、堤防全体が見事に見渡せます。しかし何か急に殺風景になってしまったようにも思われます。
 堰が切られて以来、くだんの鴨たちの姿は全く見当たりません。またその日は白鷺の優美な飛来もありませんでした。すでにかなり細った流れに、時折り小魚が表面に躍り出てきては、周りにひとしきり波紋を広げて、やがて穏やかな流れに戻る。ほうぼうでそんなことが見受けられるくらいなものでした。
 両岸の水際や中洲には枯れ葦群が広がり、何から何まですっかり冬ざれた川原の風情でした。

 あしたから十二月。いよいよ残すところ後一ヶ月です。師走というくらいですから、どなたも気ぜわしい日々を送られるかと思いますが。どうぞお風邪などひかれませんよう、十分お気をつけてお過ごしください。当月もご訪問いただき、大変ありがとうございました。
 (大場光太郎・記)

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