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雪に埋もれし我が故郷(1)

   雪女さへ来やしない山部落   (拙句)

 私の故郷は、山形県東置賜(おきたま)郡という内陸部の一地方です。冬はかなりの豪雪地帯です。早い年は11月中旬にも初雪、それが一旦溶けて、12月中にいよいよ本式に雪が降り、それが積もって根雪になるのが普通でした。
 小学校1年(昭和31年)の秋に宮内町に越してからは、南に開けた盆地の町場のため少し緩やかになり、12月中の雪は溶けて年が改まってから根雪になることが多かったように記憶しています。いずれにしても、そのまま3月中旬頃までは、すっぽり周り中が真っ白い雪に覆われながらの厳しい暮らしです。

 そんな故郷を持つ私が、あまり雪が降らない、ましてや滅多なことでは積もらない神奈川県県央地区に越してから40年余。故郷で暮らした18年間の2倍以上を当地で暮らし、すっかり雪のない冬に慣れ切ってしまいました。今では「雪の故郷」など、遥か上古の微(かす)かな思い出のようです。
 そんな中で、記憶に残っている故郷での「雪のスナップショット」を、以下でご紹介したいと思います。「思い出の時系列」はあっちこっちに飛びますが、予めご了承下さい。
                         *
 私が生まれたのは、水林(みずばやし)という山の中の部落です。この部落に母の実家があり、母は長男である私を生むために、一時里帰りしたのです。
 私が小学校1年までを過ごした父方の実家のある太郎村の、一つ奥に入った下荻(しもおぎ)という部落から、一里(約4キロ)ほど西の山の細道を上って行くのです。部落の1キロ弱手前に峠があり、そこからは下りです。
 
 この水林部落は最上川の水源の一つとされ、米沢上杉藩の名君・上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公の治政下、その頃から熊野神社(オクマン様)の門前町として開けつつあった宮内の水源確保の目的で、切り拓かれた部落と言い伝えられています。

 山また山の平らな窪地を拓いた、戸数わずかに七軒の部落でした(昭和40年代半ば頃廃村)。私は小学校の頃、夏休みと冬休みには決まって、この部落の母の実家に寄越されました。宮内町の母子寮に入寮していて、ただでさえ貧しい我が家の短期間の「口減らし」のためだったと思われます。
 冬の水林部落は、下荻や小滝(こたき)といった下の少し戸数の多い集落とは隔絶した、白銀の小世界になってしまいます。半分「町っ子」になっていた私は、夏はともかく、冬の水林が嫌で嫌で。そのせいか各冬をそこでどうして過ごしたのか、あまりよく覚えていません。

 一つだけはっきり覚えているのは―。
 小学校4年生の冬だったかと思いますが、冷え込んできた夕方頃、部落の子供たちと外で遊んでいました。私はぎゅうぎゅうに固めて野球のボールくらいの大きさになった雪の玉を、何かの拍子に上に放り投げたのです。真上にと思ったのに、軌道が見事にそれて、落下したのは何と近くにいた、私の「また従兄弟」にあたる1歳年下のK君という男の子の頭でした。さあ大変です。K君の頭は見る見る「血だら真っ赤」(とは郷里の表現)になり、顔にまでたらたらと血が垂れてきます。

 K君は、「コタロ君がら雪ブン投げらっちゃ―」とワンワン泣きながら、家に帰って行きました。私自身の生家のある部落とはいえ、所詮アウェーですから自分の所業に青くなって、私も親戚であるK君の家(母の実家とは別の家)についていきました。
 オバチャ(叔母さん)からは一くさり小言をもらったものの、幸い単なる打撲程度で事なきを得て、ほっと一安堵でした。

 なおその親戚の家は、昭和30年代半ば頃部落の暮らしに見切りをつけて、宮内町に越して来ました。その家は我が母子寮のすぐ近くで、K君とは一時期実の兄弟のように行ったり来たりしていました。
 その後K君は、地元の町でタクシー会社に入り、そこの役員になりました。なかなか人望があり、社内外からまだまだ期待されていたようですが。2年前惜しまれながら、突然病死してしまいました。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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思い出」カテゴリの記事

コメント

 本文でも触れましたが、水林部落は昭和40年代前半までには全戸が宮内町に引越し、昭和45年頃町の主催で閉村式が執り行われ、廃村となりました。
 ずっと後年昭和60年前後の6月頃、結婚式があり親戚一同が集まった折り、同部落を皆で訪れたことがあります。長い歳月の風雪で、各家はぺしゃんこに押しつぶされ無残な姿になっていました。周りにはぺんぺん草が伸び放題です。
 村の外れのお地蔵さんは、昔と変わらず部落のたもとにじっと佇んでいました。その様子が何となく、所在なさげで寂しげで…。
 

投稿: 時遊人 | 2011年1月20日 (木) 03時37分

大場様の雪に埋もれしわが故郷を拝見いたしました。感激しました。私は宮内中第8回卒71歳茨城県ひたちなか市に住んでおります。
宮内母子寮について①戦後S22年頃まではあの日本信号の工場でした。ところが火災となってしまったのです。母子寮入口に石の門がありましたが昭和20年代までは日本信号の表札が長いことついていました。(内原におばちゃがいたので歩きながらみてました)②別所町に日本信号の社宅があって相原さんというかたで今思えば工場長クラスだったのかなと思います。私は社宅の敷地にもう一軒あった家を借りてすんでました。③昭和23年日本信号と相原さん5人家族は埼玉与野町へ引きあげられました。

投稿: 吉田貞雄 | 2011年2月22日 (火) 22時52分

吉田貞雄様
 貴重なコメント、大変ありがとうございます。
 そうでしたか。宮内町母子寮の前身は、昭和22年までは「日本信号工場」だったのですか。火災があったということですから、母子寮はその後に建てられたわけですね。別の記事にも書いていますが、私たち家族が入寮した昭和31年晩秋には、もうかなり古めかしくなっていました。
 町内から内原へ向かう街道沿いの、石門もよく覚えています。昭和37年春、中学校入学記念に門を背景に写真を撮ってもらいました。私はてっきり元から母子寮の門だとばかり思っていましたが、そうではなかったのですね。

 「別所町」という町名も、久しぶりで聞きました。母子寮とは反対の方向ですが、宮内小学校の時分、学校に近いので、よく道草をして別所町にも行きました。
 「故郷忘れがたし」で、コメントをいただき、当時のことを改めて懐かしく思い出しました。

 吉田様は宮内中学の先輩にもあたられるわけですが、宮内町出身の人からコメントをいただけるとは、夢にも思っていませんでした。
 ひたちなか市にお住まいとのこと。私は神奈川県厚木市に長いこと居住しています。当初は住みにくいと感じましたが、「住めば都」で、厚木市に関することも多く記事にしています。

 宮内町や母子寮につきましては、当ブログ『思い出』カテゴリーなどでも度々触れています。よろしかったら、そちらの各記事もお読みください。また当ブログ、最近はすっかり「政治ブログ」のようになっていますが、また折りに触れてご訪問たまわり、たまにコメントもいただけば幸いです。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。

 (追記)折角ですから、このやりとりいずれ記事とて公開させていただきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。

投稿: 時遊人 | 2011年2月23日 (水) 00時32分

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