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成人式の思い出(2)

 その時の成人式の詳細は、大方忘れました。しかし進行途中で大ハプニングが起こったことだけは鮮明に覚えています。
 一連の式次第が滞りなく進み、いよいよ成人代表が壇上に登り、挨拶の言葉を述べる段になりました。登壇したのはさすが代表だけあって、背がすらっとした凛々しそうな男子でした。その時は全く知りませんでした。しかし後で噂になり知ったところによると、彼はO君という早稲田大学の学生でした。
 それに彼は、厚木市内の名門ゴルフ場支配人Oさんの息子だというのです。実はOさんとは、当時の業務の関係で何回かお会いして知っていました。また当時所属していた若者サークルで、2、3歳年上の彼の姉さんもそれに所属していて知っていました。

 O君の挨拶というのが、型破りなものだったのです。
 最初に何を述べたのか記憶にありませんが、途中から「…成人式のこの場を、討論集会に切り替える事を要求する !」と、右手を高々と振り上げて大声で訴えたのです。すると予めそういう段取りだったのでしょう、会場の何ヶ所かから一斉に「そうだ。そうだ。討論集会の開催を要求する !!」という声が上がりました。
 『えっ。一体どうなっちまったんだ?』。高卒で日々仕事に追われている身の私は、学生運動なるものとはかなりの温度差がありました。(会場の多くの新成人も、何ごと?と思ったかもしれませんが)。およそ私にはあずかり知らぬ事態が起きて、ただ呆然と成り行きを見守るしかありませんでした。

 しかしもっと狼狽したのは、壇上にズラッと居並ぶ市長以下のお歴々だったでしょう。それまで壇上左手トップに悠然と構えて座っていたI市長でしたが、O君のその呼びかけでにわかに騒然としてきた会場のようすに、すっかり慌てふためきイスから立ち上がって、演壇のO君の側に駆け寄りました。
 I市長は両手で、「まあまあ、落ち着いて」とでも言うように制止のしぐさをしました。そして長い時間O君と市長とが、何ごとか話し合いをしていました。その間も会場内のざわつきは収まりません。

 そのうちI市長の説得にO君が折れたようです。再びマイクに向って、「討論集会を開くのは止めにします」と会場に告げました。それを聞いて、会場の方々から落胆の声が漏れると共に、場内は急速に静かになっていきました。
 こうしてO君が静かに壇上から下りていくと、次に市長がマイクに向かい、「本式典はこれをもって終了とする」と宣して式典はお開きになってしまいました。

 O君の討論集会要求も突然なら、式の終了もまたあっけない幕切れでした。我が人生でただ一度の成人式は以上のような経過となりました。
 当時のこととて、式のもようは厚木市内だけで少しの間話題になっただけでした。しかし今なら格好の報道ネタとして、大々的に全国報道されていたかもしれません。
 私はその時の式典は、近年の「荒れる成人式」とは内容的に大いに違うと思っています。ともかくも新成人が、「俺たちに何か話をさせてくれ。何か主張させてくれ !」と要求したわけですから。今のように野獣のようにただ暴れ回るのとは訳が違うのです。
 
 ただ、今考えて惜しむらくは、O君はなぜあそこで引き下がってしまったのだろうかということです。壇上であれだけのことをするからには、もちろん決死の覚悟があったはず。市長などの阻止も折り込み済みだったでしょうに。すべて過ぎてしまったことに「もし」はないとしても、それでも市長の説得を頑として拒み続けたとしたら…。
 「大人」の保守の論理対「若者」の進取の気性。この場合の大人とは、世間あるいは戦後日本社会そのものと言い換えていいかもしれません。あの時のO君たちもそして当時学生運動に身を投じていた学生たちも、皆々共通してその重苦しさを何とか打破しようとして運動していたのだろうに。結局は皆丸め込まれて、手なずけられて。その結果が、重苦しさ、閉塞感の極みのような今日のこの社会。

 今でも何だかんだ批判はあるものの、その年三島由紀夫はともかく死んだ。しかし対極にある多くの学生運動家たちは、O君が静かに壇から下りたように最後は子羊のように社会復帰して行った。覚悟の差だろうか。
 彼らはその時そしてその後、運動時と社会復帰後のことを自分の中できちんと折り合いがつけられたのだろうか。もし今もって折り合いがつけられず、内心苦しんでいるような不器用者がいるとしたら、私はその者をこそ諒としたいと思います。(多分いないでしょうけれど。)
 
 …ともかくもこうして式典は終了し、私たちは会場の外に出ました。確か当日は鉛色の重たい冬雲が垂れ込めた寒い日だったと記憶しています。男女に何人か知った顔が見えたものの、その後共に行動するほどの親密な関係ではなく、私はそれから少しして一時帰省のため一人電車に乗り込んだのでした。  ― 完 ―
 
 (大場光太郎・記) 

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コメント

10日全国各地で成人式が行われました。今年の新成人は初めて総人口の1%を切ったのだそうです。そして彼らはちょうどバブル崩壊の頃、我が国が「失われた20年」に入りかけた頃生まれたわけです。
 景気低迷が続く中その前の世代以上に、いじめ、学級崩壊、登校拒否などさまざまな試練を経てきたことでしょう。彼らが小学校の頃、「今一番ハルマゲドン(霊戦)を経験しているのは子供たちだ」と、ある教師経験者が本の中で述べていました。そのため深いところで性格が捻じ曲がっているのか、あるいはどの世代より鍛えられているのか?それは今後の彼らの行動で明らかになるものと思われます。

 さて私自身の成人式は、本文直前の『成人式の思い出(1)』(09年1月)で述べましたが昭和45年1月15日でした。早いものであれから40余年経ってしまったわけです。当時は「70年安保闘争」真っ只中で、学生運動華やかなりし頃。我が成人式もその余波を受け、かなりハプニングな式典となりました。
 (以上は、今回再掲載するにあたり前文として述べたものです。)

投稿: 時遊人 | 2011年1月12日 (水) 01時54分

 雪に埋もれし我が故郷・・・・本当です。

はじめまして、大場様

私も母の実家、宮内・六角町で生まれました。
本当にのどかで、雪が多くお昼は耳の中でシーンと音がする位でした。友人に話すと、漫画の世界と言われます。

身内が少なくなる事もあり数年に一度戻ります。
 今日はとても、嬉しい日になりました。
    有難うございます。

 時々メール致します。宜しくお願いいたします。・・・妙理

投稿: 妙理 | 2011年2月26日 (土) 11時08分

妙理様
 コメント大変ありがどうございます。
 本当に雪に埋もれた世界というものは、シーンと静寂のものの世界でしたね。
 妙理様は六角町のご出身ですか。六角町には確か石黒素麺工場があるかと思います。多分今の社長でしょうが、彼とは小学校4年から6年まで同級でした。5年生の頃は特に仲良しで、その年彼の家でのクリスマス・イブに呼ばれたこともあります。その思い出は『星の界への憧れ』シリーズの中で述べました。
 いやあ、吉田様といい妙理様といい。宮内町出身の方も多くおられるのですね。ご文懐かしく読ませていただきました。またお気楽にご訪問ください。

 なお当ブログ内メールアドレスは、昨年のココログのシステム変更以来使えなくなっています。何かございましたら、下記アドレスにお願い致します。

  oba-office@amber.plala.or.jp  

投稿: 時遊人 | 2011年2月26日 (土) 15時12分

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