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2009年1月

私の歴史観-(特別寄稿)

 私なりの歴史観を少々披瀝させて下さい。
 私は、自国の歴史について正しい理解や認識を持つということは、取りも直さず自分の国を愛する、大切にするということだと思っています。一昨年の春、金沢の街を歩いていたら、シドニーから来たという老夫婦の観光客と話す機会がありました。その日は休日だったので、金沢城や武家屋敷など案内してあげたのですが、歴史の浅い国から来た彼らにとって伝統的なものへの憧憬は、我々の想像する以上のものがあります。それ以前にやはりこれと同じ経験を、アメリカ人との場合にもしております。
 日本人が真の国際人になるためには、日本人としての確固たるアイデンティティを持つ必要がありますが、そのバックボーンとなるのは、やはり長年に亘って培われ練り上げられてきた伝統ということになろうかと思います。
 私は、神社や仏閣など物理的な伝統だけではなく、今なお書店の一画に奈良や平安時代の古典文学のコーナーが必ず設けられていることの重要性を強調したいと思います。21世紀の日本に生きる我々が、今なお「春は曙 やうやう白くなりゆく山ぎは少し明かりて・・・」と諳んじられる幸せを、「行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず 淀みに浮かぶうたかたは・・・」と諳んじられる幸せを今一度噛み締めたいと思います。そしてたとえ死を目前にしても「風さそふ 花よりもなほ 我はまた・・・」と詠ずる精神を大切にしたいと思っています。すぐれた武将であった直江山城守は、あの第一級の文化人細川幽斎とも対等に渡り合える教養人でもあったといいます。我々が彼に惹かれる理由の一つがここにあります。
 (くまさん・記)

 (注記) 
 このたび当ブログ記事『「天地人」について(1)』に、くまさん様が上記のような素晴らしいご所見をお寄せになりました。これは一コメントとして閉じ込めておくのは、あまりにももったいありません。よって、当ブログ記事として公開させていただくことに致しました。
 皆様、くまさん様のご造詣深い歴史観そして文章、じっくりご観賞ください。
 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(2)

 覚せい剤取締法違反(共同所持)の疑いで逮捕された小向美奈子容疑者は、逮捕時「私は覚せい剤というものは知りません」と容疑を否認していました。しかし29日、取調べの過程で採取した尿から覚せい剤の陽性反応が出たことが分かりました。「動かぬ証拠」といったところでしょうか。
 これにより警視庁大崎署は、小向容疑者を同法違反(使用)容疑でも立件する方針を固めたもようです。

 本シリーズをきのうからスタートさせましたが、ちょうどタイムリーなことに(?)またまた衝撃的な事件が30日報道されました。
 神奈川県警が、大相撲尾車部屋の十両力士の若麒麟真一(本名・鈴川真一)容疑者(25)とミュージシャンの平野力(つとむ)容疑者(30)を、大麻取締法違反(共同所持)の現行犯で逮捕したという事件です。
 調べによると2人は、30日午後1時頃、東京都港区の事務所で乾燥大麻1包を所持していたというものです。若麒麟容疑者は、「自分で吸うために持っていた」と容疑を認めているようです。

 事件の一報を受けた尾車親方は、「状況はまだ把握していないが、事実ならば裏切られた気持ち。ぶん殴ってやりたい」と怒りを爆発させていました。そして「世間の皆様にご迷惑をおかけして、申し訳ない。(事実ならば)若麒麟はまげを落とすことになる。私の処分は理事長にお任せしたい」と謝罪しました。
 会見に同席していた九重親方も、「残念でなりません」と無念の表情を見せていました。更に武蔵川理事長も、国民と相撲ファンに向けて謝罪会見をしました。

 相撲界の大麻事件といえば、若ノ鵬、露鵬、白露山の3人のロシア人力士による大麻問題が、昨年大騒ぎになりました。その時は相撲協会は3人を解雇処分、白露山の親方だった北の湖親方は責任を取って理事長を辞任するなどの大問題に発展しました。
 年が明け、相撲界に復帰したいとゴネていた若ノ鵬も、協会側が退職金(協会名称:養老金)580万円を支払うことで納得し、やっとほとぼりが冷めかけた頃でした。(但し露鵬、白露山の兄弟は、徹底抗戦の構えで現在も協会側と係争中)。

 今回の事件は、日本人力士としては初めての大麻取締法違反です。それによって、初場所の朝青龍の劇的な復活優勝で折角盛り返した相撲人気が、一気に冷や水を浴びせられた格好です。
 ところで朝青龍といえば。千秋楽の「ガッツポーズ事件」で横綱審議委員会がクレームをつけ、武蔵川理事長が当人がモンゴルに帰っている頃合を見計らったように、高砂親方に注意をしました。大相撲におけるガッツポーズそのものの是非論と、協会の以前変わらぬ生ぬるい対応に、またぞろ批判が巻き起こるのかと思いきや。
 今回の若麒麟の事件は、そんな問題がいっぺんに吹っ飛んでしまうほどの由々しき問題だと思われます。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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薬物汚染の拡がりを憂う(1)

 元グラビアアイドルの小向美奈子容疑者(23) が、今月22日夜警視庁大崎署に覚せい剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕されました。かつてあどけない顔に似合わぬグラマラスボディでグラビア界の話題をさらったアイドルの、まさかの逮捕劇です。小向容疑者は22日午後7時すぎ、東京都港区の六本木3丁目のビルから出てきたところを、警視庁の捜査員に身柄を確保されたとのことです。

 調べによると小向容疑者は、知人の30代男性とともに、東京都新宿区にある男性の自宅マンションで微量の覚せい剤を所持していた疑いです。
 そもそもその知人男性は、昨年6月住居侵入の現行犯で逮捕され、その時男の自宅を家宅捜査の結果、覚せい剤を吸入するパイプが見つかり男を調べたところ、微量の覚せい剤反応が出たそうです。取調べの中で男と小向美奈子が一定期間同じ部屋で生活していたことが明らかになり、「一緒に吸った」と供述したため、小向の逮捕状を取り行方を追っていたということです。

 テレビに映し出された最近の小向美奈子は、年の割りにだいぶやつれて見えました。ここ数年体調不良、精神的不安定、音信不通状態などが何度もあり、仕事上で支障をきたすことがあったようです。所属事務所であるR・I・Pは、そのような事情を踏まえた上で再起に向けたサポートをしてきたようですが、「…我々の予想以上に(小向の再起が)困難な状態となりこれ以上本人の芸能活動を支えることが不可能」と判断し、昨年9月契約を解除しました。

 それ以来1ヶ月半ほど小向は沈黙を守っていましたが、昨年11月「週刊ポスト」に「私は見た『副業は売春の悪夢』」というタイトルで、芸能界特にアイドルなどを狙った売春ネットワークがあるとの告白記事を掲載し話題となりました。
 また小向にはダウンタウンの浜田雅功との不倫疑惑や、グットウィルグループの折口前会長との怪しい関係も取りざたされました。

 「覚せい剤」については、小向美奈子のみならず、過去に所持、使用によって逮捕、取調べを受けた芸能人は数知れません。主な者だけでも(一部「大麻」を含む)
 井上陽水、内田裕也、研ナオコ、長淵剛、高橋祐也(三田佳子二男)、清水健太郎、美川憲一、田代まさし、萩原健一、桂銀淑(ケイ・ウンスク)…。
 「覚せい剤所持」「売春ネットワーク」…。私のような一庶民には、芸能界は阿片窟(あへんくつ)ならぬ「巨大な魔窟(まくつ)」に思われてきます。

 (以下は本考とは直接関係ありませんが)
 「スター(あるいはアイドル)」という輝きを夢見る無数の卵たち。その中から幾粒かをすくい取り、押し上げる役目のこれまた無数の大人たち。そんなシステムの中で、いつの時代にもごく一部の者だけが栄えあるスターの座を勝ち取って、つかの間人々の賞賛を浴びます。
 しかし人々(つまり一般大衆)はいつまでも称えてはくれません。特に移り気なこの時代は。きょうのスターは、明日のスターにあっという間に取って代わられます。
 そんなスターというものの、危うさ、際どさ、虚しさ。それはしょせん虚名に過ぎないと心のどこかで分かっているのかいないのか。なおもそれを求めて、燃える火に吸い寄せられる夜の蛾のように、汚れない10代たちが今なお芸能界に群がってきます。

 しかし一方では、小向美奈子のように賞味期限が切れてしまうと、容赦なく使い捨てされていく者も数知れないわけです。スター(アイドル)の絶頂にいる時、誰が覚せい剤などに手を出すでしょうか。落ち目、転落とともに、ぽっかり空いた心の空洞にそれらの魔手がさっと忍び込むのでしょう。
 1のスターの輝きを支える100、1000、10000…もの、芸能界のブラックボックス。そこでは物欲、金欲、性欲、虚名欲ありとあらゆる人間の欲望が、巨大な渦となってうごめいているのでしょう。

 そうしてみると、小向美奈子はそんな得体の知れないものの犠牲者のようで。『若い身空でとんでもない地獄を見て、可哀相に…』と思わずにはおられません。    (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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雪に埋もれし我が故郷(1)

   雪女さへ来やしない山部落   (拙句)

 私の故郷は、山形県東置賜(おきたま)郡という内陸部の一地方です。冬はかなりの豪雪地帯です。早い年は11月中旬にも初雪、それが一旦溶けて、12月中にいよいよ本式に雪が降り、それが積もって根雪になるのが普通でした。
 小学校1年(昭和31年)の秋に宮内町に越してからは、南に開けた盆地の町場のため少し緩やかになり、12月中の雪は溶けて年が改まってから根雪になることが多かったように記憶しています。いずれにしても、そのまま3月中旬頃までは、すっぽり周り中が真っ白い雪に覆われながらの厳しい暮らしです。

 そんな故郷を持つ私が、あまり雪が降らない、ましてや滅多なことでは積もらない神奈川県県央地区に越してから40年余。故郷で暮らした18年間の2倍以上を当地で暮らし、すっかり雪のない冬に慣れ切ってしまいました。今では「雪の故郷」など、遥か上古の微(かす)かな思い出のようです。
 そんな中で、記憶に残っている故郷での「雪のスナップショット」を、以下でご紹介したいと思います。「思い出の時系列」はあっちこっちに飛びますが、予めご了承下さい。
                         *
 私が生まれたのは、水林(みずばやし)という山の中の部落です。この部落に母の実家があり、母は長男である私を生むために、一時里帰りしたのです。
 私が小学校1年までを過ごした父方の実家のある太郎村の、一つ奥に入った下荻(しもおぎ)という部落から、一里(約4キロ)ほど西の山の細道を上って行くのです。部落の1キロ弱手前に峠があり、そこからは下りです。
 
 この水林部落は最上川の水源の一つとされ、米沢上杉藩の名君・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公の治政下、その頃から熊野神社(オクマン様)の門前町として開けつつあった宮内の水源確保の目的で、切り拓かれた部落と言い伝えられています。

 山また山の平らな窪地を拓いた、戸数わずかに七軒の部落でした(昭和40年代半ば頃廃村)。私は小学校の頃、夏休みと冬休みには決まって、この部落の母の実家に寄越されました。宮内町の母子寮に入寮していて、ただでさえ貧しい我が家の短期間の「口減らし」のためだったと思われます。
 冬の水林部落は、下荻や小滝(こたき)といった下の少し戸数の多い集落とは隔絶した、白銀の小世界になってしまいます。半分「町っ子」になっていた私は、夏はともかく、冬の水林が嫌で嫌で。そのせいか各冬をそこでどうして過ごしたのか、あまりよく覚えていません。

 一つだけはっきり覚えているのは―。
 小学校4年生の冬だったかと思いますが、冷え込んできた夕方頃、部落の子供たちと外で遊んでいました。私はぎゅうぎゅうに固めて野球のボールくらいの大きさになった雪の玉を、何かの拍子に上に放り投げたのです。真上にと思ったのに、軌道が見事にそれて、落下したのは何と近くにいた、私の「また従兄弟」にあたる1歳年下のK君という男の子の頭でした。さあ大変です。K君の頭は見る見る「血だら真っ赤」(とは郷里の表現)になり、顔にまでたらたらと血が垂れてきます。

 K君は、「コタロ君がら雪ブン投げらっちゃ―」とワンワン泣きながら、家に帰って行きました。私自身の生家のある部落とはいえ、所詮アウェーですから自分の所業に青くなって、私も親戚であるK君の家(母の実家とは別の家)についていきました。
 オバチャ(叔母さん)からは一くさり小言をもらったものの、幸い単なる打撲程度で事なきを得て、ほっと一安堵でした。

 なおその親戚の家は、昭和30年代半ば頃部落の暮らしに見切りをつけて、宮内町に越して来ました。その家は我が母子寮のすぐ近くで、K君とは一時期実の兄弟のように行ったり来たりしていました。
 その後K君は、地元の町でタクシー会社に入り、そこの役員になりました。なかなか人望があり、社内外からまだまだ期待されていたようですが。2年前惜しまれながら、突然病死してしまいました。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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検索フレーズランキングあれこれ

 3カ月ほど前からココログブログで「検索フレーズランキング」が表示されることになりました。これは1日におけるブログアクセスのうち、グーグル、ヤフーなどの検索から入って来られた人の、その検索フレーズを、多かったものから順に10位まで翌日表示するというものです。
 
 当初はあまり関心も持っていませんでした。それにその当時は、1日あたり検索アクセスそのものが少なく、1日3~5件くらいなものでしたし、中には6月の記事『当世若者気質(1)』へのアクセスでしたが、「高校生発情カップル」などという変な検索フレーズがあり、『こりゃあ、まづいなあ』とばかりに、1ヶ月ほど表示を止めていました。
 その後おかげ様で検索アクセスが徐々にふえ始め、それとなく調べていると1日あたり常時10検索以上が続きました。そこで少々変な検索が混じっていても『それはそれ』と割り切ることにし、同表示を再開させ今日に至っております。

 当ブログ検索で断トツなのは何といっても、『二木紘三のうた物語(1)~(5)』シリーズです。「二木紘三」「二木歌物語」「MIDI歌声喫茶」などなど、ほぼ毎日のように検索アクセスがあります。ある日などは、『うた物語』関係だけで6件くらいを占めたこともあります。『うた物語』というサイトが、いかに根強いファン層を持っていることか改めて認識させられます。
 その他は検索する人の興味や関心によって、まちまちです。中には私自身忘れかけていたような開設当初記事への検索もあり、意外に思うこともあります。そんな中で、6月の『しあわせ少女』シリーズへの検索アクセスが、未だに週に1、2回はあり、以前述べましたとおり私自身気に入っている記事なので嬉しく思います。
 その他では、『厚木市と♪夕焼け小焼け♪』『偶成』『秋風辞』『天の数歌』などへのアクセスがやや多いことも意外です。

 そんな中で、直前に公開した記事関連の検索がどうしても多くなります。特に2ヶ月ほど前から、時事問題や映画・テレビなどの時々の話題を記事にし始めてからは、それに関連する検索フレーズが一時的に多くなりました。
 例えば『レッドクリフ&三国志』や『K-20怪人二十面相・伝』では、「金城武」の検索の多さにはびっくりしました。また『小室哲哉逮捕に思うこと』では、「小室哲哉」当人よりも「堀江貴文」の検索の方が多くて、これまた驚きでした。つい最近の『天地人について(1)』では、主役の妻夫木聡よりも、幼少・与六を演じた加藤清史郎君の方が多いようです。正直なもので今のところ当ブログでも、妻夫木聡・兼続を加藤清史郎・与六が「食っている」格好です。

 話題は変わって。きのう(つまりおとといの検索結果)の検索表示で、「おわだまさことかわしまきこ」というフレーズがランクされていました。これは昨年末の『天皇家3代の御名・考(2)』へのアクセスでした。同記事の中で、両妃殿下のお名前の奇妙な暗合をご紹介しました。意外な検索に私も興味を抱き、そのランキング個所から入ってみました。すると、今まで『こんなのあまり知られてないだろうな』と思っていたのに、意外にも関連記事がどっさりあり、私の記事は3、4ページ目でやっと出てきたくらいでした。

 その関連で、「9・11」に関して意外なことを載せているサイトにたどりつきました。最後にそれをご紹介したいと思います。それは『911テロはドル紙幣で予言されていた?!』という記事です(太字クリックのこと)。20ドル、5ドル、10ドル、50ドルを折って、また折っていくと…。何と、あら不思議 !!
 但しこれは決して新しい情報ではなく、ネットの世界では2003年頃から話題になっていたようです。皆様の中でもご存知の方もおいでかもしれません。もしご存知ない方がおられましたら、是非どうぞ。画像つきの解説です。一見の価値ありです !
 (以下余談) しつこいようですが、9・11とは何だったのでしょう?今もって謎だらけですから。私には、米国政府の公式発表などとても信じる気にはなれないのです。「9・11の真実」が白日の下に暴露されない限り、アメリカと世界の本当の「Change」はあり得ない。私はそう思います。
 (大場光太郎・記) 

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朝青龍優勝に思うこと

 大相撲の初場所で朝青龍が優勝しました。
 場所前は「本当に出場出来るのか?」から始まり、「出てもどうせ途中休場、引退も時間の問題だろ」と、誰もが思っていました。それがどうでしょう。初日稀勢の里戦で辛くも勝ってから、あれよあれよの14連勝。途中からは「引退」を口にする者は誰もいなくなり、逆に「朝青龍の優勝か !」の文字さえ躍るようになりました。

 朝青龍も、よほど今場所に期するものがあったのでしょう。初日から目の色が違っていました。また余人にはうかがいしれないものの、三場所休場横綱のプレッシャーもかなりあったのかもしれません。万感胸に迫ったのか、8年ぶりという横綱同士の優勝決定戦後のインタビューで、今ではすっかり「国民的ヒール(悪役)」となった感のある朝青龍の涙を初めて見ました。「朝青龍は帰ってきました !」という挨拶には、『おっ、これで少しは横綱としての自覚が芽生えたか?』と思わせられました。

 これで通算23回目の優勝、平成の名横綱・貴乃花を抜いて歴代単独4位。3位の北の湖を後2回で抜きます。場所前は「限界説」も噂されましたが、相撲界では28歳は既に高齢の部類なのでしょうか。単純には比較できないものの、米大リーガーの松坂大輔と同年代です。初場所の取り組みを見る限り、『ひょっとして、大鵬の32回だって抜けるんじゃないの?』と思ったのは私だけでしょうか?

 朝青龍本人はもとより、日本相撲協会も笑いが止まらないようです。なにせ場所前から朝青龍問題で話題沸騰、場所中もおかげで連日の満員御礼。近年下降気味のNHK相撲中継も、久々に20%と回復したとのことです。
 ともかく、初場所の大盛り上がりから、「朝青龍人気」がいかに絶大なものであるかを、改めて実感させられました。

 相撲協会や横審なども「朝青龍様々」である以上、「横綱の品格云々」は今後声高に言いずらくなるかもしれません。そもそも「日本人力士がからきしダメだから、それじゃあ外国人を…」となった時から、その辺はある程度折り込み済みのはずだったのではないでしょうか?
 
 しょせん、日本とは文化も風土も違ったお国の力士たちです。特に朝青龍は、モンゴル草原の遊牧騎馬民族出身です。チンギスハーンの大蒙古帝国は、今でも西欧人の潜在意識に恐怖心が残っていると言われているほどの勇猛な民族性です。そりゃあ、根っこからして違いますよ。2千年このかた農耕定住民族だった日本民族とは。だから強いわけです、朝青龍も白鵬も。方や民族性が全面に出て、方やそれが潜在しているけれども。
 「管理社会」をすんなり受け入れる民族性と、『そんなのクソ食らえ !』と内心思っている民族性の違い。私は「横綱の品格問題」の根底には、こんな文化の違いが横たわっていると思います。

 最後に。朝青龍が復活しようがしまいが、大相撲は難問山積であることに変わりありません。八百長疑惑、大麻事件、新弟子暴行死事件、協会の不透明なカネの使途の問題、興業化し続ける国技の問題…。
 そんな中で、特別相撲ファンでもない私が憂慮するのは―。やはり肝心であるはずの、強い日本人力士が育たないことです。新弟子志願者そのものが、年々減少していますし。相撲ファンが本当に待ち望んでいるのは、朝青龍のような借り物の横綱ではない、往年の大鵬や千代の富士や貴乃花といった自前の横綱だと思うんですけど…。
 (大場光太郎・記) 

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“ブログ”について(2)

 さて「ブログ」は「ウェブ上の日誌」であると言いました。そこで「日誌」なのだから自分(ブロガー)の述べたいことを何でも好き勝手に述べていいのか?という問題に直面します。あくまでもプライベートな「日記」のように、日頃のウップン、悩み、グチなどをブログに書き綴ることはどうなのかということです。
 すべて「表現の自由」は、現憲法で保証された国民の権利の一つです。ですからそのような記述も、他に害を与えない限りは許容範囲なのかもしれません。案外ブログには、そんな場合の「はけ口機能」という側面もあるのかもしれません。

 中にはそのようなブログもあるようです。例えば昨年クリスマス・イヴに変わり果てた姿で発見された飯島愛などはそうだったようです。一昨年春芸能界から引退した時、多くの関係者やファンは、彼女は別のステージに華やかに転身していくのだろうと予想していました。しかし実際は彼女は悪化する病状と戦い、また芸能界を引退したことで友人、知人が一人また一人と離れていく中で孤独感も徐々に深まっていったようです。彼女もブログを持っていて、その悩みなどをブログの中で度々訴えていたようなのです。

 それが彼女の死因とどう結びつくのかは分かりません。しかし悩みをブログに書き綴ることは、当人の悩み解消に役立つものなのでしょうか?専門の心理療法士などの見解では、むしろ否定的であるようです。
 一般的に悩みを紙に書き出すことは、問題や悩み解決には有効のようです。しかしそれには一つ条件があって、書いたら直ちに破り捨てるか燃やしてしまうことが必要だそうです。書く→破る(燃やす)という行為は、大変有効な悩み、ストレスの解消法のようなのです。
 しかしブログに綴った場合はそうはいきません。当人が削除しない限り、いつまでも残ります。問題は、書き込んだ当人が何度もそれを読み返してしまうことにあるようです。それによって悩み、グチなどのネガティヴな感情が消えていくどころか、逆に増幅されてますます落ち込む原因になりかねないというのです。

 それにブログは、いくらでも個人の秘密が書き込める日記と違って、ウェブ上に公開されます。ブログの規模にもよりますが、多かれ少なかれ「公共性」を帯びているわけです。
 ですからその書き込みに対して、読者から慰めや、励ましや、解決のヒントとなるようなコメントでも寄せられればまだしも、中には逆のコメントが寄せられることもありえます。そんなのを読めば、当人はますます落ち込むばかりなのではないでしょうか?
 よって「ブログ」は「公開日誌」であり、不特定多数の読者の目にとまる可能性がある以上、ブロガー個人の悩みや、グチといったネガティブな内容のものは極力避けた方が賢明かと思われます。

 私もなるべく、そういうものは書かないようにしております。また私は、毎日幾つかのブログを訪問させていただいております。本当ならばもっと積極的に多くのブログを訪問し、それぞれの良い点を吸収するなりコメントを残すなりすれば、当ブログの発展に大いにプラスになるのかもしれません。しかし生来ものぐさであまり社交的ではなく、ましてブログ専従でもないため、現在は必要最低限しか訪問しておりません。
 そして訪問先ブログは、皆訪問者に元気とインスピレーションを与えてくれるものばかりで、ネガティヴブログは一つもありません。(そんなブログだったら、最初から訪問していませんし。)  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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“ブログ”について(1)

 何と驚くことに ! 今現在日本国内のブログ総数は、「1690万ブログ」にも上るそうです。中には一人が複数のブログを持つケースがあるため、平均すると10人に1人がブログを持っている計算になるそうです。今やブログは、決して珍しいコミュニケーションツールではなくなって来つつあるということです。

 もっとも折角ブログを立ち上げても、何ヶ月も更新しない休眠状態のブログもけっこうあるようです。ちなみに1ヶ月1回以上更新するブログは、1690万ブログのうちの18%、約300万ブログほどだそうです。
 私のように「1日1更新(今後は少しペースを落とそうと思いますが)」を原則としている者には、「1ヶ月1回更新」は極めて少ない更新数であり、『ホントにブログを運営してるって言えるの?』と思えてきます。ですから本当に「生きているブログ」と呼べるものは、ブログ全数の1割程度つまり150万~200万ブログくらいなものなのではないでしょうか?それにしても、大変な数ではあります。

 改めて言うまでもなく、「ブログ」とは「Web log-ウェブ ログ」の略称です。「ウェブ上の日誌」というような意味です。 「日誌」とあるように今は誰でも気軽にブログが作れ、その中で自分が折々に思ったこと、感じたこと、考えたことなどを自由に述べられる時代です。一時代前ならば本の出版など限られた表現手段しかなく、ごく一部の知的階級の人にしか発表出来なかったことが、「ブログ」というインターネット上の媒体の出現によって、今や誰でもある程度自由に発表できる場を持てるようになったのです。
 そしてブロガーの力量に応じて、表現の場やコミュニケーションの輪をいくらでも広げることが可能なわけです。

 それに今やブログは、ブロガー個々人に止まるものではありません。たとえば、昨年末の記事『今年の漢字「変」について』の中でご紹介しましたが。「変」が昨年の「今年の漢字」に決まる1ヵ月前の11月26日、「@nifty ココログ」のブロガーの集会が都内で開催され、事前アンケートの結果同集会で「変」が第1位だったことが、「今年の漢字」選定に大きな影響を与えたとみられています。
 よって今は、「いよいよブログという存在が世論を形成し、また世論を代表する時代が到来した」と言えるということです。そういう重大な使命をブログが担いつつあることを、各ブロガーは常に頭の片隅にでも置いておくべきだと思います。

 しかしながら一くくりに「ブログ」とは言っても、それを運営しているブロガーのブログへの取り組み方、考え方次第でその形式は千差万別であると思います。
 既に上記のようなブログ数に上るのならば、もしブロガーが自分のブログをより目立たせよう、アクセス数を増やそうとするのであれば、星の数ほどもある他ブログとの何らかの差別化が必要となると思われます。ブログ構成、記事内容などに訪問者を魅了するそれ相応の創意工夫をしていかないと、なかなかそのブログはより広く認知されるのは難しいのではないでしょうか?(これは他人事ではなく、自戒を込めて述べています)。
 いささかオーバーな表現ながら、「一億総ブログ時代」に向いつつある中、ブロガー各位の更なる自助努力が求められてくるものと思われます。(以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(1)

 新春4日に始まったNHK大河ドラマ『天地人』も、3回目まで進みました。
 1、2回は、直江兼続の幼少時代・与六を演じた子役の泣かせる演技で、一気にドラマに引き込まれました。これは私だけがそうだったわけではなさそうで、先日の「ココログニュース」でも、子役の演技に涙した全国のお茶の間が多かったことを伝えていました。そしてそのため同番組の視聴率が一気に上がったとも。なお「わしはこんなところに来とうなかった」という名ぜりふの与六少年を演じたのは、加藤清史郎(かとう・せいしろうー7歳)という子役だそうです。

 2回目の後半で、どうにもなじめない雲洞庵を脱け出した幼少与六は、雪の真夜中道我が家を目指します。庵でも喜平二(後の上杉景勝)が与六がいないことに気がつき、探しに出かけます。与六はやっとの思いで我が家にたどり着きます。が、非情にも戸口で母に中に入ることを拒まれ、追い返されます。
 この辺は史実ではなく、後代の近江の儒学者・中江藤樹の少年時代のエピソードを、拝借したのではないだろうかと推測されます。そしてドラマでは、後を追って来た喜平二に背負われながら、夜明けの雪原を戻っていきます。その時初めて、5歳違いの上杉景勝と直江兼続との、終生変らぬ主従の絆が結ばれたのだという美談つきで。
 なお上杉景勝の少年役も、大人になってからの景勝役の北村一輝も、いずれもいいですね。謙信役の阿部寛同様、これは評価します。

 それから歳月がいっぺんに飛んで、10代後半頃の直江兼続に切り換りました。時代背景は、上杉謙信のライバル武田信玄の死去の頃のことです。
 以下はあくまでも私だけの感想ながら。これが何ともさまになっていないのです。何がですって?主役である直江役の妻夫木聡の演技がです。何か軽々しい美男のお小姓さんといった感じです。まあ今は実際若い時代の直江役だからいいものの、これから戦国波乱の大舞台で、秀吉や家康と互角に渡り合った、軍略家としての本領を発揮していくことになる直江兼続を、妻夫木は本当に演じられるのだろうか?現在のメーキャップ技術によってある程度はカバー出来るでしょうが、それにしても壮年、晩年の直江山城守兼続の重厚な人物像を果して演じ切れるのだろうか?

 第3回目は「殿の初恋」というような題でした。それを元に架空の話をふくらますだけふくらませた感じで、正直あまり面白くありませんでした。『そろそろ大河ドラマのいつものクセが始まったぞ』という感じなのです。
 大河ドラマは、年初から年末まで合計40数話になるのでしょう。とにかくその間、何とかお話をやりくりしてつないでいかなければならないわけです。しかし思うに、無理して長く引き伸ばす必要もないのではないでしょうか?1年を前半、後半に分けて、それぞれ違うドラマにしたらどうなんでしょう?日本史には、ドラマになりそうな波乱万丈の英傑がまだまだいっぱいいるのですから。それに地方切捨て的このご時世、番組で紹介してもらいたいと思っている地方、郷土も全国には多いことでしょう。

 さして感動やインパクトを与えないストーリーをだらだら続けられるよりは、その方がずっと引き締まっていいと思います。『天地人』後半は間違いなく米沢が舞台だからと思って今のところ観ていますが、あまりにも面白くなかったら『もうやーめた !』となりそうです。
 もし同番組ただ今ワクワクしながら観ておいでの方がおられましたら、ごめんなさい。以上は、あくまで私の個人的な感想です。
 (大場光太郎・記)

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「Change」は出来るのか !?

 20日(日本21日)バラク・オバマが、第44代米国大統領に就任しました。
 -7℃という寒さにも関わらず、首都・ワシントンの連邦議会議事堂前での就任式には、前代未聞の200万人もの聴衆が押しかけたそうです。47歳としいう若さと初の黒人大統領になる、オバマへの期待の高さが裏付けられたかたちです。と同時に、これは政治的イベントではなく、何やら巨大な宗教的セレモニーの感すら抱かせられます。『でなきゃあ、こんなに人を集めるのは不可能だぞ』。そう言えば、新大統領は聖書に手を置いて宣誓しますし、超大聴衆で埋め尽くされた遥か遠くには妙な高いオベリスク(尖塔)が。登場し階段を降りるオバマの顔が、一瞬古代エジプトのファラオに見えたりして。

 ところでアメリカ大統領の就任式と言えば、これまでも壮大なイベントでした。今回もジミー・カーターまで遡って、存命中の元大統領、元副大統領のお歴々や元ファーストレディらが、一堂に顔をそろえました。テレビ中継では、議事堂内通路で父ブッシュとビル・クリントンが何やら談笑している姿が映し出されました。就任式では、共和党も民主党もないようです。この辺がいかにも「自由の国・アメリカ」らしい、およそ日本では考えられない一幕です。
 しかし少しうがった見方をすると、就任式でオバマが就任したその瞬間から、ジョージ・ブッシュはお役ご免となるわけです。そして「彼の8年間がどんなものであったにせよ、これですべて不問にしようじゃないか」というのが、この儀式の隠された意図でもあるように思われてきます。

 ‘00年の米大統領選は正当なものだったのか?9・11とは一体何だったのか?アフガン侵攻やイラク侵攻(私の認識では両方とも「侵攻」そのものです)は一体何だったのか?加えて、現下の世界を同時不況に陥れた最大の要因は、ブッシュ在任中のアメリカに他なりません。
 いずれを取ってみても「罪万死に値する」大問題のはずです。しかしこれを限りに、ブッシュはにこやかにホワイトハウスを後にし、故郷・テキサスの広大なお屋敷に帰り、ローラ夫人と悠々自適の日々を送るのだとか。いやはや何とも。

 さて、そんな前代未聞の聴衆の前で新大統領に就任したオバマです。CBSテレビによる調査でも、79%がオバマ支持と歴代の大統領の中で最高だそうです。
 しかし。どうするイラクからの米軍撤退問題 ! どうするアフガンへの米軍増派問題 ! どうする「100年に一度の危機」という米国経済の立直し問題 ! etc。最大の期待を背負って登場した若き指導者には、就任時から等量の成果が求められています。しかも期待は、アメリカ一国のみならず、全世界からですから。

 大熱狂の首都を横目に、同日のニューヨーク株式市場のダウ平均は前週末比332ドル安の暴落でした。早くもオバマ新政権の厳しい船出を予想させる現象です。
 「Change(変革)」は本当に出来るのか?どこまで出来るのか?
 私はテレビ中継を観ていて、オバマ演説が始まるとともに、ありがたくなってついうとうと…寝てしまいました。後で漏れ聞くところでは、なかなかの名演説だったようです。オバマの、聴衆を魅了するカリスマ的演説には定評がありますから。しかしこれからは、具体的な「政策実行力」こそが問われます。
 アメリカと世界とそして日本のために、真の「Change」を期待したいものです。
 (大場光太郎・記)

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大寒

    大寒の阿夫利峯(あふりね)やけに尖がって   (拙句)

 きょうは二十四節気の一つである「大寒(だいかん)」です。大寒とは、太陽黄経が300度の時で、寒さが最も厳しくなる頃を指します。江戸時代の『暦便覧』では、「冷ゆることの至りて甚だしきとなれば也」と記述されているようです。
 気象的にも、一年中で最も寒い時期は1月下旬頃と統計上も裏付けられています。

 大寒の前には「小寒(しょうかん)」がありますが、小寒とは寒さが最も厳しくなる前とか、寒さが加わる頃という意味で、いわゆる「寒の入り」のことで1月5日頃を指します。そして小寒後15日で大寒となり、大寒後15日で寒が明け「立春」となります。このように大寒は「寒の内」の真ん中で最も寒い時期を表わしますし、この日から立春までの期間を指すこともあるということです。
 またこの時期は、凍り豆腐、寒天、酒、味噌など寒気を利用した食べ物が仕込まれる時期でもあります。武道で言う「寒稽古」もこの頃行われる修練のことを指しています。

 きょうは終日空一面が鉛色の雲に覆われ、まさに大寒そのものの寒々とした一日となりました。さながら遥か上空で冬帝が、灰色の雲を低く低くと抑えつけているもののようです。おかげで今日1日ばかりは、グレー一色に染まって押し黙ったような街のようすと思われます。
 きのうがまるで桜が咲く頃の暖かい陽気だっただけに、たった1日で何という急転直下の気象変動なのでしょう。

 見れば西の方の大山(阿夫利峯)や丹沢の峯々も上の方はうっすらと雪化粧です。よく見るときょうの大山の山頂は、いつにまして剣(つるぎ)のように尖って迫ってくるようです。
 「天気は西から」といいますが、何やらこの寒気団は大山や丹沢の連なりの向うから、次々に吹き降ろして来るように思われます。案外「冬帝」は、いつの間にか彼の山々の向うに回り、ずらり居並ぶ寒兵たちに「それっ、何してるんだ ! 人間界にもっと寒気を送らんかい !」などと、真っ赤な顔ではっぱをかけていたりして。(なお冬帝―とうてい―は冬そのものを表わす季語の一つです。)

(追記) 今回の記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「大寒」の項、『(株)越前屋ホームページ』の「小寒と大寒」を参考にしました。
 (大場光太郎・記)

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当ブログ続行します !

 一昨日の『お詫びとお願い』で、問題が発生ししばらく当ブログ記事作成を中断する旨、申し述べました。
 その後私なりに調べましたが、どうも1記事の文章が長すぎて、「1アップロード辺りの最大容量-1MB」という、ココログ規定のブログ容量を越えかかったもののようです。ということは、1回辺りの記事をもう少し短くすれば、OKなのかな?と思います。

 その辺のところを「@nifty(ココログ)」にメールで問い合わせようとしても、全然先方に届かないようなのです。10日ほど前、当ブログの「重さ」を感じて、それについての所見を伺うべくメールした時もそうでした。回答がいただけませんでした。
 また今回無料の「フリー」から、より容量の大きくなる「プラス」クラスに設定変更しようと試みましたが、それも拒否されました。

 考えられるのは、昨年7月の、例の『二木紘三のうた物語』の「アクセス禁止」の時の質問メールに、何か不適切な内容が含まれていたか。あるいは以前の当ブログ記事の中に、「@nifty」の「禁止コード」に抵触するような「ワード」なり「内容」なりがあったのか。
 その何れかしか思い当たりません。私としては、多分後者の方に引っかかったのかな?と考えております。皆様も『ははーん。ひょっとして、あれとあれの記事か?』と、思い当たる方もおいでかもしれません。

 いずれに致しましても、今後とも「ココログ」を利用させていただくとしたら、グレードの高いブログ開設不可である以上、当ブログを「だましだまし」運用させていただくしか方途はありません。その間、ココログ以外で優良そうなブログ運営会社があれば、そちらに別ブログを開設するなどの新たな道が開けるかもしれません。

 「口は災いの元」とか申しますが、「筆(文章)」も気をつけなければいけませんね。「舌禍(ぜっか)」と共に、「筆禍(ひっか)」ということもありますから。(今まで公開した全記事、私からすれば、別にどうってことないんだけどなあ―独白)
 
 ともかく以上のような次第で、少し文章を短めにまた記事を再開してみたいと思います。また今後は、当ブログなるべく長く持たせるためにも、「1日1更新」にはこだわらないことに致しました。あわせて、なにとぞよろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)

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お詫びとお願い

 本日一時、当ブログの管理画面に入れない事態が起こりました。
 その時のココログ表示は、はっきりとは覚えていないものの「1MBを越えてのアップロードはできません」というようなことでした。記事数300余、しかも一記事がかなりの長文。ココログの一ブログ容量としては、これが限界のようです。
 管理画面に入れないということは、記事の作成はおろか、自分のブログの一切の管理、操作が行えないということです。 
 その後幸いにも復旧して、以前のように管理画面に入れるようになりました。しかし今後上記警告を無視して記事作成を続行していると、次は入るのが全く不可能になることが十分考えられます。そうすると、このような皆様へのごあいさつ文を作成することも出来なくなり、突然のブログ中断という事態にもなりかねません。(この文も、内心ハラハラしながら作成しております。)

 そこでまことに申し訳ございませんが、しばらく新記事作成は見送らざるを得ません。そして何か良い方法を検討致したいと存じます。出来るならば当ブログ継続でと思いますが、場合によっては、新ブログ『今この時&あの日あの時Ⅱ』の開設も考えなければならないかもしれません。(どうなったかは、解決後当ブログでお知らせ出来ればと存じます。)
 専従のブロガーではない私の力量では、数日から十日の期間をいただきたいと存じます。毎日のようにご訪問の方々は、どうぞその間以前のアーカイブ記事が既にかなりたまっておりますので、そちらを読み返してお待ちください。
 いずれに致しましても、記事再開に向けて努力を致してまいります。
 
 以上の件、なにとぞご了承のほどよろしくお願い申し上げます。

          平成21年1月18日           大場光太郎

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当家は“平家”の流れ !?(2)

 以下は大場陣内なる人物が、山形に落ち延びて来たということを事実と仮定して述べていきたいと思います。
 そこで気になるのは、その人が言った「入ったのは上山だ」ということです。ご存知の方もおいでかもしれませんが、今日では上山(かみのやま)は奥羽山脈の秀峰・蔵王山の麓に開けた賑やかな温泉町です(現在は上山市)。大場陣内がやって来たという昔々はもちろん今のように開けた町ではなく、温泉がわずかに出るくらいの山里で、地形的にその山奥に隠れ住むには案外格好の場所だったのかもしれません。

 私が生まれ育ったのは東置賜郡(当時)であり、上山とは山々を隔てただいぶ離れた場所にあります。
 しかし私が30代半ば過ぎ頃、亡母が何かの折り「父ちゃんの先祖は上山だったんだど」と、ぽつりと話したことがあります。私はそれ以上突っ込んだことは聞きませんでしたが、もしそれが事実なら、当家の先祖も元々は上山に住んでいたことになります。今となっては、「何で上山から東置賜郡に引っ越してきたのか」「それはいつのことだったのか」など、肝心なことをしっかり聞いておけばよかったと思います。

 それにしても、大場陣内はいつの時代に上山に入ったのでしょう?
 やはり壇ノ浦の合戦(元暦2年/寿永4年-1185年旧暦3月24日-新暦4月25日)の頃のことでしょうか。一ノ谷、屋島と源義経を総大将とする源氏方に追いつめられていった平家一門は、最終決戦の地・壇ノ浦で遂に滅亡しました。
 しかし中には、生きて各戦場から敗走し、各地の僻地に隠棲することになった平家一門の者たちもけっこういたわけです。いわゆる「平家の落人(おちうど)」たちです。それは主に平家一門及びその郎党、平家方に加担した者たちのことです。そのため「平家の落武者」とも言われますが、落人の中には武士だけではなく公家や女性や子供たちも含まれていました。

 私は大場陣内が、その時の落人の一人であることには懐疑的でした。というのも、源平合戦の舞台は主に西日本、特に壇ノ浦は瀬戸内海、本州最南端であるからです。それに一連の合戦により、京都など近畿圏から関東圏はいよいよ源氏の勢力が強まったわけで、もし敗走を試みるとすればその影響力が比較的及ばない、四国、九州、山陰などの山里なのではないだろうか、と考えたのです。
 事実平家の落人の多くは、今挙げたそれらの地方を目指したようです。九州最南端の鹿児島には、落人伝説の地が特に多いようです。
 しかし今回少し調べましたら、平家の落人の子孫を主張する村は、何と全国に132ヶ所もあるそうです。

 そしてその中には、平定義が落ち延びたと伝えられる宮城県仙台市青葉区定義地区や、落ち着いた平氏、藤原氏の者が土着したと伝えられる福島県南会津郡桧枝岐村など東北地方の例もあるそうです。そうなると、今回問題となる山形県上山市もあながちありえないことではなくなります。(但し全国に点在する落人部落のほとんどは、その信憑性に欠けるそうです。)
 また平家の落人にゆかりのあるとされる姓として、「大庭」という姓があげられています。大庭氏は「坂東八平氏」中の一氏ですが、茨城県久慈郡大子町古分屋敷には大庭景親(おおば・かげちか)の残党が落ち延びた伝説があるそうです。(都合上、大庭から大場への改姓も考えられないことではありません。)

 以上から、大場陣内なる人物の敗走ルートなどを推理するとこうです。
 大場陣内は元々坂東平氏の流れを汲み、そのため一連の源平合戦にも平家方の一武士として加わったのではないだろうか。しかし平家方は敗北してしまった。そこで合戦を生き延びた陣内らは、リスク覚悟でともかくも故郷の坂東つまり関東地方を目指して敗走を重ねた。そしていざ故郷にたどり着いたものの、そこは今や源氏勢力が制圧していて平家の残党狩りが続くなど、とても長く住み続けられる所ではなくなっている。そこで陣内はやむなく故郷を捨てて、更に北上を続け、ようやく安住の地として上山に隠れ里を見出し、その子孫たちが農民として土着した。
 
 また源平合戦とは何も壇ノ浦だけではありません。先に挙げた大庭景親は、平氏の武士団を率いて挙兵間もない源頼朝の軍を、石橋山(現小田原市)の戦いで撃破しています。しかし大庭景親は、後に再挙兵した頼朝軍による富士川の戦いでは、投降し処刑されました。
 壇ノ浦に至る前哨戦として、関東でも何度かの合戦があったわけです。ここから、例えば富士川の戦いに参加した大場陣内も、故郷には入れず、北を目指して敗走を続けたというケースも考えられます。
                        *
 その人は、「大場じんない」という名前や「上山」という地名を何の根拠があって挙げたのか、確かめようがありません。それに当家も先祖代々の品々は悉く散失してしまっていて、家系図などももちろんありません。ですから、以上の話はすべて仮定の話であることをご了承いただきたいと存じます。
 以上、しがない一市井人が時折り想い描く、ロマン、夢想のたぐいでした。 

(追記) 今回の記事をまとめるにあたり、フリー百科事典『ウィキペディア』の「壇ノ浦の戦い」「平家の落人」の項などを参考にしました。  ― 完 ―  
 (大場光太郎・記)

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当家は“平家”の流れ !?(1)

 今回の記事は与太話の類いとして、お気楽に読み流してください。
                       *
 今から数年前の夕方のことです。
 私は厚木市内の神奈川県のある出先機関で、書類提出のための順番待ちをしていました。私の前に一人の男性がいて、机を挟んで対面の担当者から、既に提出している各書類のチェックを受けているところです。
 年の頃は私より少し若いくらいの、太った体格の人です。今まで見たことがない顔です。どうも同業者(行政書士)ではなさそうです。

 その人のチェックが済みました。その人は担当者に礼をして、帰りがけに側机の上の受付表をチラッと見て、少し驚いたように私を見ました。そして言いました。
 「おたく、大場さん?」
 「ええそうですが」
 「実は私も大場なもんで、同じ苗字の人がいると思ってびっくりしたんですよ」
 「ああそうですか」
 次が私の番ですから、そのことに先ず気を取られています。それに以前は「大場」という苗字は珍しいと思っていましたが、今では日常でもテレビなどでも大場姓を時折り目にすることがあります。ですから『忙しいのに、それがどうした』というような感じだったのです。

 彼は改めて私に問いかけました。
 「大場さんは(当人も同じ姓のくせして)どちらのご出身?」
 「山形ですが」と、私はいささか面倒くさ気に答えました。しかし次の彼の話には、少々びっくりしました。
 「あヽそうでしたか。山形の大場姓は元は平家なんですよ。私の先祖も山形だったんですが、明治くらいに開拓団で北海道に渡り、以来函館に定着したようなんです」

 ここまで話されて、私も大いに興味をそそられました。しかし私の次に順番待ちしている人はいないとはいえ、担当者をこれ以上待たせるわけにはいきません。私のそんな気配を察知して、その人は出口の方に歩きながらまた言いました。
 「山形の大場家のルーツは上山(かみのやま)ですよ」。そしてドアをまたぐ辺りで、なお私に言ったのは、
 「昔上山に最初にやって来たのは、大場じんない !」
 少し大きな声でそれだけ言うと、彼は去っていきました。

 何やらその人は、私にそれを告げるためだけに現われたもののようで。以来同庁舎に何度行っても、彼に会うことはありませんでした。
 私はその後、その人が言ったことが何となく気になりました。それはそうでしょう。その時まで、山形の山深い村の零落した水呑み百姓の小倅だとばかり思っていたのが、いきなり「平家の血筋」ですから。
 『すると縄文以来代々みちのくという辺境の、まつろわぬ民の末裔ではなかったわけだ』。『あの壇ノ浦の合戦で敗れた平家武者が、遥々山形まで落ちのびて来たというわけか?』。『それじゃあ、このオレだって、世が世であればって、とこだな』。あらぬ想像、妄想がふくらみます。

 それにしても、「大場じんない」という具体名は大いに気になります。『大場じんないは、多分大場陣内だろうな』。ただいずれにしても、もし実在の人物としても、山形くんだりまで落ちのびて来た遥か昔の人物のことなんか、調べるのはとても無理なはずです。
 しかし今回記事にするにあたり、『いくら与太話とは言っても…』と、「大場陣内」でネット検索してみました。そうしましたら、その名前が、110幾つの項目であったのです。何となくイヤな予感がしました。
 
 早速見てみましたら、そのほとんどが昭和32年制作の東映映画『佐々木小次郎・後編』の登場人物としてでした。ちなみにその映画は、佐伯清監督、村上元三原作、主役の佐々木小次郎には東千代之介、宮本武蔵役が片岡知恵蔵という往年の名スターが出ている映画です。肝心の大場陣内(演じたのは清水荘司という役者)というのは佐々木小次郎の敵役で、ともすれば小次郎の命を付け狙うというような殺し屋です。
 『えっ。こんなのが平家の血筋で、オレなんかのご先祖様か?』。私はがっかりしてしまいました。その後なお調べましたら、「架空の人物」で実在ではなかったことが救いと言えば救いです。

 むしろ調べない方がよかったようなものです。あの時のその人の話し全体が、はったりのように思われてきました。何やら与太話の二乗、三乗のような気もしてきました。『この記事は没にするか』。そうも思いました。
 しかしもう深夜もかなり回っています。今さら別の記事を書けそうにありません。そしてあの時の雰囲気からして、彼は大真面目そうだったし…。結局記事として、続行することにしました。どうぞ皆様、今回の与太話に最後までお付き合いください。  (以下次回につづく)  
 (大場光太郎・記) 

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サーカス

            中原中也

    幾時代かがありまして
    茶色い戦争ありました

  幾時代かがありまして
    冬は疾風(しっぷう)吹きました

  幾時代かがありまして
    今夜此処(ここ)での一(ひ)と殷盛(さか)り
      今夜此処での一と殷盛り

  サーカス小屋は高い梁(はり)
    そこに一つのブランコだ
  見えるともないブランコだ

  頭倒(さか)さに手を垂れて
    汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

  それの近くの白い灯が
    安値(やす)いリボンと息を吐き

  観客様はみな鰯(いわし)
    咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)と
  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

       屋外は真ッ闇(まっくら) 闇の闇(くらのくら)
       夜は劫劫(こふこふ)と更(ふ)けまする
       落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルヂアと
       ゆあーん ゆよーん ゆあゆよん

  …… * …… * …… * …… * …… * ……
1001

《私の観賞ノート》
 中原中也(なかはら・ちゅうや)。明治40年(1907年)~昭和12年(1937年)。山口県山口市湯田温泉生まれ。無名ではなかったものの、詩壇の中心にいたわけでもなく生前はごく少数の読者がいただけだった。しかし今日では、最も愛誦される近代詩人の一人である。詩人、歌人、翻訳家。350篇もの詩を残し、それらの一部は中也自身が編纂した詩集『やぎの歌』『在りし日の歌』に収録されている。また、『ランボー詩集』を出すなどフランスの詩人の紹介にもつとめた。

 先日観た『K-20怪人二十面相・伝』の前半部分で、主役であるサーカスの曲芸師・遠藤平吉(演じたのは金城武)の凄いトリックで、観客の度肝を抜くシーンがありました。続いてサーカス小屋の薄汚れた舞台裏のようすが描写されました。その時ふとこの詩が思い浮かびました。
 
 『サーカス』は、中原中也が独特かつ繊細な感性でとらえた「中也のサーカス像」です。
    幾時代かがありまして
      茶色い戦争ありました
 何やらサーカスなどの見世物小屋の前口上のような出だしです。この詩は、昭和4年10月号『生活者』に発表された、『山羊の歌』の第一部「初期詩篇」中に収められた作品とのことです。
 ですからこの詩の「幾時代」とは、明治、大正、昭和と移り変わった時代、茶色く変色した写真のように遠い記憶になってしまった戦争とは、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などを指すものと思われます。幾時代かの回想の冒頭に「戦争」が置かれているのは、注目すべきことであると思います。

     幾時代かがありまして
       冬は疾風吹きました
 「茶色い戦争」「冬は疾風」。これらからうかがえる中也の心象風景の中の「幾時代」は、決して明るいものではなく、むしろ暗い色調を帯びているようです。そんな幾時代が積もり積もって行き着いた果てのような「今夜」。「此処」でのサーカス小屋の賑やかなようすが描かれていきます。

 中也が想像の中でフォーカスしているのは、「見えるともない」一つのブランコです。
    ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
 実に独創的なリフレインの揺れの表現です。
    それの近くの白い灯が
      安値いリボンと息を吹き
 これまた何という若々しく斬新な詩的表現なのでしょう ! 意味は今一つ解りかねるとしても。

 「みな鰯」と戯画化された観客たちが一心に見ているのは、そのブランコに体を逆さにして巧みな技を披露している曲芸師です。しかし中也のフォーカスの力点は、なぜかブランコそのものであるようです。

 「戦争と平和」の間を行きつ戻りつしている幾時代。ブランコは、その象徴のようにも思われます。今夜観客たちは、そんな面倒くさいことには思いを致さず、曲芸につかの間の慰安を見出しているけれども…。

 願わくば、私たちの今この現実に、「茶色い戦争」が「リアルで凄惨な戦争」となって揺り戻されて来ませんように。

 (大場光太郎・記)  

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よくやった ! 渡辺喜美

 どろんと澱んだような閉塞感漂う政治状況の中で、久々に面白い動きがありました。きのう13日の渡辺喜美(56)元行革担当大臣の自民党離党です。
 渡辺喜美は昨年末の衆院本会議で既に、民主党が提出した衆院解散決議案に賛成していました。対してその時党執行部が下した処分は「戒告」という、極めて軽いものでした。その頃渡辺が主張していたのが、
 「今の閉塞状況を打破するには、解散・総選挙しかない」
 「麻生内閣は解散・総選挙を期待されて始まった。原点に戻った方がいい」
というものでした。

 これはまさに渡辺喜美の言うとおりで、いざ政権に就いてみると少しでも長く権力の座に止まりたくて、敗北しそうな選挙から逃げまくっている麻生首相の、痛いところを衝いているわけです。渡辺は党の処分などものともせず、更に1月5日麻生首相あてに、①早期の衆院解散②定額給付金の撤回③国家公務員人件費2割カットなど7項目の政策要求を提出しました。そしてその時、「速やか、かつ真摯に検討されなければ自民党を離党する」とキッパリ言明したのです。

 去年初秋のリーマンショック以来、株価は暴落し続けるは、円高は進むはで、我が国も各方面で大変深刻な状況です。麻生総理自らが「百年に一度の危機」ということを口にするくらいの認識があるのなら、就任早々(解散・総選挙が嫌なら)実効性ある政策を片っ端から実行し具体的な成果を示して、国民を安心させるべきなのです。
 具体的な政策実行力がないのなら、国民を不安に陥らせる上記のような言葉は言うべきではありません。いやしくも国のトップリーダーならば、国民に勇気と希望を与える国家ビジョンや明るい展望を語るべきものなのですから。

 だから渡辺喜美の提言は一々正論であり、もっともなのです。むしろ造反議員から言われる前に、現政権として既に着手すべきだったことばかりです。しかし当然といえば当然ながら、麻生総理はじめ各閣僚、党幹部の反応は冷ややかなものでした。
 党としても、渡辺喜美の離党はすでに折り込み済みだったようです。問題はそれを渡辺の単独行動にとどめ、他に同調者が出ないようにすることでした。そのため中堅、若手に対しては、派閥からの締めつけや党執行部からの「選挙で公認しないぞ」という脅しをかけたようです。それで昨年末は活発だった反麻生の動きもぴたっと止まりました。
 しかし昨日の衆院本会議では、‘08年第2次補正予算案採決をめぐって、渡辺の他に松浪健太議員が途中退席しました。

 松浪議員は麻生内閣の内閣府政務官だっただけに、その造反行為は党としてもショックだったようです。松浪は「渡辺元大臣と同一歩調を取ったわけではない」としていますが、これでやはり中堅、若手を中心に、党や麻生総理への不満が以前くすぶっていることが明るみに出たわけです。
 最新の内閣の支持率が、各社世論調査で軒並み20%を切っています。党首脳部は「今回は上昇するだろう」と見込んでいただけに、これも大ショックだったようです。支持率の低落傾向に歯止めをかける、何か有効な政策を打ち出せるのか。もし今後とも低落が続くようだと、造反議員が更に増えるのは確実と見られています。

 あの郵政選挙時、小泉元首相の「郵政民営化、イエスかノーか !」というワンフレーズだけで確保した、安定多数の自公衆議院現有議席。以来国民に信を問うことなく、その数の上に乗っかり、安倍、福田そして麻生と3代も政権が交代しています。
 福田政権でも「2/3による衆議院再可決」が使われました。今回麻生総理もまたその手を使おうとしています。しかしその前に「17人の造反者」が出れば、その伝家の宝刀は使えず、その時点で麻生内閣はジ・エンドとなります。
 
 株暴落で悲鳴を上げている投資家たちは、「その最大の要因は麻生政権」と言っているそうです。投資家ならずとも、深刻な状況下そう考えている国民は多いのではないでしょうか。
 その意味では、すっかり「良い子ちゃん議員」ばかりになった中で、久しぶりに閉塞的状況に風穴を開けてくれた渡辺喜美の反骨精神に拍手を送ると共に、同議員の今後の益々の活躍を祈りたいものです。
 (大場光太郎・記)

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記事数300越えました

 つい先日の『成人式の思い出(1)』で、記事数がちょうど300に達しました。当ブログは開設が4月下旬、以来260日くらい。生来何ごとも飽きっぽいこの私が、「1日1更新」を原則としてよくもせっせと記事を作ってこれたものです。我ながらびっくりです。
 おととしまでは、業務上の無味乾燥な書類作成以外は「書く」ということから、ずっと遠ざかっていました。それが度々述べましたとおり、昨年初頭頃から『二木紘三のうた物語』にコメントを繰返すうちに、私の中で潜在していた「物を書きたい願望」がすっかり目覚めてしまったようです。諸事情により昨年末『うた物語』コメントは止めましたが、自分が書きたいことが書ける当ブログでは、今後まだまだ書くための素材はけっこうありそうです。

 もしそうだとしても、これはひとえに日々当ブログをご訪問くださる皆様方のお蔭でもあります。前にも述べましたが、思うように訪問者数が得られなければ、気落ちしてとうの昔に『もう止めた !』となっていたかもしれません。
 その意味で、当ブログ『今この時&あの日あの時』は、記事作成者、運営管理者も私ではありますが、同時に日々ご訪問くださる皆様との「共同創造」ブログでもあります。
 それは一つ一つの記事にも反映されておりまして、皆様のご動向により公開したいと思っていた記事を取り止めたり、あるいは逆に同じテーマを視点を変えてまた取り上げてみたり、ということがけっこうあります。

 本当のことを申せば、ご意見、ご感想と共に、その辺のご要望などもコメントでお知らせいただければありがたいと思いつつも。当ブログにはコメントがなかなか寄せられません。
 これは記事の文章が長すぎる、内容が堅苦しいことと共に、2ヶ月ほど前から、非難中傷コメントを避ける一手段として、お名前(ハンドルネーム可)と共にメールアドレス記載を必須にしたことも大きいかと思います。それより何より、一番の原因は私自身の不徳の致すところと、あきらめております。
 ともかくコメントがあろうがなかろうが、その時々で述べたいと思うことを記事にしていきたいと思います。皆様今後3カ月、半年とノーコメントが続きましても、どうぞお気になさらないでいただきたいと存じます。

 ココログ各ブログともアクセス数が増えてきているようです。そのため「ココフラッシュ」各カテゴリーに、当記事がランクされることが少なくなりました。
 そんな中『天地人第1回を観て』が、1月9日づけ「ディリー(日集計)部門」で久しぶり、「日々のこと」2位、「日常」4位にランクされました。さらに『K-20怪人二十面相・伝』が同じく1月12日づけディリー部門で、「日常」1位「映画」2位「雑記」3位にランクされました。
 また「映画」カテゴリーでは、『K-20』が1月12日に「マンスリー(月間)」でいきなり2位になり、翌13日には何と1位に躍り出ました ! 「映画」カテゴリーにはそこそこ記事が寄せられていますし、また当ブログ記事で「マンスリー」にランクされたのは初めてでもあり、大変嬉しく思っております。(数日前新たに、「映画・テレビ」カテゴリーを追加しました。)

 訪問者動向から推測できますことは、「ブログ」という媒体にアクセスされる方々の多くは、肩のこらない軽い読み物、娯楽性のあるもの、ニュース的に旬(しゅん)なものなどが好まれる傾向にあるようです。私が当初目指しておりました、自然観察文、季節報告文、詩、内容的に重い文などは、敬遠されがちです。 その意味では「ブログ」も、「テレビ」と同じような傾向性を持つもののようです。
 私は率直に申し上げて、折角ブログを立ち上げて記事も1日1更新を原則としている以上、常に今より以上の訪問者をと考えております。訪問者数の着実な伸びこそが、当ブログ運営上の大きな活力と言ってもよいくらいです。

 テレビとの共通点ということからすれば、(以前は軽蔑していた)テレビ業界人がなぜ「視聴率」を非常に気にするのか、少し分かってきたように思います。とにかく視聴率5%番組よりは、15%番組の方がいろいろな面でずっと良いわけです。ブログでも出来るだけ大勢の方にご訪問いただいた方が、ずっと励みになります。
 かと言って、それを気にしてばかりいたのでは、本当に自分が書きたい記事を見失ってしまうことにもなりかねません。幸い弱小零細ブログには、民放のようなスポンサーといった「縛り」がありません。
 よって今後とも、「書きたい記事」と「受けたい記事」をうまくバランスしながら、ブログを作ってまいりたいと考えております。

(追記) 記事数300とは言えまだ1年も経過していないのに、最近当ブログずいぶん「重く」なった感じです。自分のブログを開くのにえらく時間がかかり、「Windows-最小メモリー不足により、メモリーをふやしています。云々」の注意文が、ここのところ毎日表示されます。トホホながら。そのうち、もう一つ別ブログを作るなどの対応に迫られるかもしれません。
 皆様はいかがでしょうか。開くのに少々お時間がかかっても、ご辛抱してお待ちいただきたいと存じます。
 (大場光太郎・記) 

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成人式の思い出(2)

 その時の成人式の詳細は、大方忘れました。しかし進行途中で大ハプニングが起こったことだけは鮮明に覚えています。
 一連の式次第が滞りなく進み、いよいよ成人代表が壇上に登り、挨拶の言葉を述べる段になりました。登壇したのはさすが代表だけあって、背がすらっとした凛々しそうな男子でした。その時は全く知りませんでした。しかし後で噂になり知ったところによると、彼はO君という早稲田大学の学生でした。
 それに彼は、厚木市内の名門ゴルフ場支配人Oさんの息子だというのです。実はOさんとは、当時の業務の関係で何回かお会いして知っていました。また当時所属していた若者サークルで、2、3歳年上の彼の姉さんもそれに所属していて知っていました。

 O君の挨拶というのが、型破りなものだったのです。
 最初に何を述べたのか記憶にありませんが、途中から「…成人式のこの場を、討論集会に切り替える事を要求する !」と、右手を高々と振り上げて大声で訴えたのです。すると予めそういう段取りだったのでしょう、会場の何ヶ所かから一斉に「そうだ。そうだ。討論集会の開催を要求する !!」という声が上がりました。
 『えっ。一体どうなっちまったんだ?』。高卒で日々仕事に追われている身の私は、学生運動なるものとはかなりの温度差がありました。(会場の多くの新成人も、何ごと?と思ったかもしれませんが)。およそ私にはあずかり知らぬ事態が起きて、ただ呆然と成り行きを見守るしかありませんでした。

 しかしもっと狼狽したのは、壇上にズラッと居並ぶ市長以下のお歴々だったでしょう。それまで壇上左手トップに悠然と構えて座っていたI市長でしたが、O君のその呼びかけでにわかに騒然としてきた会場のようすに、すっかり慌てふためきイスから立ち上がって、演壇のO君の側に駆け寄りました。
 I市長は両手で、「まあまあ、落ち着いて」とでも言うように制止のしぐさをしました。そして長い時間O君と市長とが、何ごとか話し合いをしていました。その間も会場内のざわつきは収まりません。

 そのうちI市長の説得にO君が折れたようです。再びマイクに向って、「討論集会を開くのは止めにします」と会場に告げました。それを聞いて、会場の方々から落胆の声が漏れると共に、場内は急速に静かになっていきました。
 こうしてO君が静かに壇上から下りていくと、次に市長がマイクに向かい、「本式典はこれをもって終了とする」と宣して式典はお開きになってしまいました。

 O君の討論集会要求も突然なら、式の終了もまたあっけない幕切れでした。我が人生でただ一度の成人式は以上のような経過となりました。
 当時のこととて、式のもようは厚木市内だけで少しの間話題になっただけでした。しかし今なら格好の報道ネタとして、大々的に全国報道されていたかもしれません。
 私はその時の式典は、近年の「荒れる成人式」とは内容的に大いに違うと思っています。ともかくも新成人が、「俺たちに何か話をさせてくれ。何か主張させてくれ !」と要求したわけですから。今のように野獣のようにただ暴れ回るのとは訳が違うのです。
 
 ただ、今考えて惜しむらくは、O君はなぜあそこで引き下がってしまったのだろうかということです。壇上であれだけのことをするからには、もちろん決死の覚悟があったはず。市長などの阻止も折り込み済みだったでしょうに。すべて過ぎてしまったことに「もし」はないとしても、それでも市長の説得を頑として拒み続けたとしたら…。
 「大人」の保守の論理対「若者」の進取の気性。この場合の大人とは、世間あるいは戦後日本社会そのものと言い換えていいかもしれません。あの時のO君たちもそして当時学生運動に身を投じていた学生たちも、皆々共通してその重苦しさを何とか打破しようとして運動していたのだろうに。結局は皆丸め込まれて、手なずけられて。その結果が、重苦しさ、閉塞感の極みのような今日のこの社会。

 今でも何だかんだ批判はあるものの、その年三島由紀夫はともかく死んだ。しかし対極にある多くの学生運動家たちは、O君が静かに壇から下りたように最後は子羊のように社会復帰して行った。覚悟の差だろうか。
 彼らはその時そしてその後、運動時と社会復帰後のことを自分の中できちんと折り合いがつけられたのだろうか。もし今もって折り合いがつけられず、内心苦しんでいるような不器用者がいるとしたら、私はその者をこそ諒としたいと思います。(多分いないでしょうけれど。)
 
 …ともかくもこうして式典は終了し、私たちは会場の外に出ました。確か当日は鉛色の重たい冬雲が垂れ込めた寒い日だったと記憶しています。男女に何人か知った顔が見えたものの、その後共に行動するほどの親密な関係ではなく、私はそれから少しして一時帰省のため一人電車に乗り込んだのでした。  ― 完 ―
 
 (大場光太郎・記) 

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成人式の思い出(1)

 きょう1月12日は成人式の日です。厳しい年に新成人を迎える人たちは、「あのような時代に成人を迎えたことによって気が引き締まり、その後かえってしっかりした人生を築くことが出来た」と、後で振り返れるようであっていただきたいものです。

 私はこの4月某日で満60歳を迎えます。と言うことは成人式から、早40年弱経つことになります。しかしその歳月はまさに「光陰矢の如し」で、成人式は何やらつい先日のことのようにも思われます。我が成人式は、ある出来事により忘れられないものだったからなのかも知れません。
 そこで今回は、私自身のその時のもようをご紹介してみたいと思います。

 私が成人式を迎えた昭和45年は、激動の年でした。
 既にその前年の1月、東大安田講堂攻防戦や同年10月の国際反戦デーの新宿駅での騒乱など、後に「70年安保闘争」「70年学生運動」と呼ばれることになる、全学連メンバーを中心とした学生運動が、首都東京を中心に全国により一層広がる勢いを見せていました。また同年は大学側と学生側が鋭く対立し、東大の受験取り止めという前代未聞の事態まで発生しました。
 そして翌昭和45年は、3月31日に発生したよど号ハイジャック事件、3月から9月にかけての大阪万博、11月25日の三島事件と、これまた重大な事件や出来事が多かった年でした。

 私は「二木紘三のうた物語」の『昭和ブルース』や当ブログの『東海大学湘南キャンパス(2)』などで述べましたように、昭和43年3月山形の高校を卒業した18歳の時に当地(厚木市)にやってきました。
 以来2年経って20歳になっても、東北の田舎者でありどこかに『オレはこんな所でこんな仕事をする人間じゃなかったんだ』という思いもあり、首都圏の一地方都市の生活、業務、人間関係などになじめず苦しんでいた時期でした。
 当地にやって来てからの18歳から20代全般は、我が半生の中でも、とりわけ情けない時期でした。

 だから私には20歳になって成人式の招待状をもらっても、嬉しくも晴れがましくもありません。少し対人恐怖症気味でもあった私は、かえって『あヽ面倒くさいなあ』という気分が先立ったくらいなものでした。かと言って、成人式不出席などという勇気ある行動が出来るわけでもなく。『しょうがないから、出席するか』くらいな、甚だ覇気に欠けた新成人でした。

 会場は厚木中学校の体育館でした。厚木中学は今でもバス通りで、本厚木駅に向う少し手前の右側にあり、以前の記事の中で同校に触れたことがあります。
 1月15日午前10時頃。いよいよ式典が始まりました。会場には私と同年代の男女がびっしりと、パイプイスに座って並んでいます。私は比較的前列で右よりの席でした。私の世代は後に「団塊の世代」と呼ばれることになり、昭和24年生まれはその最後の世代です。それででしょう、体育館がびっしり埋まるほど新成人の数が多いのです。『エェーッ。厚木市にも同じ世代がこんなにいたんだ』。

 式の途中気になってそれとなく周囲を見渡してみると、男も女も皆私などよりしっかりして大人びて見え、私は何となく気後れしてきました。とにかくその頃の私は、自分にまるで自信が持てず、その時も何となく周りの雰囲気に気圧(けお)されがちで、縮こまって晴れの式典に臨んでいたのでした。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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K-20怪人二十面相・伝

 以前『K-20怪人二十面相・伝のこと』で、この映画は是非観てみたいと記しました。本日観てまいりました。
 感想を簡単に述べるとすれば―。いやあ、観てよかった ! 久しぶりで冒険大活劇を観て、スカッとした ! こんなところでしょうか。

 寂しいことに本厚木駅ミロードⅡ内の映画館が10年くらい前に閉館となり、当市で後残っている映画館は駅から少し行った、パルコ内の映画館一館だけになりました。そして『K-20怪人二十面相・伝(以下『K-20』と略称)』はその館では上映しておらず。こういうことが私が映画館から遠ざかっていた理由ですが、今回は『K-20』観たさにお隣の海老名市に向いました。
 夕方5時過ぎ。小田急の急行で次の海老名駅で降りて、徒歩五分くらいのサティ2階に目指す上映館はあります。何しろ10年以上映画館から遠ざかっていたとあって、少しまごまごしながら『K-20』上映スクリーンに入りました。
 
 座席は最前列から4列目の中ほどの席。上映中私の前には誰も座りませんでした。ぐるっと館内を見渡しても、20人足らず。『土曜日の夕方だから混むんじゃないの?』は、全くの杞憂でした。
 開演は5:45。『マンマ・ミーア !』『感染列島』『二十世紀少年』など6、7本の長い予告編。予告編であまり前過ぎて、ワイドスクリーンのスピードの速いシーンなどでは、けっこう目と神経が疲れることに気がつきましたが、後の祭りです。8:15までの長丁場、『途中で気分でも悪くなんないだろうな』と心配しましたが大丈夫でした。

 以前の記事でも触れましたが、時代背景は昭和24年。しかも昭和16年12月8日真珠湾攻撃とはならず、同日米英と条件が折り合い講和が成立し、太平洋戦争は起こらなかったという設定です。
 代わって以前からの華族制度がいよいよ強まり、職業選択の自由はなし、結婚も同階級同士でないと認められない、一部の上流階級と一般庶民の間の格差が激しい社会です。
 導入部で、映画の舞台である架空首都・帝都の上空を何機かのヘリコプターが飛びます。カメラが同時に回され、帝都の状況が紹介される仕掛けです。戦争がなかったものの、やはり古い時代がかった低層建物群が連なっています。その中に2つの群を抜いて突出した建造物が現われます。一つは帝都タワーとでも言うべきテレビ塔です。この映画は「日本テレビ開局55周年記念映画」だそうですから、そのシンボリックタワーといったところでしょうか。もう一つは、この映画で重要な意味を持つことになる羽柴財閥の巨大ビルです。

 これから観てみようという人もおられると思いますしまた紙面の都合もあり、ストーリーの逐一のご紹介は止めにします。
 とにかく、映画館のワイドスクリーンから飛び出してくる映像の迫力は圧倒的です。金城武演じる主役の遠藤平吉が、高い建物や鉄塔をよじ登ったり飛び降りたりするシーン、K-20(怪人二十面相)との何度かの格闘シーン、松たか子演じる羽柴家令嬢が操縦する小型ヘリで、平吉も一緒に乗って帝都上空を飛び回るシーン…。まるで私自身がその場にいて、実際その行動をしているような臨場感がありました。

 あまりにCG(コンピュータ・グラフィックス)を駆使されると、リアリティを欠いた単なる絵空事になりかねません。しかし『K-20』では、それが実に効果的に使われています。なるほどCG技術の進化がなければ、ここまでの迫力ある映像は描けないよなあ、と思わせられました。
 CGの元祖そして本場は「ハリウッド映画」です。しかし以前ご紹介したように、佐藤嗣麻子監督が「日本でも海外でも、こんな映画は観たことがないというものに仕上がった」と自信のほどを見せていたように、同映画の良い点はしっかり吸収して取り入れながらも、同映画の「独特の臭み」から脱した独自性が随所に見られたのも嬉しいところです。
 こういう邦画は、宮崎アニメなどと共に「日本発の文化」として、広く諸外国でも公開してもらいたいものです。

 『K-20』の主役である遠藤平吉役の金城武は、見直しました。サーカスの曲芸師という役どころですが、とにかく存在感抜群です。さすが国際的中国映画『レッドクリフ』で、諸葛孔明役という大役を任されただけのことはあります。(観ないと言っていましたが、こちらも観てみたくなりました。)
 今回の『K-20』では、アクションシーンがふんだんにあり、「アクションができれば、ジャッキー・チェン以上の素材」というF・コッポラ監督の金城評は、この作品で証明されたのではないかと思われます。金城武は、役者として国際的スターとして、『まだまだ伸びシロ(可能性)がありそうだぞ』とうならされました。

 天知茂の渋くてニヒルな明智小五郎像を知っている者には、若い仲村トオルの同役には最初違和感を感じました。しかしストーリーの展開と共に、気にならなくなりました。
 松たか子という女優の演技を観たのは初めてくらいですが、財閥の令嬢葉子役はなかなかさまになっていました。登場して間もなくくらいのドレス姿は、ほれぼれするような美人度でした。またサーカス団の団長でその実泥棒の元締めでもある源治役の国村隼、その妻役の高島礼子も、なかなか良い味を出していました。
 
 帝都の光景、源治たちのバラック長屋、浮浪児たちが寝泊りする原っぱ…。全編にオールディーズなノスタルジックジャパンが見事に再現されていたのには、さすが感心しました。
 この映画のラストでは、「K-20は誰か?」という答えも用意しています。それは…。おっと、それを言っちゃあお終いですね。
 とにかく観終わってスカッとした開放感が味わえました。日頃のストレス発散にはもってこいの映画です。元気とやる気がもらえます。皆様も、「ご用とお急ぎでない方は」ご覧になってみてはいかがでしょうか。
 (大場光太郎・記) 

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イスラエル爆撃・考

 それでなくても多事多難が予想される2009年の幕開け。そんな中「世界の火薬庫」中東で、また厄介な出来事が起きています。イスラエルによる、パレスチナ自治区ガザへの無差別とも思われる爆撃です。大規模空爆を開始したのが去年12月27日、新年1月3日には地上侵攻が開始されました。
 現在把握できている死者数だけで800人弱(イラク戦争時もそうでしたが、実際の数はこんなものではないでしょう)。死者の40数%は女性と子供、一説では子供の死者数が全体の1/3にも上るそうです。今や国連の運搬車や救護車まで狙われ死者が出るなど、同地区への医療や食料などの救援活動も滞りがちだそうです。

    アフガンの月にムンクの叫びかな   (拙句)
 これは、‘01年10月からのアメリカ軍によるアフガニスタン侵攻の時に、『一体なぜなんだ ! 』と思わず詠んだ句です。
 圧倒的な軍事的優位を誇る強者が、弱者の国や地域に容赦ない攻撃を加える。そして常に進化し続ける最新兵器の実験場とばかりに、他国に雨あられの爆弾を浴びせ無辜(むこ)の多くの人々が殺戮され、国土が破壊されていく。今回の攻撃の名目は、「そもそもハマス(イスラム原理主義組織)が先にイスラエル領土にロケット弾を発射したからだ」というものです。
 こうして人類史上数千年間止むことなく続いてきた、「目には目を、歯には歯を」という報復の論理が「何十倍、何百倍返し」となって、21世紀の今日より尖鋭化しているわけです。

 今回の戦闘に対して、いやイスラエルがらみの問題に対してはいつも、国連もアメリカもその属国(これは失言!)ではなく同盟国である我が国政府も、なぜかイスラエル寄りないしは傍観的立場です。まだしっかり職にとどまっていたブッシュやライスは、「イスラエルの自衛の権利」を改めて強調するスタンスです。エジプトが停戦に向けた調停努力を続けていますが、それに対してブッシュは「調停がうまくいくとは考えられない」と無責任な発言もしています。
 だから8日国連安全保障理事会が公式協議を開いて、「ガザ地区での即時かつ恒久的な停戦」を求める決議案にも、他の理事国はすべて賛成(14)の中アメリカだけは棄権なのです。そして肝心のイスラエル自身が決議案採択に否定的つまり無視の姿勢で、直ちに停戦に結びつくものではなさそうです。

 話は変わりますが―。
 現イスラエル国家は実は、多民族国家であることをご存知でしょうか。そもそもユダヤ人の基本的な定義とは、「ユダヤ教を信じている人間」のことを指しますが、同国領内にはユダヤ教のみならずキリスト教徒やイスラム教徒も存在します。
 その中でユダヤ人は550万国民の約81%を占めるといわれていますが、上記のように「ユダヤ人」とは極めて広い概念であり、同国のユダヤ人の中には欧米系もロシア系もアジア系も黒人系もおります。
 
 そもそもイエス死後数十年でローマ帝国によって滅亡させられ、以後1900年もの長きにわたって諸国にディアスポラ(離散)していた元々のユダヤの民は、生き延びるためにその間かなりの混血を重ねてきています。ナチスのユダヤ人強制収容の基準は、「1/4だけユダヤ人の血が流れていること」というあいまいなものだったそうです。そしてそれすらも、17世紀以前まで遡ってたどるのは至難なようです。
 厳格に戒律を守り通して、始祖アブラハムやヤコブの血流を守り通してきたのは、現イスラエルの中でもわずか数パーセントにすぎないと言われています。今の現イスラエル国家の中枢に食い込んでコントロールしているエリートユダヤ人は、主にドイツや東欧系白人のようです。
 ちなみに、我が国で「日ユ同祖論」を語る時のユダヤ人とは、もちろんアブラハム、ヤコブにまで遡れる人たちを指しています。

 19世紀後半から始まった、パレスチナの故国に還ろうという「シオニズム運動」を陰に陽に支援してきたのが、当時の大英帝国であり米国でした。その結果「ユダヤ教徒」たち(「真正ユダヤ人」と言うことではありません)は、1949年念願のイスラエル共和国を建国することが出来たのです。
 ついでに申せば、通常「ユダヤ系財閥」と言われアメリカの「蔭の政府」とも言われているロックフェラー家も、当然元々の真正ユダヤ人ではありません。第二次世界大戦直後、戦後の国際機関として国際連合が新たに発足しましたが、ニューヨークの現国連本部の広大な土地を提供したのがロックフェラー財閥です。

 これでなぜアメリカがイスラエル建国以来、莫大な資金や最新鋭兵器を援助し続け、国連決議などまるで無視したイスラエルの好き勝手な行動を黙認してきたのか、その理由の一端が垣間見えてこないでしょうか?
 (ロックフェラーについての余談。あの9・11に当たって、倒壊したWTCビル内には、数千人のロックフェラー系企業の社員たちが勤務していました。しかし同社員で犠牲になった者はほとんどいません。なぜでしょうか?実は同社員たちには、当日は出社せず自宅待機するよう事前に通告が出ていたのです。それに同事件には、イスラエル秘密情報機関・モサドの影もちらついています。)
 (大場光太郎・記)

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映画『CHE』について

 映画『CHE(チェ)』は、キューバ革命の指導者、チェ・ゲバラの半生を描いた長編大作です。その前編「チェ 28歳の革命」が今月10日から、後編「チェ 38歳別れの手紙」は31日から公開されます。

 監督はスティーブン・ソダーバーグ(1963年1月14日~)。アメリカの映画監督、脚本家、プロデューサーで、ジョージア州アトランタ出身。1986年初めての長編映画『セックスと嘘とビデオテープ』でサンダンス映画観客賞とカンヌ映画祭パルム・ドールを史上最年少(26歳)で受賞しました。また『トラフィック』でアカデミー監督賞を受賞しています。

 そしてゲバラの20代から39歳までを演じているのは、ベニチオ・デル・トロ(1967年2月19日~)。プエルトリコ出身のアメリカの俳優です。両親、祖父が弁護士だったため、自身も弁護士になるつもりが大学在学中演技に目覚め、役者の道を志した異色の俳優です。1988年の映画デビュー以来長い下積みが続いたものの、今回の『CHE』の監督であるソダーバーグの映画『トラフィック』に出演し、アカデミー助演男優賞を受賞しました。

 チェ・ゲバラを演じるデル・トロに、ソダーバーグ監督は「ゲバラを演じ切るなんて無理だ。でも挑戦する価値はある。それこそが革命だ」とアドバイスしたそうです。また今回の日本での公開に先立って来日した際、「ゲバラの人生は数多くの文献などで語られている。どう映像化を試みたのか?」という質問に対して同監督は、
 「彼の人生すべて、全人格を表現することは不可能だ。だから2つの出来事に絞って描くことで彼のイデオロギーと行動を凝縮して表現しようと決めたんだ」と。
 
 ゲバラは、生涯2度命を賭けて「革命」に挑みました。キューバ革命とボリビア革命です。今回の映画では、この2つの革命に挑む姿に焦点を当てて、全4時間半の映像にまとめたそうです。
 前編の『チェ 28歳の革命』はメキシコからキューバに渡りゲリラ戦を展開するゲバラを。そして『チェ 39歳別れの手紙』では、キューバを去り新たな革命のためボリビアへ向うゲバラの姿を描いたものです。
                      *
 革命の途中、ゲバラが志半ばで処刑されたのが39歳の時でした。それは1967年10月9日、つまり昭和42年秋のことです。まったく関係ないものの、私が高校3年の頃ということになります。その頃国際的な出来事や政治的なことにはあまり関心がなかった私は、当時その事実をまったく知りませんでした。
 しかしその後我が国でも70年学生運動の広がりと共に、「革命の英雄」として次第にゲバラの名前やエピソードは、当時の若者の間に浸透していったものと思われます。トレードマークのベレー帽姿のゲバラの格好良すぎる風貌は、とにかく長く記憶に残ります。

 思えば激動の20世紀は、また幾多の歴史的な人物が出現した時代でもありました。その中でも、20世紀最大の出来事であった第二次世界大戦の頃の、ルーズベルト、チャーチル、スターリン、毛沢東などがその代表と言えるでしょう。しかしそんな英雄たちも、(チャーチルは例外としても)多くが晩節を汚す所業によって、その人物の総体的評価を下げることになりました。
 そんな中で「遅れてきた英雄」であるチェ・ゲバラは、何という鮮烈な生涯だったのでしょう ! アメリカ国民の記憶に今でも強く残っている、あのジョン・F・ケネディが1963年11月22日ダラスで凶弾に倒れたのが46歳。ゲバラは、ケネディより更に若くして世を去ったのです。

 さながら夜空にひと際光芒を放ちながら、一瞬にして消えていく流星のような生涯でした。そこに、心ある若者たちは惹きつけられるのだろうか。今でもたまに、街中でゲバラの顔をプリントしたシャツを着ている若者や、電車の中で『ゲバラ伝』を読んでいる若者を見かけることがあります。
 私は、公開中の『K-20怪人二十面相・伝』『252~生存者あり~』『私は貝になりたい』などを観たいと思いながら、まだ観ていません。この映画も是非観てみたいと思いつつも…。
 (大場光太郎・記) 

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『天地人』第1回を観て

 久しくNHK大河ドラマを観ていなかったこの私が、今回『天地人』第1回目「五歳の家臣」を観てみました。これは他ならぬ同ドラマの主人公である直江兼続に大変興味を覚えていることと共に、ドラマ後半では確実に我が郷里もその領地の一部だった、米沢上杉藩が描かれるであろうからです。

 今回は初回とあって、100分くらいと長めでした。そして「初回でこの『天地人』に出来るだけ多くの視聴者を惹きつけよう」という、製作スタッフの意気込みがビンビン伝わってくるような感動作だったと思います。
 ただ導入部の、(多分史実ではないでしょうが)沢山の金砂袋の授与を拒み、豊臣秀吉と対峙する直江兼続の場面だけは、『やっぱり妻夫木聡の兼続役は力量不足だなあ』と率直に思いました。(もし今後も観続けるとしたら、『こんなもんでしょうがないか』と折り合いをつけなければいけません。)

 しかしその後は、『おっ。意外と面白いぞ !』という連続でした。
 ドラマの発端がいきなり、坂戸城(現新潟県南魚沼市)城主・長尾政景が、とある池に船を浮かべた酒宴の催しで溺死する事件から始まります。溺死した政景の肩には斬られた刀傷があり、同乗していた琵琶城(現柏崎市)城主・宇佐美定満が斬殺し、自分も溺死したというのが真相でした。
 今回のドラマでは隠していますが、仕組んだのは上杉謙信でした。謀略、謀殺は戦国の世の習いであり、独り謙信のみ清廉潔白ではあり得なかったのです。政景は一度謙信に反旗を翻し犬猿の中であり、その後政景が折れて謙信の軍門に下ったものの、二人は微妙な関係にあったのです。

 この時上杉謙信35歳。阿部寛の謙信役は面白いと思いました。戦(いくさ)のいでたちなどはいささか凝り過ぎているキライはあるものの、謙信のミステリアスな面そして狂気の面をよく演じています。登場間もなく、一瞬『あれっ。織田信長か?』と錯覚したほどでした。

 ともかくもこの事件はその後越後の国全体を揺るがし、当時10歳だった長尾政景の子・景勝(後の上杉景勝)や5歳だった樋口与六(後の直江兼続)の運命にも、大きく影響を及ぼしていくことになります。
 先ず景勝は、実の父殺害を仕組んだ叔父謙信の養子という複雑な立場となり、上杉藩を引き継いでいくことになります。そして直江兼続はその筆頭家臣として、終生景勝に仕えることになるのです。
 
 直江兼続は、永禄3年(1560年)樋口惣右衛門兼豊の嫡男として、坂戸城下に生まれました。父惣右衛門は炭焼き用人(ドラマでは高嶋政伸演じる「勘定奉行」に格上げしています)という小禄の無口な男で、母(演じたのは田中美佐子)は信濃の武将の娘でした。
 兼続は幼児から見るからに可愛くて、一を聞いて十を知る聡明な子供だったようです。兼続の幼少の与六役を演じた子役は、とても良かったと思います。いかにも利かん気で利発そうな兼続の幼少時代が十分出ていました。
 兼続を最初に見出したのはドラマと同じく、謙信の姉であり殺害された長尾政景の妻である仙桃院(演じたのは高島礼子)でした。

 第1回目の見所は何といっても終盤の、与六(兼続)が五歳で生家を出ることになる一連の場面です。仙桃院に見込まれた兼続は、その子景勝の近習として禅寺の雲洞庵で共に起居、勉学することになったのです。
 いずれは必ず誰もが直面しなければならない「親子の別れ」。それは人生上の大きな通過儀礼(イニシエーション)の一つですが、直江兼続の場合はわずか五歳と、余りにも早すぎたと思います。
 その一連のシーンは、どうにも涙なしでは観ることが出来ませんでした。そしてこのシーンによって、『今後観続けてもいいかな』という気持ちにさせられました。

 今後『天地人』を観ていく中で、重要な場面や感じ入ったシーンなどあれば、その都度また記事にしていきたいと思います。
 (大場光太郎・記)

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七草のこと

    七草に綺麗な人とすれ違ふ   (拙句)

 きょうは七草です。今年は元旦以来晴天に恵まれました。とは言うものの、ここのところ朝晩は急に冷え込んでいます。そしてきょうは午前中からうすら寒い曇り空となりました。夕方には雲が払われてまた前日までの晴天になったものの、その分街に冷気が増し加わりました。

 さて七草は、どなたもご存知のとおり、1月7日の朝に七種の野菜が入った粥(かゆ)を食べる風習のことです。本来は「七草」と書いた場合は「秋の七草」を指し、正月のものは「七種」と書いて「ななくさ」と読むのだそうです。しかし近年では、正月のものも七草と書くのが一般的です。
 「春の七草」を刻んで入れた粥を「七草粥」といい、邪気を祓い万病を除くと言い伝えられてきました。そのような呪術的な意味ばかりではなく、御節(おせち)料理で疲れた胃を休め、野菜が乏しい冬場に不足しがちな栄養素を補う効能もあるそうです。

 そもそも七草の発祥は中国で、この日は「七種菜羹(七種類の野菜を入れたあつもの)」を食べて無病を祈る習慣があったそうです。我が国にも古くから伝わり、平安時代中期の格式である『延喜式(えんぎしき)』には、「餅粥(望粥-もちがゆ)」という名称で七種粥が登場するそうです。
 当時は七種の穀物だったものが、その後春先に採れる野菜を入れるようになったもののようです。当時の「春先」は旧暦の正月のことであり、現在の2月初旬頃にあたります。

    君がため春の野に出でて若菜摘む
    我が衣手に雪は降りつつ
 『古今集』中の名歌であり、また『百人一首』にも採られている光孝天皇のこの歌の「若菜」とは、春の七草のことを指すようです。また、
    せりなずな御形(ごぎょう)はこべら仏の座
    すずなすずしろこれぞ七草
よく知られているこの歌は、14世紀の南北朝時代に四辻の左大臣(よつじのさだいじん)が、源氏物語の注釈書である『河海抄(かかいしょう)』の中で、七草のことを記載したものが後年この歌となって広まったもののようです。
 この歌によって初めて、「春の七草」の七種の草とその読み並べ方が定着したと言われています。

 また七草のこの日を、「人日(じんじつ)」と言うこともあります。五節句の一つです。七草粥を食べることから「七草の節句」とも言います。
 古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていたようです。そして7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたそうです。ちなみに人日は俳句でも、七草などと共に、正月7日を指す季語として現在でも用いられています。
 なお冒頭の拙句は、だいぶ前の七草の日の午後の、厚木の街でのことを詠んだものです。一地方都市である当市でも、時にはっとするような飛び切りの美人を目にすることがあります。

(注記) 本記事をまとめるにあたり、フリー百科事典『ウィキペディア』の「七草」「人日」などの項、『季節の花 300』の「春の七草」を参考にしました。
 (大場光太郎・記)

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寒川神社参拝記(3)

    別嬪の巫女よ破魔弓買ひまする   (拙句)

 大門をくぐって斎庭(さにわ)に歩み入ります。門と対面の壮麗な拝殿そして両脇の社務所などに四囲をぐるっと囲まれた斎庭はけっこうな広さです。
 三が日ならばこの中は、大勢の参拝客で身動きできないほどにごった返します。いよいよ暮色つのり、さすがに人影も多くはありません。すいすい拝殿近くまで進んで行かれます。私はいつも真ん中あたりの最前列で参拝したい主義なので、3列目くらいで前の人の参拝が終わるのを待ちます。

 しかるべき場所が空き、いよいよ参拝です。毎年定額の五百円玉を出して、すぐ前に設置されている長々と大きなお賽銭箱に投げ入れます。拝殿内を見ると、中に十数人くらいの人がいるようです。別途申し込んだ特別祈願の人たちです。
 『あれっ。一礼二拍手か、二礼二拍手か?どっちだ?』。以前ならば各神社の拝礼法などかなり詳しかったはずですが、毎年一度のことで今はすっかり忘れてしまいました。『まあ、そんなに気にすることはないよな』。結局一礼二拍手をしてから、頭を垂れてしばしの祈願に入ります。
   
    世界人類が平和でありますように
    日本が平和でありますように
    私たちの天命が完(まっと)うされますように
    神様ありがとうございます
    この地域が一年平和でありますように
    神様ありがとうございます

 どこかでお聞きになったことがおありでしょう。五井昌久先生(1916年~1980年)が提唱した「世界平和の祈り」の拝借です。実際は「神様ありがとうございます」は、
    守護霊様、守護神様ありがどうございます
となります。私はかれこれ10年ほど、同社初詣はこの祈りで統一しています。自分でも人並み以上に宗教的な人間だなと思いつつも、特定の組織には所属していませんし、これからもそのつもりはありません。しかし良い祈りは良い祈りです。「世界平和の祈り」は唱えやすくて実は奥の深い真正な祈りだと、私は思っております。
 私自身は人様より欠けるものが沢山ありながら、何もわざわざ相模一之宮にまで参って自分自身の願いごとでもあるまい、と考えています。いささか格好よく申せば、
  心だに真(まこと)の道に叶いなば祈らずとても神や護らん (菅原道真公御歌)
といったところでしょうか。

 冒頭の拙句は、だいぶ前の参拝の折りのことを後になって詠んだものです。当時はまだ大改築前で、今の門構えの辺りに、お札や破魔弓や絵馬を売る建物がありました。
    斎庭行く巫女らの一人くしゃみせり   (拙句)
 巫女と言えばまたその前後の年、斎庭を歩いている数人の巫女さんたちを間近で見ました。と斎庭の真ん中辺りで、一人の巫女が身を少し前に屈めながら「ハクション!」と大くしゃみをしたのです。すぐ後で、当人も周りの巫女たちも大笑いです。いくら神事に仕える巫女とは言え、何せ箸が落ちても笑い転げる年頃です。あのように「大笑い」出来るのは、身も心も大健康な証拠です。(なお、くしゃみは冬の季語です。)

 参拝を済ませて拝殿を後にし、帰りは屋台がいっぱい立っている道の方へと向います。ここの通路にはまだ大勢の人がおります。さまざまなものを売る何十もの店が、夕闇迫る中で、明々と照明に照らし出されて活気づいています。私はその一、二店でたこ焼きと甘酒を買って、喫煙OKの場所で一時食べたり飲んだりしました。
 やがて辺りはとっぶりと暮れ出した中、帰路につきました。  ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

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寒川神社参拝記(2)

 正月も4日であり夕方でもあり、神社前の通りを行き交う人の群はほどほどと言ったところです。境内東端の出店がズラッと並ぶ所から入ると近道ですが、私はいつも律儀にも更に歩いて正面の大鳥居をくぐって境内に入ります。
 鳥居は本当に普段私自身がまみれている俗世間と、神域という非日常的空間の「結界(けっかい)」の役割があるようです。くぐった途端、何やら侵しがたい神気が漲っているように感じられます。

 薄暮とは言え、広くて長い参道を拝殿に向って進み行く人の数は多くいます。参道の両側には、既に灯が点された風格ある灯籠がずらっと先まで並んでいます。
 神社の広大な敷地は、鬱蒼たる常緑樹で覆われています。見るところ落葉樹は一本もないようです。皆つやつやした常緑広葉樹です。そうなのです ! これこそが日本古来の樹相というものです。いつかご紹介したいと考えておりますが、「日本一多くの木を植えた男」といわれる宮脇昭・横浜国立大学名誉教授の説によりますと、弥生時代以前日本列島を隈なく覆っていたのが、シイ、タブ、カシなどの常緑広葉樹だったのだそうです。

 私たちが日常目にしている落葉樹は、我が国本来の樹相からすれば「偽物の自然」なのだそうです。したがって本来の常緑広葉樹林に戻すべきだというのが宮脇教授の主張で、現にその通りに全国各地にその土地に適した常緑広葉樹を植え続け、見事な森として再生させているのです。
 言われてみて気がつくことは、この寒川神社はじめ我が国古来の神社や鎮守の森には常緑広葉樹が多く繁っていることです。その意味で古社や鎮守の森は、我が国本来の自然を守り続けてきた貴重なエリアであったとも言えると思います。

 …長い参道が終わると共に樹林も切れて、正面に立派な門とその奥の堂々たる威容の拝殿が見えてきます。その前に、左手のこれも立派な手水舎(ちょうずしゃ)で両手を洗い口を漱ぎます。
 寒川神社は今から10年ほど前、拝殿、社務所、門構え、参道そしてこの手水舎などの大改築が行われました。確か私も微額ながら寄進した覚えがあります。以来相模一之宮としての風格が更に増しました。しかし改築当初の何年かは周り中ピカピカ真新しくなり、何か古式ゆかしい風趣が失われてしまったような違和感を感じたものです。でもその後は風雪と加わる歳月によって、今ではだいぶ以前の風趣を取り戻しつつあります。

 手水舎前面右の柱に、いつも当月の御歌が掲示されています。見ると新年の今、明治天皇御製「新年祝」とあり、
    あしはらの国のさかえを祈るかな
     神代ながらの年をむかへて
と読めました。
 手水舎にも大門手前の広場にも、まだけっこう人がいます。手水舎の先には、まあたくさんのおみくじが結わえられた場所があります。垂れている縄の数知れず、更に一本の縄に結わえられているおみくじはこれまた無数です。結わえた無数の人たちの想いは、縄を伝って地中深く流れ地霊にまで届くものなのでしょうか?
 
 大門の手前には、これまた立派な狛犬の石像が、左右に分かれて頑丈な台座の上に立っています。両方ともらんらんとと形容してもいいような目と憤怒の形相ですが、右の方はカッと口を開け左の方は口を閉じています。「阿吽(あうん)の狛犬」とでも言うべきものでしょうか。
 また大門はと仰ぐと、門の上部には、青森のねぶた人形のような凛々しい武者が両脇に、そして中央には(そう言えば私自身のエトでもある)大きな牛が、それぞれ立体飾りで取り付けられていて中から照明されています。
 その門をくぐって拝殿へと歩みを進めます。  (以下次回へつづく)
 (大場光太郎・記) 

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寒川神社参拝記(1)

 本日4日夕方私にとって恒例の、寒川神社に初詣に行ってまいりました。
 きょうも朝から晴天で、正月三が日の良い天気がそのまま引き継がれた感じでしたが、昼過ぎ頃から少しずつ雲が出てきました。私が同神社に車で向った午後4時前頃には、空はけっこう黒い雲で覆われていました。ただ空の青い色も所々に見られる具合の空模様です。

 寒川神社は、神奈川県高座郡寒川町宮山3916番地にある神社です。祭神は寒川大神、応神天皇など諸説あるものの、現在は寒川比古、寒川比売の夫婦神とされ、かつては朝廷の尊崇も篤かったようで、旧社格は国弊中社の相模国一之宮でした。現在でも相模国一之宮の呼称はそのまま引き継がれ、「八方除けの守護神」として関東一円から参拝者が集まります。
 古来相模川沿いは相模国造(さがみのくにのみやつこ)がおり、また同社が高句麗(こうくり)系渡来人入植の地である高座郡に属することから、有力な豪族が造営したものと推定されています。雄略天皇在位の時期(456年~479年)に奉弊、神亀4年(727年)に社殿建立と伝える古記録があり、但し公式には、承和13年(846年)に仁明天皇から従五位下を授かるという記録(『続日本後紀』)があるそうです。 (この項、フリー百科事典『ウィキペディア』より「寒川神社」の項参照)

 私は若い頃は初詣などとんとしませんでした。しかし30代前半日本霊学を少しかじり始め、神社の意義が分かると共に参拝し出すようになっていったのです。以後は毎年欠かさず参拝に出かける習慣になっています。
 20年以上前は、先に述べましたように江ノ島の児玉神社や鎌倉の鶴岡八幡宮に行ったこともあります。しかしそれは特例中の特例で、それ以外は寒川神社オンリーで現在に至っております。

 以前は正月三が日の内に行っていました。元旦に行ったこともありますが、その日だけでも何万人と押しかけるものなのか、参拝客でごった返して境内は身動きが出来ないため止めたのです。また移動手段は主に車ですが、だいぶ前3日の日に出かけた時は、間道を通ったにも関わらず途中でピタッと動かないほど大渋滞で、『こりゃダメだ。日が暮れちまう』とばかりに途中から引き返し、翌日改めて出直したことがあります。
 そんなこんなで、以後私の参拝日は4日または5日と決まった次第です。

 寒川神社から少し東に寄って南北に縦断する県道を左折して、東にぐるっと回った向うの道から、その道と県道との間に広がる田んぼ道に少し入り、そこだけ果樹のある畑の一角に車を停めさせていただきます。
 そこから田中の道を通って改めて県道に出て、それを横切って神社へと向うのです。田中の道を歩き始めて間もなく、どこからか「うさぎ追いしかの山…♪」の『故郷(ふるさと)』のメロディが高らかに鳴り響きました。時計を確認すると、ちょうど4時半です。当厚木市では『夕焼け小焼け』そして寒川町では『故郷』というわけか。
 県道際だけ畑になっており、薄暮に大根や葱や春菊などの冬菜の青々とした葉が引き立っていました。

 田中道から西を眺めると、もちろん神社の壮麗なお社群や森が大きく見えていますし、その上の彼方に大山の姿も見えます。もっと天気が良ければ大山の南の方に富士山の姿も見えるはずですが、本日は西空を黒雲が覆っていて残念ながら見えません。
 ただその雲の切れ間から夕陽が真っ赤な光体となって、きょう最後の直視するにはまぶしすぎる輝きを放っています。見ると大山の峰よりびっくりするほど南寄り、平塚というよりは大磯の方角に沈もうとしているようです。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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児玉神社参拝記(2)

 山本白鳥は、月刊誌『ムー』で‘80年代後半からブームになった、「日ユ同祖論(日本民族とユダヤ民族は同一の祖先を持つ民族同士であるとする説)」に始まる「神日本ムーヴメント」の仕掛け人のお一人であったようです。
 ご自身は古神道を受け継ぐ家系に生を享け、日本古神道を中心に据えつつ『遥かなる白き神』という著書に見られるように、遠く南米のチチカカ湖やエルサレムに御神業(ごしんぎょう)のため赴くなど、エネルギッシュに活動されていました。

 なお同ムーヴメントの仕掛け人としては、他に武田崇元(たけだ・すうげん)という人がいました。この人はやはり‘80年代後半頃カッパブックスで『霊界からの大警告』という本を出し、すっかり忘れ去られていた大巨人・出口王仁三郎を当時改めて紹介し、出口王仁三郎ブームを起こした人物です。(私も同書によって初めて、出口王仁三郎を知ったのです。)
 武田崇元は東大法学部卒業後神霊研究の道に進み、『地球ロマン』編集長を経て、八幡書店社主として現在に至っているという変り種です。このお二人は一緒に日本の聖地を訪れることも多く、例えば関門海峡では二匹の巨大な龍が踊っている姿を、山本女史が霊視したなどの紀行文が『ムー』誌上に載ることもありました。

 …1日3回の参拝のうち、私は一番早い午前中の参拝でした。私より若い男子二人と一緒でした。
 山本宮司と間近で接するのは初めてです。当時私は40歳少し前くらいでしたが、宮司は私よりお若い30代半ば過ぎくらいのお歳でした。純白の神服に身を包み、ほっそりと美しい凛としたお顔立ちの女性だったと記憶しています。
 その山本宮司が私たちを先導して、ご神前に立ち諸々の祝詞を宣(の)られ、私たちは深く頭(こうべ)を垂れて参拝させていただきました。その間10数分くらいだったでしょうか。祈願が終わると、神前に予め供えてあった「ダルマ」が各自に授与されました。これは参拝申し込み時に、一緒に注文しておいたものです。私は欲張って、2個のダルマです。

 参拝が済んで、社務所に上がらせていただき直会(なおらい)というのでしょうか、山本宮司を囲んでお餅などをいただきながらしばし歓談となりました。
 社務所のしかるべき壁面に、本でよく見る児玉源太郎の、軍服姿の肖像写真を大きく拡大したのが掲げられていました。山本宮司は、「この神社には本当にご縁のある方でないと参拝できないんですよ。たまに間違えて、アベックなどが迷い込むことがありますけど」と、笑いながら話されました。

 また山本宮司の前に、お二人の男性が宮司を勤められたものの、とにかく「児玉大神の神威が強すぎて、お二人とも体に変調を来たしてお辞めになり、それで私に白羽の矢が立ったのです」とも話されました。
 当時私は「日本霊学」に強い関心があったもので、その後いくつかの質問をさせていただきました。内容は亡失しましたが中に不躾な質問があったらしく、山本宮司は少し憮然とされ、「後の方何か質問はございませんか?」と、私の次の質問をさえぎられました。

 こうして参拝が済み、私は大小二個のダルマを両脇に抱えながら、児玉神社を後にしました。二つとも真っ白いダルマです。大きい方は「開運」と朱書された一万円也のダルマで、もう一つの中くらいの大きさのは「金運」と朱書された五千円也のダルマです。
 「大神への祈願により願望成就間違いなし」とのことで、二つともその両目には既に黒々と目が入っていました。

 しかし元々怠け者の上不信心な私は、それ以降も「金運」は下がる一方で。後で思ったことには、『少しケチったのがいけなかったのかなあ。やはり金運の方も大きいのにしとくんだったなあ』。
 こうして金運ダルマの方は、ずっと後年相模一之宮である寒川神社初詣の折り、同神社のお焚き上げ所に置いてきました。開運ダルマの方は、だいぶほこりをかぶっているものの今でも事務室書棚の天辺に置いてあります。今回ほこりを落としました。改めて見てみますと、ダルマさんの前頭部に「六芒星(ろくぼうせい-または「ダビデの星」)」が描かれており、その真ん中に山本宮司の指紋の朱の押印がありました。  ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

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幸せさがしの名人

 新しい年を迎えました。きょうは正月2日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
 さて今年は、いつもの年の年初とはだいぶ感じが違うようです。新年の時報を聞いて間もなく、私は旧年大変お世話になった方に、新年のご挨拶メールを送りました。その方からは以外にも早く返信メールを頂戴致しました。その中に「大恐慌」の文字がありました。『えっ?先生まで !』。私は意外な感じがしました。

 私は大晦日ついつい終日テレビを観ず、したがって今回の『紅白歌合戦』のようすや結果がどうなったかなど、今もってさっぱり分かりません。そんな中、新春恒例のテレビ朝日『朝まで生テレビ』で久しぶりに(?)テレビのスイッチを入れました。
 進行役の渡辺宣嗣アナウンサーの冒頭の挨拶の言葉が印象的でした。「何やら胸騒ぎのする1年の幕が開いたという感じがする」というような意味の言葉を吐いたのです。それも確か2回繰返して。

 なお今回の『朝生』のテーマは、
     激論 ! 2009年“崖っぷち”ニッポン
     ~脱・貧困 ! ドーする?! 経済・雇用危機~
でした。続きまして、上テーマに続いての同番組のホームページに踊っていた見出しをご紹介してみます。
  拡大する世界同時不況 !  米上院、ビックスリー救済法案否決 !  ギリシャ発、欧州に広がる若者デモ !  世界のトヨタ、下半期1000億円の赤字?!  ソニーをはじめとする相次ぐ大規模リストラ !  国内には、雇い止め、派遣切り、相次ぐ内定取り消し !  果して、09年の国民生活はドーなる?! 政・官・業はドーする?!

 実際同番組には、今話題の31日東京の日比谷公園に開設された「年越し派遣村」の実行委員長がパネリストとして加わり、また昨年末実際に「派遣切り」にあい、同村の一員になった10人くらいが会場入りしていました。
 討論進行後間もなく、その中の2、3人の人が、派遣切りにあった時の状況やその後の生活ぶりなど、「派遣先」大企業がいかに非情であるかを赤裸々に語っていました。また一方では、大手16社の内部留保が過去最大の巨額に達していること、ここ何年間かで経営陣の収入が倍になっているなどの矛盾した実情も暴露されました。
 
 また当ブログが属している「ココログ」の「日常」カテゴリーで、2、3カ月前から『ホームレスになってみよう』という記事が、「マンスリー(月間)ランキング」連続1位になっています。
 どこぞのトップリーダーが「百年に一度の危機」と言うように(その割りには、何ら有効な手が打てていないようですが)、これらは『どうも他人事ではないぞ !』と思われてくるから、余計新年なのに「変な胸騒ぎ」も起きてくるわけなのです。

 私は昨年8月の『東京ビッグサイト』シリーズの中で、船井幸雄が90年代半ばにして既に、「資本主義は崩壊、終焉する」と予告していたことをご紹介しました。
 率直に申し上げて、私は今現実にその「崩壊、終焉」のプロセスを目の当たりにしているのでは?という気がしてならないのです。その事に関しては、いずれまた今後別記事で触れる機会があろうかと思いますが、今年あたりは特に厳しい深刻な事態が予測されても、決して悪い面ばかりではないと思われます。

 人類社会の明るい未来創りにとって、「根本的に欠陥のある」資本主義システムの崩壊は、むしろ避けて通れないプロセスであるのです。
 そのようなマクロ的観点に立てば、自ずから別の希望の光が見えてくるはずです。ですから、今年1年、昨年6月以来度々引用してきましたが、
      
      こんなにたくさんの幸せが、
      毎日の中にかくれているなんて。

 この「劇団四季・『赤毛のアン』公演」のキャッチコピーを、今年の厳しい日々が予想される中でこそ、よく味わい生かしていく必要があるのではないでしょうか?
 皆様。アン・シャーリーに見習って、今年1年「幸せさがしの名人」を目指してまいりましょう !
 (大場光太郎・記)

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児玉神社参拝記(1)

 だいぶ前のことです。昭和63年頃(定かではありません)の元旦、私は江ノ島の児玉神社参拝のため、当時住んでいた綾瀬市から車で向いました。
 当日は大快晴でした。『まさか元旦から駐車取り締まりもないだろう』とばかりに、江ノ島の手前のとある通りに駐車して、そこから徒歩で向いました。江ノ島大橋を渡る途中、湘南の青い海の遥か彼方に富士山の姿がくっきりと認められました。その気高いばかりの秀麗な姿に、心搏(う)たれたことを思い出します。

 皆様は児玉神社をご存知でしょうか?多分ご存知ない方が多いと思われます。
 児玉神社は、日露戦争の英雄である児玉源太郎大将をお祀りした神社なのです。同戦争の英雄として他に東郷平八郎や乃木希典がおり、両名は東京の格式高い神社に祀られていることはどなたもご存知のことでしょう。しかし日露戦争最大の功労者といっても過言ではない児玉源太郎はなぜか江ノ島にひっそりと、なのです。(児玉源太郎という人物像や事跡を少しでも知っていただくため、また改めてその小伝などをご紹介できればと思います。)

 大橋を渡り切ると江ノ島神社の上り参道で、両側に土産品を売る店がズラッと並び元旦から大賑わいです。皆々江ノ島神社参拝の帰りの人たちなのでしょう。私はそれらの店や人たちをしり目に、ひたすら参道を上って行きます。
 大勢の人でごったがえす江ノ島神社の社殿を一瞥しながら、私は左折します。同神社境内沿いの道を更に左に曲がりながら進みます。もう回りは鬱蒼とした木立で、さながら山道を上がっている感じです。そこから今度はグルッと右に曲がって、石の階段になりそれを一直線に上り続けると目指す児玉神社です。

 児玉神社はその時限りの参拝でした。なぜ急に参拝となったかといいますと。当時私は学習研究社刊の月刊『ムー』の熱心な愛読者でした。さすがに40代前半頃に同誌は卒業しましたが、同誌は、UFOや心霊現象などの超常・不思議現象やムーやアトランティスといった超古代文明や古今の神秘思想を特集したりする、風変わりながら若い層を中心に結構な読者を獲得している月刊誌だったのです。(もちろん同誌は今現在でも続いています。)

 私は以前『私の不思議体験』で述べましたような少し変わった体験をしたり、中学、高校の頃はこれも以前何度か述べたとおり、「うっとり体験」「頂上体験」のようなものを結構味わいました。高校時代は其の他金縛りにしょっちゅうあったり、ひそかに心霊学の本も読んだりしていました。私の本格的な神霊探求は、昭和57年春のある深夜の体験が直接的なものですが、そういう関係の情報を積極的に求める素地は幼少の頃から既にあったのです。
 その月刊『ムー』のある号に、翌正月の児玉神社参拝案内の広告が掲載されていたので、そんなに遠くもないことだし参拝することにしたのです。

 それに児玉源太郎はそれ以前から、司馬遼太郎の『坂の上の雲』や評伝などでその凄さは知っていましたし。しかし児玉が神としてその神社に祀られているのは、その時初めて知りました。
 同神社の宮司さんは何と、「山本白鳥(やまもと・はくちょう)」という女性なのです。日本各地に神社は無数にあれど、女性の神官、神職、宮司というのは極めて珍しいのではないでしょうか?
 実は山本白鳥は、当時のムー愛読者にとってはおなじみの名前だったのです。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記)

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去年今年

    去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの   高浜虚子

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 
 新年明けましておめでとうございます。
 平成21年(2009年)がスタートしました。皆様新年をいかがお迎えになられましたでしょうか。今年は現下の大不況のもと、世界的にも国内的にも激動が予測されますが、そんな荒波を乗り越えて、この1年を実りある良い年にしたいものです。

 さて今回の虚子の句についてです。
 私たちは午前0時の時報と共に、『さあ、まっさらな新年を迎えたぞ !』という気分になります。またそういう気分になろうとつとめます。年の大きな「Change」なのですから、当然です。
 なのに虚子は「去年今年貫く棒の如きもの」と詠むのです。まるで、上の通念に対してのアンチテーゼの句のようです。つまり年はあらたまっても、実は「時間」というものは、過去、現在、未来と連続したもので切断されるものではないのだ、ということを言いたかったのでしょう。

 考えてみれば確かに、例えば財産などは増えもせず(但し銀行預金などは、当節微少の金利はついています)減りもせずに、新年にそのまま引き継がれていきます。同様に負債も、またそのとおりです。財産はともかく負債の方は、金銭的なものでも心理的なものでも、そっくりそのまま去年に置いて来れれば何と好都合なのでしょう。しかしどっこい、そうはまいりません。
 だからこの句は、「後悔とか負い目を負うような生き方はしなさんなよ」ということを言外に匂わせているのかもしれません。(私などは、大いに耳が痛い話ですけれども。)

 「貫く棒」という形容は凄いですよね。過去・現在・未来という「時間の連続性」というものはかくも確かなものなのであり、ともすれば切れやすい糸のようなか細いものではないわけです。
 新年にあたり、常平生の心構え、生き方について考えさせられます。そして、思わず粛然とさせられるような句だと思います。
 (大場光太郎・記) 

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