星の界への憧れ(4)
T先生の予定のコースの第一関門は、地域の最名門高校である(上杉藩の藩校でもあった)米沢興譲館高等学校に私が進むことだったでしょう。しかし学校の勉強がとにかく嫌いなことが祟って、中学2年の2学期辺りからは数学や英語などは雑学ではいかんともし難く、学年トップテンから見る間に下落し、進路が決まる中学3年の2学期には30位以下にまで転落していました。
これでは米沢興譲館高校は諦めざるを得ず、地域2番目の長井高等学校に進学することになりました。(なお、その後の母校の自助努力と後輩たちの頑張りにより、現在では偏差値60以上で、米沢興譲館高校に後一歩まで迫っているようです。)
こうして第一関門で早くもつまづいてしまいました。また肝心の「小説」では、私もその気になって中学、高校を通して何か短編でもと何度もチャレンジしました。しかし小説というものをどう書けばいいのかすらさっぱり分からず、『先生は期待してくれたけど、オレには小説家の才能なんかないや』と、早々と見切りをつけてしまいました。そしてその心理的代償のように、小説よりは作りやすい下手くそな詩を作ったりしていました。
(以下は、今年3月の「二木紘三のうた物語」の『遠き山に日は落ちて(家路)』コメントと重複しますが)
長井高校の3年間を、長井線の宮内町駅から南長井駅まで、汽車通学で学校に通いました。秋頃ともなると、4時半も過ぎると辺りは暗くなってきます。帰りは、地元の宮内町駅に着く頃には日は早やとっぷりと暮れていました。駅が町の西の外れとすると、当時お世話になっていた宮内町立母子寮は東外れです。駅から母子寮まで、ほぼ東西に伸びた距離にして2、3キロの、町で中本かの大路の一つが通っていました。
昭和40年代初頭頃の、まだ街の灯りも乏しかった東北の田舎町です。その道を歩きながら道に沿った星空を見上げると、見事なばかりの満天の星空が広がっていました。やや南よりの東空には、オリオンもシリウスも見え過ぎるほど、煌々と煌めいていました。
そのようにして暗い夜道を家路についているうちに、進む道のちょうど東の45度くらいの高さの空に、いつも決まって薄ぼんやりと煙ったような星の固まりが浮いていることに気がつきました。『あれっ。何だろう?』。
何回もその星の塊りに出くわすうちに、いよいよ興味が湧いてきました。それである時、学校の図書館で天文年鑑を繰って調べてみました。するとそれが、「昴(プレアデス星団)」であることが解りました。
これをきっかけに、私の中に潜在していた「星の界への憧れ」が少しまた目覚めたようです。
高校1年の2学期に体育系の部活をやめてからは、放課後はもっぱら学校の図書館で過ごすのが日課になっていました。そして借りて読むのは、主に外国文学でした。それに混じって天文学に関する本も、たまに読むようになりました。
当時は、ジョージ・ガモフ(1904年~1968年)というロシア生まれのアメリカの理論物理学者が、その分野の最先端を行っているようでした。図書館のしかるべきコーナーには、『ガモフ全集』がズラッと並んでいました。どちらかというと、文科系の頭脳回路になっていた私は、さすがにそれを読破するには到らず、『宇宙のトムキンス』や『宇宙の創造』といった本を手にとってパラパラとめくって拾い読みした程度です。
また名前や書名は忘れましたが、当時の我が国の理論物理学者が著した最新宇宙論に関する本は読破しました。
それによると、20世紀になってアインシュタインの特殊そして一般相対性理論またボーアの量子力学の発表により、従前の宇宙像は劇的に変化することになった。それまで宇宙は、一定の大きさで恒常的に存在し続けるという「定常宇宙論」が定説だった。しかしその後、地球からどんどん遠ざかっている星雲が多く確認されたり、またアインシュタインらの登場により、宇宙は今から約150億年前にビックバン(Big Bang)という宇宙的爆発によって無から生じ、今なお膨張し続けているとする「ビックバン理論」が主流となっている。
今となっては大方は忘れましたが、主なところはそんな内容だったと思います。とにかくその刺激的な内容に、ワクワクしながら読み進めたことを覚えています。 (以下次回につづく)
(大場光太郎・記)
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