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クリスマスイヴの思い出など

        ああベツレヘムよ

1 ああベツレヘムよ などかひとり ほしのみにおいて ふかくねむる
  知らずやこよい くらきそらに とこよのひかりの てりわたるを

2 ひとみなねむりて 知らぬまにぞ み子なるキリスト うまれたもう
  あしたのほしよ うたいまつれ かみにはみさかえ 地にへいわと

3 しずかによつゆの くだるごとく めぐみのたまもの 世にのぞみぬ
  つみふかき世に かかるめぐみ あめよりく(来)べしと たれかは知る

4 ああベツレヘムよ きよきみ子よ いましもわれらに くだりたまえ
  こころをきよめ みやとなして いまよりときわに すくいたまえ (アーメン)
                       *
 きょう12月24日クリスマスイヴ、当地は晴天に恵まれました。とは申しましても、私は世の華やかなイヴとはとんと縁なく、まだ業務に追われ、本日は午後から横須賀市役所まで書類提出に行ってきました。
 私の、とても「クリスマスイヴモード」に浸ってなどおられない気分を反映して、街の様子も常と変わらないたたずまいに見受けられました。

 わが半生を振り返ってみても、例えば彼女と二人きりで超ハッピーな一夜を過ごしたとか、そんな輝かしいイヴの記憶はまるでありません。そんな中で懐かしく思い出されるのは、ずいぶん昔、昭和31年のクリスマスイヴのことです。
 既に『唐傘の思い出』でも触れましたが、その年の10月、母と私は郷里の町の母子寮にお世話になることになりました。私が小学校1年の時のことです。そしてその年のクリスマスイヴでのこと。我が母子寮では、毎年この夜は全寮が集会室に集まって、クリスマス会を催すのが恒例になっていました。そしてその晩は餅や料理やお菓子を食べながら、母子がそれぞれ歌や寸劇などの余興を披露し合って、一晩楽しく過ごすのです。
 
 その年はたまたま、私ら母子がそれまで暮らしていた太郎村より更に奥に入った、小滝という部落の猟友会の人たちが、母子寮に直前に鉄砲で撃った雉(きじ)を届けてくれたそうなのです。早速お母さんたちが、東寮と西寮それぞれにある共同炊事場で雉を料理したのでしょう。
 クリスマス会場である集会室に、良いにおいのする雉鍋が運ばれてきました。記憶が定かではありませんが、それは雑煮だったかもしれません。私たち母子は太郎村の時のように、飢餓線上ぎりぎりの境界は入寮のおかげで脱していました。しかしそれでも当時は、全般的に皆ひもじい思いをしていた時代だったと思います。
 その時どんな余興があったかなどは、全く思い出せません。ただ豪華な雉鍋を、『世の中にこんなうまい食い物があったのか !』と思いながら、夢中で食べたことだけが懐かしく思い出されるのです。

 なお、集会室でそういう集いは年何回かありました。そして集会の始めだったか締めだったかで、必ず歌われる歌がありました。『愛の母子寮』という、我が宮内町立母子寮の寮歌です。
    若草の 吉野の川辺
    水清く 母の憩える
    永久(とこしえ)の 平和信じて
              (この行 記憶なし)
    ああああああー 愛の母子寮
 
 甚だ記憶不鮮明ですが、1番は上記のようなものでした。小学校の時、この歌が1、2年先輩(5、6年生)の音楽の教科書に載っていたのを見せられた時はびっくりでした。作詞は今では分かりませんが、作曲は我が宮内小学校の渋谷先生という、当時若くてハンサムな先生でした。
 私が高学年になった時の教科書には、もう見当たりませんでした。とにかく掛け値なしに、良い歌です。今となっては歌詞の記憶がうろ覚えなのが残念ですが、メロディはきちんと歌えます。時々思い出しては歌っていますが、そのたび当時が思い起こされて涙がこぼれます。(私はどうも、涙腺が弱い人間のようです。)

 (冒頭に掲げました、『ああベツレヘムよ』は、「クリスマスキャロル」というページを参考にしました。太字部分をクリックすれば、同歌のMIDIが視聴できます。他に素敵なクリスマスソングがいっぱい揃っています。よろしかったらどうぞ。)
 (大場光太郎・記) 

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